ケイケイの映画日記
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2006年11月16日(木) 「そうかもしれない」

「明日の記憶」は、50前の熟年男性を襲う、若年性アルツハイマーを描いた作品でしたが、この作品は、金婚式を迎えた70半ば前後であろう夫婦の、妻の方がアルツハイマーに襲われるお話です。老々介護の大変さが取り上げられている中、まさにその姿が描かれています。ところどころ、どうしようもなく素人くさいところのある作品なのですが、それもご愛嬌だと思えるほど、作り手のメッセージが伝わってくる作品でした。秀作とか佳作だとかいうのではなく、描きたかった内容と、その内容を忠実に表現しようと頑張った、作り手・演じ手の素晴らしさを感じた作品です。原作は詩人・小説家の耕治人の、妻ヨシさんとの晩年の日々を綴った<命終三部作>(『天井から降る哀しい音』『どんなご縁で』『そうかもしれない』)を元にしています。

寡作の作家高山治(桂春團治)は、妻ヨシコ(雪村いづみ)と結婚し、50年。子供はいませんが、仲睦まじく暮らしています。時折ヨシコの甥森田(阿藤快)が、二人の様子を見がてら訪問しています。元気で明るかったヨシコの物忘れが激しくなり、家事も出来なくなったのを見かねた森田の勧めで、医師の診察を受けたヨシコは、アルツハイマー病でした。疲労困憊になりながらも、甲斐甲斐しくヨシコを介護する治。しかしそんな彼にも、ガンが襲っていたのです。

こう粗筋を書くと、悲惨でやりきれないお話かと思われるでしょうが、全然そうではありません。確かに老いた夫が、手の掛かる妻の世話をするのを観るのは切ないです。夜中に食事の用意をした妻を、介護疲れから思わず夫がぶつシーンもあり、その後の夫の後悔など、葛藤も描いているのですが、総じて人が老いるのは当たり前、老いて病に倒れるのもしかり、まず自分たちの境涯を受け入れている姿が胸に染みます。

「あなたの頑張りしだいです」という、励ましているのか追い詰めているのかわからない妻の主治医の言葉に、「みんな僕に頑張れと言うんだよ・・・」とつぶやく夫。その時童女のような愛らしい笑顔で、妻が夫に囁く「頑張りましょうね」の言葉は、意味がわかって言っているのではありません。しかし夫のその後の微笑みは、妻から何にも代え難い力をもらったとわかります。

夫とは高山に限らず、今の穏やかで優しい自分が、新婚の時からの自分だと思っています。妻というのは、だいたい結婚して何十年経っても、重箱の隅まで夫婦のことは覚えているものです。特にヨシコのように夫を支えて生きてきた世界だけが、全ての人は。「私があなたのお仕事の邪魔にならないように、どれだけ息を殺して暮らしていたと思うの!」と叫ぶヨシコ。「何でも二人でやってきた」と思っている夫に対し、妻は病が進行して、現在と過去の区別がつかなくなっても、「あなたは何でも自分ひとりで決めるのよ!」と全然別のことを叫びます。この辺りのすれ違いには、劇場を埋め尽くす高齢の奥様方は、深く肯かれたことと思います。

作家の妻として、どれだけ自分が夫の創作活動に貢献してきたか、彼女なりの自負があったと思います。甥の森田に「あの勝気なおばさんが、どんな思いで今まで暮らしてきたか。おじさんはおばさんを食いつぶして生きて来たんじゃないですか?」の言葉は、私小説作家と言われる夫には、胸に突き刺さるものがあったでしょう。

「明日の記憶」より更に25年の歴史のある夫婦は、今と違い、例え夫の収入が少なくとも、軽々しく働いては夫の男としてのプライドが傷つくと、じっと耐え忍んだ方も多かったと思います。昔と今が混濁し、「賞をもらったら、原稿料も上がるのよね?」の嬉しそうな妻の笑顔に、この夫婦の過去が透けても見えるのです。

