東京の片隅から
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ゴールデンウィーク進行でもう憂鬱。私がじたばたしてどうにかなるもんじゃないんだけどさぁ。 春からの新体制、まだ試行段階なのだが、これまで話を振り分けていた片方が目の前からいなくなるとなかなか不便。実際には仕事を頼めるんだろうけど、もう本人がそういう気分じゃない感じだし、目の前にいないので気軽に振ることも出来ない。私がもう少し詳しければなぁ・・・と思うこともたびたび。 あとトイレに行きづらくなった(苦笑)。
通勤電車の途中駅に、高校がある。 これまでも降りる子はいたのだが、この春から数人増えた印象。「降ります!」と元気のいい声が車内のあちこちで響く。中学か高校か、学校側で指導したのかもしれない。 うん、宣言してね。みんなそこまで人でなしじゃないけど、言ってくれないとわからないし、逆に言ってくれれば動くから。 この地域に電車が通って10年、まだ帰りの電車ではドア前地蔵とかいるけど、だんだん公共交通機関の乗車ルールが身についてきているんだなぁと思う。ってわざわざ書くくらい最初はひどかったのも事実。こういうマナーやルールって、乗らない人にはわからない。だから子どもの遠足は公共交通機関で行こうぜ(いきなり)。
| 2018年04月18日(水) |
ゴールデンウィークなんて(以下自粛) |
うちの会社、5月1日が創立記念日なのである。で、5月2日も半分くらいしか出勤しない。まぁそうだよね。私だって休むもん。 ってことは、連休中まるっきり仕事が止まるわけだ。 それは昔からなので、みんなわかってるはずなのだが。
いやなんか本当にいい年した大人たちが泥縄で仕事すんのはやめてくれって。いくらゴールデンウィーク前でもさぁ。日数は逆算できるじゃん? 大学の先生たちみたいにレポート出すのは自分だけなんて思うなよ?そういうときはたいていみんなレポート出してくるんだからな?(語学以外全部レポートになった経験がある) みんな急ぎの案件にされたら結局同じだからな?
高峰秀子「にんげん蚤の市」読了。女優高峰秀子の自伝的エッセイである。 題材はこどもの頃の思い出や最近の出来事や亡くなった友人たちのことなどさまざまだが、歯切れのいい気の強い文章が印象的。ときどき差し込まれる夫君松山善三監督のコラムというかコメントも面白く、同じ出来事を書いていても全く違う感想だったりするのが面白かった。
財務省のセクハラ事案、働いていれば多かれ少なかれそういう経験はあると思う。女性に限った話ではなく、男性だって被害者になり得る。異性同士とも限らない。角川や円谷で同性セクハラ事件があったのは記憶に残っている。 ただ、そこで声を上げる人は少ない。もっと若い子が入ってきてターゲットから外れたり異動でその場から離れたりするといつの間にか忘れてしまう。そういうところは保育園問題に似ている。
しかし、そもそも、例え玄人相手でもあの発言はアウトだ。「そういうお店で言葉遊びを楽しんだことがある」とのたまっていたが、楽しんでいたのはご本人だけで、接客した女性にとっては言葉遊びでも何でもなくただのセクハラで、相手の顔をお金に変換して愛想笑いしていたに過ぎない。本当にそういう発言を繰り返していたとしたら、店側のブラックリストに載っているんじゃないかなぁ。
季節の変わり目はだいたいそうなのだが、4月に入ってから体調不良が続いていた。 今年は暖かかったせいか、あせもからのとびひ、しかも両手の甲という見える場所。しばらくはかなりひどい見た目であった。 前後して眼の不調が発生。おそらくものもらい。コンタクトから眼鏡に換えて約1週間、これは自然治癒したが、再発時のため専用の使い切り目薬を買った。 そして胃痛と貧血。久しぶりに胃薬を連続服用。 強烈な眠れないほどの肩凝りと腰痛。マッサージしても効かない。 その他にもちょこちょこと不調が湧いては消える、消えても次の不調が出るという状態で、やっと落ち着きかけてきたところ。 一度歯車がずれると連鎖であちこち軋む。もう年なんだなぁ(苦笑)
