知らんけど

2006年12月30日(土)

毎日の徒歩通勤で先日紹介したSteve Jobsのスピーチを聴いている。行きに2回。帰りに2回。計4回は聴いている。

頭に焼きつけてやろう。そんな気持ちで毎日欠かさず聴いているのだが、なかなか頭に焼きつかない。何を言っているかは良く分かるし、とても共感できる内容だが、いざ日常生活や仕事に入るとすっかりそのコンセプトが抜け落ちる。まだまだ、意識が足りないのか。

今やっていることは単なる一つの出来事である。それが今後どのような線になっていくかは分からない。線を予想して生きることは不可能だ。だから、今目の前にある点を生きるしかない。線を成すことを信じて。

失敗と思ったことが後の成功につながる話はいくらでもある。僕は逆に成功と思ったことが失敗につながることもたくさんあると思う。結局、失敗や成功という次元で物事を考えることでは人生は捉えられない。結果がどうであろうと、自分が素晴らしいと思えることをやり続けるしかに。素晴らしいと思うものは、好きになれる。好きになればさらに素晴らしさは増すだろう。

15分後に隕石が家に落ちてくるかもしれない。こうして日記を書きながら、心臓麻痺で一人寂しく死んでいくかもしれない。それが起きないと誰が断言できるのか。死を面前にすると、人の目など気にならないし、変なプライドなど関係なくなってしまう。そんな短い時間で実感がわかないなら、3ヶ月の命ですと言われたら、あなたはどうするか。芸人のカンニングの中島さんという方が白血病に伴う肺炎で亡くなったらしい。僕はその人のことを良くは知らないが、同じ歳であった。今、僕が彼のように死を目前にしたら何をするのか。

Steve Jobsのスピーチの内容を僕なりにまとめてみた。世の中に溢れる無駄な情報に踊らされ、人の目に萎縮して生きるが、本当にバカらしくなる。俺の世界は俺にしか分からない。だから、俺の人生は俺が生きる。そういうことなんだよな。



2006年12月28日(木)

いろんな意味でバランスが取れてきたかもしれない。

仕事上では自分なりの考えの下に動いた結果、それ相応の形ができつつある。その結果、今の職場のリーダーにはとばっちりを与えてしまった。しかし、それは僕のせいではない。僕はやるべことをし、リーダーには時間的な猶予とデッドラインは与えられていた。そこを僕がぬかるはずがない。別に僕が偉いわけでもすごいわけでもないが、今のリーダーが僕の立場をどのようにハンドリングするかを見させてもらって、そして落胆した。やっぱり自分が動かなきゃ、自分の立場は守れない。

プライベートでは、ここ数年の間、僕の心をつかんで離さない女性に対して、その思いを伝えた。その思いを言葉にするのに、約5年かかった。

「好き」なんて大雑把な言葉では今の思いを表現できない。「付き合う」なんてスイッチをon、offするみたいな短絡的な関係性よりももっと違う何かを感じている。会って話をすると、何とも表現しがたい至福感を得る。また、そうした機会が得られると単純にうれしい。だからといって、どうしてよいかは分からないから、ともかくそれを伝えることにして、勇気を持って伝える。

大体、そんな内容だったと思う。

ただセックスの対象としてなら、どんな女性で構わないし、なんならお金を払って風俗にでも行けばいいと思っている。必要なのは「穴」なんだから。ただ寂しさを紛らわす存在としてなら、異性を問わず友達が居ればいいだろうと思っている。必要なのは存在する誰かなのだから。愛する犬の存在と、愛する恋人の存在との差は何なのか?それを納得する形で説明してくれる人がまだ居ない。

僕は自分にとって、その女性がどのような存在なのかを、言葉にはできない。彼女を所有したいという気持ちというか、帰属したいという気持ちが全くない。彼女が僕のことを好きだとか嫌いだとか、別にどちらでもいい。彼女が誰と付き合おうが勝手である。僕にとって大事なのは彼女の存在と、その存在の中にある彼女にしかない人間性である。それに触れることがたまにできれば、僕は満足なのだ。ただ、その存在がどのような存在なのかと質を尋ねられても、全くもって表現はできない。理性を超えた何かなんだろう。

まあ、どうでもいいことだが。



2006年12月26日(火)

忘年会。新人のフットワークの重さにただただ落胆。いや、これは僕だけの考えかも知れないので、正しいとか正しくないとかの問題ではない。しかし、なんだろう。気遣いの一つもできない新人にかなり落胆した。

まず、幹事。まともな乾杯の音頭も促せない。そして締めもなあなあ。なんだ、この忘年会は!!!!!!こどもの集団か??????ホント悲しくなる。ビールは手酌。誰も今年の終わりの挨拶にも来ない。なんだ??なんだ??忘年会ってのはこんな気軽な飲み会なのか??

