私は今まであんなに「すきじゃない」と言い張っていた松浦あややのことが、最近可愛く見えて仕方ない。 可愛い、なんか、自分、おじさんの目で女の子を見るようになってきたか。
今日は内藤剛志に本を売った。 昨日は金八先生が来た。 帽子を被っていたが、明らかに、目立たないようにするための帽子ではなかった。 目立つための帽子だった。 肩こりは首の後ろから、腰まで続き、明日には嵐になるでしょう。 もう、肩がこっている、という段階は超えている。 頭がいたくなったり、気持ちが悪くなったりもするのですが。 先生!
鎌倉に行ってきた(またもや) 今回は泊まってきた。 海が見たい、と思って、夕方出かけて、一人で夜の海にいた。怖かった。 次の日は、長谷寺や大仏、鶴岡八幡など周った。 中でもすきになったのは、鎌倉文学館だ。 鎌倉ゆかりの文学者の展示物などがあって、行った時は武者小路実篤の特別展示があった。 建物や庭も、バラ園もすてきな上に、昔の本の装丁にうっとりした。 今って、音楽は商業化している、と思ってたけど、本だってそうなんだな。 昔の本って、本当に見るだけで、どきどきするし、うっとりするし、所有したいって気持ちになるもの。 本の未来がどうなるのか、私にはわからないけど、情報で勝負するならコンピュータに負けるのだから、情緒を押さえて欲しい。 最近の本て、ベストセラーとか、「うわあ、欲しい」って思って買ってないよね。 あと、武者小路実篤がさ、 かっこいいよね。 若い頃とか、同じクラスだったら惚れてたね。 で、年取ったら、太ってくるし、顔もかっこよくなくなってるんだけど、 80歳くらいになっても、奥さんにラブレターを書いてるんだよね。 読むと、泣きそうになる。 やっぱり、かっこいい。 それから、夏に座禅した円覚寺をちょこっと見て、渋谷に帰って来て、 マンドリンの話し合いで、ごはんを食べて、 その後、友人とお酒を飲んだ。 あと、連休で、電車などで子供をたくさん見た。 子供って鼻血出る。 可愛いよなあ。 騒いでても、腹立たないもん。 大人文化なんか気にせず、子供文化で突っ走ってくれ、大して迷惑じゃないから、お母さんも気にしないでくれ。 しつけって大事だけど、おおらかではいたいよね。
人と話す時に必要なのは、相手を思い遣る気持ち、相手を尊重する気持ち、だろう。 相手を大事な人だって思う気持ちだろう。 この世界にこの人が存在しているってことは、実は奇跡で、誰にとっても喜ばしいことのはずだ。 たとえば、どうしても自分と上手くいかない人がいたとしても、その人も誰かにとってはかげがえのない人だということを覚えているようにしたい。 そして、相手の欠点を嫌だと思わない人って大人だと思う。 誰かと話していれば、 大抵、自分と考えの合わないところ、意外な子供っぽさ、エゴがぶつかる、 といったことが出てくると思う。 それを受け止められると、大人って思う。 考えが浅いと、 「この人って、こうなんだ」 ↓ 「あんまりすきじゃない」 って、程度のことになってしまう。 でも違うと思うのだ。 人のことって、沢山の角度から見ることが出来るし、 一回何かあったからって、 「こうなんだ」 なんて、評価を決めてしまうのはもったいない、と思う。 もっと多角的に人を見たい。 そして、たとえ付き合いづらい面があったとしても、 どうすると上手く付き合えるか、知恵を絞る価値はあると思う。 乗り越えられると思う。 相手を自分に都合の良い人間のように思うのが一番いけない。 付き合いやすい人が、優しい人ってわけじゃないと思う。 相手はただ、生きているだけの人だ。 真面目に、色々傷つきながら、生きている人なのだ。 優しさを求めたり、 ちょっとした食い違いでいちいち落胆したり、 タイミングが合わないからだめだと思ったり、 そういうのって、ばかだ。 もっと鷹揚に構えたい。 人と話す時に、もう下らない冗談を言うのを止めようと思う。 もっと真っ直ぐ、人と向き合いたい。 その人が、世界にひとりしかいないってこと、そして、奇跡的に同時代に生まれて、奇跡的にこの場所で出会えたということ、 そういうことを意識出来たら、と思う。 ガラス細工に向き合うような気持ちで、人と接したい。 薄氷を踏む思いで、会話したい。 難しいことだけれど。
