目次過去


2016年01月17日(日)  前向き

久しぶりに、遠くへ行かない年末年始。
久しぶりに、アルコールを口にしない年末年始。

去年の夏の悩みは2か月くらいで消えて、今はそういう意味では心穏やかに暮らすことができている。
今年の目標はシンプル。それにまつわるいろいろな問題はあるけれど、どれも今のところ、解決不可能な問題ではないように思える。

ひとつずつ、確実に、人生は前に進んでいる。


***
阪神淡路大震災から、21年が経つらしい。
東日本大震災と比べれば、自分への直接的な被害はほとんどなかったと言っていいのに、
あの時に感じた恐怖と、呆然とテレビを見るしかなかった無力さは、今も忘れられない。

天災の被災者にも、戦争の被災者にも、一刻も早く心の平穏が訪れることを願って。


2015年08月24日(月)  facebookに書くのは気が引ける。

焦りが私を醜くする。知ってる。

それと同じくらいよく知ってることがある。
焦ると失敗するんだよ。
目の前の焦りを解消するために動くと、近い将来、痛い目を見ることになる。
それに、焦っても自分の力ではどうしようもないこともある。
今はこっち。

焦るのは仕方がない。
なんとなく忘れるのを待とう。
目を瞑ってやり過ごすのは、わりと得意なはず。
たぶん、明日の朝には。きっと。


2015年07月22日(水)  あした生きるという旅、日々を生きるということ

内田英恵監督のドキュメンタリー「あした生きるという旅」を観て、いまとりとめもなく考えていること。治療法の確立されていない難病のALSを発症してから30年間アクティブに生きた塚田宏さんの、生きた証となった作品。

生きるか生きないかという問いを越えた(気づいたら越えていた)先の、生きることしか考えないというたったひとつの選択肢の中で、強い意志を持って生きるということ。
進行する病気と生きるご本人の辛さとか、一緒に生きるご家族の大変さとか、そういうことは当事者でなければ本当には理解できないと思うから、推測の範囲でしかないけれど。同時に、健康な人でもなかなかできないようなたくさんの旅を、しかもご家族や周囲の支えによって実現されたという、確実に恵まれた部分もあって。
彼の人生について、不幸だったとか幸福だったとか単純に言うことはできなくて、それはきっと誰の人生も同じなんだろうなぁ、と、つい自分を振り返る。

ただ生きている分には特に不自由がない私のような人間には、生きる自由も死ぬ自由もあって、それでもそんなことはお構いなしに、というか日頃は何も考えずに朝起きたら生きていて。THE YELLOW MONKEYの「パール」の、“不自由と歎いてる自由がここにある”的な、必死に生きなくても大抵のことは制限されずに気楽にただ生きている日本人の自分の日常は、たぶん喜ぶべきことなんだろうけど、じゃあそこに胡座をかいて漫然と生きているのはどうなんだろう、とか、かといって高い問題意識を持ち続けて何かを成し遂げようと生きることが自分にとって歓迎できる人生なのかとか・・・。
何の役にも立たなくてもとりあえず生きていていい、なぜかわからないけど生まれてきたからには理由なんてわからないままでも、というか理由なんてあってもなくても、死ぬまで生きてみましょうというスタンスを10代で固めてしまったせいか、30代になってもほぼ何の役にも立たない人間として生きている。それは、あしたになったら生きていないかもしれない、もしかしたらあしたという機会は二度と来ないかもしれないと否応なしに実感させられたら、何か変わるものなんだろうか。あるいは高橋優の「蝉」のように、“今日が最後でもいいと思えるまで歌う”ような、自分にとってやっておかなければ死ねない何か、みたいなものが見つかれば、生きることにもっと執着して貪欲に生きていけるんだろうか。

