Noir/ Rouge noir
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2005年10月30日(日) 連載小説「芳香の女王、彷徨の王子」最終回

「花山さん、荒井慶騎とどういう関係なんですか」
店に到着するやいなや、バイトの女の子がそう言った。
「つきあってるんですか? それにしては、花山さんの名前知らなかったし」
「…何度か、いらしたの。ここに」
「それは私も知ってますよ。見たことあるもの」
「それだけ」
「あのあと、つきあいだしたとか?」
「あのあと」とはつまり、この子が私の居場所と名前を荒井慶騎に教えたあのときのことだろう。
「つきあってないわ。単なる、御客様よ」
「でも、花山さん、荒井慶騎の好みっぽいし」
「私は彼の好みには、痩せ過ぎよ」
「細いのはウエストでしょう。花山さん、胸はすごく大きいし、御尻もちょうどいいし」
そのせいで、服がかなり制限されていやなんだけれど…と関係ないことを考える。仕方ないので自作しているけれど、結構面倒。お店を見て回っても、好きなものが買えることは少ない。ミホマツダのスーツなんて、着てみたいのだけれど…。ナオトとかも着てみたいのよね。ああ、そうだ。スカートなら入るわね。それから、なんといったっけ、あのコルセットの御店…一度御邪魔してみたい…バスト下のタイプならば、充分入るわよね…
「花山さん、荒井慶騎のこと好きなんですか?」
止めどなく広がる思考を打ち破られた。はっとする。
「ん…今のところは…興味がある程度ね」
「ほんとに〜?」
「本当よ」
「じゃ、私狙っちゃおうかな」
「どうぞ」
だけどその前に、ほほにたくさんあるそのニキビをなんとかしないと、慶騎は鼻にもひっかけてくれないわよ。

真実に愛が存在しないのに、調教して良いか。
私はそのことで悩んだ。愛しているか、或いは、今後愛せるかどうかの試金石として調教するということは私の信念に反するのではないか。
「愛する男の身体と精神と人生を縛る」
それが私の信念だ。
何度も、夢のなかに現れる「彼」に尋ねてみた。
どこまでも白い風景。霧のなかにやわらかく風が吹き、私は黒いアイアンレエスのベンチに腰を預けている。「彼」はあの頃のように、私の前の地面に正座している。
「荒井慶騎という男を縛ってみたいの。拘束して、ねじふせてみたい。征服してみたい。だけど、愛していないのに…」
「彼」は微笑むばかりで答えない。
しかし、ある晩「彼」は言った。
「貴女は、興味の無い男を縛るような、無駄をする女王ではありません。荒井慶騎とやら、なかなか良いのでは?」
「彼」はそれ以来、夢に現れなくなった。
その代わり、荒井慶騎の面影が夢に現れるようになった。
私は新しいロープを購入した。鞭は、昔からのものを使うことにした。そして、一度行ってみたいと思っていた素敵なホテルの部屋をとった。



こんなにも美しい言葉で構成された文章を読んだのは、初めてだ。それが「美神」を読んだ最初の印象だった。それから遡って、彼のエッセイなどを読んだ。エッセイであっても、彼は美しい単語を極力選び、遣っていた。
彼は中井英夫という作家の「小説は天帝に捧げる果物。一行たりとも腐っていてはならない」という言葉を大切にしていたそうだ。もしかしたら、だからこそ小説を書けなくなったのかもしれない、と私は思った。
そのとき、ふいにあの感触を思い出した。
慶騎君が、私の太腿にキスした、あの感触。
全身に、ぴしりと一鞭受けたような緊張感が走った。
思い出す度に、胸が締め付けられた。
けれど、私は二度と彼の前に姿を現すことはできないだろう。理由はよく解らないけれど、そう思う。
私は間違っていた。真相なんか話すんじゃなかった。そうすれば、慶騎君はいつまでも私をリリカ様だと思ってくれた。いいえ、もっと上手く説明すれば…きっと私を「藤井百合子」として愛してくれるはずだった。
後悔というものが、苦いだけでなく、甘い味も持っていることを彼は教えてくれた。私は何度もその味を反芻した。



「脱いで…先ずは縛るから」
跪いて私に頭を垂れていた荒井慶騎は、丁寧に返事をしてから立ち上がり、服を脱いで行った。黒衣に包まれていた身体が露になってゆく。その細く、白い身体に、私は魅了されていることに驚いた。「彼」と全く違う、若く引き締まった肉体。そして、初めて直に見る「刺青」と言う芸術。何かの文字だ、と解った。ゴシック調のフォントで描かれた文字。もしかしたら、以前に慶騎を調教した貴婦人の御名前かもしれない。…そうだ、「リリカ様」とかいう歌手のことをエッセイに書いていたわね…。
そう気づいたら、身体が硬直した。でも、刺青は男の場合なら跡を残さずに綺麗に消せると聞いた。今後、消させたくなったら消させれば良い。この背中の肖像は、リリカ様の御尊顔ね、きっと。…私ににた顔のつくりだ。慶騎はこういう顔が好みなのだ、と思った。これはなかなかに良い出来の刺青だから、消させるのは惜しい。私と似た顔なのだし、これは私だということにさせよう。
手が震えたけれど、丁寧に、新品の綿ロープをかけていく。ひとつひとつの動作に、魂を込める。これが私の愛の作業だ。わざわざ、愛してもいない男にこんなことをしてやる気にはならない。
縛り方は忘れたと思っていたが、手が覚えている。荒井慶騎の身体に、黒いロープが美しいアラベスクを描いて行く。愛を込める程に、縄は肌に食い込む。
慶騎は、黙って私の縄に身を任せている。肌に縄がきつく食い込んでも、すこし顔を歪ませる程度で、よく我慢している。自分で言うほど、エゴマゾではないのかもしれない。
全身に縄をかけてから、床に転がすと、恥ずかしそうに顔を背けている。羞恥心があるのはなかなか良い。脚のほうにも縄をかけてやってから、ブーツを穿いている足で慶騎の顔をこちらに向けさせる。
「ありがとうございます…」
慶騎は恥ずかしそうにだが、「縛って戴いたこと」に対する礼をきちんと言った。
しかし、股間はもう屹立していた。「彼」よりもそれは大きく、垂直に…。
「いや! 気持ち悪い。もうそんなところ大きくしたのね」
「も…申し訳ありません…」
「処女にそんなものを見せて」
「えっ?」
「私、処女なのよ。SMしかしたことない。しかも、ひとりとだけ」
「そう…ですか…」
慶騎の塔がまた固さを増したようだった。それを見たとき、おぞましさを感じながらも、花唇の奥の宝石が固く尖るのを感じた。花蜜がすこしずつ、花唇を濡らすのがはっきり解った。
「だから、そんなエッチな男の子はいやなの」
私は早速、鞭でお仕置きをすることにした。
「ああっ!」
「私に仕えたいの? 私から御褒美が欲しい?」
慶騎の苦痛の叫びが聞こえる度に、私の宝石が大きくうずいた。花蜜がどんどんあふれる。
「欲しい…です」
慶騎が震えている。感じているのだ。私たちは今、感じ合えている。何かを共有している。
戒めを解いてやり、身体を冷たい床に横たえることを赦す。椅子に浅くかけてから、
「鞭に耐えられたから、御褒美あげるわ。お前は何が良いの」
と聞く。
「希望を言ってもいいのですか」
「いいわよ」
「あの…足の、御指を…舐めさせて戴けますか」
正直、肉体奉仕をさせてほしいと言われたらどうしようかと思っていたので、これには安堵した。
「良いわ。脱がせて、舐めていいわよ」
私はブーツのまま、脚を投げ出した。慶騎はブーツのファスナーを一気におろした。もっと丁寧にさせないといけない。一鞭くれてやると、慶騎は呻いた。
「私のものなんだから、もっとていねいに扱うのよ」
「大変失礼致しました。気をつけます」
今度はていねいに、そっと私の脚をブーツから抜き取った。ガーターストッキングを穿いた儘だったので、どうするか見ていたら、慶騎はストッキングのまま足指に鼻孔を宛てがい、目蓋をとじてその香りを楽しんだ。それから、ストッキングの上から親指の裏側を舐めた。ゆっくりと、舌を様々な部分に這わせる。私が与えた傷を背負った男が、一心に私の足を捧げ持って舐め回すのを見ていると、また宝石が蠢いて、花蜜が溢れ出して行くのを感じた。自分で宝石を弄んだときと同じ…いや、それ以上の快楽。知らず、腰が動いてしまう。吐息も漏れる。
「慶騎…私は良い女王かしら?」
「最高の方でございます、瑠璃様。どうか、御傍に置いては戴けませんでしょうか」
私は一瞬、「あの人」の面影を想った。
歳若い分、「彼」よりは未熟だろう。けれど、育ててみたい。この者に賭けてみたい。
私と同じ世界を愛する、この男に賭けてみたい。そして、共に成長したいと思った。
まだ何も解らないが、この自分の足を求めている男がとても愛しく思えた。
「…御前次第よ。取り敢えずは、…合格」
快楽で声が震えるのを隠すのに懸命だった。
「ありがとうございます!」
私がしっかりと感じているのを解っていないのか、それよりも「合格」が嬉しいのか、慶騎は笑顔を浮かべた。この美形ならば、連れて歩いても絵になるだろう。

