思考過多の記録
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2002年02月24日(日) 女性達の「売り言葉」

 先週の話になるが、野田秀樹作・演出の大竹しのぶ1人芝居「売り言葉」をという舞台を見た。中くらいの規模のホールだったが客席は一杯で、立ち見もかなりいる盛況ぶりだった。大竹しのぶの演技も勿論素晴らしかったのだが、ここでは作品の内容について書きたい。



 この作品は、詩人高村光太郎の「智恵子抄」でお馴染みの智恵子の物語である。福島の裕福な家に生まれた智恵子が、当時の女性としては異例の芸術大学まで進んで絵画を学び、そこで光太郎と出会い結婚する。しかし、実家の破産や家事に忙殺される毎日の中で芸術家として夫に後れをとることのストレスから、彼女は精神に異常を来してゆく。そして病院のベッドで光太郎に看取られながら最期を迎える。智恵子の半生を野田脚本は時間軸に忠実に描いていく。
 智恵子を娘時代からずっと見てきた福島弁のお手伝いさんを語り手に物語は進められていくのだが、このお手伝いさんは、最終的には抑圧された智恵子の内面の声として智恵子と融合していくという仕掛けになっている。また、狂気になだれ込む智恵子と平行するかのように、大正から昭和にかけて、戦争という狂気に駆り立てられ、破滅へ向かって進む日本という国の状況も描かれる。



 「売り言葉」とは、光太郎が詩人として、妻・智恵子の姿を描写した「売るための言葉」、すなわち「智恵子抄」の中の言葉に現れた智恵子と、その光太郎に対してぶつけられる内面の叫びとしての智恵子の反論=‘売り言葉’の2つの意味がかけられている。「強い女」(福島訛りで「智恵子」は「つえこ」=「強え子」となる)として、光太郎を内助の功で支え、実家の苦境に対処しようとする智恵子は、しかし「新しい女」としては男からも実家からも自立して、自由に自分の才能を開花させたいとも願っている。しかし、現実の生活の枷と、色盲のために人に認められるような作品を作れない焦りから、彼女は次第に精神的に追いつめられていく。光太郎の智恵子に対する気持ちは醒めていくが、それでも彼は「智恵子抄」で出会った当時の恋愛の対象だった智恵子の姿を美しい「売り言葉」にして、そこに智恵子を閉じこめようとする。自分の実像と光太郎の言葉とのギャップに苦しむ彼女は、光太郎に対して狂うことでしか‘売り言葉’を吐けなかった。明治から大正、昭和の初期というのは、まだそんな時代だったのだ。



 この物語はそのまま智恵子本人の実態を表現したものではなく、「半フィクション」のようなものだと野田氏は言っている。それにしても、この物語を前にして、男性優位の家父長制社会の中で、女性が如何に苦しみ、葛藤し、そして辛酸を舐めさせられてきたかという苦悩の歴史に思いを致さないわけにはいかない。女性が女性だというだけで自由にものも言えず、学問もさせてもらえず、その能力を顧みられもせず、ひたすら家庭内の労働力と子作りの道具としてのみ存在することを強いられていた時代は、この国ではひどく昔の話ではないのだ。
 そんな状況の中、与えられたほんの僅かなチャンスを何とかものにし、自らの力で自らの可能性を追求することで、困難な状況の突破口を開こうとした女達は確実に存在した。彼女達の志と行動は、ある時は挫折し、また目的を完全に達成することができなかったであろう。どれほどの多くの‘売り言葉’が飲み込まれ、吐き捨てられてきただろうか。
 しかし、彼女達の存在は決して無意味ではなかった。彼女達の行動は他の多くの女性達に勇気を与えた。やがて彼女達に続く女性達が現れ、少しずつ男性優位社会の厚い壁に穴を穿っていったのである。



