日記×エッセイ...みち

 

 

「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅」を見てきました - 2016年12月27日(火)

見てきました。

市内でも上映しているのですが上映時間が16時台のみで、仕事が終わってふらっと見に行きたいわたしとしては行きにくかったので、またフォーラム福島までブーンと車で行ってまいりました。(片道1時間半くらい)

ハリポタ続編気になるなー、とちらと思っていました。ハリポタシリーズは全巻読みましたし。
でも、わたしはハリポタの映画のほうは全部は見ていないんですね。2作目か3作目くらいまでかな? だからなのか今回それほど熱が高まらなくて、そして普段TVもほとんど見ないのでCMも見ていなくて。どういう人が主人公で、どんな内容で、などの情報を全く入れていませんでした。
(一度インターネットで予告を見ようとしたのですが、なぜか読み込みが長くなってしまってたのでやめました)

見に行こうかな、と思ったのは、「この世界の片隅に」を見に行く時に、今日は映画を見に行くんだ〜と言ったら、「ハリポタのですか?CMでおもしろそうですよね!」と返ってきて、おもしろそうなのかーと思ったから、というそれほど強くはない衝動。

行く前も、なんだか眠いなーどうしようかなー行こうかなー、と迷っていたのですが、今日行かないとこれから1週間は見に行く時間を取れそうもないんだよなー、と思ったので行くことにしたという感じでした。


が!


いやー!すっごいよかった!(つ∀`*)

すごい好きだった!
楽しかった!
わくわくしたー!
単純に好き!
いろいろ説明する必要がないというか、素直に受け取っていればただ楽しい、ただ好き、みたいな。
見終えた頃には、お腹ぽっかぽか。

見に行ってよかった・・・


J.K.ローリングさんは、初めから映像のほうがいいのかもしれない。わたしにとってはの話ですが。
彼女の中にある世界を映像化した時の楽しさったら・・・半端ない!
映像の中に入りたくなったし、わたしも触れたくなったし、そこで呼吸をしたくなったし、その世界に入って感じてみたいと望みました。わたしの肌が触れようとしていました。
ハリー・ポッターの小説を読んだ時も、ああそうか!と驚きを与えてくれましたが、映像を通じての驚きのほうが好きかもしれないなと思いました。

文章で読んだ後に映像を見ると、わたしの場合はどのように表現しているかとかついついそういうものを追ってしまうから、この今味わってる感じが味わいにくいのかもしれません。
すり合わせてみる、みたいな。うん、なんだか癖になってる感じがあるな。

映像見ても細やかなところも楽しんでるんですけど、そこでは頭は邪魔しないからだいぶ違うんですよね・・・



「これってクィディッチのことだよね」とか、「こういうところで働くのか」とか、「ふーん・・・じゃあどういう人なんだろう」と興味を持ったりとか、ハリポタからの記憶も組み合わさって楽しめました。ひとつに関しては「ええっ!」としっかり驚きました。
知ってる人は気づく程度にささやかに出てくるので、新しい物語の邪魔をしないところもよかったです。



人を物のように扱う、物を相手にしているのと変わらない、というのではなくて、「その人をちゃんと見る」「人と人とがちゃんと関わる」みたいなものにわたしは弱いので、最後のほうの、地上に出てきて雨が降ってて、辺りのシーンからはずうっと最後まで泣いてました。涙が止まらないんですよねー。
記憶があっても忘れても、それが全く関係しないのがわかる。映画を見ていて幸せで仕方ありませんでした。



最高でした。
本が出たら、本でも読みたい!
というか、映画でもう1回見たい。長く上映していますように。



追記↓

ファンタビの監督って、ハリポタ映画の後半4作の監督さんなのですね。
ということは、この監督の撮り方ではわたしは全く見てなかったってことか・・・。
ふうむ。
ストーリーもいい感じに忘れているし、映画版ハリー・ポッターを4作目から年明けに見ようかなこれは。


...