真実の愛をみつけられるかはまた別の話かもしれないが、…私は思った…いや、その相手は慶騎かもしれない、とも…

<「芳香の女王、彷徨の王子」終>
クラヤマツミの次回作に御期待下さい。


2005年10月29日(土) 連載小説「芳香の女王、彷徨の王子」第6回



帰宅してキッチンにいたばあやに声をかけると、ばあやはいつも通りの暖かい笑顔で迎えてくれた。
「もうすぐ、夕飯です」
「ありがとう」
私は自室に入ると、ゴルティエのバッグを床に置き、ソファに腰を下ろした。
今日は、久しぶりにたくさん喋ったから疲れた…
こんなに人に話をしたのは何年ぶりだろう。
多分、「彼」以来だ。
彼が死んでから、私の時は止まっている。
未だに彼を思い出すと涙がこぼれるのは、彼の死そのものよりも、彼がいなくて、誰も私を愛してくれないからだ。ばあやは別だ。家族だから…。
両親が私を愛していることと同じ。
私は両親の愛情と、ばあやの愛情を一身に受けている。その家族愛とは別に、女として、女王として愛されることを欲している。
女王とオス奴隷という愛の形。
それだけが、私の信じられる真実の愛だった。女王と奴隷が真実に愛し合い求め合う限り、神でさえ二人を裂くことはできない。私にとってSMというのは、そういうロマンチックな関係なのだ。真実の愛という幻想を男性と共有することができる唯一の恋愛形態だと考えている。
けれど…私は、女王として他の男を支配することができるんだろうか? もう、私の奴隷になってくれる男なんてもういないのでは? 
それは彼が死んで暫くして、S女としての欲望を満たせないと気づいてからの悩み事だ。
何度かインターネットで、女王様を求める男たちの掲示板を覗いてみた。失望した。「真実の愛」というものに裏打ちされた主従関係を求める者はおらず、刹那の性的快楽を求める者たちばかり…おぞましい単語ばかりが映し出された画面に吐き気を覚えた。
ならばと思い、今度は自ら掲示板に書き込んで奴隷を募った。
「当方23歳S女、長身やせ形、仏文学とゴスが好きで、大学で服飾文化を専攻しています。奉仕型M男性を求む。鞭が好きですが、縄化粧に自信があります。精神的な関係を重視します。既婚者、未成年はお断りします。」
何人かの返信はあったが、こちらでも絶望させられた。まず、不特定多数の女王に同内容発信していると思われる文章に腹が立った。他には私の若さや身長といった外的要素だけに惹かれている者が大部分を占めた。瑠璃に興味を持っているというより、23歳のスレンダーな女と性的なプレイをしたいというメッセージが強く感じられた。
それでも中には好感触の者がいたので、何度かメール交換をしたが、実際に会うのは恐ろしくて、そのまま音信不通になってしまった。
大学でも出会いはあった。おせっかいな級友たちが「紹介」してくれるのだが、大体身体を求めてくるのでうんざりさせられるし、調教してもついてこられるようなM性のある者はもとより、愛を注ぐに値いする男がいない。その内、178センチの身長とゴスファッションも手伝ってか「すぐ鞭持ち出す女」として大学内で有名になってしまい、孤立した。

そんなとき、荒井慶騎が店に現れた。
慶騎の著作を読んでいたし、本にはいつも「著者近影」が載っていたし、雑誌にもよく載っているのですぐに「ああ、荒井慶騎だな」と解った。
特にファンというわけではないので、適当にいつも通りの接客をした。ネックレスを買っていった。
暫くして、いつも通り公園でばあや手製のランチをとっていると、荒井慶騎が現れた。最初、うざったいと思ったので無視したが、ちょっと話してみたいと思った。
案の定、食事にでも、と誘ってきた。
すぐについていくのはいやだったので、そのときは断った。この程度で諦めるようなら、願い下げだ。
けれど、その日は帰宅してからずっと荒井慶騎のことを考えていた。
荒井慶騎は、どう思って私を食事に誘ったんだろう。
私は彼がMであることを知っているが、彼は私がSだと知らない(今日知ったわけだが)。
単に、私とセックスしたいと思ったのか。
あわよくば女王になってもらおうと思ったのだろう。
荒井慶騎を奴隷にしたらどうだろう。
そう考えたので、今日、話をしてみた。
彼はやはり、私がSだと解って嬉しそうだった。
荒井慶騎は「痛いの怖い」、なんて甘ったれたことをエッセイに書いていたが、私の為にだったら耐えるだろうか?
試してみてからでも遅くはないかもしれない。

だけどそれは、と思ったそのとき扉がノックされて、ばあやが夕飯に呼びにきてくれた。



「珍しいな」
「うん、まあ、ちょっとばかり、退屈したものだから」
最近慶騎の様子がちょっと違うので、様子を見にきた。
「綺麗に暮らしてるのね」
「後で片付けるの、面倒だからな。パソコンの周りとベッド周りは散らかってるけどよ」
ソファに掛ける。すごく大きなソファ。2メートルくらい、ありそう。レザー張り…きっとイタリア製の、なんといったか、有名なブランドのものに違いない。
慶騎は今日もジーパンを穿いている。
「そのジーパンもセブンなの?」
「そうだな。姉貴はセルフォンティーヌとかのが似合いだろうな。ピンク色のステッチがしてあって可愛いぜ」
「でもさ、セブンもそうだけどあれは細いね」
「がんばってダイエットして、せめてジューシークチュールのジーパンぐらいは穿けるようにしたらどうだ?」
ジューシーのは、ウエストがかなり大きめのサイズからあるのだ。ちょっとカチンと来たので、話題を変える。
「最近慶騎さ、表情柔らかいね。なんか、口調も普通に戻ってるし。レンアイしてるの?」
「しらねーな」

<第六回 終・最終回に続く>


2005年10月28日(金) 連載小説「 芳香の女王、彷徨の王子」第5回

レジを終え、いつものように挨拶して帰ろうとした。
「あの…」
やっと花山さんの方から話し掛けてくれた、と思い嬉しくなった。
「あの…私、今日…もう、上がりなんです」
花山さんは、俯いていて、しかもちいさく震えていた。
「今日…って、これから…御時間…ありますでしょうか」
「あります」
花山さんは、俺を見上げた。そして強張った表情で言った。
「どこかで…あの…貴方と、御話を…したくて」

