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| 2002年12月09日(月) |
食べて極楽、見て地獄 -上- |
今回の旅は最初から不運続きで、ことごとくがうまく行かなかった。日本が大変な時に旅行なんぞして罰が当たったのかも知れない。 出発前夜に確かめて置いた山用のがっちりした高度計・気圧計・電磁方位計のついた、旅には絶対必要な時計の太いベルトが、空港の待合いで突然切れた! おおよそ切れるようなやわなものではない。幅は2.5cmある。それが突然切れた。合成樹脂製のもので購入してから5.6年経っている。 「験(げん)が悪い」 それから起こったことごとくが、予定外のことであった。早い時間に空港に着いていたが、大型カメラの三脚が、チェックイン時には通ったのに、機内持ち込み検査時に引っかかり、最後の客になってしまい、係員同志が揉めたあげく、ようやく荷物扱いになった時間にはもう搭乗ぎりぎりで、おもいきり搭乗口まで二人して走らされた。これがケチの付き始め。 巴里でマルセイユ行きに乗り換えた。この時巴里の夜景は本当に綺麗だったのだが、夜九時にマルセイユに着いたときにはそぼ降る雨、強い風をともなった中でレンタカーを駆って目的地に着くのに小一時間を要した。以後天候不順が続くことになる。何のために行ったのか全然分からない。予約せずとも借りられた筈のジットは満杯。仕方なくホテル暮らしとなる。
晴れた日はわずかに一日、後はほとんど曇天か時雨。スペインに低気圧が停滞、とのニュース。この地域には非常にめずらしい異常気象だそうであった。そういえばついこの間も、アビニョン近くの村が洪水になって村が流されたと、BSニュースのフランス2で言っていた。今回の滞在中いつもの写真の撮影数のほぼ三分の一、それも一日だけの限られた日だけで、この旅は半ば失敗であった。後に切れた反対側のベルトも切れてしまった。
それでも最後の巴里の美味い晩飯を期待して、マルセイユ空港を後にして巴里に入った。 ところが、日本で手配して支払いも済ませてあったさるホテルについてみると、キャンセルされていたというよりも、二台のコンピュータがクラッシュしてデータが消えてしまったとの事(ンなあほな!)、担当のお姉さんは平謝り、クレーム・ド・ミュールの小瓶をプレゼントしてくれ、ホテルロビーのカウンターバーから飲み物を出してくれて、その間に換わりのホテルとタクシーを手配はしてくれた。もちろん全部ホテル持ちである。
この日はレストラン・アルページュに、八時から予約を入れてある。もう五時近く、これから急いで風呂に入り支度を整えジャケットに着替えて用意をしないといけない。雨が再び降り始め、雨期鬱症の身としては、はなはだ不愉快である。手配されたホテルはさすがに格落ちの感がして、頼んだタクシーの手配もようしないようで、ついに歩いて行くことになった。この時不愉快指数は100%になっていた。 幸いこの界隈は学校に通っていたとき、アパートがあった近くだったので、土地勘があり雨の中をひたすら磁石とミシュランの地図を頼りに歩き、数十分遅れてようやく目的のレストランにたどり着いた。
| 2002年12月08日(日) |
食べて極楽、見て地獄 -下- |
