思考過多の記録
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2009年04月19日(日) 重い心

 心が鉛のように重い。
 病気が再発しているように思われる。



 そもそも今僕は「段階的復帰」の最中である。毎週火曜日から金曜日まで、午後1時から3時の2時間出社している。
 しかし、これは「短時間勤務制度」ではないので、あくまでも休職中の僕が自宅療養をせずに、自主的に「慣らし勤務」をしているという扱いだ。
 だから、会社に行っても仕事はしない。
 好きな本を読んだり、mixiの日記を更新したりして過ごしている。
 昨年の11月20日から始まったが、最初は2時間といえども、今までは寝ていた時間帯に「通勤」しなければならないこともあって、かなり疲れた。
 しかし、今は、というか少し前までは、「通勤」も普通にできたし、会社にいる時間も苦痛ではなかった。周りの目も基本的には温かく、白井目で見られているという感覚もなかった。
 だから、それ程プレッシャーを感じることもなく過ごすことができた。



 しかし、ここにきて急激に疲れを感じるようになった。
 それは、主治医が立てた復帰プログラムのせいであるらしいことが、カウンセラーとの遣り取りの中で分かってきた。
 主治医は、「4日間を4週間、1日も休まず続けて出社できたら、次の段階(出社している時間を1時間延ばす)にきましょう」と言った。
 しかし、今に至るまでこれができていないのだ。
 3週間目までは毎日行けても、4週間目で1日休んでしまったりすることが何回かあり、その度に「リセット」されてしまうのだ。
 それが、精神的に行けないのではなく、例えば風邪による発熱の場合も、行けなかったことになってリセットされてしまう。
 まるで賽の河原の石積みのように、あと少しというところで崩され、また積み直し、また崩されて積み直すことの繰り返しのようだ。



 こうなると、だんだん意欲が萎えてくる。
 イライラが募り、ちょっとしたことでイライラしてしまう。
 また、一時期消えていた、僕の病気の元になった元上司に対する「憎しみ」も復活した。
 それと同時に、「1日も休めない」ということがプレッシャーとして、僕に重くのしかかってくるのだ。
 そうすると、今の僕にはそのプレッシャーに打ち勝つだけの精神力がない。
 すると、逆に会社に行けなくなってしまうのだ。
 行こうとすると、胸がむかむかしてきて、頭がズキズキ痛み出す。
 そして、脂汗が出てくるのだ。
 電車に乗ってもそれは変わらない。結果、途中駅から引き返すことになる。
 そしてとうとう、心の中でぷつりと糸が切れた。



 この状態は、2年前の春の日の朝、僕が会社に行けなくなったときと同じ感覚だ。
 何をやる気力も失せてしまうのである。
 昨日は、夜に映画を見に行こうと思ってチケットまで予約していたのだが、行かれなかった。
 今日も、外はとてもいい天気で、ドライブにでも行こうと思っていたのだが、それもできない。
 本当に、心が重くなってしまっている。
 そして、石のように固くなっているのだ。



 カウンセラーは、今の治療法が僕に合っていないのではないか、と言った。
 今の治療法は、医者が定めた基準に完全に縛られていて、患者である僕の意思の入る余地がない。
 それがプレッシャーの源でもある。
 このことは、今度の通院(明日だが)で主治医に話をしてみようと思う。
 もし埒が明かなければ、医者を変えることも考える。



 とにかく早期に会社に完全復帰して、ちゃんと収入を得なければならない。
 そうでないと、来年の秋の公演も財政的な裏付けがなくなる。
 その前に、その事業を推し進めるだけの元気が出てこない。



 とにかく、今日は心が重い。
 外の明るさとは対照的である。
 早く、僕の中にも光が差し込んでほしいものだ。


2009年04月07日(火) 「北」のミサイルより危険なもの

 週末は、北朝鮮の「飛翔体」をめぐって日本列島は、というか日本政府は大騒ぎだった。
 北朝鮮が発射予告をした初日は誤報を流し、日本どころか世界中をそのニュースが駆け巡った。
 防衛大臣は陳謝し、結果的に日本の危機管理の脆弱性を浮き彫りにした。
 しかし、実際に「飛翔体」が発射された2日目は、比較的落ち着いた対応で、実際に何事かが起きたわけでもなく、政府はまさにこの出来事を無事に「やり過ごす」ことができたのである。
 しかし、マスコミは大々的に報道し、あたかも日本に向って(狙って)ミサイルでも飛んでくるかのような印象を国民に与えた。
 そこに、PAC3のミサイル発射口が斜め上を向いてその「飛翔体」に狙いを定めている映像が何度も流された。



