サイトのリニューアルもひと段落着きそうです。
今日は朝から雨でずっと家で、テレビを観たり、パソコンをいじったりと何ともまあぐうたらな生活でした。先日読んだエッセイ集に、「テレビは本当に良くない影響しか及ぼさない。」と書いてありましたが、本当にそう思います。テレビだけでなくて、画面を持つ物のほとんどが思考力を失わせる何かを持っているのではないかと感じました。パソコンも携帯電話も、このサイトを作る際に必要不可欠なツールなのですが、やはり使用時間が延びると頭がボーっとしてきますし、目が疲れて肩も凝るのです。
本に書いてあることを鵜呑みにするのはどうかと思いますが、昔から私自身もテレビによる弊害を問題にしていました。でも、自分自身が、テレビやパソコンへの依存から抜け出せない状況で、あまり大きな事を言えるわけでもなくここまで来ました。しかし、そろそろ生活の中から受身になりがちなテレビなどの使い方をしっかりとコントロールする必要があるなと感じています。
1)無目的にスイッチを入れない。 寂しさしのぎにテレビや携帯を使用することが多いので、よくありません。その寂しさを家族との会話や、友達との会話に当てることが大事だと考えます。何かしないといけないという焦りから、パソコンなどを使用して、あたかも目的を持っているようにわざと錯覚させる事があります。本当にやるべき事から逃げないようにしなければいけません。
2)リアルタイムのテレビはできるだけ観ないで、ビデオに録画してから観る。 テレビに関しては、観たい番組があるのは避けられないことです。テレビを無くしてしまう事も一つの案なのでしょうが、ビデオが観られません。そこで、そのビデオを上手く利用してやればいいのです。録画することによって、民放の場合はCMを飛ばすことができます。多分、放送時間の1/3ぐらいカットできるのではないでしょうか?リアルタイムで観ると、スイッチの切るタイミングを失い、気がついたら夜中だったということも多々あります。時間を大切にするのを含めてビデオで録画してから観ることにします。
3)本当に必要か?と問う。 以前、私はテレビをまったく観ない生活を2年くらい過ごした事があります。テレビを観ない生活を送り始めると、別にテレビがなくても楽しいことはたくさんあるし、情報不足になることもまったくありませんでした。無ければ無いで困ることはないのです。どんなときも、「本当にこの番組を見る必要があるのか?」「本当にパソコンじゃないと出来ないのか?」「携帯を見る必要があるのか?」という事を問いたいと思います。
昔、自分がテレビで寂しさを紛らしていたときですが、「テレビは悪魔だ。」と思っていた時期がありました。心の隙間を華やかな笑いや感動で埋めてくれるのと引き換えに、考える力と時間を奪っていったと感じていたからです。本当は、現実の笑いや感動が必要だったのでしょう。自分がテレビやパソコンや携帯に費やす時間が増えてきたら、もしかしたら、生活において何か満足できていないことがあるのではないか?という自省を進めて、そして行動によって足りないものを埋めていく努力が必要でしょう。
にやけた自分の顔がブラウン管に反射し写ったのを見て、悪魔の笑いに見えたのは私だけではないはずです。
朝起きて、テレビでちょこっと高校野球見て、レンタルビデオ屋に行って、マクドナルドでちょっと勉強して、帰りに散歩がてら近所を歩き回って、帰ってきてからは部屋の片付けとビデオ鑑賞と、何も特筆すべきことの無い平凡な休みの日となってしまいました。
こうも何もないと何かしなくては...という気分に駆られてしまいますね。休みの日は自分なりに目的持って生活しないとだんだんと頭がボーッとなってしまいます。学校に行って勉強したいのですが、学校もお盆休みでしまっていますし、何か違う方法を考えないといけません。家で勉強できる方法を考えよっと。
今、「宝地図」というものを作っています。「夢を叶える宝地図」なるサイトに紹介されていて、なかなか面白そうだったので作ってみる事にしました。最初はなんか怪しいなと思いましたが、まあ、やる事はとてもシンプルで特別なお金がかかるわけではないのでとにかくやる事にします。方法はいたって簡単です。コルクボードに欲しいものや、将来こうなりたいといったイメージが表された写真・イラスト・メッセージ等をコルクボードに貼っていくだけなのです。自分の望む未来を視覚化していこうという事なんでしょう。
なぜに、この怪しげなものに対してすんなりと試してみよと思ったかというと、自閉症のこどもにはこうした視覚化による指導というのが実際に行われていて、しかも効果を上げているからです。ちなみに自閉症というのは、決してうつ病などの心理的な疾患ではなくて、先天的に脳に器質的な障害を持って生まれてきたために、社会的相互関係の障害、コミュニケーション能力の障害、反復常同的あるいは執着的行動という症状が表れる発達障害です。
