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指輪物語関連ファイル

YUKI


2004年02月07日(土)
 <王の帰還>第一回目感想


完璧じゃないけれど、十分だった。

「ロードオブザリング」の第三部はスペクタクルだった。
見せることに全力をそそいでいた。
映像で、指輪の世界を見せる。
PJのイメージをスクリーンに描き出す。
そのことに全力をそそいでいた。

その流れの前では、ストーリーは従属せざるをえない。
あのシーンもこのシーンもあっという間に流れていく。
ひとつひとつのお話の人と人との細やかな心のふれあいは
十分に語る時間がない。

惜しげもなくばらまかれているカケラに私はため息をつく。
役者は揃っている。背景もできあがっている。でも、時間がない。
このまま終わってしまうのか?それでもこれだけやったんだから、
それはそれですごいことだと満足すればいいのだろうか
などと、落ち着かない気持ちで見ていたが、
やがて物語りは滅びの亀裂に到着した。

フロドの顔が変わる。
イライジャのフロドが原作のフロドに重なる。
その瞬間に、ああこれで十分だ、と私は思った。

フロドは笑っていた。泣いているような笑顔だった。
フロドはそんな顔をするようなことは何一つしていないのに、
彼は選ばれてしまったのだった。

原作のあのシーンは今も心にひっかかったトゲだ。
映画はそれをイライジャの姿で描き出していた。
それだけで十分だった。

そしてたくさんの物語を端折ったのと対照的に
エピローグの部分は心をこめて描かれている。
三人の脚本家たちはよくわかっている。
ここの部分をつめたり削ったりすることはできないことを。
その美しくて悲しい場面を見ながら、この結末でいいだろうか?
と思ったことは、これから私が考えなくちゃいけないことだけれど。


2004年02月08日(日)
 <王の帰還>先行上映感想その2(ネタばれ全開)


プロローグはゴラムがいかにしてゴラムになったかという回想シーン。
かなり丁寧な描写のように思った。
映画全体を見て思ったのは『王の帰還』は原作のテーマを明確にするために
大胆にいろんなエピソードをカットしたのだろうということだ。
そしてゴラムとフロドとサムを中心にすえた。
指輪を捨てなければいけないが、捨てることは難しい。
なぜなら指輪は持つ者を誘惑するから。
冒頭のシーンは伏線的な役割を果たしている。

そして始まった映画はたたみかけるように心に迫るシーンが続く。
アイゼンガルドでの再会をちゃんと残してくれてありがとう。
馳夫さんがパイプをふかす場面はなかったけれど、
サルマン様の最期をはしょってしまったのは悲しいけど、
パランティアの場面は迫力十分だった。
トゥックのばか息子がヘマをしでかしてガンダルフと一緒に走り去る。
ピピンとメリーの短い別れ。
ここでどうしようかと思った。こんな調子で続いたらたまらない。
ピピンはわかっていないがメリーはわかっている。別れの意味を。
そして砦を駆け上るメリーのあとを馳夫さんが追いかける。
旅の仲間の絆を感じさせる場面だった。

エルフ達が西に向かう。途中でアルウェンは幻影を見る。
その場面がものすごく美しい。
王様が子供を抱えあげる。ヴィゴの全開の笑顔。
まだ生まれていない子供。生まれてくるはずの息子。
こんな場面は原作にはない。
アルウェンが三本の映画を通して
一番アルウェンらしく見えた。きれいだった。

そして舞台はローハンに移る。
アラゴルンとエオウィンの描き方は
前回もそうだったが、どうも中途半端だ。
どう考えてもアラゴルンにも気持ちがあるような
アイコンタクトのシーンが多すぎる。
そんなんで「幻影」なんて言っても、説得力ないよ。
そのへんは原作既読者は脳内補完して映画を見る。
原作のエオウィンとミランダの違いは、ミランダが血肉を持った
暖かい女の子を表現してしまったことだろう。
彼女のアラゴルンへの気持ちは、自己実現へのあこがれではなくて
本当に恋しているかのようだ。
だからそれにちゃんと応えないアラゴルンが
バカみたいに見えちゃうよ。

