ケイケイの映画日記
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2008年07月24日(木) 「歩いても歩いても」




「この家は俺が働いて建てた家なんだぞ。なのに、何で『おばあちゃんち』なんだ。」という、クスクス笑える原田芳雄の予告編のセリフにとても感心して、絶対観ようと思った作品です。思っていた通り、リアリティ抜群のセリフの応酬に終始感心。何も事件が起こらない、平凡なある家族の二日間をユーモアでまぶしながら、登場人物の心のひだを丹念に描いて、喜怒哀楽とは簡単に言い切れない、微妙な感情を描き、二時間飽きることなく見せてもらいました。監督は是枝裕和。観終わって哀しい訳でもないのに、無性に涙が出て仕方なかったです。

静かな高台の住宅地に住む横山家。開業医だった父・恭平(原田芳雄)は既に隠居していて、今日は15年前に亡くなった長男の命日です。長女ちなみ(YOU)は、夫や子供たちより一足早く来て、母とし子(樹木希林)といっしょに、ごちそうを作っています。あとは二男良多(阿部寛)の家族が来るのを待つだけ。良多は未亡人のゆかり(夏川結衣)と結婚して間がなく、今日はゆかりの連れ子あつし(田中祥平)も伴っています。間の悪い事に今は失業中の良多は、昔から父とは折り合いが悪く、重い気分で実家を訪ねます。

冒頭取りとめのない会話をしながら、ご馳走の用意をする母と娘のシーンがとても自然です。この自然な風景は、時には和みながら、時には毒を含みながら、最後まで続きます。「おばあちゃんちは、麦茶までおいしいな!」と、娘婿は言います。

今高一の三男が小さい頃、夏にうちに遊びに来た友達がみな、「おばちゃん、麦茶ちょうだい」と言うのが不思議で、「ジュースもあるよ」というと、「麦茶がいいねん。Mんちは冷たい麦茶がおいしいねん」と言います。ある日私が麦茶を沸かしていると、一人の子がびっくりして、「おばちゃん!麦茶ってお湯で沸かすん?」と言いました。そうか、みんな家では水出しの麦茶を飲んでたんやと、合点が行きました。横山家の麦茶も、今では水だしみたいですが、スクリーンに広がる素材の下ごしらえの様子は、ほんの一つ二つ手間を加えた料理の、その手間こそが「おふくろの味」なのだと、表しています。

母とし子は、温かく子供や孫をもてなしながら、実のところすごく怖い。
「あの子(良多のこと)、なんで”人のお古”なんか・・・」
「死に後とは結婚しちゃだめなの。生き別れなら、嫌いで別れたんだから、まだいいの」
「旦那が死んで、まだ三年でしょ?情が薄いのよ、あの人(嫁のこと)」
さらっとだけど、出るわ出るわ、嫁への不満。負のエネルギーがマグマと化しているみたい。長男は溺れた子供を助けたため水死。命日には成人したその子供も招いたいます。「来年も必ず来て」と、救った子の元気な姿を確認して、息子の死は無駄ではなかったと納得したいのだろうと思いきや、その本心を聞くと怨念めいたものを感じて、空恐ろしくなります。しかし何が怖かったって、とし子の言うことが、私は全面的に理解出来るのですね。ということは、私にもそういう部分があるってことでしょ?

頑固でデリカシーには欠けるけど、腹には何もない表裏のない父。優しく良く気がつくけど、心の中に様々な思いを抱えている母。それなりに相性は良いように感じます。陰険に昔の浮気話を持ち出す母は、それ以外にもたっくさん夫には不満があったでしょうが、三人の子供に恵まれ、開業医というステイタスの高い仕事に就く夫を持ち、主婦として満足のいく人生だったはずです。

「はず」というのは、長男が亡くなっていることです。他の家族の誰より、母親に色濃く残る長男の面影。墓参りのために口紅をつけ直すとし子は、恋人に会いに行くかのようで、本当に切ない。印象的な蝶の演出も、私だってあれは長男だと、咄嗟に思いました。幽霊であれ虫であれ、生ける姿でもう一度私のところの戻ってきてくれるなら、という思い。母親とは業の深いもんです。子を亡くした人に、「他にお子さんがいて、良かったですね」とは、絶対言ってはならないと、若い頃読んだことがあります。私も息子が三人いますが、三人いるから一人欠けても大丈夫などと思う親は、絶対にいません。とし子を観ていて、あの言葉は本当だなと、つくづく感じ入りました。

