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| 2003年06月10日(火) |
まんけいほうとほととぎす |
眠る前一時間は本を読む。ここの所、朝四時頃にしきりとホトトギスが鳴く。「天辺(てっぺん)かけたか」と鳴くと鳥類図譜にはあるが、そう言う風にはどうしても聞こえない。。 イメージの貧困なのか、あえてその声を書くなら「キョッキョ・キョケキョ」ウグイスの鳴き声、ホーホケキョのホケキョの部分が、ホトトギスのキョケキョの部分とほぼ同じ調子。
目に青葉、山ホトトギス初鰹
大臣が万景峰号の発音で下がもつれて四苦八苦。テレビの報道アナウンサーもかんでいた。 あのね、どういう料簡かしらんがなんで日本語の漢字読みにない発音で言うの? そこまで言うのだったら、米国のAMERICAの Rは巻き舌にしてLと区別して読まなければいけない、フランスFRANCEのRものどチンコふるわせてもらおう。どうだ言えねぇだろう。マンギョンボンなんて言わなくていいのだ。我が国には我が国の読み方があって、それぞれ、アメリカ、もしくは米国、フランス、まんけいほう号で良いではないか。この時点でもうすでに対北に対して負けている。相手はにっぽん、もしくは にほんといってくれてるか?昔からイルボンと訛っているではないか。 自民党の麻生という人が朝鮮併合時代の創氏改名は、強制ではないという当たり前のことを、どこかでぶって非難され、すぐに謝った。 すぐに謝るくらいなら、言うな! どうしてちゃんと歴史的な事実を、説かないか。顔に似合わずやわな人である。多分どこかで聞き覚えた事を言ったのだろう。歴史観のない人が言うと、すぐばれる。
秦の始皇帝は、東の国にあるという不老不死の仙薬を求め、薺の国の人、方士、徐福を蓬莱の国(日本)に探しにやる。 方士とは、呪術を操る人や仙人のことで、西洋の魔女や魔男にあたる。 「史記」秦始皇本紀(BC二百十二年・二百十九年)、「漢書」伍被伝、「呉書」孫権伝に見る限り、始皇帝が全国から方士を集め、その中にいたのが徐福で、徐福は、国内で仙薬をついに見つけられず、窮して蓬莱の国にあるとでまかせ?を言って、日本に来たのだろう。不老不死の薬なんて、いくらこれがそうだと言っても、年を経るごとに容貌は変わっていく。すぐ嘘がばれる。だから徐福は日本に何千人もの人を従えて、逃げてきたのだろう。本当に見つけたところで、証明には長い時間がかかるし、もし効き目がないとなったら、すぐに殺される。なんで今更 秦に帰られようか。 かくて日本津々浦々に、徐福伝説が残った。
近年、この徐福さんの探し求めていた不老不死の薬ではないが、生き物が発見された。 世界中の温熱帯海域に当たり前にいるべにくらげ(直径1cmくらい)がそうで、その中でもイタリアのサレルノ半島沿岸産のものだけが、遺伝子プログラム解明による「不老不死」の研究材料として確認されていた。が、日本でも鹿児島水族館の近くの海で捕獲したべにくらげにも確認された。普通死んだら、動かなくなり、海底に沈み溶ける。ところが、シャーレ上で実験したところ、溶けずに底に沈んで根状に変化し、約二週間で、若い成体になる以前の「ポリープ」と同様の形態を整え、半年後も群体を形成して成長を続けているという。
死の概念は本来、一倍体細胞(バクテリア・藻類、酵母、アメーバー等の原生生物)にはない。これは無限に増え続け増殖する。 それに比して二倍体細胞(植物や動物)は、ある回数分裂して殖えると死んでしまう。「生者必滅」は二倍体細胞の生物に限られる。 ではなんで二倍体細胞は死んでしまうのか? 動物は酸素を摂取する。 酸素は細胞内のミトコンドリアでエネルギー源となる。そのとき電子が余り、活性酸素となり、この活性酸素がDNAを傷つけ、これを修復するのがSOD酵素で、傷が深すぎると治しきれずに残る。そうするとその傷ついたDNAが切断される。再生されるが、それ以上に細胞が死ぬ状態を老化という。全体におよぶと、これが(細胞)死である。