 戦後、この国の歴史上初めて女性に参政権が与えられた時、「女が政治なんてとんでもない」という地域社会の強力なプレッシャーをはねのけて、全国で多くの女性達が議員に立候補したという。もしこの時、立候補者が誰もなかったら、女性に認められた参政権は完全に絵に描いた餅になっていたところだったのだ。その勇気と行動力は、現代を生きる男性の僕の想像を遙かに超えるものであろう。そしてそれに勇気を得た女性達が後に続くことになる。今では、表だって女性参政権に異を唱える人は殆どいない。また、女性の立候補に対するプレッシャーも、当時とは比べもにならないくらい小さくなった。



 こうした多くの智恵子達の苦悩、挫折、絶望、勇気、意思、行動力等の上に、今日の女性の地位がある。後に続く者達は、必ず前の世代よりも少しずつ先まで到達してきた、その成果である。今日では、多くの女性が男性の「売り言葉」に閉じこめられることを拒絶し、面と向かって男性への‘売り言葉’を叫べるようになった。それでもまだまだ壁はある。当時とは比べものにならないとはいえ、女性が女性であるというだけで背負わなければならない荷物はまだ重い。
 智恵子達の戦いは続く。しかし何故彼女達がかくまで果敢に戦わなければならなかったのか。そして今でも戦っているのか。彼女達から‘売り言葉’をぶつけられる前に、男達はいい加減そのことに気付かなければいけないだろう。


2002年02月22日(金) 目に見えないものを評価する

 ソルトレイクオリンピックのフィギュアスケートの採点を巡り、不正が行われたのではないかという疑惑が取り沙汰され、一旦2位と決まったカナダのペアに改めて金メダルが授与されるという珍事が起きたことは記憶に新しい。渦中の人となったフランスの審判は、疑惑発覚直後の自分の発言を撤回し、採点はあくまでも自分の判断だったと主張している。真相は今もって闇の中だ。



 例えば、純粋にタイムや距離といったものを競う競技であれば、こういう問題は起こりにくい。反則の判定の是非等が問題になることはあり得るが、順位の決定、すなわち勝ち負けが直接疑われることは少ないだろう。数字は冷徹なものであり、たとえ100分の1秒差であっても順位は明確につけられる。もしそれが疑われるとすれば、計器の故障か、選手側の不正(ドーピング等)が原因となる。そこに審判の判断の入り込む余地は少ない。
 こうしたことが問題になるのは、もっぱら「芸術点」といった、本来数字には表せない何かを評価しなければならない競技においてである。そしてそれは、何もスポーツの世界だけの話ではない。



 例えば、芥川賞等の芸術作品に与えられる賞の選考は、一体何が基準になっているのだろうかと思う。重要なポイントとして「面白さ」があるだろうが、この漠然とした、けれど決して外すことの出来ない項目を客観的に評価し、順位をつけることは不可能である。どんな傾向の作品を「面白い」と思い、魅力を感じるかは、それこそ人によって基準が違う。平たく言えば「好み」の問題ということになる。そこで、こういう賞の場合、いろいろなジャンルの「識者」と言われる人々が選考委員となって、合議制で決定するシステムとすることで、ある程度の客観性を保とうとしているわけだ。
 勿論、芸術作品といえども技術的な面での優劣はあるわけで、その点は比較的分かりやすいのだが、それとても、例えばピカソの絵を「デッサン力がない」という理由で低く評価することに意味がないことからも分かるように、評価の絶対的な基準ではない。ましてや、「表現力」「芸術性」といったことに関しては、各人が固有の基準をもっていて、どれがより適切な基準なのか判然としない。だから、選考委員が全員一致で選んだ受賞作であっても、それを優れているとは思えない人間が出てくるのは当然だ。
 その作品が賞を取ったということと、その芸術的な価値の間には、ある一定以上の相関関係はない。その証拠に、受賞を逃した作品が別の形で評価をもらったり、その時は見向きもされなかった作品が、ずっと後の時代になって高い評価を受けたりすることは、決して珍しいことではないのである。



