少しづつですが、テンションが上がってきています。以前に比べて、「面倒くさい」という気持ちが減り、新しいことをやろうという気持ちが強くなってきました。人間関係においても、積極的に話し掛けたりするなど、前よりも自らコミュニケーションの起点になるような行動が増えてきました。うまく行くときは、すべてがうまく行くように感じますが、油断は大敵です。まだまだ、勢いに乗ったわけではないので、もうすこしの間は粘り強く、気持ちの張りを切らないようにしています。
今回の気持ちの改善には、特に努力らしい努力をしていません。すべてがタイミングです。すべてが自然の流れです。決して、努力したからといって気持ちの問題がすべて解決するわけではないです。この上向きな気持ちが沸いてくるまでに、約2年半かかりました。久しぶりに感じるこの心の高揚感は、非常に気持ちの良いものです。
うまく行き始めた要素を挙げます。
1)行動することを増やしたこと。 働く、本を読む、ホームページのアイディアを考える等、とにかく悩む前に行動することをこの1ヶ月心がけてきました。
2)熱中するためのルーチンを作ったこと 通学の電車の中で、必ず本を読むことをルーチン化したこと。電車の中で、無駄なことを考える時間が減りました。
3)女性の友達と2人で遊びに行くこと とにかく、デートをすることで男性的な本能が刺激されたような気がします。また、女性と話すことでセルフエスティームが上がります。
これらの行動が相互に作用して、今までに避けていたことが普通にできるようになりました。例えば、通学路で同級生と会っても以前はできるだけ声をかけるのを避けていましたが、今は、自分から声をかけています。知らぬ内に眉間にしわを寄せて歩き、面倒くさいとかあー嫌だとか、文句や愚痴ばかり言いって、普通のことがなかなか出来なかった状態から抜け出せそうな今、非常に気持ちは明るいです。
時間はかかりますが、必ず晴れる日が来ると信じてきましたが、ようやく雲の切れ間から日の光が差しました。できれば、このまま全快快晴になって欲しいものです。
朝、急いで家を出ると外は雨でした。マンションなので、傘を取りに帰るのも面倒くさいし、時間も無駄なのでそのまま駅へ向かいました。昔の木造作りの家に住んでいたなら、こんなことにはならないのだろうなあと思いながら駅へ向かいました。マンションに住んでいると外の音がまるで聞こえないので、雨が降っているのかどうか分からないのです。テレビで確認する、ベランダに出て確認するという方法もあるにはありますが、朝はテレビ見ませんし、ベランダに出ることもありません。
古い家は今のような、静かでエアコンがついていたりオートロックがついていたりという快適さはなかったですが、自然とのつながりは今でもありました。トカゲが家に上がって来たり、アリンコが部屋を行進していたり、隙間風があったり。音もその一つでした。雨の音、風の音、お隣近所の音。自然や生活の音が溢れていたような、そんな気がします。私は昭和47年生まれで、都会で育ったことのほうが多く、早いうちからコンクリートの家に住んでいました。引越しで木造の家には2回ほど住んだことがあります。そのときのわずかな記憶です。
オーストラリアの暮らしには、自然が入りこんでいました。日本と比べることはできませんが、やはり自然の中で暮らすということは、自分のあり方を自然のままにしてくれます。帰国直後、私がびっくりしたことの一つに、日本人が眉間にしわを寄せて、ぶっきらぼうに早足でうつむき加減に歩く姿でした。向こうで慣れていた、道端で見知らぬ人と交わす軽やかな挨拶なんてものは日本には無かったですし、目が合ったときにニコッと笑う心の余裕が日本にはありませんでした。
日本にもたくさん良いところはあります。私は日本人ですから、やはり日本でなければと思うことはたくさんあります。しかし、この『心の余裕』という側面では日本はかなり発展途上ですね。私も、すっかり今では日本人です。日本人の道徳心の低下には、公共心の無さがあるのでしょうが、私はもっと違うレベルで日本人の心は変化していると思います。幼稚な言い方で申し訳無いのですが、「愛国心の欠如」ですね。ここでの愛国心は決して右翼とか国粋主義の意味ではありません。
