目次|過去|未来
| 2001年10月16日(火) |
テロリスト、米国攻撃の種本 |
「レッドオクトーバーを追え」やゲームのレインボーシックスで有名な、トムクランシーという作家がいる。多作で国家をいじって作品にしたりするのが得意で、この人の作品の一つに、「日米開戦」というのがあって、その内容がまさに今回の米国攻撃と同じ方法、本では日本人が、旅客機を乗っ取ってアメリカの重要施設に突っ込み日米開戦が勃発するというストーリーだ。
多分、テロリスト首謀者はトムクランシーの愛読者だ。この他にも「ノドン強奪」だとか、「ソ連再建」だとか物騒がせな著書が沢山ある。テロリストの格好の勉教本だ。そういえば、真珠湾攻撃を日本がする何年か前にすでに、米国で真珠湾を攻撃するストーリーの本が出ていたらしい。 これを日本人が読んでいたとしたら……。
かといって作家に圧力をかけてもどうしようもないし困ったもんだ。
´_`
寺が西向きに傾き、ここに住む寺の貫主より偉い、むささび・もりあおがえる達のため?に、普請し直すということで、慈善音楽会が開かれた。 演目はテレマン・バッハ・パガニーニ他、出演者10数名にもおよんだ。
先の盛夏の昼下がり、本尊の前で読経会をした同じ場所で行われた。本尊の前にはなぜか文机、別名二月堂が縦に五枚立てかけ並べられて、塀のように後ろの仏さんを遮っている。二月堂は黒漆に朱の漆で縁取りされていて、我が家でも、家の者だけの時は一つ、人が四人くらいの時は二つつなげて真四角の食卓に、それ以上だと三枚つなげて使うとまことに便利で、もう随分ながいこと愛用している。 風呂敷と一緒でこれは図抜けた便利ものなんである。風呂敷は一升瓶二つ簡単に包めてさげられる。そこで、同じものを入れる鞄を用意してごらん!どうだ、そう簡単には一升瓶二本入る鞄なんぞないだろう? 入ったとして用済みの後、その鞄は依然としてでかい鞄をやめないが、風呂敷はポケットにはいってしまう。二月堂の机もこれとおなじなのだ。
ところで、仏さんを遮る文机五枚は何だろう……。 バッハの無伴奏チェロ組曲は、やっぱり、カザルスのがいいなぁと思いながら、この禅問答?(法然は浄土宗)が解けた!二月堂が五枚で十月堂!そうか、今月は十月だった!(ほんまかいな)
フルート奏者は三人いたが、ブラジル風バッハを演奏した、フルートの中川佳子がすごかった。あのフルートはすごい!ちょっとびっくりのテクニックだった。 コオロギが鳴く秋の夜半、音楽会は最終曲に突入、ここでがらりとなぜかボサノバタイムに変わり、全員が出てきて、ご本尊の前で大ばちあたり大会となった。なんかすごい景色だった。百数十人の聴衆は絶句していたようにも感じられた。 が、これが日本人の柔軟性かも知れない。これがなかったら、その昔、神道・仏教相容れず、宗教戦争とあいなったかも知れない。けれど、本地垂迹説(仏神同根)なんかを発明して日本人はうまくやってきた。イスラム原理主義の前でこれやったら、まず、偶像破壊で仏像は爆破、分けのわからん音楽を流す奴は、広場で射殺。よかった、日本に生まれて。 それにしても、寺にはバロックがあう。ここに眠る谷崎潤一郎の墓碑銘は「寂」とあるけれど、さぞかし今夜は草葉の陰でうかれていたにちがいない。オッペケぺ節で有名な川上音二郎もここに眠っているが、案外ボサノバとオッペケペッポペッポッポはあうかもしれない、
音二郎の傑作風刺を一つ、「権利幸福嫌いな人に、自由湯(じゆうとう)をば飲ませたい、 オッペケペッポペッポッポ〜♪」
孤独・孤独と言うけれど、どれほど実際に孤独感を味わった人がいるだろうか?二日前の朝、最近伴侶を亡くした友人が突然電話をかけてきて、京都にきているという。午後会うことにした。イノダで落ち合い、近くの懐石料理屋で昼飯を共にしながら話した。場所を変え、馴染みのビストロで、延々、閉店まで話し続けた。 友はひたすら寂しくて寂しくて、そして孤独なのだ。面白おかしく喋っても、目が時々遠い所を見ている。子供はもう大きくて大学に行っているが、そんな子供達のことは何ら今の心持ちとは関係なく、早くあの世から迎えに来てくれるとよいとも言った。話を聞くことで、少しでも慰めになってくれたらそれでいいし、それしかできない。共に笑い共に泣くことしか他人にはできない。
