思考過多の記録
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2001年10月28日(日) 人は変わる。そして、変わらない。

 僕より先に幸せを手にした後輩の結婚式の2次会に出席した。そこにはその後輩と僕が15年前に初めて出会った母校の演劇部の卒業生数人も来ていた。彼等が現役で芝居を作っていた頃、大学生になっていた僕は卒業生として部活に顔を出し、彼等と一緒に時間を過ごしていた。一度だけ彼等のために脚本を書き下ろしたが、特に指導らしい指導をした覚えはなく、ただただ彼等の成長を見守るだけの存在だった。因みに、部活のために書いたその脚本が、僕の処女作だった。
 出席していた後輩達は、ちょうど僕のその脚本を上演した世代で、その後も僕が自分で脚本を上演しようとした時にいろいろな形で協力してもらった、僕にとっては最も繋がりの深い、そして忘れ難い人達だった。当時の話や今現在何をしているのかをお互いに報告し合ったりしていると、過去と現在が交錯する不思議な感覚に囚われた。それはしかし、僕にとっては幸福な時間だった。
 名字が変わり、当時と比べて当然色っぽくなったり大人の貫禄が出たりしているけれど、ちょっとした仕草や発言に高校生当時の面影を誰もが残してた。演劇から抜けられずに劇団四季の営業をやっている人、仕事では全く演劇とは関係ないことをしていても、舞台は結構見に行っていたりする人もいる。また、一旦足を洗ったのに、ふとしたきっかけでシナリオライターの道に入り込んでしまった人もいた。彼女がコンクールに応募した時に書いた作品は、彼女の演劇部時代の話だったという(僕も少しだけ登場しているらしい)。その話を聞いた時、僕は少し嬉しかった。
 時が経てば、誰もが変わっていく。年齢とともにその風貌も変わっていくだろうし、内面も当然変わっていく。変わりたいと思いながら変われない人もいれば、変わりたくないと思っていても変わってしまう人もいる。特に高校生時代は思春期のまっただ中であり、誰にとってもちょうど大きな変わり目だ。今から思えば、何故そんな風に考えていたのか分からないということも多いだろう。「あの頃はそうだった。でも今は…」という振り返り方をされ、あの頃と今との違いが強調される。
 けれど、流れゆく時の中で変化していく自分の奥底に、やっぱり変わらない部分をどこかに人は残しているのだ。僕が嬉しかったのは、彼等が確実に変わり、現在を着実に生きていながら、過去を語る時に遠い目をしていなかったことである。それは、自分の変わらない部分と変わっていく部分とを、彼等がともに肯定的にとらえていたからなのだろう。
 そんな彼等と話しているうちに、あの頃、変わっていく彼等を見守っていた僕と現在の僕とでは、自分の中で何が変わり、そして何が変わっていないのかを確認することができたように思う。変わらないことは停滞ではない。しなやかに変わりながら、変わらない何かを持ち続けたいと思う。
 僕達はまたこの中の誰かの結婚式で会おうと約束して別れたのだった。その時僕達はどう変わり、そして変わらないのか。それを確認するのが楽しみである。
 それにしても、こうして顔を合わせるメンバーの中で、僕が未婚の最年長である。この状態も長らく変わっていない。それだけが変わらないことであり続けるのも非常に困ったことである。