嫁のゆかりに対しての、本音を見え隠れさせながらの対応は、技ありのねちこさで、単純な嫁いびりの方が数段お嫁さんは気が楽です。表面はにこやかに受け入れつつ、内心は拒絶する高等技術は、私には多分無理だな(あぁ、良かった)。

しかしさすがは子連れで再婚のゆかりは、肝が据わっています。ひらりひらりと、夫の両親をかわして如才なく対応していく様子は、嫁の鑑のようです。なので一度だけ彼女が愚痴をこぼす様子が、とても心に染みました。連れ子のあつしは、実家に置いて来ても良かったでしょうか、連れて来たというのは、自分は良多の妻、あつしは息子だと認めて欲しいという、控えめな願いがあったからでしょう。避けて通ることも出来るのにと、この心構えは立派だと思いました。

そんなゆかりが内緒ごとのように、あつしと二人の時は亡くなった夫の話をするのが、とても効果的なアクセントになっています。やることがとし子に似ているのです。嫁と姑は似るというけど、まだ付き合いの浅いとし子とゆかりで、上手く表していました。

明朗で場の空気を和ます長女。実家に依存するところと、自分の家庭を守ることの区分けがきちんと出来ていて、良い娘だと思いました。たぶん父親似。彼女たちを見ていると、家庭とは本当に「女」で成り立っていると感じます。

そんな中、ホームドラマでは手抜きになりがちな男性陣も、しっかり描きこまれています。家族が集まるとついつい使っていない診察室に逃げ込む父は、多分昔から夫あしらいの上手い妻から、独り床の間に座布団10枚くらい積み上げられて、座らされていたんでしょうね。今更降りて来られないのが、とっても良くわかる。

疎遠な実家で、居心地の悪さと懐かしさを混濁させる良多の描き方も上手いです。兄亡きあと、本当はたった一人の男子として、もっと横山家で存在感を出さないといけないものを、亡くなって15年も経つのに、未だ実家では自分より兄の方が存在が大きいのです。二男の葛藤という永遠のテーマは、長男が亡くなっても残るのだと、再認識しました。少々鈍感だけど、善良さいっぱいのちなみの夫(高橋和也)にも、和ましてもらいました。

すごく印象的だったのは、父が近所の老婆の往診を断ったことです。医院は閉院しても医師免許は返上していないはずで、往診なら問題ないはずです。ですが、もう老いた自分の手に負えないと判断した父は、救急車をと促します。ずっと診ていた患者のはずで、長年開業医として、この地で人々から尊敬を集めていただろう恭平の無念や、いかばかりだったかと思います。患者の生命のため、己の誇りを捨てたわけです。

じっと見つめる良多。彼は家族、取り分け父親への見栄のため、失業中だということを隠しています。彼が失業中だとわかれば、両親のゆかりに対しての扱いも変わったことでしょう。良多は父と比べて、自分の卑小さを思い知らされたと思います。

子供にとって親とは、小さい時は完全無欠の人で、絶対超えられない壁でしょう。それが大きくなるにつれ、親の弱点や欠点も知り、反抗したり鬱陶しく思ったりするものです。そして本当の大人になると、あんなに普通の人だった両親が、懸命に自分を育て愛してくれたのかと、敬意を払い大切にする心が芽生えるものだと、私は思うのです。良多は自分がまだまだ子供であると、思い知ったのだと思います。

あつしの様子もとても感慨深いです。新しい父である良多を、「りょうちゃん」と呼ぶ彼ですが、「招来なりたいものは、一番がピアノの調律師、二番目が医者」という独白は、この新しい環境にどうやって順応していこうか、懸命に幼い心を砕いている様子が手に取るようにわかり、思わず目頭が熱くなりました。

ラスト、三組の家族がお互いを思う気持ちは、それぞれ微妙にすれ違っています。親から見れば寂しいけれど、それは本当に子供が独立したということなのでしょう。喜ぶべきなんでしょうね。

子供たちが小さい頃、海だ山だ、プールだと連れ歩いていた時は、子供の喜ぶ顔が観たいため、私が連れて行っていると思っていました。その必要がなくなった今、あれはいつかは巣だって行く息子たちが、親に幸せな時間をくれたのだ、連れて行ってもらっていたのは親だったのだと、思っています。

「息子の運転する車に乗って、買い物行くのが夢なのよ」と言っていた母。その願いは生前叶えられませんでした。親孝行、したい時には親はなし、的なエンディングですが、そうでしょうか?「息子の運転する車」というのは、「車が持てるくらいの安定した生活をしている」息子の環境を、母が願っていたからではないでしょうか?私はそう思うな。監督は知らないけど。なのであのエンディングは、草葉の陰で、お母さんはとても喜んでいたと思います。


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