「この世界の片隅に」見てきました - 2016年12月24日(土)

タイトルのままです。
クリスマスイブにレイトショーで「この世界の片隅に」を見てきました。

映画を見ている間、自分の中でいろいろと起きていたのですが、一回見ただけではわたしは消化できません。
映画から肌の感触というか、人がそこにいる体温みたいなのを感じました。
なんなのかな。どこでそれを感じるんだろうな。

かわいいなあ〜って登場人物のやり取りを見て、途中で大人な展開にドギマギとして、、、そしてその後ろには一緒に戦争が歩いていて。


情報がさらっと入ってくる様に、わたしはだんだんと何かに迫られているような感覚になっていきました。
情報に対して詳しい説明があるわけでもなく、情報に対して登場人物が感情的になるわけでもなく、ただ情報が入ってくる。その様に、息がしづらいような感覚になっていきました。

そして、そういった体感覚を経ていたにもかかわらず、映画の最後ではお腹がポカポカとして心地よくなっていました。


映画を見ていてわたしは特に涙が出るということはなかったのですが、エンドロールを眺めていた時に、「ああ、強いな」と思っていました。
ストーリーの最後のほうのシーンを見て、生きるってすごいって思って、それを持ちながらエンドロールを眺めていました。

で。

そんなに遠い過去ではない時間に日本に起きたことだよ、とふと思いました。
物事というよりも、心の経験として。
そして、同じ時代にいらっしゃる、それを認識して、ああ、強い、と思って、涙が出てきました。
これまで戦争のテーマの作品を見て、(一方的な)感情移入みたいなことはあっても、こういった、なんて言うんだろう、向こうに人がいてその人と近しい、親しい感覚になるということはなかったので、、、すごいなと思います。
(悲しいほど語彙が出ない)


まあこんな感じのため、「あ、そういえば今日はクリスマスイブだった」みたいになったことは言うまでもありません。
わかりやすく楽しくて華やかでケーキを食べて、という感じではないなと。ある意味ではクリスマスにふさわしいとも言えるかもしれません。愛だなあって思うので。


映画の帰り道は、車を運転して帰ったのですが、目に見える風景がまるで映画を続けて見ているように見えました。
映画の中の風景に自分がいる、そういう感覚になっていました。
これを書いている今もその名残はあります。

もう一回見たらどんな感じなんだろうな。



12/25朝追記。↓

朝起きても、まだ引き続き映画を消化中だなという感覚。
上記の日記を読み返していたら、じわっと涙が出てきました。なんだろう、この感じ。不思議な映画です。

映画から体温を感じるというのは、少しだけどういったことに反応しているかわかったかもしれません。
一方的に教えられるのでもなく、激しく訴えるのでもなく、心に柔らかく話しかけてくるあの感じ・・・



12/25昼追記↓

大きく驚かずに「ありゃあ〜」と受け入れてくれるというところも、感じていた体温なんだろうなとパンフレットを読んでいたら思いました。
すずさんの生きた時代の年表もよいです。この時には自分の父はいくつだったのかな、母はいくつだったのだな、と眺めました。

パンフレットには、映画でのいくつものシーンが見開きで載っているページがあるのですけれど、それぞれのシーンで感じた感覚というのが思い出されて、こんなに多彩だったのだなと改めて感じました。
空に放たれるカラフルな色に、絵を描く人としてすずさんが思うこととか。
黒に白の描線のシーンとか。
感覚を絵にするというのはこういうことなのかな、と思いました。

悲しいことを我慢して、このためだと我慢をして、なのにそれが報われない。それが怒りとして現れる。
すずさんが怒りを出すシーンでのセリフは、戦争というものをとても考えさせられました。あ、そう思うのか、ってはっとしたシーンでした。



12/25夜追記↓

大きく驚かずに「ありゃあ〜」と受け入れてくれる。
これって、マインドフルネスじゃん・・・と思いました。
評価や判断とは無縁の形で注意を払うこと。
マインドフルネスには体温がある・・・考えたことなかったな・・・


...

逃げ恥 - 2016年12月22日(木)

先日最終回でしたね。ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」を見てました。
もともと原作が好きなので見始めたのですけど、ストーリーは似た筋道なのにクローズアップするところがそれぞれ別のことについてという感じで、ドラマはドラマでおもしろくてとてもよかったです。
おもしろかったですよねー(同意を求める)
原作の楽しみ方とドラマでの楽しみ方がそれぞれ異なっていたのですけれど、それがどっちもおもしろいというね。いやあ最高。主役二人がかわいかった〜!