2001年10月26日(金) 若くない僕が歩き始めるために

 僕がもっと若い頃、時間というものはいつまでも有り余っているように感じられたものだ。自分がやがて年老いていくことは頭では理解できても、実感としては全く分からなかったのだ。勇気がなくて踏み切れなかったことや、面倒なので後回しにしていたことなどは、いつか実行に移せる日が来ると漠然と思っていた。時間と体力と気力の永続性に対する無根拠な信仰。それが若さの特権の一つである。
 けれど、当然いつかその特権を手放さなければならない時が来る。人生における自分の持ち時間は、かつて使ってしまった時間をあれ程上回っていたのに、いつの間にかそれがトントンになり、やがて完全にその比率は逆転する。その間にやるべきことをやれていれば問題はないのだが、まるで夏休みの宿題のように、「そのうちやればいいだろう」と思っているうちに徐々に積み残しが増えていき、気が付けば残り時間では到底片付かない量にまで膨れあがっている。しかも、いざやり残したことに手をつけようとすると、既に手遅れになっていたり、時機を逸していたりすることも多い。いつか読みたいと思って買った本は山積みになり、おそらく人生の残りを全て使ったとしても読み切れないであろう。一事が万事、その調子である。
 冷静に考えてみると、僕の場合は、若い頃にやろうと思っていたことやここまではやっておきたいと思っていた到達点等は、その殆どが今からクリアしようとしても無理なものばかりだ。いくつかの目標は完全に放棄せざるを得なくなっている。「少年老い易く、学成り難し」という言葉の意味を、僕は今噛みしめている。
 しかし、若い頃に比べると、少しは地に足が着いてきたかな、とも思う。無謀な冒険はあまりできなくなった代わりに、自分に欠けているものは何で、そのためにどうすればいいのかが前よりも分かるようになってきたのだ。ただそれをやることが楽しくて、闇雲にやり続けていた頃、情熱と体力と気力に突き動かされてどこまでも遠くに行けると思いこんでいた。自分の客観的な力量を知らず、そのためにかえって遠回りをしたり、全く違った方向に突き進もうとしたりしたものである。たとえ何も見えていなくても、ただ進んでいればどこかに辿り着けると無条件で信じられた時、確かに僕は幸せだったけれど、全てが終わった後には積み残しと挫折感だけが残った。その状態でもなお先に進もうとすれば、必然的に人は「思考過多」になる。無意識のうちにやっていたことについて思考し、それを深め、分析する。そして先に進むための方法と、その方向性を考えるのだ。肉体的な体力の減退を思考の「体力」で補うことによって、若い頃とは違った挑戦ができるようになるのだ。
 残された命が有限である以上、それをいかに有効に使うかに知恵を絞る必要がある。若い頃には思い至ることができなかったその事実が、ある切実さをもって僕に迫る。僕は焦燥感に苛まれる。だが、その事実こそが、挫折と絶望を乗り越えて進む力を僕に与えてくれるのだ。
 僕より若い誰かが幸せを手に入れ、僕より若い人達が僕がやろうとしてできなかったことよりさらに凄いことを成し遂げ、そこから先へ進もうとしている。僕は立ち止まり、蹲っているようにすら見えるかもしれない。それを後退と見る人もいるだろう。若い頃の僕からの心変わりを詰る人もいるだろう。「それ見たことか」と鼻で嗤う人もいるかもしれない。
 けれど僕は進もうとしている。今いる場所より確実に先に行くために、今僕は立ち止まって世界と自分を見つめ直しているのだ。

 僕は彼等から後れを取っているだろう。やはりこの文章はそのことの言い訳に過ぎないのだろうか?


2001年10月23日(火) 「情報」という煙幕

 海の向こうで戦争が始まってから2週間あまりが経過した。アメリカ軍のタリバンに対する攻撃は殆ど毎日のように行われている。アメリカのパシリを自ら志願して行うための、テロ対策特別措置法という名の自衛隊海外派兵法が衆議院で成立し、日本ではこの一件はある種の山場を越えたと思われている。最近ではトップニュースからも外れることが結構ある。空爆は毎日の日課のようになった。初日にはあんなに衝撃的だったことも、毎日繰り返されるうちにだんだん慣れてきて、まるで普通の出来事のような感覚になってくる。日本のメディア、特にNHKがアメリカ側から見た戦争を伝え続けていることも大きい。まるでアメリカという正義の味方がタリバンという悪人をやっつける海の向こうの戦争ゲームを、僕達は安全な場所から見物しているという感じなのだ。首都に落とす爆弾の発射スイッチを、画面を通じて僕達が操作しているかのような錯覚を伴いながら。戦局を伝えるニュースは、さながらビンラディンの逮捕を目的とするゲームの進行状況を、日々ゲーマーに確認させる画面のようだ。
 そんな気分になってくるもう一つの要因は、情報が溢れているように見えて、実は確実といえる情報が殆どないからだ。戦時下の報道規制を敷くアフガニスタンにはメディアは殆ど残っておらず、現地からの映像やレポートはごく限られている。その上、アメリカも報道管制を敷いているため、自分達に都合のいい情報しか流さない。空母から出撃する戦闘機や、パラシュートで降下する夥しい人数の特殊部隊の映像は公開しても、彼等が実際に何処で何をしているのか、何人の民間人が空爆で命を落としたのか、詳細はまるで分からない。タリバン側も同様である。お互いに自分対置に不利な情報は隠し、有利な情報を宣伝する。したがって、発表の何処までが真実でどこからがプロパガンダのための誇張なのかが判然としない。タリバンの外務大臣は亡命したのか、オマル師は生きているのか、アメリカのヘリの墜落は事故なのか撃墜されたのか、アメリカ軍に死者はいるのか全員無事なのか。「あったのか、なかったのか」という類の単純な事実関係についても、双方の発表は180°違うことは珍しくない。事実は一つの筈なのだが、それが僕達にはさっぱり見えてこないのだ。テレビは決まった時間に情報を流すけれど、それは当事者達によって世界に張られる煙幕を見せられるようなものだ。僕達は殆ど目隠しをされたような状態に置かれているといっていいだろう。
 僕達はよく人伝の情報で物事を判断する。マスメディアが流すものから噂話まで形態は様々だが、忘れてはいけないのは、情報をいくらたくさん集めても、事実そのものを知ることは非常に困難だということだ。人から聞いた話から判断して凄く嫌な奴だと思っていて、いざ会ってみると以外と気が合ってしまったりすることがあるだろう。勿論、その逆のケースもある。見えない部分を補う想像力や、事実と異なった印象を与えようとする発信者の意図的な操作を、情報はどうしても受けやすい。情報は、光のように直進して実物と寸分違わぬ像を結ぶことはあり得ないのである。
 勿論、自分の目で見たことですら、そこには見た人間の切り取り方が反映されるため、厳密な意味で「事実」とは言えない。それが何回も中継され、加工されて伝達される「情報」は、「起こったこと」を知る手がかりにはなり得ても、それで全てを知ったことにはならないだろう。やっかいなのは、それが「全てを知った」という錯覚を受け手に与えることだ。特に情報量が多くなればなる程、この傾向は顕著になる。
 僕達の目の前に広がる「情報」という煙幕の向こう側で一体何が起こっているのか。微かに煙に映る影を頼りに、僕達はそれを推測するしかない。本当のことは結局分からないのかも知れない。だが、せめて煙が晴れた時、僕の目に映るものをしっかりと見据えたいと思う。
 「情報」の向こう側に、僕は目を凝らす。


