思考過多の記録
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2008年10月08日(水) 自民党三題馬鹿話 その3

 麻生内閣発足からわずか五日で、中山成彬元国土交通大臣が辞任し、その後政界から「いったん」身を引くと表明したことは記憶に新しい。
 この人物は以前、文部科学大臣時代にも失言問題を起こしており、そのことを知った上で任命した麻生首相の責任は大きいと言わざるを得ない。
 とはいえ、このときの麻生首相のインタビューでは、口では「申し訳ない」と陳謝したが、その言い方は『まあ、しょうがないから謝ってやるか』という感じの、全く誠意の感じられないものだった。



 中山氏の発言は、それはもう聞いていられないくらいの酷いものだった。
 おさらいすると、成田空港の開港や整備の問題について、
「ごね得というか、戦後教育が悪かった。」
 観光政策について訊かれて、
「日本人は、非常に打ち向きな単一民族。」
 そしてさらに、
「日教組の子供は成績が悪くても先生になる。だから大分県の子供の学力は低い。」
 いずれも、事実認識が全く間違っている、中山氏の思い込みから出た妄言だった。
 彼の頭の中では、日本は単一民族であるが故に優れている。しかし、日教組という組織によって牛耳られた学校や、戦後GHQによって押しつけられた憲法や教育基本法に則って行われてきた戦後教育が、日本人を悪くしてしまった。こういう一連のストーリーがあり、それに基づいた発言だったのである。
 すぐに慌てて撤回したが、大臣という立場での発言の重みを全く理解していないとしか言いようがない。
 中山氏は「言葉狩りに遭わないように、十分気をつけないと行けない。」とも発言しているが、これは「言葉狩り」といった次元の問題ではない。
 しかも、日教組批判の部分については撤回しなかったのである。



 僕が最も許せないと思ったのは、これらの発言の後、さらに飛び出した一連の日教組批判の談話である。
 長くなるが、9月28日の朝日新聞に掲載されたものを引用する。

「日本では様々な犯罪が起こっている。儲けるためなら嘘を言ってもいい、子殺しとか親殺しとか、これが日本だろうか。かつての日本人はどこに行ってしまったのか。
 これは教育に問題があった。特に日教組。全員ではないが、過激な一部が考えられないような行動をとっている。国旗・国家を教えない。何より問題なのは、道徳教育に反対していることだ。(中略)私はこれから日教組を解体する。小泉さん流に言えば「日教組をぶっ壊せ」。この運動の先頭に立つ。
 (中略)日本の教育の癌が日教組。日教組をぶっ壊すために私は火の玉になる。
 (日教組の強いところは学力が低いとの発言は)撤回してない。調べてもらえば分かる。調べてもらいたい。日教組には先鋭で過激な人達がいる。この人達が日本の教育をぶっ壊している。」

 これらの発言は、組織としての日教組と、日教組に所属する全ての教師達を冒涜したものだ。まるで日教組に所属する先生方のせいで、「儲けるためなら嘘を言ってもいい、子殺しとか親殺し」が起きる社会になってしまったかのような言い方だが、勿論そんなことはない。
 しかも、「日本の教育の癌」だなどといわれたら、日々よりよい教育を目指して、多くの問題を抱えている教育現場で子供達と全力で向き合っている先生方を大いに傷付けることになる。そんなことにも気付かない人間に、道徳教育を語る資格はない。



 日教組の先生方は、日々の雑務に追われながらも、授業を工夫し、子供達をよりよく育てようとしている。1年に1回「教育研究集会」を開いて、全国から集まった先生方が、教育の現状を報告し合ったり、問題の解決策を話し合ったりしている。
 ただでさえ忙しいのに、日教組の先生方は組合に関わる仕事もこなさなければならないのだ。それもこれも、日本の教育を改善していこうという使命感に駆られてのことである。
 中山氏の言う「過激な人達」とは具体的には誰を指すのか。「国旗・国家を教えない」「道徳教育に反対」ということが仮に行われているとして、そのことと前段の「日本では様々な犯罪が起こっている。儲けるためなら嘘を言ってもいい、子殺しとか親殺しとか、これが日本だろうか。」という部分とはどう繋がるのか。是非答えてもらいたいものである。
 奮闘している先生方にレッテルを貼り、「癌」などと非難することが、本当に日本の教育のためになると思っているのだろうか。
 因みに、全国一斉学力テストの結果であるが、最も平均点が高いのは秋田県だそうである。この秋田県では、日教組の組織率は5割を超えているそうだ。
 このこと一つとっても、中山氏の発言が全くの嘘であることが分かるだろう。



 このような発言を確信犯的に繰り返す人間に、大臣として、いや、政治家としての資質はない。その意味で、彼の引退表明は当然である。
 ただし、「いったん身を引く」と言っているが、「いったん」ではなく、「一生」身を引いてほしい。
 ほとぼりが冷めたらまた立候補するつもりだろうが、このような人間が国会議員でいることは、中山氏が愛してやまない日本にとってもよくないと僕は考える。
 とにかく、中山氏は今からでも発言を撤回し、日教組に謝罪するべきである。
 それができないのなら、もはや彼に教育を云々する資格はない。



 この種の失言をする議員が、自民党には結構多い。
 福田内閣の末期に農水大臣だった太田氏の「消費者がやかましい」「県行為影響はないので、あまりじたばたしていない」といった消費者無視・蔑視の発言もそうだった。
 こうしたことは、最近急に「生活者優先」「国民の目線で」を打ち出している自民党だが、それが本質を覆い隠すための美辞麗句に過ぎないことの証左であると言える。 
 自民党とは、概ね国民を「見下ろす」政党なのである。
 我々有権者は、こうしたことを見抜き、ゆめゆめ「選挙の顔」などに騙されないようにしなければならない。
 さもないと、手痛いしっぺ返しを受けることになるだろう。