「素敵な喫茶店ですね!」
俺は店に入るなり、ちいさく言った。
「カフェっていうのかなあ、俺そういうの、疎くって」
花山さんはやっと微笑んでくれた。
俺とこの店に入るまで、花山さんは黙って俯いていたのだ。俺の方としても何を話しかけていいか解らず、困惑していた。ここが近くで良かった。
「喫茶店…で良いんじゃないかしら…」
席につく。レトロな内装がほっとさせてくれる。
「よく、御仕事の帰りに…来るんです」
「可愛い御店ですね」
スタッフが近付いてきたので、花山さんはカフェラテを頼んだ。
俺は慌てて、「ホットミルク」と言った。
「なんか、甘いの飲みたくて…コーヒーとかは苦手で…」
考えていなかったので、つい正直に言ってしまった。
取り繕う暇がない。
俺は改めて、花山さんの顔を見た。
なんと可憐。なんと清楚。そして…何故か官能的。この、清らかさのなかに暴力的な迄に優雅に薫り立つ官能は、一体何だろう。
綺麗に描かれた眉の上で揃えられた厚い前髪。
目蓋に煌めく、とてもちいさな光の粒。
美しい弧を描くアイライン。ていねいにマスカラを塗った、長い睫毛。つやつやの深紅の口紅。
ちょっと残念なのは、肌がすこしばかり乾燥していること。
「あの…御名前は」
睫毛を伏せた儘、花山さんが言った。
「はっ? …ああ、俺ね。名乗ってなかったな。荒井慶騎って言います」
花山さんは一瞬、はっとした。
「…やっぱり…」
ああ、知ってんのか。
「あの、御本…読んでます。『畸形ノ王子様の物語』はとても良かったわ」
「あ…ありがとう…」
「だけど、残念だわ」
「へっ?」
「最近出た…『美神』にはがっかり致しました」
俺は驚愕の表情を浮かべた。
「『畸形』に遠く及びません。10年待たされて、エッセイを読み続けて希望をつないで来たというのに。10年間構想を練っていたと思ったら、リハビリ作品程度のものを世に出すのですか? 『畸形』に息づいていた、重厚さが無い。『耽美』のというものを穢す程に軽薄でしたわよ」
「…」
全くその通りだった。返す言葉がない。
「言い過ぎかもしれません。ファンなら待望の新作を歓迎すべきかもしれません。だけど…残念でたまらないのです。…才能を、巧く引き出せなくなってしまったのね」
俺は恥ずかしく思いながら、言った。
「おっしゃる通りです。ずっと書けなくて…インスピレーションでざっと書いてしまいました。ずっと小説を書けなくて、事務所に悪いと思ってもいたし…出版社と縁を切られたらどうしようという焦りもあり…姑息でした…」
「冒頭にあった、リリカ女王様とユリア女王様に捧げる、って書いてありましたけれど、御二人に申し訳ないんじゃないですか?」
「全くそうですね…」
しばらく沈黙があった。
「…ごめんなさい。批判したくて御呼び止めしたんじゃなかったんです。全く違う話をしたかったのに…」
「いや…全く当然な御話ですから…」
「私が話したかったのは、…私の身の上を、貴方なら聞いて戴けるのではないかと思ったんです。そうですね、この話をもとに一作書いてはいかがかしら。その程度の話ではあると思うの」
「是非、聞かせてください!」

「私は、ちいさい頃からばあやと二人暮らしなんです。
両親は輸入業をしていて、ずっと海外にいます。
あの、私が働いている店は母が経営しているんです。
今は、大学で服飾文化とその歴史を勉強しています。
フランス文学を専攻するかで悩んだんだけれど、
結局両親の仕事を将来継ぐことを考えて、すこしでも役に立つ方を選んだの。
勿論、ファッションにも興味はある…。
以前ヨーロッパを回ったときにゴシックに出会いました。
強烈なショックでした。それから私は服装もゴシック、
メイクもゴシック。生活様式も何かもかもゴシックです。
ゴスピープルは、見た目の攻撃性と違って、
実は菜食主義の平和主義者なの。
私は元々油っぽい食事はだめだし、戦争はなにがあってもイヤ。
まあ、それはいいとして、そのヨーロッパ旅行は、
ある男性と一緒に行ったの。その人の話を聞いてほしいんです。

両親の仕事のパーティーで、そのドイツ人紳士と出会ったわ。
彼は既に初老の域に達する年齢だった。
勿論、奥様も御一緒だったわ。
だけど…私、そのおじさまに一目惚れだったのね。
まだ12歳の私にその恋心を理解することはできなかった。
そのおじさまと意気投合して…まあ、実際には年長のおじさまのほうで話を合わせてくれたんでしょうね。
長いこと、御話したわ。色々なことを。
そして、私は恋に堕ちた。私の初恋は不倫だったの。

彼と肉体関係はなかったの。
けれど、もっと強固な関係を築いたわ。
それは、女主人と奴隷という主従関係。
彼は、私のなかにあったS性を引き出してくれた。
愛する者を痛めつけたい、という欲望を彼は叶えてくれた。私は愛する男を屈服させ、征服して、屈辱と恥辱と苦痛を与えたいの。
愛する男の、身体と人生と心を、縛りたい。
そう心から思っていたのを、引きずり出して実現させてくれた。

だけれど、蜜月は突然に終止符を打たれた。
彼と主従関係を築いて6年目、私は大学進学問題を抱えて悩んでいたわ。仏文科に行きたかったのだけれど、両親の仕事をいつか継ぎたいと思っていたの。大きなビジネスになっていたから、一代でつぶすのは勿体なくて。
その頃、例のヨーロッパ旅行をしたの。
私が進路について悩んでいるのを見かねて、グローバルな視点を持ってもらいたい、と旅行を提案してくれた。
それで、まあ私は進路を決定することができたのだけれど…。
それは、彼との最後にして最大の思い出になってしまった。
彼はもう結構な年齢になっていて、帰国後に持病が悪化して、呆気なく逝ってしまったの。

大学を辞めることも考えた。
勉強する気力を無くしていた。いいえ、勉強だけじゃない。総てのことに興味が無くなった。一年間休学して引きこもったけれど、彼はそんなこと望んでいないって解っていた。せっかく旅行に連れて行ってくれた、彼の気持ちを無駄にしてはいけないと思ったわ。だから大学にも戻った。

だけど、私のなかではもっと重大なことが起こった。
女王としての自信が無くなったの。
今でも、好きな男の総てを縛りたいという気持ちは失っていないのだけれど…それは…叶わない夢なのかと、思うようになってしまったの。
私の加虐嗜好を、そして私自身を受け入れてくれる男性がいるのか、私には自信が無くなってしまった。
定期的に調教をしていたときは、あれだけあった生きる気力だとか、自信だとか、そういうポジティヴな気持ちが全く無くなったの。

ずっと、人とも話していなかった。
御友達、なんて人もいないし。大学では勉強しているだけよ。「合コン」とかいうものに誘われるけれど、面倒くさいし…。

そんなときに、貴方が現れたのよ。
いちばん最初に、御店に来てくれたときに、貴方のことは解った。
「ああ、荒井慶騎が来たわ」って思った。
貴方の作品は、好きだったから。
だけど貴方自身のことは「かなりのエゴマゾ」ってことしか知らない。貴方が御店に何度も来るから、私に御執心なんだってことは解ってた。最初の日から、私のこと盗み見しているの、解っていたし…。慣れているわ、見られることは。まあ、視線は2種類あるけどね。私のファッションをキワモノとして見る男女と、私自身に興味のある男。
貴方が店に来る度に、どこまで本気なんだろう?って思ってた。私の奴隷になりたいと思っているのなら、エゴマゾの性根を叩き直したいと思っていた。
そこから先のことは、わからないけれど。」

そこまで、時間をかけて花山さんは話した。
本物の女王様が、目の前にいる。
俺がエゴマゾであることを見抜いた貴婦人…。
理想通りのレディだ。
俺は戦慄した。花山さんから色々な責めを受ける自分を想像して、久しぶりに塔が固くとがってしまうのを感じた。

