もうちょっと勉強できる部屋にしようと思って模様替えをし始めたのですが、考えていたようには行かなくて頓挫してしまいました。部屋の中は混乱状態です。どうしてよいのかも分からずにとりあえず明日の朝まで放っておくつもりです。夢の中で良い案が出てくれば良いのですが...
模様替えをしていると、片付けるってのは奥が深いなあと思うのです。ただ、なんとなく部屋がすっきりしている状態にするのなら、適当に片付ければ良いのですが、例えば今回のように勉強ができる部屋にしようという目的があると、簡単には行きません。例えば、今日はとにかく勉強に関わる本を一つの本棚にまとめてみようとと思い、テレビやステレオが載っていた棚をすべて本にしてみたのですが、これが行けてない。あんなに勉強用の本がずら〜っと並んでいると逆に圧迫感が強くて勉強する気にならないのです。
分類して整理するというのは実は正しいようで間違っているのかもしれません。物の属性を重視した整理をするのではなく、そこに住む人間にとって心理的または物理的にどのような整理をするべきなのか?ということを考えなければ良い片付けとは言えないのですね。
まだまだ勉強が足りません。模様替え一つをとってもです。
帰国しました。昨日の早朝に帰宅して、昨日の午後から授業に出ました。今日も学校に行きましたが、頭がまだタイ・オーストラリアモードです。まだ、始まったばかりなのでもうちょいこの状態が続いても支障はないとは思いますが、できるだけ早く立ち直れるように頑張ります。
帰国した際に思ったのですが、日本はやっぱり落ち着かない国です。常になんだかわからない緊張感が漂う国と言ったらいいのかな。なかなか表現しにくいのですが、タイに行った時に初めての国とは思えないほど親近感を感じました。住み慣れた日本に帰ってきたら妙に疎外感を感じてしまいました。ホリデー気分と、現実に戻ってきた気分という差があるのは分かりますが、それだけでは説明できない何かがあるような気がします。
日本は近代化や効率化が非常に進んだ国なのですが、そうした近代化や効率化を進めていく過程で、過度の標準化を行いすぎたのではないか?そういうことを関空から三ノ宮へのバスの中で考えていました。過度の標準化という視点で普段の生活を見てみると、タイとの差が見えてくるような気がします。日本はなんだかすべてにおいて「きれい」過ぎるのです。きれいなことは良い事なのでしょうけれど、「きれい事」ということばがあるようにきれい過ぎるものには何だか胡散臭さを感じるのが人間です。日本はなんだか胡散臭いのです。
比較の問題なのかもしれません。しかし、まあ、日常の生活を送る中でじっくりと見てみるとやはり何だか胡散臭さがあるのです。この感覚はなんなのか、まだ、上手くことばで表現することはできないのですが、これから考えていきたいと思っています。
今日のシドニーは雨です。最後のオーストラリアなのに、雨です。ちょっと残念。16:15の飛行機でバンコクに向かいます。バンコクで二時間のトランジットを経て明日の早朝に日本に到着予定です。
短いようで長い旅になりました。バンコクではこれまでに体験したことの無いような体験をしました。タイ人の友達とも交友を深められて、大変に意義のある4日間でした。オーストラリアでは、八年前の記憶を刺激するような体験をして、懐かしさとともに自分自身の原点を再確認しました。
これから、一年間は国家試験のために猛烈に勉強するつもりです。今回の旅でフルに緩めた精神を、緩めた反動でビシッと締めて頑張るつもりです。
| 2003年04月13日(日) |
オーストラリアは快晴 |
オーストラリアは今日も快晴です。今日は、これからハーバーブリッジを歩いて渡り、ロックスのマーケットにいってお土産を買います。それからフィッシュマーケットにいって、おいしい魚料理でも食べる予定です。帰ってきたら、ファンだったブリスベンのラグビーの試合をテレビで観戦します。
オーストラリア生活満喫しています。なんだか、ずっとすんでいたみたいな感覚似さえ陥ります。昔の自分を思い出して、脳が活性化されているようです。明日、帰国の途につきます。明後日の朝に日本に到着の予定です。