2001年10月20日(土) 「安全宣言」が示す危険性

 狂牛病の話題が喧しい。つい最近までは海の向こうの話だとこの国の殆どの人間が思っていたのに、実は全くそうではなかったことが発覚した。僕がこの夏訪れたイギリスをはじめとするヨーロッパでは、口蹄疫と併せてかなり前に大問題になった。多くの牛が処分され、ブレア政権は安全宣言を出したが、その影響は今でも残っている。事実、あの8日間の旅行中に、牛肉や羊の肉、豚肉にはついぞお目にかからなかった。かの国々ではそれ程徹底した対策が施されているのだった。
 日本ではついこの間国内最初の発症が確認されるまでは、「日本は大丈夫」との前提で何の対策も講じられていなかったのだ。原因といわれている肉骨粉が使用されていなかったというのならまだ話はわかる。だが、日本でもかなり前からそれは使用されていたという。であるならば、当然発症する確率はゼロではない。「日本は大丈夫」というのは何の根拠もない思い込みだったわけだ。その思い込みに従って「国内産の牛に対しては、狂牛病対策は特別に必要なし」という「対策」がとられ、その結果国内の牛から狂牛病が発症した。ということは、それ以前に出荷され、僕たちの口に入ってしまった牛肉は本当に安全だったのかという疑問が当然出てくる。これに対する国の納得のいく説明は、今もってされていない。
 国が急ぎ、そして力を入れていることは、いかに消費者の牛肉に対する不安を取り除くかということだ。一刻も早く消費者が安心して牛肉を買えるようにしたいという一心で、大慌てで検査態勢を作った。ただ、あくまでも不安を取り除くことが目的なため、検査結果の公表は予備検査の段階、つまり疑わしいものの有無の公表はせず、詳しい検査で結果が確定したものを公表する方針だそうである。こうした動きを見ていると、農水省や厚生省、そして政治家達が誰のために働いているのかが如実に分かる。薬害エイズの時の厚生省もそうだった。たとえ国民の健康がどうなろうと、生産者や関連産業に打撃を与えることを回避する。それが彼らの至上命題なのだ。
 狂牛病がヨーロッパで猛威をふるったのは数年前だ。しかし、その危険性はかなり前から指摘されていて、フランスなどでは10年くらい前からイギリスからの牛肉や飼料の輸入の禁止に踏み切っている。遅蒔きながらイギリスが狂牛病の人間への感染の危険性について発表した時からも既に5年が経過した。政府や政治家はその間「日本は大丈夫」「国産は安全」と言い続けいていただけだった。国内初の感染が確認された直後にも、自分の選挙区の生産者の利益を守ることに汲々とする国会議員が集まって、テレビカメラの前で焼き肉を食べるという最低最悪のパフォーマンスを嬉々として行う体たらくだ。
 国民がそんな姿を見て本当に安心すると思っているのだろうか。もし本気でそう思っているのなら、彼らは政治家としての資質を疑われても仕方がないと僕は思う。ヨーロッパでその危険性が叫ばれた時点で、もし日本で発生したらどういう対策をとるべきなのか、そのためにはどんな準備が必要なのかといった問題を具体的に検討し、それを実行する。また生産者や消費者に注意を喚起し、肉骨粉などは生産の現場から排除していく。そうした手を打つのが本来の彼らの仕事ではないのか。こういうことに「絶対」ということはあり得ないのだから、もし起きてしまった場合にその影響を最小限にくい止めるための方策を事前に立てておくことが、本当に国民の安全を守るための責任ある対処方法というべきだろう。
 国民が不安を持つと困るから、何も知らせず、何も手を打たず、「我が国は安全」と言い張るというのは、原子力行政などにも見られるこの国の為政者達の常套手段だ。「国民の健康と安全を守る」のではなく、「国民に健康で安全だと信じ込ませる」やり方である。国民の目と耳、ついでに口を塞いで彼らは国の政策を決定してきた。それで社会に無用の混乱が起こらなければそれでよしとしてきた。だから、案の定問題が起きると、対策は後手後手に回る。そして、「その時点では危険性は分からなかった」と責任を回避する。こんな国が「安全」であるわけがない。
 18日から牛肉の一斉検査が始まり、そのことを理由に政府は早々と「安全宣言」を出した。これは、結局彼らの体質が変わっていないということを意味する。
 病に冒されて脳細胞に異常を来し、足下がふらついているのは牛ではなく、この国そのものなのかも知れない。そしてまた、政府が「安全」だと言ったらそれを鵜呑みにして、そのうちにこの大騒ぎを忘れてしまう僕達国民もまた、同じ病に冒されているのだとは思いたくない。