今、天童荒太の『永遠の仔』を読んでいるところ。 影響を受けやすい私は児童虐待について思いをめぐらせている。 まだ途中で最後どうなるのかわからないのだけど、ラストも救いはないんじゃないのかと、思われる。 だけど、ハッピーエンドじゃない小説ってなんの意味があるの? といつもながら思う。 リアルさ、心を揺らすこと、嫌悪感、確かに小説に必要なことかもしれない。 だけど、もし私が小説を書くなら、ある種のハッピーエンドには絶対しよう、と私は思う。 嘘は書いてもつまらないけれど、心に希望を抱かせない文学の意味がどうしてもわからない。 話は変わるが、この『永遠の仔』を読む前に読んでいたのは土屋賢二のエッセイだ。 お茶の水女子大の哲学の先生なのだが、ユーモアエッセイを週刊文春で連載していて、かなり面白い。 電車の中でひとり読んでにこにこ(にやにや、か)していた。 すきなのは、 「神(以下敬称略)は……」 というところなど。 神様のネタって私はすきだ。 この土屋賢二のことは、後輩のNくんに最初、本を貸してもらって知った。 関係ないけど、Nくんに前に、 「みんな、欲求だけあって、才能がないから困ってるんです。書きたいという欲求だけがあって、でも才能がないから、みんなHPに日記なんか書いたりしてるんじゃないですか。キューさんも、そうなんじゃないですか?日記を書いてウサをはらしてるんじゃないですか?」 というようなことを言われて、ショックだったことがあった。 欲求だけあって、才能がない、 それは、悲劇じゃないのか。 だけれど、文章に限らず、ほとんどのことがそうなのだ、欲求だけあって、才能がないのだ。 人生は悲劇なのだろうか? だけれど、ある種のハッピーエンドで終わりたい。
日記書くのすきだったのに、ずい分、間があいてしまいました。 これからは毎日書こうと思っているので、見捨てないように。 色々書きたいこともたまっているので、書きます。今度。 今日、渋谷駅でヨミネちゃんに偶然会った。相変わらずかわいい。バイトに行く時だったので少ししか話せなかった。
何だか、まったく、何を書いたらよいのかわからない気持ちになってしまった。 胸がいたい
今年度も終わりで気持ちを入れ替えたいところです。 昨日まで、ちょっとやることがあって、大変な感じだった。 それで、昨日は徹夜をして、昼から眠って夜起きました。今起きた。 この前、後輩のみなさんが合宿に行ったので、初めて「差し入れ」というものを送らせていただいたが、宅急便屋を出た後、ものすごく恥ずかしくなって、「送らなきゃ良かった」と思った。 何であんなの送っちゃったんだ、とか、急に思い始めて、ああ、もう、送らないかも。葉書もらって嬉しかったけど。 いつも、先輩の方々が、「何で送ってくれないの?」とか、思ってたけれど、ちょっとわかったかも。 恥ずかしいから、では? 最近、恥の感覚が薄れていたな、と思って、もっと恥に敏感になろうと思う。 大体、こんなHP作っていること自体、恥ずかしい。 日記にも色々恥ずかしいことを書いてしまった、と思う。 生きていること自体、恥ずかしい。 何をするのも恥ずかしいように思う。 ああ、やだ、やだ。
いや。 桜は目がやばくなりますね。 慣れ切ってる道で迷いました。 桜のせい。 あと、渋谷の不思議。 新南口の近くに、ガラス張りのギャラリーのようなものがあるんですけど、いつも外国人が床に座ってこっちを見てるんですが、なんなんでしょうか。なぞ。 この前は、その外国人、床に寝転がって、赤ワインを飲んでいました。昼間から。 あと、渋谷といえば、手相を勉強している人多すぎ。 みんな、勉強しすぎ。
オレは、自分とも周りとも折り合いがつかなくて、ぎすぎすしたり、ぎらぎらしてる人が好きだ。 何でだろう、と考えるに、上手く行ってない人というのは感受性が豊かでやさしいから、話しやすいんじゃないか、と思う。 前から、周りの人に「ちょっととっつきにくいかも」なあんて言われちゃったりしている人の方が、オレは話しやすい、と感じる事が多いな、だけど、何でだろう、と思っていたけれど、それも上記のような理由だろう。 だから、そんな人がなんだか自分や周りに馴染んできた時、なんとなく上手く行ってるように見えるようになった時、本当は喜ばしいことなんだけど、オレはちょっとがっかりしてしまう。 勝手だけど。 人って変わるよね それとも変わらなきゃならないのはオレの方なのか?
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