まあ、愚痴はこれまでにして、こうした単なる忘年会一つからも、今の組織の状態が手に取るように分かる。若いものは若いもので集まり、それで充分。歳よりは年寄りで集まり、それで充分。分断。

僕自身もその間を埋める役割を務めるべきだったのかもしれない。しかし、それ以前にそんな雰囲気さえない中で、僕が一人吠えたって寒いだけだ。僕だって、僕自身の立ち位置をふまえてしまう程の雰囲気。

職場の誰とも、同じ価値観が共有できない。ホント寂しい職場である。



2006年12月18日(月)

なんだろうなぁ。まだふっきれない。何からふっきれないのかも定かではないんだが、今自分がするべきことがさっぱりわからない。

するべきこと、したいことがある時は、たいてい何かしらのイメージがパッと浮かぶのだが、いまだにそれがない。耐える時期なのかな。

人との対話が足りないのか。最近、めっきり職場でコミュニケーション機会が減っている。こちらから対話をしかけることも減っているし、対話をしかけられることも激減した。
対話のなかから案外大事なことが見つかるのかもしれない。



2006年12月17日(日)

ここにきて少しずつ気持ちが上向きになりつつある。そうした徐々に良くなる、いい意味での胸騒ぎがしている。ただ、まだまだそのポジティブさに満たされている感覚はない。もどかしい感じ。

今の状態を違う視点から見ることが出来始めているのかもしれない。ゲシュタルト崩壊というものがある。例えばひらがなの「あ」をじーっと見ていると、それが字に思えなくなる瞬間がある。漢字なんかでも、「借」という字をじーっと見ていると、なんか違うものに見えてくる。

現状に対しても、これまで何か当たり前だと思われていた枠組み(自分の意識)でしか考えられなかったものが、突然、違うものに見えてきたような感じがする。自分の状況をメタ認知するってのは言葉で言うのは簡単だが、実際に意識してできるものではないと感じた。ゲシュタルト崩壊を通して得たメタ認知というのは、さっきの文字と同じで、ただ単に現状をじっと見ていただけに過ぎない。そのじーっと見ている時間がというのがとても大事なんじゃないかと思った。

「転職したい。」「今の職場がイヤだ。」そうした気持ちから、何とかしようと転職活動をするわけだけど、そうした活動をする中でもう一人の冷静な自分が居て、「ただイヤだから転職するんじゃダメだぞ。」とか「ここで働きたいと心から思えるところが見つかるまでは絶対に簡単に転職しちゃだめだ。」とかクギを刺しているのだ。

その状況というのは、まさに動くに動けない状況なわけだ。転職活動という表面的な動きはあったとしても、退職から転職へというダイナミックな動きは起こせない。その状況でじっとしていることが意味がある。だからある意味時間が解決してくれるという言い回しは正しい。とにかく今のこのいい意味での胸騒ぎが徐々に盛り上がってきたときに、自分がどんな選択をするかが楽しみだ。



2006年12月15日(金)

ネガティブには飽きた。ポジティブになる。ポジティブに飽きたら、またネガティブになる。それでいいと思う。周りのせいにしていても何も起こらない。



2006年12月14日(木)

ノロウィルス炸裂中である。うちの病院も例外ではない。しかし、病院ともあろうに、対策が後手後手である。

まず、ノロウィルスが疑われる症状が一人出た時点で、最大限の予防策をはかるべきである。1%でも可能性がある出来事が起きたなら、最悪のシナリオを想定して速やかに最大限の対策を取る。これがリスクマネージメントではないのか。うちの病院は、「なんか似てるね。でも分からないから、仕方がないね。」で放置され、似た症状を持つ人々が集団で出てきてから対策を「考え」始める。考え始めた頃にはもう時すでに遅く、考えた対策を実施する時には、すでに蔓延している。

笑い話のようだが、うちの病院のリスクマネージメントをリスクマネージメントする部署が必要なんじゃないか。リスクマネージメントの本質を本当に理解していないからこんな茶番劇が生まれる。「気をつけていました。」ではすまないのである。



2006年12月12日(火)

混乱中である。転職活動を始めたのは良いが、行き詰っている。別に行くところがないわけではない。内定をもらったところもあったし、選ばなければいくところはある。しかし、今がイヤだからどこでも行くでは、単なる逃げ腰転職になる。自分がなんとなく、漠然ではあるけれど、胸に抱いているあるべき職業像が具現化できる職場じゃなければ行く意味がない。

しかし、今の職場に期待が持てないのも現実だ。視点を変えれば、考え方を変えれば、そうした概念的な変化が起これば現実の捉え方も変わるのだろうけれど、実際はそれほど理性の利く話でもない。これは「イヤダ」という感情の話なのだ。仮に今の職場に残るとして、この「イヤダ」という感情が消滅していく機会があるのかと考えると、今の時点では考えにくい。