2001年10月17日(水) 見えない「細菌」の増殖

 アメリカで炭疽菌という目に見えない細菌の恐怖が広がっている。この事件があって初めて僕はこの菌の存在を知ったのだが、元々は家畜の感染症を引き起こす菌として知られていたという。肺から吸い込んだ場合、何と致死率は100パーセント。それも、24時間以内だという。何とも恐ろしい菌の割には培養は簡単だそうだ。例の同時多発テロとの関連は今のところ不明だが、この菌がメディアを中心に送りつけられているというのが何とも象徴的である。
 そもそも細菌は目に見えない。それが空気や皮膚接触等あらゆる手段で人から人へ(もしくは動物から人へ)感染していく。見えないものが世の中に広がり、知らないうちに自分の体の中に侵入して増殖していく。そして、ついには正常な細胞を食い尽くす。「見えない」ということは不安や恐怖心を駆り立てる。それが社会全体に瞬く間に広がる。するとそこに、パニックやヒステリーのような状態が生まれるのだ。人々は常にどこか正気を失った状態で日々を送らなければならない。もし何かのきっかけでそれを刺激するような出来事が起こると、パニックになった人々はあらぬ方向に暴走する。そして、新たな悲劇が起こる。
 炭疽菌が郵便物と一緒に送りつけられ、感染者や死者が出たという情報は、全世界を巻き込んだ「戦時下」の空気の中では、「サイバーテロ」が我々の社会を攻撃してきたというイメージを人々に与える。そして、一度そうしたイメージが出来上がると、そのイメージは限りなく増殖し、当のメディアや口コミによって拡大再生産され、世界の隅々にまで浸透する。そして僕達の思考や感覚を支配する。まさにそれは細菌が感染しながら広がっていくイメージそのものだ。世界中の殆どの人間が、こうした状況から自由にはなれない。
 こうした犯罪に付き物の悪戯や便乗犯、愉快犯も既に登場している。本当の犯罪者達の犯行とない交ぜになって、ますます不安と恐怖は膨らんでゆく。犯行声明が出ていない以上、本物の犯人と模倣犯を区別する方法はない。どんな些細な悪戯にも、みんなが右往左往しなければならない状況が生まれているのだ。
 もしこれがあのテロの延長上にあるもの、もしくは報復に対する報復だとしたら、犯人達の動機はやはり「恨み」や「憎悪」である。そして、模倣犯や愉快犯達の動機は、単なる悪戯心というだけではく、社会が不安を抱き、慌てる様を見てストレスを発散するという、ある種の「悪意」がベースにあるものと推測される。どちらも、豊かさと平和を謳歌する社会に居場所を見いだせず、または意に反してそこから弾き出されてしまい、底辺(もしくは周縁)に追いやられている人々だ。いってみれば、社会に中心にいる人々からは「見えない」存在になっている人々である。
 人は相手から見えない状態(「匿名性」を帯びた状態)の時、それまで押し殺していた「悪意」を剥き出しにする。インターネットがそのいい例だといわれる。普段の顔と顔を付き合わせたコミュニケーションではおよそ使うことができない誹謗中傷の言葉が、この空間では平気で飛び交う。そこで解放された「悪意」と「憎悪」はまるで細菌のように増殖し、新たな「悪意」と「憎悪」を生み出していくのだ。
 たとえビンラディンを捕らえ、炭疽菌を送りつけた犯人が特定され、あの集団を壊滅させたところで、この増殖が止まることはないだろう。何故なら、「悪意」と「憎悪」を培養するのに最適の培地は、僕達人間の心の中にいつでも存在しているからである。