 この一連のことから何が読み取れるかと言えば、北朝鮮という「脅威」を利用して、自衛隊の存在意義、またMD(ミサイル防衛システム)の正当性、そして、「日本政府」と「自衛隊」いう国民を守ってくれる存在の有り難味、こいったものを国民に相当程度刷り込んだということである。
 その意味では、政府・自民党(なかんずく防衛族)にとっては成果の大きな「事件」だったというわけだ。
 冷静に考えれば、そもそも日本列島の上空を「飛翔体」が通過していくときの高度は、PAC3の射程には入らない。つまり、今回のような場合、日本の防衛システムでは「飛翔体」本体を破壊できないのである。
 また、政府が言うように万が一その「飛翔体」から何かが日本の領土や領海に落下した場合、PAC3はそれを破壊できないことはない。が、仮に破壊したとしても、逆にその落下物の破片が広範囲に落下し、かえって被害を拡大してしまう結果になることが指摘されている。
 それこそ万が一、それが放射能を帯びたものだった利したら、目も当てられない。



 確かに、今回の北朝鮮の人工衛星だかミサイルだかの打ち上げは、国連決議に違反する行為であり、国際社会に対する説明責任を北朝鮮は果たすべきである。
 がしかし、今回の発射をもってして「北朝鮮脅威論」を声高に喧伝するのは、どこか別のところに政治的意図があると考えた方がいい。
 北朝鮮の軍隊は、末端まで食糧が行渡らず、兵士は農民から食料を略奪しているという。また、燃料不足で戦車や戦闘機による訓練も満足に行えないような状態だそうだ。
 今回の「飛翔体」も、それが衛星であれミサイルであれ、結局は失敗したという見方が国際社会の大勢である。一段目のブースターに関しては技術力の向上が見られるというが、それが即大きな脅威に結び付くとは思えない。



 北朝鮮脅威論者は、あの国にはノドンという中距離弾道ミサイルがあり、これは日本列島全域が射程に入るということを強調する。PAC3の配備も、今回「誤報」を全国に速報したエムネットもそれに対処するためには必要不可欠だとする。
 しかし、政治的に考えれば、あの国が日本に実際にミサイルを撃ち込んでくることは考えにくい。
 いや、日本だけではなく、アメリカに対しても韓国に対しても、北朝鮮はミサイルを射ちはしない。
 ミサイルも核開発も、単なる「カード」である。もしくは、外貨獲得のための道具である。
 北朝鮮としては、こうしたカードを手にすることで、6カ国協議や、場合によってはアメリカとの2国間協議を有利に進めたいという意図しかない。所謂「瀬戸際」外交だ。
 それを考えると、今回の「飛翔体」発射で大騒ぎするのは、北朝鮮の思う壺だ。
 いや、北朝鮮だけではない。
 武器商人や、低支持率にあえぐ麻生内閣もほくそえんでいるだろう。
 ここで大騒ぎを演じて、北朝鮮という「敵」を誇大に見せることで、内政に対する不満を一時的にでも忘れさせることができる。
 内政に国民の不満が高まると、外に「敵」を設定して戦争を始め、国民の関心を外に逸らせるのは、為政者の昔からの常套手段である。



