日記×エッセイ...みち

 

 

つらつら - 2017年09月26日(火)

先日の連休にジャックさんのクラスを受けに行ってきたのですが、改めて思ったのは、自分が経験していないと提供することができないなあ、ということ。
かつてそれを経験したことがあったとしても、それを今の自分が持っていないならば提供できない、価値を持ってそれを自分のうちに保っていることで他者に提供できるのだな、と思いました。

ジャックさんのボディワークのデモを受けて、わたしは自分の頭の中に空間を感じる、そういった体感を経験したのですが、「自分の中に空間を持つ」ということに意識的でないと他者にできるわけがないと自分を振り返って思いました。その発想が出ないというか、自然にそう行動するってことにならないなあって。
たぶん頭で考えてならできるのだけど、それだとあの感じを与えることにはならない・・・。うーん、頭で考えてやると、、、うまく言えないけど、どこか押し売りっぽい要素?どや顔的な要素?が漂うというかなんというか。



クラスの中での自分の発言を思い出すと、ほんとうにわたし自身の今の状態を表す言葉を使うということがわかります。
練習でおなか側の施術を受けているときに、「腰のほうには感覚がいかない」みたいなことを言いました。それは手を置いてほしいと思って言っているわけではなくて、その時のからだで感じている感覚をただ伝えただけでした。でも手を置いてもらったら「それだ!」って感じがして、「あー、自分でちゃんと伝えてるものなんだなあ」って他人事のように思ったのでした。



必要にしないにも関わらず、わたしによく現れる自信のなさの理由にするものとして、学んだボディワークの技術を使いこなせない、というものがあります。
クラスの中でわたしは「たくさん次々といろんな技術を流れるように使っていって、そうしてクライエントが考える隙がない、感じ続けることができるように、そういうふうにできるようになりたい」と言っていました。

その言葉をふっと今思い出すと、それってわたし自身のことを言ってる、と気づきました。できるようになりたいこと、という意味ではなくて。「みっしり」させたいんだなって。(それについては下に書きます)
そしてそれに気づいたら、「できるようになりたい」と特に思わなくなりました。

わたしが自分自身を「成長した」と思うときって、結構苦みがあります。
「これまでは気づいてなかったこと、わかってなかったことに気づいた。今は気づいている。」
そのようなことでわたしは自分の成長を感じるので、成長を感じると同時にそれまでの間違いを見ることにもなります。

わたしは休日でもやりたいことがたくさん出てくるのですが、そのうちの1割しかやりません。というか、できない。
友人には、ひとつすれば充分でしょ?と言われます。わたしは3つくらいやって、3つしかできなかった・・・とか思いがちです。

みっしりさせるのは、「考えられないように」。

でも、今回のクラスで学んできたのは、「自分に空間を確保する」ということ。これは、何度も何度も聞いていることです。でもこれまではどこか他人事として聞いていたことでした。
今回は、「わたしのことだ」と聞きました。

「考えられないように」みっしりさせてきたけれど、興味深いのは「自分に空間を確保しよう」とするほうが、物事を考えないで済むということです。
もしくは、マインドがわあー!っと騒がしくなっているそれを、一歩引いて感覚するということができるということです。
いやはや、何度こういった情報をこれまで聞いてきたことか!
自分のこととして聞いていないときの情報の、なんと身につかないことか!



今回は、ほんとうに細やかなところで理解をする、ということが多かったように思います。
例えば、他人に対して、および自分に対しての耳の傾け方とか。そうして相手や自分に添うように耳を傾ける、それがわたしを安心させるということも気づきました。
それから例えば、自分のマインドが反応する早さにも気づいたりとか。
例えば、「今この瞬間」というのは「今だけ」切り取った分離させたものではなく、今の瞬間、経験した事柄、それを踏まえてずっとずうっと見えない向こうまで続いている、そういった感覚だったりとか。

みっしりにしようしようとしてたら不安になった。
空間を確保しようとしてみたら不安がなくなった。

毎度毎度、逆走するのがお好きなわたくしです。
さーて、Uターン。


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人事考課を受けました。 - 2017年09月20日(水)

最近のACIM実践は、「なんでもかんでも聖霊さんに聞く」です。
わたしにとってこれの素晴らしいところは、おなかが痛くなったり肩が凝ったりするのを防げる(防ぎ切れてはいませんが、緊張させる機序が緩和される)ところと、それから明らかに認識できる「ちゃんと聖霊さんに聞いてもらえてる・応えてもらえてる感」です。

例えば人事考課があったのですけど。
わたしは「他人に評価される」ということに強い恐れがあって、もう考えるだけで憂鬱というか顔もお腹も緊張するという感じで、何を言いたいか予習しておかねば・・・みたいな感じになります。

