”BLACK BEAUTY”な日々
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2006年05月30日(火) ミスチルの事

「ミスチルのアルバムで一番好きな一枚はどれですか?」

「僕は『深海』が一番好きです」

「えー?マジですか?なんか暗くないですか?あのアルバム」

確かに暗いし、歌のテーマも重いし、何しろ1曲目のタイトルが「シーラカンス」である。当時ミリオンヒットを連発していたバンドのアルバムとは思えない。ダークで重い。当時のファンは驚いたのではないだろうか?

桜井和寿のロングインタビューを某紙で読んだ時、この頃のバンドの状態は極めて不安定で、桜井の葛藤が続いていたという。

表現者のハシクレから言わせて頂くと、この作品には「比類なき儚さ」がある。ニールヤングの「アフターザゴールドラッシュ」、ニルヴァーナのセカンド、ビートルズの「LET IT BE」、ルースターズの「φ」など、ギリギリまで追い詰められたアーチストは時に、とんでもない傑作を作ることがある。

深海もそんな1枚であると思う。

ちなみに俺のベストトラックは「ゆりかごのある丘から」という曲だが、カラオケではお勧めできない。
イントロはやたら長いし、間奏も長いし、エンディングもいつ終わるんだろう位に長いからだ。

連れの女の子がトイレに行く絶好のチャンス曲になってしまうので、男性諸氏にはお勧めできない1曲である。



2006年05月29日(月) おかしな日本語

昨日はスタジオだった。我々がいつも利用している小岩のMセカンド。
ちょうど我々の時間の前にエルカホンが練習していた。
ギターボーカルのマサル君と話をする。
この日記を読んでくれているとの事。特にバンドメンバー募集のくだりが面白いとの事。
8月にはM7でワンマンが待っている彼等、楽しみにしています。

この日記、結構意外な人が読んでくれていることを知る事が多い。
一応全世界に発信しているわけだから、駄文は書けないと改めて思った。

前にも触れた通り、我々のバンド練習ではエアコンをつけない。
その為、当然の事ながら大量に発汗する。だからタオルと着替えのシャツの二つは欠かせない必需品となる。

練習も中盤を迎える頃になると、意識がフッと消えそうになる。
後で録音したMDを確認すると、もはやロジカルな会話は全く影をひそめ、擬音中心の「サル以上、人間以下」の会話が展開していた。

「そこ、ダカダカダカダカ、ジャッジャッーンって感じで」
「はい、ドゥタタドゥタタ、ドッパーンでいいですかね?」

他にも、ジャキーンとかボコボコとか三十路を過ぎた男達の原始的なコミュニケーションが続く。

バンドを経験した事のない方にご説明すると、作曲者が作ってきた楽曲を他のメンバーに伝える方法は2つある。

1.MTRという機械を使って、ギター、ベース、ドラムなどの入った曲の完成品を聞かせる

2.その場でギターを弾きながら歌って聞かせる。

俺は1の手段は使わない。というか使えないのである。一応、MTRは持っているんだけど、使い方がさっぱり分からない。MDをウォークマンを操作するのに結構時間がかかる俺が、デモテープなど作れるわけがない。

よって、頭の中でイメージを作り、ギターでジャカジャカやりながら、メンバーに伝える事になる。2の手段だ。
そしてメンバー同士であーでもないこーでもないとやりながら楽曲を完成させていく。

従って、俺の意図するところをメンバーに伝える時は何らかの言語、用語を用いなければならないのだが、俺は機械オンチの上、音楽理論もさっぱり分からない。だから唯一頼れるのが「擬音」なんである。
正直、擬音には知的なイメージがない上、サウナと化したスタジオでは奇跡的なコミュニケーションが行われる。そうやって曲は少しづつ育っていく。

あ、後着替えが必要なのはシャツだけではなかった。下半身も相当に発汗しているので、次回からはいったんGパンを脱ぎ、半ズボンで練習する事にした。下着、靴下も同様に、持って行こうと思う。