2008年10月06日(月) 耐えられない「軽さ」

 電車の中で、僕の向かい側に三人組の男子大学生が乗っていた。
 一人は漫画を読み、一人はゲームに興じ、もう一人はそのゲームをのぞき込んでいた。
「随分(数値が)上がったね。」
とそののぞき込んでいた学生が言った。
 すると、ゲームをしていた学生は言った。
「ああ、だいぶ慣れたからね。もう13人殺した。」



 ゲームの話であるが、その学生の「殺した」という言葉の軽さに、今更ながら驚いてしまった。
 相手の大学生が、
「倒したって言えよ。電車の中で急に『13人殺した』はまずいだろう。」
と窘めたが、その学生は平然と、
「いや、殺したんだよ。実際、ぐさって刺したんだから。」
と言った。あまりに抑揚のない言い方だった。
 ゲームの話とはいえ、随分物騒である。が、大方の対戦型ゲームはこんなものなのだろう。しかも、主人公(ゲーマー)が敵を「殺す」度に主人公の経験値が上がっていく仕組みになっているのだ。要は、たくさん殺した者勝ち、ということである。
 これはもはや、バーチャルな卓上の戦争である。
 その中で「殺す」ことは、こんなにも軽くなっているのだ。と、今更指摘することもないだろうが、目の前で言われてしまうと、やはり違和感を感じざるを得ない。



 そこで思い出されるのが、あの例の秋葉原の事件だ。
 彼の「殺す」は、おそらく今目の前でゲームをしている男子大学生と同じくらい軽いものだったのだろう。「祭り」という特別なことを装いながらも、刺すという行為自体は、たぶんある種の軽さを伴っていたに違いない。
 でなければ、あれだけのことはできないだろう。



 「殺す」ことの軽さは、命の軽さと言うよりも、その現実感のなさである。
 ゲームの画面で人を刺すのも、秋葉原の路上で人を刺すのも、同じ軽さ、同じ次元のこととして捉えられてしまっている。
 そういう感性が、ある年代より下の人間には、ゲーム等を通して間違いなく刷り込まれているのだ。
 僕達はこれから、そういう人間が大多数を占めるような社会を生きていかなければならないのだ。



 彼等はきっと、自分が誰かに刺されて初めて、命の重さを知ることになるに違いない。


2008年10月03日(金) 自民党三題馬鹿話 その2

 小泉純一郎元首相が引退を表明した。全く無責任なやつである。
 理由は、「総理大臣の時に一生懸命やったので、もうこれ以上はできない。」というもの。そのくせ、「政治活動は続ける。」というのだから、何が何だか訳が分からない。



 今更いうまでもないことだが、「自民党をぶっ壊す!」と叫んでいた小泉氏による所謂小泉構造改革によって、自民党どころか日本の国そのものがぶっ壊れてしまったことは記憶に新しい。というか、その後遺症は今でも続いている。
 そのことに対して、国会議員の職を辞するに当たり、何か総括をすることが求められるのは当然のことだ。
 改革には必ず功罪があるが、小泉改革の場合は「罪」の部分がかなり大きいことは最近になって漸く指摘され始めたところだ。
 ワーキングプア、社会保障制度の劣化、医療制度の崩壊、企業のモラルハザード等々、全て小泉改革の「副作用」とでもいえるものだ。そして、その影響を最も受けるのは、お年寄り等社会的弱者であることは、論を待たない。



 こうしたことに対して、一体どう考えるのか。
 道義的な責任をどうとるつもりなのか。
 小泉氏は一切語らなかった。
 殆ど「やり逃げ」の状態である。彼の頭には、今でも「郵政民営化」しかないのではないか。その郵政民営化でさえ、徐々に制度的欠陥が明らかになりつつある。
 折しも麻生政権は、「小泉路線」からの明確な修正を打ち出している。
 その内容はともかく、「このままではまずい」という空気が、当の自民党内からも出てきているのだ。
 しかし、よく考えてもらいたい。あの頃、面従腹背の輩も含めて、小泉構造改革に基づく政策を着々と実行していたのは、他でもない自民党(と公明党)議員達なのであった。そのことをまるでなかったかのようにして、手のひらを返すように「財政出動」の大合唱とは片腹痛い。
 国会議員は、小泉氏も同様だが、健忘症であることを求められる職業のようだ。



 改革改革と叫んでいた小泉氏だが、最後に旧来の政治家の顔を見せた。
 自分の次男を後継に指名したのである。
 国会議員の世襲については批判も多い。にもかかわらず、厚顔無恥にも小泉氏はその世襲を行おうとしている。そういえば、小泉氏の父親もまた政治家だった。まるで北朝鮮の「王朝」ようである。
 先に書いた「罪」、僕にいわせれば万死に値する「大罪」を犯しながら、まだ「政治」にしがみつき、あまつさえ自分の息子にその地位を継がせようとするなど、盗人猛々しいとはこのことだ。
 「鈍感力」もここに極まれり、というところだろうか。
 このような悪質な政治家に熱狂的な声援を送り、高い支持率で支えた国民こそいい面の皮である。
 これで小泉の息子が当選したら、その選挙区の有権者の見識が問われることになろう。



 いずれにせよ、この国を引っかき回すだけ引っかき回し、その結果責任もとらずにさっさといなくなった小泉純一郎は、悪名高き政治家として、そしてそれを熱狂的に支持した国民は衆愚政治の手本として、後世に名を残すに違いない。
 繰り返すが、彼の行った「改革」の傷跡はあまりにも大きく、その修復には長い年月と多くの弱者の犠牲を伴うだろう。


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