私がヴィゴのファンであることは周知の事実ですが
三作目の王様はどう贔屓目に見ても、情けないやつでした。
優男。肝心なときに現場にいない。他人の(幽霊の)力で戦ってる。
いつも勝てそうもない軍隊の中に一番最初に切り込んでいくヤツ。
命がいくつあっても足りないぞ。
男ならアルウェンじゃなくてエオウィンを選ぶべきだろー!
見る目のないヤツ。
戴冠式で真剣にキスするなよ。おい。
でもヴィゴは好きなんです。ほんとに素敵です。私はヴィゴが大好きです。
でもPJは王様さえサイドストーリーにしてしまった。それがすごい。
王様の歌はスマップの紅白を見るかのようにどきどきものでしたが
なんとかかんとか様になっていたのでほっとした。
黒門の前で演説するシーンより
「フロドのために」とぼそっと言うところに萌えました。

めちゃくちゃ格好よかったのはセオデン王とガン爺だな。
セオデン王が騎馬軍団の前で号令をかけるシーンがものすごくいい。
あそこで「死だ」と叫ぶのはどういう意味なのか実はよくわからない。
死を恐れないという意味か。敵に死をという意味か。
暗くて熱いシーンですけれど。
エオウィンとセオデンの別れは原作にはない場面ですが、
これはあっても全く違和感がありませんでした。
「私は男じゃない」と言って魔王を刺すシーンでは
実はひそかに笑いが起きちゃったんですけれど
エオウィンは強かったです。

ガン爺は白い衣装を汚しもせず、ひとりであちこち走りまわっていました。
(訂正:ピピンと一緒にゴンドールに来たときに裾が汚れていました。)
デネソールを杖でばしばしたたいていました。
寝ているときに目があいているのは、レゴラスと同じ?ちょっとこわい(笑)
ピピンに死後の世界について語るところは
またしてもよい場面を持って行ったなあ、という感じでした。

出番は少なかったけれど、デネソールもよかった。
食べ物の食べ方の汚さに、彼の堕落が現われているようだった。
食事のシーンのピピンの歌を聞いたら泣けた。
一緒に見に行った人はあのシーンが一番よかったと言っていた。

ファラミアはかわいそうな子供の役回りだった。
涙目で父親を見つめていた。
ファラミアとデネソールとボロミアとソロンギル。
それだけで一本の映画が作れそうなくらいだ。
このキャスティングでやってくれないかな。
デネソールの声がものすごく良い声で驚いた。

レゴラスとギムリは出番どころか、セリフも少なかった。
ちょっともったいなかったね。でも仲良しなシーンがあってよかった。
「友達の隣なら?」っていうのもいいね。

サムがまた演説なんか始めたらどうしようかと思いましたが
そういうこともなく、サムさえもサイドに回したところに
脚本のバランス感覚のよさを感じました。
原作を読んでからだいぶ時間がたっているので、サムとフロドとゴラムの
関係がどんなだったかよく覚えていないんですが、
あんなふうにゴラムのせいでぎくしゃくしていたっけ。
そのへんの描写が少し浅いような気がしたけれど、
滅びの亀裂に近くなってからと、その場面と、脱出の場面には
言うことがありません。サムかっこいいよ。
私はエピローグの場面よりも流れる溶岩を見ながら
フロドがサムに「この最後のときにおまえがいてくれてよかった」
というシーンが好きです。この場面で終わってもいいくらいです。
でもそういう瞬間は続かないんですね。
だからこそ美しいんですけれどね。
グワイヒアが飛んできたところで、おお!グワさん、かっこいい!!
と思ったのはおそらく私だけではないでしょう(笑)

PJは思う存分戦いの場面を描いていました。
じゅうがあんなにたくさんやってくるなんてすごい。
それがローハンの騎士を踏み潰すんですから、
まともに見られなかったんだけれど
トロルもオークも獣の頭の形の城門を打ち破った武器もどれもこれも素晴らしい。
殺された兵士の頭部を城内に投げ込むシーンも原作どおりありましたが
やや控えめでした。あれは怖いです。
ナズグルが乗っている翼竜のなめらかな動き。
それが何羽も現れて、兵士を掴んでは落とし飛び回るのは
怖いけれどすごかった。