これでスタジオにシャワールームがあれば完璧なのだが、そんな設備投資をしているスタジオなんてあるわけがない。

これから気温も上がってくる季節を迎える。
「発汗量が尋常でないので解散」なんて悲劇を迎えない為にも、気を引き締めていこうと思う。


2006年05月24日(水) 労働者階級の英雄

オアシスのライブDVDを観る。ツアーファイナルのロンドン公演を収録した作品だ。

今となってオアシスはイギリスを代表するバンドであり、フジロック、サマソニにも出演するなど、世界的なバンドに成長した。

彼等が初来日を果たしたのが1995年。俺はクワトロでの来日公演を観に行った。

当時は、同年にカートコバーンが自殺した結果、グランジブームが一応の終演を迎え、時代を象徴するロックアイコン不在の状況が続いていた。

その翌年、オアシス対ブラーの大戦争が繰り広げられ、ブリットポップなる大ブームが訪れる。だから俺が観たオアシスはブリットポップ前夜の「ただのマンチェスター出身のロックバンド」でしかなかった。

確かクワトロも超満員という感じではなかったと思う。淡々と演奏を終え、アンコールもなくクワトロを後にした記憶がある。

強烈に覚えているのが、こいつらの喋る英語だった。
何しろ、マンチェスターの、しかも労働者階級のイントネーションだ。これにはすさまじいものがあった。

名詞の前にはいちいち「ファッキン」をつける。弟のリアムが「ファッキン シバウヤ」を連発するのだが「シバウヤ」が「渋谷」である事を理解するまで結構時間がかかった。NYのヤッピーやロンドンの中産階級は「シブーヤ」と発音するのが普通だから、何とか理解する事ができる。

だが、こいつらの英語は本当に理解不能だった。だからロック雑誌などでオアシスの取材をする際、通訳の人は本当に大変らしい。その為「マンチェなら私にまかせて!」といった極めてマニアックなスキルを身につけてしまった通訳者もいるらしい。

そして彼等のインタビューを雑誌に掲載する際、本来であればこういう日本語訳が最もふさわしいこととなる。

『こんだあ、オラ達、日本さ行くんだべ。フジロックとかなんとかいう祭りにでんだ。はやく日本さ行ってみんなに会えるんが、そら楽しみで仕方なかっぺさ』

しかし、ロックバンドのインタビューにこんな方言丸出しのコメントはとてもじゃないが掲載できない。そこで、

『今度、フジロック出演であんた達の国へ行くんだ。日本のファンのみんなに会えるのが今から楽しみで仕方ないぜ』

と、変換して掲載される。

では世界的バンドに成長した現在のオアシスは所謂、標準的な英語(BBCアクセントと呼ばれる)を喋っているのだろうか?

結果は相変わらず方言丸出しだった。ステージ登場後、ここはロンドンなのに「ハロー、マンチェスター」とか言っている。
ライブ中のMCもさっぱり分からない。

だがこれはマンチェスター出身者の意地なのだろうと思う。
どんなに売れようが、有名になろうが、自分のルーツに正直であるが為、あえて方言丸出しの英語を喋るのだろう。

こういう思いは、俺は結構好きである。



2006年05月23日(火) コップ一杯の情熱

昨年の春、Thrill Freaksが解散を迎えた後、私の心から「バンド」という3文字が急激に離れていった。音楽を聴くあるいはCDを購入する機会は皆無に近くなり、スタジオ、ライブのない週末に違和感を覚えつつ、読書に没頭する日々が続いていた。

かつてバンドによって実現してきた私の表現への情熱は私に一編の小説を書かせた。クオリティーの有無はともかく、「何かを表現したい」という欲求は依然、私の心に残っている事を知った。こうして、私は再びバンドにおける表現に回帰することをぼんやりと思いはじめた。

ところが、この日記で紹介した通り、私の表現欲求が実を結ぶにはかなりの時間を要し、また精神的疲労をも蓄積させていった。
同時に私の心の中にはある葛藤があった。
それは「もしかしたら私は最早、バンドで表現する情熱など、とうに失ってしまっているのでないか」という疑義の念だった。
かつて、私の心の中のコップには、バンドへの情熱が溢れんばかりに注がれていた。ところがこの時期コップの中には、わずか数滴の情熱しか残っていなかった。

難航を続けるメンバー探しの中で、情熱を維持していくのは想像以上に私の心を苦しませた。妻子を持つ35歳の男であれば、情熱を注ぎこむべきは仕事、あるいは家庭の平穏であり、バンドへの情熱はいわゆる青春の1ページとして心の中に大切に保管しておくのが正論ではないかと思った。