 何かの賞の受賞作であるという理由だけでその作品を「面白い」「優れている」と思うことは意味がない。逆に、選ばれない作品が全てつまらない、劣ったものであるというわけでもない。それはあくまでも判断の基準の一つである。重要なのは、その作品を享受する僕達一人一人が、自分自身の判断基準を持てるかどうか、そしてそれを信じられるかどうかだ。
 そして同時に、自分と違う基準を排除するのではなく、何故そういう基準になるのかについてお互いに意見を交換し合うことも大切だ。そのことによって「芸術性」という目に見えないものを捉える「目」をいっそう確かなものにすることができるのである。



 オリンピックにしろ各種の芸術に与えられる賞にしろ、パフォーマンスや完成した作品という目の前に厳然と存在するものから、目に見えないものを抽出してそれに「順位」をつけるという、本来到底不可能な作業を強いられるのは、選手(芸術家)、審判(選考者)どちらにとっても酷なことだと僕は思う。フィギュアは本来はエキシビションだけでいいのだろうし、小説家はあくまでも自分の表現欲に忠実に作品を紡ぎ出せばいいのだ。
 けれども、何か目標がないと頑張りきれないというのも人間の悲しい性である。本来は競ったりできないことを競うことで、そのジャンルのいろいろな意味での水準を向上させる。そのことで人間は能力を高め、さらに新たな可能性に挑戦してきたのだ。
 そのことは分かりつつも、何かやるせない気持ちになってしまうのは、僕があらゆる「競争」に対して違和感を持ち、またあらゆる「競争」からはじき出されてしまったからだろうか。
 もっとも、僕は自分の作品が評価されなかった場合、「好みの問題だから」と思うことで自分を慰め、自分の作品のレベルが低いことのカムフラージュにちゃっかりこの論理を利用していたりしているのである。


2002年02月11日(月) 悪意の姿

 「あいのり」とか「学校へ行こう」とか、所謂「素人」参加のドキュメント型バラエティ番組が流行のようだ。これは「電波少年」のお笑い系芸能人シリーズあたりがルーツだと思う。毎回課される課題(無理難題)や試練に挑む参加者の様子をスタジオで別の芸能人が見て、笑いの種にしたり一緒に胸をキュンとさせたりするというものだ。それをさらに視聴者が見て楽しむというわけである。
 類似の企画が続いているということは、このコンセプトはそこそこ視聴者に受け入れられているのだろう。しかし、僕はこの種の番組を目にする度に、何だか嫌な気分になる。



 この手の番組はRPGに似ていると言えなくもない。様々な登場人物(出演者)がひとつひとつ難関をクリアしていく感覚がそれである。ただ、ゲームと違うのは、視聴者はプレーヤーのように画面の登場人物達を自分の思い通りに動かすことはできないという点だ。登場人物達はあくまでも自分の意思で動く。これは視聴者が不自由さとじれったさを感じることに繋がる。「あいのり」はこの点を上手く使った企画である。ある程度番組サイドが仕掛ける部分はあるだろうが、基本的には先の展開が読めないのがこれらの番組の特徴だ。
 この「自分達にはどうすることもできない」という視聴者の立場は、別の観点から見ると「無責任に楽しめる」ということである。勿論、全てのテレビ番組は視聴者が「無責任に楽しめる」ように作られているので、それ自体をとやかく言うことはできない。僕が嫌な気分になる原因は、おそらくそれが「素人」=一般の人がある仕掛けの中に放り込まれて右往左往する姿を、同じ一般の人々が見るという構図にある。



 ある仕掛けの中で右往左往する人間を見て観客が楽しむのは、エンターテインメントの基本ではある。映画も演劇も見せ物もこのバリエーションに過ぎない。ただし、従来のそれにはルールがあって、一つはその枠組みがフィクションであること、もう一つは見られる側はそれを生業とする人間(役者・コメディアン等々)であることだ。見る側はそれに対してお金を払っていたのである。芸能人が一般人より低く見られる傾向にあるのは、この図式の延長なのであろう。
 しかし、素人参加のドキュメント型バラエティ番組の場合、このルールが成り立たない。言わずもがなだが、見られる側は見る側と本来は同等の存在、つまり一般人である。この人達は、本来他人に自分の見られたくないような一面までさらけ出さなければならない理由はない。何故なら、それで食べているわけではないからだ。とはいえ、「テレビに出る」ということがある種の価値を持っていると感じている一般に人間が、進んでそうしたいと望むのならば、テレビの制作者側としてはそれを素材に使うというのもありだろう。
 僕に嫌悪感を抱かせるのは、その枠組みが必ずしもフィクションではないことなのである。



