思考過多の記録
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2002年06月29日(土) 結婚と決闘

 「君のことを絶対に幸せにするよ」と男が言い、「この人となら絶対に幸せになれる」と女が思う。そうしてできた夫婦の殆どが、おそらく幸せではないだろう。「絶対に幸せにする」という公約を守れる男は少なく、「絶対に幸せになれる」という確信が実は単なる錯覚だった女は数知れない。



 僕の会社の契約社員の女性が、先日結婚(入籍)した。酒席で話を聞いていると、相手の男性とは数年前にバイト先で知り合ったという。当初から男の方が彼女に入れあげ、アプローチをしていたようである。もともとおっとりしたタイプの彼女の方は、男に対して何も特別な方を抱かないまま、「何も考えていない」(彼女自身の言葉)状態で男とのペースにはまって、いつの間にか付き合いだしていたようなのだ。
 男は当初から「結婚」を考えていたようだ。というより、付き合うこと=結婚への道、と決めていたようなのである。彼女が拒まなかったので、そのまま「入籍」へとことは淡々と進んでいった。
 そして、彼女は「結婚」した。正式なプロポーズもされないままに。誰もが「新婚旅行」だと信じて疑わない入籍後のマレーシア旅行も、彼女に言わせれば「単なる‘旅行’で、甘くも何ともなかった」そうだ。



 3年間の付き合いの中で、彼女はすっかり相手との「日常」に慣れ、「新婚」という‘ハレ’の状態とは既に無縁になっていた。「今が一番いい時だよ」と同じ職場の既婚者達は異口同音に言った。僕も彼女に「遠足は、行く前の晩が一番楽しい」とつい余計なことを言ったものだ。だが、どうやら彼女にとっては、そんな話はとっくに終わってしまっていたようだ。
 勿論、彼との生活が嫌なわけではないだろう。そうだからこそ、成り行き任せとはいえ2人は夫婦になった。けれど、「ラブラブですよ」という言葉とは裏腹に、酒の力を借りて彼女の口から出てくるのは、相手に対しての細々とした不満が殆どだった。



 僕の職場の既婚者達(主に女性)の口からは、酒の力など借りなくても相手に対しての不満は数限りなく出てくる。一緒に過ごす「日常」が長くなれば成る程、様々な質の問題が発生し、不満が蓄積されていく。そしてそれは、量的な不均衡はあるものの、夫婦の両者がお互いに抱いているものであることは周知の事実だ。「絶対に幸せにする」と思い、「幸せになれる」と思って「結婚」に踏み切った時には、高ぶる感情と理想化された相手の像、そして相手に「理想的な」自分しか見せないという無意識の「偽善」によって、お互いが半ば盲目の状態になっている。それが、夫婦としての共同生活の年月とともに、お互いの実像が徐々に明らかになり、「こんな筈ではなかった」「こんなだとは思わなかった」ということが度重なっていく、ということになる。そして、お互いが諦念を抱いたまま惰性で「制度」としての夫婦を続けるか、子供にはけ口を求めるか、不倫の末に崩壊する。それが大多数の「結婚」の末路である。これもまた周知の事実であろう。
 であるならば、ときめきを失うのに十分すぎる程の長い付き合いの中でそういう問題の多くを検証し尽くした後に「結婚」するのがいいのか、それとも「理想的な相手」という盲目の中で、勢いで「結婚」に突入するのがいいのか、そもそも「結婚」それ自体を回避するべきなのか、考え始めるとなかなか難しいところだ。
 そこには、「結婚」における幸せとは何なのかという、もう一段深い問いが隠されている。



 中島みゆきに「結婚」という短い曲がある。小さな男の子がもっと小さな男の子に「僕はお前と結婚するぞ」と言った。しかし、それは「決闘」との言い間違いだった。この前段の後、次のような歌詞があって曲は終わる。


 翌日 若い母親がオフィスでその話を披露した
 若くない男の社員が呟いた
 同じ場合もあると
 結婚と決闘
 結婚と決闘
 まだ若い母親は話しやめてしまった



 良くも悪くも、緊張感を失うと夫婦はだめになっていく。といって、お互いにリラックスできなくても夫婦はだめになっていく。「結婚」における幸せとは何なのだろう。



 酒の力を借りて相手への不満を語った彼女は、その席でやはり酒の力を借りて、僕への思いを「告白」した。「でも結婚しちゃったんですけどね」と彼女は付け加えた。
 彼女にとって僕はある種の「ときめき」の対象だった(らしい)。僕にしてみても、彼女をちょっといいなと思う気持ちがなかったわけではない。けれど、それだけでは次のステップへ移れないことも、彼女は無意識のうちに知っていたのだろう。
 僕の隣で絡み続ける彼女を見ながら、もし結婚したら僕はこの人を幸せにできたのだろうかと、よった頭でぼんやりと考えていた。
 そして昨日、彼女は契約期間を満了して退職し、僕と彼女の人生は別々の方向に分かれていったのだった。