そして、ようやく最終のメンバーが決定した。私のコップには情熱が一滴づつ、そしてゆっくりと注がれていった。

最終メンバーでの最初のスタジオの前日、エルカホンのライブを観に行った。彼等の音楽にはコップ一杯に注がれた音楽への情熱が確かに存在していた。そして、情熱を維持していこうとするメンバーの強靭な意志がボーカル、ギター、ベース、ドラムから発せられていた。
私の目には気がつけば涙が溢れていた。
客席は激しいモッシュが繰り広げられ、演奏が乱れる場面もあった。
しかし、そこには喩えようのない美しさがあった。それは「カッコイイ」とか「興奮した」といった類のロックバンドの常套句を遥かに超えた珠玉の空間だった。

私の音楽への情熱は今、この瞬間もゆっくりと、そして確実に蓄積されている。そして情熱を持ち続ける事は決して間違いでは無い事を確信している。

エルカホンのメンバーに心から感謝の言葉を送りたい。

「ありがとう。またスタジオで会いましょう」






2006年05月21日(日) スタジオ

吉田氏を迎えての初めてのスタジオ。
オリジナルのうちの5曲を繰り返し、お互いの感触を確かめ合う。

回を重ねるたびに吉田氏のバスドラと大橋氏のベースがシンクロしていく。
俺のギターと歌もそのシンクロの中、自由に泳ぐ事ができた。

おそらく、吉田氏は以前に渡した音源を相当聞き聞き込んで今日を迎えたのではないか、と推測する。

それは彼にしてみれば当然の事なのかもしれない。
だがその当然の事ができない人間がいるのもまた事実である。

他人との関わりの中で何かを創造する際、クリエイター各人に求められるのは、技術、センスである事は言うまでもない。
そして忘れてはいけない何より大切な事は、一人の人間として誠実な人格が備わっていなければならない事だ。

吉田氏、大橋氏の誠実さと責任感の大きさに心から感謝と敬意を表したい。


2006年05月19日(金) ひさしぶりの上京

MUSTANG JERXを観に、仕事の後新宿レッドクロスへ行く。
今回出演バンドはロックンロールの中でもハンブルグ時代のビートルズっぽいバンドが多く、出演者もお客さんも終始笑顔だった。

前にもレッドクロスに行った時も、魅力的なバンドが多く、自分としては珍しく、開演前に到着した。

そしてMUSTANG JERXの出番。ジローがハイポジションをとんでもない方法でチョーキングしている。近くにいたワルアパのテキサスと指差して大爆笑する。

ライブは多少トラブルがあったものの、いつも通りの気持ちいい時間を過ごさせてもらった。

打ち上げはそのままライブハウスにて行われた。
時間を気にしながら、オキと一緒に新宿駅へ向かう。

総武線の中でオキが「エプロンズ未発表曲集」を作ってくれるとの事。
エプロンズ大ファンの家内も喜ぶだろう。

氷室京介のDVD2枚を新宿のタワレコで買った。
「音楽でメシを食うとはこういう事か」と氷室のストイックさに半ば放心状態となる。

ウチの息子が「プロのミュージシャンになる!」と宣言する日が来るのか来ないのか分からんが、もし彼が宣言したなら、間違いなくこのDVDを見せようと思う。それ位、重みのある作品である。






2006年05月17日(水) 旧友

ジローと約1年ぶりに飲む。
現在MUSTANG JERXで精力的に活動している彼は、全く思い上がることもなく、フリークス時代と全く変わらない等身大のベース弾きだった。

彼と出会ったきっかけで、多くの友人の恵まれた。
道は違うけれど、ずっと同じバンドマンとして付き合っていきたい男である。

『がんばれよ、ジロー」


2006年05月14日(日) ミーティング開催

吉田氏の加入が決まった事で、以前作った曲は全てボツとした。
そして新たなコンセプトの下、バンドを転がしていこうと津田沼のファミレスにてミーティングを行った。
やはりバンドのコンセプトは重要である。これを明確にする話し合いというのも新規バンドならではの楽しみである。