上から読んで下さい。 +++ さて料理店は、薄暗く車通りもあまりないヴァレンヌ通りとブルゴーニュ通りの角近くにあり、通り過ぎてしまうくらい地味な入り口が通りに面してある。ようやくついた安堵感とキャンセルされてやしないかとの心配を胸に、扉を開けると、中は「はれ」の世界、フォークナイフの皿に触れる音が、耳に心地よい。急激に空腹感を覚えた。タクシーの手配がままならなく大幅に遅れてしまったことを言い、案内されるままに席についた。一通り周りを見回すと、案の定 日本人カップルが一組いた。 テーブルの上には燭台に一本の蝋燭だけで、とても暗く、室内の照明も暗く感じた。少し落ち着いて、食前酒は止めて、ペリエを頼み差し出されたメニューに目を通そうとして気がついた。 メニューの字が読めない!意味を汲み取れないと言うのではなくて、字が見えない。最近つとに視力が落ちている上に、ここは異常に暗い。字体も消え入るような細いフランス体。「ううむ!」矯めつ眇めつ凝視するも只の糸線のように見える。 相棒は困り果て、一度席を立ち、眼鏡を取りに行く。それでもなをメニューは、絶望的に見にくく困り果ててている所に、長身のハンサムな給仕人が登場。 「今晩は」 これくらいなら今のフランス人は知っている。その後が驚愕した。 「どうしましたか?」 「目が最近悪くて字が見えない」 「そうですか?では日本語で説明いたしましょうか?」 「そりゃ日本人だから(特にレストランのメニュー書きなんぞ、印象的表現を使った物が多いので訳がわからないものが結構ある)日本語で説明してもらった方が幸せに決まっている」
さぁ、それから、ハンサムな給仕人氏、メニューの頭、前菜から立て板に水で、フランス語を読んで日本語にし、その素材と説明。あっけに取られている内にはや主菜の説明、ここでハンサム氏、 「この料理は雉です!?あのすいません、雉ってフランス語で何でしたっけ?」 「雉はフィザンでしょ」と、たん譚、なんだか日本人フランス人がでんぐり返ってしまって大笑い。 そうしている内に、見習いくんのような若者が、日本語で 「突き出しでございます」 といってフランスならアミューズブーシュと言うところを、日本語に置き換えて言った。天晴れである。日本の日本料理屋で、果たしてフランスの客人を迎えてこれが出来るところがあるだろうか? 徳島のお茶人などが使う料亭「青柳」の経営する「婆娑羅」に、フランス語が堪能な板前がいる。もっともこの人は、来年巴里にここの支店を出すのでそれの店長になる人のようだから目はフランスに向いている。 本当のサービスとは相手(客)を心地よい状態にする事だろう。日本のフランス料理屋なんか逆を行っているのではないか?ほとんど普通の日本人が読めないのに、フランス語で書いたりしている。
さて流れるようなメニュー説明が終わった。今回の目的地でもあった、マルセルパニョルの自伝的小説「父の栄光」の中に出てくる地で、休暇中にビギナーズラックで打ち落とした野生の鶉(うずら)それも滅多にお目にかかれない倍以上の大きさがあるパンタビルという幻の鶉を食べたかったが、さすがにそれは無いようであった。仕方ないので従来の野生の鶉を注文した。 後、すぐにうやうやしくワインのリストを少しこれも若い給仕人が持ってきたが、暗いのと目が悪いのでぼんやりとしか見えない。その時に、耳元で「旦那、いい娘がいやすぜ(彼はフランス語と英語のちゃんぽん)」とソムリエ氏が囁いた。 こちらも予算があるので、それはどこの産で何なの?と聞いたら、 「スペインの1981リオハで素晴らしいのがある、それでどうだ」 へぇ!誇り高き三つ星のフランス料理屋がスペインワイン?? 巴里のアラン・デュカスが作った料理屋「スプーン」みたいだなぁと思いながら、それでもいいかとまかせたら、ソムリエ氏すぐに戻ってきて、もう出てしまったのだと言う。 「それでは1982サンジュリアン村のデュークル・ボカイユはどうだ? これは素晴らしい!値段は700〜800(ここは英語だった)ムニャムニャ…」 頭でとっさに計算して納得してそれにしてもらった。出てきたワインを試飲する。良いワインだけれど、香りに乏しく、何だかまだ堅い。 この旅行の出発日の前夜、家にて偶然同じサンジュリアンのワインを飲んでいて、1999にも関わらず、すでに澱があり、特徴ある香りと味わいがあった。それにくらべても今ひとつだったので、感想を聞かれたときも、「まぁ普通」と答えた。正直もっと良いのにすればよかったとその時思ったのであった。 楽しく晩餐の時は過ぎ、夜11時過ぎには遅れてやってきた客がテーブルを埋め満席となっていた。デザートが終わる頃には夜中十二時を過ぎていた。日本で有名なフランス料理屋を訪ねると大抵早い内に客がひけて、10時過ぎるとまず貸し切り状態になる。食後の会話が多分ない。