一説に徐福の求めたものは昆布とか鮑(あわび)とか言われていて、海のものには間違いなかったわけで、支那料理に海月(くらげ)は昔からある。ただいくら食っても二倍体が一倍体に先祖帰りは(人が生まれる時に細胞レベルで通ってはくるが)、出来ない。
古くはスィフトの「ガリバー旅行記」で、ガリバーが日本に来る前に立ち寄った国の不老不死の人間、手塚治虫の漫画、火の鳥中に出てくるロビタや、最近では映画のA.I.(/ARTIFICIAL INTELLIGENCE スピルバーグ)の中に永遠(不死)の概念が出てくる。人が求めて止まないものかも知れないが、やはりぞっとする。死は歴史をつくる。永遠の生が誕生したら、今度は人が自らを傷つけ、死を選ぶに違いない。永遠の生からは美も宗教も生まれない。 生者必滅会者定離、これでよいのである。
先日、久しぶりに年下の友人達と集まる事があった。彼等はいつも日本の事を憂いている。ただ憂いているだけではなくて、ちゃんと行動も伴っている。教科書を新しく作り直すという会の幹事をしている。 その一人から、ビデオを何十本か進呈するという話があり、とてもそんな数のビデオは見る時間もないので、メールで映画名を一覧にしてもらった。 その中に、「スターリングラード」があった。これは、下の淡譚(5月05日)に書いた日独が同盟関係にあった時の、ソ連側の独ソ攻防戦中の話で、実在の人物で英雄に祭り上げられた、天才狙撃兵バシリの物語りである。これを含め、数本もらったのだけれど、ここでまた情け無い病気が出た? 読んだり見たりした本や映画のタイトルをほぼ完全に忘れてしまうことだ。
今回も、戦記もの以外のもらった三本全部すでに見ていたものだった。多分題名がぼんやり頭の隅に残っているのに誘引されて、無意識に選んだにちがいない。もらって解説を読み、再生して数分で愕然としてしまうのである。 「スターリングラード」に戻る。 スターリングラードはボルガ川沿いにある都市で、ヒトラーは当時のスターリンの名を冠した都市を落とすことに威信をかけていた。独裁者と全体主義者の戦いで、映画と言えども、事実に基づいた展開は、本を読む以上にその時の兵隊の様やスターリンが主導する、共産主義の怖さが至るところに出てくる。 最前線で、一人置きに銃を渡し偶数番目の兵隊は弾丸だけを握らされ、前の兵隊が倒れたらその銃を取り、突撃する。そんな突撃だから、ドイツの強力な重火器にかなうわけがない。ほぼ突撃兵の全部がやられそうになり、不利と見た兵隊は退却しようとする。 そうしたら、ソ連兵はソ連兵に向かって機銃掃射して、只でさえ貴重な兵を殺してしまうのである。敵前逃亡は、どこの国も軍規に反し軍法会議に後かけられるが、自国兵を片端から殺してしまうのは、過去支那の南京攻防戦で、日本軍から逃げる支那兵同士でそれがあった、それを見て、日本人兵士が驚いている記録が残っている。 主人公バシリは、ドイツ軍の、狙撃兵の雄(メーニッヒ)と渡り合い、最期には勝つが、世話になっていた家の小さい息子や、友人が犠牲になる。ソ連の立場から描かれたものだけれど、この映画の優れた点は、いかに戦争が悲惨なものかという陳腐な事を言っているのではなくて、戦下に生きる人達、身近に死を見つめて生きる人達の「生」の輝きは、ある意味、平和下で、我欲の塊と化した人々より輝いているということがわかる仕掛けになっている事だ。 総入れ歯のある老狙撃兵は、まだドイツ・ソ連が同盟国だった頃、ドイツに軍事留学を命じられ留学中に、ドイツの侵攻で状況が変わる。帰ってくるとスパイ扱いされ拷問を受け、前歯を全部折ってしまったと語る。そして「騙されるんじゃない、幸せを築く社会主義の紛れもない現実さ」と言いながらも飄々としている。