ヨシコを演じる雪村いづみは、言わずと知れた昭和の歌姫です。若かりし頃の美空ひばり・江利チエミと共演した「ジャンケン娘」など、私もテレビで観ていますが、こんなに演技が出来る人だとは思っていなかったので、それにびっくりしました。発病前の上品で明るい老婦人の様子と、発病して段々童女のようになっていく様子、手づかみで物を食べ、失禁シーンまで演じた果ての、アルツハイマー特有の無表情な老女姿まで、「鬼気迫る熱演」ではなく「淡々と芯に力を込めて」演じていました。ヨシコという人が、いかに夫を愛していたか、二人の家庭を大切に思っていたか、愛情豊かな女性であったか、全て感じさせてくれました。

この失禁シーンは、本当は哀しいはずなのに、どこか暖かくユーモラスでした。排泄というのは、人の手を借りると尊厳が傷つくものです。疲れているのに、「いいんだよ」と世話をする夫に、「何のご縁であなたにこんなことを・・・」と囁き、可愛くプゥ〜とおならをする妻。私だって老いて下の世話をしてもらうなら、息子達なんてもっての他、絶対夫がいいです。夫婦とは、深い深い縁があるのだなぁと、ヨシコの言葉につくづく感じ入りました。

関西では有名な三代目桂春團治師匠は、他の地域では知名度はいかがでしょうか?豪放磊落で有名な初代と比べて、三代目は若い頃から上品でおとなしく、同時期に活躍した松鶴・米朝・文枝などの重鎮に比べ、イマイチ地味な印象の人でした。しかしそれが誠実な編集者(下条アトム)に信頼され、「私はあなたのファンです。だから病には負けないで下さい」と語る耳鼻科医(夏木陽介)の言葉に説得力を持たせ、さぞ聡明で誠実な書き手なのだろうと想像させるのに、ぴったりのキャスティングでした。確かに演技は上手いとは言えませんが、その素人くささが、一生懸命妻を介護する高山とオーバーラップし、私は文句ありませんでした。

文句あるのは、阿藤快。あまりに演技はオーバーです。淡々と時間が流れるこの作品で、完全に浮きまくり、ぶち壊しです。バラエティやレポーターの素の彼には、好感を持っている私ですが、割りと重要な役のこの作品では、ミスキャストだと思いました。

対して出番は少ないですが、上記の下条アトム、夏木陽介は素晴らしいです。烏丸せつ子も特養の職員を演じて、映画の雰囲気にあった控えめな演技で、とても良かったです。

その他、市から廻されている介護担当員の若い女の子が、元気で明るくそのことは良いのですが、セリフをいう時の間合いが悪く、ちょっとイライラします。この辺は撮り直し出来たと思うのですが、変に思ったのは私だけでしょうか?

若い彼女の励ましは、眩しすぎて心に痛いです。社交辞令ではなく、彼女の本心も入った励ましでしょうが、この状態の人に「長生きして100まで生きて下さいね」は、過酷な励ましに思えました。孫が言うなら励ましになっても、他人に言われると辛いもんだなぁと、ちょっと考え込んでしまいました。

「私たちがいっしょに作ったのよ」と、家中の埃を集める妻。その埃をばら撒くシーンは、雪のようで美しく、長い夫婦の歴史を称えているようでした。ラストの住人のいなくなった家の埃とは、全然描き方が違っています。

この作品を観て夫に「私に介護されるのと、私を介護するのと、どっちがいい?」と聞くと、「どっちでもいい」との意外な言葉が返って来ました。よく考えると確かにそうかも。もしもの時は、私が介護する方だとばかり思い込んでいましたが、この作品の妻も、いつの日か来る夫の介護のために、オムツを用意していましたが、実際世話をされたのは彼女の方。きばってもしょうがなし、未来は神様のみぞ知るところ。私もどっちでもいいや。


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