さて支払いである。請求書がやってきた。ぱぱっと見て、相棒に渡した。が、何だか伴侶の顔が引きつっている。 「どうした?」 「ワインの値段のところ見て」 「ううん…、どれどれ」 確かめたがどういうことはないように思えたが再度他の値段と比べてみたら何だか変だ。そこで初めてこの請求書はすべてユーロで書かれているということが分かった。 相棒の目が点になっている理由がわかった。ワインの相談の時、ソムリエ氏が耳元で囁いた「7〜8ハンドレッド」はフランではなくユーロであった。 この額は、この店でしばらく下働きさせてもらえれば、払えない額ではない。それに勘違いといえども了解して飲んでしまったのだから、支払うのは当然である。 悲しかったのは、旅前日に飲んだ同じ村の5000円くらいのワインの方が遙かに飲み頃で美味かったという事実であった。パーカという人が100点付けようがどうしようがこのワインの開花時期が2010年位がピークだと後に知ってそちらの事の方にがっくりした。で、悪夢の会計は全部で一晩約1800ユーロ(内、ワインが約900ユーロ)であった。 下品になるから日本円では書かない。 それにしても、空港で時計のベルトが切れたときから、ろくな事がなかった。不幸中の幸いは飛行機が落ちもせず無事帰還できたという事。ということで無事返って参りました。
追記 以前フランス人は、ほや(老海鼠)は食べないだろうと書きましたが、何か日本の市場に売っている物とは形が崩れてほど遠い物だったが、スーパーマルシェの魚売り場にありました。あれは確かに「ほや」でした。売られていました。「海の無花果(イチジク)」というのだそうな。どうやって食ってるのだろう??
明日から南仏に行きます。昔西ヨーロッパは多く森林地帯だった。今は見る影もないが、ヨーロッパの石作りの建築はあれはもともと木を模倣したものだそうで、柱その他はその名残だそうだ(国民の芸術-田中英道ー)。 マルセイユから西に車で一時間の所にピロン山というのがあって、そこの山塊には、北方にしか生えていないような樹木も混生してるようで、めずらしい生態系がありそこを訪ねる。
マルセイユ、エクサンプロヴァンスはテロが割とあるようだが、なーに!巴里の北駅で、ロッカー爆弾テロがあったその時も、荷物を預けていて、しばらく入る事が出来なかった事があるし、イギリスのヒースロー空港で待っていたとき、すぐ近くのロビーで爆発音を聞いたこともある。スペインのアトーチャ駅に行ったときは、ロッカーテロの影響で全面閉鎖で往生扱いた。根性は座っている。 よって、気を付けつつも、びびって行くことをやめるというような事はなく、つつがなく行ってきたい。
もう一つ、途中オーバーニュと言うところがある。 オーバーニュには伝統ある外人部隊の駐留地があるところで、ナポレオンが戦争に国民動員を発明するまで、田んぼ耕している百姓のすぐ横で、他国と戦争は日常茶飯であった。それは主に雇われ兵士の仕事だった。民には関係のないことだった。ナポレオンは国民の愛国心に訴え、やがて自国は自国民が守るという事になっていく。それまでは傭兵制度であった。 外人部隊の功績は大きい。フランスも救うが、外国も助ける。確か過去日本人が二人くらいいた。今はわからない。 その近くに、カモワン・レ・バンという温泉地があって、今のところここを基点にして景色を探そう思っている。温泉は断じて裸で入りたい…が、怒られるかも知れない。海水パンツで温泉入ってどうするんだ!