技術を駆使した戦闘シーンを素晴らしいと思いつつも
どこか軽さを感じていました。
幽霊の軍隊も、オークの軍隊も想像力を最大限広げて映像化された場面です。
足りないのは、かけがえのない命が戦争によって消えてしまうことの
重さの実感かもしれないと思いました。
トールキンは恐らく自分の体験からそれを知っていました。
だから原作からは言いようのない暗さと重さが伝わります。
PJの映画にはその重さはない。それは仕方のないことだけれど。
だからアラゴルンの言葉が、都合のよいプロパガンダに使われてしまう
可能性を持っています。
ヴィゴが警戒しているのはいつもそのことだろうと思います。

それにしても何故?と私は振り出しにもどってしまいます。
何故フロドがいつまでも苦しまなければいけないのか。
彼がいったい何をしたというんでしょう。
西の彼方の国は彼に救いを与えてくれるのかしら。
ホビット庄の風景が美しければ美しいほど、
フロドが故郷を去らなければならない理由が
理不尽に思えてなりません。
そして今日も映画を見ながら『残酷な神が支配する』のジェルミのことを
思い出していました。
この世の中の理不尽なことを一人に背負わせるということに
どうしても納得がいかなくて。

そうしてもう一度『旅の仲間』の最初の場面を見たときに
「何故?」という疑問はもっと強くなるだろうと思います。
そして考え続けるんでしょう。

ところでエンドロールのバックにはイラストが使われていました。
多分アラン・リーによる出演者の素描ですよね?
よかったですね。あれ。
主要なキャストの最後に「and Boromir」って出るのよ。
ボロミア。大トリ(笑)
映画三本を並べてみた時に、一番おいしい役だったのは
実はボロミアだったのではないでしょうか?


2004年02月09日(月)
 昨日から考えていること


映画を見てからずっと考えています。
指輪物語の結末をどう受け止めたらいいのか。
ちょっとまとまらないですが、思ったことを以下書いてみます。

<映画を見てから考えていること>
『王の帰還』を見てからずっと考えている。
どうしてフロドはホビット庄に住み続けることができないのか?
何故かれは癒えることのない傷に苦しみ続けなければいけないのか?
ずっと考えて、今日ある程度考えがまとまったので書いてみようと思う。
きちんと推敲していないので、まとまりには欠けるけれど
思ったとおり書くことにする。
まず、昨日書いた文章。これはまだ途中の考えなので、
今思っていることの前段階のようなものだ。

2月8日に考えたこと
『サクリファイス』というのはタルコフスキーの映画のタイトルだ。
私はまだ見ていない。ネットでみたあらすじによると
核戦争をとめるために自らを犠牲に捧げて、というような話らしい。
『犠牲』というのは柳田邦男さんの本のタイトル。
これは若くして自殺した柳田さんの息子さんの話。
読んだのがかなり以前なので、内容の細かいところは覚えていない。
どちらも「マタイ受難曲」が作品中に流れている。
犠牲サクリファイスというのは、キリスト教圏ではキリストのことをさすんだろうか。
私は宗教的な知識がないので詳しいことを知らない。
『指輪物語』で、フロドが全ての災いの大元である指輪を
捨てる旅で深い傷を負い、ついに故郷を去ってしまうことに
いつも「何故?」と思ってしまう。
私の心の中では、その結末にどうしても納得ができない。
きっとどこかに、キリスト教的な教義との関連を述べた文章もあると思うのだけれど
私はまだ読んだことがない。
そもそも、イエス・キリストが罪を背負ったことで
他の人々が許されるという、その話も実はよくわからないのだ。

でも、時々ものすごく行き場の無い思いに捕らわれることがある。
それは、たとえば一昨年発覚した北九州市の監禁殺人事件。
不思議なくらいテレビや新聞では報道されない事件なのだが、
ネットで検索すると詳細な事件経過を読むことができる。
自分の欲望のために他人からお金を搾り取り、自由を奪い、生命も奪う。
親も兄弟も関係ない。自分の手を汚さずに、被害者に被害者を傷つけさせる。
それはさながらこの世の地獄のようだ。
そこで殺されていった父親、母親、子供達のことを思うと
胸がつぶれるような思いがする。
殺されてしまった彼らに救いはやってくるんだろうか。
そしてまたそういう犯罪を犯した人間が
そのことを心から反省することはあるんだろうか。
この場合、個人的な犯罪だが、そういう犯罪を
犯人ひとりの責任と考えていいものか。
そういう犯罪者を生み出した社会にも責任があるとしたら
その罪を償う(贖う)のは誰か?
同じように、自分の欲望を肥大化させいって規模が大きくなったのが戦争だとしたら
その責任はどこにあるのか。前線で戦う兵士にあるのか。
手を汚さずに命令を与えている政治家にあるのか。
利益を享受する者に等しく責任があるのか。
頭の中で考えていると、話はどんどん拡散していってしまう。
それは流された血や痛みや涙への答えにはならない。