私の言う「愛国心」というのは、細かく砕いていけば「愛居住区心」ということですね。これは都会だけで言えることなのかもしれません。とにかく、コンクリートやアスファルトなどで覆われたこの町は、どこか排他的な雰囲気を持っています。見られる自然のほとんどは、人工的に植えられた街路樹とか公園です。ここを通れと言われている歩くための歩道を歩き、まるで自分が偉いみたいに走ってくる自動車に気を使う。電車に乗る時だって、分刻みの電車のスケジュールに追われます。それはとりもなおさず、多くの人が時間に追われ縛られる生活を送っていると言うことになります。
外国と比較して日本が、この点で劣っているとか優れているとか、良し悪しの問題ではなく、人間性という観点で、みんなが、自身でこの状態に満足しているのでしょうか?恐らく満足していないのでしょう。しかし、それに対して何もできないというあきらめ感があるようです。または、この状態が安心感を生んでいるのかもしれません。
自然との接点が無くなったというきっかけから、今のような時間に追われるストレス社会に変化していったというのは、理論的には飛躍のし過ぎかもしれません。しかし、雨の音に気付かず外に出て、面倒くさいなと思ってそのまま駅へ向かってしまう私自身の行動は、なにか自然との接点を失った現代人の心の寂しさを物語っているような気がしたのです。
暑い日でした。梅田駅から学校に行くには、途中、約400mの地下道を通らなければいけません。クーラーが効いているわけでもなく、動く歩道があるわけでもなく、非常に過酷な通学路です。この季節は、まさに天然サウナ。しかも、その中を大勢の人がいそいそと歩いているのですから、これが都会?と思うほど開発されていない場所です。
この地下道の上にはJRの操車場があります。この土地も再開発が決まっていますが、この再開発が終了すると巨大な商業施設が梅田に誕生することになります。私的には緑が多い公園を作っていただきたいです。オーストラリアのブリスベンに住んでいたときに、万国博覧会が行われた川沿い土地をうま〜く開発した例を知っています。サウスバンクという公園と商業施設をうまく融合させた再開発をしていました。大阪はただでさえ緑の少ない都市ですから、できるだけ公園を中心にした土地利用して欲しいですね。
物事に熱中することを目標に、毎日の生活を送るようにしています。学校では先生の話している言葉に耳を傾け、それについて考えることに熱中する努力をしています。ここでいう熱中とは、集中して授業を聞き、考えることです。行き帰りの電車の中では、本をじっくり読む努力をしています。昨日も書きましたが、シャーペンで大事なところ、まあまあ大事なところ、面白いところの3つに線を引きながら本を読みすすめています。そして、最後にもう一つ、これは偶然的な事で意図はしていませんでしたが 、自分にとって「大事だな。」と思える人を見つけかけています。そして、その人のために自分は何ができるのか?ということを考える時間も増えました。
この「大事だな。」と思える人は女性です。まだ、恋なんて段階までには遠い段階ですが、先日、じっくり話してみて、ピンと来たものがあったのです。嬉しいですね。その人と今後どんな関係になるかは、あまり重要な問題ではありません。プロセスによってどんな関係になるかなど分からないのですから。ただ、友人でいようが恋人になろうが、その人のために、また、その人自身に熱中できることが、漠然とした不安を取り除き、未来への希望を抱かせます。やっぱり、人を癒すのは人なのですね。
ようやく、アルバイトが決まりそうです。正確に言うとアルバイトではなく、派遣になります。先日、「スルッとかんさい」という関西の私鉄のほとんどで使えるカード1,000円分欲しさに、派遣会社に登録したのです。すると、すぐにお仕事の依頼が来ました。土日祝日限定で、関西の電気量販店で行う、あるプロバイダさんの光ファイバーのプロモーションスタッフです。あるプロバイダさんといっても、光ファイバーを提供してる大手プロバイダさんは関西では2社しかありませんけど。これまでにアルバイトの面接を何回も失敗していますので、今回こそは何とか働かせてもらいたいです。
「とにかく働きたい。」気分になったのは、生まれて初めてのことです。これまでに、人並みに色々なアルバイトをしましたが、いつも「できたら働きたくねぇ。」というのが本音でした。しかし、今は「自分のために使うお金はすべて自分で払いたい。」「働くことで、社会につながっていたい。」という気持ちが、とても強いのです。特に、学生に戻って一番不安なのは、自分が物理的に何も生み出していないという現実でした。学生は勉強するのが本分なので仕方がありませんが、責任もなければ、その分、喜びもありません。学ぶ喜びと、生み出す喜びはまったく違う次元のものということを実感しました。