自閉症の方には、視覚的な刺激が聴覚的な刺激よりも反応が得られるということが多く見られます。自閉症に限らず、人間にとって視覚的なイメージというのは、情報として入力されやすい特徴を持っているようなのです。そうしたことを考えると、確かに怪しげな「宝地図」ではありますが、人間の特性をうまく利用していると考えられるのです。
まあ、私の場合は「夢を叶える」なんて大げさな気持ちはなく、単に普段の生活における目標を明確化したいのです。例えば、最近話題にしている沖縄移住をもっと明確に視覚化すれば、沖縄の海・空・そして町並みなどをコルクボードに貼れば、よし、沖縄ライフを送るためにも頑張ろうというふうにモチベーションがグッと上がるわけです。あれしたい、これしたいという欲望を、実際の行動に移すことが人生において何より大事と思っていても、その欲望が曖昧なイメージでは行動への刺激としては不充分なこともあるでしょう。
そういったことより、写真とかイラストをベタベタコルクボードに貼ること自体が楽しそうなんですけどね。
今日「実践!フォトメモ」に掲載した「ダイヤ」ということばに代表されるように、私たちの周りには当たり前のように使われているけれど、実はその意味や本質がわかっていないということがたくさんあります。逆に、そうした人間の特性をうまく利用して人間をコントロールする人達もいるわけです。そうした当たり前に思っていることを改めて問い直す事は非常に大事なことだと思います。
でも、それを公に表現するのはとても勇気のいる事です。例えば、なぜ6歳になったら小学校に行かなければならないのか?私にはその根拠が良くわかりません。個人それぞれで発達の速度は違うわけですし、画一的に決めてしまうことに疑問を感じていて、もっと違う制度を考えるべきではないかと思っています。このように、世の中では当たり前、あるいは、常識として扱われている事柄に対して疑問の声を上げても、決して良い反応が得られない事の方が多いのです。
こうした当たり前の事について考えることについて、「無駄」と感じる方もおられるかもしれませんが、私は無駄とは思いません。こうした当たり前の価値観(当たり前と言われているに過ぎない。)に対して疑問を抱くことによって、より良いものが見つかる可能性があるからです。当たり前のものを当たり前のように受け入れて過ごすのは楽ですが、そうした楽な状態は人々の考える能力を衰えさせ、本来、間違っているものを無関心に正しいとしてしまう流れを生み出しているのではないでしょうか?
私は制度によって無関心なまま「生かされる」のではなく、自らを「生かす」ために常に常識や当たり前にチャレンジしていきたいと思っています。
まあ、あくまでも私の生き方ですが。
夏休みに入ってから、コンテンツを一気に増やしましたが、これだけのコンテンツを今後も継続できるのかどうかなんてあまり考えていません。
昨日も友人と話していましたが、やはりやりたいと思ったことをどんどんやっていく事が大事なのです。やってみて性に合わなければ止めればいいし、性に合えば努力しなくても続くものなのです。これってすごく単純なことなのですが、実践するのはとても難しいのです。なぜ、こんな単純なことが難しいのか?個人的にも具体的にこうしたからこうなったというのは良くわかりません。
敢えて挙げてみるなら、二つの事がきっかけでした。一つは、自分自身の本当の欲に気付くということです。もう一つは、この今の瞬間はもう戻ってこないということですね。
人それぞれ価値観が違うので、これが正しいというのは無いのですが、確実にあるのはその人にとって何が人生で一番大事なことか?ということに気付くことではないでしょうか?お金の人もいるでしょうし、異性の人もいるでしょうし、勉強という人もいるでしょうし、仕事という人もいるでしょうし、名誉という人もいるでしょうし、自然という人もいるでしょうし、それは千差万別です。そうした自分が本来持っている欲を追求できれば、いい人生しかないはずなのです。ただ、それを見つけるためには色々なことにチャレンジしていく必要があるでしょう。チャレンジしていく過程で、「お?これは違うな。」と感じるときは変えればいいのです。
変えずに「初志貫徹」なんて意固地になっていると、今という時間がどんどん耐える時間になっていってしまいます。耐えることから学ぶことも確かに多いでしょうけれど、一体何を学ぶのでしょうね。私の場合、耐えることを学んだおかげで、人生の楽しみが少し減ったと感じました。やりたい事をやるために耐えているのであれば、確かに意味はありますが、耐えた先のやりたかったことが思っていたものと違ったら、耐えた時間は無駄な時間になります。やっぱり、できる限り耐えるなんてストイックな受身な姿勢は回避していくべきだと思うのです。