そういう行き場のない思いの受け皿が宗教だろうかと思ったりする。
ひとつひとつの重さをしょって生きていくことは難しいから、
ある程度肩代わりしてくれるシステムじゃないかと。
私はそのような信仰を持っていないので、いつまでもうだうだと
殺された子供の悲鳴や、ジェルミの悪夢や、フロドの痛みを考え続ける。

私は原作のマニアではないので、『指輪物語』についてそんなに深くは知らない。
上に書いたことについて納得のいく答えを見つけるために調べることもたぶんしない。
なぜフロドは故郷で暮らすことができないのか。
どうして彼が傷を負わなくてはいけないのか。
もうすでにそういうことは語りつくされているかもしれないけれど。

2月9日に考えたこと
フロドが指輪を捨てて、そのかわりにもう故郷には住めなくなったことを
現実に起こったことのように、不幸と考えるのが間違っているのだろうか。
それは物語の中の象徴的な出来事として受け止めるべきなのか?
自分は、自分の気持ちが収まるような「そしてみんな幸せに暮らしました」という結末を
求めているだけなんだろうか?
フロドが西の国に行ってしまったことを、たとえば天国へ行って安らぎを得たと
考えればいいんだろうか?
故郷に残って幸せに暮らす人と、もう故郷に住めない人を分けたのは何だろうか?
そんなことを朝から考えていた。そうしたらすとんと考えがまとまった。(ような気がした。)

痛みは消えないし、傷は無くならないこともあるんだ。
自分に原因が無くても、傷つけられることが世の中にはあるんだ。
自分が安心するために、大丈夫と言ってもらうことを期待してはいけないんだ。

指輪物語はファンタジーだけれど、そういう意味ではとてもリアルな世界なのかもしれない。
そして、フロド以外の旅の仲間達もフロドと同じように戦い傷ついている。
彼らの物語が心をうつのは、彼らが自分の欲から離れて、
他のもののために身を捧げることができるからだ。
これを「自己犠牲」と言ってしまうと、また別のニュアンスが加わってしまうが、
彼らは自分自身をないがしろにしているわけではなく、
もう一段上の段階から行動することができる。
それが、メリーとピピンが話している、「世の中には素晴らしいことがあるということがわかった」
ということじゃないかしら。(正確に引用すると「もっと深くもっと高尚なものが存在している。」)
だけど高尚なものだけでは暮らせない・・・・と続くところに
作者のバランス感覚やユーモアを感じるような気がする。

フロドが美しいホビット庄で笑って暮らす結末を私は期待してしまう。
しかし、そう思うこと自体が、自分の欲かもしれない、と思う。
気持ちの良い、暖かい、ハッピーエンド。
そうやって自分自分の気持ちにこだわること、こうあるべきだと考えること、
そのことこそが、指輪を求める気持ちへの第一歩かもしれない。

今日、友達と食事をしながら映画の話をした。
彼女はまだ『王の帰還』を見ていないけれど、原作は大学生の頃から読んでいる。
映画がすごくよかったよ、でもずっといろんなことを考えている、と私が言うと、
「あの本を読んだ後は、なんだかとても悲しいのよね。終わったあとが悲しいの。」
と言った。そうなのよ。映画もそうなのよ。だから映画は原作の大事なところを
伝えていると思う、と私が言った。

全然、状況は違うので、こんなところに書名を出すと、また別のニュアンスが
加わってしまうかもしれないが、『聞け、わだつみの声』という本がある。
戦没学生の手記を集めた本。
彼らは日本が負けることを知っていた。勝つ可能性がないことを知っていた。
それでも逃げることなく自分の命をかけて戦った。
彼らの手記は静かで、残される家族への愛情にあふれている。
それを読むと悲しくなる。それはフロドのことを思う気持ちと似ている。

彼らのために何ができるだろう。
彼らが望んだことは、自分の故郷がいつまでも平和で
残された家族や仲間が仲良く暮らすことではないかしら。
私たちは、ちゃんとそうしているだろうか?