2002年06月16日(日) 亡命願望

 サッカーの日本代表チームが初の決勝トーナメント進出を果たしたということで日本中がわき返っている、という報道が、あの日どの局でもされていた。スタジアムは勿論、至る所で「ジャパンブルー」と呼ばれる代表チームのユニフォームを着て顔に「日の丸」をペインティングした人々が狂喜乱舞するシーンが繰り返し放映される。熱狂を通り越して殆ど「狂乱」といってもいい光景である。



 けれど、僕の周りでは、街は平静だった。道行く人々の中には試合の結果を知らない人もいただろう。会社を出て家に着くまでの1時間半、電車の中でも街角でも、サッカー中継の音声が流れている場所もあるにはあったが、誰も狂喜乱舞してはいなかった。



 繰り返しになるが、僕はメディアの「日本中が喜びにわいています」という報道の仕方に強い違和感を覚える。日本代表の活躍ぶりに声援を送った人は多かっただろうし、その結果の快挙を喜んでいる人も、サッカーファンであるか否かを問わず多いだろう。だからといって、日本代表が勝ったら、日本人の誰もが飛び上がって喜び、涙さえ流し、夜は祝杯を挙げて盛り上がらなければならないわけではないだろう。
 同じ日本人であっても、人によって日本代表の勝利に対するテンションは違って当然だし、無関心な人、喜ばない人がいても全然かまわない筈だ。しかし、この間のメディアの報道ぶりは、結果的にそういうスタンスを許容しない空気を日本のあちこちに作り出してはいないだろうか。まるでワールドカップ(というよりも日本代表)に対して無関心である人は変わり者であるかのような見方を、少なくない人達が無意識のうちにしているのではないだろうか。そういう人達の多くは、ワールドカップ開催直前までサッカーなど見向きもしなかった人達なのにもかかわらず、である。



 日本代表の勝利は喜ばしい。選手の活躍ぶりには目を見張るものがある。僕もそれ自体に文句を付けるつもりはない。日本のサッカーが世界レベルに達したことは、事実としては素晴らしいことだと思う。しかし、この熱狂に僕は別の危険性を感じてしまう。
 案の定、試合当日の記者会見で民族派の代表・石原東京都知事が、
「国家や民族を体感する非常にいい機会だ」
と発言した。大多数のサポーターや応援していた人々は、そんなことを意識してはいないだろう。けれど、まさにその無意識の中に問題は潜んでいる。



 一部の純粋なサッカーファンを除いて、「ニッポン!ニッポン!」と叫んでいる人々の大多数は、「日本代表」というチームのイレブンに声援を送り、その勝利を称えているのではない。自分達「日本人」の代表である「日本」チームの活躍に声援を送り、それと一体化しようとしているのである。つまり、彼等の熱狂はサッカーの試合内容、もっといえばサッカーそれ自体と殆ど関係がない。純粋なサポーター以外の人々は、「ニッポン」という実体のない大きな「概念」に対して熱狂しているのだ。そして、「ニッポン」によって見知らぬ日本人同士、そして「ニッポン」それ自体との一体感を味わい、高揚することの快感に酔っている。少なくとも、僕にはそう感じられてしまうのだ。
 逆にいえば、「大衆のスポーツ」と言われるサッカーは、そうした一体感・高揚感を起こさせるのに最適のスポーツなのである(バレーボールに全国民は熱狂しない)。彼等が喜んだのは「日本代表チーム」の決勝トーナメント進出ではなく、「ニッポン」のそれなのだというのは言い過ぎだろうか。



