思考過多の記録
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2005年09月22日(木) 9月になれば、彼女は…

 9月になって、僕の愛する女性は舞台に立っていた。僕もその舞台を見ていた。数ヶ月前、僕の舞台に立っていた彼女は、あの時とは比べものにならない程大きな舞台で、比べものにならない程多くのお客さんの前にいた。



 この2ヶ月、僕は生身の彼女と会っていないし、声を聞いてもいない。彼女の生命の温もりを感じないまま、僕は過ごしていた。その時間はあっという間にも感じたし、逆にとても長くも感じた。
 そして、彼女は僕の目の前にいる。それなのに、僕にはまるで、別の国の住人のように感じられたのだった。僕は前日のメールで彼女に請われて(?)彼女宛に差し入れをしたのだけれど、結局彼女と言葉を交わさずに劇場を後にした。彼女が別の知り合いと話をしていたからだったのだが、それが終わるのを待っていることはしなかった。



 今さら確認するまでもないことだが、僕はこれまで取り立てて誰かに愛されたこともないし、大切に思われたこともなかった。かけがえのない存在だと思われたこともなかったし、誰かが僕の胸で眠ることもなかった。
 これは、ことさら嘆くようなことではないのだと、今の僕は思う。
 内的にも、外的にも、社会的・経済的にも。取り立てて人を惹きつける何か持っているわけではないので、当然のことなのだと思う。何故、という気持ちも今はあまりない。何故と考えたところで、何も変わりはしないのだから。



 彼女が芝居に没頭したこの数ヶ月、僕の存在が彼女の中で弱々しく、薄い存在になっていたとしても、それは全く当然のことである。彼女がチケットノルマをさばく段になって初めて僕の顔を思い浮かべたとしても、それは別に何の不思議もない。
 そして芝居が終わった今、彼女の中で僕が半ば以上どうでもいい存在であったとしても、別に僕の顔など見なくても、僕の声など聞かなくても何の痛痒も感じなかったとしても、特段驚くには当たらない。
 彼女が僕といる時間を望まなかったとしても、それが何だというのだろう。
 そのことを悲観したとしても、結果が変わるわけではないのだ。



 結局、なるようにしかならないと思っている。
 なので、僕は彼女への「思い」を確かめるよりも、彼女の「存在」を確かめたいと今は思っている。彼女の「体温」を感じたいと思っている。
 そして、彼女がそれを望まなかったとしても、別に嘆くことではないと思っている。それが、これまでの経験上、普通の反応なのだから、誰を責めるわけにもいかないだろう。



 人から愛されずに、なおかつ人を愛するとはそういうことである。
 見守ることしかできない僕には、端から為す術はないのだ。
 そしてなおかつ、それでも僕は、舞台の上で幸福を感じていた彼女を見て、自分は幸福なのだと思う。


2005年09月17日(土) 狂気の劇場〜ヨノナカバカナノヨ〜

 この「思考過多」で予言した通り、先の総選挙は自民党の圧勝という結果に終わった。「地滑り的勝利」というあたりまで予言通りだったが、それでもここまで勝つとは正直言って思っていなかった。しかし、現在の選挙制度が得票率と議席占有率がかけ離れるという特性を持っているということを差し引いても、むべなるかなという感じである。
 要は、この国の国民(有権者)のレベルはこの程度なのであり、そのお粗末さがよく現れる制度だったわけだ。またこの国の社会の足下から湧き上がりつつあるマグマが形となって現れたとも言えるのである。



 この一週間、メディアでは様々な分析がされている。どれも当たっているようにも思えるし、外れているようにも思える。しかし、所謂「小泉劇場」」言われる小泉首相の手法が、この国の社会の雰囲気によくマッチしていたことは確かなようだ。
 選挙終盤に至るまで、その世論調査を見ても、首相が争点として掲げた「郵政民営化」は投票する際に考慮する項目としては3番目か4番目だった。にもかかわらず自民党の支持率は高かったわけである。そして、選挙後の出口調査等で何を重視して投票したのかという質問に対して、多くの有権者は「郵政民営化」だと答えたのだった。これは所謂「刷り込み効果」というやつである。



