私は、ここ数年、「組織」って言葉が口ぐせになっていて、 作家友だちにも、 編集者さんにも、 「それ、良くないよ」って、 注意してもらってきたのだけど、 よく考えたらきっと、 「組織」が好きなんだろうな、と思う。 「個人」ってことを振りかざしたい人間は、 普段の生活で「個人」が自然なことと感じられてはいなくて、 本当は「組織」に属するのが自然と感じているのに、実際は「個人」として生きている、って場合が、多いのではないだろうか。 まさに私だ。 基本欲求に、「組織」に属したい、という気持ちがあるのだと思う。 でも、好きすぎるから反感もあって、「組織は……」「長いものに巻かれて……」と言ってしまう。 このことをもっと突き詰めて考えてみよう! いずれ、「組織」の小説を書いてみたいな。
朝から強い風が吹いていて、外を歩いたら傘が裏返った。 傘が裏返るとどうして恥ずかしいのだろうか。 午後には雨も風も止んで、美しい晴れ間が見えた。 夕焼けもきれいだった。 夜は静かだ。
今年の桜はとても早く咲きましたね。 私は、上野の雨の中、井の頭公園の夜、にぎやかな友人の家、 三回お花見をしました。 それぞれ、サンドウィッチと、おにぎりと、鶏の照り焼きを作って、 料理も面白かったです。 来週は京都へ行く予定にしていて、それもものすごく楽しみです。 この日記面白くないですね。 誰が私の花見なんて興味あんだろ。 「今年の桜は早いですね」などと挨拶している自分が本当に気持ち悪い。 いつからこんなつまらない大人になったんだ! 思い出せ、反骨精神を! 季節の話題なんて、ひとことも喋るな! そう思いながら、今日もにこにこと、「桜は散るところもいいですね」なんて、大人ぶって穏やかに過ごしている。
【3月に見た美術】 「チェルフィッチュ個展」@クリエーションギャラリーG8 「あっぱれ北斎!光の王国展」@フェルメールセンター銀座 「白隠展」@Bunkamuraミュージアム 「中ザワヒデキ展脳で視るアート」@吉祥寺美術館 「エル・グレコ展」@東京都美術館 「書聖 王義乗之」@東京国立博物館平成館 「かわいい江戸絵画」@府中市美術館 「ラファエロ」@国立西洋美術館 「全部見せます北斎富嶽三十六景」@江戸東京博物館 「フランシス・ベーコン展」@東京国立近代美術館 「マリオ・ジャコメッリ写真展」@東京都写真美術館 「タマがわ、たった火」@ナディフアパート 「JR」@ワタリウム美術館
○文庫『お父さん大好き』(文藝春秋) 3月8日発売 単行本『手』を改題しました。 ポップな小説です。 表題作はしみじみした味わいかもしれません。 装画は益田ミリさん、 解説は川村湊さんです。 ![]()
○雑誌「IMA」 SPRING vol.3 (アマナホールディングス) 2月28日発売 「Watching Humans Watching」インカ・リンダガード & ニクラス・ホルムストローム エッセイ「見ている人」を寄稿しました。 ○「asta」4月号 (ポプラ社) 3時のおやつ エッセイ「パフェ」を寄稿しました。
○週刊現代(講談社) 『女子会川柳「調子どう?」あんたが聞くまで絶好調』(ポプラ社)について、 嵐山光三郎さん、石田千さんと、鼎談しました。 川柳も詠んでみました。 面白かったです。
ちょっと先走ったお知らせになってしまうのですが、 3月8日に、『お父さん大好き』という文庫本が、文藝春秋から出ます。 それで、お間違えのないように、と添えたいのが、 これは、単行本『手』を改題したもので、 同じく、「手」「笑うお姫さま」「わけもなく走りたくなる」「お父さん大好き」の四編の小説を収録し、 内容は変わりません。 (文章の手直しはしました)。 新刊として楽しみにしてくださるような奇特な方がもしかしたらいらっしゃるかもしれない、そしたら悪いな、と思います。ごめんなさい。 文庫化で題名を変更、というのは、 私は、単行本『ここに消えない会話がある』→文庫『「『ジューシー』ってなんですか?」』のときも行いまして、 これは確かに、読者を混乱させてしまってよくない面もあるのですが、 やはり、とにかくより良い作品に仕上げていくことの方が大事に思えるので、自分が「この題名の方がいい」と思えるものが浮かんだら、そう変えていきたいと思っています。 直しというのは、 その作品らしさをさらに研ぎ澄ませる、というもので、 過去に書いたものを否定したいわけでは、まったくないです。 