中には、耐えるのを楽しんでおられる方もいるでしょう。それは、あきらかに私の言っている「耐える」とは違う質のものなのです。それを楽しんでいる時点で、その人にとってやりたい事をやっているわけですからね。そういう人もいるでしょう。目的よりも過程に重きを置くならば。
決して、様々な価値観を否定するわけではありません。私の浅い人生経験と、浅い思考を基準すると、根本的に人間はしたいことをするために生まれてきたとしか思えないのです。そう考えれば、こんな楽しい人生はないわけです。楽しめるか、苦しむかは、それに対する意識というよりも、行動で決まるのです。やりたい事をして、やりたくない事は避ければいい。人生を楽しむ方法なんて、しごく単純な事なのだと私は考えます。
| 2003年08月10日(日) |
再考 さんかくとは? |
格闘技のPrideを観ました。すごい試合の連続でした。
私のサイトのタイトルはさんかくのしそうで、○か×という二元論というのを否定するところから入っているのですが、格闘技を始めとする競争の世界には、○か×しかないのです。彼等の仕事は○か×が必然的に出てしまう中で、できるだけ○を得る事なのです。で、試合を観ながら、私達も実は、無意識に○を目指して人生を過ごしているのではないのか?とふと思ったのです。
すなわち、すべての人は基本的に「自分にとっての○」を追い求めているのではないかということなのです。自分自身にとってやはり○でなければ、それは満足な気分にはならないですし、満足な気分の得られない状態で充実した人生は望めませんよね。私自身もやはり自分にとっての○を求めて人生を送っているわけです。そう考えると、さんかくのしそうという名前をつけた動機はなんなんだろう?と改めて考えざるを得なくなりました。
動機は単純なことだと気がつきました。自分ではない基準に「お前は○だ。」「お前は×だ。」とやられることに対する反発が、さんかくのしそうという名前には反映されているのです。それは、私自身がこれまで感じてきた他人や社会からの圧迫感への反発を表現したものなのです。「他人によって○か×かと審判される筋合いはないんだ。」「俺は○でも×でもないんだ。」という拒否の気持ちがさんかくという表現に置き換わったのでしょう。
他人の○×という基準から精神的に逃れた後には、やはり自分にとっての自分の人生を考えなければならない時がやってきます。今、私が追い求めるべきは自分にとっての○なのです。自分自身の人生は、やはり、「さんかくのしそう」ではなく、「まるのしそう」じゃないといけないのだろうなと、倒れる桜庭選手を見ながら感じました。俺は、倒れたくないもん。
| 2003年08月09日(土) |
ことばじゃなくて人にパワー |
朝から大リーグを観ました。イチローと松井が出てましたね。松井のホームランはリアルタイムでは見れませんでしたが、リプレイで見ました。弾丸ライナーでスタンドインって、すごいなあ。昔、テレビでやっていた話ですから、有名な話だと思いますが、イチローと松井の意識の違いというのが紹介されていました。
それはホームランに対する意識の違いです。イチローは、「ヒットの延長がホームラン。だから常にヒットを狙います。」松井は、「ホームランの出来損ないがヒット。だから常にホームランを狙います。」というのだそうです。これぞプロフェッショナルというコメント。このことばを聞いただけで、ワクワクした気持ちになりませんか?何かを突き詰めて、そして結果を出している人のことばにはパワーがありますね。ことば自体にパワーがあるのではなく、やはり、そのことばを言っている人にパワーがあるのでしょうね。
私もパワーのあることばが出せる人になりたい。
今日のカウンタがいつもより多いのは、管理者の私が更新しまくったからです。決して人気が急に出た訳ではありません。人気が出たといっても100ヒットも行ってないけど。
このところサイトの更新が楽しくて、毎日、どこかしらをいじったり、新しいコンテンツを入れたりと楽しんでおります。見ておられる方は、コロコロと変わるサイトをどう思われているのでしょうね。「いい加減に落ち着いたら?」「飽き易い奴だなあ。」と思われる方もいるでしょうし、「いつも変わって楽しいなあ。」「新しい発見があっていいなあ。」と思われる方もいるのでしょう。
本人は意外と前者でして、「いい加減に落ち着いたら?」「飽き易い奴だなあ。」と言いながらやっております。ホームページというのは、色々な表現の仕方を可能にするという点で優れています。色やレイアウトなども一つの「私」を表現する要素なのです。常連さんは、どこかで無意識のうちに、「おっ、何だかふっきれたな?」とか、「あらま、また無味乾燥な。」という管理者の気持ちの変化をサイトの雰囲気から読み取っておられるのではないでしょうか?
