思考過多の記録
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2009年01月26日(月) ただ1人の道行き

見つけた、と思ったら、また他人のもの。
僕の片手は空いたまま
握り返す相手もいない



どうして1人
どこまで1人
どれほど1人



その問いの答えはない
その問いへの答えもない
僕の声は闇に吸い込まれていく 届ける相手もないままに
DNAの螺旋階段に刻まれた文字も 真実は隠されたまま



人は誰でも1人で生まれる
けれど道行きは2人 周りの景色も1人の時とは違う
そして、彼岸への旅立ちは1人 最愛の見送り人を岸に残して
けれど僕の道行きは1人 周りには人影さえもなく



花は一輪 咲くのは一輪ずつ
どんな大木も1本 1本で立つ



けれど花は群れて咲き 飛び交う蝶もつがいをなす
けれど大木は森をなし 命の営みはつがいがなす



人は誰でも1人で生まれる
けれど道行きは2人 周りの景色も1人の時とは違う
そして、彼岸への旅立ちは1人 最愛の見送り人を岸に残して
けれど僕の道行きは1人 周りには人影さえもなく




どうして1人
どこまで1人
どれほど1人



その問いの答えはない
その問いへの答えもない
僕の声は闇に吸い込まれていく 届ける相手もないままに
DNAの螺旋階段に刻まれた文字も 真実は隠されたまま


どうして君は誰かのもの
漸く見つけた花なのに 愛でることしか赦されず
摘み取る罪は赦されず
僕の道行き ただ1人



DNAの螺旋階段の果てる場所
そこは 墓掘りさえもいない
たった1人の 僕の墓場


2009年01月25日(日) アメリカンドリームに騙されるな!

 今週は、アメリカのオバマ新大統領の就任の話題で持ちきりだった。
 国民の期待も大きい。初のアフリカ系(黒人)大統領だということで、黒人達は感激もひとしおという感じである。
 僕もオバマ大統領には期待している。
 それは、「新自由主義」という資本主義の暴走をゆるした悪しき思想からアメリカを、そして世界を解き放ってくれると思うからだ。



 アメリカというと、「アメリカンドリーム」という言葉がすぐに浮かぶ。
 人種や国籍に関係なく、実力があれば富や高い地位や名誉を勝ち取ることが出来る。それがその言葉の意味するところだと考えられている。
 しかし、かの国の実態は全く違っているようだ。
 ことに、ブッシュ政権の8年間でのさばった所謂「ネオコン」と呼ばれる人達が推進した新自由主義的政策は、あの国を立ち直りがかなり難しくなるほど疲弊させてしまった。
 一部の人々の利益追求のために。



 このへんの実態をルポした『ルポ 貧困大国アメリカ』(堤未果 岩波新書)を読むと、今あの国が惨憺たる状況になっていることが分かる。北朝鮮を批判する資格は、少なくともブッシュ政権のアメリカにはないと思わせる。
 新自由主義のもと、「自己責任」のかけ声と共に、もともとヨーロッパ諸国と比べて十分とは言えなかったセーフティネットが完膚無きまでに破壊され、その上、「貧困ビジネス」という貧困層をターゲットにして金を搾り取ろうという仕組みが出来上がってしまった。
 今回の金融危機の引き金を引いた「サブプライムローン」もその貧困ビジネスの一つだ。



