東横線でマンドリンの練習へ。 調理室でマンドリンを8時間弾く。 生きるというのは不思議な作業だ。 音楽だの文学だの米にくらべれば何の価値もないものに、心や時間を奪われて、過ぎてゆく。 恋と同じで、魅力でせまられると、選択の余地がない。 才能がなくても、はまるしかないのだ。
寝不足になると、私は左目と右目の形が少し違う風になるようだ。 左目と右目がちょっと違う形だと、なんだかセクシーではないか? 「左右非対称はエロティック」って、澁澤龍彦が言っていた気がする。クラナッハの絵のことでか何かで。 夜、少しまたマンドリンを弾いた。 合宿に行って楽器熱に火がついて良くない。 はまってはいけない。楽器とは適度な距離感で友達関係を続けなければならない。
新宿から高速バスで河口湖に行き、一泊してきた。 マンドリンの練習のためなのだが、社会人になるとなかなかこうしてまとまった練習はできないので、楽しかった。 学生時代よりも腕は落ちてしまっているけれど、合奏を繰り返していると段々と自分の課題が見えてきて、その自分の課題をこなそうとみんなの音を聴いているうちに、ふっと所謂「合奏の快感の瞬間」が訪れる。
大学の友人たちと渋谷で新年会をする。 店に行くと、友人が筆ペンを持って、勝手に私の名前でナプキンにサインをして配っていたので可笑しい(私ももらったけど)。 それから、男の子の意外に純粋な失恋話を聞けて面白かった。 真剣に話されれば話されるほど笑える。でも笑って悪かった。 ところで、TBCの広告ポスターで、他の二人はちゃんと靴を履いているのに、デイヴィッド・ベッカムだけ裸足の理由が謎だ。ビートルズの「アビイロード」のジャケットでポールだけ裸足の理由と同じくらいの謎である。 さて、私は明日からマンドリンの合宿があるので山梨に行ってきます(明後日帰ってきますが)。
小学校と中学校が一緒だった友人たちと久しぶりに会って、ベトナム料理を食べた。生春巻きとか、フォーとか。 私がまだ初詣に行ってないことを告げると、友人が、自分に言ってくれて良いというので、友人に「今年も元気に過ごしたいです」と願った。
2005年になりましたが、今年もよろしくお願いいたします。 私の今年の抱負は「人に対して寛容な感じの方向で」にします。 ニュースなどを見るとき、腹を立てるというよりは、許す方向で見られたら、と思う(ちょっとえらそうだけれども)。 自分自身のこと、あるいは周りの人たちに対しても、ゆるやかな見方をしたい。「こうするべき」「こうしなければならない」というような決まりきった見方をできるだけ捨てられたら、と思う。 失礼なこと、あるいは、失敗などに対して「それがどうした」という態度をとりたい。 傷つくことがあっても「ああ、事故が起きました」みたいな気持ちで鷹揚に構えていたい。 今まで誰かに傷つけられちゃったこともあったけれど、それらのことを「成長させてくれてありがとう」という風に考えたい。 あと、自分の悪口を言う人の前でも、にっこり笑いたい。 まあでも私は気が強いですからね。 ゆるやかな気持ちでも、言いたいことは言う。 (それにしても私は不出来な人間だから、むしろ私のことを許せないと思っている人の方が多いだろう。だから私が許す許さないよりも、本当はそっちの方が問題だ)。 そしてあくまで「方向」ということで、悪感情が生まれてしまったときは素直に受け止めようと思う。 では、みなさんの今年も、きっと良い一年になると思います。