昔、十七八の頃、孤独とはどんなものか、度胸を試しに、ツェルト(簡易テント)と食料を持ち、四国の奥深い山にたった一人で入った事がある。その後何回も単独行は経験したけれど、最初の山行きで、恐ろしく世間と超絶した自分を意識した時の恐怖は一生忘れられない。
霧雨煙る土曜日の午後、田舎に向かうバスからして客はたった一人きり、夕刻終点について林道をとぼとぼ歩く、真っ暗でヘッドランプの明かりを頼りにひたすら山道をのぼった、いい加減登ったあたりで、雑木林の中に、適当な広さの所を見つけ、足で踏みつけて空間を作り、ツェルトを出し潜り込んだ。シュラフ(寝袋)に腰半分入り、簡単な食事をとるまでは何ともなかった。が、それから、おおよそ耐え難い孤独感が襲ってきた。 なにしろ生まれて初めて、少なくとも周囲3kmには多分人は誰もいない。この孤独感は経験してみないと絶対わからない。
最近は、エベレストや南・北極冒険がたいそうに言われているけれど、あれはもう孤独感はないだろう。いつも衛星で自分と家族または協力者達と電話でつながっている。だからもう一人ではない。ちゃんと社会とつながっている。
それで、その夜は、もう風の音、山に住む動物の鳴き声などがとても不気味で、とにかく夜が明けたら帰ろうと弱気な事ばかり考えていた。初冬のせいもあり、その寂寥感は耐え難いものだった。簡単に言うとしたら、真っ暗闇にポツンと自分がいて上も下も右も左もだーれもいない宙ぶらりんを思ってくれればいい。そんな感じが近い。とにかく恐怖でどうしようもなかった。それは幽霊がでる恐怖とは違うものだ。
社会から完全に関係が切れて宙ぶらりんの状態の事をアノミーというらしいのだけれど、それに近いものだろう。 これだと、都会、山の中、関係ない。長年連れ添った仲の良い伴侶をなくした友はこの状態に多分近く、関係を求めて京都にやってきたのだろう。それでようやく自分を確認しているのだと思う。 ただ救いは、山中であれほど恐怖を味わって一晩過ごした森に、朝日が一条射し込むのを見た瞬間、不思議な何とも言えない勇気と希望が湧いてきて、昨晩の弱気があっというまにどこかに吹き飛んだ事を覚えている。 光は希望と勇気を与えるというのが、宗教みたいだけれど本当に実感した事だった。
このところ、知人が立続けに亡くなって、誰かが何かに書いていた「もうそういう年になった」事を実感として感じている。 昨年、一昨年は友人の親達の訃報がけっこうあり、年賀辞退の知らせが来たりしていた。所が、今年つい何ヶ月かの間に立続けに4人の知人が逝ってしまった。うち二人は親子で、亡くなった父親の後を追うように亡くなった。人は死ぬ時は実にあっさり死ぬ。ここ十年で、友人知人を亡くした数を数えてみると、自殺が3人、事故が2人、病気その他で実に7人。計12人がこの世からいなくなっている。これは世間的にみてどのくらいの数字なんだろうか。数を改めて意識すると戦慄した。 それでも生者は生きていかなければならない。今日は一日無常感が体を包んでいた。 庭の金木犀が強烈ににおっていた。
京都の町屋を見直そうと、建築家の卵の学生達に案を募集して、その中の優秀なものを実際に現役の建築家が協力し、京都のど真ん中に町屋を建てることが決まったようだ。 大学では木造建築や、日本の尺、間などは教えない(音楽も、某有名日本人ソプラノ歌手が言っているように、ピアノ・リコーダーを教えても琴、笛は教えないし、音楽室に掛かっている肖像画は、ほとんど全部外国人の音楽家で、浪速のモーツアルトはかかっていない??)。 大工は出る幕なく、建築家ばかりが排出されるようになっている。日本人は昔からあった日本の単位をすてて、外国の単位を取り入れた。世界基準だという事だった。が、よく見てみると、未だポンド・ヤード・マイルは現役だ。アメリカなんかいまだcmではなくインチを使っている。
昔からマンションに、テッコンキンクリートにはどんなに落ちぶれても住まないと言う固い決心の下、暮らしてきた。だから今も、猫の額ほどの庭付きアルミサッシュがない借家に住んでいる。マンションより遙かに安く快適だ。 今回上の京都の町屋が、新しく作られる事が我が事のようにうれしい。三軒長屋共同のろうじ、井戸端会議の場所がある、うなぎの寝床の細長い玄関がある。最奥には坪庭がある。いいなぁ!