<第5回終・第6回に続く>


2005年10月27日(木) 連載小説「 芳香の女王、彷徨の王子」第4回



「えっ、言っちゃった?」
「はい」
私は携帯電話を取り落としそうになった。
百合子さんから、今日も順調だと言う報告を受けるとばかり思っていたのに…。
ああ、これでまたあいつはミューズから見放されたというわけだ。わが弟ながら、腑甲斐無い。奴は、自分の作品のインスピレーションとなる貴婦人がいないと小説が書けないようだ。だから私が、お膳立てしたというのに。
「…」
「ごめんなさい、社長」
「仕方の無いことです。また暫く、様子を見ることにしますよ。まったく、あいつは世話の焼けるやつだ…」
街でチンピラのような子供たちと喧嘩をして補導される度に、迎えに行ってやったことを思い出す。
あいつは確かに喧嘩は強いが、本当はとても繊細で、折れそうな神経を持っている。だから言葉を荒くし、どんな相手であろうと(男であれば)腕力に訴えて薙倒す。
そして…どういうわけか、愛する女性には屈服することを選んだ。リリカ様のせいなのか…それとも幼少期に何かのトラウマがあるのか…
簡単に報酬の打ち合わせをして通話を切り、携帯電話を傍らに置いた。まあ、一冊出させたから良いとするか。



ユリア女王様に本当のことを伺ってから、また俺は小説が書けなくなった。
ドレスは差し上げようと思ったが、「ボンデージは着辛いから、着ないわ」と言われて引き取った。

幾つかの季節が変わった。俺はドレス代として借りた金を兄に金を返そうと思っていたが、小説が書けないので、返せずに日々が過ぎて行った。兄も要らない、と言っていた。
いつも通りの日々が過ぎていった。しかし、以前よりは生きている時間が楽しく思えるようになった。雑貨屋やインテリアショップを回る趣味が出来て、気に入りの店を紹介する本を出版することができた。

ハーレーを乗り回して散策している時、見たことのない綺麗な雑貨屋を見つけた。白い窓枠。飾り窓にアラベスクとフランス語の店名がペイントされている。美しい飾り文字。Boudoir、と読める。
俺は邪魔にならない場所を探して、ハーレーを停めた。
「こんにちは、ちょっと見せて下さい」
華奢なドアを開け、店内に入った。こじんまりとした店内。
ダークブラウンで統一されたアンティーク家具。
センスの良い御店だ、と感じた。
テーブルに白いレースが敷かれ、その上にアクセサリーが美しく配置されている。
「いらっしゃいませ」
レジから聴こえた声の主を見た。
つやのあるダークブラウンの縦ロオルのロングヘア。白いレースをあしらった、クラシカルなテイストの黒いドレス。
なんて可憐な貴婦人だろう。
「…素敵な御店ですね」
「ありがとうございます。そちらは、フランスから輸入したアンティークのアクセサリーです。どうぞ、見ていらして下さい」
俺はアクセサリーを見せて戴きながら、彼女を盗み見ていた。
この微かな香りは…アニック・グダールか?  素晴らしい。
長い繊細な睫毛が美しい、と思った。
「これなんか、男がつけてもおかしくないですかね?」
俺は十字架をモチーフにしたシルヴァーのネックレスを手に取った。
「そうですね、そちらなら重厚な感じなので、男性にも合いますね。御自分用ですか?」
「ええ、気に入ったので、自分でつけたいです」
「とても御似合いですよ」
俺はそれを買い、その場で値札を外して貰って身につけた。

それから毎日、雑貨屋のレジの女の子のことを考えていた。
思い立って、道順を思い出しながら雑貨屋に行くことにした。
「…」
綺麗な窓から店内を覗いたが、今日は違う女の子がレジにいる。
今日は休みなのだろうか。落胆したが、思い直して店に入ってみた。
「いらっしゃいませー♪」
「あの…」
「はい?」
背の低い、金髪のゴスロリちゃんが俺を見返した。
ああ、彼女の名前を聞いておくんだった。
「あの、…ダークブラウンの縦ロールの、背の高い、華奢な…」
「ああ、花山さん」
「花山さん?」
「縦ロールで華奢で背が高いのは…花山さんですよ。花山留璃さん」
「そう…花山さんて今日休み?」
「いいえ、今頃は、公園かな。いつも花山さんは公園でお弁当食べるんです」
「そっか。えと、その公園て…どこかな」
「すぐそこですよ。教えてあげます」

幸い公園は目と鼻の先にあり、ちいさな公園だったので
すぐに花山さんを見つけることができた。
「うふふ…食べる分が無くなっちゃうわ…」
ベンチにかけた花山さんの周囲に鳩が集まって、彼女は自分の御弁当を分け与えているらしい。
俺はその光景を見ながら、「徳禽獣に及ぶ」という言葉を思い出していた。なんと美しく、優しい光景だろう。
すると、花山さんが不思議そうな表情でこちらを見た。
「あの…俺…」
ちょうどあのとき買ったネックレスをつけていたので、十字架のモチーフを指で示した。花山さんはそれを見て得心したように、微笑んだ。
歩み寄ると、「似合ってますよ」と言ってくれた。
「…御昼、ですか」
「ええ。でも自分が食べる分はあまり無さそうね」
戯けた笑みが、本当に美しいと思った。
「御隣に、座っても良いでしょうか」
「ええ、どうぞ」
俺は意を決して言った。
「もし良かったら、御弁当は鳩にやってしまって、一緒に食事でもいかがですか」
花山さんはそれに応えずに、顔をランチボックスへ戻した。鳩達がひとしきり食べたのを確認すると、彼女は立ち上がった。
「…また」
花山さんは振り返って言った。
「…また、もし…良かったら…御店で…」

<第四回終・第五回に続く>


2005年10月26日(水) 連載小説「 芳香の女王、彷徨の王子」第3回

姑くは、何事も無かった。
現在の俺の数少ない仕事であるエッセイ・日記の連載や、それらの写真撮影などで日々が過ぎていった。
依然として小説が全く書けず、さりとて他にできることもなく、こういったことで食い繋いでいる状況だ。
一時はテレビ番組にも出たが、暗いので使い物にならないと止めさせられた。俺もテレビの仕事は待ち時間が多かったりして、気に入らないのでちょうど良かった。

ユリア女王様から調教して戴いて、数週間経った。
俺はユリア女王様…いや、「リリカ様」の面影がずっと忘れられなかった。
いきつけのボンデージショップに、数点のドレスの注文をした。ショップに出向き、リリカ様の写真を何点も渡し、そのなかで同じデザインがつくれるというものを作ってもらうことにしていた。
金は、所属事務所の社長である実の兄にこのことを話して、用意してもらった。兄はこの話に金の匂いを敏感に感じたのだ。
リリカ様に酷似した女性から調教されれば、荒井慶騎はまた小説を書けるはずだと、兄は断定した。そして、それは現実になりつつあった。
俺はリリカ様の面影に創作意欲を刺激され、すこしづつ物語を紡ぎ始めたのだった。

「慶騎君じゃない。ひさしぶりね」
俺はまた、ここに来ていた。
「ユリア女王様に、贈り物があるんです」
「良い心がけね。どれどれ」
俺は持参したドレスを渡した。
「これを着て、プレイしてほしいのね。ええと、リリカ様だっけ。
 その人が着ていたの、こういうのを?」
「そうです」
「リリカ様」は後ろを向いて仰った。
「ファスナー下ろして」
「えっ!?」
まさか目の前で着替えられるとは思わなかったので、俺は頓狂な声を上げた。
「私の言うことがきけないの、慶騎君!?」
「…失礼致しました、御手伝いさせて戴きます」
俺はていねいに、心を込めてファスナーを下ろし、脱ぎ易いようにストラップを肩から外して差し上げた。
「いい子ね、慶騎君」
つい視線は、下の方へ。「リリカ様」の臀部が視界に入った。
白く、滑らかな…ライチみたいだ、と思った。こんなにも美しいライチは存在しないだろうが。
「ドレス、とって」
「リリカ様」はレオタードから足を抜いて、ガーターとストッキングとブーツだけの御姿だった。俺はその後ろ姿の美しさに心を打たれ、無言でドレスを渡し、心を奪われたようにその御姿を見つめた。
俺は震えながら「リリカ様」に跪いて、陶然としながら「リリカ様」の御尻のすぐ下の太腿の部分にくちづけした。全身が…とりわけ唇が、震えていた。シャネルの「エゴイスト」の香りがする。リリカ様の香りがする…。
「あら、慶騎君。誰がそんなことして良いって言ったかしら?」
「ごめんなさい…」
俺は、涙を流していた。「リリカ様」の神々しい御肌に唇を押し付けたことに、感動して興奮していたのだ。
また、涙が流れた。

