思考過多の記録
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2005年12月25日(日) ネオンとイルミネーション〜聖なる夜に〜

 クリスマス・イブの夜、僕達は表参道の町を歩いた。
 青山通りを外苑方向に歩き、細い道を入ったところに、少しお洒落な店がある。地下の客席では、テーブルにキャンドルが灯され、揺らめく光で仄かに照らされた空間は、恋人達で満たされていた。
 店のイルミネーションは美しく、ここに雪でも舞っていたら、まさに絵に描いたようなロマンティックな世界だろうと思われた。洗練されたファッションで歩く人達は、誰もがロマンスを語り合っているようだった。



 それから約20分後、僕達は新宿歌舞伎町の雑踏にいた。
 地下街から外に出ると、僕を迎えたのは、町の雑踏と立ち並ぶ飲み屋と風俗店のネオンだった。
 道行く人達は、「聖夜」などどこ吹く風と、いつも通り「どんちゃんさわぎ」と「性夜」の空気をまき散らして歩いていた。その猥雑な雰囲気とエネルギーに満ちた空間を歩くカップル達は、間違いなく股間を滾らせている。剥き出しの欲望を隠そうともしないその町で、人は精神的にも物理的にも裸になっているようだった。



 方や「イルミネーション」が似合う町、方や「ネオン」が似合う町。
 電車でわずか3駅の場所に、こんなに違う町が、同じ世空の下に存在している。
「どっちも、現実離れしている」
と、僕の連れが言った。
 そう、どちらも町も「非日常」の世界だった。
 着飾ったお洒落な町には、香水とアロマの香りが漂い、猥雑な町には浮浪者のすれたような臭いと酒と煙草、そして人間の体液の臭いが入り交じる。それらは、日常生活では覆い隠され、人々はみて見ぬふり、気にとめないふりをしているものだ。
 夜、暗闇が日常の光景を包む頃、「非日常」の光景が人工の明かりの中に浮かび上がってくる。



 クリスマス・イブの夜、それらはいつもの夜以上に、ことさら強く立ち現れてきたようだ。そう、「聖夜」は子供にとってだけではなく、全ての人々にとって特別な夜である。
 そんな夜には、「非日常」がいつもより強く、そして魅惑的に僕達の前に現れるのである。



 そんなイブの夜、僕達は新宿の猥雑なネオンの空間を歩き、その奥の闇へと吸い込まれていく。
 連れは言った。
「こっちの方が安心する。」


2005年12月22日(木) 妖怪がこの国を徘徊している その1

 この1ヶ月間、カラスの鳴かない日はあっても「姉歯」という名前がニュースで聞かない日はなかった。それほど、マンション・ホテルの耐震強度偽造問題は人々の耳目を集めた。
 おそらく、ここ1,2週間の中で各局が放映すると思われる「今年の重大ニュース」の中で、「日常生活の中の安全性が大きく脅かされた1年でした」などというリードとともに、尼崎の列車脱線事故と一括りにされて扱われるのだろう。
 マンションやビジネスホテルといった、普通の人が日常的に生活・利用する場所の耐震強度が偽造されていたというのは、かなりの大問題である。実際に間引かれていたのは鉄筋やコンクリートだが、それはまさに我々の社会を支えていたものの間引きであり、日常生活そのものの「強度」が偽造されていたということであり、それを誰も見抜けなかった、いや、正確に言えば、見抜く気がなかったということだ。



 この間、メディアの報道や国会での参考人質疑、証人喚問等を通じて、様々なことが明らかになりつつある。当初から、これは姉歯氏という特異なキャラクターの人間による特異な事件だとは、僕は思ってはいなかった。確かに、ヒューザーの小嶋社長や総研の内河所長など、ひと癖もふた癖もありそうな人物たちが登場している。しかし、彼等は生まれるべくして生まれた存在ではなかっただろうか。
 僕はこの事件には二つの社会的な背景があると考えている。一つは、「コスト優先」の経済政策という構造的背景、もう一つは倫理観の喪失という精神的(社会心理学的といった方がいいのかもしれない)背景である。



 一つめに関していえば、この件の「黒幕」といわれる総研が「コスト」重視の建築計画を立てるように施工主や設計士に迫り、ヒューザーなどの販売会社が「低価格」を売りに業績を伸ばした背景には、言うまでもなく竹中平蔵を立役者とする小泉政権の経済政策があった。あのバブル崩壊直後に、政府が大手ゼネコンのみを救済したという事実が、木村建設のような中堅どころの建設業者のトラウマになっていたことは想像に難くない。しかしそれ以上に、コスト・効率優先の経済活動を推奨し、経済政策や銀行の融資などを通じて競争を煽り、それを徹底させてきたのは、他でもない「国」、正確に言えば小泉政権である。
 内河所長以下総研スタッフの頭の中で、鉄筋を減らすこと=建設コストを下げること=利益を上げることが至上命題になっていたのも、小嶋社長以下ヒューザーの社員達が「低価格・高収益」のマンションを求めて突っ走ったもの、木村建設の篠塚元東京支店長が姉歯氏に執拗に鉄筋の量を減らすように設計変更を迫ったもの、結局は建築コストを下げ、建築期間を短くすることで納期を早め、それによって収益を上げることこそが、経済的に「善」であるという思想があったからに他ならない。そして、それは何も建築業界だけに求められていたことではなかったのである。姉歯氏は、自分の生活のために、ただそれに従っただけだった。