申し込みはほぼ一杯だそうだ。買うことを決めた老夫婦は老後は、こういう環境で、縁側でビールを飲んだり、妻が入れてくれたお茶で和んだりするのが夢でしたと言っていた。 大学の建築科に木を使った住宅を造りたいという、学生は結構多いそうだが、何を血迷っているのか、教えないのだ。ベッドで寝て、畳を棄て、洋風の生活を良しと教え込んだのは誰だろう。 かといって、ぺらぺらの合板で家を建てるのは反対だ。年月が経てば確実にジャンクになる。いい素材で破産しそうになるくらいの予算で建ててもらう。いっそ予算なんて大工に、棟梁にまかせてしまう。 そうすると確実に後世に残るし、また高く売れる物ができる。
まぁ、建築家になる人達は大半田舎者上がりで、無いものに憧れてきた。京都にも“鷹末浸(仮名)”なんていう、あと2.30年したら確実にジャンク扱いの建築物を作る建築家(本人の事務所はなんと京町屋なのだ!)が、幅を利かせているけれど、上のような動きが出てきてようやく日本人も目覚めて来たようなのだ。本当に嬉しい。 作品としては面白い、暗頭只男(仮名)の設計した町屋(コンクリート打ちぱなし)の狭い部屋に、ホーム炬燵を置いて婆ちゃんが入っているその背中は、冷え冷えした灰色の、背中から冷えて年寄りには辛いだろうコンクリートだった。テレビで放映していた。
おまけに雨が降ったらトイレには傘を差して!!一階の空間(庭ではない)を横切らねばならないのだ。 何でも合理的なのは良くないという発想だそうで、ここの若い息子は建築家のファンだそうだった。今、その家族はここを売り払ってどこかに引っ越したらしい。そうだろう、住めへんで!オブジェには。
北山通り、植物園裏側のちょっと入った所に「甚六(じんろく)」という蕎麦屋がある。知る人ぞ知る蕎麦屋で、その精進の仕方はもう並ではない。 自分でも蕎麦を打つので、そこらの蕎麦屋なんてちゃんちゃらおかしいのだけど、ここの蕎麦屋にはかなわない。 まず、そう常連でもないのに、話が蕎麦のことで馬があったと思ったら、これも食えこれも食えと出してくる。曰く、これは徳島の祖谷の蕎麦を挽いたもの、今日店で出しているのは茨城産もの、これも食ってくれと、今度は福井産のそば粉で、蕎麦がきにして持ってくる。 こっちの注文はざる一枚にも関わらずである。昼の間、数時間しかあいていなくて、夜はやっていない。これでは儲からんと思って、昼からビールを頼み、なんとかその分儲けて欲しいと思うのだけど、ビールを頼んだら頼んだで、また別に茎わさびやなにかの突き出しを出してくれる。 昨日も深夜バスで茨城まで蕎麦を見に行き、その日にまた深夜バスで戻ってきて仕事していると言う。 普通商売をながくやっていると惰性に傾くと思うのだけれど、ここの主人の蕎麦に対する情熱は並ではない。 この店の存在は、案内や宣伝雑誌にもほとんど出ていないから、思いついて行ってもちょっと分からない。たまに行っても、客はそこそこ入っているので、うどん食いの関西で宣伝もせずに大健闘だと思う。
味のわかるお客さんの口コミで来るのだろう。一度など、居合わせた神戸から来たご夫婦が、書かれた雑誌の地図がまちがっていて非道い目にあったと怒っていた。地図に載せた側もあんまり知らなかったんだろう。結構名のある案内の本であったにもかかわらずそうである。 初めてここの蕎麦を食べるお客さんは、その、蕎麦つゆの少なさにまず仰天することになる。蕎麦ちょこにほんまにちょこ、としか入っていないのだ。蕎麦猪口のそこの方に8mm位、本当にそれきり入っていない。 が、ここからが不思議なとこ。それで大丈夫なんだほんとに! きどって蕎麦の先だけをつけて食うというレベルではなくて、本当に“辛つゆ”なので、ざぶとつけて食うものではないことがわかる。京都の蕎麦屋のつゆは全体に甘口だが、ここのは蕎麦のことを考えて作ってある。 そばを打ってみて初めて分かるのだが、蕎麦の香りは打っている時が一番する。湯がきあがってきたものを嗅げと言う蕎麦屋があるが、ほとんど意味がない。わずかなつゆにつけて口に運ぶとほんのりと蕎麦は香る。 このわずかなつゆで最後にそば湯を作って飲むが、いいドイツワインを飲んだ後と同じく、その日の厠は蕎麦の香りで満ちる。蕎麦粉100%の強烈さを重い汁?。
小学生の頃、田舎の球場に巨人の試合が来たとき、見に行った。試合はどっちが勝ったがおぼえていないが、、終了後、子供達は外野席からグランドに飛び降り、野球選手に駆け寄った。目の前に長嶋がいた。右足だか左足だかに抱きついた。抱きついて上を見上げると、野球選手らしくない色白で肌色の顔があった。あれ以来、球場に足を運ぶ事は今日までなかったけれど、長嶋選手は心の中にずっとあった。 特別のファンでもなかったけれど、思いは、多くの野球ファンと同じようなものだろう。その長嶋が選手から監督になり、そして昨日辞任した。 監督の数多い嘘か誠か分からないけれど、逸話の中にある一つが何とも言えず面白い。 大学時代の英語の話。「Ilive in Tokyo」を過去形にしなさいと先生に命じられた 長嶋青年、しばらく考えて「I live in Edo」と答えた?
