思考過多の記録
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2008年04月23日(水) スポーツは政治の申し子

 北京オリンピックの聖火リレーが、世界に混乱を巻き起こしながら続いている。例のチベットで起きた暴動に絡んで、チベットの人権回復を求める人達による抗議行動や妨害と、それを阻止しようとする中国人達とのぶつかり合いがあるためだ。
 中国指導部は、勿論国家的な面子があるため、こうした妨害行動を強く非難している。また、抗議行動や妨害行動に眉をひそめる人達は、「オリンピックはスポーツの祭典であり、政治とは無関係」という考えを抱いて、聖火リレーが平穏のうちに成功して欲しいと思っているようで、テレビのインタビューなどでもよくそういう発言をしている。



 僕は、「オリンピックと政治は無関係」という考え方に与しない。確かにオリンピックはスポーツの祭典であるが、あれほど政治に塗れたものもないと思う。
 これまでのオリンピックの歴史を振り返ってみても、ナチス支配下にあった時代のベルリンオリンピックを引き合いに出すまでもなく、オリンピックは常に政治的に利用されてきたと言ってもいい。これは、オリンピックが「純粋な」スポーツ競技会ではなく、事実上国家対国家の面子のぶつかり合いの場になっていることによる(テレビは常に「日本の獲得したメダルは…」という伝え方をする)。そしてそのことが、それぞれの国民の「健全な」ナショナリズムを喚起することにつながる。
 このことひとつとっても、オリンピックは「政治の祭典」というべきものである。



 今回の聖火リレーを見ていて、「あそこまでしなければならないのなら、やる意味はない」と思っている人は少なくないと思う。もはや聖火は、オリンピックのためではなく、中国という一国家の面子のためだけにリレーされているのが実態だ。
 厳重に警備され、市民からも遠ざけられ、抗議行動に迎えられながらリレーされなければならない聖火で、どこが「平和の祭典」なのだろうか。
 この聖火リレーは、オリンピックというものの本質を、はしなくも露呈させていると思う。「スポーツと政治は無関係」ではあり得ないのだ。特に、このような国際的なイベントの場合、スポーツと政治は切っても切れない関係なのである。そうでなければ、ああまでして聖火を守らなければならない理由はない。



 スポーツは、そしてオリンピックは無垢なる存在ではない。それは政治の申し子である。そのことを宣伝しながら、聖火リレーは今日も世界の何処かで行われているのである。


hajime |MAILHomePage

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