Noir/ Rouge noir
diary index|pathos*
「こんばんは」 私は暫く、その声に気付かなかったようだ。 「マドモワゼル、大丈夫ですか」 肩に手を置かれ、ようやく私は我に帰った。 振り返ると、全身をラバーで固めた男がいた。ラバーでできた神父服。 「…」 なんと言ったら良いのか解らず、暫く無言のまま神父を見つめた。 神父は全頭マスク越しに言った。 「今日、ここに赴任したばかりの新しい神父です」 「ああ…」 私は吐息とも返事ともつかない声を絞り出すのが精一杯だった。 私はようやく、涙に濡れた顔を見られているだろうことを思いついて、恥ずかしくなった。 私はバッグを探ってハンカチを取り出し、御化粧が崩れないようにそっと顔を押えた。 「もし良かったら、話していかれませんか」 「え…」 「私はここの神父です。話したら、すこしは気分が良くなるかもしれません」
私は絞り出すように、今まであったことを話した。 時折涙がこぼれて、私ははやる気持ちと裏腹に、なかなかきちんと話ができなかった。 それでも私は、大分気持ちがほぐれたのを感じた。 私は話し終えたあと、またすこし泣いた。
「神父様、ありがとうございました。完全に元気になるにはまだまだ時間が必要だと思いますが、取り敢えず今は大丈夫ですわ」 そう告げて、私はもういちどハンカチで顔を押えながら立ち上がった。 「そうですか」 全頭マスクに遮られて表情は見えないが、優しそうな人だと思った。 「わたしく、オーギュスティーヌ。オーギュスティーヌ・ド・ヴェルレエヌ。 これでも名字にドがつくわ。没落貴族なの」 「ほう」 「シテールで客を取っています。 もし良かったら、会いにいらして。そうだ、神父様の御名前は」 「私の名前はニュイ。ニュイ・ノワールといいます」 「ニュイ様ね。覚えておきますわ。そうそう、この顔を目当てにシテールにいらしても、 きっと解らないわ。わたくし、シテールではマスクつけていますの。 目だけ出たエナメルのマスク。それにシングルインレットのガスマスク。 それが私のトレードマークですわ」 「解りました」 「マスクをつけた娼婦は、シテールに只一人です。覚えていらして」
この「架空の巴里」ではボンデージが目下大流行中。 誰もがボンデージファッションで街を歩く。 聖職者であってもラバーを着用するほど、ボンデージは普通の衣服だ。 「シテール」でマスクを着用したのは、私が初めてだった。 飾り窓の傍に座った私を、誰もが好奇心の眼差しで見つめた。 私が瞬きすると、どよめきが起こった。マスク好きの殿方たちを刺激したようだ。 平凡な娼婦だった私が、個性を持った一流の娼婦に生まれ変わった瞬間だった。
「伯爵様、大丈夫ですか」 私は常連客と過ごしていた。 伯爵はここでは「繭」と名乗っていた。 彼は全身をラバーで完全包囲し、ポンプをマスクにつないで呼吸を制御している。 私は、彼の細くしなやかな肢体と、 私のような者にも優しく普通に接して下さる伯爵が大好きだった。 伯爵は吐息を荒くして、悶えている。気持ち良いのだろう。 私は乗馬鞭で、彼の胸に触れてみた。 「ふふっ」 彼は余計に悶えた。 面白くなって、私は彼のマスクとポンプをつなぐチューブを、ハイヒールで踏んづけてみた。 一瞬、彼はものすごく苦しそうに肢体をくねらせた。 「伯爵様、すごく素敵ですわ」 私は口に出していうこともできないほどに興奮した。 理想通りの男性だった祖父の屍体を発見したのは、私だった。 朝、祖父を起こしに行ったとき、祖父は既に固くなっていた。 開かれた目蓋、硬直した身体を、私は忘れられない。 私は死にそうな男性が好きだった。 細い細い腕や、脚や、薄い胸板。自らの呼吸を制御して、 窒息状態を自らに強いる男性に強烈なフェティッシュがあった。 そういうことに説明をつけようとするなら、祖父の遺体しか思い当たることはなかった。 私は窒息寸前で悶える「繭」をじっと見つめた。神々しかった。神秘的だ、と思った。 私はずっと、自分の「宝石」に痺れを感じていたが、 そこに触れることは神を冒涜するような気がして、どうしてもできなかった。 私にはただ、苦しそうな「繭」を見つめ続けることしか許されない、と思った。 伯爵はようやく満足したのかポンプを外してくれと言った。 私は教えられた手順で、いつものように素早く彼の呼吸を自由にした。 「フー…」 放心したように寝台に四肢を投げ出す伯爵様も、素敵だった。 私は彼に抱きついて、 「伯爵様、今日もとても素敵でした」 と告げた。 伯爵様も、私を抱擁して下さった。 勿論、私はマスクもキャットスーツもちゃんと身につけている。 彼の細い身体に神性を感じて、聖なる存在に抱かれる幸福を味わった。
私の客は、性交を必要としない人が多かった。 なかには新規顧客が「ボンデージファッションのままコイトゥスしたい」と 申し出る場合があったので、マスクをつけるようになってからは新規は断るようにした。
「ニュイ様、すごいですね」 「気に入って戴けましたか」 「はい! とっても」 神父様は、今日も自作のイラストを見せて下さった。 「私、可愛いですね。こんなに綺麗に描いて戴いて、恐縮してしまいますわ」 「いつも、貴女は綺麗ですよ」 神父は初対面のあと、すぐにシテールに通って下さるようになった。 けれどコイトゥスも、なんのプレイもなく、 神父様は私にただ、自作のイラストを見せて下さるのだった。 私はそのイラストのなかで神父様に可愛がられている。 「ふたりの、秘密です」 神父様はそう言った。 「はい!」 私はそう言って、神父様に抱きつこうとしたけれど、神父様はいつも通りそれを優しく制した。 「意地悪なニュイ様。ハグくらい御赦しになっても良いかと思いますわ」 でも、私は解っていた。 ハグを御赦し戴ければ、次は神父様の首筋に接吻したくなるし、 その次には全頭マスク越しににキスしたくなるのは当然。 更には、マスクを外したくなる。 そしていつか私は自分のキャットスーツの股間のファスナーを、 神父様の為に下ろしたくなるのだ。 恋愛すると、酷い欲張りになるのは自分でよく解っていた。 だからこそ、このくらいで我慢しないといけない、と自分でもよく解っていた。 私は仕方なく、神父様に跪いて、ガスマスクを外して唇を晒した。 「これくらいのことは、赦して戴きたいわ」 そして勝手に、神父様の御靴に接吻をした。
荒井慶騎と世都セレナ
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