私の勉強方をご紹介します。
1)アウトラインを整理する。 地図なしで見知らぬ町に行くと迷います。地図で少なくとも、方角や大きな目印を頭の中にいれておくのと同じで、これから勉強しようとしている科目の大まかなアウトラインをしっかり理解しておきます。どのような流れで、物事が説明されていくかを把握しておきます。次に教科書を読んでいく際に、頭の中でこのアウトラインができていると推測や仮説が立てやすくなります。
2)教科書をじっくり読む。 教科書を読むこと自体は難しい事ではありませんが、しっかり理解しながら読むのは意外と難しいのです。まずは環境を整えます。集中力を高めるために、ウォークマンを付けて音楽をかけながら読み始めます。最初はなかなか頭に入ってきませんが、くじけずに何度も読みなおします。集中力があがるまでは努力が必要です。この際に大事なポイントにエンピツなどで線を引いていきます。それと、他の部分に関連があるところは関連のページにも、すぐに目を通します。まずは、理屈をしっかり頭の中にいれてやる事が大事です。
3)教科書をブラウズする。 ブラウズとは、ぱらぱらとページを見ていくことです。一度、じっくり読んだ教科書を流し読みするのです。線が引いてあるところは再度目に入りますし、あまり理解できていないところがあることもなんとなく気付くはずです。この際に、アウトラインや理解した理屈をしっかりイメージしながらブラウズしてください。分かり始めた感覚をここで得られれば後は早いのです。
4)上記のブラウズを何回か行う。 繰り返しは非常に大事な事です。繰り返しているうちに、なんとなくしか分からなかった事柄がすっと理解できることもあります。これは、理屈よりもイメージが頭の中にできあがって分かる事があるからです。この段階に来ると集中力というより、作業のような感覚でやってもいいでしょう。覚えなければいけないという強迫観念は逆効果です。
5)自分の言葉やイメージでまとめてみる。 固有名詞を除いて、言い回しなどは自分の言葉で置き換える方が分かりやすくなります。また、分かっていないと自分の言葉に置き換える事などできません。私はパソコンを使います。理解した事柄をできるだけ、表やイメージにまとめていきます。特に事柄の相関図を作る事で全体の流れや仕組みの中で一つ一つの具体的な事柄が頭に入ります。
6)自分のまとめたものをじっくり読む 自分がまとめたものをじっくりと集中して読みます。傍らに教科書を置いておくと曖昧な知識を再確認することができます。
勉強と言うのは段階があります。ステップ1)は勉強しようとする事柄について興味を持つ努力をすること。ステップ2)知識をバラバラに覚えるのではなく、理屈を理解しその理屈を説明するための知識として覚える事。ステップ3)理解したことを自分の頭の中で消化して、自分の知識とする事。ステップ4)消化した知識が正しいかを再確認すること。(時間が経てば古い知識になっていることもあります。)
このようなコンスタントなやり方を私はやっています。いわゆる机に向かって鉢巻締めて「よし!勉強するぞ!」というノリでは、私は勉強できません。やるからには気楽に楽しくできないといけませんね。皆さんの勉強法はいかがでしょうか?
前回の日記で書いたように、私達は周りの様々な情報を頭にインプットし、それに対して反応としてアウトプットします。そして、アウトプットに「気持ち」という要素を反応させ最終的なアウトプットを出します。ですから、「気持ち」のコントロール次第でアウトプットは変わってきます。
さて、この話しを元に、人間同士が心を通わすことについて考えてみました。私達は、人とのコミュニケーションを通して、分かり合うという努力をしています。コミュニケーション手段の代表的なものとして、言語があります。私達は多くの事を言語を駆使して人に伝えようとしています。言語と言うのは簡単に言ってしまうと記号です。ですから、Aという情報を代弁する「AA」という記号を相手に見せる事によって、相手にAという情報を理解してもらおうとします。例えば、体が冷たくなってぶるぶる震えてきて、鼻水が流れてきたとき、またはその徴候が出た時に「寒い」という記号を使います。
普段、あまり考えないことの一つは、私達は言語によっていったい何を伝えようとしているのかという事です。仕事などで、「この書類を3枚コピーしておいて。」という事務的な情報伝達においては、指示によって依頼者の必要としている情報が直接的に相手に伝わっています。しかし、私達は日常的にこれよりも高度な情報伝達を言葉に託しています。感情であったり、抽象表現などです。高度であるが故に、様々な誤解が生じたりします。
単なる言い回しの問題で誤解が生じるならまだよいでしょう。しかし、言いまわしも問題無いのに、うまく情報が伝わらないことがあります。それは、言語という記号が指し示している情報が、伝える側と伝えられる側で違うものとして捉えられるからです。例えば、日本人が言う「今日は暑いですね。」という言葉と、赤道直下に住む国の人の「今日は暑いですね。」は同じ意味でしょうか?
