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| 2002年01月16日(水) |
信じるということ−愛憎同根− |
最近は本当に何もない日々を過ごしている。 これもまた抽象的だが、ただ生きてるだけなのだ。
本日は仏教のテスト。全部持ち込み可とはいえ昨日からの体調不良で、起きてるのもやっとなくらい。字を読むも疲れる。なんとか書くことはできた。
そのあとモートン英語。Thank you noteというのを結局書いていなかったので、実際今日が最終ということを忘れていたため、授業中に書いていた。 あまりよろしくない。どっちもおろそかになるからだ。
こんな風に、いつも時間に間に合わないで、中途半端なものしか仕上がらない。原因はやはりグズだから、それだけである。bad habit
人間関係における信について突然話したいと思う。以下は「仏教の思想(N.Nabeshima)」に基づく。
誰かを信じる、それはある程度の交流をもってその証拠に基づいて信じる、つまりわかっているから信じる、のである。同時に、相手の不確実な部分をなお認めようとする。わからないから信じるのだ。
もともと、他人同士なんだからわからない部分をもっているのである。信じるというのはどこかに疑問点がある。自分自身にもわからないことがあるように。
愛と憎悪とは言葉の意味こそ逆であっても、実態は別個のものでないというのは事実だろう。どれだけたくさん愛しても、一度裏切られると、同じくらいの憎悪に変わってしまうのだから。
「信のなかには常に疑いや心配が含まれているのである。それは蓋然性の問題である。相手に対する是認の態度であり、あてたよりにはしているが…。」(N.Nabeshima)
信。 信愛のひたむきさと悲しさ、裏切りをも恐れないことを意味するものだ。
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