そういった意味で、今回のリニューアルは個人的に非常に良いリニューアルとなりました。以前は、色気のかけらもなかったサイトが青々としてきたでしょ?ただ、背景に模様がついただけだって?いやあ、そうなんですけど、それは恐らく実際に私を取り巻く環境に色がついたからだと思うのです。これまで私が見ようとしてこなかった色が見えてきたとも言えるかもしれません。
「ベルリン天使の詩」という映画で、天使が人間の女性に恋をして、人間になる決心をし天使の永遠の命と引き換えに人間世界に下りてきた時、それまで白黒だった世界に色がつきます。高校生だった私は、映画館でそのシーンを観た時、はっと息を呑みました。そのシーンを思い出しながら、「やっと、私も人間らしくなったのか。」と、元々天使でもなんでもないのにつぶやくのです。
夏休みということで、ゆっくりとした生活を送っています。ゆっくりしすぎて、お腹のお肉もゆるみぎみです。ぼよよ〜ん。
日記を書きながら今日一日を振りかえってみると、何をしていたかが思い出せないことってありますね。あ、やばい。記憶障害かな?って焦ったりします。ところが、夏休みに入って自分でやりたいことを好きなようにやり始めると、一つ一つのことを鮮明に覚えているのです。不思議です。夏休みに入ってから変わったことといえば、やらされる生活からやりたいことをやる生活になったということでしょうか。やはり、やらされるのとやりたいと思ってやるのとでは、時間の感じ方や内容の濃さに雲泥の差があるのですね。記憶にも関係してくるのですよ。
さて、時間もあるということで、トップページのプチリニューアルと、新しいコーナー「気楽に生きます」を追加しました。夏休みに入ってからというもの、何か一つ吹っ切れた感じがあります。沖縄の件も含めて、なんだか順調なのです。ちょっとした意識の変化もあり(何でも感想文の書籍のところに少し書きました。)近頃、気持ちが非常に楽チンです。
なかなか楽しい毎日だぁ
ちょっと絵を始めたいと思っています。そんな難しい事をしようというのではなく、ちょっとしたペンを使った線画です。
なぜそう思ったかというと、最近、パソコンにかじりつく時間や、テレビを見る時間、それから意外と携帯を見ている時間が長いのです。よくよく考えて、すべて画面を眺めているということに気がつきました。本を読む時は大体電車の中なのですが、しばらく字面を追っていて疲れてくると外の景色を見ます。テレビ・パソコン・携帯の場合は、夢中になると画面を見っぱなしなることが多いのです。
もっと外の景色を良く見てようという気持ちもありますし、趣味を増やしていきたいという気持ちもあります。あわよくば、将来仕事でこうした趣味が役に立てばいいなとも思います。始めたけどなかなか練習が続かないギターに次いで、ホンマに続くんかいな!?という不安もあります。が、そんな事を言っていたら何も始められませんから、とりあえずやってみようと思っています。
こうやって色々なものに不安を無視してチャレンジしていけば、そのうちしっくりくるものが見つかるとも思うのです。それに、何かのきっかけで3日坊主で終わってしまったものでも、後で夢中になる可能性だってないとは言い切れないのです。人生、何があるかわかりませんからね。とにかくチャレンジこそが人生だと思って楽しむしかないのです。始めなきゃ始まらないですからね。
| 2003年08月05日(火) |
あるべきところにあれば... |
散らかすのが得意です。片付けても2日で、元の散らかり状態に戻ります。
散らかすには原因があるはずだとずっと考えていますが、いまだに答えは出ません。もちろん、私のぐうたら加減が主な要因ではありますが、それにしてもぐうたらならばぐうたらなりに散らからない方法があるはずです。人間の生理に合わして機械の仕組みを合わせることをコンパティビリティーと呼ぶそうです。例えば、押して出るドアには取っ手をつけずに、引いてあけるドアにだけ取っ手をつけると、「押す」とか「引く」ってドアに書かなくて済みます。
聞いた話しですが、どこかの外国で市街地のど真ん中に芝生が美しい公園を作ったそうなのですが、1ヶ月もすると芝生を斜めに横断するように芝生がはげて獣道ができてきたのだそうです。どうも公園を斜めに横断した方が便利に感じる市民が大勢いたようなのです。そこで、その町の公園担当者は、その獣道をレンガで舗装して歩道に変えたそうです。これもコンパティビリティーの一つの例でしょう。
そんな例を出して、私が部屋を散らかすのとどんな関係があるかっていうと、部屋の中に置かれている物たちも、コンパティビリティーを念頭に入れて整理されていれば、片付ける努力をしなくても、散らかる事はないのではないか?ということなのです。例えば、私はCDをかけた後、必ずコンポの前にCDを積み上げてしまい、後で元々置いてあったラックの中に一斉に片付ける作業を行いますが、良く考えたらコンポの前に積み上げておくのが一番散らからない片付け方なのです。
そう考えると、部屋の中にある様々な物たちのあるべき場所というのがあるはずなのです。ということがわかっていながらそれを実践できないのはなぜなのか?そこが不思議なんですよね。やっぱり私のものぐさな性格が最大の原因なのでしょうか。
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