| 2002年11月20日(水) |
キャパにはなれない。 |
いつものように、世間から言うと常識はずれの午前四時頃、風呂に入っていると何だかきな臭い。気になりながらも風呂から上がり、出たところで、消防のけたたましいサイレン、丁度一年前まったく似たような時刻に町内で火事があり、外に飛び出て、消火に駆けつけた事を思いだし、あわてて裏庭から外を見たら、以前より身近な場所、北側に火の手が上がり、火の粉が夜明け前の夜空に舞っている。半分濡れたままの身体に、衣服をつけ飛び出していった。 野次馬で飛び出したのではない。この辺は古い木造建築の民家、禅寺永観堂などがあり、火が移ると大変な事になる、今住んでいる家もアルミサッシなどない木造の家で、火が移るとひとたまりもない。 そういう事から人事ではないのだ。駆けつけると、すでに消防車が来ており、消火の最中であった。
前から短編映画を撮りたいとずっと思っていて、ようやくビデオカメラが手に入ったばっかりだったので、これを機会に、ドキュメンタリー風に撮ってみようと思い、用意して現場に戻った。手際の良い消防士、燃え上がる家屋と撮りながら、この辺でズーム、ここで場面変換のための切り替えなどと思いながら撮していたが、途中で嫌悪感を催して撮るのをやめてしまった。 プロの報道カメラマンは、横でばしゃばしゃ写真を撮っている。それがどうしても出来なかった。中に老夫婦の一人がいて絶望的な状態である。 素人の自分にはどうしても平静な状態でカメラは回せなかった。なんかとても後ろめたい気がした。 結局、燃えるのが一段落して、近所にこれ以上の事がないのを見届けて帰ってきた。北二三軒おいた家の失火であった。この一年で同じ町内で火事が三軒あった。この前は親子三人が焼死し、もう一つは若王子神社の上の山中、そして今回、上に寝ていた老夫婦の奥さんが亡くなった。
人が撃たれて倒れる瞬間を撮った(最近やらせの疑いが出ている位、偶然にしてもあまりにも上手く撮れている)、ロバート・キャパや、ベトナムで焼け出されて、真裸で道を逃げてくる少女を撮った写真家がいるが、戦争している最中にカメラを戦地に持って入って、人の修羅場を撮るという行為は、到底真似が出来ない。感情の方が表に出てしまって、撮ることが出来ないタイプの人間だと、いい歳して初めて自分の事が分かった気がした。
| 2002年11月16日(土) |
臭感金様媚(しゅうかんきんようび) |
反日雑誌である。編集委員を見ても分かるように週刊金曜日(編集委員、落合恵子・佐高 信・椎名 誠・筑紫哲也・本多勝一)問題多き雑誌である。
この中で、友人(写真家、岡田昇)が北アルプスで去年遭難し、今だどこかに埋まっているので、可哀相だから椎名誠はせめない。だが、編集委員に、あの南京大虐殺を、本当のところは多分無かったと知っていたに違いない、当時朝日新聞の記者だった本多勝一がいる。 この人は、 講談社文庫版『アラビア遊牧民』には「本多勝一 1933年長野県生まれ。京大農林生物学科卒」と書き、梅棹忠夫・責任編集『現代の冒険1 砂漠と密林を越えて』(文藝春秋)には、「本多勝一(ほんだ・かついち)1933年(昭和8年)長野県に生れる。千葉大学薬学部を経、59年京都大学農学部を中退。」と平気で書いて何とも思わない人である。 他著書内経歴も、生まれ年の幅が2〜3年の食い違いがある。
その他、中国の文革やベトナムについても、前言を勝手に翻し、書き換えて平気な人でもある。今はどうだか知らないが、確か誰かに訴えられて、裁判で係争中の事が二つ三つあったはずである。南京大虐殺を当の中国の宣伝材料にしてしまった張本人といっても良い。問いつめられると、中国民が言ったことをそのまま書いただけで、責任はないという、記者の風上にも置けぬ奴である、裏をとらないのなら朝鮮労働党の新聞記者と同じではないか! 佐高信、企業内の幇間記事雑誌を書いていたようで、あの辻元清美に、援助?金を出して応援していた人である。この人、企業内の重要人物に取材して、伝を持つとたちまち批判していた人でも、評価が変わる。確か評論家の江藤淳(あの長野県知事田中康夫を世に出した人)にあった後も、君子豹変した。
筑紫哲也 この人も朝日新聞出身の言いっぱなしの達人である。言いっぱなしの達人はなぜかニュースキャスター(例:久米宏)になりたがる。読んでもいない(話からわかる)新しい歴史教科書を非難し、まともに名指しで論争を挑まれると、知らぬ存ぜぬで、頭から無視して平気な人物。石原慎太郎との直接対談の折り、一度は外国に逃げ出し、対談実現の際には、その後ろめたさと劣等感が画面に出ていた。卑怯を絵に描いたような人物。そういう人達によって作られている雑誌だ。