こういうのってそう短時間で答えの出る問いじゃないから、やっぱりまだぼんやりと考えてるだけなんだけど、この映画を観て、はっきり感じたことはある。それは一言でまとめるなら、たぶん、「出会い」を大事にするということ。
塚田さん一家がたくさんの人たちと積極的に出会っていったこともそう、高校のときの同級生が彼らと出会ってこんなに意義深く評価もされる、価値ある作品を撮ったこともそう。
彼女の優秀さや人間的な魅力は当時からのものなのだけれど、誰かがほかの誰かと出会って何かが生まれるという奇跡みたいなものの偉大さ、貴重さ、それを逃さない生き方の大事さ。なんだろ、悲しいくらい文章力がなさすぎて、こんなありきたりの感想になってしまった。

---
ここからは、少し時間が経って考えたこと。
Total Locked-in Syndromeに陥ったときにロボットスーツHALは役に立てるんだろうか、とか、宮古島で眼の調子がいいということは温暖湿潤な気候がいいんだろうか、とか、ALS自体についてもいろいろ気づかされることはあった。(HALについては後から調べたところ、四肢用のほかにサイバニックスイッチというコミュニケーションツールが研究開発中らしいことがわかった。来年の株主総会で説明がなければ質問したい。)
中学生や高校生のときにこういう作品に出会っていたら、医師や研究者や、あるいは映画監督や、そういう職業を目指していただろうか。たぶん答えは否、というのは、きっと20年前の自分もこういう「考えさせられる何か」に出会っていたはずだから。それでも今ここにこの自分しかいないということは・・・かなしいような、諦めのつくような。
こんな自分を受け入れたまま、もう少し毎日を生きていく。いつか何かが変わるかもしれないと、ときどきぼんやり考えながら。


2015年03月01日(日)  お金と時間? ゲームと読書?

ある種の時間は、お金で買える。
移動時間の短縮はそのわかりやすい例だ。東京から大阪まで、青春18きっぷ(2,370円)だと9時間以上かかるところを、新幹線(13,620円)なら3時間弱で行ける、というのはつまり、その1万円で6時間の自由な時間を買っていると言い換えることができる。(厳密には単に時間を買うというよりも、時刻表の下調べや何回もの乗り換えといった諸々の手間を、お金を払うことで解決しているといったほうがいいのかもしれないけれど、今日はお金と時間の関係を中心に考えたいから、それ以外の要素はできるだけ排除していく。)

「お金で時間を買う」とき、私たちはお金よりも時間に価値を置いている。そこに費やす時間が「もったいない」から、代わりにお金を使ってその時間を買おうとする。反対にお金のほうを「もったいない」と思う人は、お金を使わずに時間を使うことを選ぶだろう。

細かい話をすると、ある日の移動にかかる6時間を1万円で買う場合、その1万円を得るためにどれくらいの時間がかかったのかという問題がある。時給1,000円で働いている人は、1万円を手に入れるために10時間働かなければならないから、10時間働いて貯めた1万円で6時間を買うとき、(その1時間とこの1時間が同じ価値を持つとすると)単純に見れば4時間の損が出る。ということは、1万円を6時間で割ると1時間あたり1,666円なので、時給がこれを下回る人にとっては東京−大阪間の新幹線は割高だということになるし、時給が高ければ高いほど、新幹線のほうが割安になる。もう少し言えば、飛行機に乗っても十分に元が取れる人種が、この世の中にはたくさんいる。

お金をたくさん持っている人は、お金の価値を比較的低く考える傾向にある。逆に時間をたくさん持っている人は、できることならお金よりも時間を使って、お金を払ったのと同じだけのものや結果を得ようとする。時間が貴重なら時間を大事にするし、お金が貴重ならお金を大事にする。お金が無限にある人にとっては時間のほうがずっと貴重だし、時間が無限にある人にとっては……はて? 時間が無限にある人など、この世にいるのだろうか? この表現が適切でないなら…時間だけは「ありあまっている」人は、時間よりもお金のほうが貴重だと考えて行動するだろう。
なお、「貧乏 暇なし」の件については別の機会に検討したい。話がどんどん本題から逸れてしまうからだ。