 例えば、「あいのり」は車に乗って旅をする何人かの若い男女の中からカップルが生まれるかどうかを追っていく構成だ。ここで「素材」になっているのは恋愛である。彼等はカメラが回っていることを意識してはいるだろうが、それでもかなり「マジ」なモードで好きになったり駆け引きをしたりしているようだ。恋愛は最もデリケートな人間関係であり、その人の人格の全てをかけて行うものである。失敗すれば当然ダメージも大きい。それに対して、本来他人はとやかく言える立場にないものだ。
 しかし、この番組はそういったことをことごとく無視する。彼等の赤裸々な姿をカメラは平気で捕らえ、それに対してスタジオの芸能人がコメントをしさえするのだ。コメントの内容が問題なのではない。それは人の心を弄んで、それをネタに楽しむ無神経きわまりない行為である。勿論、画面には映っていないが、その向こうには同じように視聴者がいて、コメントをしたり突っ込みを入れたりしているのだ。
 出演者達の行動を見て、一緒に切なくなったりするのも良いだろう。けれど、何度もいうがそれはフィクションではないのだ。ドラマの中で登場人物が傷付くのと、見た目には似ているが全く違う次元の出来事なのだ。



 決して傷付くことのない安全な場所から、「無責任」に高みの見物をしながら突っ込みを入れる。スタジオでの芸能人達の役割は、そうした視聴者の視点を代表している。彼等はまるで、動物園の檻の中をいくらかの愛情と憐憫と蔑みと好奇心の入り交じった顔でのぞき込む人間だ。あるいは、実験動物を観察する研究者といってもいいかも知れない。いずれの場合も、見る側は見られる側よりも優位な立場に立つ。見られる側はどうすることもできない。さながらいじめっ子といじめられっ子の関係のようだ。この関係の非対称性が、何とも言えない嫌悪感を僕に抱かせるのである。
 そういえば、「あいのり」の正式なタイトルは、「恋愛観察バラエティ あいのり」であった。
 同じことは、受験と恋愛をネタにしている「学校へ行こう」にも言えるだろう。



 誰も自分の人生や恋愛などの心の問題を、不特定多数の人間に見られたり、自分から見えない数え切れない場所で夥しい人達に突っ込みを入れられたりする謂われはない。純粋にドキュメンタリーとして描かれるのと、バラエティとして扱われるのとでは、本質的に違うと思う。バラエティにあるのは、どこか「見下した」視線であり、関係の非対称性である。
 そして、人間は誰しも、こうした関係で優位な立場に立ってみたいと思うものだ。だからこそ芸能情報があるし、もっといえばマスメディアの存在そのものがそれに支えられているのである。それは紛れもない事実だが、もう少しそれを恥ずかしそうに、または申し訳なさそうにやってもいいのではないか。そんなことを考える前に、視聴率を取れる企画を考えるのが先決だというのが、あの業界の思想であろう。
 けれども、メディアだけを責めるわけには行かない。インターネットと同じように、こうしたメディアのあり方そのものが、僕達の「欲望」や「悪意」が具現化したものなのだから。


2002年02月10日(日) 素敵な悪戯

 今話題の(?)映画「アメリ」を見に行った。昨年の冬に公開されたのだが、公開当初単館上映だったので大して混みはしないだろうと高をくくって行ってみたら、まるで「踊る大走査線」かと思うようなとんでもない行列が映画館を取り巻いていて、尻尾を巻いて帰ってきたものだった。
 暫くして上映する映画館も増え、もう大丈夫だろうかと恐る恐る行ってみた。週明けの平日の夜だったにもかかわらず、ほぼ満席。メディアが取り上げたこともあり、やっぱり今でも人気があるらしい。