俺の散文詩集が発売された。
印刷部数はそう大したものではないが、帯に「荒井慶騎の女性崇拝の世界、復活!」と大袈裟に書かれていた。
タイトルは「美神」。
1ページ目に「リリカ様とユリア女王様に捧ぐ」と記されている。
発売に合わせてサイン会を行った。
数は多く無いがゴスロリ少女たちが集まってくれ、暖かい感情が胸に流れて行くのを感じた。俺の本を買ってくれ、逢いに来てくれる人が実際にいるのか。珍しく俺は笑顔を浮かべて、ひとりひとりに対して俺なりに誠意をつくして話し掛け、サインをし、握手をさせてもらった。予定には無かったが、俺と写真を撮りたいという少女たちの願いを叶えた。
そしてゴスロリ少女たちは瞳を輝かせて俺を見上げてくれた。俺はまた本を書こう、素晴らしい小説を書こうと思った。

「リリカ様の為に、御本を書きました」
俺はまた、マゼンタピンクの絨毯の部屋にいた。跪いたまま、
両手で「美神」を捧げていた。
「ありがとう、慶騎君」
「リリカ様」はソファに座ったまま、優雅に腕を伸して拙著を受け取ってくれた。
「綺麗な本ね」
「ありがとうございます。俺が、自分で装丁したんです」
「いつも、そうしてるの? 自分の本は、自分で装丁を?」
「そうです」
「自分の本に、思い入れがあるのね。良いことだわ」
俺は「リリカ様」に褒められて、俺は誇らしかった。
「リリカ様」は暫く中身を優しい眼差しで読んで、
「家でゆっくり読むわ。これ、戴くわね」
と微笑んだ。
「是非…俺の自信作なんです。何年も書けなかったけど…これは、復活作なんです。復活作に、相応しい出来だと思います。がんばって書きました」
「そうなの。とっても楽しみ。今は、慶騎君に御褒美あげないとね」
条件反射のように、俺の剣が強張った。
「嬉しそうな顔ね。慶騎君、エッチなんだから」
「ごめんなさい」
謝っているのに、俺は笑っていた。

「ねえ…」
「は、はい!」
俺は射精の直後だったので、心地よい気怠さのなかにいた。「リリカ様」に呼ばれ、弾かれたように返事をした。
「いいの、ちょっと個人的に聞きたいの。ちょっと『リリカ様』休憩ね」
「はい…?」
「リリカ様って、どんな人?」
俺は表情が固くなったのを、自分で感じた。
「ヒトじゃない…」
「えっ?」
「いや、それだけ俺が偶像視してるってだけで…」
「へえ」
へえ、か。やっぱり「素」はリリカ様と違うんだな。
「あらゆる光をその身に纏う、完全なる美の化身」
「美神」のなかでも使った表現だ。
「随分とまた、詩的な表現ね」
「リリカ様には、そのくらいの大袈裟な表現が似合うんです。知的な、愛らしい貴婦人です。あれだけの美女なのに、全く驕らないし…あと、恥ずかしがり屋で、かわいらしいところもある」
「大好きなのね」
「好き、というのとは全く違いますね。崇拝しています。リリカ様だけを」
ユリア女王様は、真剣な面持ちで俺の話を聞いていた。
プライヴェートなことは全く知らないが、良い人かもしれない。
俺は、真剣に人が話しているときに茶化す奴が大嫌いだ。
少なくとも、この人はそんな人ではなさそうだ。

リリカ様は、歌手でした。
俺は偶然テレビ番組でリリカ様を見て、一目惚れでした。
そしてたまたま行ったライヴで偶然、リリカ様のバンドを見て…
その時、俺の運命は決まりました。
俺は一人勝手に、「この方にずっと随いていこう」と決めたのです。
ライヴに必ず行き、手紙を書き、贈り物をしました。
リリカ様は俺を覚えてくれました。
リリカ様は歌手とファンの垣根を越えて、俺を可愛がって下さいました。
あるとき、リリカ様の彼氏を紹介されました。
嫉妬は全くありませんでした。だって俺は、リリカ様の男なわけではないし、リリカ様にとっては…叶わぬ片想いに身を焦がす、汚らわしいエゴマゾ男ですから。
却って、俺はその人を「男神様」だと思ったのです。
けれど…男神様は酷い人だったのです。
リリカ様と男神様はちょっと、トラブルがあって…、だからリリカ様はショックで寝込み、そして遠くに行ってしまわれたのです。俺は男神様…いや、犬畜生にも劣るその野郎を殺そうと思いました。
真剣に、殺害方法を検討する日々が続きました。
何度も何度も、そいつを刺す場面をシュミレーションしました。
俺に隠れた犯罪は似合わない。
白昼堂々、その野郎を刺し殺そうと心に誓いました。
しかし…俺は意気地なしです。…実行することができませんでした。
その野郎を怨み続けることだけが生き甲斐でした。
でも、そんな気持ちも3年くらいで止みました。
今は、恋愛の縺れなんて、大人にはよくあることだと解る。
これは二人の問題だって、割り切れたんです。
でも、もうリリカ様は傍にいない。
俺を無言の内に教え、諭して、導いてくれる女神は…いないんです。
そして、小説を書くことができなくなりました。
マンションを追い出され、姉貴にやっかいになりながら雑文をたれ流して糊口を凌ぐ毎日。
やりがいのあることも無く、なにものにも情熱を注ぐことができず、名文は閃かない。俺は酷く焦りました。でもなにもできない。
最初の数年は、破壊的な日々を過ごしました。
手当りしだいに街で喧嘩をし、家のなかのものを壊し…そんなエネルギーもすぐに尽きて…それからはながいこと、無為に日々を過ごしていました。
そんなとき、ユリア女王様、貴女に出会えた。
貴女には、深く感謝しています。
ここに来て貴女に会って、いじめて戴くことに情熱を注いでいます。
貴女の御陰で、インスピレーションが湧きました。
だからこの散文詩集も書けたんです。
小説も、すこしづつ書き始めました。
ありがとうございます、ユリア女王様…

俺は跪き、涙を流し、頭を深く下げた。
ユリア女王様は暫く、無言だった。
顔を上げられず、ユリア女王様の表情が解らなかった。
どう思われているのだろう…。

「ごめんね」
ふいにユリア女王様は言った。
俺は弾かれたように頭を上げ、ユリア女王様を見た。
ユリア女王様は困惑した表情を浮かべていた。
「ごめんね。あのね…慶騎君、仕組まれたことなの。これは」
「…?」
俺は意味が解らず、ただユリア女王様を見上げていた。
「慶騎君のお兄さん…麗綺さんに、頼まれたの」
「兄貴に…?」
「私、女王様じゃないの。…私、貴方と同じ、麗綺さんの事務所に所属しているの」
「えっ?」
「私、えっと…舞台女優…なの」
「…女王様では、ない?」
「無いの。騙して、ごめんなさい。縛り方は、キャリアのある女王様に見えるように、大分練習したわ。サディストでもないの」
「…」
「裸になったりするのは、仕事だと思えば平気だけれど…男性を虐めるのって、難しいわ…」
今度は俺が黙る番だった。
「麗綺さんから、頼まれたときは演技の勉強になるし、ギャラが良かったので快諾したの。
 それに、お兄さんから『人助けだと思って』という言葉が…耳に残って。
 貴方のことは、前から知っていた。写真を見ていたからね。小説は、ごめんなさい、読んでいないの。あっ、この『美神』は勿論読むけど…。
 リリカ様のことは、お兄さんからよく伺った。ビデオを見せてもらって、随分仕種とか、勉強したわ。CDも繰返し聴いて、声を熱心に覚えてね。勿論、香りだって同じ物を買って使った。普段はもっと軽い香りが好きなの。
 お兄さんからも、太鼓判を戴いた。さすが女優だ、って褒められたわ。
 お兄さんは、貴方が小説を書けないことを苦しんでるって言ってた。
 ミューズがいれば、書けるようになる筈だけれど、リリカ様にすごく似てる女性じゃないとダメだろうって。それで、顔だちと容姿が似ている私が選ばれた…」
ユリア女王様は一呼吸置いた。
俺が自分からSMクラブに行くわけがないから、世都君は兄貴に言われて協力したんだろう。
「…だからリリカ様のことや、何故リリカ様がいなくなってしまったのかもお兄さんから伺って、知っていた。だけど、貴方の口から聞きたかったの。貴方がリリカ様をどう見ていたか、どう愛していたか、聞きたかった。ああ、ごめん、愛じゃないのよね。ええと、宗教っぽい、神への愛なのね。ごめんね。とにかく、今、その総てを聞いて、感動した。辛かったわね、慶騎君…。私はやっぱり、リリカ様にはなれない」

