今日から学校では国家試験対策が始まりました。言語聴覚士の国家試験は全部で200問の5択問題です。科目は、基礎医学、臨床医学、臨床歯科医学、音声・言語・難聴医学、心理学、音声・言語学、社会福祉・教育、言語聴覚障害学総論、失語・高次脳機能障害学、言語発達障害学、発生発語・嚥下障害学、聴覚障害学と多岐にわたります。初回の今日は、通常、午前中に行われる一般科目(言語聴覚障害関係以外の科目)の100問を模擬試験しました。
初回の模擬試験ですので、何とも言いがたいのですが、個人的にはこれまでの私の勉強の量から考えると、意外と点数取れるものだなと感じました。これは普通に勉強していれば難しい試験ではないと感じています。明確にこれはこれだとわかった問題もあれば、消去法で選んでいった問題もありますし、あてずっぽうで正答だった問題もあります。間違えた問題はもちろんですが、確信を持って回答できなかった問題を減らしていく勉強をしたいと思います。ま、試験のために勉強するわけではないのですが、試験をきっかけに波に乗れて行ければいいなと思っています。
最近、岡本太郎氏の本のことを良く書いていますが、2度目を読み終わりました。「自分の中に毒をもて」という本ですが、本当にこれまでに出会った自己啓発書がかすむくらい、私にとってはこれまでで一番心に響く本です。何度読んでも心が激しく揺り動かされる本です。人によっては拒否反応を起こすようなある意味偏った内容ですが、もし人生について悩みが尽きないという方がおられたら、心理学とか哲学とか難しいこと言う前に是非この芸術家の本をお勧めします。
生姜せんべいにはまっています。
ずっと勉強したくない状態でしたが、今日は不思議と勉強したくなりまして、ちょっと勉強する方針を考えて行動に移しました。まず、なぜ勉強したいという気持ちにならないのか?ということを考えてみたのですが、どうも初心を忘れているような気がしました。それともう一つ、膨大な量の科目を前に何から始めたら良いのかが良くわからない状態になっていました。そこで、勉強への入り口を一つへ定めたのです。
まずは、言語聴覚障害の総論から攻めてみようと考えました。例えば、企業のホームページのように大きすぎてどこから何を見たら良いかがわからないときに、サイトマップというものを見ますよね。それと同じように、まず、これからどのような分野を勉強していくのか?という俯瞰図を自分の頭の中に作っていこうと考えています。まず、自分がなぜこの道を目指す事になったのか?という動機付けを再確認していきます。そして、全体の概略を頭にしっかりいれていこうと考えています。
これまでに学校の悪口は散々書いてきましたが、私が通う学校に欠けていたもの、それはこのあらゆる概要の呈示の欠落だったのではないかと考えます。この2年間のコースで何をどのように学んでいくのか?そして、各科目はどのようなスケジュールで進んでいくのか?最後にはどのようなSTを輩出していきたいのか?そうした部分が欠落していたように感じます。もちろん、私自身がそうした視点をもち、自己研鑚していく必要もあったのでしょう。その辺の気付きの遅さが今回のやる気の無さを産んだような気がしてなりません。
何事も、フレームワークが大切ですね。計画の段階で結果のほとんどは決まっていくのでしょうね。家の建築では設計図がすべてですしね。そうしたしっかりとした準備を、遅れ馳せながら今からやっていくつもりです。始めるのに遅すぎることはありません。
たいしたことはありませんが、ホームページのリニューアルを行いました。気分転換です。日記はよっぽどの事が無い限りやめる事はないと思いますが、その他については突然無くなる可能性もあります。さて、今回が2度目の携帯の写真を使ったギャラリーがどれほど続くかお楽しみに。
先週の後半は精神的にかなり参っていました。牛の反芻のように悩みはグチャグチャと何度も味を噛み締めるような習慣によって引き起こされるようです。さっさと飲みこめば苦い味など味わうことなく過ごせるのに。しかしなんとか、友人との楽しい時間を過ごしたり、本を読んだり、バイトで汗を流して過ごすうちに気分は晴れてきました。
現在、セリグマンという人の書いた心理学の本を読んでいますが、その本の中で「楽観的思考」の持ち主と、「悲観的思考」の持ち主とでは、うつ状態あるいはうつ病になる割合が異なるとありました。もちろん、悲観的思考の持ち主がうつ状態あるいはうつ病になる確率が高いそうです。