 僕はそんなに映画を頻繁には見ないので的確な評論はできない。しかし、そんな僕が見ても相当面白い映画だった。監督のジャン=ピエール・ジュネはもともと暗い作風で知られていて、その彼がどうしてこんな一見ハートウォーミングな映画を?というあたりから映画通の人達は面白がるのだろう。
 見ていない人にはよく分からないかもしれないが、とにかく登場人物の造形と描写が面白い。デフォルメされてはいるが、それぞれの人物やエピソードにいちいちエスプリが利いている。もし同じことを日本映画でやったら、悪意と趣味の悪さが目立ってしまうことだろう。
 これはおそらく、フランスという国が育んできた文化と芸術の伝統からきているものだろうと思う。モーパッサンやカフカを読んだときも、僕は同じことを感じた。笑いや物語自体に批評性が感じられるのだ。この批評性が、戯画化されていても人物が薄っぺらくなるのを防ぐ効果を与えているのだろう。



 しかもこの人物たちが、みんな一癖も二癖もあるくせ者揃い。内向的で自分の世界に閉じこもる父親に育てられ、映画館に行くと映画よりも観客を観察し、手の込んだ悪戯が好きな主人公・アメリをはじめ、彼女が一目惚れするニノはAVショップの倅で、趣味はスピード写真の余りとして機械の側に捨てられた写真を集めてスクラップすることといった具合だ。
 メインのストーリーは、この二人の出会いから結ばれるまでを描くというものだが、その過程でアメリがニノに仕掛ける悪戯も面白い。しかし、それ以上に、アメリの悪戯の顛末に関わって描かれるサイドストーリーがどれも面白くできていて、それぞれに楽しめる。曲の強い人物造形がここでも生きるというわけだ。


 アメリは内向的な女性で、自分が世界としっくりいっていないという感覚を常に抱いて生きてきた。しかし、彼女は「悪戯」を通して常に世界に対してちょっかいを出していたのである。そのことが、彼女の悪戯の仕掛けの中に入った人間達に影響を与えていくことになる。つまり、彼女は彼女なりに世界に参加しようとしていたのだ。
 「悪戯」とは、いわば当たり前の世界をちょっとずらしてみる行為である。それによって生じた隙間こそ、アメリと世界の接点となりうる場所だったのだ。その微かに開いた隙間に、ニノはぴったりフィットした人間だったのだ。
 そして、ニノと結ばれることで、彼女は本当の意味で世界に直接触れ、二人は「悪戯心」を持ったまま世界に参加することになるというのがこの映画の結末である。
 精神科医の香山リカ氏が「これを見た内向的な人の多くが『内気で何が悪いの?』と居直る‘アメリ化’が起きるかもしれない」と半ば揶揄を込めて批評していたが、それは些か意地悪すぎる見方だろう。少なくともアメリは、一方的で遠回りな手段とはいえ、世界に働きかけをしていたのであり、違和感を持ちながらも世界を観察している。ただただ自分の殻に閉じこもっているのとは違うのだ。そして僕は、こういう‘内気’の描かれ方にも、フランスの文化と風土を感じてしまう。



 映像の色調はシックな中にも鮮やかな色遣いで、登場人物達の部屋に一見雑然と置かれた小物類といい、町並みといい、全体的にお洒落な印象である。様々な映像的な手法と併せて「映像で語る」ことについてもいろいろ考えさせられた。



 偏執狂で有名なジュネ監督は、この作品に200もの様々なアイディアを注ぎ込んだそうだ。最初に見るときはどうしてもストーリーを追うのに精一杯になってしまいがちで、多分見逃していることも多いだろう。DVDが出たら是非もう一度見て、ジュネ監督の仕掛けをとくと体験したいものである。
 きっとこの映画自体が、ジュネ監督が世界にちょっかいを出し、ずらして見せた素敵な「悪戯」だったのだと僕には思える。


