思考過多の記録
DiaryINDEXpastwill


2001年07月31日(火) 賢い選択

 21世紀になって初めての国政選挙である参議院選挙の大騒ぎが終わった。 結果は僕の予想通り、自民党の大勝利で終わった。何しろあの「純ちゃんフィーバー」っである。「自民党」という名前だけで嫌われていたほんの数ヶ月前がまるで嘘のように、「小泉総理とともに」と候補者が絶叫するだけで浮動票がいくらでも転がり込んでくるわけである。この間の状況を「ワイドショー政治」と揶揄する向きがあり、一方で政治に対する一般の人々の関心を呼び起こした小泉総理の功績を讃える見方があった。僕は、そのどちらの側面もあると思う。ただ、ここに至って露呈されたものは、前にも書いたかもしれないが、日本国民の政治的幼稚化、すなわち有権者としての資質の欠如ともいうべき事態であ
る。
 元来選挙とは、有権者に対して各候補者もしくは政党が、具体的な政策(公約)を掲げて、それを我々有権者が吟味して、最良と思われる政策の候補者や政党を選択するといものだ。ということは、各政党や候補者がきちんとした政策を打ち出していなければ、我々としては選びようがない。また、その候補者や政党には政策を打ち出す能力がないと見なして他を選ぶということになるだろう。我々は、自分達に替わって現在および将来の国の様々な方針や、生活に結びつく諸々の営みに関係する法律や条件整備を行ってくれる人間や政党を選ばなければならない。
 だが、今回の選挙の場合、多くの有権者はそういう観点から投票したとは思えない。何故なら、今回大勝した自民党は何ら具体的な政策を提起していなかったからである。小泉‘らいおんハート’総理が叫んでいたのは単なるキャッチフレーズであり、あれではまともな判断の材料にはならない。どんな‘構造改革’を、どんなスケジュールで行うのか、そのためには何が必要で、どんな影響があり、それに対する対策は何なのか、そういったことを本来は選挙前に有権者に分かりやすく示す義務があの政党にはあったのだ。ところが、彼等のやったことは大まかな項目のみを示し、「具体的は中身は選挙後に話し合って決める」という、殆ど有権者を愚弄しているとしか思えない子供騙しの行為だった。「何かを変える、しかし、‘何か’が何かは選挙後に。乞うご期待!」というのでは、何もいっていないのに等しい。予告編の面白さが必ずしも本編のそれを意味しない。しかし、小泉というキャラクターの力で押し切れば、確実に自民党の本質を隠して変革への「期待」をばらまけるとあの党を牛耳る狸親父達は踏んだのだ。そして、果たせるかな、「小泉さんを支持するから自民党に」という、ちょっと考えればこれ程の短絡はないと思える投票行動に出た有権者が多かったので、あの党は大勝したのだった。そしてよく見れば、郵便局や建設業などの特定の利益団体を代表するような人物がまんまと当選している。それは成熟した有権者なら最初から見抜ける筈のことである。
 何だか分からないけど、何かしてくれそうだから投票する。そういう投票行動を我々有権者はそろそろやめた方がいい。忘れてはいけないのは、有権者は選挙当日に誰かを選べばそれで終わりではないということだ。我々の投票行動の結果は(投票に行かなかったということも含めて)、当然我々自身に帰ってくる。有名人だから、格好いいから、何となくいいから、所属する団体から頼まれたから…、そういう思考停止状態の投票行動は世の中全体にとって必ず悪い影響を及ぼす。今回自民党に投票した有権者全員が何も考えていなかったとはいわない。勿論、野党に投票した人間の中にもこういう人種は存在する。自分がそうでなかったとは決していえない。ただ、何もいっていなかったに等しい政党にこれ程までの票を与えるようなことは、政党や政治家に緊張感の欠如をもたらし、結果的に我々にとっていい政治が行われなくなってしまうことにつながる。
 選択肢を示せない政党も、人気取りに走る政治家も、勿論悪い。しかし、その原因を作っているのは我々有権者だ。有権者としての責任を果たすために(つまりは、よりよい社会に我々が生きられるようになるために)、有権者はもっと賢くなる必要がある。
 最後に高い請求書を突きつけられるのも、また我々なのだ。


2001年07月21日(土) 「ならず者」は誰だ?