皆さんお元気ですか?タイで4日間過ごし、今、オーストラリアで3日目をすごしています。
タイはとても面白い国でした。タイと言っても、結局はバンコクだけの4日間でしたが、町中を歩きまわり、タイ人の友達の家でごちそうになったりと刺激的な4日間を過ごしました。バンコクは近代化が進んでいるところで、高速道路は網の目のように走り、中心街にはスカイトレインという高架を走る電車も便利な交通手段としてありました。デパートも日本なみにたくさんありますし、日本の南国に来た印象さえ最初のうちはありました。
バンコクに居ると、日本がいかに奇麗かがよく分かります。タイが汚いというよりか、日本がきれい過ぎるのかなと感じるほどです。交通ルールもあってないようなもので、日本人から見るとめちゃくちゃです。でも、このめちゃくちゃ加減がとてもいい加減なようで機能しているのが不思議です。肩に力を入れずに気楽に生活できる感じがしました。
また、明日もインターネットカフェから書きますね。
今日で、1回目の実習が終了しました。これまで学校で消化不良だったものが、一気に消化できたような感じです。この調子で、今後も頑張っていきます。
明日から旅行に出ます。しばらく更新がないかもしれません。旅行先でパソコンを見つけたら更新を試みてみます。返ってきた写真を掲載する予定です。お楽しみに。
それでは行ってきます。
6日〜9日 タイ(バンコク) 10日〜14日 シドニー(オーストラリア)
患者さんのリハビリ意欲を向上させるものは何か?今回の実習で、先生が実行されているのは「笑い」でした。
こどもを笑わすためなら、ちょっとぐらい下品なことも平気でします。笑わす事でこどもの機嫌を取ることも大事な事なのですが、自閉症などの対人関係に障害を示すこどもでも、こうした「笑い」には敏感だったりするのです。決して自閉症のこどもが「笑う」とは限らないのですが、確実に笑いを含んだ行動に目を向けてくれます。不思議なものです。それが、体を使った笑いであるほどこちらを向いてくれます。変な顔、おならの音、変な動作。
こどもに限りません。大人の訓練にだった笑いは重要な役割を持ちます。言語の訓練は、傍から見ると意外と簡単なことをしているように見えます。例えば絵カードを見せて、「これは何ですか?」というような訓練を行います。当たり前のように感じるこうした行為が、言語に障害を持った人には困難なのです。しかし、大人の場合、精神的な遅れが起きているわけではないので、それがいかにこどもじみた訓練であるかがことばは出なくても理解できるのです。
そうした訓練を、まじめな顔してもくもくとやってしまうと、患者さんは飽きてしまいます。やる気を失った患者さん相手のリハビリほど意味のないものはありません。リハビリにおいて大事なのは患者さんの意欲なのです。そして、訓練を行う療法士は患者さんの意欲を盛り上げていく環境作りを行っていかなければなりません。「笑い」はそうした雰囲気作りに大きな役割を果たします。
明るく、楽しく、そして真剣に。そうした環境を作っていく事で、障害を持つ人々に限らず、私達健常者だって意欲満々の楽しい生活を送っていけるのです。
▼楽しい生活のアイディア No.1
上を向いて微笑みながら「楽しいなあ。」と10回言うと、ホントに楽しくなってくる。
今日は、これまでの実習の一つの成果を見せる機会として、自閉症の男の子との訓練を任されました。訓練とは言っても、まだ実習生ですのでまずは初めて会う男の子との信頼関係を築くところから入ります。今日は、そした信頼関係を築く遊び、そしてその遊びの中でそのこどもの発達レベルを読み取ることができました。
ことばの訓練をする言語聴覚士がなぜに「遊び」か?といいますと、大人の人に訓練するみたいに椅子に座って机に向かってきっちりとした訓練をするほどの忍耐力が子供にはないということが一つの理由です。ましてや、私たちが診る子供は障害を持って生まれてきており、健常児よりも発達が遅れていますから、そんな簡単に訓練はできません。そこで、遊びを通して信頼関係を築いたり、遊びの中でその子供の発達の段階をみたりします。