2002年02月03日(日) 女の武器

 外務省のNGO参加拒否問題を巡るごたごたの最中、田中真紀子外務大臣が記者団に見せた涙について、小泉首相がこれまた記者団に向かって「涙は女の最大の武器だからね」とコメントしたことが話題になった。これは国会の審議でも取り上げられ、小泉内閣の女性閣僚の愚にもつかない答弁の後に、小泉首相は「だから言ったでしょう。事実なんだから」と上機嫌で答弁していたのがテレビで放映された。
 これまで女性の高い支持を誇ってきた首相だが、この一言はどうやら世の多くの女性の顰蹙を買ったらしい。まあ、当然事だろう。今時、こんな事を公の場で口にする男は軽蔑される。



 そもそも、この言葉を口にする時(今回の首相もそうだが)、大抵の場合その男の心にあるのは「狡い手を使いやがったな」という苦々しい思いである。「女は泣けばいいと思っている」というのも同じ意味だ。「涙」という感情に訴える手段を使って、自分に有利なように事を運ぼうとする、また弱かった立場を逆転させる行為であり、そういう「武器」を持たない男としてはフェアではない、というわけだ。
 それならば、何故女性は「武器」を使う必要があるのだろうか。あるいは、「武器」を使っていると思われてしまうのだろうか。それは、この言葉を使う者が無意識のうちに男性優位の社会システムの思想に冒されているからである。



 社会的な場面において、普通「武器」を使うのは女性だ。そしてその「武器」は、涙の他に、「笑顔」「若さ」「色気」等がある。またもっと露骨に「胸」や「足」、「体」だったりする場合もある。しかし、男は殆どの場合「マッチョ」「男らしさ」「筋肉」「股間」などを武器に使ったりしない。勿論、女性を口説く時にはこれらを使用する場合もあろう。だがそれはあくまで私的な欲求を成就させるためだ。女性だけが公的・社会的な場合でもこうした「武器」を使用する(と思われている)。
 その理由は、言わずもがなのことであるが、この男性優位の社会システムにおいて、女性が常に「弱者」の立場に置かれていた(いる)からである。女性は女性だというだけで、最終的な意思決定から外されたり、ある一定以上の地位に昇れなかったりする。今ではそんな状況も改善されつつあるが、まだまだその傾向は強い。そこで、女性が自分の立場を強くしたり自分の意思や意見を採り入れてもらおうと思えば、「公的」なシステムを転倒させるための正攻法ではない手段を使う必要があった。そこで「武器」が登場する。
 女性の「武器」とされるものは、その殆どが「理性」や「知性」という人工的なシステムではなく、「感性」や「欲望」といった本能的な部分を刺激するものばかりだ。男性優位のシステムはもともとこうした部分に根差していないから、それを使われると弱いというわけだ。当然、男性優位のシステムに男性の本能的な部分をぶつけても何の効果もない。だから「武器」が使えるのは女性だけで、男はそれを見て「狡い手」だと思うのだ。もし世の中が女性優位の社会だったら、これがそっくり逆転しているだけの話である。



 しかし、こうした正攻法ではない「武器」を持っているということ(また持っていると見なされていること)は、裏を返せば女性が常に「弱者」であることを固定化することである。男性優位=「理性」「知性」中心のシステムという図式は、男性こそが知的に優れ、理性的であるという思想に他ならない。このことは、純粋に「知性」や能力で勝負しようとする女性に対して男は「女性の武器」を使用しているとは思わないことにも現れている。そして、勿論この思想に根拠はない。長い人類の歴史の中で、女性の能力を封じ込めようと企んだ男達の支配する多くの社会で、長い時間をかけて捏造されてきた「性差」という信仰である。
 そして、この信仰も、それが作りだしたシステムも、「女の武器」などではびくともせず、逆にその補強に寄与することを、男達は見抜いているのだ。「女の武器」と口にする時、男達は自分達にその種の「武器」がないことを苦々しく思う一方で、相変わらず女性に対して優位に立っている自分達を確認して安心するのだ。そして、それを受け止められる余裕を持っている自分に男としての度量を感じさえするのである。



