思考過多の記録
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2014年08月25日(月) 人前に出ることが許されない人種

 9月にある劇団さんが主催する演劇フェスティバル「ゲキミックス!」に、自分の演劇ユニットFavorite Banana Indians(FBI)として参加することになり、今稽古中である。本番まで2週間を切った。今回、宣伝の一環ということで、「ゲキミックス!」の特設サイトに団体を紹介する動画をアップすることになった。撮影は稽古初日の顔合わせの時に行われたのだが、基本的には出演者が自分や作品を紹介するという形になっていた。そして、そこに「おまけ」のように「稽古後の雑談」の映像が続いた。
 本来僕は主宰なので、この動画の中で進行役を務めてもいいくらいなのだが、敢えてそれはしなかった。理由は単純で、写りたくなかったからである。
 しかし、出来上がった映像を見てみると、僕がしっかり写っていた。「おまけ」の中で僕の方に話が振られて、それに答えて喋っている姿が撮られていて、それが使われたのである。(勿論、カメラはすぐ近くだったので、自分が撮られていることは分かっていた。)僕は画面から目を背けたくなったが、たとえそうしたところで、この映像がネット上に公開されてしまったことが消えるわけではない。



 元来僕は自分の姿形が嫌いである。できれば見たくない。鏡の中の自分とはできるだけ目を合わさないように、そそくさとその場を立ち去るようにしている。昔から自分の容姿は好きになれなかったが、それでも若い頃はもう少しだけ何とかなっていたと思う。大学生の頃だが、「眼鏡を外すと藤井フミヤに似ている」とまで言われたこともあった。だが、それは極めてレアなケースである。
 鴻上尚史氏の言葉を借りれば「ぶさいく村」に生まれついてしまったことを、僕はずっと恨んできた。もし見た目がもっとイケていれば、人生はかなり違っていたに違いないと今も思っている。少しでも自分を魅力的に見せるために、服装や髪型にもっと気を付けていればよかったのかも知れないが、それも無駄なあがきのような気がして放棄していた。思えば、もっと若い頃、少なくとも今より容姿が何とかなっていた頃に、そのへんに気を配っておくべきだったと思う。とはいえ、そうするためには、まずは自分の容姿を正しく知っておく必要があり、そのためには鏡をある程度長時間見なければならないが、それ自体が僕にとっては耐えられないことなのである。
 いずれにせよ、僕は自分の容姿が嫌いだ。だが、その容姿を、僕はそれこそ毎日のように、僕以外の人間の前に曝している。これは実際耐えがたいことである。自分ではもう少しましな容姿を想像しながら日々過ごしているわけだが、映像に映った自分は、本当に酷い姿をしていた。そして、それがおそらく僕の「正しい」姿なのである。こんな外見のまま今日も人に会うのかと思うと、我ながら悪寒が走る程である。



 しかし、役者さんと付き合っていると、彼等・彼女等がごく普通に人前に自分を曝し、あまつさえ写真や動画等に自分の姿を残すことに何の抵抗も感じていない、それどころか、自ら進んでそうしようとすることに、いつも驚かされる。「役者」である以上それは当然のことではあるが、それにしても凄いことだな、と僕には思えてしまう。
 よく役者さんが宣材を撮ったりしているが、カメラの前で自分がどんなポーズをするとどう見えるか、どの角度でどのような笑顔を作ったら、また視線をどこに向けたらどう写るのかがほぼ分かっていて撮られているとしか思えないようなはまり方をしている。これにいつも僕は感心してしまう。
 役者さんだけではない。7年前にコラボ公演でご一緒したインディーズバンドさんのボーカルの女性もそうだ。この時の映像が残っているのだが、バンド演奏の部分は特別に編集されていて、画像にエフェクトがかかったり、アップが多用されたりしている。そのボーカルの女性は、客席から狙っているカメラに向かってちゃんと視線を送り、歌い終わった後、目を閉じて俯くような姿で静止した。自分がカメラにどう写るかを分かっているのだと思った。彼女はほんの一時期メジャーの世界にいたし、その後も自分のバンドのPVを作ったりしているので、カメラに写るのは慣れていて、人から見える己の姿を確実にコントロールすることができるのであろう。