昨日、本屋さんでとても面白い本を見つけました。最近、「声に出して読みたい日本語」で、有名になった斉藤隆氏の本で、「三色ボールペンで読む日本語」という本です。3色ボールペンで大事なところ、まあまあ大事なところ、自分が面白いと思うところに線を引きながら読みましょうという読書法を紹介する本です。このような読み方で、理解力とコミュニケーション能力を向上させるという振れ込みです。実際、昔から私は国語の評論文が大好きで、文のつながりをエンピツでなぞりながら、「こことここの文章が並列で、こことここの文章が主従の関係だ〜。」と喜んでいた人間なので、この本の言おうとしていることに非常に親近感を感じました。
そこで、ものは試しです。本に書いてあることが効果があるのかどうかを今日の授業で試してみました。(本は立ち読みで、流し読みなので正しいやり方をしたのかどうかわかりませんが...)教科書や、評論文では非常に役に立つと思います。小説もできるかもしれません。私の場合、とりあえずエンピツで線の種類を変えてやってみたのですが、線を引こうと意識することで、しっかりと文章を読みます。また、その文章のポイントをつかむために理解をしようとします。そして、ポイントがつかめてくると、そのアイディアがどのような展開を見せるのかに、だんだんと興味が沸いてきます。久しぶりに、昔の「こことここの文章が並列で、こことここの文章が主従の関係だ〜。」の喜びを感じました。
これは、恐らく書き言葉を、言葉からイメージに置きかえる作業をしているのではないでしょうか。教科書や、評論文には、必ず理屈の筋があります。そして、論理的なつながりをもっているわけです。論理的であれば必ず図式化ができるはずです。こうして、作業をすることで脳の言語機能、視覚機能など、ただ眺め読みするよりも多くの機能を稼動させることでより印象的に物事を理解することが出来るのかもしれません。ものごとの筋をあらためて見なおすという意味でも、非常に面白いアイディアだと思います。
今日は、久しぶりの休日だったので、朝から知人のお花屋さんのホームページ(wood fragrance)と、このサイトの更新を行いました。細かいところを、ちまちまと修正し気付くともう夕方。一日中、パソコン見ていたことに気付き唖然です。パソコンもテレビと同じように、一度はまると時間の流れが速いですね。
現在、2冊の本を平行して読んでいます。1冊は『「わかる」ということはどういうことか?』、もう1冊は『言語の脳科学』です。2冊とも「脳科学」を取り扱う新書なのですが、非常に分かりやすい言葉でかいてあります。『言語の脳科学』は、まだ、読み始めたばかりです。『「わかる」というのことは...』の方は、もうすぐ読み終わります。人間がどのように、物事を理解していくのかということを分かりやすい例をあげて説明されています。説明はわかりやすいのですが、今一つ理屈としてわかりにくいところがあるので、再度、読みなおしが必要かもしれません。

今、私のマイブームは「いかに物事に熱中するか。」ということなのですが、このようにして、読書や考えをまとめることで時間を過ごすことは非常に大事なことです。常に頭をOnの状態にしておくことで、ふとした日常的なことから新しい発見があるのです。
夕方から、祖母と祖母の妹(なんて言うんでしたっけ?)と一緒に三宮にしゃぶしゃぶを食べに行きました。最近、祖母が私の引越しに伴い、近い場所にいるのでよく来るのですが、私がたまたま食べていたカップラーメンを見て心配になったのでしょう。「しゃぶしゃぶ食べに行こう。」と誘ってくれました。78歳の祖母と71歳の祖母の妹を連れ、三宮のダイエーの上にあるしゃぶしゃぶ屋へ。1980円の食べ放題コースを頼み、お腹いっぱい食べました。
こうして祖母と時間を過ごすことを、非常に大事にしています。もちろん、78歳のおばあさんですから、大変なこともあります。口うるさいし、価値観は偏っているし、など上げればたくさんあります。しかし、78歳のおばあさんの欠点を今更あげつらっても意味がありません。恐らく、私の知り得ない孤独感や、老人特有の不安などあるはずです。そして何よりも孫と一緒に過ごせる時間と言うのは、理屈抜きに精神的なゆとりを与えるのではないかと思います。