北村薫「太宰治の辞書」読了。 円紫さんシリーズが再び読めるとは思ってもいなかった。表紙の絵も引き続き高野文子氏で嬉しい。 久しぶりに会った「私」は結婚し40代半ばになり中学生の息子もいる。仕事は続けている。息をするように仕事を続けているのが大人しく流されるようでそうでもない「私」らしいと思う。大学時代の友達との関係もゆるやかに続いている。円紫さんともつながっているが、関係はかつての先生と生徒ではなく、少し変化している。一人前かどうかはともかく「大人」と見なされたようだ。
「生れてすみません」は太宰の創作ではなく他者の文章であった。芥川にせよ太宰にせよ元のネタがあるのは珍しいものではないが、引用した側が残り死後名声を博し、作り出した側は忘れられる。それが引用時点でもう死んだ人なら諦めもつくのだろうが、生きているうちに盗まれてさぞ自分の創作物であるように発表されてはたまらない。盗られた側は苦しい残り人生だったであろうと思う。心を食い殺されたようなものだ。
太宰は詩や日記を飲み込んで小説にし、円紫さんは師匠の噺を高座にかける。さまざまな形はあるが、誰もが他者の生産物をそうやって自分のものにして引き継いでいくのだろう。
昨日の保護者会の前に上野の国立博物館で「アラビアへの道」を見てきた。当初3月までの開催であきらめていたのだがなぜか知らないが会期が延長されていたので行かれた次第。しかも特別展ではなく通常展の一環なのであった。時間的にここと法隆寺館しか見られなかったのが悔やまれる。常設展行きたかった・・・。
サウジアラビア王家の所蔵品が多いというかほとんど。 アラビア半島の遺物、それもイスラム以前のものが多数出品されるというのは珍しい。 アラビア半島というかサウジアラビアというのはイスラムのイメージが強いが、メソポタミアとエジプトの隣だし人類発祥のエチオピアから紅海を隔ててすぐだから当然それ以前にも文化があったわけだ。むしろない方がおかしい。だけどつい失念しがち。 ちょうど9万年前の人類の化石が出土したというニュースもタイムリー。ゾウの化石から土偶ならぬ石偶や石像から始まり、石器や土器なども展示される。全体的に「石の文明」という印象。石やガラスの加工品が多く、土器はわりと拙い。 イスラム以前は当然ながら具象の彫刻も多い。頭部が欠けているものが多いのはイスラム化によって破壊されたのかそれともそれ以前に支配者交代の際に破壊されたのか。いろいろ考える。ただこういうものをコレクションとして収蔵しているあたり、わりとトップの方は宗教と学問を切り離して柔軟に捉えているのかな、と思う。 ドアばかり集めたコーナーがあって、木材が貴重で装飾彫刻を重視するからこその収集なのだろうけど、「キシュ島の物語」という映画を思い出した。 イスラム化後は文化としての幅は狭まる。表現も植物文様のみになる。そのかわり目立つのが文字表現の多様化。アラビア文字にはいろいろな書体があっていわゆる書道的なものがあるのは知っていたが、かなりのバリエーションがある。墓碑をずらりと並べていたのだが、時代や地域の流行や好みもあるのだろうけど、さまざまなものがあって興味深かった。 もっとも、イスラム化以前の文字も同様な傾向はある。アラビア文字普及前にはさまざまな文字が各地にあり、それもあわせて展示されていたのだが、その時点でも同じ文字でも字体のバリエーションがある。文字の表記に関する興味はもともと強いのだろう。
いい展示だった。1年くらい借りられないかなぁ・・・もっと沢山の人に見て欲しいなぁと思う。