で、もともと予定されていた日は夜勤明けで、夜勤中に頼んでおいたわけです。
ああ、よろしく、、、一緒にいてね、助けておくれよと。

そうしたらその日は上司が忙しくなり、ごめんねーと予定は延期になりました。緊張させていた体は楽になりました。

で、延期日を予告されて、おおお、、、それはそれでまた新たに緊張する日が・・・みたいな感じだったのですけど。
また助けてね、お話しする時は一緒にいてね、とお願いしておきました。

そうしたら、延期予定の日ではなく前倒しに「じゃあ、今日のいちばん目にやるね」と言われ。

え!と思ったものの若干想定内でもあり、かといってわたしはあまり触れたくなかったから人事考課への予習(謎の予習・・・)することもせず、緊張する時間も取らないまま、夜勤明け(この日も)のぼうっとした思考のまま受けることになりました。

聖霊さんがわかってるなーと思うのは、思考がすっきり動けるときほどわたしは自分を緊張させる・・・。

そうはいっても不安は出てきてたので、一緒にいてね!むしろ聖霊さんが代わりに話して!と頼みました。わたしは聖霊さんに体を貸して一緒にいるから、体を使って代わりにしゃべって!みたいな。

そうして受けた人事考課。

あっれー?って感じ。
すっごい楽でした。

わたしは何が怖いのかというと、ここができてない、と他人に責められることだったり、別の解釈をされたまま決めつけられること、それをうまく伝えられないこと、その辺りのことなのですけど。
今回、「ここができませんでした」と罪悪感なしにあっさり自分で言えてるし、上司の話し方も以前の人事考課と違うというか、、、上司に指導している上司がいるのだなという、そしてそれを実践として行動できるということにわたしは「うおーっ」って感銘して、なんか緊張どこではなくなりました。

前回の人事考課も、前々回に比べて上司がする耳の傾け方の変化に「すげえ!」と感じたのですが、さらにそれを感じて、ええ!?耳の傾け方がもっと上手になってる!と感じました。

これはわたしが自分で「他人への耳の傾け方」に興味をもって学んでいるほうなので思うことというか、学んでもなかなか実践は難しいのにそれをしているさまを、日常で接する人に見せてもらえることにわたしは打ち震えたのですよね。
わたしと違ってわざわざ勉強してるわけではない、すごい!と思ったのでした。
「知識として勉強するからできる」とまだまだ思いがちなんだなーというのも見えます。

指導内容もとても的確に感じるというか、、、「わたしの得意とするところをもっとやっていいんだ・・・」って、今回そう思いました。あまり踏み込んじゃいけないよな、と控えてた部分でした。自分の立場を超える、と思ったり、それから勝手にやって怒られた過去があったからです。
(勝手にやらなければ何の問題もないし怒られることにもならないのに、なんなのだろうねと客観的に思いますが)
その辺りを「踏み込んで来い」と言われたように感じました。

以前の指導はもっと「一般的」に感じていました。このくらいの年齢、経験者に伝える指導、みたいな。でも今回は、「わたしに言ってる」って感じがしました。
この違いは何なのだろう・・・?どこでそれを感じた?
(あとで上司にも聞けたら聞いてみよう)

その「わたしの得意とするところ」はわたしの苦手とするところ(はっきり苦手!と自覚しているのではなく、無意識になんとなく理由をつけて避けてしまうところ)も通過するので、本当にすごいなと思うのでした。

べたぼめ。



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- 2017年09月14日(木)

夢を見ました。
内容といえば、小沢健二のファーストアルバムのある曲を音楽に詳しい(仕事にしてる)方がほめていて、使う言葉はわたしにとって難しくてなんのことやらでしたが、わたしも好きな曲だからうれしい、ほめているその人に興味がわいた、というような夢でした。

そういう夢を見て起きた時に、なんか違和感がありました。

あれ?
この感情の流れってわたしにはなじみのある感覚で「うれしい」ものなはずなんだけど、それほど幸せな感覚でもないっぽい?