3人の目指すバンドサウンドは以下のようになった。

石川:80年代のニューロマンティック(デュランデュラン、ABC、スパンダーバレー、カジャグーグーなど)に90年代初期の渋谷系(フリッパーズ、カジヒデキ、ピチカート)のテイストをブレンドした方向

大橋:90年代初頭のハウス(プライマル、ストーンローゼズ等)にミスチル的なメロディを乗せたサウンド

吉田:モトリーの猥雑さにポイズンのポップさ、シンデレラのブルージーさにボーイのキャッチーさを融合させたサウンド。メタリカのヘビーなテイストも取り入れたいが俺のボーカルを考慮してあえて取り入れないとの事

個人的にはブルース寄りのロックはスリルフリークスでやり尽くした感が強いので、以前とは全く異なるサウンドを出してみたかった。
しかも今時、ニューロマなんてやってるバンドはそういないと思う。
そんな今だからこそ、ニューロマ+渋谷系が自然と浮かんできたのだ。

問題は大橋氏の嗜好である。彼の欲するサウンドを実現するにはドラムとPCの同期が必要となる。ハウス独特の4つ打ちビートをPCで鳴らしながら、吉田氏の生ドラムが重なる形となる。

吉田氏がそのスタイルに抵抗を感じるのではないか、と思われたのだが、意外な事に「全く問題ない」との事。但し、弦楽器に関しての吉田氏の要望を我々が飲めるのであれば、という留保つきのOKだった。

吉田氏の要望とは「ジャクソン製のギターを弾いて欲しい」というものだった。さらに大橋氏からは最低でも5つ以上の音色を使って欲しいことから、俺にマルチエフェクターを使って欲しいとの要望も出た。

これには俺も驚いた。愛器BLACK BEAUTYをこのバンドでは弾けなくなってしまうからだ。その上マルチエフェクター。説明書を読破するのに1週間はかかりそうなシロモノだ。

ただ吉田氏大橋氏が言うように「何か新しい事を始めるには、古いものを葬らなければならない時もある」という説得に俺はついにOKした。

この日記を書き終えたら、ジャクソンのHPを見てみようと思う。
あと、マルチエフェクターか。。ふう。。

・・・というのは全て冗談です。レスポールを弾き、ワウとブースターでマーシャルです。つい調子に乗ってしまいました。信じた方、まさかいるとは思いませんが、もしいたら『ごめんなさい。もうしません』


2006年05月13日(土) 「派閥」というもの

高校生の時、当時はまだパルコのテナントになっておらず、パルコの真正面に店をかまえていた津田沼の島村楽器で、「スクワイヤー」というフェンダーの子会社のギターを買った。黒のストラトキャスターだった。
クラスの友人達もこぞってギター、ベースさらに家が金持ちの奴はドラムセットを購入し、学校内でポコポコとバンドが生まれていった。

当時のバンドマンの勢力分布は下記のような感じだった。おそらく、どの高校でも同じ状況だったと思う。

【メタル軍団】
当時大ブームだったLAメタルをこよなく愛する。ガンズ、ラット、モトリー、ドッケン等々。さらに突っ込んだ奴はアイアンメイデン等のヨーロッパ勢にも手を伸ばす。「プレイヤー」「ヤングギター」を愛読する。

【ジャパメタ軍団】
44マグナム、リアクション、アンセム、デッドエンド等の日本のHR/HMを愛する。
メタル軍団とは対立関係にはないが「ロッキンf」を愛読する。

【ビートバンド軍団】
簡単に言うとボーイのコピー軍団。当時の最大派閥。布袋モデルのテレキャスを持っている事がステイタス。ボーイのバンドスコアを愛読。

【盗んだバイクで走り出す軍団】
尾崎、浜省、長渕を愛する。基本的に教師は全て敵であると考えている。その為、教師を「先生」ではなく「さん」と呼称する。アコギの弾き語りを追求。3フィンガーというテクニックをマスターすると仲間から尊敬を集める。意外な事に女子にモテる。