 このところ唯一の超大国・アメリカの態度がおかしい。地球温暖化防止のための「京都議定書」からの離脱をほのめかしたかと思えば、CTBT(包括的核実験禁止条約)の枠組みを無視してミサイル防衛構想を推し進めようとする。自国の利益の最優先がみえみえである。クリントン政権の頃は、まだ「世界の警察」たるアメリカが自国の利益をある程度犠牲にしても世界全体のために行動しようという姿勢が見えた。しかし、ブッシュ政権になってからは、まるでどこかの役所の役人か大臣が自分の省庁の既得権益を擁護するのに躍起になっているみたいに、世界全体の中で自国の取り分を出来るだけ多く確保することだけ考えているかのような言動と政策が目立つようになった。
 特に、京都議定書に対する態度は問題である。アメリカは世界一の二酸化炭素の排出国である。つまり、世界で最も地球温暖化の原因を作っている当事者であり、それだけ世界の他の国々に迷惑をかけている存在なのだ。そのことを考えれば、「自国の国民と経済を傷つけるような内容は認められない」などとは口が裂けても言えない筈だ。もしアメリカでなければ、今頃は袋叩きにあっているだろう。
 地球温暖化の問題は全世界に関わることであり、みんなが等しく犠牲を払って取り組むことが必要だ。二酸化炭素の排出量を減らそうと思えば、工業の生産量を減らさなければならないだろうし、そのための設備を作るにはコストもかかる。景気の悪いこの時期に、本当はどの国もやりたくはないだろう。しかし、敢えてそれをやらなければ、それも一刻も早く取り組まなければ、地球の温度は確実に上昇していき、それは海面の上昇や大きな環境の変化を促進させる。それを避けるために各国は知恵を出し合い、少しずつ譲歩し合って、何とか折り合える約束事と目標を決めて、それに向けて努力しようという方向で漸くまとまりつつあるのだ。これはどこか1つの国が頑張れば何とかなるという問題ではなく、本当にみんなで力を合わせなければ目標は達成できない。自国の利益に都合がよい条件にしなければ取り決めから抜けるというアメリカの主張は、エゴイズム(自己チュー)の誹りを免れず、最悪の孤立主義的態度と言わざるを得ない。人類だけではなく、全地球上の全ての生きとし生けるものの未来に対する挑戦であると言っても過言ではないだろう。もしこの議定書が最終的に破棄され、それによって将来大きな問題が起こった時、現在のアメリカ政府の政策決定責任者達は責任が取れるのだろうか。勿論、そうなってからでは全くの手遅れなのである(もう既に手遅れになりつつあるが)。
 彼等は何か勘違いをしているようである。世界一の超大国であるということは、世界のリーダーであるということだ。だから、何でも自分達の思い通りに物事を決め、それを世界の他の国々に呑ませることが出来るし、そうしていいのだと思い込んでいるようだ。だが、そうではない。世界のリーダーとは、世界のあり方や方向性に対して、つまりは全世界の人々の現在と将来に対して責任を持つということなのである。国務長官=外務大臣という、もし他の国ならその傲慢さを非難されてもおかしくはない政府の仕組みを持っているのは、良くも悪くもアメリカ政府のそうした責任感の表れであろう。事実、アメリカの方針のおかげで世界がいい方向に進んだこともあったのだ。そしてその場合、先にも書いたが大抵はアメリカが自国の利益を犠牲にして、世界全体のことを重視した決断を下している(それでも、国益半分理念半分といったところだろうか)。繰り返しになるが、アメリカが世界で唯一の超大国であり、世界のリーダーを自任するのなら、その責任に鑑みて、常に自国の利益を後回しに考えることは義務であるとさえ言えるだろう。
 ミサイル防衛構想の必要性を説いてブッシュ大統領は、「ならず者国家からアメリカ国民を守るためだ」という趣旨の説明をしている。彼がどの国を念頭に置いているのかはよく理解できる。しかし、僕に言わせれば、当のアメリカこそ今や世界最大の「ならず者国家」である。まるで大きな駄々っ子のような態度は滑稽でさえあるが、それがアメリカなだけに笑ってばかりもいられない。第2次世界大戦前夜の頃のような思考回路を持つあの政府に早く理性を取り戻させねば、世界は本当に危険な方向に進んでいくことになりかねない。
 そんなアメリカがどんなに他の国から非難されていようと、常に肩を持つことしか知らず、独自の思想も責任感も皆無である日本外交には、殆ど失笑を禁じ得ない。しかし、それが自分の国だけに笑ってばかりもいられず、情けない気持ちにさせられるのは僕だけだろうか。