小学校の保護者会。 校長先生が異動したので、自分の実感としては去年4月の保護者会よりも出席者が多い。 新しい校長先生は、やっぱり「中間管理職」感が強い。自分のこどもの頃で言えば教頭先生タイプ。校長先生ってもっとどっしり構えている印象だったのだが、今は上からの締め付けも強いから教頭先生タイプの人が多いんだろうなぁと思う。 今年はクラス替えもないので、学年会もクラス会もさっくり終了。子供のクラスも担任が替わったのだが、今度の先生は私よりも年上、おそらく50代半ば。一見物腰が柔らかそうだが物言いははっきりしている。2年生を何年もやっているということで叱るところは叱る褒めるところは褒めるというメリハリをつけるタイプのように見受けられる。相性はわからないが学級運営に関しては心配はなさそう。
去年度末の保護者会でPTA役員が決まらず持ち越しになっていたので散会後立候補者で集まって決めることになった。私も一応立候補していたため残ったのだが、現状定員を1名超過していて、話し合いをするも皆でもでもだっての腹の探り合いでぐずぐずだらだら。面倒くさくなったので私が立候補を降りて後はよろしくと投げてきた。来年度はクラス替えがあるから3月時点の立候補者が4月になると偏る可能性はあるけど、それは正直現状でも同じだし、気が合う合わないは「仕事」なんだから割り切るべきだし、どっちみち泥を被る覚悟で立候補してるんだからいつやっても同じことだ。ただ、6年の時は周年行事があるのでできれば避けたい(苦笑)。
| 2018年04月11日(水) |
めぞん一刻もしくはハチクロ的幻想 |
シェアハウスビジネスで破綻した会社があるようだけど、みんな本当にビジネスになると思っていたのだろうか。 マスコミがたまたま絵面として面白いからシェアハウスを取り上げたのでさも需要があるように思わせられたのだろうけど、実際にはそんなうまい話はなかったわけだ。
自分が住んでいる場所は東京の端っこで、40年近く前に最初の開発がなされ、ここ10年くらいで第二次開発が進んだ地域だ。だから古い家は古く、新しい家は新しい。住民の年代も分かれている。 古いアパートや貸家はあちこちで借り手を募集していて、都営住宅も満室というわけではなさそうな気配。(建て替えのために敢えて新規入居者を入れていない可能性もあるが)それな築浅なら満室かというとそうでもない。通勤電車の高架から見えるマンションも、自宅の近所ではなくもっと街場になってもカーテンがなくがらんどうの部屋が散見される。借り手と貸し手の希望額の乖離があっての空き部屋もあろうけど、もうずいぶん前から住まいは過剰だという実感がある。 近所のアパートですら空いているここらへんでも、ここ数年シェアハウスが増えた。空き地にアパートの代わりに建つ例もあるけど、築浅で売りに出た建売(これも10年固定で金利が上がって払えなくなったのだろうかとゲスの勘ぐりをしたくなるような築年数である)に買い手がなく、取り壊して安い建材で建ててるなぁと思うとシェアハウスというパターンが多い。サイディングも最低グレード、雨戸もなく、庇もほとんどない、でも窓だけは沢山あり、エアコンの室外機とポストが壁にぎっしり。建った後も半分埋まっていれば御の字という具合である。まーさんが面白がって家賃を調べたのだが、敷金礼金が最初不要なだけでトータルではむしろ割高感のある家賃設定だったとのこと。結局初期費用が分割されているだけなんだろうなぁ。スマートフォンの料金と同じ。 猫付きとか家庭菜園付きとかシングルマザー限定とか何か強いかつニッチな売りがあれば別だけど、そうでなければ成立し得ないのだろう。 そりゃそうで、めぞん一刻だって管理人さんがいて住人がみんなコミュ力が高いからあれだけ楽しい(?)わけだ。ハチクロはみんな美術系の学生という共通点があるからライバルであっても尊重し合えるわけだ。 そうでなければ蒲田や寿町や山谷のドヤと変わりがない。
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