【ロックンロール軍団】
スライダーズ、レッドウォリアーズ、RCサクセションを好む。
楽曲は基本的にかったるく、早弾きなどの高等テクは全く登場しない。
今や死語となりつつある「おいら」という一人称を多用。
メタル軍団からは「早弾きがねえ」とバカにされ、ビートバンド軍団からは「曲のテンポがかったるすぎる」と批判される。
だが、ここからストーンズに移行する者も多く、本人達は「本物のロックを聞いている」という自覚を強く持つ。

【ストリート系ロックンロール軍団】
ロックンロール軍団が「俺とお前」のロックンロールを基本とするのに対し、こちらは「俺達と奴等(体制側)」のロックンロールを基本とする。
「それじゃ、盗んだバイク軍団と変わりないじゃないの」と思われがちだが、あくまでバンドサウンドを基盤とする点で異なる。
モッズ、ストリートビーツが代表格。

【ハードコア軍団】
前に日記で触れたような、SOB、ガーゼ、リップクリーム、ディスチャージを好む。見かけによらず中身は常識人であるわけがなく、新宿アンティノックを聖地と崇める。「DOLL」を愛読。津田沼付近でヤンキーによる「パンク狩り」をされ、ボコボコにされる事もしばしば。

【ビートパンク軍団】
ブルーハーツのコピーしかやらない。学祭では人気を集める。
演奏が比較的簡単なので、わりかしすぐ演奏できる。
当時の第2派閥。

【宝島軍団】
当時のサブカルチャー誌「宝島」を愛読する。「ぴあ」には載っていないイベント等に顔を出す事で優越感を得る。あまりバンドを組む等の行動には出ない。女子の構成比率が高く、ヒステリックグラマーの専属モデルだった中川比佐子をカリスマとする。

【なんとなくバンドブームに乗っちゃた軍団】
楽器は演奏しない。女子が中心。とりあえずあらゆるジャンルを横断し、音楽よりビジュアルを重視する「パチパチ」を愛読。

とまあ、主だった軍団を挙げてみたが、俺は高校1年時にはハードコア軍団に属し、ようやくギターがまともに弾けるようになりかけた1年の終わり頃からロックンロール軍団に加入した。

しかし、このロックンロール軍団は極めて排他的な特性があり、他のロックを完全否定してしまう傾向があった。

これには困った。だって俺はボーイもブルハも尾崎もモトリーも大好きだったからだ。

そんな高校生活を経て、昨年モトリーの来日公演を見た。ヴィンスニールは明らかに太っていた。そしてサビのほとんどを客に歌わせていた。

先日、ボーイの武道館ライブのDVDを買った。やっぱり氷室は今見てもため息がでる位かっこよかった。

10代の頃、なぜあんなにロックの派閥が生じたのか、今をもって謎である。

どんなジャンルでもロックである事には変わりはないのにね。


2006年05月12日(金) 再生 最終章

自民党の総裁候補がより具体的になってきたというのに、我がバンドは未だ明確な候補者が決定せず、ソフト君との無為なスタジオを重ねていくばかりだった。

これはソフト君に対し、失礼極まりない行為だ。正式メンバーである事を一切告げず、俺とベーシストのかすかなモチベーション維持の為だけにスタジオに入っているにすぎないからだ。

ある時、一人のドラマーが心に浮かんだ。

そのドラマーはこの日記を読んでいてくれて、かつて俺にこんな質問をした。

『俺は仁さんのバンドの何番目のドラマー候補者なんですか?』

あるいは、こうも聞かれた事がある。

『俺じゃダメですか?』

そのドラマーの名は吉田昌弘。現在、風林火山、タイガーバンドでドラムを叩いている。先日ライブを行った自慢☆毛のドラマーでもある。

吉田氏に大変失礼な事に、俺は彼のこれらの質問は完全なギャグだと思っていた。
だが、その逆の可能性もない訳ではない。俺は思い切って彼にメールを送った。

すると間もなく返事がきた。

「だーからずーっと言ってたでしょ。とりあえず音源を聞かせて下さい。俺もまだまだ勉強したいんで」

ここから先は話が早かった。渡した音源に対し吉田氏から「カッコイイです。リスペクトします」という評価を貰った。

そして、風林火山の打ち上げの席で吉田氏と活動条件について話し合った。

俺は「バンドを組む」という事は3ピースのバンドであれば、3者がそれぞれ残りの二人と契約を締結する事と近似だと思っている。

契約の内容はごくシンプルな「自分以外のメンバーの楽しみを決して奪ってはならない事」だ。

俺はギターを弾き、歌を歌う。この行為は当然、一人でも可能である。
しかし、そこにベース、ドラムが加わることでその「楽しみ」は倍加する。
同様にベーシストもドラマーもバンドを組む事によって楽しみを倍加させていく。

