思考過多の記録
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2003年06月14日(土) 世界に一つだけの花

 少し前になるが、SMAPの「世界に一つだけの花」という歌がかなりヒットしていた。時期が時期だっただけに、イラク戦争に対する「反戦歌」としても歌われていたという。誰が一番と言うことではなく、1人1人がみな違うということ、そのこと自体に価値があると歌うこの歌は、競争社会に疲れてきた僕達の心を捉えたのだろう。また、アメリカ流のやり方を武力で押し付けようとしたあの戦争に対する反論にもなり得ている。

小さい花や大きな花
一つとして同じものはないから
NO.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one

というわけである。



 一方、中島みゆきにも、これと同じ考え方を全く別の角度から描いた歌がある。「愛される花 愛されぬ花」というこの曲は、今から17年前に他の歌手に提供されたものだ。
 この歌は、愛される花=赤い花と愛されぬ花=白い花とが人々にどう受け止められているかの対比を綴っている。赤い花は愛されて、ほほを染めて恥じらって揺れるが、白い花は愛されることがなくて、恥じらって俯きながら揺れる、という感じだ。そして、シンプルだが印象的なリフレインがある。

あの人が ただ赤い花を
生まれつき好きならば それまでだけど
愛される花も 愛されぬ花も
咲いて散るひと春に 変わりないのに



 この二つの歌に歌われているのは、一つのことの裏表である。難しい言葉で言うと、「世界に一つだけの存在」という「単独性」のネガとポジである。
 他に変わるものがないということは、それだけで素晴らしいことだというのが「世界に一つだけの花」の視点である。だから、「どれもみんなきれいだね」ということになり、どの花を買おうかと迷ってしまうのも「頑張って咲いた花はどれも きれいだから仕方ないね」というわけだ。そして、1人1人違う種の花なのだから、「その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい」のである。
 他に変わるものがないこと、だからこそ価値の優劣は付けられないのだとこの歌は言っている。この「かけがえのなさ」こそが「単独性」ということである。他の誰でもない「この、自分」はまさにこの自分以外に存在し得ないし、それは他の人間も同じことである。この世界の誰もが「もともと特別なOnly one」なのである。



 けれど、「この、自分」は自分でしかあり得ないということは、言い換えれば自分ではない「誰か」にはなり得ないということを意味する。そこに焦点を当てたのが「愛される花 愛されぬ花」の方だ。「どれもみんなきれい」な筈の花なのだが、白い花は赤い花ではあり得ない。そして、「あの人」は「ただ赤い花を生まれつき好き」なのである。つまり、自分が「白い花」である限り、「あの人」に選ばれることはあり得ないのだ。これは非常に絶望的な状況だといっていい。何故なら、自分が「赤い花」ではないことは、どう頑張っても変えられるものではない。「単独性」とはそういうものである。
 自分が「赤い花」ではなく「白い花」だったのは、自分の選択によるものではなく、まさに「たまたま」だった。だからこそ、「咲いて散るひと春に 変わりないのに」もかかわらず、その境遇が正反対になってしまうことで、「単独性」の持つ不条理さと悲劇性が浮かび上がるというわけなのである。



 別にどちらが正しいというつもりはないが、僕の実感はやはり「愛される花 愛されぬ花」の方に近い。それは僕が、様々な場面でこの不条理を味わってきたからだ。何故自分は「彼」ではないのか。「咲いて散るひと春に変わりないのに」。そんな思いを抱いたことは一度や二度ではない。
 たくさんの花があったら比べてしまったり、その中で一番になろうとしたりするのは人間の性である。そして、比べた上で何かを選ぶ。それが「生きる」ということだ。そして、何かを選べば何かを選ばないのであり、選ばれなかった花は必ず出てくるということだ。その上、一生懸命に花を咲かせても、赤い花ではないという理由で選ばれないのである。それが人生というものだと言ってしまえばそれまでなのだが。
 「もともと特別なOnly one」。自分の「単独性」をそう肯定的に捉えられる日は、果たして僕に訪れるのだろうか。