バシリの友人で兵隊を高揚させるための新聞を書いている友人は、ドイツ文学に興味があり、ゲーテが好きなようだった。この友人も、ドイツ狙撃兵がどこにいるかバシリにわからせるために、犠牲になる。世話になっている家の、父のない子供は、敵兵と懇意になり情報を取ってくる。それはやがて発覚し、殺される。 こういう事は、どこの国の戦争下に置いても起こりうることである。ただ、共産主義やファシズムの下の戦争、すなわち道徳(人間性)を欠いた戦いというのは、人にとってまったく不毛なものだと言える。 米国が一人の傷ついた兵士を助ける事に全力を尽くす事が、映画(プライベート・ライアンやブラックホークダウン他)などでいろいろ作るられるのも、戦っているのは日々地味に暮らし、事あって志願した人々、徴兵された人々が、基本となって国が成り立っているという事を示す(忘れない)ためでもある。イラクでの救出劇の映画化も同じである。
自国の兵に自国の軍が武器を向けるような体制は、遠からず崩壊するだろう。では他(国人)ならいいのかということになるが、それが健全な精神だろう、ゆえに健全というのはいやなものだと、山本夏彦はいっている
相撲が好きで毎日見ている。夢は枡席で、枡席の客についてくる、お楽しみ袋の中に入っている焼き鳥と、持参の銘酒でいっぱいやりながら、観戦することである。金さえ払えばできるぢぁないかと言いなさんな。 見る側にも格がいるのである。相撲は単なる格闘技ではない。背後に日本の歴史を背負っている。こちらも、自分に、それ相応にふさわしい容貌と迫力が出たと見たら直ちに実行する。若造に見えてしまう自分が枡席なぞ百年早い(と思っている)。 なにせ最近の高画質のテレビは、観客の顔の表情、立ち居振る舞いの全部が見えてしまうのである。 中にほれぼれする貫禄のある中年紳士初老紳士、あでやかな着物姿の夫人がいる、外国人がいる。 時には天皇が御観戦される。世界中探したってこういう興業はない。
昨日もBSで太い方バージョン(なぜかBS1とBS2では、同じカメラだと思われるのに、片チャンネルは太めに、もう一方はほっそり写るのだ。だから綺麗なお姉さんがニュースを読み上げるときには、ほっそりバージョンで見てあげている)で、横綱朝青龍(あさしょうりゅう)と同郷の旭鷲山(きょくしゅうざん)との取り組みを見て非常に不愉快になった。 朝青龍がはたき込まれて旭鷲山が勝った、その直後の横綱の態度である。旭鷲山側の土俵にうつ伏せに倒れて起きあがり、自分の陣に帰るときに、旭鷲山と肩が触れた。 そしたら振り返って、怒りをあらわにし、町のちんぴらのように、眼を飛ばし睨み付け、さがりで旭鷲山をはたいた。まるで喧嘩である。ボクシングの試合には時々ある。相撲には絶えてなかった。 本当に不愉快であった。かって貴の花が満身創痍で、武蔵丸に勝ったとき、唯一「よし!」というすごい形相をしたのが印象に残るくらい、横綱が表情を露わにするのはめずらしく、又はしてはならないとされている。この場合は自分に対しての気合いであると、見ていて、武蔵丸に対して行ったものではないと誰の目にも明かであった。 が、この度、負けた相手に目で威嚇するなぞ、もうそれだけで横綱失格である。本来、横綱は名誉職で、相撲取りの最高位は「大関」でお仕舞い。そこが終着点であった。それでもなを、心・技・体に優れた人を「横綱」としたのだ。外国の格闘技にみる、ただ強ければチャンピオンという訳にはいかなかった。 昨日の取り組み前にも、これまた同郷の力士を押し出した後、勝ちが明らかなのに、土俵下で突き飛ばすと言う行為に出て、後であやまったりしている。 旭鷲山もかって、勝敗が決して土俵際で負け力士が力を抜いているのに、土俵下に突き飛ばしている行為を何度も見た。その旭鷲山が今は「人前でああいう行為はやっちゃいけないね」といっている。 この人は往年の力はすでにないが、相撲がわかっている立派な力士である。朝青龍の師匠が「人間的にまだまだ…」とテレビで言っているのを聞いて、始め謙遜で言っているのかと思っていたら、本当のことを言っていたのだと今になってわかった。 今までの横綱の中で、最も相応しくない横綱である。力士は、相撲学校に通い、基礎を勉強する。なぜ相撲学校で教えないのだろう。