そうであるならば、メンバー各人は決して他者の領域を侵しては決してならない。

この事を前提に、吉田氏と下記のように活動の方向性を決めていった。

1.スタジオ、ライブの入り時間を厳格に守る事
2.スタジオ練習は日曜日とする事
3.ライブは月一回とし、土日祝祭日に限る事
4.自分のバンドへの不満、悪口をメンバーのいない場所で漏らさない事
5.逆にメンバーへのダメ出し、要望はスタジオ内かミーティングの席のみで表明する事。
6.バンドの精神的一体感が演奏面に具体化される、即ちバンドの演奏にグルーブ感が醸成されるには少なくとも1年以上の期間が必要である事を認識する事。
7.スタジオ、ライブ等のスケジュール管理は各人が責任を持って、かつ迅速に行う事
8.スタジオのエアコンは入れない事

以上、8を除けばごくごく当然の事項をお互いに確認していった。
なお、8については吉田氏のバンド哲学に由来するもので、詳細は別の機会に話そうと思う。

まず、3について。バンドのクオリティーを図る際、「月あたり、あるいは年あたりのライブの本数」を基準とする姿が見受けられる。
俺も25歳頃の頃、この法則に則り、「我々こそ真のライブバンドだ」と思い込んでいた。
けれど、どんなにライブを重ねても、動員は増えることはなく、自腹を切ってのライブを繰り返すばかりだった。そして累積する赤字は5年後、10年後の自分達への先行投資と考え、自分達を半ば強引に納得させていた。

しかし、この事実はバンドのモチベーションをじわじわと低下させ、1回あたりのライブのインフレ化を招いた。自分達のライブに対する需要を供給が大幅に上回っているのだから当然の結果である。

今になって切実に思うのは、もしあるバンドがメジャーを目指すならば、まず問われるべきはバンドの動員力であるという事だ。動員力はそのバンドの商品価値そのものだから、それが高ければ高いほどバイヤーである音楽事務所、レコード会社との接触の機会は増えていく。しかも現在は音楽業界は不況の真っ只中にある。かつてのバンドブーム期のように「日本のロックシーンを育てていこう」などという余裕はどこにもない。シーンなど関係なく、リスナーはロックだのポップスだのといったジャンル分けに無関心となり、「大衆が好む音楽=良い音楽」という構図が完成しつつある。

今、25歳に戻れるならば、当時とは全く異なる戦略をとったろうにと思うのだが、そんな事を並べても仕方のない事だ。

俺は当然の事だが、プロ志向ではない。また30歳を超え、「最小の投資で最大のリターンを狙う」一人の経済人としての知恵も身につけた。

だからこそ、ライブは月1回を限度とし、観に来てくれる仲間、友人達に常に新鮮なライブ空間を提供できるようにと考えた。

また、6についてだが、これを実践できているアマチュアバンドは俺の知る限り美穂ちゃんが参加している「ダニー」だけである。2回ほど観させて頂いたが、自分の甘さが嫌というほど身にしみる素晴らしいライブだった。
多くのバンドがバンドの精神的一体感を演奏に反映させる事に無関心でTシャツ作り、音源作りに励んでいる。これでは精神的一体感を客に押し付けているだけだ。そしてグルーブの感じられない演奏が収録されているCDを誰が買うというのだろうか。

以上、こんなにも当然な事を守れない人間とは彼にどれだけのスキル、センスがあったとしても俺は組もうとは思わなかった。

事実、「あと2回のスタジオ練習でライブができる」と豪語した方もいたが、それはライブではない。ただ記憶した曲を演奏したにすぎない。それをライブと称するのは思い上がりにもほどがある。よって丁重にお断りさせて頂いた。