 このワールドカップが終わると、熱狂は1ヶ月も経たないうちにこの国から姿を消すだろう。しかし、これを通して日本人の中に「民族=国家への熱狂」という精神的回路ができあがってしまったことを、僕は憂慮する。その対象がサッカー等のスポーツであるうちはまだ罪がない。しかし、もしある種の意図を持った個人や政治団体が登場し、その回路を自分達の政治的・民族的野心を押し進める方向に向かって開かれるように誘導したとしたらどうか。
 これまでの(特に若い世代の)日本人には、「民族」「国家」といったものへの免疫がない。あまりに無関心に来てしまったがために、一度火を付けられると今回のように燃え上がる危険性がある(小林よしのりの主張が若い世代に一定のアピールをするのがこの証左である)。それを杞憂だという証拠は、少なくとも今回のメディアの報道ぶりや、僕の周囲の反応を見る限りどこにも見出せない。



 「ニッポン!ニッポン!」の大合唱の中、少なからぬ僕の知り合い・友人がそれに巻き込まれていくのを見て、僕は非常にいたたまれない思いである。
 もし語学が堪能で生活力もあったなら、僕はとっくにこの国を離れているだろう。このまま日本にいると、僕は日本と日本人がますます嫌いになっていきそうだ。
 僕にとって、この国は生きにくい。


2002年06月11日(火) 踊る阿呆を見る阿呆

ワールドカップが始まっている。日本が決勝トーナメントに出場できる可能性が出てきたことで俄然盛り上がっているようだ。日本代表がいい試合をし、その結果試合に勝ち、サポーターが大喜びするのはよく分かる。
 しかし、日本に住んでいるからといって、みんながみんな日本代表を応援し、そして勝利を熱狂的に祝わなければならないとでもいうかのようなマスメディアの扱い方には、毎度のことながら辟易する。



 前にも書いたと思うが、生来の天の邪鬼である僕は、周りが熱狂すればするほど冷めていくという性質がある。全員が同じことに、ある一定以上のテンションで熱狂することに対して、どうしようもない居心地の悪さを感じてしまうのだ。「応援団的気質」に対する拒否反応があるのかもしれない。
 熱狂は「忘我」の境地に人々を誘う。それはまさに、自分をなくして全体と一体化することによって得られる。「自分をしっかり持て」などというつもりはない。そんなものは初めからあってないようなものだ。しかし、だからといってそう簡単に感情を爆発させ、全体と一体化する気持ちの良さに雪崩を打つのもどうかと思うのだ。



 まあ、基本的には人それぞれに考え方があり、日本代表のユニフォームを着てハイテンションで応援しようが、相手にゴールを決められると涙ぐむほど完全に感情移入しようが、個人の自由である。しかし、とにかく僕個人としてはそういうことに対してどうしようもない違和感を持ってしまうので、そういうことを押し付けるのだけはやめてほしいと思っているのである。
 僕は日本代表が決勝に進出してもしなくても、基本的にどうでもいいと思っている。ただ、それを多くの日本人がどう受け止めるのかや、周囲の騒ぎぶりなどの方に興味がある。
 我ながら本当に性格が悪いと思う。



 「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損、損」という有名なフレーズがある。ワールドカップという祭りに人々は熱狂する。しかし、その祭りの中心にいるフィールドの選手達は、実は非常に冷めているのだ。
 日本がロシアに歴史的勝利を収めた時、中田英寿選手のコメントは「初勝利はいつか来るもの。これで終わりではないし、満足してもいない」というものだった。その他の選手達のコメントも結構クールなものが多く、喜びの感情を爆発させたようなものはなかった。
 ある意味でこれは当然のことである。選手は常に冷静でなければゲームを運ぶことができない。勿論、人々が熱狂するような結果をもたらすこともできないのだ。



 ただただ自分の感情や本能のおもむくままにしか動けないような者、すなわち本当の阿呆は踊れない。より正確には、観客に「同じ阿呆なら踊らにゃ損、損」と思わせるような踊りを踊ることはできない。自分も熱狂しているように見せながら、巧みに人々を熱狂に巻き込んでいく。それこそが本当のプロであり、僕達はそんな彼等の姿に、その技に熱狂するのである。



 とはいえ、基本的にはサッカーに対しても「熱狂」それ自体に対しても、ある一定以上の興味を持てないことに変わりはない。といって、勿論僕自身が「熱狂」を作り出せるようなパワーと技を持った存在でもない。
 そんなわけで、今回のお祭りでも僕は踊りの輪から距離を置いている、ただの「見る阿呆」に過ぎない。