答えは明確です。私達が考える「暑い」と、赤道直下に住む人の「暑い」は違うでしょう。どういうことかというと、「暑い」という記号に置き換えようとしている感覚(インプットされる情報)が、私達と赤道直下の人々とでは異なるからです。同じ日本人同士でもこのような言葉の裏にある背景が違うために、問題無く言葉を使っているのに伝わらないということが起こります。当たり前のように起こります。
私達はインプットされた情報に気持ちという色をつけ、その色のついた情報をアウトプットします。アウトプットの一つは言語です。私達はアウトプットを用いて人々と情報の交換をするわけです。私は、Aという気持ちを伝えるために「AA」という言葉を用いました。しかし、あなたは私の「AA」という言葉を聞いて「B」という意味に取りました。このような記号に対する気持ちの相違が起こっている事を、お互いにどのようにして知る事ができるのでしょうか?
このように考えると、気持ちを伝えるのはとても難しいことなのです。いや、伝わらない事の方が多いかもしれません。私達は、常に「AA」という言葉の裏には、人それぞれの気持ちがあることを推測しなければなりません。その推測ができるには、さまざまな人とじっくり話しをする必要があるでしょうし、その人と同じような経験をすることも必要になってきます。本を読み、多くの視点や考え方に触れておく事も大事なことです。
「人の心がわかる心を教養という。」という言葉を聞いたことがあります。逆に言えば教養がなければ、人の心はわかりにくいということも言えるのではないでしょうか?気持ちというのは、私達自身の行動を決定付けるだけではなく、人との関わり=社会との関わりをも決定付ける大切なものなのです。私達は常に自分の気持ちとどのように付き合っていくかを真剣に考える必要があるのではないでしょうか?
私達が生きていると思うのは、何を根拠にそう思うのでしょう?目で様々なものを見ることができます。耳で様々な音を聞くことができます。鼻で様々なものを匂うことができます。口で様々なものを味わう事ができます。肌で様々なものを感じる事ができます。頭で様々な思いをめぐらせたり、過去の記憶を呼び出したりできます。このように五感で感じた事を脳の記憶に貯蔵しておき、その記憶を呼び出してきてうまくやりこなします。新しい経験をする時も、過去の記憶をベースに推測を立てるのです。
情報の処理という科学的な側面で見ると、人間が生きるというのはインプットとアウトプットで説明ができます。しかし、私達の頭の中には情報の処理の一部に、その情報処理に対する気持ちが介入してくる部分があります。「画鋲があった」→「画鋲が刺さった」→「痛かった」→「痛いのは今後避けたいと思った」→「また、画鋲があった」→「痛いのは嫌なので避けた」この中には、私達の意思で処理を変えられる部分があります。
「画鋲があった」「画鋲が刺さった」「痛かった」までは、私達の意思ではどうしようもできない情報です。しかし、「痛いのは今後避けたいと思った」と、「痛いのは嫌なので避けた」は、情報ではなく私達の意思です。私達は頭の中でインプットされた情報に対して、気持ちというものを作り出しています。
このような気持ちが現れるのも、単なる情報のインプットやアウトプットで説明できるのではないかと思う人もおられるでしょう。しかし、気持ちは決して「画鋲があった」という視覚的な経験とは比較ができないのは明らかです。なぜなら、「画鋲があった」のは物理的な事実ですが、その画鋲に刺さった人間がその痛みにどのような気持ちを抱くかは確実な事実として成り立たないからです。
私達がここに居ると感じられるのは体がここにある、何か体とは違うものを感じるといった感覚という情報があるからですが、そこに、その情報に対する気持ちが湧き上がることにより、さらに一層「一人間」としての生きている感覚を得る事ができると思うのです。だから、他人の体験をまったく同じように体験する事は無理で、同じ富士山を見ても、心の中に沸き上がる気持ちは100人居れば100通りあるのです。
私達がより良く生きるには、この情報体験に対する気持ちが大きな役割を果たすのではないでしょうか?太陽が昇るのを見て、あなたはどう思いますか?「すばらしい光景だ。」と感激しますか?それとも、「朝早くからなんで太陽なんだ。」と面倒臭がりますか?よりよく生きるということは、日々の生活の中での経験・体験に対して、よりよい気持ちを持つ事から始まると考えるのです。
楽しむ、愛する、夢中になる、感動する、真剣になる、共感する... 言葉では言い表せるほど、人間の気持ちは単純ではありません。単に入ってくる情報をどのような気持ちで処理するかが、私達の生き方を方向付けると言っても過言ではないのではないでしょうか?