ついこの間、パパスという服飾メーカーのポスターに我が師匠の山本夏彦翁がモデルになっていると聞いて、驚いて是非みたいと思っていたら、それも目にしない内に、今度は、知人の帆布製鞄の老舗、一澤帆布店の一澤さんとその娘さん二人が一家でにっこり笑ってポスターになっていた。
世はみなタレントか? 一澤さん一家ならパパスというイメージにあうけれど、山本夏彦さんはジジスでしょうが?パパのイメージとちょとちがう…。 もともとパパ・ヘミングウェイのイメージではじめたのが、ついに、山本夏彦さん、そして一澤さん一家となった。どういう方向に持っていこうとしているのか、 パパスダッチロール。
長年、パパスを愛用しているけれど、なんで山本夏彦さんなのだろう?うれしくもあり、不可解でもある。グランパのイメージなんだろうか??
あのラングーン爆破事件や大韓航空機爆破事件などで果てしなく黒に近いグレーの国、北治ようせんが、テロを非難する声明を出した。ううむ…、何か悪い冗談のようにも思えたが、多分アメリカや他の国々の協力の下、テロを追い詰めて、徹底的に長期戦になってもたたくという姿勢に震え上がったのだろう。かって日本で北治ようせんが、新幹線のレールのボルトを緩めて回ったり、高圧電線が通る鉄塔のボルトをゆるめて回って、着々とテロの準備をすすめていた事は、亡命工作員がはっきり断言している。 今回の事で、もし、日本に同じ事をやれば、今度は自分達が徹底して攻撃される。この事で、日本はしばらくは大丈夫だろう。ただイスラム原理主義過激派方面からのテロはあり得る。 その時、自衛隊は交通信号を守りながら、私有地の通過許可を地主にはんこを押してもらい許可を得て、現地に向かうのだ。そういう事になっている。
| 2001年09月24日(月) |
シアトルと宗教の悲しみ |
今回のニューヨークのテロは、ハンチントンの言うように宗教的に対立を起こしていて、イスラム対キリスト教だと言ったりしているけれど、今のアメリカ人がヨーロッパからやってきたときからすでにそれは始まっていた。月曜評論という冊子の中で西村眞悟さんが面白い事を書いていたので、一部抜き書きします。
インディアン(レッドマン)は、白人(ホワイトマン)に対して敢然と戦った。白人は自分達の「文明」が地上にあまねく行き渡ることを「正義」と考えインディアンを追い出すことを当然と考えたからである。 例えばアパッチのジェロニモは、わずか三十五名の兵士で、婦女子を連れながら、正規兵五千名と外人部隊五百名からなるアメリカ軍を相手に、一年六ヶ月戦い抜いた。ジェロニモは死者六名を出し、アメリカ軍の死者は二百名に達した。しかし、インディアンは、優秀な武器を持つ多数のホワイトマンによってついに居留地に封じ込められることになる。その時、一酋長は、移住を命ずる白人総督に次の抗議文を送った。
「あなた方の神ゴツドは、自分の民は愛しても異民族は嫌う。白い肌の我が子を優しくかばい、赤い肌の者のことはいっこうにかまわない。我々の崇める大霊はそんなえこひいきはなさらない。…あなた方の宗教は活字によって書き記される。それとは違い、我々の宗教は祖先からの伝統なのだ。厳粛なる儀式のもとに、大霊より授かったものだ。 それが偉大なる先祖のビジョンとなって、我々の胸に刻み込まれている。あなた方の先祖は、墓の入り口を通り抜けると、それきりあなた方のことを忘れる。あなた方も彼等のことを忘れる。が、我々の先祖は地上のことは決して忘れない。麗しき谷、のどかなせせらぎ、壮大なる山々、木々にかこまれた湖、彼等はしばしばその美しさが忘れられずに舞い戻ってきては、我々のもとを訪ね、導きを与え、慰めてくれる。 …私は、死という文字は一度も用いていない。死は存在しないからだ。ただ生活の場が変わるだけなのだ。」 これを送った酋長の名は、ワシントン州の都市、シアトルとして残っている
***
人はお互いに十字を切りながら戦争し、殺し合う、今も昔も少しも変わらない。
|