| 2003年05月05日(月) |
04月20日(日) 高貴について質問あり |
高校時代の同級生、今は徳島のA高専の先生をしている友人から四月二十日の文中の一箇所について質問メールがあった。問題の箇所は、 「敗戦の年一月に米国に「「降参する」」意思を文章で問うたが突き返され、その夏に原爆が落とされる、そして敗戦降伏の日を迎えた。」という所。 初耳だというわけである。コラムやエッセイは短ければそれに越したことは無いと思い、極力削って書いている。 細かい事共ははしょり大筋で書く、で、言葉が足りないところも出てくる。
手元のコンピュータや本に、資料があるときは直ちに示せるけれど、無い場合は、記憶に頼って書いている。そこでいい機会だから、あっちこっち調べたけれど、元のねた本がわからない。しかし、ノートが出てきたのでやや詳しく書いておきます。
敗戦の一月に、一度に事がなされたのではなく、続く、敗戦決定3ヶ月前にも、日ソ中立条約を結んでいるソ連を通じて米国に平和停戦、平和交渉を依頼している最中に 、米国は広島、長崎に原爆を落とした。 それから数日後、ソ連は日ソ中立条約を破って、突如満州へ侵略した。ソ連がヒトラーに追いつめられて危ない時、ヒトラーは、ソ連を背後から衝くように日本に頼んだ。しかし日本は日ソ中立条約を守って攻めなかった。 にもかかわらず、さらにソ連はΓポツダム宣言に違反して、日本人50数万人を俘虜として抑留した。抑留者(実際上の強制連行)に徹底した思想教育をほどこし、最後には「天皇島敵前上陸」まで「敢行」させた。 長い人は10年にわたって奴隷労働を強制され、栄養失調その他による死亡者は7万人にもおよぶ。終戦時、蒋介石は在支那邦人軍人200万人もの日本人を無償で帰してくれたが、ソ連が侵略した満州が大混乱となり、残留孤児がたくさんできた。 以上の内容が以下の本のどれかに書かれていると思う。 「大東亜戦争はなぜ起こったか 」 中村粲 日本政策研究センター事業部 「大東亜戦争への道」 中村粲 展転社 「 真説・南京攻防戦 」 前川三郎 近代文藝社 「検証・従軍慰安婦■従軍慰安婦問題入門■」 上杉千年 全貌社 「明らかにされた神武以前 」 山本健造 福来出版 「日本起源の謎を解く」 山本健造 「パール博士の日本無罪論 」 田中正明 慧文社 「 南京事件の総括 」 田中正明 謙光社 友人Oは、淡譚をすべて、さかのぼって読んでくれているらしい。とても嬉しい。これからも忌憚なき疑問・意見をよせてください。
最近、コマーシャルなどで目のくりっとした、東京大学出だかのタレントをよく見る。聞けば、きっかわ れい(菊川怜)というらしい。この人の名前を聞くたびに、東京で下宿していた頃のことを思い出す。
昔、吉川霊華(きっかわ・れいか 明治八年(1875)-昭和四年(1929))という日本画家がいた。今日ほとんど忘れられた。 明治三十四年(1901)に、烏合会(うごうかい)という美術団体が出来る。江戸の文化を好み、浮世絵の伝統を生かした新しい風俗画を創作せんとして、鏑木(かぶらぎ)清方らが言い出しっぺで後、吉川霊華も参加した。今名前が残っているのは鏑木清方くらいなものだろう。この後、 美術雑誌『中央美術』の経営者であった田口掬汀が幹事となり、文展作家として声価の高かった結城素明、鏑木清方、平福百穂、松岡映丘に、野にいて奔放な画風の作家吉川霊華達が「金鈴(冷ではありません)社」を作った。 金鈴社は個人の自由な発表の場を持とうとするもので、反文展の立場ではなく、良識派の結社であった。 その中の吉川霊華は、文人画を基本とした。