2002年06月09日(日) この国への怖れ

 中国・瀋陽の日本総領事館に北朝鮮からの難民が亡命を求めて駆け込み、武装した中国警察官によって身柄を拘束された事件から1ヶ月がたとうとしている。
 例によって人々の関心は移ろいやすく、最早この事件のことは忘れ去られようとしている。とにもかくにもあの人々が何とか中国を出て韓国への亡命を果たしたことで、多くの人々の意識の中では事件は一件落着ということになっている。何しろ自分の身の回りにも、そして世界にも、新しい事件は次々と起こる。どこかでケリを付けなければ、とっくの昔に僕達は狂っているだろう。



 あの事件にはいろいろな側面がある。外交上の取り決めや、時としてそれに優先する国と国との力関係のこと、亡命者とそれを支援する組織のこと、また亡命者を生んでしまうあの国自体の問題等々、様々なことが語られたものだ。その中でも僕にとって印象深いのは、「難民に冷たい日本」という問題だった。
 これまでも日本の難民認定率の低さは何かと問題にされてきた。確かに、難民を受け入れるというのは様々な問題を伴う。これまで比較的積極的に受け入れてきた国々も、主に経済的な理由からその門戸を徐々に閉ざしつつあるのが世界の趨勢だ。難民排斥を訴える極右政党がいくつかの国で支持を集めているのはこの現れである。けれど、我が日本は‘一貫して’難民受け入れに消極的だった。これは日本人のメンタリティの問題だと僕は思っている。



 数年前、ペールーの大使公邸で反政府武装組織による人質事件が起こった。その数ヶ月後、政府軍の特殊部隊の突入で人質は全員無事解放されるのだが、この模様を生中継したテレビ報道に対して疑問を呈した歌があった。
 中島みゆきの「4.2.3.」がそれである。
 この歌で描かれる報道は、人質救出作戦の最中、黒こげになり、おそらく瀕死の重傷を負っている一人の兵士が担架に乗せられて運ばれていく様子が画面に映し出されていながら、現場の日本人リポーターはひたすら「日本人が元気に手を振っています」とだけ嬉々として叫び続け、その兵士のことはひと言も触れなかった、というものだ。
 そして、こう歌う。



 この国は危ない
 何度でも同じあやまちを繰り返すだろう 平和を望むと言いながらも
 日本と名の付いていないものにならば いくらだって冷たくなれるのだろう



 中国での事件の報道に接しながら、僕はこの歌のことを思い出していた。
 助けを求めて泣き叫ぶ女性と子供を傍観し、あまつさえ中国の警察官の帽子まで拾ってあげて、だめ押しのように礼まで言ってしまった総領事館の職員達。あの事件の直前に「難民が来たら追い払え」と指示していた阿南中国大使。国際関係だの法律論だのでもっともらしく説明しても、彼等の頭の中にあったのはおそらくもっと単純な一事であろう。

 「面倒なことには関わりたくない」

 悲しいかな、これが日本外交の感覚である。そこには人権擁護の立場も、平和的な問題解決に向けての毅然とした態度もない。とにかく「面倒なこと」に巻き込まれて、後で自分たちのとった行動に対して批判を受けたり責任をとらされたりすることを極力回避したい、その一心なのである。
 確かに彼等は難民達の取り調べができるように中国に要求してはいたが、それはあくまでも国家としての「面子」の問題だけである。もし本当に取り調べをしていたとしても、それが終わり次第、日本政府は難民達の身柄を、彼等の希望とは無関係に中国に返してしまったであろうことは容易に想像がつく。
 今回の一件で、日本は人権意識の希薄な「冷たい」国という印象を改めて世界に与えたことだろう。しかし、案外官僚達は「日本に助けを求めても面倒なだけだという認識が難民達の間に広がって、在外日本公館への駆け込みを減らす効果があった」などと総括し、ほくそ笑んでいるかも知れない。



 これはある意味官僚の性である。しかし、官僚以外の僕達一般国民は彼等と違うメンタリティだと言い切れるだろうか。ペールー大使公邸突入の現場からひたすら日本人の人質のことだけを伝え続けたレポーター。そして、何の疑問もなくそれを受け入れて喜んだ僕達日本人。それは、外国人サポーターをフーリガンと同一視し、在日中国人や韓国人に対してまるで犯罪者のような目を向け、石原東京都知事の「第三国人」発言に共感してしまう態度に通じてはいないだろうか。