 今回は、先に書いたように初期の対応にかなり問題があった。まさに、「慌てふためいた」という感じであった。
 だからといって、もっと「有事」に備えた体制をしっかり整えよう、という話にいくのは、僕は本末転倒だと思う。
 軍事評論家の前田哲男氏は、新聞のインタビューで「ミサイルを発射させないようにするのが政治家の役目だ」という趣旨の発言をしているが、僕も同感だ。
 実は今回騒いだ政治家や防衛省、そして武器を製造している会社などは、北朝鮮が脅威としてあり続けてくれることを願っているのではないか。
 そう思わずにはいられないほど、日本の外交は存在感がない。
 いつもアメリカにくっついて同じことを言っているだけだ。
 「有事」を想定したシステムを整えたり、法制を整備したり、訓練をしたりする暇があったら、「有事」を起こさないようにするにはどうすればよいのか、真剣に考えて欲しい。
 それこそが、真に「国民の生命と財産を守る」ことに繋がる。



 北朝鮮の問題は、各国の思惑が複雑に絡んでいて、拉致被害者の家族がよく主張しているように、制裁を強化すれば解決するという単純なものではない。
 試されているのは、日本の外交力であって、ミサイルに対応する能力ではないのである。
 我々国民も、狡猾な政治家に騙されないようにしなければならない。
 金正日よりも、この国の与党政治家の方が、ある意味よっぱど危険な存在なのではないだろうか。


2009年04月03日(金) 真の「知識人」はどこに

 今僕は、大学時代に買った講談社学術文庫『マルクスその可能性の中心』(柄谷行人)を読んでいる。
 当時は、最初の方をチラッと見ただけで難しそうだと感じたので、いつか理解できるようになるときまでとっておこうと思っていたのである。
 しかし、僕はその後、柄谷氏の著作にはまり、『探究機戞愧亀罩供戞愼眄と遡行』『日本近代文学の起源』『批評とポストモダン』『世界共和国へ』等等、とにかく柄谷氏の名前がある本は、共著や編著、対談ものも含めて殆ど読んだ。
 一番最近(といってももうだいぶ経ったが)の『トランスクリティーク』はあまりに大著なので読んでいないが。
 柄谷氏の文章を読んでいると、難しいが、頭がクリアになってくる感覚がある。
 例えば、今読んでいる『マルクスその可能性の中心』で柄谷氏は、マルクスの思想は、マルクス主義者が語る「史的唯物論」などにあるのではなく、まさにマルクスの『資本論』等の著作のテキストの中に存在する、と言っている。
 さらに、それはマルクスの思想的成熟とか、時代背景とか、そういった文脈と無関係に、ただマルクスの他の著作や、他の人間の言説の「差異」の中にしかない、とも言っている。



 何を言っているのか分かりにくいと思う。
 早い話、「マルクスとはこういう考え方を持った人で、それはこの著作に書かれている」というとらえ方は誤りだ、と言っているのである。
 どうしてそうなのか、ではマルクスをどう読めばいいのか、それは今読んでいる最中ということもあって、ここでは説明できない。
 それに、柄谷氏の今の考えを敷衍すれば、柄谷氏の思想は、柄谷氏の著作のテキストの中からしか出てこないので、僕が語るべきではないだろう。
 ことほど左様に、柄谷氏は僕達が当たり前だと思っていた考え方をひっくり返し、物事の本質に迫る。
 こんな僕の頭脳レベルなので、どこまで理解できているかは不明だが、それでもどの著作でも僕は新しい発見をしたし、わくわくしながら読むことができた。
 例えば湾岸戦争のような大きな出来事が起きたとき、この人ならどう考えるのか、訊いてみたくも思った。
 今回の金融危機などは、柄谷氏も大きな関心を寄せ、マルクスが『資本論』で分析の対象にした「貨幣」のあり方にも関わってくるので、是非どこかに文章を書いて欲しいものである。