昔々、田舎から東京に出るに当たって、下宿が探せなかった。人伝に、N 航空に勤める先輩が下宿している所に六畳間があると聞き、転がり込んだ。 偶然そこが、先に書いた吉川霊華の未亡人が住む家の離れだった。当時(1970頃)未亡人は、八十過ぎていたと思う。たん譚の事を呼ぶとき「書生さん」と呼んだ。この時世間で「書生」と言う言葉はすでに死語であった。ちゃきちゃきの江戸弁であった。 猫五六匹とお孫さんがいそうな、現役の看護婦さんをしている人と二人で母屋に住んでいた。
たん譚達は、離れの二階に住まいしていた。時折下から「書生さーん、一服いかがぁ」と声がかかる。母屋で開かれる茶会に、独自の茶の流派を立てていてお弟子さんが集まるところに、時折呼んでくれた。 時に「書生さん、猫になまり(半生のかつお節のようなもの)をかってきてちょうだいな」と用を頼まれる事もあった。 猫が風邪をひいてその猫を抱いて、蒲田の動物病院までタキシーに乗りお供したこともあった(この時、鼻先で猫にくしゃみされて、風邪と蚤をうつされ次の日から猫んだ)。 学校へはほとんど行かず、下宿で、本ばっかり読んでいたからよく声がかかった。テレビは持っていなかった。当時学生でテレビを持っていなかったのはめづらしい部類だろう。テレビを初めて正式に持ったのは京都に来て、今の伴侶と一緒に住み始めた、二十八歳くらいの時で、小さい白黒テレビだった。だから、十八から二十八位までの約十年間の相撲の横綱、タレントの名前、野球で活躍した人、今でもほとんど何にも知らない浦島太郎状態である。 下宿の下階は物置で、ものを探すのを手伝った事がある。その時に、霊華が芸者らしき三人と仲良く写っている写真を見つけた。未亡人に見せると、「ああ、深川かなにかの芸者でしょ」ときっぱりといった。田舎者にとって、随分男らしい?気っ風を感じてとても新鮮であった。 京都に移ってから十年後位に、今度は弟の下宿探しの折り、再び田園都市線、自由が丘から二つ大井町方面、北千束(きたせんぞく)の吉川宅を訪れたとき まだご存命だった。今もしご存命だったら百十をこえる。
菊川れいの名を聞くたびに懐かしくあの下宿を、昭和にいて明治を感じたことを、思い出すのである。
吉川霊華 _きっかわ れいか 作品収蔵先 『 聖徳太子像 』 1910 (M43) 五島美術館 『 孔雀秋草 』 1914 (T03) 講談社野間記念館 『 寿星 』 1919 (T08) 松岡美術館 『 魏伯陽図 』 1918-9 (T07-8)頃 永青文庫 『 羽衣翔飜 』 1923 (T12) 東京国立近代美術館 『 浄名居士 』 1923 (T12) 講談社野間記念館 『 瑞彩 』梅薫る夕 1924 (T13) 宮内庁三の丸尚蔵館 『 不盡神霊 』 1927 (S02) 高崎タワー美術館 『 列子御風 』 1928 (S03) 東京都現代美術 『 羅浮僊女 』 1928 (S03) 埼玉県立近代美術館 『 子の日図 』 不明 静嘉堂文庫美術館 『 役小角 』 不明 東京国立近代美術館 『 林和靖 』 不明 五島美術館
あお〜♪げばぁ、とお〜とし和菓子のあん、じゃなかった、我が師の恩〜♪で始まる、今はどうか知らないけれど、昔卒業式で唱った、あの唄の歌詞中、「今こそわかぁれめぇ〜♪ いざ〜さらぁ〜ばぁ」の部分。これ意味どう思ってましたか?たん譚はずっと、「いまこそ、わかれ目(すなわち別れの時だ!)いざ、さらばぢぁ!」と疑いもせず、齢を重ねて参りもうした。
ところがこれは、吉田兼好の「徒然草」の「あやしうこそものぐるほしけれ」とおなじく「かかり結び」なのだそうだ。「今別れむ」にこそを入れて強調すると、 「今こそ、別れめ」なのだ。辞書(新明解国語辞典)も、かって間違って載せてたらしい(最新版は訂正されている)。知らなんだ!