受け入れるということは、字面だけをみると受身の態度のように聞こえますが、実は積極的な態度のことをいうのだと思います。両手を広げて、「どんな状態でもいい、飛び込んできていいよ。」と言えるには何が必要なのでしょうか?
一つは、自分自身の弱さの認識があげられるでしょう。弱い側面の自分を素直に認められる人は、他人の弱い部分を思いやる事が可能ではないでしょうか?確かに、人の数だけ種々の弱さがあるでしょう。だから、他人と同じ気持ちには絶対になれないのは確かです。しかし、どんな気持ちであれ私以外の誰かが「弱さ」を抱えて生きている。ということは想像ができるのではないでしょうか?自分の弱さから目をそらすのも一つの生き方ですが、そのような人は他人の弱さが許せないはずです。「私はこんなに強く生きようとしているのに。」と思う傾向はないでしょうか?私はありました。そして、毎日イライラしていました。
強く生きようとすることは非常に大事ですが、この「強さ」というは「強さ」vs「弱さ」という二項対立では語れない深さがあると思うのです。逆説的な言い方になりますが、「弱さを受け入れられる強さ。」という強さがあると思うのです。良い意味での「開き直り」といえるかもしれません。自分の弱さ、そして、その延長線上にある他人の弱さを受け入れられる事は、積極的な受け入れの態度に必要不可欠な要素の一つだと思うのです。
もう一つは、どんな事でもそれなりにやれば、それなりの結果が、それなりの時間で出るものだということを認識することでしょう。簡単に言うと、面倒臭がらないで、人のために時間を割いてみるということです。人のために時間を割くことによって、自分の時間が無駄になるというのも確かです。しかし、時間を割くことで、その時間が自分にとっても有益な時間だったと感じる事ができることが少なくないと思います。始める際に、「面倒だな。」と思うのはあなたがちゃんとした人間としての感情をもっている証拠です。しかし、始めてみるとそれが面倒だと思わないことはしばしばあります。それでも、行った後で面倒だったと感じるのであれば、何か別の方法はないかと探ればいいのです。
受け入れるという行為は、非常に積極的な意思がなければできない行為です。この受け入れる行為が、なんなくできるようになれば、他人との関わりそして自分自身との関わりさえうまく行くようになると思うのです。自分自身を受け入れる事が出来ない人はたくさん居ると思います。「私は実際どんな人間なのだ?」と問う事は多いのではないでしょうか?
自分の弱さを認識する事、そして、面倒臭がらずにやってみる事、この2つの行動によって少しづつ他人も自分自身も受け入れられるようになってきた自分がとても心地良いのです。
人に支えられることを恥ずかしいこととして生きてきました。しかし、最近になって支えられることを求めるようになってきました。そして、私が支えられているように、誰かを支えたいとも。昔は、人は支え合って生きているなんてことは信じられませんでした。みんな自分勝手だし、私利私欲は生きる根本だし、結局は一人で生きていく事を覚悟しないと生きていけないんだ。そう思っていました。
確かに、私が考えていたことは間違いではありませんでした。みんな、実は自分勝手だと思うし、私利私欲がない人は居ないと思うし、結局は人は一人という単位で生きていくんです。でも、これまでなかった考え方を身につけました。それは、自分勝手とか私利私欲とか一人であることってのは、生きる上での『前提』なのだということです。
私と同じように、あなたも自分勝手で私利私欲が強くで、一人ぼっちです。でも、だからこそみんなで支え合うのですよね。自分勝手という弱さ、私利私欲という弱さ、一人ぼっちという弱さ。みんな感じているからこそ、支え合うのですよね。自分が自分勝手で私利私欲が強くて一人ぼっちなんだって開き直っているのは、本当につらいことなんですよね。開き直ると人は強いけれど、弱さが見せられなくなって自分を追い詰めてしまう。
私は、そんな弱さを肯定的に見ることが人を支えることなのだなということになんとなく気付いてきました。強がりが言えなくなってきただけなのかな...
