一日一回は、松浦亜弥かわいい、と思う。 だいたい、一日一回は見かける。 こんなにたくさんの人からかわいいと思われたら、 私だったら、200年は生きられる。
花火をした。 命を続けなければならないので、次々に火をつけて、きれいどころじゃなかった。 つけたら地面に置いて並べた。 私は火が怖いので怖いかと思ったが、怖くはなかった。 人の火をもらおうとしたが一回しか成功しなかった。 花火は楽しい。またやりたい。
今日から二日後に恵比寿でビールを飲む。 鯵のマリネとしらすのピザを食べる。 その後、品川でビールとカルフォルニア巻きと真鯛のお刺身とうにとホタテを食べるだろう。 魚はおいしい。
セロテープの、台のところから刃のところまで伸びている、4,5センチくらいの部分は不安定だ。 文字化けみたいな文章を書きたいとたまに思うが、難しい。 ちょっとでもやさしくされると嬉しい。 ずるをしてでもやさしくしたいものだ。 公正なんてもの、ちっとも面白くない。 ひいきしてなんぼの人生だ。 人のわがままはよく聞く。 ずるをしようとする人の手助けをする。 ものを拾ってくれた人に百万あげてもいい、 ドアを開けてくれた人に百万あげてもいいと、よく思う。 たまたま側にいる人をめちゃくちゃに愛したいとたまに思う。 駅員さんにも、掃除のおじさんにも感謝している。 大人っぽく人付き合いしようという気はさらさらない。
私の目の白目のところはピンクです。 ところで、電化製品って波がありますよね。 静かーにしていると、突然、ウイーンって言い出したり、もぞもぞってしたりしますね。 ウインドウの付いている電化製品はえらそうな気がしますけども、 箱型で中が見えない電化製品は謎がありそうで魅力的ですね。 埃がたまり易い場所っていうのは、他のものもたまってるんですかね。 いいものもたまってますか? 配線の裏とか、ごちゃごちゃしてるところに、何かありますか? 電化製品は撫でても直りませんか?
郷ひろみっていい名前だよなあ、と思う。
「わかりました」とよく言ってしまう。 言われることもある。 「わかりました」というのはよくわからない言葉だ。 言われたときは、たぶんわかってないだろうなあ、と思う。 「わかりました」で会話が終わるのも妙だ。 「わかりました。ではこうしたらどうですか?」 「わかりました。じゃあ諦めます」 「わかりました。でもお願いします」 その後に何かが続く言葉のはずだ。 「わかりました」で止めてしまうとき、きっと相手に次の言葉をもらえるように待ってるのだろう。
雨は降っていないが、織姫は彦星に会えたのだろうか? 雨よ降れ、と私は思っていた。 やきとりを食べた。 私は友達に失礼なことを言ったのでわるかったな、と思った。 その友達に会うのも一年ごとだったら何も言わないのだろうか。
不動産屋に行ってきた。 部屋の下見をしたのだ。 話は変わるが、人と人とは、自然と離れていくことがある。 しかしお互いが自然と、ということではなく、片方では「離れたいと思ったのなら、人間関係として、きちんと挨拶ぐらいするのが礼儀なのでは」などと考えてしまうこともしばしばだ。 私もよくそういうことを考えた。「どうして早めにはっきり言ってくれないのか」「少しでも思いやりがあるなら、挨拶ぐらいして欲しいものだ」「理由があるなら言えばだけのことを」など。 でもこうやって離れていくとき、相手の好意を感じていたなら、言えないのはよくあることだ。 それに相手に対して本当のことを言わないというのも、普通のことだ。 とくに恋愛の場では、こうしたことに「礼儀」を持ち込んでも、もともと理屈でもビジネスでもないことなので、何にもならない。 こういうときは、自分で納得する理由を作ることができるとてもよいと思う。 いろいろな場面で、人は相手に答えを求めてしまう。 でも「相手がどうしたいか」をはっきりわかったところで、自分の答えが出るのだろうか。 「相手がどうしたいか」はおそらく相手はなかなか言ってはくれない。特にその「どうしたいか」がマイナスな「どうしたい」だったら、絶対に相手は言わないだろう。 だったら、相手がどうしたいか言ってくれるのを待つよりは、自分で答えを作った方がよっぽどいい。 私は今度、こういうように人が離れていく雰囲気を感じ取ったら、自分で納得するような理由を考えて、それが恋愛だったら恋愛感情はぐっとこらえて友情に持っていくようなことをしたりしたい。 現状をいい風に捉えたりはせずに、 でも悲観せずにそっと離れて、 あたたかい気持ちのままでいられるようにしようと思う。 相手には何も聞かないようにしよう。 恋愛っぽい話のついでに、こういうことも最近思う。 昔は、好きな人が「今どうしてるかな?」「何食べてるのかな?」などと考えるのが醍醐味というか、思いやりのような気分でいたけれど、最近、どうもこれは違うな、と感じる。 こういうことはただの想像だからしない方がいい。 想像したって相手のことはわからないのだから。 人のことは、会ってるときだけめちゃくちゃに集中して考えればいい。わからないことは聞けばいいし、一生懸命話を聞けばいい。 会ってないときは何も考えないのが一番だ。 これは絶対そうだ。
マンドリンの練習に行った。 駅でマンドリンのケースを持っていたら、年配の女の人に、 「そういう箱持ってる人結構見かけるけど、中に何の楽器が入ってるの?」 と聞かれた。 ちょっと楽しかった。 ところで、私は思い出というものが嫌いだった。 しかし年をとってきたせいだろうか、最近はいとおしいもののような気がし始めた。 私の好きな南Q太のマンガにこんなシーンがある。 「お前と酒を飲むのはホント楽しいな」 という、昔の男によく言われた科白を、主人公が夢の中で見る。その夢のことを友達に話すと、 「そういうのは、宝物だよね」 と言われる。なんだかとても好きなシーンだ。 べつに後ろ向きとか、今でも好きとかそういうことではなく、きっと、そういう科白はいつまでも心の中であたたかいものなんだろう。 向田邦子のエッセイに、 「大人になったら、反芻が一番楽しい」 というようなことが書かれていたと思う。 思い出というのは本当に楽しく、あたたかく、そして終わったあとも変わって行くものだ。 綺麗に変わって行った思い出は、決して現実には蓋を開くことなく、でも心の中だけで大事に箱に入れてたまに覗くのが、大人の楽しみ方なのかもしれない。
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