<第三回終・第4回に続く>


2005年10月25日(火) 連載小説「 芳香の女王、彷徨の王子」第2回

「今年の泉鏡花文学賞受賞作は、新人荒井慶騎君の「畸形ノ王子様の物語」に決定しました! 荒井慶騎君、壇上へどうぞ!!」
華々しい音楽が鳴り、俺は照れた顔で立ち上がった。
今日の為に新調したスーツ。黒地にグレーのピンストライプで、ちょっと女性的なシルエットに仕立てて貰った。
ジャケットはウエストシェイプで、パンツはすこし裾をフレアーにしている。黒いタイをつけ、襟にはシルヴァーの薔薇のコサージュを飾った。
仕上がってきたときは「一昔前のヴィジュアル系よ! マフィアよ!」なんて姉貴は言ったが、俺は気に入っていた。
俺の小説を選んでもらったことも嬉しいが、素敵なスーツを着ていることも晴れがましかった。
俺は壇上に上がりーーとても緊張していたーー、みなさんの前に立つと気恥ずかしさもあり、自然に笑顔を浮かべた。
「このドリアン・グレイのような美青年があの「畸形ノ王子様」の生みの親なのですね! まるで小説からそのまま畸形ノ王子様が現れたようです」
「ありがとうございます」
「誰とこの受賞を祝うのですか?」
「俺は彼女というのは今はいませんから、俺の女神、リリカ様に御知らせしたいと思います。リリカ様、やりました!」

いつも通りの夢で目が覚める。
数年来、御馴染みの喪失感…。
あれを書いたのが、そもそもの間違いだったのだ。
あれから生活が変わった。
御取り巻きの女性の数が増え、何を血迷ったのかテレビ番組なんかに出てみたり、雑誌でアイドル歌手のように得意げにインタビューを受けたりしていた。
愚かな日々。
うわついて、何も考えられなくなっていた。
小説が書けなくて焦っていると、段々と取り巻きの女性たちは姿を消した。
俺は外出しなくなり、携帯電話は充電が切れたままになり、そして、リリカ様も去った。
俺の手元に残ったのは、この空虚というもやもやとしたものだけ…。

「ここやで」
世都君は俺を地下のその店に誘った。
俺はそこがパンドラの箱であるとも知らず、その扉のなかに吸い込まれた。
「ここは…?」
「SMクラブや」
そう聞いて落胆した。以前に出版社の人が連れてきてくれたが、俺好みのエレガントで知的な女王様がおらず、顔で選んだ女王様が余りにも下品な言葉遣いなのに呆れ、プレイ途中で女王様を置いて出てきてしまったことがある。
「普通のSMクラブやないで。慶騎君好みの、知的でエレガントな女王様ばっかりやで」
「本当ですか」
そんな職業女王様がいるわけがない、という反論は引っ込める。
「それだけやない。女王様の写真見て驚きや」
世都君は含み笑いを浮かべて、受付まで歩いた。
彼はSなので、M女をここで買っているのだろう。どんなプレイをしているのだろうか。
受付で女王様の写真の一覧を見せられた。俺は愕然とした。
「リ…リリカ様!?」
受付の男が「当店にはリリカ様という女王様はおられませんが…」
と言い、戸惑った表情を浮かべた。いや、よく見れば全くの別人であると解る。
しかしはっとする程、雰囲気が似ている。
大きく丸い、アーモンド型の眼。ふっくらとした薔薇のつぼみのような唇。気品ある表情も似ている。髪型は今どきな縦ロオル風の巻き髪だ。
リリカ様は海老茶色のソヴァージュだった。いつもリボンをつけておられた。リリカ様も今頃は髪を巻いておられるのだろうか…
「あ、ああ…人違いです…」
「ユリア女王様になさいますか?」
その女王様の写真の下には「ユリア女王様」と記されている。
俺は思わず、「鞭の御上手な女王様ですか?」と聞いてしまった。
「ええ、ユリア女王様、鞭イケます」
「緊縛は…」
「大丈夫です。あと、黄金はNGですが、聖水はOKですよ」
「じゃ、じゃあ…ユ、ユリア女王様ですか。ユリア女王様で」
俺はプレイ料金として三万円を支払った。

室内はごく淡いライトに照らされている。
黒い壁に、マゼンタピンクのフェイクファーの絨毯が洒落ている。
天井には小振りのシャンデリア。センスの良いロココ風の椅子がある。これはかなり高価なものだろう、と値踏みしていた。アンティークものかもしれないな、と、正座して女王を待ちながら考える。
「お客さん、初めてね? よろしく」
ハイヒールの靴音と共にリリカ様…いや、女王様が現れた。奇跡的に、声色も背格好も似ている。
そして…これは、…この、濃厚な香り…!  リリカ様御愛用のシャネルの「エゴイスト」の香りだ。俺はそのことに、かなり驚いていた。ハイヒールを履いていて、185センチの俺より多少低いくらいか。
「はい、…よろしく御願いします」
正座のまま、大袈裟に御辞儀をした。リリカ様に御辞儀するつもりで。
「なかなか良い子ね。それに、美形。誰かに御仕えしてたの?」
リリカ様、いや、女王様は鞭を俺の顎にあてて、顔を上に向けさせた。
リリカ様に、こんなことをして戴いたことは、ない…。
「い、いいえ…」
残念ながら、リリカ様から直接調教戴いたことはない。俺はリリカ様の奴隷というわけではない。俺の知る限り、リリカ様に奴隷というものはいない。
この女王様はハイレグのクールなボンデージファッションを着ている。
リリカ様はいつもミニスカートでフリルつきの、愛らしいボンデージファッションだった。ストッキングにもいつもこっていて、綺麗なレエスや編み模様がついていた。
「…初心者?」
「え…ま、まあそうですね…」
「歯切れの悪い御返事ね。まあ、なくもないってとこ?」
軽口を叩きながら、女王様は俺の尻に軽く一鞭あてた。
リリカ様にあてられたようで、俺は一瞬陶然とした。
「鞭と縛りがいいんですって? 縛ってから叩く?」
言葉遣いがよい。リリカ様のようだ。
「御、御願いします」
「服、脱いで。全部」
リリカ様の前で裸を晒すなど無かったことだ。俺は激しい羞恥を覚えて、股間のこわばりを感じた。今日は特にこんなところに来るなんて思ってもいなかったので、ジーパンに黒いシャツだった。俺はシャツから脱いだ。
「あらっ、タトゥしてるの? 見せて頂戴」
俺は両腕に大きく、飾り文字で「LILICA」と彫っていた。
「かっこいいわ。なんて書いてあるの?」
デザイン文字なので、咄嗟にはなんと書いてあるのか解りづらい。
「心のドミナの御名前です…『リリカ』…様…」
「へえ」
女王様は立ち上がって、興味深そうに腕を見ている。
思い出す。初めてリリカ様の御名を彫った腕を誇らし気に見せたとき、リリカ様は眉を顰めて「良いの?」と言った。
てっきり喜んでくれると思ったが、リリカ様は俺の将来を思い遣ってくれたのだ。
「俺、良いんです。リリカ様の為なら、地獄にでも喜んで落ちますから」
と言うと、リリカ様はやっと微笑んで「ありがとう」と言ってくれた…。
背中にはリリカ様の御尊顔が大きく彫ってある。これを、この女王様に見られると…。
「背中は?」
「彫ってます…」
俺は意を決して、背中を見せた。
「…これ、私…? 髪型が違う…? もしかして、この人が『リリカ様』って女王様なわけ?」
「そうです、リリカ様の御尊顔です」
「へえ…」
女王様は暫く思案するように、ソファに腰を下ろした。
「リリカ様って人に似てるから、私を指名したのね?」
「そうです」
俺ははっきりと言った。それだけだ。
「そう」
暫しの沈黙。ユリア女王様は怒ってしまったのだろうか。
それなら、それでいい。
「リリカ様になってあげようか」
「はっ?」
「リリカ様になって、プレイしてあげようかって言うのよ。そのほうが、コーフンするんでしょ?」
その方が仕事が手早いのだろう。一種のストーリープレイだ。
「…はい」
「じゃあ、私はこれから、リリカ様よ。おまえも私をリリカ様だと思うの」
「はい」
「リリカ様って、おまえのこと何て呼んでるの」
「は、慶騎君、と…」
「慶騎君ね。…慶騎君、そのジーパンも脱いで。ブーツも、ね」
「は、はい!」
慶騎君、と呼ばれると急に嬉しくなってしまう。
「そのトランクスもね」
「はい…」
「隠しちゃダメ」
「はい」
俺は手で隠していたものを、女王様に見せた。
「うわあ、もうそんなに大きくしてるの。エッチね、慶騎君」
「リリカ様」が上目遣いで俺を見つめ、なんと俺のペニスを握った…。
頭が爆発したかと思った。
脳内ではリリカ様が「慶騎君、私にこんな下劣な感情を抱いてるの…」と俺を責めている。俺は失神しそうになった。
ああ、リリカ様…リリカ様!  もうしわけありません!
「そんなエッチな慶騎君にはお仕置きよ」
「リリカ様」は俺を手早く縛り上げて身体の自由を奪った。そして、鞭を取り出した…。