悲観的思考の持ち主は、良い事が起きたときにその出来事を個人的ではなく一般的な視点で見る傾向、そしてそれが一時的なものであると考える傾向があるそうです。(今回はたまたま運が良かっただけさ的な思考)しかも、悪い事が起きたときには、まったく正反対に、その出来事を個人的に、しかも永続性のあるものとして見てしまうのだそうです。(いつもこんな悪い事が起きるのは私の能力がダメだからだからだ的思考)
自分自身でこのように追いこんでいって、自分の力ではどうにもならないと思いこむような環境を心の中に生み出してしまうことで、うつ状態は引き起こされ挙句の果てには重度のうつ病になってしまうのだ。とセリグマンは言っています。
人間は考える葦とは言われるけれど、それゆえに自らを苦しめる存在でもあるようです。しかし、腐った葦が土に返り、その他の葦の肥料になるように、決して考えて苦しむ事は無駄な事ではないとは思います。
苦しさに耐えられればの話しですけれど。
阪急梅田駅の茶屋町口にあるブックファーストで、岡本太郎氏の「強く生きる言葉」という本に偶然出会ってから、僕の中で岡本太郎氏の言葉がムクムクと勢力を広げています。今回、出会った本「自分の中に毒を持て」は、僕の心を突き動かし始めています。再び読み始めています。今度は一つ一つの言葉を噛み締めながら。
岡本太郎というと、「芸術は爆発だ!」というようなテレビなどで見せたイメージしかないのですが、その裏には哲学的な要素がたくさん含まれているのです。哲学の詳しい事はわかりませんが、彼の平易な言葉遣いの中から、とても深い人間への探求心、人生への探求心が見えてきます。芸術とは生きること。ありのままの人間としての姿をさらして生きていくことが大事だと岡本太郎はいいます。そうしたさらしていく過程を「爆発」と表現するのです。
芸術は爆発だ。
生きることとは人間性を何の装飾もせずに、ストレートに突き出していくことなのだということを言っているのです。
埋もれている生きることへの純粋な喜びを見つけ出す事、それなしで本当に生きているといえるのだろうか?僕は、岡本太郎の単純かもしれないけれど、激烈なエネルギーと理屈にただ圧倒されるのです。岡本太郎の本は、言葉の爆発なのです。
学校が突然あさっての土曜日に授業を入れてきました。東京から友達が来るのにです。何の説明もなく、突然、先生のあいている日がその日しかないから授業なのだそうです。では、もっと早めにそうした可能性があることを言っておけと思います。一応、友達には31にスライドできないか聞いていますが、学校の対応に不満は爆発です。
学校が終わった後、クラスメイトとお茶をするためにカフェに入りました。座ろうとした瞬間、隣のテーブルに座っていた初老の男性と目が合いました。パソコンをテーブルに広げていました。良く見ると、前の会社でお世話になった業者さんでした。約1年ぶりの偶然の再会です。こういう巡り合わせってあるんですね。名刺をいただいて、また、医療福祉関係でお仕事が一緒にできるといいですねと言って別れましたが、挨拶ではなく本当にそう思います。こんな形で再会するなら何かの縁があるのでしょう。
こうして偶然に人に会ったりすると、いかに私達は奇跡を生きてるかを実感します。何がどうずれてもこんなことは起こらなかったのですから...
朝はベッドの中で10分ほどまどろみ、いつも通り通学しました。電車の中では、本を読もうと思っていましたが、面倒くさくてウトウト。いつも聞いているAC/DCをMDで聞きながら学校までいつもよりも早歩きで向かいました。今日はなぜに早歩きだったのでしょう?自分でも良くわかりません。
学校についていつも通り機嫌は良くなく、通学してくるクラスメートに適当に挨拶して、授業が始まるまでを過ごします。1時間目から3時間目は「脳性麻痺」の授業でした。1時間目は正常発達児の摂食について、2時間目は先生が元職場での訓練の様子や言語聴覚士(ST)の施設での役割についての解説、3時間目は脳性麻痺児の症例をビデオで見ました。4時間目は、「音声障害」の授業で、反回神経麻痺の症例をビデオで見て、それ以外の声帯疾患の概要が説明されました。
昼休みはいつも通りに弁当を食べ、食後にキャッチボールをしました。休み時間は、今、覚えようとしている将棋をクラスメートと打ち、対戦相手に飛車・角落ちにしてもらったおかげで勝ちました。今日からまた新たな対戦相手と一局交えています。
帰りにコンタクトレンズ屋によって、新しいコンタクトを受け取り帰宅。夕食を取って、阪神広島戦をテレビ観戦し、試合後にこの日記を書いています。これから読書をして、さっさと寝る予定です。ちなみに今日はあったことをそのまま書いてみました。こういうのもありですかね。
今はまっているのは、岡本太郎氏の著作です。