次の職場も満足に見つけられないし、今の職場にも満足できない。八方ふさがりである。弱音ではなく、正直にこれは精神的にかなり辛い。何かに責め立てれて、それに耐える方がまだ気持ちは楽だ。動けない。気づかれない。こうした孤立感はとてもこたえる。

弱音ではないと書いた。実際に弱音ではない。例えば、マラソンで言えば、途中何度も「しんどい。」「やめたい。」と思う。もし、声を出して誰かに訴えることができるなら、「もう、イヤだ!」と言ってしまうくらいの辛さがある。しかし、そう思うことは単なる気持ちの吐露であって、弱音ではない。だから完走できた。

今回の精神的な辛さも似ている。辛い。何とかしてもらえるなら、何とかして欲しい。しかし、ここは辛さをそのまま受け止めて、吐露して、やり過ごすしかないのだ。

なんて格好の良いことを書きながら、頭の片隅で思う。「人生って良くわかんねえな。」この時期が将来振り返った時に、意味のある一つの出来事として存在することを信じるしかない。



2006年12月10日(日)

昨晩、仕事の後に「硫黄島からの手紙」を観てきた。僕は命をかけるべきものを持つか?そして実際に命を落とすことができるか?人が生きているということは何なのか?それを考えずにはいられない。

茂木健一郎氏のブログに紹介されていた、スティーブ・ジョブ氏のスピーチに魅了された。多くを語る必要はあるまい。音声ファイルとして保存し何度も繰り返し聴いている。



本命の病院から返事が来た。内定せず。面接官の態度が最初から明らかだったので、結果には驚かず。しかし、悔しい。人の履歴をボロクソに言うだけの面接。最初から書類選考ではいいではないか。改めて、人の気分を悪くさせるための面接をする病院関係者、恐らく上層部の態度には驚きを通り越して哀れみを感じる。そんな人に患者の気持ちなどわかるはずがない。

とは正論かもしれないが、言ったとしても所詮は負け犬のたわごとであることには違いない。しかし、考えてみれば、職場の事務長といい院長といい、今回の面接といい、医療従事者の上に立つものから末端に至るまで、数多く落胆させられてきた。かなりレベルの低い業界であることは、少なくとも僕の周りでは間違いない。

もしこの記事を読まれている学生の方がおられるのなら、4月に入職なんて別にこだわる必要はないと進言しておく。もちろん、それによって多少のハンデはあるとしても、自分が納得できるまで職場を吟味することをお勧めする。それでも思ったような職場ではないかもしれない可能性は高い。そこは現実である。こういわなければならないのは非常に腹立たしいが、ある程度の妥協は必要である。

しかし、紹介したスティーブ・ジョブ氏のスピーチを何度も聞き返して欲しい。(英語が分からないなんて言わずに、和訳を自分の力で探して欲しい。)

Your work is going to fill a large part of your life, and the only way to be truly satisfied is to do what you believe is great work. And the only way to do great work is to love what you do. If you haven't found it yet, keep looking. Don't settle. As with all matters of the heart, you'll know when you find it. And, like any great relationship, it just gets better and better as the years roll on. So keep looking until you find it. Don't settle.



2006年12月07日(木)

いつもは病院の食堂で夕食を食べて帰るのだが、最近はそれを一時ストップして外食やらコンビニ弁当やらになっている。ま、約二年間病院の食事を食べてきたが、さすがにローテーションに飽きたというところだろうか。

マラソン後の筋肉痛はほぼ消失しかけている。筋肉痛があっても徒歩通勤30分は相変わらずで、朝ブラブラと歩きながら出勤するのは気持ちが良い。すれ違う人の顔を見るのも楽しいし、ウンコしているチワワが周りを気にしてキョロキョロしている姿は単純にかわいい。時折、頬を撫でる寒風に気持ちよさを感じてしまうのだから、朝の徒歩通勤マニアになりつつある。

実はそこそこ高価な自転車を持っているし、折り畳み自転車だって持っている。だから、自転車通勤もできなくはない。でも、歩きたいのだ。バイクに乗っているときも、自転車に乗っているときも、基本的に周りに注意を払えない。チワワのウンコ姿を見るなんて、バイクでは気がつかないし、自転車だと危ない。やっぱり歩いていないと見えない風景があるのだ。

確かにバイクじゃないと得られない感覚や、自転車ならではの爽快感は存在する。僕はバイクの楽しみはそれほど自分の好みに合わずに、売り払ってしまったが、自転車はそこそこ楽しい。しかし、やっぱり歩きにはかなわない。徒歩通勤同盟でも作りたいものである。

ところが、転職でもすると徒歩通勤が難しくなるのがちょっと悲しい。



2006年12月06日(水)