そんな感じを受けました。

そのあとでSNSでこちらの動画を見て、あ!そう、この感じが「幸せ」なの!夢はこの感じじゃないの!と思いました。

そのあとで、ひよっこを見て。
時子はある部分ではぜんぜん変わらないのに時子のどこかの部分が変わったら物事がどんどん変わっていくそんな未来しか見えないその感じとか、すごくうれしいのにせつない感じとかに、二回見て二回泣きました。

ただいま愛とは何かを学習中です。

ひよっこを見てると、男性のかっこよさというか、本来の男性というのが一般的に「これが男性です」とよく聞くもの・信じられているものとは全く違うのかもなと思わされます。


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- 2017年09月06日(水)

「あの世にはお金や物は持っていけない」「思い出だけお土産に持っていくのよ」とか聞いたことがあります。
そうだなあ、とこれまで思っていたのですけど。
昨日ふと、あれ?この「思い出」って・・・?と思いました。
これまでわたしが持ってた意味合いの「思い出」は、思考だったり思考から生まれた感情だったりの意味合いが多く含まれていたのですが、それらのものも「からだ」や「物」「お金」とかと同じで、もしかしてあの世に持っていけない類ですか?と思いました。
「からだ」と「わたし」がイコールではないというのと同じように、「思考」「感情」が「わたし」ではないよな・・・と。
わたしが思ったり感じたりすることではあるけど、その思考や感情自体が「わたし」ということではありませんものね。

だからほんとうに、「経験だけ」持っていくのかしらね、と思いました。
この世界で生きました、生きるということをしました、そういった経験だけを持っていくのかしら、と思いました。

魂は完璧だから学ぶことはない、ということをスピリチュアルな教えで以前聞いていたのですけど、先日ACIM勉強会で「生きること自体が学び」という言葉を聞きました。(テキストに書いてある言葉ですけど、ひとりで読んだときは何も思わなかった箇所でした)

わたしは、それなら「なにが」学んでいるのか?とそこで思いました。
魂は学ぶ属性ではないし、かといってエゴが学ぶかというと・・・エゴが学ぶ???あやしいなあ。

そう思ったのですけど、しばらくするとそういった疑問と全然違うところに答えがある感じというか、「生きること自体が学び」、ただそれだけなのだな、「なにが」ではないんだ、と思いました。

・・・と、ここまで書いては見たもののうまく表現できてませんなあ。

これまでずっとわたしは観念的なことに惹かれて生きてきていまして。
でも自分が人間だという認識、自覚をあまりしていなかったなあって最近思いました。(言葉にするとすごい話ですが)
だから、ちゃんと食べ物をおいしく食べて、快適な住み心地かどうかにもっと意識をもって、そういった生きる欲求を楽しんだらもっといい感じになるなあと思っているところです。
これまではそれらを軽く考えてたというか、軽く考えようとしてたというか、その自分のした決定自体をすっかり忘れたというか、、、
だからもう一回、新たにやってみようって感じなのでした。


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つらつら - 2017年09月05日(火)

「あの世にはお金や物は持っていけない」「思い出だけお土産に持っていくのよ」とか聞いたことがあります。
そうだなあ、とこれまで思っていたのですけど。
昨日ふと、あれ?この「思い出」、これまでわたしが持ってた意味合いの「思い出」は思考や思考から生まれた感情の意味合いが多く含まれていたのですが、それも「からだ」や「物」「お金」とかと同じでもしかして持っていけないのかしら?と思いました。
よく考えたら、「からだ」と「わたし」がイコールではないというのと同じように、「思考」「感情」が「わたし」ではないなと。わたしが思ったり感じたりすることではあるけど、その思考や感情自体が「わたし」ということではありません。

だからほんとうに、「経験だけ」持っていくのかしらね、と思いました。
この世界で生きました、生きるということをしました、そういった経験だけを持っていくのかしら、と思いました。

魂は完璧だから学ぶことはない、ということをスピリチュアルな教えで以前聞いていたのですけど、先日ACIM勉強会で「生きること自体が学び」という言葉を聞きました。

わたしは、それなら「なにが」学んでいるのか?とそこで思いました。
魂は学ぶ属性ではないし、かといってエゴが学ぶかというと・・・エゴが学ぶ???あやしいなあ。

そう思ったのですけど、しばらくするとそういった疑問と全然違うところに答えがある感じというか、「生きること自体が学び」、ただそれだけなのだな、「なにが」ではないんだ、と思いました。

書いては見たもののうまく表現できてませんなあ。


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つらつら - 2017年09月02日(土)

ふわふわのからだのマインドと、ふわふわ減少のからだのマインドとの違い、ひとつ見つけました。

ふわふわ減少のほうは、「ひとりでできるもん」マインドのようです。
他者に対してなにか自分の知っている情報を伝えるときも、自分の知っていることを伝えるだけ、みたいな、、、どこか一方的な感じがあるなあと昨日の自分を思い出して気づきました。
人に何かを手伝ってもらった、例えば高いところにあるものを取ってもらったとかをしても、申し訳ないだとか自分ひとりの力でやりとげたかったみたいなそういう悔しさみたいなものが、手伝ってもらってうれしい感情があったとしても、ふわふわ減少のからだのときはそれがどこか一緒にあるという感じがします。