 住宅の建築確認というどう考えても「公」の仕事を、民間に任せてしまったもの、同じ文脈の中である。小泉首相の‘口癖’は、「民間で出来ることは民間で」であるが、この論法で、本来あまり民間にやらせるには相応しくない仕事まで民間に開放してしまった。
 お役所は「無責任」「事なかれ主義」という欠点があるが、民間は「利益追求最優先」という特徴がある。これが「検査」という仕事とマッチングするかどうかは、よく考えれば分かる筈だ。利益を出そうと思えば、短時間に多くの検査をした方がいいに決まっている。また、早くOKを出さなければいけないという販売会社からの圧力もあるだろう。その条件の中で、とても「正しい」検査が出来るとは思えない。



 総体として、このシステムでは全てが「効率・経済性=コスト最優先」で動いている。最も優先されるべき住む人の「安全性」は、殆ど顧みられていないといっていい。総研の内河所長やヒューザーの小嶋社長の発言を聞いていれば、それがはっきりと分かるだろう。彼等は徹頭徹尾、地震に耐えうる鉄筋の量はどのくらいかということより、よりコストが安くなる鉄筋の量を気にかけていたのである。
 しかし、それも無理からぬことである。いや、むしろ今の社会状況の中では、彼等の振る舞いはまことに理に適ったものだったのではないか。たとえ彼等の振る舞いが、暮れも押し詰まって世の中が浮かれ、喧噪に満ちているこの時期に、生活も将来も破壊されて安眠を奪われたたくさんの人達を生み出す結果になっていても、だ。



 「コスト重視」という妖怪が日本中を徘徊している。それを生み出したのは「グローバルスタンダード」という名の資本主義の鬼っ子である。そして、それをこの国で育てたのは小泉政権であり、彼等を支持した国民である。
 そしてその妖怪が、国民生活の「安全性」という鉄筋を食い荒らした。因果は巡る、というやつだろうか。
 姉歯達の責任はとことん追及されなければならない。検察は事件の図式を描くだろう。しかし、ことはそれで終わりではないのだ。
 耐震強度の問題に限らず、やがて我々は、この国の鉄筋が至るところで間引かれ、嘘で固めた構造計算書がでっち上げられていることを知るだろう。姉歯的なるものは、この国に充ち満ちている。何故ならば、この国は、妖怪に魂を売ってしまったのだから。



 このことは、二つめの問題である「倫理観の喪失」にも深く関わっているのであるが、それはまた別の話。


2005年12月10日(土) ライブがはねて

 myriaというインディーズのバンドが参加するライブイベントに行ってきた。そのバンドの出番の終了後、ボーカル・作詞担当でリーダーのヒマリさんと、バンドのギター2人、そしてmyriaのライブの記録やボーカルの人のプロモーション映像を撮り続けているという男性、そしてmyriaのファンで今回のライブのためにはるばる名古屋からやってきたという男性の6人で、ライブハウス近くのファミレスに行った。
 目的は、ちょっとした打ち合わせ。
 カメラマンの男性は、今日のライブの記録映像をパソコンで見せ、またプロモーション用と思われるヒマリさんの写真を何枚も見せてくれた。
 僕は彼女や他のメンバーと、彼女の歌や詞について語った。



 僕はmyriaを、以前お世話になったユニットの主宰およびそのサイトで知り、ライブをこの秋に初めて見に行ったのだが、それと前後してネット上でヒマリさんとは言葉を交わすようになっていた。
 また、myriaファンの男性は、myriaや僕がよく覗く劇団のサイトのBBSで書き込みをしていて、よくそのお名前を目にしていた。
 それがこんな形で同じテーブルを囲み、話をしている。何だかとても不思議な気持ちになる。
 そして、僕達を結びつけたのは、myriaの音楽なのだ。



 今日のライブは、年末の忙しい時期であること、時間帯が中途半端であったことなどの条件があってか、正直言って寂しい感じの入りだった。
 でも、披露された新曲は、どれも僕の心をうった。
 そして、わざわざ時間を割いて、たった30分くらいのために時間とお金をかけて駆けつけるファンや、被写体としてずっと追い続けるカメラマンがいる。また、今日この場にはいなかったが、ヒマリさんの詞の世界に魅せられて、ファーストアルバムのCDの帯にコメントを寄せた人もいる。
 myriaの楽曲には、それだけの力があるということだ。