 考えてみると、こういう思想家や学者がめっきり少なくなった。
 浅田彰はだんまりを決め込んでしまったようだし、上野千鶴子は「ご隠居」してしまった。
 見田宗介もまともな社会学者でちゃんとした文章を書くが、ちょっと「昔の名前で出ています」とうい感じになってきた。
 吉本隆明は、最近何か出したようだが、何だかあの人の文章は大上段に構えすぎという感じがして、読む気になれない。
 宮台真治は一時期僕も読んだが、最近は何となくピントがずれてきた。
 今期待できるのは、柄谷氏が育てた(?)東浩紀くらいだろうか。あとは、大澤真幸も最近の世相に合った分析を加えていて、内容もそこそこ的を射ている。
 しかし、かつてのように、圧倒的な存在感と鋭い分析力で文壇や社会に影響力を与えるような学者は見当たらない。
 教育学者、文化人類学(民俗学)者となると、さらに状況は惨憺たるものだ。
 経済学などは、今主流の思想は、社会の「害悪」にすらなってしまっている。代表格は、竹中平蔵氏や勝間勝代氏である。
(ちなみに、『資本論』の副題は、「経済学批判」である。)
 今僕は社会科学系にしぼって書いているが、理科系も似たようなものだろう。
 確かに、最近物理学系の人がばたばたとノーベル賞を取ったが、何をやっているのか社会への発信力がない。
 例えば、亡き朝永振一郎氏や遠山啓氏は、文系である僕も知っていた。
 両氏とも、難しい理論を分かりやすく書く能力を持っており、僕も両氏の著作を読んだことがある。



 何故、文科系でも理科系でも「巨星」が登場しないのか。
 大学院の教育はどうなっているのだろう。
 知識人は、社会にとっては不可欠な存在である。
 我々庶民は大局を見る力が弱く、日々の暮らしに追われており、また目先の損得勘定やそのときの感情で動かされやすい。また、分からないものは面倒なものとしりぞけ、自分達にいいように物事を解釈する。
 また、定見を持たず、カリスマ的な人物の言動や、マスメディアの論調に流されやすい。
 そんなときに、社会の現状の正しい把握と深い洞察による分析を行い、ありうべき社会の方向性を示す、場合によっては世の中の風潮に警鐘を鳴らしたり、間違った政策にストップをかけたりするのが、知識人が担うべき役割である。
 そんな人材が、この国から消えていこうとしている。
 何しろ、桜井よし子が知識人のようにもてはやされているのだから、世も末という他ない。



 『マルクスその可能性の中心』は、標題の論文を含めて4つの論文が収録されている。
 あとがきと解説も含めて254ページの本だが、大変読みでがある。
 集中して、頭をフル回転させなければ読めない。 
 それは、僕の頭の中にある固定観念が打ち破られ、新たな思想が導入される過程がずっと続くからである。
 自分の中で消化するのにかなりの時間とエネルギーを要する。
 勿論、それでも完全に消化はしきっていないと思う。
 でも、是が非でも理解したいと思われる文章がそこにはある。
 本当に最近こうした文章を書ける人にお目にかからなくなった。
 『マルクスその可能性の中心』の初版は1978年、すなわち今から30年前だ。
 それでも、その中身は古びていない。
 マルクスの『資本論』が、本当は古びていないように。



 この激動の時代に、真の知識人の登場を願うのは僕だけではないだろう。
 マスメディア向けの「解説者」ではない、もっと大きな問題を長い時間をかけ、深く探究していく知識人の登場を。
 「大きな物語」の終わりが語られる現代、真の知識人の存在なくしては、我々「迷える子羊」は、集団で水の中へと雪崩を打って飛び込んでいくしかなくなってしまうのだ。


2009年04月01日(水) 衆愚政治の行き着く先〜千葉県知事選挙批判〜

 週末に行われた千葉県知事選挙は、「永遠の青春男」森田健作氏が当選した。
 民主党等が支援した堂本知事の後継候補を大差で破っての当選だった。
 千葉県民として、あんなとんでもない人間が知事に選ばれてしまったことは、怒りを禁じ得ない。また、恥ずかしくもある。



 僕は過日、森田氏の政見放送を見た。
 彼は気味の悪い猫なで声で、こんなことを言っていた。
「皆さん、千葉県の影が薄いと思いませんか?一緒に、日本一の千葉県を作ろうじゃありませんか」
 一体何の日本一か分からないが、とにかく内容のない政見放送にただただ呆れた。しかし、メディア各社はそれ以前から、森田氏の優勢を伝えていた。
 そして、あの結果である。
 僕は、千葉県民がこれ程愚かだったとは夢にも思っていなかった。
 勿論、小沢民主党代表の秘書が起訴されたことの影響も大きいだろう。
 しかし、翌日の新聞やテレビで、「何故森田氏に投票したのか」を問われた千葉県民達は、
「政見放送で一番見栄えがした」
「元気がよくて、何かやってくれそう」
「発信力がありそう」
などと答えていた。
 当選後、森田氏は
「これからは、国にもの申す千葉県にしていきたい」
とか訳の分かったような分からないようなことを言っていた。
 実際、今日麻生首相に会ったようだが、何かもの申した形跡はない。
 大体、千葉県が国に対してもの申すことなどあるだろうか。