私自身の人間的な成長のためにも、祖母とのコミュニケーションは今後も大切にしていきたいです。
昼過ぎから、少し暑さが戻ったような感じの大阪でした。今日も、授業が朝から15時までありました。空いた電車で土曜日のゆったりした時間を感じるのが好きで、働いていた時も土曜出勤は苦になりませんでした。
この8月後半は集中講義で、音響学、音声学、言語学の3科目を同じ先生が、2週間毎日朝から16:40までぶっ続けでやります。当初は、ぶっ続けで同じ先生が同じ科目をやるという授業方式で、私自身が集中できるのかどうかがとても不安でした。しかし、今はこの集中講義をずいぶんと楽しむことができています。やはり、言語学は私の「ことば」への興味を決定付けた科目だったからなのでしょう。非常に関心を持って授業に望めるということが、楽しみの大きな一因です。実際、4コマの授業が非常に早く感じられます。
土曜日ということもあり、放課後はちょっとホリデー気分だったので、帰りに三宮に立ち寄り、映画を観て帰りました。「オースティンパワーズ ゴールデンメンバー」を観ました。何も考えずに、とにかくくだらない映画が観たかった私の気分に最適の映画でした。ストーリーを語るのもくだらないほどですが、何が一番楽しめたかというと、非常にくだらなかったところです。大満足でした。ちなみに、私の携帯の着メロはオースティンパワーズのテーマ曲です。(原曲はボサノバ音楽なのですよ。いつのまにかオースティンパワーズのテーマソングとしての方が有名になってしまいましたが...)

言語学の先生もそうなのですが、オースティンパワーズでも、表現のストレートさが目立ちます。そして、私はそのストレートさに惚れます。以前、知り合いのバンドのライブに行ったときにも、その歌詞のストレートさに感動しました。
ストレートであるということは、うがった見方をすれば、「単純」なのです。「単純」というのは、どちらかというとマイナスなイメージで、「バカ」というイメージさえあります。何かに一途に打ち込む人を「〜バカ」と言ったりするのはそのようなイメージがあるからでしょう。マイナスなイメージではありますが、バカは憎めない要素も持ち合わせています。
理屈ばっかりこねている人間を、なんとなく信用できないということがありませんか?私自身、比較的理屈をこねるタイプなので自分自身のために気をつけているのですが、理屈で人の心は動かないのです。やはり、最後は気持ちの問題になります。一つ一つの言動にどれほどの気持ちがこもっているか?そこが、人を見るときの最終的なポイントとなります。まったく無意識の内に、それを感じ取る能力を人間は持っているようです。
今、世の中はさまざまな複雑なシステムによって構築されていますが、実はその構築の基盤として、単純なシステムがないといけません。その単純なシステムとは、人間の心、気持ちなのです。すばらしい複雑なシステムを作っても、そこに人の気持ちが乗り移っていないと、システムは機能しないのです。住基ネットなどは、その最たるものではないでしょうか?人の気持ちが乗っていないシステムに、私達は信頼を寄せるわけには行かないのです。
人の気持ち。これがもっと重視される社会になって欲しいと願っています。同時に、自分自身がそういったストレートさを失わない、俗な言い方をするならば、「擦れない」まま、これからの人生を生きて行くように意識しなければいけないなと思うのです。
オースティンパワーズのおバカ精神、万歳です。
毎日毎日、同じ授業を一日中受けていると、だんだんと頭がウニになってきます。そんな授業の毎日の中での楽しみの一つは、やはり食事なのです。弁当の話を以前にしましたが、今は外に売りに来ている弁当屋さんを利用しています。買った弁当は学校の地下で、少ない男子学生が車座になって地味に食べるのです。
別に男が嫌いなわけではないのですが、男が車座に座って弁当を食べても大した話で盛り上がりません。特に、熱い話をするのでもなく、バカ話かエロ話か沈黙か... というまさに生産性ゼロの会話が繰り広げられます。私は、それほど「ノリ」に乗って話すのが得意ではないので、クールに周りの話を聴いていることが多いのですが、どうして日本人はあそこまで普段のコミュニケーションに、下世話なユーモアを求めるのでしょうかね。不思議です。
