ケイケイの映画日記
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2010年03月10日(水) 「フローズン・リバー」




2008年度サンダンス映画祭グランプリ作品。名脇役女優のメリッサ・レオが、今作品で2009年度オスカーの主演女優賞にノミネートされています。もっともっと重苦しい母性充満の作品かと思いきや、意外と想像できる範囲内の描き方で、幅広い層に受け入れられる秀作だと思いました。監督はこれが長編作品は初めての女性監督コートニー・ハント。脚本も担当していますが、唸りたくなるほどこちらも秀逸です。

1ドルショップでパートで働くレイ(メリッサ・レオ)。ギャンブル依存症の夫は家にあるお金を全部持ち去って出奔。そこには新しい新居である、トレーラーの資金も入っていました。途方にくれるレイは、夫を探しにいったビンゴ会場で、偶然夫の車を発見。しかし若い女性が乗って行くのを目撃し追跡。女性はモホーク族の保留地に住むライラ(ミスティ・アッバム)。ライラは国境近くのカナダからの密入国の手伝いをしており、その場の成り行き上レイも手伝うはめに。ライラは夫を亡くし、一人息子は姑に取られ、息子と暮らす為の資金を貯める為この稼業をしていました。お金の必要なシングルマザー二人は、コンビを組み密入国に手を染める様になります。

冒頭途方にくれたレイの顔のアップにびっくり。メリッサは今年50歳の人ですが、年齢よりさらに老けて見える深い皺が顔に刻まれています。そして一筋の涙。嗚咽を漏らさないその姿に、万策尽きているのだとわかるのです。このシーン、本当に絶妙のタイミングで撮られており、すっかり感心しました。

レイの子供は15歳と5歳の男の子が二人。子供たちに夫の悪口は言いませんが、長男には母の父への憎しみが伝わっています。なけなしのお金を渡し、お昼代にしろと言い二人を学校に送り出します。着替えの時に見えたレイの身体の無数のタトゥーは、彼女の過去を物語り、家は貧しい白人の象徴のようなトレーラー暮らし。自分が学校を辞めて働くと言う長男を押しとどめるレイの姿からは、何としても子供たちだけは教育を受けさせ、この環境から抜けださせたい母心を強く感じます。

先住民であるモホーク族ですが、アメリカ政府の容認の元、部族会議を開き自分達で自治しているようです。政府との友好関係を維持していくためにも、犯罪は御法度。ライラの夫も同じ犯罪に手を染め亡くなっており、彼女は仲間たちから再び法を犯さないよう、見張られています。

まともな職もなく貧困にあえぐ母二人。一人は女としての盛りはとうに過ぎ、もう一人は容姿に恵まれず。女を武器に生きる事は出来ません。各々が子供のために出した切実な答えが、犯罪でした。しかしお話は、彼女たちに同調するように見せながら、少しずつ小見出しに、その生き方を否定するのです。

レイは常に銃を持ち歩き、夫も探さない。誰にも相談せず何事も自分だけで片付けようとします。さぞ頼りない夫だったのでしょう。彼女の「私が私が」という気持ちは、痛いほど実感出来ます。しかし子供たちは二人とも父を恋しがり、長男は良い父だったと断言します。母が仕事の間、幼い弟の面倒を見るのは兄の仕事。その温かい接し方は、私は彼が父にしてもらったことだと思いました。遊びたい盛りに毎日子守りです。しかしレイは労うどころか、如何に自分が大変かを息子にぼやくだけ。不始末をすれば怒鳴り散らす。父を詰る母に、「32ヶ月はギャンブルをしなかった」と口答えする長男。彼には頑張っても頑張っても認めてもらえず、妻に追い詰められた父親の気持ちがわかるのです。世間はプロセスがどうあれ、結果だけで判断するのが常。だから家庭だけでも、頑張ったプロセスを認める事は、必ず明日への活力になるのだと、私は思います。その役割をするのが、母・妻ではないでしょうか?結果長男も優しさから、犯罪の真似ごとをしてしまうのに、母はその心の中を観ようともせず叱るだけ。親が曲がれば子供も曲がる。それがレイには見えない。

対するライラも、子供を取り上げられたことのみに固執し、何故取り上げられたかは観ようとしない。目が悪いので他の仕事は出来ないというライラ。メガネは頭痛がするのだと。夫もこの仕事をしていた事、他の仕事は出来ないことを勝手な免罪符にしている彼女。姑は真っ当な稼業につかない母親だから、孫は渡せなかったのでしょう。ライラは本質を観ようとしていないのではなく、観たくないのです。何故なら一刻も早くお金を貯めて、子供を取り戻したいから。

そんな彼女たちの心を一変させたのは、密入国のパキスタン人の荷物を捨てたことからです。中身を知るや、一目散に我が身を省みず取り戻しに行く彼女たち。これが男の小悪党ならば、そのままにしていたと思います。母性がさせたことなのです。

最初に変化したのはライラ。まだ目が覚めないレイは、いやがるライラを誘い込みます。最初の出会いとは逆。しかし最後にお互いがお互いを庇う姿は、母親同士だと言う共通の絆があったからでしょう。「私が私が」のレイが、夜道を彷徨いながら脳裏に浮かんだのは、パキスタン人の若い母だったのでは?子供といっしょに暮らす事。母親にはそれ以上の幸せはありません。それ以外はみんな付録。ここでライラを置き去りにしたら、彼女には永遠に子供と暮らす日は来ないのです。貧しい生活の中、子供と暮らせる事だけを生き甲斐にしてきたはずのレイだからこそ、あの選択を選んだのだと思います。

親が真っ当になれば、子供も真っ当に。事の次第を知ってか知らずか、警察官の長男への温情が観客の心も包み込みます。ラストに見せる希望の光が、地に足がついているのが素晴らしい。子供のため、その思いは何よりも尊いが故、歪んでしまった母性さえ、人は寛容しがちです。だから誰も教えてくれない。自分で変化しなければいけないのです。レイとライラのもがく姿は、私を含む全ての母親への、自警と希望だと思います。


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