 「単独性」を同じ「花」という比喩で描いても、捉え方や伝えようとすることがこんなにも違うものだ。そのことがまさに「世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ」ことの見本だ。そして、この二つの曲の作者はきっと、それぞれが「その花を咲かせることだけに一生懸命に」直向きに取り組み、その結果それぞれが素晴らしい「世界に一つだけの花」を咲かせた人達なのである。
 勿論僕は「彼等」ではないけれど、そのことを考えるとき、僕はほんの少しだけ勇気が湧いてくるのを感じる。


2003年06月11日(水) 「圧力」に酔いしれる人々〜拉致被害家族にもの申す〜

 マンギョンボン号という北朝鮮の貨客船を巡って、この週末日本(のごく一部)は大騒ぎだった。来るとか来ないとか随分騒いだ挙げ句、来るなら寄って集って調査するぞと脅したところ、結局来ないことになった。「対話と圧力」の「圧力」というわけだ。
 新潟に陣取った「例の」面々は凱歌をあげ、海に向かって景気付けにシュプレヒコールなんぞをやっていた。



 問題になっているあの船が、どんな恐ろしい企みを載せているのか、それは当の国の支配者達以外は正確なことは知るよしもない。ただ、とにかく北朝鮮という「悪い国」の船だから入港は許さない、という空気だけがマスメディアを通じて数週間をかけて日本中に醸成された。アメリカの議会で脱北者が、マンギョンボン号を使って北商戦側に資金やミサイルの材料までもが日本から運ばれたという証言をしたという報道も、これに一役買った。勿論、この証言を裏付けるものは何もない。ただ、「そうじゃないかと思っていた」という何の根拠もない「気分」がこの証言によって裏付けられたことは紛れもない事実だ。
 そしてまた、こうした「空気」が「あの人達」を勢いづかせていることも確かである。



 繰り返すが、僕も拉致は犯罪行為だという認識は持っている。拉致された人々の1日も早い救出を望んでもいる。勿論、金正日体制の問題点も認識しているつもりだ。
 けれど、どれだけ国内世論の「団結」が強調されても、僕はいつまでたってもあの拉致被害家族達と「救う会」と称する人々に共感できずにいる。それは、彼等があまりにも感情に走りすぎて、視野狭窄に陥っているようにしか見えないせいだ。彼等は、まとまるはずのものすらぶち壊している。そしてその動きにこの国が否応なく巻き込まれていて、なおかつ彼等自身はそのことの弊害に全くと言っていい程気付いていないようである。



 彼等は声高に北朝鮮に対して強硬姿勢で臨むことを主張する。外務省内の穏健派の官僚を更迭せよなどと政府に直訴する始末だ。一体自分達を何様だと思っているのかというのはさておいて、僕にどうしても分からないのは、それでこの問題が解決すると彼等が本気で考えているらしいことである。あの国の体質からしてこちらが強い姿勢で臨めば臨む程、向こうも頑なになっていくというのは、これまでの経過を見ていれば明らかだ。「瀬戸際外交」というのは、あの国のそんな傾向をよく表している。経済力も軍事力もない小国が米軍が駐留する韓国という「敵国」と向き合って存在するという彼等の置かれている状況がそうさせているのだろう。



 そんな北朝鮮に対して、ひたすら圧力をかけながら追い込んでいったらどういうことになるのか明らかだ。彼等は圧力に屈するのではなく、「暴発」によって圧力をかける側を牽制するという態度に出るだろう。現体制の崩壊を彼等は何よりも怖れている。しかし、牽制や示威のための行動が思わぬ形で朝鮮半島情勢を緊迫化させ、取り返しのつかない事態に発展していかない保証はない。
 そんなことになれば、拉致問題の解決など勿論できる筈もない。それどころか、未だあの国に残されている人達は格好の「人質」だ。場合によっては、そういう人達が殺される事態もあり得る。
 それだけではない。万が一拉致被害家族や「救う会」の望み通りに金正日体制が崩壊したら、たとえそれが「平和的」に行われたとしても、その後大量の難民が韓国・日本などに溢れてくることは火を見るよりも明らかだ。そうなったとき、海に向かってシュプレヒコールをしながら拳を振り上げていた彼等はどう責任を取るつもりなのだろうか。