私はすごいことを発見した。 ベッドと壁の隙間に、タオルを詰めたら、隙間からくつ下や本が、下に落ちることがなくなるのではないだろうか? 大掃除をいろいろとすると、思いもかけないものが、思いもかけないところから出てくる。 例えばベッドの下から、柴田元幸さんのサイン入り(宛名入り)のレベッカ・ブラウンの本が出てきたり。 粗雑に扱っているみたいで申し訳ないけれども、でももらったときは随分人に自慢した記憶がある。 でも、私は『翻訳夜話』という本を面白い、と思ったのだけれども、だけれど、どうもアメリカの小説の良さはいまいちわかることができていない気がする。 ポール・オースターとか、レイモンド・カーヴァーとか、他の人が「すごく面白い」と言ってるほどの魅力がどうも読み取れないのだ。 サリンジャーは好きだけれども、ライ麦畑の面白さはよくわからない。むしろ『フラニーとゾーイ』とかのグラース・サーガの方が好きだ。 ジョン・アーヴィングはちょっと面白かったけども。 それを思うと、私はたぶん、フランスの小説の方が好きになりやすい気がする。 エルヴェ・ギベールとかジャン・フィリップ・トゥーサンとかの方がわかりやすい。あと、マルグリット・デュラスとか。フランソワーズ サガンとか、ミラン・クンデラとか(フランス人じゃないかも)。 それから、サン・テグデュベリと、レイモン・ラディゲなんか、本当に大好きだし。 なんでかな? と考えると、私はなよっちいから、タフだったり、クールだったりする文体に共感しないのかも、と思ったりする(あ、サン・テグデュベリはタフだ)。 とにかく、フランスの方が「わかる!」って感じがする。映画もフランスのが好きだし(トリュフォーとか)。 かと言って「フランスが好き!行きたい!」などと思う訳ではない。 そういえば金子光晴が「憧れの地へは絶対行くな」と言っていた。 やっぱりフランスには一生行かないだろうな。 (ここで、アメリカの人で好きな人を思い出した。テネシー・ウィリアムズは好きだ)
友人のところで、夜回りをするというので、行く。 町内会で、拍子木を打ちながら「火の用心」と言ってまわるのだ。 こんなことをするところがあるなんて(しかも都内)。 拍子木を打つのが本当に楽しい(しかも私はコツを掴んでいる。「木全体で響かせるのだ」とコツを言ったけれど、人には伝わらなかった)。 それだけで、豚汁やお菓子やみかんやティッシュをもらった。 実家が山形にある友人が、積雪のことを「あんなのはクズだよ」と言うので可笑しかった。
理屈というのは、つい納得してしまうものなので注意しないといけない。 本当はいくらでも、たくさんの理屈をくっ付けられるような物事でも、一つの理屈だけを聞いて「なるほど」と思ってしまう。 理路整然と説明されたときほど注意がいる。 理屈では決して納得してはいけない。感覚で納得する方がまだいい。 ただ、それは理屈というものをばかにしてる訳では決してない。 私はどんな物事でも理屈で説明できると思っている。 人の気持ちでさえも。 だけど、それはとてつもなく複雑な理屈なので、通常は説明が恐ろしく難しいはずなのだ(おそらく説明に1億年くらいかかる)。 そういうときに、物事を簡単にしてしまう理屈をひょいっと持ってきてしまうと、「気持ちが理解できた」という勘違いが起こってしまうから、危うい。
お昼に千疋屋でオムライスを食べた。 なんだかフルーティーなオムライスだったけど、なんの果物かわからず。 (私はケチャップにパイナップルが入ってる気がしたけど)。 大島弓子の『綿の国星』で、猫が発表の場で「相変わらずですけど、頭の上でミルククラウンが輝くようになりましたわ」って言うシーンがあったように思う。そのときに「女の感性、女の感性」「男にゃわからん」って野次が飛ぶ。(マンガが手元にないので、おぼろげなのだけども)。 そこが妙に好きだ。 「女の感性、女の感性」「男にゃわからん」って書いてしまう大島弓子のクールさがかっこいい。 私は「女の子の感性」とかっていう言葉のことを、だいっきらい、とか思ってしまうのだけども、大島弓子は、鷹揚に構えていて、まあ、そう思う人もいるわよねえ、って感じに思っているように見える。
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