「どやった?」
2時間後、待ち合い室に戻ると、もう世都君が戻って来ていた。
「リリカ様に、そっくりやったやろ」
「…はい」
「また、来るんやろ」
「…え、ええ。多分」
俺は複雑だった。
あの女王様は最後、「気に入った、私の専属にならない?」と仰った。
俺はそのとき、女王様の御身足を手にとり、一心に足指に舌を這わせていた。そして、愚息をこすることを許されていたので、「リリカ様、リリカ様、申訳ありません」と狂ったようにつぶやきながら、射精した。
「専属奴隷」になるという件は丁寧に御断りしたが、チップとして5万円を「リリカ様」に手渡した。
リリカ様に酷似してはいても、所詮は職業女王様であるし、第一別人だ。
俺は自分にそう言い聞かせた。言い聞かせなければならないほど、俺は動揺していたのだ。

<第2回 終・第3回に続く>


2005年10月24日(月) 連載小説「芳香の女王、彷徨の王子」第一回

<ホームページ作成ソフトが現在使えないので、ここにアップします。
 総て小説ですので、御了承下さい。
 この作品は荒井慶騎の指導・監修のもと、世都セレナが執筆しました>

__________________________________
「慶騎様がいらっしゃいました」
珍しいこともある、と思った。
「通して」

「姉貴、久しぶり」
私はソファにかけて、彼を見た。
少し、表情がきつい。まだ色々悩んでいるんだろう。
「珍しいね。どうしたの?」
慶騎が一瞬、表情を強張らせたのを私は見逃さなかった。
「姉貴、そのジーパン、良いじゃねえか。どこのだ? 俺も最近ジーパンにはこってるんだが、俺はセブンしか穿かないんだ。これ、セブンだよ。どう?」
何を言ってるんだろう。
私はそのとき、バギーを穿いていた。ブーツカットやベルボトムと違って、太腿もゆるやかにフレアーになっているので、穿いていてラクだ。
「このジーパンは大したもんじゃない。一万円ちょっとしかしない、国産のやつ。セブンって2倍くらいするんだよね」
一応、話にのってジーパンを見てやる。センタープレスがはいっていて、かなり美脚に見える。
「センタープレス、いいね」
「だろ?」
そのとき、奴隷が御茶はいかがですか、と慶騎に言った。
「俺? 俺…ああ、ミントティーくれ。あるだろ?」
明らかに落ち着かない様子だ。だからハーブティーを選んだのはなかなかのチョイスだと言える。
「畏まりました。ございます」
私はこのところずっとコントレックスを飲んでいる。だから、奴隷もわざわざ聞かない。コントレックスを飲むとトイレが近くなるけれど、味が良いので止められない。
「慶騎、なんだかせわしない。落ち着いて」
「せわしないなんて、そんなことねえよ。俺、…俺は、大丈夫だし」
口調がおかしい。なんか変なクスリでも…。
「なんか変なクスリやってんの? 姉の家に来るのに一発キメてきたってわけ?」
「失礼だな。俺クスリなんかしねえ」
そう、リリカ様が赦さないものね。リリカ様はクスリ大嫌いだものね。
「ならいいんだけど、ほら、ハーブティーが来たから、落ち着いて」
ドアがノックされて、先ほどの奴隷が現れた。
「お待たせ致しました」
奴隷が慶騎の前にミントティーをそっと置き、それからペットボトルのままのコントレックスを私に手渡した。グラスに注いでいないのは、私の命令通りだ。グラスだとコントレックスを飲んだ気がしないし、あのピンクの可愛い蓋が見えないからだ。
「それだけ慌ててるってことは、何か頼みたいのね。誰かともめてるの?」
「そんなんじゃねえよ」
慶騎は項垂れて、ティーカップに口をつけた。
「…あのさ」
「はいはい」
「俺、ここ暫く小説書けてねーじゃん?」
「小説のアイディアなんかこんなところに転がってないよ」
「そうじゃなくてさ、だから…事務所にあのクソ高えマンション借りて貰ってんの、わりぃだろ」
「ああ」
私も、そこには行ったことがある。麻布の億ションみたいな、すごいところだった。慶騎は家具も凝るから、すごい値段なんだろう。
「だから…ここ、部屋たくさんあるから、貸してもらおうかと思ってさ…」

夕食後、麗綺の携帯に電話をした。麗綺は慶騎の双子の兄だ。
性格は全く正反対で、常に冷静沈着で大人っぽい。
「ええ? 慶騎がそんなことを?」
「なんか、追い出すとか言ったの?」
「まさか。仮にも弟ですよ。取り敢えず…御金の心配はありませんから、別にあそこ住まわせるくらい問題ないですよ」
「じゃあ、気を遣ったんだ」
「…全く、馬鹿なことを…」
麗綺はいらだっているようだった。
「それで、姉さんはどう思うんですか?」
「一緒に暮らしても良いよ、私は」
「まあ、姉さんがそういってくれるなら…多少の節約にはなるかもしれないし…」
「庭にプレハブでも建ててあげようかな」
「それがいい。それで充分ですよ。家具も前の部屋のでいいですから」



…俺は、この芳馨を知っている。

微かな馨りの印象を逃すまいと、芳馨の源へと視線を泳がせた。
しかし、焦らずにゆっくりと。
そう心掛けても、無駄だった。
俺は一瞬にして馨りのドミナを見つけ、そして彼女と視線を絡ませた。
…美しい。
息を飲むほど、美しい女だった。
ビザールでエレガントなドレスを、上手く着こなしている。