さて、以上は長い前置きである。今日の本題は、移動時間のことではない。

ゲームにお金を使わないなら、なぜゲームに時間を使うのだろう。

今日のテーマはこれである。ここにたどりつくまでに、ずいぶん時間がかかってしまった。
最近、本にはお金を使いながらも時間を使わず、ゲームばかりしているのにゲームにはお金を使わないから、逆転現象が起きている。逆転と言えるのか微妙ではあるが、読みたくて買ったのに読んでいない本がどんどん増えていって、以前なら本を読んでいたはずの時間がお金をかけないゲームに費やされるという状況ができあがっている。あれ? 逆転だと思っていたけれど、もしかしてこれってお金も時間もなくしているだけなのでは……いや、いやいや、そういう風に考えるのはやめよう。ますます収拾がつかなくなる。

最近、時間さえあればゲームばかりしている。それでもオンラインゲームにはお金をかけない主義である。そこにお金を使い始めたらキリがないし、ゲームに使うくらいなら、ほかのことに使いたいと考えている。ということはつまり、ゲームにそこまでの価値を見出していないということなのだろう。一方で、本に使うお金は以前より少なくなったとは言え、定期的に買い続けていることは以前と変わらない。時間があれば確かにゲームをしているが、できる限り本も持ち歩いている。ときどきゲームに向かない環境があり、そんなときには本が活躍するからだ。

なぜ私は、本を読むためにはお金を払ってもいいと思っているのに、ゲームをするためにはお金を払おうとしないのだろうか。…と書いて気づいたけれど、正しくは、ゲームをするためのお金、ではない。そこでお金を使うとすれば、ゲームをより楽しむためのお金、にあたる。いずれにしても、ゲームのためのお金であることには違いない。
不思議なのは、ゲームにお金を使わないのはなぜか、ということではない。お金を使ってまでするほどの価値を見出していないのだとしたら、どうしてそのゲームにここまでの時間を費やすのかということである。正確に測ってはいないが、おそらく毎日2時間程度、多い日で6時間以上をゲームに費やしている可能性がある。平均で週20時間だとしたら、年間1,000時間を超える計算になる。1週間のうち1日程度、12か月のうち1か月以上は、ゲームに費やされて消えているということか。いま初めて電卓を出してはじき出したが、恐ろしいことになっている。どうも最近、時間が経つのが早い気がしていた(←これは年のせいかも)。
まぁ実際には、電車の移動時間やら録りためたビデオの消化やらの時間に並行してゲームをしていることが多く、純粋にゲームだけして時間が過ぎているわけではないけれど、これだけの時間を費やしているということは、私がゲームをするのにはそれなりの理由があるはずだ。趣味ってそんなものでしょ、と言われてしまえばそれまでだとしても、理由というか、価値というか、そういうものがあってほしいと思ってしまう。
たとえば小さな達成感。頭を真っ白にして集中する瞬間。それに、「継続は力なり」を実感させてくれたこともある。私がゲームに見出している価値が、概ねこういう種類のものなのだとしたら、それはお金を払わなくても得られる価値であって、その代わりに、ある程度の時間を割かなければ得られない価値でもあるということがわかってきた。冒頭で挙げたように、お金で買える種類の時間もあるが、そうでない時間というのも確実にあるということだ。
ゲームは楽しいことが大前提で、娯楽という意味では小説を読むのと変わらないけれど、小説にはない半強制的なシステムを備えている。プレイヤーを緩く束縛するような仕組みを、オンラインゲームは標準装備させられている。その策略にすっかりはまっている私は、しばらくゲームをやめられそうにない。

この話、書き始めた段階では、お金をかける価値を感じていないものに時間を割くのはもうやめたら?という方向に行くのかと思っていたけれど、蓋を開けてみるとこんな方向に…。

それはそれとして、お金と時間についてはバランスが偏らないように考えないといけない。
時給が上がったこの2月。そろそろ新幹線に乗ってもいい頃だろうか。


2015年02月11日(水)  日記じゃなかった(知ってた)

事実は誰にでも書けるから、長々と続けても面白味に欠ける。
内面やら思いつきやらを書き連ねているほうが、後で読んで思い出せなくても、面白い。
これって最早、日記ではないよね…。
薄々気づいてはいたけどね…。


真 |MAIL