今日は絵本の原画の展覧会に行ってきました。言語治療の現場で有効な手段として使われている絵本のことをもっと知りたくて、最近、絵本の展覧会には極力出向くようにしています。展覧会を見たからと言って、それが直接言語治療に役に立つわけではありません。まずは、どんな絵本があるのかを見てみたい。そして、その魅力は何なのかを理解したいのです。
子供の頃を除き、これまでに絵本なんて意識して興味を持つ事がなかったので取りつきにくさはありました。でも、最近は純粋にそのかわいい絵を見る事や、作者の考えていることを想像することが楽しいと感じます。絵本にはその一枚一枚の絵の中に一種独特な世界が広がります。
一言で言うと、夢が広がる世界が絵本なのです。夢とは何か?それは、読む者に創造を引き起こすということでしょうか。マンガは想像です。あらすじの中にどっぷりつかるのがマンガです。しかし、絵本は読み手が自分の頭の中で自分のストーリーを創り出す必要があるのです。そして、作者はそれを引き起こすさまざまなきっかけを絵本の中に隠します。それを見つけては、「ふふん、この作者の意図はこれちゃうか?」と考えて楽しむのです。
読むこととは、言語を使います。見る事はイメージ力を養います。言葉とイメージが結びつく事で、子供の言語の能力は強化されていきます。しかし、その裏には創造という別の言語化を進める要素が働いているのですね。
勉強会をしました。失語症についての勉強会です。学校の授業ではわからなかったので、これは自分でするしかないと思いましたが、なかなか一人でやりきる忍耐力が無かったので、女の子を誘って勉強会をしました。勉強会とは言っても、集まった状態で本来の意味での勉強は出来ませんので、今何がわからないのか?どんな方針で勉強すべきなのか?では、次回までに何をどうしてきたらいいのか?を具体的に決めました。
なんだか、仕事の打ち合わせを思い出して、懐かしい気分になりました。勉強でも仕事でも方針を決めて、それを具体案に落とし、着実にこなしていくという手続きがあると楽ですね。最終的に、自分の身になるための勉強は一人で行うものになりますが、こうして話してビジョンを付けるだけでも、モチベーションの上がり方がまったく違います。
今後も、積極的にこのような場を作って、自分を盛り上げていきたいと考えています。勉強に限らずです。
暑いですね。日差しに1分ほど当たるだけで、汗が噴水のように吹き出します。頭から汗がダラダラ、背中から汗がダラダラ。毎日、シャツが汗だくになるので、洗濯もほぼ毎日です。同じT−シャツを着まわしています。こう暑いといくら口では秋だと言っても実感ないですね。
今日は、1時間目で授業が終わりました。本来、3時間目まであったのですが、休講でした。先生の都合で授業が変更されるのに、学生の都合は考慮されないのですね。お金払っているのは私達なのに。
もう何度も言っていますが、9月から本気で勉強に取組んでいます。日々の暑さに負けない熱さで頑張っています。相乗効果で、それ以外のことも一所懸命に取組むことができるようになることを目標にしています。
今日から通常通りの授業が始まりました。8月の中旬から集中講義という名の元で、朝から夕方まで同じ授業をやってきたせいか、通常の授業が非常に楽に感じました。冷たい水に慣れてしまうと、常温の水が暑く感じるのと同じ感覚なのでしょう。面白いのは、時間的または知的作業的な感覚でも肉体的な感覚麻痺と同じように麻痺していると言うことです。良く「あの子はぬるま湯で育ってきたから。」という表現もなんだか関係ありそうですね。
ぬるま湯か暑いお湯かは非常に主観的な問題です。他人が特定の人を良く知らずにぬるま湯につかってきたというのは、独断と偏見以外の何物でもありません。しかし、一方で主観的なものとしてこの感覚差を捉えたとしても、ぬるま湯よりも熱いお湯に使っておいた方が、色々な場面で心理的に有利であることは事実です。
例えば、何ヶ月も休み無く働き詰めの人が、急に通常の週休2日の勤務体系に戻ったとしたら、その人は以前より仕事が楽と感じるでしょう。また、夏の合宿で鼻血が出るほど過酷な練習をしたラガーマンが、普段の練習に戻ると非常に楽な練習に感じるでしょう。このような精神的な落差は、しばらく経つと肉体的な経験は残りませんが、精神的な経験としてずっと残ります。