2001年10月14日(日) ひとり‘プロジェクトX’

 1年4ヶ月あまり僕の仕事を手伝ってくれていたアシスタントの若い男性が、再就職のために職場を去ってから1週間がたった。山梨出身の彼は教員を目指していたものの、ご他聞に漏れず狭き門の採用試験に合格することができなかった。大学を卒業後、捲土重来を期すため取り敢えず東京のとある量販店に社員として勤務するも、あまりの激務のため採用試験の勉強もままならない。それでも初志貫徹を目指す彼は、そこを退職して僕の働く会社にアシスタントとして入ったというわけだ。
 社員ではないので基本的に残業はないし、時間はある程度自由になる。とはいえ、フルタイムの勤務をしながら勉強を続けるのはなかなか大変だったろう。昼休みに自分の席で1人勉強をする彼の姿をよく見かけたものだ。それでも彼は、僕達に大変そうな顔を見せたことはなかった。彼は生真面目で穏やかな性格だったが、仕事は決して要領よくこなす方ではなかった。それは、おそらく彼の生き方の反映だったのだろう。しかし、何としても教員になりたいという思いだけは強かったようだ。北から南まで、いろいろな県の教員採用試験を受けていた。勿論、そのための予備校にも通っていた。それでも僕の職場は仕事の繁忙期を迎えていたため、彼は最低限の休みしか取らないようにしていたようである。
 そうして迎えた彼にとって2度目の採用試験でも、残念ながら彼はいい結果を出せなかった。ただ、「教壇に立つ」という目標は達成することができた。埼玉県にある予備校の専任講師として採用されたのだ。最後の日、課員全員で少しずつお金を出し合って、花束と寄せ書きとささやかなプレゼントを渡した。彼は驚いたようだったが、何と彼も僕達にプレゼントを用意していたのだった。これには僕達の方が驚く番だった。彼が僕にくれた‘餞別’はマグカップだった。そこには英語で「私はいつか、幸せな人々が登場するハッピーエンドの映画を見たいだけだ」と書かれていた。こうして彼は僕の職場を去った。
 アシスタントと社員。仕事を頼み、それをやるというだけの限定的な関係では、彼の本当の姿は決して見えていなかっただろう。その中でも彼の現代の若者には珍しい、純朴といってもいい真っ直ぐな人柄は伝わってきた。何故彼が教職にこだわっていたのかじっくり話す機会はなかったが、確かに教育という仕事に彼はある意味で向いているのかも知れないと思った。同時に、そんな彼が実際の教育現場に入っていったときに、ある種の壁が立ち塞がるであろうことも容易に想像がついた。今の子供はかつての子供ではない。おそらく今年24になる彼の子供時代とも全く違う人種だ。また、学校を取り巻く周囲の状況や、教育に求められているものも様変わりしている。都市部であればある程この傾向は顕著だ。彼のような純粋な人間の教育に対する情熱は、果たしてストレートに受け入れられるのだろうか。そして、現実の中で揉まれるうちに、不器用な生き方しかできない彼は壊れてしまわないか。そんな心配事が頭を過ぎる。
 そんな現状を知って知らずか、彼は夢を捨ててはいない。自分が教える教材を徹夜で猛勉強していたと人伝に聞いた彼は、もう教壇に立っている筈だ。そこから見える世界は、彼にどう映っているのだろうか。そして1年後、彼は再び教員採用試験にチャレンジするだろうか。勿論、たとえそれに合格したとしても、それがハッピーエンドというわけではないことも、僕は知っている。
 この歳になると、何かにつけて理屈をつけなければ動けなくなっているが、彼を見ていると、人を突き動かす「夢」というものについていろいろと考えさせられる。そして、自分が失ってしまったものを思い出し、改めて懐かしさと愛おしさを感じるのだった。