形を変えて、相変わらず国を売っていることには変わりがない。
10/30の題字 夭折→夭逝でした。
世間が平穏でない中、今月24日から南仏に行く。行くと言っても、車でひたすら人のいない山中をうろうろして、ひがな冬の光線を求めて、走る。それだけ。 そう言う中で唯一の楽しみは食べることになる。旅の最終日は一端巴里に出て、晩飯を食べることにした。 そこでミシュランガイドの公式頁につないでみたら、あれれ、巴里市内の三つ星(***)がなんと九店になっていた。 Ledoyen, Lucas Carton, Plaza Athene , Taillevent, Arpege ,Grand Vefour , Guy Savoy , Ambroisie , Pierre Gagnaire これはちょっと多すぎやしないか?ちょっと前までは多くて5.6軒であった。
中にはグランベフールのようにシェフが変わり、返り咲いた店もある。返り咲くのは至難の技で普通はあまりないことだ。サンテチエンヌにあった、ピエール・ガニエールは上京し、三つ星を取った。最初、タイユバンに行こうと思い、Eーメイルを書いた。便利になったもので、1年前くらいまではすべて予約は FAXでしていた。ファクスの転送速度がフランスは何だか遅く、KDDに支払う料金は馬鹿にならなかった。それも取れたらいいのだが、断りのFAXもこっち払いに設定して送信するから、大層な出費になっていた。 ところが今年当たりから、ホテルもレストランもこぞってメールアドレスを住所の前に載せ始めたのだ。これは便利だ。さっそくタイユバンに送ったら、やっぱり!断られてしまった。しかし断る文がしゃれている。
「夜は満員(普通三つ星のレストランを一ヶ月前後にとるのは無謀である)です、しかしあなたは慣れてらっしゃるようだから、観光客の集まる夜より、パリジャンが多く集うお昼が良いと存じます。お昼ならお好きな時間を仰せつけ下さい、ご用意いたします」 てな心憎いメールをよこした。結局断ったが、敵もなかなかやるものだ。幸い、アルページュが取れたが、こうあっさり一ヶ月を切った状態でメールをしてとれたとなると、今度は「何だ!はやってないのとちがうか?」と下衆の勘ぐりをしてしまう。 フランス料理界も苦しいのだろう。まず、不況下、日本人が来なくなったろう、アメリカ人もそれどころではない。そうすると、長年代わり映えしない三つ星レストランに変化がないと、フランス人自身も来ない。 だから増やしたのだろう。フランス人は食い物に金をかける。ペンキ屋と大統領が同席する可能性は大である。日本でもようやくそれに近い状態に近づきあるように思えるけれども、やっぱり基本的な値段が違いすぎて、果てしなく難しい。 一客十万円の席には着かないだろう。 フランス人は、一回の晩餐に、金をためて望むことをいとわない。価値観が日本人と違う。日本人は勤勉な民だから、一夜の快楽のために貯蓄はしないのではないか。
日本料理の極みと比べると、フランス料理には、そう多くのレパートリーがあるわけではない。今でも、海にはあまり興味を示さない。”海の発見”は多分100年くらいなものだろう。印象派の画家達の描いている絵の中にも、ご婦人が海辺で海に背を向け読書している作品がある。 だから、いまだに蛸などは、南仏イタリアスペインの一部は食べても、決して都会の高級料理の材料とはならない。ましてや、鯨、老海鼠(ほや)など視界にも入らないだろう。 向こうに行ったら向こうの食文化に従うが、やっぱり最高に洗練されているのは、器・箸など、陶磁器・塗り物 平面立体と変化に富む日本の料理だろう。これに箸の上げ下ろしにからんで作法が存在する。 フォークに、以下の作法があるか? 箸をフォークに置き換えてくれ。
まよい箸(どの料理から手をつけようかと迷い、料理の上であちこち動かすこと) うつり箸(料理をいったん取りかけて、ほかのものに替えること) ちぐり箸(汁物などのとき、椀の中をかきまぜて中身を探ること) かき箸(茶碗や器のふちを直接口にあて、箸でかきこむこと)
よせ箸(箸で器を引き寄せること) なみだ箸 箸先から汁をたらすこと。 こみ箸 料理を箸で口に押し込むこと。 ねぶり箸 箸をなめること。あるいは、ロ中深く入れること。 たたき箸 箸で器をたたくこと。 にぎり箸 2本の箸をそろえて掌で握りしめること。器を取るときなどにしがち。 箸の頭を親指で押さえると攻撃の意味になる。
ほじり箸 盛りつけを無視して、底のほうにある料理をほじくり出すこと。 すかし箸 骨つきの魚を食べるとき、中骨を通して下の身をつつくこと。
これだけある、どうだまいったか!