 前にも書いたが、「日本人」だけの空間で長いこと生きてきた僕達は、同じ「日本人」にはある程度優しくなれるけれど、それ以外の人間には(特に自分達の近くにいればいる程かえって)感心すら払わない傾向がある。自分達のこの「平和な」生活を脅かされたくない、という規制が働くのであろう。人間である以上、これはある程度やむを得ない。しかし、みんながこの考え方で動くと、やがて誰もが生きにくい世界がやってくるだろう。
 最近の若い世代は、同じ日本人どころか、自分の半径数メートル以内の世界にしか関心を払わない傾向にあるという。電車の中で化粧する女子学生を見るにつけ、僕は日本と世界の未来が不安になる。



 「4.2.3.」は、こんな歌詞で締めくくられている。

 あの国の中で事件は終わり
 私の中ではこの国への怖れが 黒い炎を噴きあげはじめた


2002年06月02日(日) Imagine

「あなたは、愛する人と電車に乗っている。やがて、愛する人の住む駅に着き、愛する人はホームに降りる。あなたはついて行きたいと思う。すべてを捨てて、ついて行きたいと思う。その時、あなたが強く思った時、世界は分裂する。ホームに降りたあなたとホームに降りなかったあなたの世界に分裂する。(中略)もちろん、ホームに降りなかったあなたは、ホームに降りたあなたの存在を知らない。ホームに降りなかったあなたは、ホームに降りなかった自分を責める。けれど、もうひとつの世界では、あなたはホームに降りている。
もうひとつの世界のあなたは、ホームに降り、愛する人に駆け寄る。そこから始まる別な物語を、ホームに降りなかったあなたは知らない。」
「けれど、想像することはできる。二度と会うことはないもうひとつの世界の自分が何を感じているのか、ホームを駆けながら何を思っているのか、想像することはできる。」



(中略)
「分裂した私はもう一人の私にとって、存在しない。」
「存在しないけれど、私は想像する。」
「その痛みを。その喜びを。その哀しみを。この世界に生きる私は、もうひとつの世界の私を想像する。」



 以上は、以前この日記で取り上げた鴻上尚史作『ファントム・ペイン』のラストシーンの台詞である。このエピソードは鴻上氏の実体験に基づいているらしく、彼の率いる第三舞台が初めて外部の劇場で公演した時、劇場で配布された「ごあいさつ」という文章でも取り上げられている。
 難しい言葉で言えば「可能世界」のことである。「こうであったかもしれない自分」「こうでもあり得た世界」という意味だ。けれど、実際の自分や世界は「今・ここ」にしかない。そういえば、鴻上氏は以前に「ビー・ヒア・ナウ」というタイトルの芝居も作っている。



 出版された『ファントムペイン』のあとがきで、鴻上氏は20年間主宰だった劇団の初期の、痛すぎるエピソードを一つ紹介している。それは一人の人間が引き受けるにはかなり重い出来事である。しかし、劇団を続けていくために、否応なく彼はそれを引き受けることになった。20年という歳月の中には、これと同等かまたはこれをも上回る出来事があり、その全てを主宰である鴻上氏はその都度背負ってきたのであろう。
 このことは、劇団という集団を存続・発展させていくには、中心になる人間の才能やカリスマ性もさることながら、一人の人間が普通は背負いきれないようなことも受け容れていく覚悟と力量もまた、絶対に欠くことのできないものだということを物語っている。



 もし大学時代、将来への不安も極貧生活も周囲の忠告も省みず、全てを投げ打って演劇の世界に飛び込んでいたとしたら、僕は一体どんな人生を送っていたことだろう。
 何故僕には劇団が作れなかったのか。その理由は、単純に才能も技術も、人を惹き付け、集団に求心力を与えるカリスマ性もなかったからである。そしてもうひとつの理由は、おそらく劇団の維持のため、また自分のやりたいことを貫くために、時には他人の人生そのものをも引き受ける覚悟ができていなかったことではないか。鴻上氏の文章を読みながら、僕はそう考えていた。
 そして、何故かこうも考えた。それはきっと、僕が恋愛から見放され、いまだに結婚していない理由と同じなのではないか。



 結局僕は、芝居の道を邁進できなかった。
 そして、愛する人との生活を築くこともできなかった。
 けれど、想像することはできる。芝居を続けている僕がぶち当たる壁、そのしんどさ、痛み、哀しみ、そして喜び。愛する人との生活によって、僕が引き受けなければならないもの、そのしんどさ、痛み、哀しみ、そして喜び。
 今、この世界に、そんな自分は存在しない。でも、僕は想像する。
 この世界に生きる僕は、もうひとつの世界の僕を想像する。


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