歴史を見ても明らかなように、昨今の状況を見ても明らかなように
争いや暴力や様々な問題はなくならない。
人間が天使のように清らかな存在になることなんてありえない。
いつの時代にも、理由の無い暴力で傷つく人がいる。
戦いの中で傷つく人がいる。
受けた傷を抱えて生きて行く人もいるだろうし
その傷に耐えることができない人もいるのかもしれない。
自分の力以上に重い荷物を背負った人に何をしてあげられるのか。
人が人を救うことなんてできるんだろうか。
とりあえず私にできることは、
彼らのことを思うこと。彼らのことを思って泣くこと。
そして、自分のいる場所で最善をつくすこと。


昨日から考えているのはそういうことだ。
ここに書いたようなことは、アレンジの仕方によっては
とんでもない方向へ持っていかれるような可能性がたくさんある。
でも、できるだけ自分の頭で判断しながら
いろんなことを考えて行きたいと思う。
PJの映画は、私に原作を読む機会を与えてくれた。
そしていろんなことを考える機会をくれた。
そのことに心から感謝したいと思う。


2004年02月10日(火)
 王の帰還のアラゴルン


PJの映画三部作のアラゴルンは原作とは別人です。
彼は、自分の血筋や、アルウェンとの恋を、引き受けることをためらうモラトリアムな人です。
しかし、『旅の仲間』では、フロドを守り、ボロミアと関わるうちに
自分の運命を引き受けることを決意します。
そこにははっきりした筋道があって、私はやはり三部作の中では
『旅の仲間』が一番好きだし、ここに出てくるアラゴルンが好きです。
でも『二つの塔』と『王の帰還』のアラゴルンはいただけない。
なによりも、映画の中のアラゴルンには
大局に立って、国の行く末を考える王としての視点が欠けています。
そんな彼が王様になっても、中つ国がちゃんとやっていけるのかわからない。

PJの映画を見て一番原作と違うのは、登場人物たちが
物事をどのように見ているか、ということだろうと思います。
アラゴルンが自分の悩みにこだわり続けたように、
他の登場人物たちも、自分の問題に足をとられています。
エルロンドは娘の心配をし、ファラミアは父親の歓心を求め、デネソールは国を忘れ
サムはフロドの気持ちがゴクリに傾いたことを嘆き、レゴラスはアラゴルンの心配ばかりする。
それは原作の登場人物たちが、今、自分は何をすべきか、と考え
皆のため、フロドのため、中つ国のために、しなければならないことを最優先させたのと対照的です。
メリーとピピンが陽気なホビットから、一人前の騎士に成長したのは
広い世界に出て、ひとつ上の視点からものを見るようになったためだと思います。
PJ達は、人間的なキャラクターにしようと思ったのかもしれません。
もっと現代的に。もっとわかりやすく。
それは意図的だったのか?それともPJほか脚本家の人間理解がその程度なのか?
もう少し、原作の持つ品格みたいなものが、この映画の中に通っていたなら
どんなに素晴らしかったでしょう。

映画を好きになって、映画に出てくる俳優たちのこれまでの作品を見て
彼らのインタビュー記事を読むうちに、それぞれがどういう人なのか
ある程度わかるようになってきました。
私はアラゴルンを演じるヴィゴ・モーテンセンが好きなのですが
彼は映画のアラゴルンよりもアラゴルンらしい(笑)人です。王様ではないけれど。
ヴィゴは他人を尊重し、自分の正しいと思ったことをすることができる。
人の話を聞き、受け止めることができる。
そして自分の考えを自分の言葉で話すことができる人です。
その彼が映画のアラゴルン役を演じているのに、あれでは少しもったいない。

反対に、サムを演じるショーン・アスティンはサムとは全然違う考え方の人のようです。
これは実はアルウェン以上のミスキャストではなかったかしら?
と私は『二つの塔』で思いましたが、『王の帰還』では、なんとかかんとか許容範囲でした。