毎時間毎時間、早くこの授業が終わらないかなあと思いながら授業を受けています。こんな意識で授業受けていて良いのだろうか?そう思う瞬間が何度もあります。こんな意識で授業受けているなら、さっさと教室を抜け出して、遊びたいだけ遊んで、さっと自分のやりたい時に集中して勉強できたらどれだけいいだろう。と思うのです。
学校の愚痴ばかりは良くないのだけれども、ホントにつまらない。毎日、椅子に座って何時間も先生が一方的に話しているのを聞いてるなんて、皆よくできますよね。私には苦痛以外の何物でもないのですけれども... これからは先生の話しを我慢して聞いてるのではなく、授業中に好きなことをやって過ごそうと思っています。自分にとって無駄な時間になるか否かは自分自身の選択にかかっているのですよね。
自分の選択で苦痛をなくしていく、奇跡をおこさなきゃ。
さて、やりたくない勉強はしないと宣言してから1週間が経ちました。今だ勉強したくなりません。学校から出される課題もやっつけです。やっつけでもどうにかなるのですから、そんなものが課題と呼べるのかどうか疑問です。とにかく授業でも、目がさめている時は聞いていますが、眠くなったら眠り、面白くないと感じたら白昼夢を見て過ごしています。
今、私が夢中になっているのは何か新しいことを起こすことです。これまでに日記でも書いたように、今のところ学校でいくつかの新しい活動を企画しています。恐らく、私自身の生きるエネルギーというのは、自分の手で何かを始めるというところに一番効率良く働くのではないかと思います。思い返してみれば、小学校低学年の頃です。親戚の叔父さんの誕生日にお呼ばれした際に、他の親戚の子どもが色々なものをプレゼントとして購入していたのに対して、私だけが紙粘土で作った模型だったのです。(渡すときには壊れていましたが...)
学校という与えられる環境の中で、自分らしさを発揮する場面がなければ、当然、気持ちは萎えてきます。今、私が勉強したくなるようにするには、私が持ち合わせている特性を充分に活かせる環境を作る必要があるのでしょう。さて、それは何なのでしょうか?学校というシステムに組みこまれてしまわぬよう、創造力を働かして自分にとって適切な環境作りをしていけるよう考えていきたいと思っています。
とりあえず、1)休憩時間には将棋をしている。→将棋を知らないので将来臨床で患者さんと楽しめるように。 2)昼休みはキャッチボールを。→体を動かして脳を刺激。 3)遊びの企画。→自分のエネルギーが使える場を得る。の三つを柱に勉強への興味回復を試みています。急がば回れ。とにかく生活を楽しむ余裕が必要です。
自分がここに存在するということの奇跡を考えると、私達の能力では計り知れない力がこの世界に働いているのではないか?という気持ちになります。
奇跡として産まれてきた自分を大切にすること、この世に産まれてきた奇跡に感謝すること。そう思うだけで人生は豊かなものに成り得ると思います。
私は何の宗教も信じてはいないけど、様々な宗教を信じる人達の気持ちはわかるし、彼らが求めているものが何かがわかります。中学生の頃に見たNHKの地球大紀行は、当時の私に無力感を与えました。人間なんてちっぽけな... そして、生きる意味は?と問い始めました。生きる意味に答えが出ない間は、何をしてもひとつひとつの行動に意味が見出せなかったのです。宗教に生きる意味を求めた人達がそこに安心感や充足感を感じているのではないでしょうか?
宇宙ができたのは奇跡。その宇宙の中で、地球のような星ができたのも奇跡。その地球に海ができたのも奇跡。生き物が誕生したのも奇跡。人間が誕生したのも奇跡。それらの奇跡の上に成り立つ私達の存在も奇跡。私達が決断したり迷ったりして何かが起きたり起きなかったりするのも奇跡。その私達が経験する生活のすべてが奇跡。
私は何の宗教も信じていないけれど、この奇跡の連続の上に成り立つ私達の奇跡は、何か私達の手の届かない、理解の範囲を越えた「ひとつの秩序」の表れではないのか?という気がします。それは生きる意味を求める一部の人間の愚かさを際立たせます。「何の為に生きているのか?」ではなくて、「生きる事によって何かが起きる。」のです。すべての出来事は、これまで起きてきた奇跡の延長線上にある奇跡なのです。私達が生きる事は奇跡だし、それを前提にすると私達が起こす言動、そしてその結果もすべて奇跡なわけです。
そう考える事で私は、生きる意味を捜し求めるしんどさから救われるような気がするのです。
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