 メジャー系のバンドやアーティスト達は、その作品で何千人、何万人の単位で人々の心を動かし、ときにはその人生さえ左右する。それはものすごいパワーである。「売れる」「売れない」という言葉で語られることの中身は、勿論経済的なこともあるが、どれだけ多くの人達に受け入れられるか、もっと言えば、どれだけ多くの人達をどんな形であっても「動かす」ことができるか、といいうことである。
 それだけの力が、その作品にあるのかということだ。
 そして、そういう作品を作れる者だけが、真の意味での「アーティスト」であると言えるのだろう。



 今日、初めてもらったヒマリさんの名刺には、肩書きにバンドの名前と共に「Artist」と書かれていた。
 甘い歌声ととぼけた喋りに隠された、彼女のある種の「決意」が伝わってくるように、僕には思えた。
 そして僕も、いつか多くの人達を突き動かせるような作品を生み出したい。東京の片隅で、密かにそう誓った夜だった。


※myria☆☆公式サイト http://www.myria-net.com


2005年12月09日(金) 「偶然」と「運命」

 昨日の夜のことだ。混雑した電車に僕は乗っていた。一番前の車両の一番前のドアにへばりつくように立っていた。それはいつものことだった。
 乗換駅で僕は電車から降りた。すると、同じく車両から押し出されたように、僕のすぐ隣に一人の女性が降りてきた。勿論、その後ろからもたくさんの人が降りてくる。
 ふと手元を見ると、何ということだろうか。僕の通勤用の鞄のふたを閉めているジッパーの留め金に、その女性のニットの手提げ袋がからまっていたのだ。つまり、その女性は後ろの人に押されて降りたというよりも、僕が降りたので降りざるを得なかったのである。



 何かの弾みで、ただ一点で絡まってしまったニットは、なかなか外れてはくれなかった。ラッシュの人混みの中、僕とその女性は奮闘した。
 見も知らない男が、比較的早い時間にしては既に酔ったような口調で、僕達のすぐ側でこう言った。
「これは、運命の赤い糸ですね。」
随分長い時間のように思えたが、おそらく絡まったときと同じく何かの弾みで、僕と彼女の鞄は離れた。同時に、発車のベルは鳴り終わり、電車のドアは閉まった。
 僕達は、そこで初めてお互いの顔を見合い、会釈を交わした。眼鏡をかけた小柄な女性だった。彼女はそのままその場に立っていた。彼女にとって、そこはただの途中駅に過ぎなかったのだった。悪いことをした、と僕は思った。しかし、何のフォローも出来ないまま、僕はその場を後にした。



 こんな場面は、B級のテレビドラマにしかないかと思っていた。
 これがきっかけで恋が芽生え、そこからドラマが展開するという、大昔からあったパターンである。「電車男」も基本的にはそれだ。最近よく見ている寅さんだったら、これをきっかけに相手が「マドンナ」になるのかも知れない。そういうとき、その出会いは「運命」だと思われる。
 しかし、僕と彼女の場合、それは単なる「偶然」に過ぎない。「運命」と「偶然」の違いをずっと考えていたことがあった。そして、結局「運命」とは、単なる「思い込み」に過ぎないのではないかという結論に達した。つまりは、「解釈」の問題である。僕とその女性がその日、同じ電車の同じ場所に乗ったこと、そして彼女がニットの手提げを持っていたこと、そして僕のすぐ隣に乗車したこと、それらは全て「偶然」の産物である。そこに何らかの「必然性」を読み取りたいという意思だけが、それを「運命」に変えるのだ。そこに神様の出番はない。
 事実、僕はそうやっていくつもの「運命」を感じ、いくつもの「赤い糸」を見た。しかし、「糸」と見えたものは、実は「意図」だったのである。
 そして、僕は誰とも結び付かなかった。



 今日、僕と同じ課の若手の女性が入籍した。
 エレガントで可愛らしく、密かに憧れを抱いた男は多かったに違いない。困った副産物として、彼女は社内でセクハラにあったことすらある。
 そんな彼女だが、少しも浮かれることなく、「結婚するなんて思わなかった」といいながら、極めて平常心のまま、出会って数ヶ月で入籍に至った。彼女はそんな言葉は使っていないのだが、もしかすると彼女のケースは「運命」に近いのかも知れない。
 いや、そうではなく、単に「偶然」をきっかけに事態が流れるように動いていっただけなのかも知れない。いわば「偶然」という機会が(良きにつけ悪しきにつけ)何らかの結果につながったとき、それが「運命」と呼ばれるようになるのだろう。



 どんな「偶然」が結果を生むのか、それもまた「偶然」の産物だろう。となれば、僕にはもうどうすることもできない。人はどうあがいても、後ろ向きにしか事態を把握できない。そして、時間は前向きにしか進まないものだ。
 手に掴んだわらしべが長者への切符だとは限らないのである。わらしべは、ずっとわらしべのままかも知れない。いやらしいのは、「運命」を待ちわびる自分の心である。棚からぼた餅が落ちてきはしないかと、ずっと棚の下で上を見上げながら待っている。しかし、案外全く別の場所に宝物が眠っているかも知れないのである。



 そうして月日は流れたが、B級のドラマすらまだ始まってはいない。


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