「あの時に比べれば...」のような比較ができると、今やっていることが非常に楽になることがあるはずです。もちろん、今やっていることが人生で一番しんどいことならば、そうは思いませんが。しかし、その経験は後々役に立つはずです。熱いお湯に我慢して入れば、今後、風呂に入るときにはそれよりはぬるく感じるでしょう。そのときに、あなたの隠された能力が発揮される可能性は大なのです。
ただ、熱いお湯を我慢するだけではいけません。我慢するだけではなく、それに適応しようとする精神的な努力は常に必要です。「なんとかこの熱いお湯にも対応したい。」または「しなくては。」という義務感でも良いでしょう。そういった、どちらかというとマゾ的な要素をもって最悪の状態を乗り切れば、後にまっているのはぬるま湯なのです。他人には分からないぬるま湯なのです。なぜなら、人が経験したことの無い熱湯を経験してきたからです。
どれほどまでに、厳しい環境に身を置けるか?耐えられるか?時にはこうした自分をいじめる環境に、自身をさらすのも人生の大きな勉強かもしれません。
ゴンチチに一緒に行く人が決まりました。最初は、誘う人誘う人片っ端から断られました。「お金払っていく価値なし。」、「誰?」、「歌ないんやろ。」などなど、私のゴンチチへの思いを踏んづけるような発言までありました。音楽に対する好みなんてそんなものなんですかね。私は、色々な音楽を聞いてみたいと思いますし、ライブに行けば必ず何か頭での理解を超えた感動があると思うのです。たかが音楽の好みですが、「ゴンチチ行かへん?」の一つの誘いでその人の心の柔軟性が計れます。断り方一つとっても、その人の人柄が出ますね。
というわけで、9月14日の大阪城野外音楽堂、楽しんできます。[ゴンチチとは?]
本質を捉えるということは、私の生活の中で重要な考え方です。当たり前と思われることや、常識と言われていることが、実は本質的には間違っていることがあります。また、建前で曇ってしまって分からない状態のまま世の中に氾濫していることがあります。先日、学校の先生が偶然にも私と同じ考えを授業中に言っていました。「赤信号なら、あなたはどうする?」
これは意外に奥の深い質問でして、解釈の仕方によって答えが分かれます。「公共性」をキーワードにするのであれば、あなたは「止まります。」と答えるでしょう。「安全性」を重視するのであれば、「ちょっと遠くから車が来ているのなら、無理はしませんが、まったく車が来ていないのであれば、渡ります」と答えるでしょう。「緊急性」を重視する人であれば、「走れば間に合うのであれば、渡ります。1分1秒を争っているので。」と答えるでしょう。
「赤信号」というのは、規則だしルールだから、みんながそれを無視してしまうと秩序が保たれない。という意見もあるでしょう。そう考えると、ルールありきという考え方は、秩序優先の考え方ということができるでしょう。秩序優先が極まると管理される状態が生まれます。管理されるということは、私達の行動が制限されるということです。私達の個人の感情や思考や判断は、それほど大事なことではなくなるのです。
ルールを守るということは、管理されること、管理されるということは、考える必要がなくなると言うこと。なんだか、悪い一面だけを見ているようなので、良い面を考えてみましょう。ルールを守ることが徹底されれば、交通は管理され、事故は減るでしょう。ん?ルールを守ると言うのはそれだけのメリットしかないのでしょうか?それ以外に何か思いつきますか?
こうして考えると明らかですが、赤信号は止まるものという世間的には当たり前のルールが実は非常にアンバランスなルールであるということが分かってきます。ただし、私はここで「赤信号は止まらなくて良い。」と断定しているのではありません。物事には優先順位があります。赤信号における優先順位とは「緊急性>安全性>公共性」と考えられます。私が、どの優先順位を持って赤信号に対応するかは、私の判断となります。
赤信号のルールが持っている大命題とは、交通の秩序です。秩序が保たれているのであれば、公共性にこだわることなく、個人がそれぞれの判断を下してもいいのではないでしょうか?私は、車が来ていない赤信号であれば、躊躇無く渡ります。
「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」こんな集団の秩序に左右される人生はゴメンです。大きなものに巻かれることが公共性ではない、一人一人が考え判断し、責任を持って行動することで、自然に秩序ができあがる。それが本質だと思います。
|