大東亜戦争(米国側の呼称は太平洋戦争)期、日本に大使(昭和18年頃)として駐在したフランスの大詩人ポール・クローデル は、親友のやはり大詩人のポール・ヴァレリーに「私が滅びないように願う一つの民族がある。それは日本民族(ママ)だ、これほど注目すべき太古からの文明を持てる民族を他に知らない。・・・彼らは貧乏だ。しかし高貴だ。」といって日本を擁護してくれた。
が、その二年後、米国は、北海道から順々に、絨毯爆撃という方法で我が民族を根絶しようという暴挙に出た。やがて敗戦の年一月に米国に「降参する」意思を文章で問うたが突き返され、その夏に原爆が落とされる、そして敗戦降伏の日を迎えた。 マッカーサーが日本本土に来てみれば、日本人の意気は少しも衰えておらず、驚愕して、皇室を潰すととんでもない事態になると悟り、それを残すこととし、日本は無条件ではなく、「条件付き」降伏ということになり、敗戦が決定する。 戦後のどさくさにも、略奪・暴行などは起こらず、逆に、米国占領軍の「女」要求に、プロの娼婦を頼んで、一般の婦女子を守った。負けても、自国の国民を守る気概は最後まであった。
翻って今はどうだろう、国連についに、家族を拉致された人たちが、政府に失望し自ら壇上に立ち意見を述べに行くという。こんな国(政府)に、もうかっての クローデルのように擁護してくれる人は出て来ないだろう。「貧乏」はなくなった。が、高貴という言葉も一緒になくしてしまった。
| 2003年04月18日(金) |
国連に集う烏合の衆(国) |
やっぱりというのか、国連が、日本人拉致の解決要求決議を採択したが、なんと韓国は棄権。解決しなくても良いと反対!した国々がある。 反対した国々は、やはり前にも書いた中国、ロシアを筆頭に、マレーシア、アルジェリア、キューバ、リビア、スーダン、シリア、ベトナム、ジンバブエ。
これらの国は明確に「反対」したのだから、人をかっさらって閉じこめ、その「人権」を否定してもかまわないと認めた事になる。
白髪三千丈の支那。かっての超大国で、今はその過去の威光で国運営、もう10年以上チェチェン(イラク面積の1/30)と戦って疲れ、これ以上身近なところに米国に来て欲しくないロシア。この二つの国の厚顔無恥。日本からの長年に渡る援助なんか屁とも思っていない。やるというのだから、もらってやっているというのが支那である。キューバから人がどんどん逃げ出しているのもこれでわかった。
よーく覚えておこう。恩義とか何とかは通用しない。国連(→過去2003年03月16日(日) 国連てなんだ?)は解散。
| 2003年04月12日(土) |
ミルクかスープか?煙草である! |
少し前、犬ワン(ケンワン、仮名)が主催するミルク(仮名)とソップ(仮名)の試合を見た。試合はあっけなく眼底骨折だかで、ミルク(仮名)の勝ちとなった。 ミルク(仮名)は、たん譚がよく行く京都の日本料理屋に、犬ワン(仮名)の今は塀の中の社長と来たことがあって、そこで、ミルク(仮名)は極上の程良く焼かれた肉をもっと良く焼けと、一キロの肉を八百グラムに、脂が抜けてカスカスになるまで焼かせ、ばくばく食って帰って行ったという。化け物ですな。そんなに肉くいたきゃ焼肉屋に行きなさい。
それはさておき、二人は強いと思うが、もっと体が小さくて、強い奴?がいる。 煙草である。 別に喫煙して、それで肺ガンになってという陳腐をいうつもりはありません。たばこ一本が何グラムあるのか知らないけれど、この一本の煙草がミルク(仮名)もソップ(仮名)も一瞬にして倒すどころか、殺してしまえる。