映画は共同作業であり、特にこの映画は普通の映画よりも
ずっと大規模で関係者の数も多い作品ですから、
いろいろな要素がこれほど揃って完成したのは奇跡のようです。
キャスティングはほぼ完璧。美術も小道具も大道具も音楽も特撮も素晴らしい。
あともう少し、ストーリーに一本芯が通っていたら、
どんなに素晴らしかっただろうと、それだけが心残りです。


2004年02月11日(水)
 そして原作へ


映画を見終わったあと、いろいろと考えて
それから本棚から原作を出してきた。
そうして拾い読みをすると、前よりももっとイメージが
鮮明になるような気がした。
もしかしたら私が欲しかった答えはこの中にあるのかも。
というわけで、しばらく本を読もうと思います。
最初からゆっくりと。
それからまた映画を見よう。
しばらく楽しみにはことかかないですね(笑)



2004年02月12日(木)
 Tシャツとブックカバーと「めざましテレビ」


今日はシネコンのあるショッピングセンターへ行ったので
劇場限定キャラクター商品を少し買ってしまいました。
ネットで評判のいい、ゴンドールの紋章が金の箔押ししてある
文庫サイズのブックカバーと、黒のTシャツ。
黒のTシャツはメンズですが、半袖なので私でも大丈夫そう。
レディスは白ですが売り切れでした。



バックプリントの王冠はワンポントで小さいです。
いい感じですよ。

めざましテレビ

今朝のめざましテレビで指輪の映画の来日メンバーのインタビューを流していた。うちはたいていやじうまワイドを見ているので、めざましは見ないんだけれど、教えてくれる人がいたので見た。朝の7時40分に電話がかかってくるので、なんだろうと思ったらディスプレイに友達の名前が出ている。
「はいはい、何?」
「めざましテレビ!」
「え?ちょっと待って」(と、パソコンのテレビを切り替える)
「あーーーなるほど」(録画スイッチオン)
「あはは。ありがとう。」
「じゃあね。」
後ろで見ていた長女が言う。「何?今の」
「友達がテレビに指輪の映画が映ってるって教えてくれたんだよ。」
「なんでわざわざ、そんなことを。えーーー?」(あきれる長女)
「いいじゃないか、静かにしないとテレビが聞こえないよ!」
「・・・・」(そしてあきれたまま学校へ行く長女。こんな時間じゃ遅刻だな。)

さて、番組はフジテレビのアイドル系女子アナがインタビューするというもの。もう、内容もへったくれもないんだけれど、けっこう時間が長くて流れ作業の取材現場がおもしろかった。突然下手クソな歌を歌い出す女子アナに呆然とするイライジャとヴィゴがかわいかった(笑)ほんとに恥ずかしいな日本のマスコミは。んでもおもしろかった。

いのちの響き

ヴィゴが15日に6分間の「いのちの響き」という
インタビュー番組に出るそうです。

http://www.otrfilm.com/inochi.html

残念ながらこのあたりでは放映されていないらしい・・・



2004年02月17日(火)
 <王の帰還>第二回目感想


映画『イノセンス』の試写会を見るために上京したついでに、公開初日の『王の帰還』を六本木のヴァージンシネマズ六本木ヒルズで見ました。

見終わって不思議だったんですけれど、先行上映の時にあったシーンがふたつほど、映りませんでした。短いバージョン?それとも上映ミス?それとも私の勘違い?ほんの数秒のカットですけれど。

前回は上映開始に少し遅れて、冒頭部分をちゃんと見ることができなかったけれど、今回は落ち着いて見ることができました。ゴラム役のアンディ・サーキスがちゃんと画面に映っていましたね。この冒頭部分はゴラムの役で一番たいへんだったアンディサーキスへのねぎらいの意味もあるんじゃないかと思いました。そしてまた、物語の中心は指輪にあることの再確認。

二回目を見て、私は映画のある部分は原作へのリスペクトに満ちていて、またある部分は原作とは離れた考えのもとに作られているように思いました。だから映画全体として原作との比較をすることはできないな、と。そういう意味でも、この映画は完成度は高くない。それでもやはり映画を見終わったあとに残るのは、原作を読了したあとに残るものと、重なる部分があって、この映画は好きな作品なんだなと思いました。