また外国かぶれの意見で申し訳ありませんが、オーストラリア・カナダの大学では、こんな下世話な会話を聞いたことがありません。大体、みんな何かについて議論をしています。そんなに、机をバンバンたたくほどの議論ではありませんが、それぞれの意見を主張しあっています。その議論の中で、題材に関連するウィットに富んだユーモアを発揮することは多くありますが、バカ話エロ話はありませんね。
ラッキーなことに、私は多感な18歳〜24歳をオーストラリアで過ごしたおかげで、そのような外国流のコミュニケーションが非常に心地良いと感じるようになってしまいました。今、弁当を食べる際に繰り広げられるコミュニケーションには入っていけないのです。それぞれが、楽しんでいるからそれはそれで良いのですが、やはり、私自身がいかに楽しむか?ということを考えると、今のままでは良くありません。
それにしてもこれほどにまでコミュニケーションスタイルが違うと、その人達の知的レベルを疑ってしまったりします。危険な徴候です。
まじめな人が損する国、日本。結構、住みにくいところですね。
涼しい日が続きますね。関西はこれで連続4日間、低温日が続いています。このまま、そっと秋に移っていって欲しいのですが、また、暑い日が戻ってきそうです。
今日はほんのちょびっとですが、夏休み中のバイト代の入金がありました。久しぶりの肉体労働の結果のお金で、なんだかうれしかったです。この調子で、レギュラーのバイトも頑張ろうと思ってるのですが、面接した2つの会社からは、いまだに連絡がありません。ん〜、嫌な予感。
これほど、バイト先を見つけるのに苦労したことは今までありません。ことごとく落ちています。やはり、店長さんは若い女の子のほうに目が行くのでしょう。どれだけ、条件をフルフルで満たしていても採用されないのですから...
このところ、学校が始まったせいか、テンションが少し高めです。周りの人間にそのことを言うと、「え〜、うっそ〜」という反応が返ってくるので、客観的にはそれほどテンションは上がっているように見えないようです。しかし、問題は私自身の気持ちの問題ですから、このままのテンションを維持して、今まで以上にテンションを上げていこうと思っています。
テンションを上げる一つの手段として、「女のことしゃべる、遊ぶ。」を心がけています。やはり、男心をくすぐるのは女の子なのでしょうか。男同士で話していても、エロ話をしているか、黙っているかですから、テンションの上がりようもありません。女の子と話している方が、なんとなくテンションはあがりますね。むろん、私が女性を好きだということもあるでしょう(世のほとんどの男がそうだと思いますが...)、しかし、それ以上にやはり女性にはテンションを上げる華やかさがありますよね。
恋愛に発展するかどうかは、私の気にするところではありません。そんなことを意識し始めると、楽しさ半減です。色々と気を使い始めるのは嫌ですしね。最近は、自然な付き合いから徐々に恋愛に発展していけばいいんじゃないのかなと思うようになりました。「付き合ってください。」ってのもなんだか交際のルールをがっちりとマニュアル化した感じが拭えませんし。
恋愛に発展すればしたでいいのですが、それ以前に、私が一緒に居てテンションの上がる女の子と友達としていいお付き合いができることが私自身にとっては大事なことです。
なんて単純な生き物なのでしょう。
お昼はいつも学校に出入りしている仕出し業者の弁当を500円で買って食べているのですが、今は私の在籍する言語聴覚科以外はまだ夏休み中ということもあり、外に弁当を買いに行っています。学校は梅田のスカイビルの近くにありますが、昼休みになるとそのスカイビルに入っている企業で働く人達向けに、多くの弁当業者が簡易で露天を開きます。夏休みの間だけというつもりで、その露天の弁当を買うようになったのですが、これが安いのです。弁当+お茶で、昼休み終了直前に行くと300円で買えてしまいます。学校の弁当なんて、これからバカらしくて買えませんね。
音響学の集中講義は一応、今日で終了です。集中講義はこれから「言語学」「音声学」と続きますが、「音響学」は終わりなので、テストがありました。夏休み終了後三日目にしてテストということで、非常に気分的にはブルーでした。何よりもテストとという言葉が嫌いです。テストというのはどうしてもその場限りのやっつけ暗記になってしまうので、本当の意味での理解力が試されている気がしませんし、受ける私達もテストが終わったら、はい終了。という感じになってしまい、良くありません。もっと、知的好奇心をくすぐる評価方法は無いものなのでしょうか?