さて、ここまでの経緯から、次のような推論が成り立ち得る。

『そうか、あいつは吉田氏のドラムが欲しいが為に、自慢☆毛にあれほど肩入れしていたのか』といった類の話だ。

タイミングを考えればそう思われても仕方ない。実際、俺が自慢☆毛のライブ告知をしているのを訝しく思っている人がいる事も知っている。

だが吉田氏は俺がたとえどんなに自慢☆毛に尽くしたとしても、渡した音源のクオリティーが彼を満足させるに至らなかった場合、即座にNOと言う人である。
従って、もし彼がNOと言ったとしても、感情に訴え、説得を試みようとは全く考えなかった。答えが分かっていたからだ。

「それはそれ。これはこれ。」バンドへの協力と加入要請、両者は全く別次元の話だからだ。

それでも吉田氏の加入には何らかの感情、例えば俺の音楽活動復帰に協力したい、等の感情が働いたと思う方もいるかと思う。

なるほど、ある意思決定を下す際、感情を全く介さずに行うことができるほど、人間は器用な生き物ではない。

では、俺は俺の音楽活動復帰に協力してくれた吉田氏の差し出す手を強く握り締め、涙を流せばよいのだろうか。

それはある種の「美談」となり得る。しかしその瞬間に吉田氏はバンドでドラムを「叩く」のではなく「叩いてあげる」立場に変貌を遂げる。

吉田氏は俺の復活だとかその為のサポートだとかの類の発言は一切しなかった。

それは、彼が「叩いてあげる」などといった思い上がりをこれっぽっちも持っていなかった事を意味する。彼は俺が俺の為にギターを弾くのと同様、彼はあくまで「自分の為に」ドラムを叩く。そうあって然るべきなのだ。

これでもなお、何らかの疑義を思う方は、この話を肴に酒でも飲んで欲しい。
この酒の肴は幸い食べ放題のうえ、無料である。存分に楽しんで欲しい。

ただ、俺達は仮に何らかの揶揄を耳にしたとしても、心がピクリとも動揺しない絶対的な自信がある。

何故なら、その程度のプライドなど、悪いがとうの昔から持ち合わせているからだ。

業を知れ。後はやりたいことを真剣に楽しむだけだ。

『SISTER RAY』

 G/Vo 石川 仁  B 大橋昭一  Dr 吉田昌弘

  








2006年05月04日(木) 焼肉と立場の違い(前編)

タイガーバンドが本年7月8日をもって解散する事が決定した。
この件は小岩M7での彼らのライブ中にギターボーカルのこばじゅんによって公となり、彼等のHPにおいても発表されている。

そして、こばじゅんが「ギターボーカルとは何ぞや?」というテーマで悩んでおり、一席設けつつブラックと俺に意見を求めている事を知った。

彼が悩んでいるのならば、自分の答えられる範囲で力になってあげよう。
ただ、悩みが余りにも抽象的であるので、事前に彼に電話を入れ、論点を明確にしておこうと思った。

そしたら、彼の返事は大筋でこんな感じだった。

『いや、皆さんと楽しく焼肉を食べたいと思って。小岩に8時集合です』

なんだ、全然悩んでねーじゃん。

当日夜8時メンバーが小岩に集合。ブラック、ヨッシー、サチコ嬢、こばじゅん、あと俺。

ナビゲーターは主催者のこばじゅんが担当。小岩のストリートを威風堂々と闊歩するこばじゅん。やがて一軒の焼肉店の前で歩みを止めた。
そこはチェーン展開している大手焼肉店だった、こばじゅんが店内に入り、数分後、店から出てきた。

「1時間くらい待つそーです」

考えてみると世はGWだ。仕方ない、この店は諦めよう。

再度歩みはじめたこばじゅん。おぼろけながら見えてきた焼肉屋の看板を指差し、今度はこう言った。

「あの店の焼肉はマズイです」

となれば、その焼肉屋はパスするだろうと誰もが思った。
ところがこばじゅんはその「マズイ焼肉屋」にすーっと入ってしまう。
そして、再び我々の前に姿を現し、今度はこう言ったのだった。

「あと10分か20分位待てば、マズイ焼肉が食べられますけど、どうしますか?」

誰が好き好んでわざわざマズイ焼肉を食べようと欲するだろうか。
私事だが、俺はこの日、何も食べずに小岩にやってきた。
理由はただ一つ「美味しい焼肉を食べたかったから」だ。
当然の如く却下。