 当選後の記者会見では、マニュフェストの具体的な数字や期日などには全く触れずじまいだった。
 いわく、羽田と成田をリニアモーターカーで結ぶ、いわく、中学生までの子育て支援、いわく、アクアラインの通行料金を値下げ…
 全て、財源の裏付けが必要だ。
 しかし、森田氏は、例えばリニア構想について「いつまでじゃなくて、やるんですよ」としか答えていない。
 僕の手元には千葉県選挙管理委員会が発行した選挙公報がある。
 森田氏を入れて5人の候補の選挙公約等やプロフィール等が書かれているが、森田氏を除く候補は、みな政策が細かく、数字を含めて具体的に書かれている。
 例えば、今回破れた吉田たいら候補は、「ちばニューディール政策」として10の重点政策を掲げた上で、「1期4年以内に必ず実現します。必要な県の新規財源は4年で約350億円」と書いている。また、その財源確保のための政策として、八ツ場ダム中止を含めた6つの政策を上げ、「4年で700億円以上の捻出を目指します」と書いている。
 この数字の妥当性は検証できないが、少なくともいつまでを目標に、何を基にしてやる計画なのかがざっくりとではあるが示されている。



 それに対して森田氏のスペースは、まず一番上に「政党より千葉県民第一」という、「無所属」を印象付ける文字がでかでかと書かれている。当選の翌日になって、森田氏が実は自民党の支部長の肩書きを持っていたことがすっぱ抜かれたが、そういうことはどうして早くみんなに知らせないのか。ある意味、森田氏は経歴を詐称していたことになる。
 それはさておき、政策が書かれるべきスペースには「輝け!千葉日本一。」とか、「千葉県民暮らし満足度日本一宣言」など、「日本一」がやたらに並ぶ。
 その「日本一」の中身だが、「安心・安全日本一」「子育てサポート日本一」等、抽象的な言葉ばかりが並び、具体的な政策やその裏付けとなる財源をどうするかに関しては、全く書かれていない。
 おかげで、森田氏のスペースは、他の候補に比べて余白が多く、スカスカに見える。
 そして、最後に殺し文句のように、次の言葉がかれていた。
「知事は全国から注目を集める千葉ブランドのセールスマン!」



 先に書いたような有権者の反応等を考えると、最後の一言、すなわち、知事に必要なのは何よりも「知名度」だと、千葉の有権者は判断したのだ。
 僕にいわせれば、それは本末転倒というか、全く的外れな考え方だ。
 県知事は、県民の生活を守るために、県民の目線で政策を策定し、議会に諮り、実行していかなければならない。
 県民の意見が分かれる事案や、県民に負担を強いる政策については、十分な説明を尽くし、場合によっては修正したり取りやめたりする。
 そういう地道な活動こそ、県知事の本来の仕事である。
 県の知名度を上げるためのセールスマンなどでは断じてない。
 この悪しき慣例の端緒となったのは、いうまでもなく、「そのまんま」東国原宮崎県知事であり、橋下「放言癖」大阪府知事である。
 彼等がメディアに露出し、地鶏の売込みをしたり、馬鹿の一つ覚えのように朝日新聞や国の官僚機構や身内の教育委員会まで批判したりすることで、宮崎や大阪が注目されている、と国民は錯覚する。
 そして、それこそが県知事の役割だと思ってしまうのである。
 これは、レーガンが大統領に選ばれたり、シュワルツネガーが知事に選ばれたり、小泉首相(当時)に民衆が熱狂するのと同じだ。
 「見栄え」さえよければ、中身は何でもいいと思っているのである。
 これぞまさに衆愚政治であり、民主主義の欠点である。
 分かりやすく言えば、少なくとも大阪、宮崎、千葉、そして石原慎太郎を選んでいる東京、ここの有権者の多くは、政治的には愚か者だということである。
 そして、今あげた都県は、愚か者の集まりだということを、各都県の知事達が皮肉にも「宣伝」しているわけだ。