 けれど、時代は流れて、人々の意識も少しずつ変わってきた。本当に僅かな変化ではあるが、長い時間をかけるうちに、元の状態とはだいぶ違ってきている。「涙は女の武器」という言葉に違和感を覚えたり、侮辱されたと思った人は男女を問わず結構多い。実際に「武器」として涙を使おうとする女性はもうあまりいないだろう。男性優位のシステムの虚構性と、それを維持することの無意味さに、多くの人々はとっくに気付いている。その有効性を疑っていないのは、もはや永田町と霞ヶ関の住人くらいである。



 小泉首相は政治を国民の方へ近付ける感性を持つ政治家(永田町の「変人」)として人気を集めた。しかし、メディアの前であまりにも古い感覚のあの発言をして、それを国会で駄目押しまでしたら、それが国民にどう受け取られるかが分からなかったのだろうか。もしそうだとしたら、それだけで政治家としてもはや彼は終わっていると言わざるを得ないだろう。
 男性優位のシステムを誇示することは、既に男達にとって「武器」ではなく、「諸刃の剣」になっているのである。


2002年02月02日(土) ナンセンス!

 アフガニスタン復興支援会議が東京で行われ、一応成功裏に終わったことになっている。それに関連して、ここ数週間マスメディアを賑わしていたのが例のNGO参加拒否問題である。



 これは、復興支援会議と同時に日本政府主催のNGOの会議が開かれたわけだが、アフガン支援で大きな役割を果たしていた日本のあるNGO団体が、外務省から会議への出席を拒否されたという問題だ。その理由は、件のNGO団体の代表者である大西氏が新聞のインタビューに対して行った「お上のいうことはあまり信用しない」という趣旨の発言に対して、自民党の鈴木宗男衆議院議院運営委員長が怒り、それに対して大西氏が謝罪の電話を入れなかったことだと報道されている。これは大西氏本人が記者会見でも語っている。
 結局、この件が報道された夜に外務省は出席を認め、翌日(会議の2日目にして最終日)の会議にこの団体は参加することができた。しかし、勿論このことは各国のNGO団体の知るところとなり、日本政府の姿勢に多くの疑問が呈されたのである。
 さらにその後、この件について「鈴木氏の関与があった」と国会で答弁した田中外務大臣と、「その事実はない」とする鈴木氏と外務官僚との間で殆ど痴話喧嘩のような対立があり、ワイドショー等が面白可笑しく取り上げて広く国民の知るところとなったのであった。
 そしてついにこの問題を巡って国会の審議が止まるという事態に発展し、田中大臣の涙が話題を呼び、結局当事者が3人とも辞職するという結末となった。



 永田町界隈ではこの問題は決着したという雰囲気が漂っている。メディアもこの問題を取り上げなくなった。しかし、事の本質は言ったか言わなかったかという問題ではないだろう。NGO団体の代表がわざわざ嘘の内容の会見をする必要性は乏しく、事実関係を偽っているのは鈴木氏と、彼と連んで‘真紀子外し’を謀った外務省の高級官僚達であると断定していいと思う。そして今、主に批判に曝されているのは外務官僚達だ。それはある意味で当然である。彼等の判断は明らかに間違っていたのだから。
 けれども、僕は事の発端となった鈴木氏の行動こそ、最も問題だと思っている。