対して、ふわふわからだマインドの時はどうかというと、話している相手の人が知りたいことをわたしの言葉で伝える、みたいになっているなと。だから自分が伝えたいことを伝えている割に、自分が話してるという感覚ではなく相手の話を聞いている感じのほうが強いなと。
高いところにあるものをとってもらったとかしても、自分ひとりでやれたらうれしかったのだけどー、という悔しい気持ちも笑って一緒にいる人とシェアする、そういう感じなのですよね。

これらの変化が無意識に起きてるわけで。
やっぱりおもしろいよね、からだ。と思うのでした。

少し前に鍼灸師の先生が「モテることになったりしますよ」みたいなことをおっしゃったときに、異性としてモテたいとあまり思っていないわたしは「むしろモテたくありませんが、、、」とそのとき答えたのでしたが、その後ふわふわを持続していたらその辺の拒否感も薄れてきました。
モテたくなったわけではないのですけど、別に困らない、対応できる感覚になった感じですかね。


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つらつら - 2017年09月01日(金)

鍼灸にっき。

自分のからだを触った感覚がふわふわになってきて、それに伴うように「あれー?わたしの日常の表現もいつもと違うぞ?」と自分が自然にした行動やら反応やら使う言葉やらを見たときに思ったりしていたのですが。
(意図してやってないから、自分の言動に自分で見て驚く)

今日は戻りました(笑)
秋になってきて涼しかったからかな? 体の冷えを感じてきたぞ、からだのふわふわさが今日は少ないぞ、おなかが壊れたぞ、と思ってたら、表情の出て来方や話す言葉などなどが、数か月前のわたしになっていました。
からだの感覚の変化に伴う、このマインドの違いはどこの違いなのかしら?

しかしまあ、戻ると懐かしいですね!と思うくらいの感じがしました。少しふわふわの体に慣れてきてるのかもしれません。
あーそうそう!これこれ!こういう感じだった!みたいな感覚になりました。
(ある意味「これがわたしのからだ」という固定したもの、変わらないもの、みたいな感覚を現在のわたしは失っているかもしれません)

そんなわけで、からだとマインド、感情はつながってるよというのが自分の体感からよーくわかります。

なのですが、最近のふわふわのからだの対応マインドがわたしはすっかりお気に入りになってしまったので、またそちらに向かっていきたいと思います。

行きつ戻りつ〜




ACIM勉強会の宿題をしています。
今回の宿題は「わるいこになろう!」。

超!楽です。
いい子ってしんどいわーと思いました。宿題の締め切りになってもそのまま続行しようかなーというくらいに楽です。
わるいこ、超楽だー。罪悪感持たないから超!楽。
自由で、ゆとりがあって、今に生きてるって感じがするのでした。

しかも興味深いのは、わるいこの定義がおかしいところ。
例えば、散らかしたままでいることがいいこ、いらない物をどんどん捨てるのはわるいこ、みたいな定義が自分の中にあることに気づいたりして。。。
(今いらない、もういらないからって捨てると、物を大事にしていないと嫌がられたりしていたなあと思いだしたりして)

人っておもしろいもんです。

一般的・社会的な「わるいこ」と自分の中で持ってる「わるいこ」が一致しないものも一致するものもあるのですけど、一致しないものはそのズレに興味をひかれたし、一致するものは、そのゲームのルールで遊ぶのか、それとも別のゲームをするのか選べるなあと思ったりしました。ゲームによってはわるいこにならない。
サッカーはサッカーの遊び方があるし、バスケにはバスケのルールがあるし、というそれだけのことだなあ、他のゲームに干渉せずとも、他のゲームを否定せずとも(否定されることを選ばなくても)自分のしたいゲームはできるよなあと思いました。

あとは罪悪感のパターンにも気づいたりもしました。
多く使っていると気づいたものとしては、例えば「将来のため」として考えられないような、単に「今のわたしがしたいことをする」ということに対してわたしは罪悪感を持ちがちだなーとか。
今のわたし(のエゴさん)がそれにつながる未来の明るさを考えられないと、「そんな未来はない」としてしまうのだよね。傲慢な自信家ですね。

ちなみに「エゴさんがつながる未来の明るさを考えられないというだけ」と言い捨てる感じになると、それは少しわたしの感覚とは異なる感じです。
考えられないけどそれって本当かな?とか、エゴさんのことをわたしはそうなのかなと思ってるのだけどそれって本当かな?とか、どちらにせよそうやって自分で確かめていく感じが欲しいって感じです。

わたしのエゴさんは、「散財だ」「それをしたら“将来のためにならない”“将来困ることになる”“将来の役には立たない”」とささやいてくるのがわかったので、自分が望んでいるものを指針にちゃんと整理をして、今のわたしがしたいことをしていきたいと思うのであります。


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