俺も容姿には自信がある。スレンダーな身体を誇りに思っている。
丹念なスキンケアをしているので、ニキビなどは無いし肌のキメも細かい。
つりあがった眼も大きく、形も気に入っている。
薄くほの赤い唇の形がややニヤけているような形なのが唯一気に入らないが、それも個性だ。
鼻筋だけは喧嘩の最中、最も気を付けていた場所と言える。
昔より、髪は短くした。昔は完璧にストレートな黒髪のロングだった。
今は、長めのショートカット。男としては長めの部類だろうが、俺にとっては短い。昔はとても長くしていて、最近この髪型にした。
ワックスをつけて空気感を演出した髪型は、とても気に入っている。
センスには、自信がない。姉と兄から「昔を引きずっている」といつも言われる。
今日はラバーのキャットスーツ。ボンデージファッションの見栄えを支える、細身の肢体は維持してきたし御洒落も好きなのだが、センスを磨く努力はできなかった。
それでも女性の受けは悪くない。容姿と金離れの良さからか、俺が女に困ったことはなかった。
しかし、数年前から、性欲が無くなった。というより、性交が不要になってしまったのだ。
だから、今視線を絡ませている女性にも「美しい」以上の感想を持たなかった。
女性は、明らかに俺より年長だ。四十代くらいだろう。彼女がこちらに微笑んだとき、俺ははっきりと、「面倒臭い」と感じた。

踵を返し、出口に向かった。女性は何を勘違いしているのか、ついてくる。
出口で、パーティーに誘ってくれた作家仲間が声をかけてきた。
「もう、帰るん?」
「ちょっと、疲れたんです。世都さん、御招き戴いて、ありがとうございました」
彼は俺よりひとつ年上で、姉貴が入れ込んでいる小説家、世都紫端氏だ。
正統的なオカルトをビザールなテイストで味つけたホラー小説を書いており、バンド活動もしている。
「あのな、おもろいとこ見つけたで、今度一緒に行こう。慶騎君、きっと気に入るで」
「そうなんですか。楽しみです。また、メールしますよ」
俺は微笑を残して彼と別れた。

「ちょっと、待って」
さっきの女性がついに声をかけてきた。
俺が振り返ると、彼女は微笑みながら歩みを止めた。
「貴方、荒井慶騎君でしょう」
「はい、そうです」
「髪、切ったのね。そのほうがいいわ」
面倒臭い。総てが面倒臭い。
「ふたりで、どこかに行かない?」
早く一人になりたい。
「ごめんなさい。今日は、疲れたので、帰ります」
そんなことを男から言われたのは初めてのようで、彼女はショックのあまり表情を凍らせていた。クロークに預けていたライダースジャケットとヘルメットを受けとり、会場の外に停めてあるハーレーに跨がった。
「夜風にあたりながら帰ろう」と思った頃には、面倒臭い女性のことはもう頭に無かった。

リリカ様がいなくなってから、俺は死んだ。
荒井慶騎は死んだ。
俺はもう何も創りだせない。リリカ様がいないと、俺は何もできないんだ。
リリカ様はとおくに行ってしまった。もう、俺の目には何も写し出されない。
何をしていても、熱中できない。面白くもない。
恋愛も喧嘩もしなくなり、何を食べても美味く無い。
リリカ様の面影を胸に蘇らせる刹那だけが、俺の今の総てだった。
リリカ様。
俺は何度もリリカ様の聖なる御名前を呟いた。

リリカ様。この世に存在するどんなものよりも美しいひと。
いや…「ひと」ではない。
リリカ様は、全知全能の女神。完全なる美の化身。馨りたつ気品。
知性と教養に裏打ちされた威厳と神性を持つ美の女神。
いや…止めておこう。
世界中の詩人が言葉を尽くしても、リリカ様の美を語り尽くすことはできない。
リリカ様には、アフロディーテだって嫉妬する。
昔も、今も、そしてこれからもずっと永遠に。

小説が書けなくなってから、俺は住んでいたマンションから追い出された。事務所が管理していたものだが、俺から利益が出ない為だ。
だがエッセイ程度は書くことが出来たので、生活費程度は出してくれるということで、俺は実家を継いでいる姉貴に一部屋貸してくれと頼んだ。実家は広さこそ大したものではないが、部屋数はいくつかある。
しかし姉貴は、俺のために庭にプレハブ小屋を建ててくれた。
プレハブではあっても広いし、内部は綺麗だし、何の問題も無い。家具は、姉貴の奴隷たちが手分けして運んでくれた。
玄関から入って、すぐ目の前がリビングルーム。そこに置かれているのは、余り働いていない身にとってかなり不相応なホームシアターとオーディオセットだ。
フローリングに、毛足の長い黒いラグマットが敷いてあり、シンプルなテーブルとイタリア製のブラックレザーのソファを置いている。185センチの俺の身長以上もあるこのソファが埋まることはない。ここに定期的に座ることがあるのは、俺のマネージメントをしている実の兄貴くらいのものだ。

俺は玄関の床に腰を下ろしてから、ゆったりとブーツのファスナーを下ろした。
入ってすぐ右手に、簡単なキッチンがある。ちいさな冷蔵庫から、ペットボトルの御茶を取り出して直に飲んだ。ここで料理をすることはないので、キッチンは全く汚れていない。ちいさな食器棚があり、そのなかにはコーヒーカップやコップ、何枚かの皿も入っているが、使うことはない。洗うのは面倒だし、洗わずにシンクに置いておけば見栄えが悪いし、悪臭も漂う。食器類は総て、見栄えで選んだデザイナーものだ。それも、小振りのものに決めている。大きいものだと、もし使ったとき洗うのが更に面倒臭くなるからだ。
シンクには食器洗い洗剤やスポンジも一応あるが、使ったことはない。
御茶を飲み干して、白いシンプルなゴミ箱に放り込んだ。
ゴミは貯まる前にビニール袋に入れて外に出しておくと、姉貴の奴隷が回収して棄ててくれるのだ。

居間に戻る。一瞬何か聴こうかとも思ったが、結局止めて浴室へ行く。
先ず洗面所で顔を洗う。すこし化粧しているので、それを落とすためだ。
そして、ラバーのままシャワーを浴びる。ラバーのケア法をネットで調べ、お湯を当てながら脱ぐと非常にラクだと知ったからだ。
かなり熱めの温度に設定して、シャワーを浴びる。そのままロクシタンのラベンダーの香りのボディシャンプーをつけ、泡立ててラバーごと身体を洗いつつ、すこしづつ脱いでいく。脱いでから脱衣所に出て、ハンガーにかけてタオルで拭き、パウダーをつけておくことで手入は終わり。乾燥するまで、クローゼットには入れず、部屋にかけておく。普通の服に比べてデリケートだが、仕方ない。
エナメルの方が扱いはラクだろうが、こちらの光沢感、質感のほうがリッチなので止められない。
その作業を終えてから、湯に入る。死海の塩をいれた湯舟に毎日つかって汗をかくことに決めている。太い身体にラバーは似合わないので、運動は嫌いだがなるべくジムに通ったり、あまり脂分を摂らないように心がけている。

疲れたので、今日はもう寝よう。小腹が減った程度では食事はしないと決めている。特に夜ならば、空腹を覚えたら食事のかわりに睡眠をとる。寝室とは言え、ラックを置いて居間と分けてあるだけの空間。そこに寝台と机、クローゼットがあるというだけのことだ。
昔はワープロを長い事使っていたが、今はiMacで執筆している。姉貴が新しいMacintoshを購入したので、それまで使っていたiMacのグラファイトを譲ってくれたのだ。基本的なことは姉貴から教わった。姉貴で足りないことは姉貴の奴隷に聞いた。
キングサイズの寝台は何の意味も無い。売り払ってシングルベッドを買い直そうかと思ったが、どうせ両方とも大きいものなので、面倒臭くて止めたのだ。
ベッドサイドのアロマライトを灯し、グレープフルーツのオイルを焚く。横たわり、再びリリカ様のことを考え始めた。

<第一回 終>


荒井慶騎と世都セレナ