 僕の知り合いの新井賀子さんという若い女優さんが、写真家さんと組んで自分のポートレートを撮り続けている。先日そのうちの何枚かの写真を展示した写真展が渋谷であり、僕はそれを見に行った。写真は大きく引き延ばされ、その前に何人かが立ち止まって見ていた。彼女の写真は、全て花や海といった自然の風景の中で、それに合わせてコーディネートされた服装で彼女がポージングをとる形で撮られていたのだが、写真の中で主役が彼女なのは間違いない。確かに彼女は可愛い顔立ちをしているが、それにしてもこんなに大きく自分の姿が写されていることを受け入れられるということ自体が、僕にはとても不思議なことのように思えた。
 僕はこのことを、思い切って彼女に訊いたことがある。その時彼女は、
「写っているのが自分というよりは、写真自体が綺麗なもので、私とは別物、という感覚です」
というようなことを言っていたと思う。
 その後、彼女はこの写真展のことを振り返る内容のブログを書いた。その中で彼女は、

「作品たちとあらためて対峙してとても不思議だったのは、どれもまるで自分ではなない、誰かがそれぞれの作品の中にいるのを客観的に見ているような、そんな感覚がしたことです。でも(中略)そこにいるのは確かに、私自身なのだとじわじわと実感が湧いてきました。どの作品にも、その時々の自分の想いだったり表現したいことがちゃんと記されていました。一枚一枚が違う人のように感じたのは私自身が変化し続けているから。沢山のモデルさんがいる中で私を選んでくださるかんべぇさん(筆者注 写真家さんの名前)、そして作品を見てくださる全ての方のために、私はこれからも“新井賀子”にしかできない表現を追い求めて、進化し続けます。凛と、強く、美しく。ありのままの私で、自然を彩る季ノ華のごとく、誰かの心を彩る華になれるように。(後略)」

と書いている。そして、それに続いて1枚の写真を取り上げ、自分のお気に入りだと書いた上で、「自分が思い描いたイメージと仕上がりが限りなく一致する気持ちよさを感じた」といっている。
 ここまで自分の容姿・外見を素材にできてしまう彼女には本当に感嘆するほかはない。しかも、展示する写真を選ぶのに、彼女は写真家さんと一緒に何百、何千という写真をチェックしているのだ。僕などは、自分が写っている写真は1枚でも見るのが嫌なのに、何百、何千枚も自分の写真を見るなどということは、考えるだけでも気が遠くなる。



 考えてみると、世のタレントさん、アーティストさん達は、こういう作業を常に行っているわけであり、それだけでも尊敬に値するが、それと同時に、僕はそういう人達とはやはり「異人種」なのだと思わざるを得ない。
 新井さんと話をした時に、「僕はあまり人前には出たくないんだよ」と言ったら、「脚本家さんとか演出家さんはみんなそう仰いますね」と彼女は言った。自分が人前に出られない代わりに、誰か他の人に出てもらうことで何かを表現するのが仕事だと考えている人はやはり存在するのだ。僕だけではないんだな、と少し安心した。人前に出ることが許される人種と、そうでない人種は確実に存在する。僕は完全に後者である。かつて僕も舞台に立ったり映像に出たりしたこともあったが、それは、自分が人様からどう見えているのかを正確に認識できていなかったからであった。だから僕は今後も、「裏方」に徹することになるだろう。それしか僕が表現活動に関わる道はない。
 それでも、整形でもしない限り、自分の容姿からはどうしても逃げられない。日常生活でも、できるだけ人前に出ないように出ないようにと心がけながら生きていくかないのだろうか。



 アップされてしまった問題の動画は、公演期間が過ぎればサイトからは削除され、見られる機会も減ると思うが、僕自身が世の中から「削除」されるのは、自分が死ぬ時である。それまでの(多分)長い時間、僕にとっては日々が拷問のようである。なので、できるだけそのへんは意識しないようにするしかない。
 それにもかかわらず、というか、それだからこそというべきか、自分の存在を少しでもアピールしておきたいという欲求は、こんな僕でも結構強い。自分が表に出られない代わりに、裏方に回ると僕は饒舌になる。僕の書く文章が往々にして長くなるのは、多分そのせいである。


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