 一体何故鈴木氏はそんな行動を取ったのだろうか。もし報道されているように彼が大西氏の発言に対して怒ったからなのだとしたら、僕は鈴木氏の感性を疑う。実際鈴木氏はこの問題が報じられた直後のテレビのインタビューで、「国に対して批判的な人が、何故国が主催の会議に出席したがるのか聞いてくれ」と例の甲高い大声で語っていた。
 本当に情けない話なのだが、国会議員を何年も務め、曲がりなりにも‘有力議員’に数えられる(僕自身は全くそうだとは思わないが)程の人物が、NGOの何たるかを知らないらしいのだ。言うまでもなく、NGOとは政府から独立し、独自の判断で活動できる団体である。政府の外交方針や国交の有無に縛られないため、人道的見地に立って国よりも自在に、きめ細かに、現地の情勢に即した迅速な対応が取れるというわけである。今回のアフガン支援にしても、もともとタリバン政権と外交関係がなかった日本政府は、せいぜい金を出す約束くらいしかできないが、日本のいくつものNGO団体は、この会議のずっと以前から現地で援助活動を続けていたのだ。いわば、国(外務省)はこの件に関してはNGOに比べて「役立たず」の状態が続いていたわけである。
 今回国際会議が東京で開かれたのも、こうしたNGO団体の地道な活動によって、結果的に日本が当事国をはじめ国際的な信頼を勝ち得ていたからなのであって、決してアメリカに味方をして自衛隊を派遣したからではないのだ。
 そして、いざ日本としてアフガンを支援しようとする場合、国はこうしたNGOの協力を得なければ実際には何もできないのである。



 かつて外務政務次官を務めたという鈴木氏がこうした事情を本当に理解していたならば、NGOに対してとても今回のように傲慢な態度を取ることはできなかっただろう。彼は全くの勘違いをしているのだ。その根源ははおそらく、国会議員という地位に対する勘違いから来ている。
 当たり前すぎて説明するのも馬鹿馬鹿しいが、国会議員とは国民の付託を受けて国政を行うのが仕事である。すなわち、国民は自分達に成り代わって国を運営する仕事を任せるために彼を選んで、国会に送り込んでいるのである。ところが、国民に選ばれたということから、いつの間にか彼は自分が国民の「上」に立っていると思い込んでしまったらしいのだ。そして、政権政党内である地位を得た自分が仕切って国を動かし、国民は黙ってそれに従っうのが当然という誤った認識を持っているようなのである。彼が大西氏に対して「税金を集めてきたのは俺だ」と発言したという事実は、このことを雄弁に物語っている。
 そもそも現在、少なくとも公的には外務省とは何の関係もない彼が、外務官僚を電話で怒鳴りつけて、会議の参加者を不参加にさせるような権限がどこにあるというのだろうか。役人や、それより下(とおそらく彼は思っているだろう)の一般国民は自分に従って当然だという感覚がなければできない、非常識きわまりない振る舞いではないか。



 ここには、先日この「思考過多の記録」で書いた、大江氏の講演辞退問題と通底する問題が見え隠れする。「国」の方針や思想は常に正しく、それに異を唱える者は「異端」であり、許されないという感覚だ。そして、自分達こそが「国」を動かしているという奢りがそこに加わる。この考え方に立てば、国民やNGOなどという「民間」の言うことになど耳を傾ける必要はないことになる。国を動かす自分に「謝れ」と言っても謝らないなど言語道断というわけだろう。こういう感覚の人間が、議員運営委員長という議会のルールを決める責任者のポストに就いていたというのは、もはやギャグとしか言いようがない。



 そして僕は、彼を選んだ有権者の責任もまた重いと思っている。これまでの彼の言動を聞いていると、地元に利益を還元してくれるからという理由ではなく、本当に自分達の代表として民主的な議会に送り出すのに相応しい人物なのかどうかをきちんと見極めて、有権者が彼を選んだとは思いにくいからだ。
 この点も大江氏の時に指摘した、政治教育の欠如という問題とつながっている。この国の病理は深いと言わざるを得ない。



 今回の件をこれで終わらせたいと政府与党は思っているようだ。自民党橋本派の偉い人の話を聞いていると、はなからこんなことは大した問題ではないと思っていたようなのである。そして、田中真紀子を追い出せたことを子供のように喜んでいる。しかし、問題の根本に関する論議を曖昧なままにしておけば、再び同じ事が起こりかねない。おそらく外務官僚も鈴木氏も反省などしていないだろう。最も日本的だが、最も悪いやり方である。
 こんな国が国際貢献を云々するなど、ちゃんちゃらおかしい。そして、こんな国を愛したり、日本人であることに誇りを持ったりすることなど、僕にはとても出来ない。


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