2001年10月12日(金) 未だ恋愛は始まらない

 僕の好きな劇作家・鴻上尚史氏はかつてエッセイや戯曲で「人間には2通りいる。恋愛のルールを守ろうとしても守れない人間と、破ろうとしても破れない人間だ。」と繰り返し書いていた。ある程度の年齢を重ねた今では、その言葉の意味が僕にも何となく分かる気がする。しかし、僕は僕自身の実感を込めてこう言いたい。「人間には2通りいる。恋愛を始めようとしなくても始まってしまう人間と、どんなに始めようとしても始められない人間だ」と。残念ながら僕は後者のタイプである。
 勿論僕も人の子なので、誰かを好きになったこともある。というより、どちらかというと惚れっぽい方だったと思う。しかし、何故かそれは僕の側からの一方的な片思い以上には発展しなかった。最もうまくいったケースで「友達以上、恋人未満」までである。ある程度仲良くなって、それ以上に踏み込もうとすると、相手はそれを察して巧みに身をかわす、というのがお決まりのパターンだった。駄目で元々で自分の気持ちを直接相手に伝えた場合でも、結果は全てのケースで本当に駄目だった。僕にとって、恋愛とは常に(その過程はともかく、結果としては)実りのないものだった。僕はいつもその入り口で躓いていたので、恋愛関係における楽しさやしんどさ、素晴らしさや残酷さ等々を、ついぞ体験する機会を持てなかったのである。
 その意味では、僕にとって、恋愛は始めようとしてもどうしても始められないものだった。今でもそうであり続けている。
 一方その逆のタイプ、「始めようとしなくても始まってしまう」人は僕の身近にもいる。また、その変形のパターンとして「始めようと思えば自然に始められる」というのもある。こうした人達に成功の理由を聞いてみると、当然いろいろな答えが返ってくるのだが、共通しているのは、変に力んだり構えたりしていないことである。彼等の恋愛の始まりの場合、きっかけは実に些細なことだったり、最初はそういうつもりはなかったりする。しかし、どうしたことかうまい具合にどちらかがリードして、またはお互いの暗黙の了解であったかのように、自然に2人は恋愛の扉をくぐるということになっているのだ。僕が何年かかってもどうしてもできないことを、ある人はこの数年の間に何回もやっていたりする。勿論そういう人は、一つ一つの恋愛はある一定の期間以上は継続していないことになるのだが、その都度また新たな恋愛を始めることができるのは、僕にはない能力だ。
 こういう人達と僕との違いは何なのか。外見上のこともあるだろう。しかし、一番の違いは、「恋愛に対して臆病になっていない」ということではないだろうか。自転車の補助輪を外して乗れるようになるまでを思い出して欲しい。倒れることに怯えると、自然と体全体に力が入ってしまう。すると、必然的にバランスを取りにくくなり、結果として本当に倒れやすくなってしまうのだ。恋愛も同じことだろう。誰しも愛する人とは特別な関係を結びたい。しかし、その成功を意識し、また失敗して傷付くことに怯えるあまり、変な力が入ってしまうのだ。その人を大切に思うあまり、その人の前で自然に振る舞えなかったり、特別な存在だとの意識が強すぎるあまり、自然な関係が結べなかったりするのである。当然、相手はそれを敏感に察知する。「友達」としてなら上手く関係が結べていたのに、「恋人」という関係に入ろうとすると妙にぎくしゃくしてしまっていたのは、「恋人」という関係性に怯え、それを上手く結べない自分自身に対しても怯えていたからなのだと思う。
 そして、その怯えの根底にあるのは、恋愛を始める相手とは、人間的に自分と合っている部分がかなりなければならないという思い込みと、しかしこれまで結果的にそういう相手と出会っていない(もしくは、相手がそう思ってくれなかった)という事実がある。相手に期待するものが徐々に大きくなっていたのかも知れない。しかし、関係性は自分1人で構築するものではない。また、関係性が先にあって、そこに対象となる人物を当てはめるものでもない。それを恋愛と呼ぶ者は誰もいないだろう。
 結局僕には、今でも恋愛の始め方が分からない。そして、そういう意識を持っている限り、おそらく一生分からないと思う。恋愛に限らず、僕は器用に人間関係を結べない人間なのだ。おそらくそれは、こうした思考の無限連鎖の中に僕が閉じこめられる傾向にあるからだろう。何も意識せず、失敗を恐れずに自然に関係を結べるようになればよいのだが、これまで受けた様々な傷がトラウマのようになって僕を苦しめる。それに、困ったことに僕はもう若くない。試行錯誤の時間はどんどんなくなってきているのだ。
 あと数年で僕は不惑の年齢を迎える。けれど、未だ僕の恋愛は始まらない。