そんなわけで、最終回のてんこ盛りまでしっかり楽しませていただいて、満足満足!としていました。

で、twitterのTLに流れてくる逃げ恥関連のイラスト(逃げ絵)を眺めていました。
それわかるわー!よかったよねーかわいかったよねーびっくりよねー、みたいに。

そうしたら、突然ボロボロと涙が。
百合ちゃんと同じで、どうして涙が出てきたのかわからない類の涙。
突然すぎます。ただわたしはドラマの余韻を楽しんでいたんですけど・・・。

でも、この類の涙にはわたしはこれまで10年くらい前から何回も遭遇していました。
先日もジャックさんのクラスの時に遭遇したばかり。
で、これまでずうっと何に反応しているかわからなかった涙でした。


”私たちを縛るすべてのものから 目に見えない小さな痛みから いつの日か解き放たれて 時に泣いても 笑っていけますように”


ああ、これかあ・・・って腑に落ちた感じがしました。
ドラマの中でこの言葉があったので、そこが意識できて触れることができたように感じます。

何に涙したかというと、逃げ恥の周りにある穏やかなやさしさにわたしはやられました。わたしはその穏やかなやさしさが存在していることを信じていないところがあるんですよね。

原作でもドラマでも別に泣いてないのに、TLで泣かされるとは・・・です。

これまでの「自分がなんで泣いているかわからない」という出来事のすべてがこれじゃん、という。

自分が反応していたのは、その時に聞いた「話の内容」や「言葉の意味」などの、そういう切り取ったものじゃなかったんだなあ・・・と。


わたしは、この年末年始はマインドフルネスをもう少ししっかりわたしは勉強しなおすぞ!と思ったばかりで。
ボディワークを通してわたしがしたいのはマインドフルネスなので、もうちょっと自分のやりたいこと、提供したいことを明確にしようと思って勉強しなおそうと思ったんですね。
(ボディワーク用のサイトも用意する予定でいながら後回しにしていますが)

そうして、これまで積ん読していたティク・ナット・ハンの書籍を読み始めたのですけれど。

そこで、ひとつのことで切り離せないというお話がありました。レビューなどを見ると、ティク・ナット・ハンのお話ではよく出てくるお話のようです。
花を見る時に、太陽を切り離して花だけを見ることはできない、土と切り離して花だけを見ることはできない、水と切り離して花だけを見ることはできない、そういうお話。

それとTLで見たこととが相成って、わたしは少しだけ認識できたようです。

わたしはずうっと切り離して考えていたなあって。
切り離したものをいくつか組み合わせる、そういうものだと考えていたなあって。
これまでわたしは無意識のところでそう考えていたなあって。

コースでも何度も書かれてますが、そもそも切り離すことはできない、と言われていますね。

そしてわたし!何度も!それ!読んでる!んだけど!

やっと、ああ、こういうことかーって思いました。
その「切り離されていないもの」に触れられた時に、わたしは頭では意味の分からない涙がぼろぼろ出ていたんだなあって。
子供の頃を振り返ると、それはもともとではなくて。もともとは切り離していなかったなあ、生きてきたその途中でそういうアイディアを学んだんだよなあってわかります。


これまでを振り返って、お世話になってきた方々にありがたいと感じました。

先生という人はすごい・・・。忍耐力というか、待つ感じというか。
こんなの言葉で言われてもわからないもの。

すごい。


...

プレゼンシングとわたし - 2016年12月20日(火)

12月初めにジャックさんのクラスに行ってから、理屈では全くついていけていないし、ついていこうという気もないのだけど、なんかいろんなものが自分からボロボロと剥がれていってる感じがしています。

明らかに違うのは、がんばらなくなった。
わたしにとってのがんばらなくなった、これを説明するのは少し難しいのだけど、わたしは自分を追い込んでいくのが結構嫌いではなくて、本気モードになれると快感スイッチが押されるようなところがあるので、ついついがんばってしまうというのがわたしの基本にあります。
まあ今もあるなって感じなのですけれど。

あるんだけど、それに追われる感じがなくなったなあって思います。
正確に言うなら、「がんばることをがんばらなくなった」と言うのか?

「今の自分を、今見ている」
そんな感じがしています。

できなくても、できなかったーで終わる。
こうするとできるんだー、そうなんだー、で終わる。

足りないから努力してできるようにしなきゃ、とか、逆に、わたしはそんなことはしたくない、とか、そういうのがない。
ん? ないわけではないか。出てきてるな。
ないのではなくて、出てきてもそれにこだわらない、ずっとそれを持ち続けようとしない、それが正しいことと守らない、そんな感じかな。
やるかもしれないね、それはやらないで他のことをするのかもしれないね、みたいに自分を眺めている感じ。

理屈でわからないというのは、なんでこうなったのかがわからない。どうやってこういう感覚を感じるようになってるのかがわからない、ということ。
全く違うのですよね。何かが。