 真面目にマニュフェストを比較し、自分達の税金を使ってどんな政策をやってくれるつもりなのか、それが選挙向けのリップサービスではなく本当に可能なのか。それをしっかりと見極め、本当に知事に相応しい人間、すなわち、知事としての仕事を真面目にきちんとこなしてくれる人間、特定の利益団体(例えば土建業界)の声だけ聞くのではなく、県民の声を遍く県政に反映してくれる誠実な人間を選ぶ、それが本来の知事選挙だ。
(勿論、これは全ての選挙にあてはまる。)
 それには、有権者もある程度賢くなければならないし、政治的な素養も必要だ。
 正しい選択、またはよりましな選択をすれば、それはきちんと結果となって県民に返ってくる。
 逆に、今回のように、「見栄え」「雰囲気」「知名度」で選んでしまうと、結局は県政が疎かになる。何しろ、候補者にきちんとした政策がないのだから。
 羽田と成田をリニアモーターカーで結ぶことが、どれだけの県民のためになるのだろう。
 そんなことより、待機児童を減らして欲しい、学童保育所を民間にするのをやめて欲しい、雇用を失ったときのセーフティネットをきちんと整備して欲しい、介護・看護の現場の惨状を何とかして欲しい、過疎地で医療が崩壊していくのを止めて欲しい等等、県民の生活に直結した課題は山積みだ。
 勿論、県の財政も厳しい。
 森田氏は、
「例えば他の知事さんに掛け合って、『東京は儲かってるんだから何とかしてよ』ということも私ならできる」
などと寝言を言っていたが、そんなことではないちゃんとした財政健全化の政策を出さなければならない。



 たとえ森田健作の顔が売れても、千葉が「日本一」になっても、先に書いたような課題は残る。
 その意味で、今回の千葉県知事選挙は、ただ森田健作という1人の男を政治の舞台にカムバックさせるだけの茶番劇だったと言っていい。
 そして、たとえカムバックしたとしても、森田氏は自分の顔を売り込むことだけはうまくやっても、千葉県政を運営していくことはできまい。
 何故なら、具体的な政策など何もないからだ。
 たとえ何の成果が上がらなくても、森田氏は痛くも痒くもないだろう。何しろ、県民に対して切ったのは「空手形」であり、県民の多くもそれを認めたのだから。
 もう一度いうが、森田健作が個人的に顔を売る場を得ることにみすみす手を貸してしまったのは、10万以上の愚かな千葉県民である。
 そして、そのしっぺ返しを必ず県民は受けることになる。
 勿論、僕のように森田氏に投票しなかった県民もだ。まったく迷惑な話である。



 何かのインタビューを受けた高齢の男性は、
「今までは民主党に投票してきたが、今回は人物本位で選んだ」
と答えていた。
 「人物本位」で選ぶと森田氏になるとは、その男性も、有権者としてはかなり人を見る目がない。そういう人間が10万人いたわけである。
 そして、この男性の発言からも、最初に書いたように、今回の知事選に例の「小沢問題」が影を落としていることは否定できない。
 前に書いたように、この問題は検察の政治への介入であり、その影響が千葉県知事の人選にまで及んでしまったことになる。
 この後にある様々な選挙にも、この問題は確実に波及していくだろう。
 検察は、このような事態に対してどう責任を取るつもりなのだろうか。
 まともな県政を運営できない人物が県知事になることの片棒を担いだ検察の責任は、限りなく重い。
「小沢辞めろ」の前に、検察庁長官の首を切るのが先である。



 衆愚政治が広がり、検察という国家権力が政治に介入してやりたい放題の今は、大袈裟ではなくまさに民主主義の危機である。
 もう一段進めば、次は「独裁者」の登場を国民が喝采を持って迎えるという世界になる。
 石原、橋下、東国原、そして森田の各知事の存在が、そういう時代の幕開けを告げているように思えてならない。


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