 前掲書に書かれていた例を一つ挙げよう。
 日本では国民皆保険が建前になっている。あの忌まわしい小泉改革のためにアメリカ並みに医療費抑制のかけ声の下、制度は変質しつつあるが、それでも殆どの人は公の保険に入っており、大抵の病気は保険でカバーされる。
 しかし、アメリカは違う。人々の命を守る医療の現場にも、「民営化」の波はやってきた。
 公的医療が膨らむと、それだけ企業の負担が増える。ときのアメリカ政府は国民の命や健康よりも、企業の利益を優先した。その結果、「自己責任」の大義名分の下、保険外診療を増やし、国民の自己負担を増やしていったのだ。
 当然、貧困層は医療費が払えないため、十分な医療は受けられない。
 著者によれば、アメリカの乳幼児死亡率は年間1000人に6.3人。これは先進国中最も高い割合だという(ちなみに、今産婦人科医の不足が深刻になっている日本は3.9人)。
 盲腸の手術を受けるために1日入院しただけで、何と日本円にして132万円かかるのである。
 民間の保険に入っている人も多いが、掛け金が高く、そのために十分な治療を受けられなかったり、妊婦が出産の当日に退院しなければならなかったりと、目を覆うばかりの有様である。
 そして、こうした高額の医療費を払えずに、破産に追い込まれる個人や家族は後を絶たない。
 また、病院が自由競争にさらされた結果、様々な矛盾が吹き出している。
 患者の治療より、効率的な経営を追求するように「市場経済」(具体的には保険会社)から強いられた病院は、患者の入院日数を減らしたり、薬を安い物に変えたり、やたらと検査を受けさせたりするようになったという。
 そして、無保険者が増加していく。



 この本に紹介されている全米医学生協会ジェイ・バット会長の言葉を孫引きしておこう。
「それ(市場原理;筆者注)がどういう結果をもたらすか、圧迫されている医師や看護師、そして中でも一番しわ寄せを受けている患者たちは皆知っています。自由を信奉するこの国では、一見、自由な医療システムが存在しているように見えるかも知れません。ですが実は政府の介入がないことによって医療費は増大し続け、不安定な医療供給が行われているのです。民主主義の国において、市場原理を絶対に入れては行けない場所、国が国民を守らなければならない場所は確かに存在するのです」
「民主主義であるはずの国で、持たぬ者が医者にかかれず、普通に働いている中流の国民が高すぎる医療保険料や治療費が払えずに破産し、善良な医師たちが競争に負けて次々に廃業する。そんな状態は何かが大きく間違っているのです」



 これは医療だけの問題ではない。「教育」、「いのち」、「暮らし」、果ては「戦争」に至るまで、本来国が担うべきあらゆる分野が「民営化」されたことにより、中流層は次々と貧困層に転落し、その人たちからさらに搾り取ることによって富裕層はいっそう豊かになっていく。
 先頃、アメリカのビックスリーや大手銀行のCEOたちが、一生かかっても使い切れないほどの報酬を得ていたことが問題になった。それは、貧しい人たちから搾取することよって得られた金だ。または、不安定で低賃金で労働者を働かせたことによって得た不当な利潤だ。
 あのイラク戦争やアフガン戦争を第一線で戦ったアメリカ兵は、不法移民として入国し、アメリカの国籍ほしさに軍隊に「リクルート」された者や、在学中に使用したクレジットカードの支払いに窮して、「代わりに支払う」という軍からの「悪魔のささやき」に騙されて入隊した貧困層の若者が大多数だったという。
 このあたりの具体的な事例や実態は、『ルポ 貧困大国アメリカ』に詳しく書かれているので、読んでみてほしい。



 「自由競争」といい、「実力主義」というとき、それは全ての人が同じスタートラインに立ち、同じ条件にアクセスできるという前提がある。
 しかし、実際にはそんなことはあり得ない。
「新自由主義」は、その矛盾点に敢えて目を瞑ったまま、人々を裸のまま荒海に投げ出した。
 そして、自力で泳ぎ切れと言い放った。
 そう言った人たちは、裸の人たちによって作られた豪華客船に乗っている。
 これが、今までのアメリカの姿だ。
 その豪華客船に乗り込むことを、「アメリカンドリーム」と言ってきたのだ。
 こんな国のどこに「正義」や「大儀」があるだろうか。
 オバマ大統領は就任演説の中で、一人一人が建国の精神に立ち戻って、国を蘇らせるべく努力しようと呼びかけていたが、もし本当にそうしたいのなら、前政権の置き土産である「新自由主義」からの脱却を宣言し、そのための施策を打っていかなければならないだろう。
 そうでなければ、アメリカの再生などあり得ない。
 いや、むしろアメリカはまさに「変革」(チェンジ)されなければならないのだ。これ以上、自国の国民を不幸にしないために。