テスト中心の評価法はどうしても、生徒を受身にさせてしまいます。先生が授業で言っていることを一つ残らずノートに書き記し、試験前になると「範囲はどこですか?」「これは出ますか?」という小手先のテスト用の勉強になってしまいがちです。試験前に繰り広げられる、こういったテスト準備期間の周りの行動は、正直いってゲンナリします。普段のちょっとした努力で、大部分は解決できるような問題ばかりです。努力というのもちょっと変なニュアンスですね。自分の意思でやりたいことをやっているのだから、努力という感覚はないはずです。
普段からの興味の持ち方。それだけで、勉強の効率もかなり変わるはずです。
一人暮し12年にピリオドを打ち、現在、父親と二人暮らしになったことは以前にも書きました。夏休みの頭から、この父親との二人暮しが始まりました。私が、夏休み中は、私が寝ている間に父親は出勤していましたが、私が通学を再開するようになってからは、私の方が微妙に早く家を出ます。
ここで大きな問題が発生しました。父親は朝風呂が好きで、結構、時間をかけて風呂に入ります。その父親の入浴時間が、ちょうど私の朝のシャワータイムと重なるのです。今日の朝が、それに気付いた朝でしたが、私はベッドの中で遠くの方で聞こえる水の音を聞きながら「ヤバイ」と感じていました。一人暮しになれきった私は、このような事態をまったく想定していなかったのです。
これは戦争と言っても過言ではないでしょう。朝のトイレ、朝の風呂、朝の洗面台... 戦場は約3ヶ所。そして、その狭い三角形の地帯をニアミスしながら、朝の忙しい時間を過ごすのです。ん〜、家族で暮らすとはなんと危険なことなのだ。と改めて思いつつも、朝から生身の人間に向かって「おはよう」と声を出したり、戦場をくぐりに抜けて「行ってきます。」と言える幸せを感じているのです。父親の存在自体には、なんか面倒臭い感じが無いわけではありませんが...
月曜から始まった、集中講義では「音響学」をやっています。私達、言語に携わろうとしている人間にとって「音響学」は非常に大事な科目です。なぜなら、ことばの基本は音だからです。どのように、音が生成され、どのように音が伝わるかという概念は、基礎知識の中の基礎知識であるべきなのです。
人間が発する音というのは(他の動物も恐らく同じだと思います。)、とても複雑な過程を経て音として発声されます。まず、肺から空気が気管を通じて押し出されます。その途中で、声門を通過し声帯を震わせたり(有声音)、声帯以外の部分を狭めることにより空気に振動を与えます(無声音)。例えば、「あ〜」と言いながら喉を触ってみると声帯が震えているのが感じられます。また、「ふ〜」と唇をすぼめて空気だけをため息を付くように出すと、空気が擦れる音がします。
生成された音は、音波として空気中を伝わります。知っていますか?海などで見られる波は「横波」で、空気中を伝わる音波は「縦波」なのです。横波とは、まさに「〜」です。縦波は表現しにくいのですが、ミミズが這っている姿を思い出してください。バネのように延びたり縮んだりするようにして、密度の濃いところと薄いところが交互に前に進んでいくような波なのです。
こうした、人間の生理学的な側面からの「音」、そして、物理学的な側面からの「音」のルールをこの集中講義でやっています。こうした科学的な側面からの言語リハビリというのが必要だということを先生がおっしゃっていましたが、まさに、私が常日頃思っていることだったので、とても興味を持って授業を聞くことが出来ています。
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