遊びと一口に言っても、私達が生まれてから物心つくまでの間に、様々な遊びがあります。たとえば、赤ん坊はブラブラと揺れるものに興味を示し、それを掴もうとします。少し大きくなると、お父さんに高い高いをしてもらってとても喜んだりします。もう少し大きくなると、おもちゃで色々想像遊びをしたりします。このように遊びにも様々な段階があるのです。
発達の遅れている子供の場合、どこの発達のレベルに居るかを診る指針として、こうした遊びのレベルを見ることになります。実際の年齢は5歳でも、発達のレベルは2歳だったりするわけです。5歳というと、もうすぐ小学校ですから、何かと文字の練習とかに目が行きがちですが、子供によっては高い高いを喜ぶレベルにしか達していない場合があるのです。その場合、文字の訓練よりも、まずは体を使った遊びを行わないと文字どころではありません。
ことばの訓練をと一口に言っても、実は、人間のことばの発達というのは赤ん坊のときからの運動や感覚の発達、モノを見分けていく認知の発達などを経てこないといけないのです。ですから、言語聴覚士はことばを訓練するためにこどものすべてを診ていく事になります。
人間の発達と同じように、問題の解決や改善に取組む際も、目先の事を表面的に解決しようとするのではなく、しっかりと全体像や全体の流れを押さえた上で問題を捉えるということが必要になってくるでしょう。その場しのぎの解決は、根本の解決には結びつかない事が多いようです。
障害を持って生まれてくる子供達を毎日見ていると、非常に複雑な気持ちになることがあります。自分が結婚して、子供を授かった際に障害を持って生まれてきたらどうしよう。と考えてしまうのです。もし、お腹の中に居る胎児が、自閉症や精神遅滞を持って生まれてくると分かっていたら生みますか?
私はこうした子供を訓練する立場にこれから向かおうとしていますが、明確な答えを出す事はできません。あなたならどうしますか?
障害があるかないかを決めるポイントの一つに、本人がそれによって日常生活に不便さを感じるかどうか?ということがあります。もし、日本の社会が、自閉症や精神遅滞を初めてとした種々の障害を受容して、こうした障害を持つ子供や大人が不便なく暮らせる仕組みを確立したとしたら、障害なんて概念さえなくなるのです。
私が外国で見た光景は、まさに社会に障害者の方が溶け込んでいる風景でした。バリアフリーはもちろん、様々な障害に対して社会が対応しているおかげで、障害者が居ても特に不自然さを感じないのです。カナダでは、路線バスが車椅子で乗車する人のために15分ぐらいを平気でかけます。また、そうしたリフトが全部のバスに設置されていて、ドライバー一人で対応できるようになっています。
設備を揃える事がすばらしいとは限りませんが、そうした社会の受容の姿勢が普段何も気付かない健常者の人の障害者への気持ちを日常的なものに変えていくのです。私が目指す言語聴覚士という仕事が、当たり前のように社会に認められる日がくれば、自閉症や精神遅滞の子供本人、そしてその家族はいまよりずっと暮らしやすくなるのになあと思うのです。
こうした話しはイデオロギーや思想の話しになりがちですが、環境が変われば意識が変わるという人間の特性を考えれば、それほど難しい話しではないと思うのです。年度末の無駄な工事はやめて、こうした環境作りに目を向けて欲しいものですね。
三月も終わりです。三月に関してはとても長く感じました。前半は試験があり、中盤は実習の準備、そして後半は実習と、とても充実しているからでしょうか?中身が濃いと、一日一日の時間はすごく短く感じるのですが、振り返ってみるととても長く感じるのです。逆に、暇過ぎると、一日一日は長く感じるのに、振り返ってみるととても短く感じるのです。振りかえったときに長く感じる一日を過ごしていきたいですね。
今日は、ずっと頭が痛く、帰って来て実習日誌を書こうと思ってメモをみたら、いつもよりメモが少なくて困ってしまいました。思い出して書こうとしますが、今も頭が痛いし、なかなか思い出せません。精神的には非常に充実しているのにも関わらず、体の調子が今一つなため精神が抑圧されている感じです。もやもやしてます。
明日は、特養での実習です。
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