2001年10月08日(月) 海の向こうで戦争が始まる(4)

 予想されていたことがついに起きてしまった。アメリカとイギリスがアフガニスタンに対する攻撃に踏み切ったのだ。現時点では空爆とミサイル攻撃のみだが、これが数日続いた後、おそらく特殊部隊等の地上軍が本格的に投入されることになるだろう。あくまでも「正義の戦い」を主張するアメリカと、「聖なる戦い」を叫ぶタリバン政権とアルカイダ(ビンラディン)。唯一絶対の神が存在しないことの証左に思える構図だ。
 どれほど美辞麗句を並べたところで、この戦争が4週間前のあの事件に対する報復(仕返し)であることに変わりはない。そしてあの事件それ自体が、宗教の装いを纏ってはいても、その本質が政治的・経済的な抑圧に対するルサンチマンによるものである(事件直後に流されたテレビ演説で、ビンラディンもそれをはっきり認めている)ことを考えれば、あれもまた壮大な復讐であったといっていいだろう。であれば、アメリカとその尻馬に乗ったイギリスをはじめとする先進国が声高に唱える「テロ組織の壊滅」は、一つのプロセスではあり得ても、それ自体が国際社会が目指す究極の目標ではない筈なのだ。
 当然のことであるが、犯罪者は法に基づいて裁かれなければならず、その過程で犯行の全容やその背景にあるもの等の全てが白日の下に曝されなければならないだろう。犯罪者達は罪を償わなければならない(場合によっては、自らの命をもって)。しかし同時に、彼等をテロリズムの遂行者の立場に追い込んだ者達の罪状もまた暴かれる必要がある。あの国の宗教指導者をはじめとする所謂「原理主義者」達が断罪されることになろう。だが、それだけでは不十分だ。‘宗教’や‘民族’を自らの覇権のために利用した全ての政治勢力、そして‘文明’や‘自由’の名において時には彼等を利用し、用済みになれば見捨て、意に添わなくなったら敵視さえしたアメリカをはじめとする超大国。富の偏在を容認し続け、貧困の解決に殆ど関心を払わなかった経済大国。こうした連中こそ、まさに「テロの温床」を育んできた張本人だったのだ。こうした者達に対する裁きもまた、テロリスト達に対するものと同様に行われるべきである。さもなければ、それは軍事的・経済的・政治的強者による一方的な裁きとなり、著しくバランスを欠くことから、判決の正当性が疑われることになる。当然それは事態の根本的な解決にはならない。それどころか、敗者の間に新たなルサンチマンが形成され、必然的に次なるテロを招来することになるのだ。
 いずれにしても、戦争は始まってしまった。やがてタリバンは壊滅し、テロの首謀者は捕らえられるか殺され、新政権が樹立され、仮初めの平和が訪れるだろう。その時期は案外早いのかも知れない。だが、おそらく戦火が去った後も、世界の様々な場所で、人々は好むと好まざるとに関わらず、敵と味方に別れることになるだろう。そうした事態は既に始まっている。実際これまでの過程で、周辺諸国(とりわけ隣国のパキスタン)に政情不安が生まれている。アメリカをはじめとする超大国は、‘平和をもたらすための正義の戦争’によって、あの地域やアラブ世界、ひいては世界全体に新たな火種をばら撒こうとしているのだ。
 果てしない殺し合いの火蓋は切られた。あの事件の犠牲者達は、本当にそれを望んでいたのだろうか。
 死者も、そして神も、残された僕達に何も語ってはくれない。


2001年10月06日(土) 海の向こうで戦争が始まる(3)