 翻って、アメリカの政策を後追いするようにグローバリズムという名の「新自由主義」的政策を実行してきた僕達の国も、ここで立ち止まって今のアメリカの姿をよく認識する必要がある。
 あれが、今の(つまり、小泉政権以降の)政策を続けていったときの、我々の未来の姿なのだ。
 本当にそれでいいのだろうか。
 今まさに、「ワーキングプア」や「派遣切り」「医療の崩壊」「年金不安」「教育の自由化」等となって現れてきている問題は、いかに我々の国が傷んできているか、そしてそれはこれまでの「アメリカ化」路線の矛盾が一挙に吹き出した姿だと言うことを、如実に物語っている。



 「アメリカンドリーム」などどこにもない。
 後にも先にも、あの国が「楽園」であったことなどない。
 彼等は自分達の国民を幸福にできなかったばかりか、世界中に争いの種をまき、屍を残した。
 そのことをよく肝に銘じるべきである。
 そして、そのアメリカに留学して洗脳され、アメリカ流の「民営化」「市場経済至上主義」「競争原理」を取り入れ、日本の社会を破壊してきた、竹中平蔵慶応大学教授、その口車に乗った小泉純一郎元首相をはじめ、当時の政策立案者・実行者の罪を、我々は糾弾するべきであると僕は考える。


2009年01月18日(日) 遠ざかる青春時代〜年の初めに〜

 今年に入って初めての文章である。
 もう半月以上が過ぎたが、ここまで忙しかったような気もするし、たいしたことはしていなかったような気もする。

 高校時代、誕生日が同じということで意気投合し、「友達以上恋人未満」の関係を続けていた女性から、今年も年賀状は届かなかった。
 それまでは、結婚後も毎年のように年賀状だけはくれていて、子供の成長の様子などを知らせてくれていた。
 それが、ある年になって、印刷された文章以外の手書き文字が姿を消した。
 そして、一昨年、ついに年賀状そのものが届かなくなった。



 ユーミンの歌ではないけれど、彼女は僕の青春そのものだった。
 彼女に恋したことはないけれど、彼女は僕の片思いをいつも応援してくれていた。
 そして、高校卒業後も2人で、時には直接会って、時には電話で(当時は携帯はなかった)よく語り合ったものだ。
 誕生日にはお互いの両親を交えて会食をしたり、彼女が親戚が集まる正月の僕の父親の実家に来たこともあった。
 そして、高校時代には、「もし30歳までにお互い相手が見つからなかったら、結婚しよう。」と幼い約束までしていたのだ。
 彼女はその約束を違えなかった。
 彼女が結婚したのは、29の夏だった。



 こうして便りも途絶えてみると、本当に青春時代は遠くなったな、と思わざるを得ない。
 そして、二度と返っては来ない、ということも。
 あの頃の自分に戻れたら、と人はよく願い、そんな物語がいくつも作られたりするが、それは、そのことが絶対に不可能だということの裏返しである。



 何故突然年賀状が来なくなったのか、真相は分からない。
 しかし、彼女の中で青春時代は遠のき、「今日の生活」が前景に出てきたということなのかも知れない、という推測は成り立つ。
 子育てに、ピアノ教室の先生に、主婦にと活躍する彼女にとって、もう青春時代を振り返る余裕と必要性は、正月にもないのかも知れない。
 寂しい限りではあるが、これが現実というものだろう。
 また、だからこそ、時を越えて便りをくれる友は、生涯の友になる可能性が高い。



 彼女と僕が過ごした青春の重みが、家庭を持つ彼女と、一匹狼の僕との間で違ってきてしまうのはやむを得ない。
 けれど、やはりやりきれなさは残る。
 あらゆる意味で、青春とは残酷なものである。


hajime |MAILHomePage

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