もう何年前になるか、NHKの番組で車がコンクリート塀に激突した時の、衝撃度実験をしていた。ダミーを乗せて、時速六十キロで壁と激突させる。 研究員が冗談で、ダミーの口に銜(くわ)へさせていたその煙草が、なんとフロントガラスに突き刺さっていたのだ。フロントガラスは傾斜がある、にもかかわらず! 格闘技での突きの力は、打撃に使う部位の質量(重さに非ず)×移動量?×スピードとなって理屈はつくらしいが、どうだろう。
昔、空手を始めたきっかけとなった漫画の中に、中国人の李青龍と言う武人がでてきて、この人が湯飲み茶碗(鮨屋にある)を、最初、人指し指の先でコツコツとたたき、やがて気合いと共に指で湯飲みを突き通してしまう。 こんな場面になると、普通関西ではほぼ全員が「ンな!アホなァ」と声をあげて、漫画だと我に返るのである。 ところが、先の番組を見てから、中に骨のない煙草がどういう具合か時速六十キロで飛んで、堅いフロントガラスに穴を開ける、ならば骨のある指が磁器(ガラス質)と違って陶器(土質)ならそう言う事も可能かも知れないと思い始めた。 この頃から、只単に大きくて重い重量級だけが最強とは単純に思えなくなった。日本には九十何歳の老人(腕相撲協会の会長)が現役のプロレスラーと腕相撲して互角だった(最期は負けてしまったが)り、辰吉と名勝負した薬師寺を相手にした古武術の爺さんは、薬師寺が繰り出すパンチをひょいひょいよけてついに当てさせなかった。 これがきっかけで古武術の本を読むようになり、ここから上の話題とははずれるが、「足の運び(歩く)」と言う事に興味をもった。
明治初期に日本に来ていた、建築家のブルーノタウトが、「日本人は歩くときに手をふらない」と驚いている。背筋を伸ばした姿勢で、踵(かかと)から着地して歩くというのは西洋の作法である、植民地先のアフリカの黒人が水瓶を頭に乗せて、歩くのを見て、国に帰って本を頭に載せてまねっこした。それを日本人が真似た。決して日本人本来の歩き方ではなかった。日本人は駱駝(らくだ)と同じ並足歩行だった。昔の絵巻などにも手足を交叉させて歩く人の姿はない。
着物のご婦人はしずしず歩く。この時、足と反対の側の手を振り出すことは不自然である。 江戸の頃に、今の徒競走のように走れたのは猟師・飛脚・忍者くらいだったという。百姓は一生走ることはなかった。だから百姓一揆において、わーっと走るの図はありえないのだそうだ。 今の武道には、まだ片鱗が残っていて、順突き・逆突きの、順突きがそうで、踏み込んだ足の方の手で突くのが、順なのだ。相撲の稽古でもよく見ていると、出た足の方の手が一緒に出ている。 我らは、知らぬ間に西洋化教育をされ、西洋の目でものを見、基準にしている自分を見て、愕然とするのである。余談だが、日本人として、西洋を見た最後の人と言われている夏目漱石は、洋服を着てどう歩いていたのかとても興味がある。
蛇足:「武」の語源は「第一歩」の意味がある。「歩」も「武」も漢字中に「止」が入っているので親戚なのだ。「足」も同じ。
参考文献:古武術の発見 養老孟司・甲野善紀 古武術からの発想 甲野善紀
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