その後、個人経営的な韓国料理店、焼肉店をキープしつつ、ブラックの提案により「七輪」にベースキャンプをはる事となった。
お気づきのように、最初からここを選んでおけばよかったのだ。

焼肉はとても美味しく、サブメニューのエビフライ、ニンニクのホイル焼も絶品だった。

テーブルのポジションは俺の左隣がサチコ嬢、右隣がこばじゅんだった。
確かほんの数分間、こばじゅんとギターの話をした。何を話したのか記憶が不鮮明だが、これで一応、こばじゅんの悩みに答えた事になるのだろうか。

そして、俺がトイレで用を足し、戻ってくると、こばじゅんが俺の座っていたポジションにちゃっかり移動し、サチコ嬢に何やら熱く語りかけている。

「結局、サチコ目当てかよ、こばじゅん」

そうこうしてる内に電車もなくなり、蔵前橋通りのガストで始発を待つ事にした。

ひとつだけハッキリした事がある。

それは「こばじゅんが最強のボケキャラである事だった」

もし、彼が今日の集まりに参加していなかったならば、ボケはいつも通り俺の担当となっていたはずだ。

ところが、この日に限っては俺はこばじゅんにツッコミを連発していた。
そしてツッコミ担当者の観察力、集中力、瞬時の判断力に初めて尊敬の念を抱いたのだった。

ヨッシー、ブラック、団長、ジロー、秀司、その他多くのツッコミ担当者の方々、本当にごめんなさい。あなた方のツッコミがあって私は酒の席でもひとりぼっちになる事なく、楽しい酒が飲めていた事を今日はじめて僕は知りました。これからはその思いを忘れず、精進してまいる所存です。

ところが、この発見がとんでもない大事態に変貌をとげる事になる。

続きは次回。




2006年05月03日(水) はみ出し“ HARD ROCK FILE ”

ルート14に風林火山のライブを見に行く。
事前にヨッシーから「今日は対バンのレベルが高いです」というメールをもらっていたのと、一人で時間を持て余していることもあり、開場の直後にルートに到着した。

どのバンドも個性的で時間の経過を忘れる位、演奏に聞き入ることができた。

特に対バンのAccidentally Encountarというバンド。

女性ボーカルでヘビーなリフが絡んだり、歌い上げるメロディアスな曲もあり、客を飽きさせないライブだった。
あれがブラックに「カルメンマキに似てるね」とコメントしたところ、
「じんくん、たとえが古すぎるよ」と一喝された。

そして、風林火山。ライブを観る度に贅肉が削ぎ落とされて、生身のグルーブが増していくように感じる。ストイックさの限界まで挑み続けるバンドだ。

打ち上げは風林火山史上初めての「他のバンドとの合同打ち上げ」だった。
一緒に打ち上げに参加してくれたのは前述のAccidentally Encountar。
俺とひとまわり以上年齢が離れている若者達と楽しくおしゃべりして、楽しかった。

気がついたら朝になっていた。

今日は夜に、焼肉パーティー。メインアクトはタイガーのこばじゅんである。

あー、ダイエットはどこへ行ったー?




2006年05月02日(火) ひとりぼっち

家内が息子を連れて実家へ帰ってしまった。
あ、別に家庭内不和とかそういうんじゃないよ。
妻と息子はちゃんといつもの笑顔で帰っていきました。
俺も後から追っかけで帰る予定です。

現在、リビングで一人、日記を書いています。

『自由な時間』さあ、これから何をしようかなーなんて考えてみる。

・ツェペリンのDVDを観る
 買って以来、通しで観た事がないので。

・本を読む
 東野圭吾の「白夜行」がやっと文庫化されたので。
 あと「完全パンクマニュアル」なる本を買ったのでそれも読みたい。

・ライブに行く
 明日は風林火山のライブなので。

・食べる
 今回のGWでは焼肉&横浜中華街が控えている。

まあ、こんな感じですね。
皆様も楽しいGWを。



2006年05月01日(月) 還暦迎えて木から落っこちる男

キースリチャーズがヤシの木から落っこち、検査入院した模様。

NHKでストーンズを見た。

ミックジャガーってのは最早化け物だと思う。


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