 小泉首相は「郵政民営化に賛成か、反対か」ということだけを問い続けた。その具体的な中身の論戦を徹底的に避けて、ただただそれだけを叫び続けた。「郵政民営化は全ての構造改革の始まり、改革の本丸だ」という、殆ど無理矢理で個人的な思い込みだけが根拠の主張を繰り返した。それが結果的に成功だったのである。この単純なメッセージが、首相自身の「改革に賭ける強い思い」として受け止められ、揺るぎない信念と強いリーダーシップを持った指導者として、民衆から拍手喝采を浴びた。今までなら眉をひそめられた反対派への所謂「刺客」作戦も、この延長線上でとらえられた結果、「信念の人・小泉」の姿勢を裏付けるものとして肯定的に評価された。
 中身を語らず、「郵政民営化」=「官から民へ」の大改→反対するものは改革を拒み、官の既得権を守ろうとする守旧派=「悪」という、単純きわまりない図式を最後まで提示し続け、「どちらに味方する?」と有権者に迫ったのである。



 手法としては拙劣だ。しかし、多くの有権者は喜んでこれを受け入れたのである。その結果としての自民党の歴史的大勝利だ。真面目に政策論争を挑もうとした岡田民主党は「姿勢が一貫していない」「頼りない」という理由で惨敗したが、本当は郵政民営化に賛成だとはっきり表明しなかったため、「守旧派=悪」のレッテルを先に貼られてしまったというのが殆ど唯一の敗因だろというのが僕の考え方だ。
 もし付け加えるなら、小泉首相の顔としゃべり方の方が、岡田代表のそれよりも大衆受けするということくらいだろうか。
 今回の選挙は、結果の重大さとどう考えても見合わないくらい、馬鹿馬鹿しい程表面的な要因で動いていたのである。



 ポピュリズムもここに極まるというという感じで、呆れてこの文章を終われればいいのだが、あのやり方で自民党がここまで勝ってしまうのを目の当たりにすると、僕はこの国の社会の現在および未来に対して、空恐ろしさを覚えざるを得ない。
 今、多くの国民は出口の見えない閉塞状況の中にいると感じている。この社会の奥底に、得体の知れない「不満・不安」マグマのように溜まっていたのだ。そこに小泉首相の叫ぶ「改革」「ぶっこわす」という言葉が、まるで救済の言葉のように響いた。「この人に託せば、何か変えてくれる」という強い思いが、マグマとなって吹き出し、自民党は勝利した。しかし、ことは選挙戦略では終わらない。小泉自民党は、パンドラの箱を空けた。
 「何かを変えてほしい」という思いは分からないではない。しかし、肝心なのは「何を、どのように変えるか」ではないのか。中身を白紙委任して「変える」ことだけを求め、これだけ強大な権力を一つの政党に与えてしまうことがどんなに危険か、政治教育をまともに受けていないこの国の大衆には分からないのだろう。「全ての政策を支持したわけではない」といくら言ったとしても、後の祭りなのだ。
 そして、この国の「何かを変えてほしい」の「何か」のひとつに、憲法が入ってくるのは当然である。今や衆院の3分の2を押さえた与党が、早晩「憲法改正」という国の根幹に関わる一大事を、軽々しく政治日程に乗せてくることは想像に難くない。
 その時にも、この国の国民は今回の郵政民営化と同様、中身も分からずただ「何かが変わるかも知れない」というムードだけで、その動きを雪崩を打って支持するのではないか。僕はそれを危惧する。なに、今は慎重論も多い大衆の意識を変えるのは簡単だ。首相に安部晋三でも担ぎ出せばそれで終わりである。
 この国の国民は、「劇場」が好きなのだから。



 今回の選挙結果を受けて、既に小泉首相と自民党はやりたい放題になってきている。国民が望んだ「改革」が、様々な形でその国民、特にお年寄りなどの弱者に対して牙を剥いてくることは火を見るよりも明らかだ。その一方で、大企業をはじめ、「強者」達は何の痛痒も感じず、より強い「フリーハンド」を得る。それは、社会的なコストを軽減してもらった上での弱者からの搾取の結果だ。竹中平蔵大臣が作る小泉自民党の政策の中身は最初からそうだった。
 それでも、弱い国民は「強いリーダー」小泉と彼の政党を支持する。「何を」変えるかを問題にせず、ただ「変える」ことだけを願って。
 いつか自分達の首が完全に絞まってしまうことに、弱い国民はいつになったら気付くのだろう。いや、もしかすると、完全に絞まってしまっても、そのことにすら気付かないかも知れない。



 僕達の社会は、そこまできてしまった。僕達が生きているのは、そんな世の中なのである。それをしっかり認識する必要がある。
 マグマが溢れたことで、一時は爽快感と熱狂に酔いしれることができる。しかし、やがてそのマグマは、この社会を呑み込んでいくだろう。
 そうなるかどうか、ではない。「いつ」そうなるのか。ここは、そういう国である。


hajime |MAILHomePage

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