| 2002年11月03日(日) |
紛(まが)い者まかり通る |
うららかな三連休、国旗は半旗を掲げている。 今日は憲法公布、そして明治節(明治天皇誕生日)である。戦後GHQ(連合国総司令部)によって、半ば強制的に文化の日に変えられた。これは日本悪、戦前は全て暗黒とする暗黒史観を植え付けるために行われた。 今の時期、界隈は紅葉の季節にともなって、河原町並みの人出である。哲学の道界隈も多くの人々でにぎわっている。最近なぜか、フランス語圏の人が多い。フランス語を結構散歩途中に聞く。 ある昼下がり、舞妓が哲学の道を散歩している。よそから来た人が見ると、京都だなぁと、感じてしまうのではないか。 昨日も、岡崎の美術館近くで、舞妓が二人、人力車に乗って疎水縁を巡っていた。 この光景に異国から来た人達は、思わずカメラ・ビデオをまわすだろう。異国の人達は、これが真っ赤な偽物だとはよもや思うまい。 これはどこぞの企画会社が考え出した。旅行者の物好きに、安物の着物を着せ、鬘(かつら)をつけさせ、一回なんぼで、京都の観光地を歩かせるのである。 そうとは知らない観光客はカメラを向けビデオを撮る。ジーパン洋服でそだった者が、俄に着物を着たところで、その立ち居振る舞いまで真似できるわけではない。外股で、靴のように歩くから見られたものではない。雨が降った後の水たまりを歩くと、跳ねで着物の裾はべしゃべしゃだ、着物を着慣れているご婦人はそういう跳ねがほとんどつかないのを見たことがある。 ところが目出度いことに、写す側も、同じ穴の狢(むじな)であるから、そう言う事に頓着しない。 いつも利用しているタクシーの運転手が嘆いていた。着物から何から芸妓は、こんな時間に散歩なぞしないし、あんな着方はしない。今の時間は厳しいお稽古ごとに奔走しているはずだと。 一番困るのは、乗せた外国人がそれを見て、日本を誤解することだと。 そうだろう、お笑いタレントが、よく外国の地で必要以上にはしゃいで、恥を売りに行っているのを見るが、京都では、内で外から来ている客に、恥を売っている。
見た外人客は、がに股で闊歩し、大声で喋り、西洋歩きで歩く、白塗りの、安モンの着物を着た、バナナのお姉さん方を、日本の文化だと見て帰り、自国で吹聴することだろう。グロである。 自国の古来からの文化を、「和風が今流行」などと平気で言う、お前は何ものだ!根っ子を無くしてふらふらと彷徨い、髪染め(茶髪)に強力な発ガン性物質が含まれていると分かって今あわてふためいてももう遅い。 黒い髪が洋服に似合わないと言われて従い、ロックに日本語は馴染まないといわれて、「カモンベイビー」と唄い、ついに着物も服も着こなせないまま、みんなしてどこへ行くのだ。 かくて外は国家主権の、内は固有文化喪失で日本は滅びる。
「新しい歴史教科書をつくる会」の最初の四人のメンバーの一人、*坂本多加雄さんが亡くなった。胃癌だそうで、山本夏彦翁と同じ病気であった。 専門の明治前後の執筆はせず、戦後史・近世の部分を担当した。52歳だった。 靖国神社の代替施設の審議懇談会委員で、只一人、断固反対していた人でもあった。靖国神社のことは、ちゃんと日本の近現代史を学べば、その代替施設などというちんけなものは、他国の干渉の屈服以外の何ものでもないことはすぐ理解できる。 それをしてでも、中国朝鮮に気に入ってもらおうという、さもしい自虐史観を多くの日本人は無意識に持たされている。それを正論で堂々と主張していた。 ご苦労様でした。合掌。
*坂本多加雄 学習院大学教授(日本政治思想史)「市場・道徳・秩序」サントリー学芸賞、「象徴天皇制度と日本の来歴」読売論壇賞、
先ほど、山本夏彦先生が亡くなられたことを知った。お年もあって患われたとき、少し心配したが気丈な夏彦翁の事、大丈夫九十百まで生きると思っていた。事実その後、病気を笑わぬでも無しと笑い飛ばし、またコラムを書かれていた。それが突然の訃報である。大きな心の支柱が一本抜き取られたような感じがしている…。 先生、ありがとうございました。ご冥福を祈ります。
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