プレゼンシングを意識しているからだよ、と言ってしまうと、まあそれはそうなんだろうけど、その言葉はすんごく簡単にまとめてしまっている感じがしてきてしまいます。
わたしにとっては、もっとしっくりくる言葉がありそう、という感じで、プレゼンスに含まれている今のわたしにとっての大切なものが言語化されていなくて見てもらえない状態にしてしまってる、そう感じて何気にイラっとする感覚が出てきます。「理屈でわからない」というところに置くのがいちばん安定します。
(「そのイラっとしてるのを体で感覚してみたらどんな感じだろう」とこれを書きながら思ってみたりしますが)

体の感覚を感じる。
いっぱいに満たしてみたり、空っぽに手放してみてその感覚を感じてみたり。
それだけなのになあ、すごいなあ、って感じています。
シンプルすぎて、こうして学んでこなかったら自分でやろうとしなかったよね、この感覚を知らないままだったよねって思います。

ある部分では「わからない」ですが、これまでわからなかったことがわかってくることもあって、ずっと理解できないと思っていた人が、ああそうか、とわかってきたり。
「こういう反応をするから嫌だ、困る」と怒ったり嘲笑したり、あるいはそういう態度の人を見て嫌だなって思ったり、そうではなくて、「そういう反応をしてしまうのだな」と単にわかるだけというのはとても楽ちんです。

足を痛めている人に椅子を差し出す、そういうことと同じことだよね、きっとね。


...

つらつら - 2016年12月19日(月)

内面の感覚が一段落したら日記に書こうと思っていたら、書けないままになりました。一段落などしなかった。ずっと変化し続けていますな。

ここ1、2週間なんかいろいろなことがあって、どれもこれもトピックとして書けるのだけど、ここ最近自分に起きていたことの全体をざっと見ると(←全部書こうとすると大変なのでざっと見ることに逃げた)、丁寧に人に接する、人とのやり取りや自分とのやり取りに手を抜かない、そんな時間を過ごしたような気がします。

過去、わたしは自分に嘘をつくことが多かったんですよ。
わたしは、自分が弱い存在と思われたくなくて、例えば弱いと思われると迷惑をかける、弱いと思われるとひどい目にあう、そういう思い込みからかな?と思うのですが、だから弱いと思われたくなくて大丈夫なふりをする、そういう場面が多かったんですね。

で、本当は大丈夫ではなかった、その当時の「悲しい」とか「怖い」とかを認める、「怖いなんて言ってはいけない」そうマインドが言う前の感覚、そうか、怖かったんだ、と思い出す、認める、そういうのがばーっと一気に出てきて感覚する、そういった時間を最近過ごしていました。

過去、わたしは人に対して愛想笑い的な嘘、これが多かったです。自分に嘘をつくことが外側に表現されると、愛想笑い。ということは、自分に対しても愛想笑いしてた感じか。

過去のある時期ですが、そういった嘘をつき続けていたらどんどん悪化するのが目に見えたのでわたしは正直にならざるを得ない、そう思うような人に会う時期がありました。
わたしはその人がとても嫌いでした。自分が正直でない、その人に対して自分の思ってることを胡麻化すと嫌なことしか起きなかった、という感じで、ある時、ええい!と正直になったらあっさり受け入れられて、関係性がわるいものではなくなったということがあります。
そういうことを思い出す時期にもなりました。

あとは、過去の日記のどこかにも書いてありますがオーラリーディングをしていただいたことがあって。
その時に「鉄鍋を頭にかぶってる」と言われたんですね。そうして自分を守ってる、でもそうしているとメッセージが来ない、そんな感じのことを言われました。
当時、そう言われてもなぜに鉄鍋・・・と思ったし、まあ守っている感じはあるけど、という感じで受け止めました。

変なことを書きますが、それがなんかぴたりと符合する感じが最近ありました。

プレゼンシングソマティクスをしていて、体の感覚を意識的に感覚する、わたしは日常的に行っているのですけれど、先日それをしていたら、頭に感覚があって、耳から上の頭をすっぽり包むように感覚がありました。
リーディングを受けた時期に「守ってた」その対象と同じようなことが最近起きていたのですけれど、その時と似てるなあ、と思ってたらピタッと符合しました。自分の頭に感じている感覚と。

あ!これか、鉄鍋! 鉄鍋を頭にかぶってる感覚ってこれか!

どういうことなのか理屈はわかりませんが、これか!という感じだけ体験しました。



プレゼンスにいられなくなる感覚もあったので、カジュアルだった瞑想ももう少しちゃんと行う時期にもなりました。
プレゼンスに入ってみると、自分の内側に起こっていた嵐が静まり、それはそれでOKな感じになる。
OKな感じになった状態で、サンキューかノーサンキューか、はたまた何を求めるのか。


...




My追加

 

 

 

 

INDEX
past  will

MAIL