 今考えるべきは、あの国を如何に暴発させずにこの問題の解決を図るかということである。これは北東アジアの平和と安定を如何に実現するかという、たいへん複雑にして微妙な問題だ。慎重の上にも慎重を期さなければならない。
 強硬論を叫ぶ彼等は、ただ鬱憤晴らしをしているに過ぎない。肉親を連れ去られて安否すら分からないという事情があるから、そうしたい気持ちも理解できる。しかし、外交は何も彼等のためだけに行われるのではないのだ。彼等の気持ちに寄り添い過ぎて、大局を見失うことがあってはならない。第一、北朝鮮がああいう外交しかできなくなってしまったのも、あの国を孤立させることをよしとするような外交方針(それに乗っかっているのが安部官房副長官である)をとってきたこれまでの日本政府の責任もあるだろう。そのことを棚上げにして、ひたすらあの国を悪者扱いして事足れりとするのは無責任の誹りを免れないだろう。



 拉致被害家族達とその支援者達は、今や外交に対する自らの影響力の大きさを自覚して、過激にして単純な自らの主張を今一度考え直すべきである。そして、本当にこの問題を解決するためにはどうすることが必要なのか、大局的な見地から判断して行動してほしいと思う。彼等の言動によって、この地域の行く末を誤らせることになっては取り返しがつかない。
 そして僕がもう一つ懸念するのは、僕のような意見を述べにくい空気が、彼等とマスコミ、そして強面の政治家達によって醸成されつつあるということだ。彼等はあの国だけではなく、自分達に反する国内の意見にまで「圧力」をかけている。テレビや雑誌は毎日のようにあの国の悪事を暴き続けている。やり方は少しスマートだが、やっていること自体はあの国の支配者達と変わらない。



 繰り返すが、それで拉致問題や核問題が解決するのであれば、こんな簡単な話はない。もっと冷静になろう。国と国との問題で、感情に流されて物事がいい方向に向かった試しはないのである。


2003年06月01日(日) 善い生き方、悪い生き方

 「少子化対策基本法」なるものが超党派の国会議員によって国会に提出され、審議入りしているとのことだ。これは要するに、できるだけ子供を産んでもらうための手立てを講じようという法律なのだが、例えばということで、地方自治体手動の出会い推進事業だとか企業内合コンといったことが推奨され、それには補助金を払ったりするということらしい。また、条文の中には、結婚をして家庭を作り、子育てをしながら働くことのできる社会を作ることを「国民の責務」とうたっている部分もあるという。
 結婚せず、子供を産まない若い世代が急増していることに対しての、国を治める偉いおじさん達の危機意識がひしひしと伝わってくるというものだ。



 この動きに対しては、当然批判がある。その代表的なものは、子供を産むか否かという選択は基本的には個人の自由においてなされるものであり、国がとやかくいうことではないというものだ。確かに結婚・出産は各個人の人生の中での選択である。昔は許容範囲も狭かったが、どんな時代でも結婚・出産をしない生き方というものはあった。そして、勿論それは否定されるべきものでも何でもない。
 生物とすれば子孫を残すのは大切な営みであるし、そのために多くの個体(個人)がつがいを形成し、家族を作るだろう。けれど、それが大多数だからといって、結婚→出産に至る流れが「生物として自然」であり、子供を作るのは「義務」なのだと結論づけるのはどうだろうか。ましてそうすることが国民としての「責務」であると法律で決められてしまった日には、一体どういうことになってしまうのだろうか。