若書きの面白さは残したいです。 書いたのは自分なので、自分が一番、当時の作品の書き方を覚えているわけで、その「らしさ」を活かした直しは、今の自分は上手くできると思っています。 ただ、たとえば、単行本出版後、リアクションが返ってくると、「誤解されてしまったなあ」「もうちょっとこうした方が、上手く手にとってもらえたのかなあ」と思うことが、正直ありまして、 「らしさ」をより上手く出すことが、数年後の方ができることがあるわけです。 今回の文庫『お父さん大好き』は、本文の直しは、削ったり足したりは多くはやりませんでしたが、 たとえば、『この世は二人組ではできあがらない』は、雑誌掲載時から、単行本のときも大きな改稿をし、文庫化でもかなり変えました。 帯も変えました。 文庫を出版後のリアクションを感じ、自分としては、そうしたことで、より読者にブレのない読書を提供できたように感じています。 (たとえば、「もともとこういうことを書きたくて書いたのに、余計なことを書き加えてしまったせいで、その余計な部分がメインと受け取られてしまったようだ。思い切って全部カットして、もともと書きたかった箇所がメインに読めるように浮き上がらせたい」とか、「余計なとっかかりを作ってしまったせいで読者がつまずいてしまうようだから、無駄に気にさせるような表現は削除したい」とか、そういうことを思うわけです。簡単に言うと、「恋愛っぽさ」ではなくて、「日常における社会性」「時代を描く」ということを、当時の自分もそう言っていたはずなのに、読み返してみると確かに恋愛っぽさの文章が多かったので、これでは誤解されるのも仕方がないな、と。それで大幅カットし、書き加えました)。 私はたぶん、直しがすごく多い書き手なのだろう、という気がします。 (それでも、雑誌掲載の前も、何度も印刷して直してから出版社に送り、ゲラでもチェックしているのですが……)。 でも、これは自己満足の部分もあり、他の人が読んだら、 「単行本と文庫の違い、全然わからなかった」くらいのことだろうとも思います。 「読点をどこに打つか」とか、「これは重複だから削れるな」とか、そういう、木を見て森を見ず、というような細かい直しに時間をかけていることもあり、全体像を変えるのが下手というところもあります。 これは単純に、私が細かい作業を好きなだけなのだろうな、と思います。
小説を書くことは、言葉だけで作るという「枠」の中で進める仕事だ。 白い紙の上の、黒いインクのしみのみ。 書いているとき、ヴィジュアルイメージは一切、頭の中にない。 だが、小説を届けるときは、言葉だけではなかなか手に取ってもらえない。 どのリアル書店、ネット通販でも同じだと思うが、ヴィジュアルが大きな力を持つ。 小説が持っている唯一のヴィジュアルは装丁だ。 これを、できるだけたくさんの人に見ていただきたいし、 紙の質感や、環境の中に置かれた商品、どのように読書を進めるかのイメージをリアルに感じられるヴィジュアルを作れたら、と思っていた。 それで、サイトの、今月のおすすめのコーナーで、 書籍の「雰囲気」をヴィジュアルにできたことがとても嬉しい。 インターネットの書影は、紙を想定して練られたたデザインを、 正面からののっぺりとした画像として扱い、画面に押し出す、というもので、 ちょっとどうなのか、と私は常々思っていた。 それでも、自分でもそれ以外の方法はなかなか思いつかず、 このページでもそうやって紹介してきてしまった。 これからはもっと考えたいと思う。 あと、本というのは、すぐに価値がなくなる商品ではないのに、 昔の本は、売る努力ができなくなる、ということが辛かったのだが、 このように「フェア」をすることはできる。 きっと、いろいろな方法がある。 もっと、新しいやり方を模索していきたい。
アイフォン5を買ったら、 メールやツイッターを、前より書けるようになった。 道具の力だ。 メールやツイッターをなかなか書けないでいたのは私が駄目な人間だからだ、 と思っていたが、 道具は私の駄目さを随分と補ってくれる。 二足歩行を始めて、手ができて、 道具を作って、本当に良かった、と思う。 ちなみに今、この文章もアイフォン5で書いている。
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