 世界を震撼させた同時多発テロ事件から4週間近くが経ち、海のこちら側の僕達の日常は平穏に戻りつつある。事件の起きた週には連日のように特番を組み、長時間にわたってあの惨劇とその関連情報を伝え続けたテレビも、通常の番組が何事もなかったように流れている。新聞のトップ記事もあの事件の呪縛から解放され、世の中には大小様々な事件が日々起こっては忘れ去られていくのだという当たり前のことを想起させてくれている。事件発生当時は僕達の日常会話の主役だったあの事件のことを、今では殆どの人が進んでは取り上げなくなり、また芸能人のゴシップやらファッションやら不景気やらが話題の中心になっている。
 メディアが伝える海の向こう側の国・アメリカの日常も、少なくとも表面上は元に戻ろうとしているかのように見える。いくつかの断片的な情報を総合すると、実際人々は、事件に直接巻き込まれてしまった人々とその関係者を除いて、事件の前までの自分達の生活と思考のリズムを取り戻しているようだ。
 そして、まるで舞台の第1幕が第2幕に進むときのようなごく当たり前の様相で、もう一つの海の向こう側にあるアフガニスタンに対するアメリカの報復攻撃の準備が着々と進行しつつある。海のこちら側の僕達は、いつもの日常会話の話題の間に挟んで、「戦争はいつ始まるのか?」と不安とともに語り、海の向こう側のアメリカでは、人々が高揚しながら「戦争はいつ始まるのか?」と期待を込めて叫んでいる。当然標的となるもう一つの海の向こう側のアフガニスタンでは、タリバン政権もそれと無関係の庶民も、そして国境に押し寄せる難民も、「戦争はいつ始まるのか?」との恐怖に苛まれている。世界は固唾をのんでアメリカの動きを見守っているのだ。
 テロに対して軍事力で報復することが不毛なことは今更繰り返すまでもない。しかし自らが「正義」を体現していると信じて疑わないアメリカは、攻撃に向けてタリバン政権に対する国際的な包囲網を形成しつつある。そして、当然‘同盟国’である日本に対しても、相応の役割を果たすように迫ってきているのだ。今政治家や官僚達は、自衛隊がメリカの意に沿う働きができるようにするための法律を成立させるので右往左往している。それというのも、あの国の偉い人に「旗を見せろ」(=「現地に自衛隊を派遣しろ」)と圧力をかけられたからだ。慌てて派遣の方針を決めたものの、現在の法律では殆ど何も出来ない。それでまた慌てて新しい法律を作ろうとしている。ボスに‘パシリ’を言いつけられて、これで一人前の存在として認められるかも知れないと喜んでいるチンピラのようなもので、何とも滑稽で情けない話である。
 確かに日本はアメリカの同盟国ではあるが、同時にアラブ・イスラム世界の国々とも友好関係を保っている。問題のアフガニスタンに対しても経済的・技術的な援助を行っており、あの国の人々の日本に対する印象は悪くない(かった?)のだ。そういうスタンスにあった日本が、他の国々には出来ないこととして取り得た道があった。それは、外交で存在感を発揮することである。具体的には、血気にはやるアメリカをなだめ、確たる証拠があるなら、容疑者であるテロリストを国際社会が裁けるように、その身柄を平和裡に引き渡してもらえるようにタリバン政権と交渉するから、その間軍事行動は待てと説得する。一方アフガニスタンに特使を派遣し、このまま国際的に孤立するよりも、テロリストの身柄を引き渡した方が得策だ、勿論その身柄はアメリカではなく、国際的に中立な機関で裁いてもらえるように日本としても全力を尽くす用意がある、そしてその場合にはアメリカには報復攻撃をしないように、また敵対する北部同盟には戦闘を停止するように働きかけるからと、タリバンを説得する。こうして日本が間に入り、戦争を望まない国々がそれに賛同すれば、事態の平和的解決という新たな選択肢が生まれる。事件の真相解明を中途半端にしておいて、力でテロリスト集団とそれをかくまう政権を壊滅させようという方法と比べれば、どちらが‘文明社会’としてより適切な解決方法かは誰の目にも明らかだ。もし日本に本気で「外交」をしようという意思と能力があれば、決して不可能ではないシナリオである。
 ところが日本政府(特に外務省)は、長年アメリカのご機嫌を損ねないことを最優先に政策を立案し、行動してきた(たとえそのことで国際的な非難を浴びようとも、である)。だから今回も小泉‘らいおんハート’首相はいち早く「日本として出来ることは何でもする!」という極めて直情的なコメントを発表した。日本が外交で国際社会に貢献する道は、これで決定的に絶たれてしまったのである。そして、その後の対応は先にも書いたとおり殆ど‘パシリ’に終始している。アメリカの‘属国’としての日本の醜態を内外に改めて晒したわけである。政府や与党の人々は自分達が大変な努力をしていると思っているかも知れない。しかし、実際は一番楽で安易な方法を選択したに過ぎず、何も仕事をしていないに等しいといっても過言ではないのだ。
 海の向こうで起きたあの事件は、僕達の国が未だに思考停止状態に陥っていて、そのことに対して全く疑問を持っていないらしいことをはっきりと示した。テロにあうまでもなく、海のこちら側の僕達の国は既に土台から崩れかかっているのである。


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