久しぶりの出勤。マラソン後の筋肉痛もだいぶ和らぎ、仕事への支障は全くなく一安心。

マラソン完走後だからか、休みの後だからか分からないが、気分的にはすっきり気分だった。毎回、南の国に行った後は気分が良い。向こうの楽天的な雰囲気に感化されて帰って来るからだろうか。しばらくすると、現実が待ち構えていて、次第にそれに毒されていく。何なんだろうね。毒されていく現実ってのは。

仕事後は、読書をしに久しぶりにドトールへ。三冊の本を少しずつ大体1時間半くらい読む。こうしてゆっくりと喫茶店で本を読むのも久しぶりだな。最近、こうした時間を持っていなかった。いつもなら21時からジムに行って走るのだが、今週はマラソン後ということもあり、完全休養予定。寒い中を自転車で帰宅。

転職活動も昨日の件でかなりトーンダウンしている。しかし、今の職場に居続けることはやっぱり考えられない。最悪は後一年は居ることになるのだろうけど、まだあきらめず次の職場を探していこうと思う。



2006年12月05日(火)

今日、本命だった病院での面接があった。最悪だった。内定は出ないと思うが、仮に出たとしても断る気持ちで一杯だ。僕が最悪だったのではなくて、病院側が最悪だった。

面接官は3人。まず、部屋のドアをノックするが、返事がない。しかたなく、そのまま入ると3人は3人でお話中。二つ椅子が置いてあるから、手前の椅子に座ろうとしたら、右端に座っているじいさんが「そこは荷物。」とぶっきらぼうに言う。この時点で僕の心の中は「??」席に着き、「よろしくお願いします。」と言うが、誰も顔をあげて僕の顔を見ない。「??」

右端のじいさんは椅子にふんぞり返るように座り、僕の履歴書のコピーを眺めている。その後、僕の履歴書にいちゃもんをつけ始めた。いちゃもんつけられても、履歴は僕の人生で過去のことなので、「はい。」としか返事のしようがない。途中であまりにもバカらしくなって、無言で聞いていた。その間、左端に座っている若い男性スタッフが、じーっと僕の顔を見つめている。「??」だから僕も無言のままじーっとその若いスタッフの顔を眺めた。じいさんはいちゃもんをつけ続けている。真ん中の女性は、黙ってむっつりした顔でただ僕の履歴書を眺めているだけ。

じいさんが何か質問したので、それに答えていると、真ん中の女性の携帯電話が鳴る。左端の若いスタッフの携帯も鳴る。左端のスタッフは携帯片手に部屋を出て行く。女性は鳴っている携帯を眺めてから、スイッチを切っていた。その間、僕は話し続けていいものかどうか迷いながら、半ばあきれ気味にその面接官達を見つめながら話した。誰も聞いていないのに。

真ん中の女性は、一つだけ質問をした。そのときに僕の顔をチラッと見ただけ。それ以外はずっと下を向いていた。若い男性は、ありきたりの質問を投げかけて、それで終わり。なんなんだこの面接は?結局、面接官は名前も名乗らず、肩書きも示さず。不愉快極まりなかった。箱は素晴らしい病院だが、中身はクズか?と思わせる面接。あきらかに人を人と思っていない。本命の病院だっただけにショックだったが、就職する前に知れてよかった。

帰りに人事の担当者が、「失礼なことを申しまして申し訳ありませんでした。」と言っていた。「いえいえ、人それぞれ意見がありますから大丈夫です。」と答えておいた。人事担当者とトップとに温度差がある。これは問題であろう。転職活動は白紙に戻ったかもしれない。



2006年12月04日(月)

42.195キロ。記録6時間13分。完走した。制限時間内の完走は心の奥底ではたぶん無理だろうと思っていただけにうれしい。

初マラソンの感想を一言で述べるなら、「自分との闘い」。幾度も自分との勝負がある。勝ったり負けたり。最終的には勝ったから完走できた。そんな気がする。

そして、楽しい大会だった。那覇マラソンは特別なのかもしれない。沿道には一般の市民が大勢でて食べ物や飲み物をボランティアでランナーに手渡す。

不安、痛み、弱音、励まし、達成感。この経験からしか得られない感覚。それが一番の成果。



2006年12月02日(土)

今日から沖縄入りする。伊丹空港の搭乗口から携帯で書いている。

搭乗を待つ客の少なくとも四分の一はマラソン目当てだ。今から走って那覇まで行くのかというようないでたちの客も多い。いちゃつくカップルも何組か。ビジネスマンらしき姿は、ない。やっぱり沖縄は遊びに行くところだ。少なくとも本土の人間にとっては。

空港に来るとこれから旅立つというわくわく感が湧き起こる。これがクオリアかと思いながら静かに周りを見渡す。たくさんのわくわく感のクオリアがこの空港には湧き起こっているのかと思うと不思議な気持ちになる。


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