 かつて結婚・出産が「自然」なことだと思えた時代は確かに存在した。けれど、それは女性を家庭に閉じこめ、多くの権利(と時間)を奪い取ることによって成立していたのだ。女性が社会進出を遂げ、「家庭」から自由になり、「自分」らしい人生を送ろうとするにつれ、結婚・出産は一つの選択肢に過ぎなくなった。
 そのことが結果的に出生率の低下を招いたという論理は分からないではない。しかし、根本的な問題は結婚や出産が選択肢としての魅力を失っているということである。そのことに対する対策はいろいろあるだろう。何よりも子供を持つことの「コスト」を社会全体で負担していく方策を考える必要がある。その中には、子育てをしながら働き続ける人達に対する支援策(職場環境の京成を含めて)が入っていることは言うまでもない。北欧などその種の制度が整っている国では、かえって出生率は高いという統計もある。



 いずれにしても大切なことは、「結婚・出産しない」ことを含めて、多様な生き方を社会が許容することだ。出産しない人は実はそういう体なのかも知れないし、シングルマザーや独身を貫く人にはそれなりの理由がある。そういう人達に対して「何故産まない?」「何故結婚しない?」という形で圧力をかけることがあってはならないのである。愛する人と結婚をして子供を産み、家族を形成する。それが「普通」の人間の「自然」の姿であり、そこからはみ出す生き方をする人は「異常」で「不自然」な存在だ。そう決めつけるような社会であってはならないと思う。そういう人達の中には、自ら進んでその生き方を選んでいる人もあるだろうし、やむにやまれずそういう風に生きている人もいるのだ。
 社会(国)がするべきなのは、結婚や出産に踏み切ろうとする人がいる時、そのハードルをできるだけ下げてやることで、決してみんなを無理矢理そこに連れて行くことではないのである。



 少子化対策で焦っている政治家達の殆どは、若年層が減ることによる税収の落ち込み、社会保障(年金)制度の崩壊、そして労働人口の減少といった、「国」レベルの問題しか念頭にない。だから「産む、産まないは個人の自由といった考え方があってはだめだ」とか「子供を産むことは年金制度を支えるためだというのは、教科書ではいつ教えるのか」などといった発言が出てくるのである。もしも子供が年金制度を維持するためだけに必要なのだということになれば、子供は絶望のあまり自殺するか、年金生活者の大量虐殺に走るだろう。勿論、社会保障制度を支えるのが若年層であることは確かだが、そのために子供を産めということになると、それは全く別の話だ。
 彼等の論理で行けば、どんなに嫌な相手でも、子供を産むためなら誰かしらと必ず結婚しなければならず、どんなに仕事に生き甲斐を見出していても、またどんなに妊娠しにくい体であっても、何が何でも子供は産まなければならないことになる。それが「国民の責務」だからだ。



 奇妙なのは、そんなに出産・子育てに関心のある彼等が、子育てをしながら働き続ける女性達の多くが、実際の職場等でどれ程の不利益を被っているのか、また保育所などの施設の整備がどれ程遅れているのかといったことに対して、殆ど無関心らしいということである。だから、法律で企業内で合コンをする機会を設ければ出生率が上がるなどと寝惚けたことを考えるのだ。
 こんな奴らがよく結婚できたものだと、僕は心底感心してしまう。挙げ句の果てに、女性の未婚率の増加を「適齢期」の男の頼りなさ・情けなさに帰結させられた日にはたまったものではない。



 僕達は社会(国)を構成する。けれど、社会(国)に生き方を指図されるいわれはない。生きにくさを感じる人間が出てしまうような社会は、到底よいものとは言えないだろう。
 法律が個人の人生の善し悪しを規定する。そんな恐ろしい世の中が訪れるなら、誰が子供を産もうなどと考えるだろうか。


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