2001年07月16日(月) ネットの流儀

 チャットというものをやったことのない僕は、先日ある知り合いと一緒に入った新宿のネットカフェで、その知り合いがやっているチャットを初めて‘見学’した。チャットというと、ブラインドタッチは当たり前、目にもとまらぬ早さでレスを返していかないと会話についていけないというイメージがあったのだが、知り合いが参加しているのは初心者向けと銘打ったチャットルームだったので、それ程のスピードは必要とされてはいなかった。その知り合いなどは仮名入力の片手打ちで通しているくらいである。それでも(当たり前だが)刻々と増えていく発言を読みとってレスを返していくのは、ある程度の慣れが必要であろう。
 そのチャットルームには最初1人だけが上がっていて、僕の知り合いがそこに上がったのだが、そのうちそれを見ていたかのように何人かが次々と上がってきた。最終的には5,6人の会話になったが、ここで僕はあることを発見した。チャットをやっている人には常識かも知れないが、話題が1つではないのである。チャット=会話と解釈していた僕は、1つのテーブルに参加者が座り、何かについて話している場面を想像していた。こういう場合、大抵はそのテーブルにいる全員が1つの話題を共有する。誰かが話題を提供すると、その他の人達がめいめいそれについて意見や感想を言ったりしながら会話が進んでいく。
 しかし、チャットは少し違う。2人が会話しているところにもう1人が上がってきた時、その人は必ずしも前の2人の会話に‘参加’しなくてもいいみたいなのだ。既に上がっていた2人のうちのどちらかが、入ってきた人に対して全く別の話題をふる。するとその2人でその話題についてのやりとりが始まる。しかし、その前の話題はまだ生きていて、なおかつ後から上がった人も先にあった話題についてコメントしたりする。こうなると、1人が複数の相手に対して別々の話題のレスを返す場面が出てくる。参加者が増えれば当然こういうことが次々に起こるというわけだ。やっかなことには、個々人の入力のスピードや回線のスピードの差があって、話題が前後したり、話と話の間に別の人間の別の話が交ざったりして、よく見ていないとどの発言に対してのレスなのか分からなくなってくるのだ。勿論それを防ぐために、誰に対してなのかを発言の最後に書くというルールができているわけである。
 ほぼ1時間、いろいろな人のいろいろな話題が飛び交った後、そのチャットルームからは次々に参加者が落ちていき、僕の知り合いも「じゃあ、あたしも落ちる」みたいなことを書いてあっさりと接続を切ったのだった。その人はそこの仲間の中で暇人を見付けて会うという目的で入ったのだったが、結局その目的は果たせなかった。しかし、時間潰しという意味では、十分に目的を達したことになった。
 一口にチャットといっても場所によっていろいろな流儀があるだろう。今回僕が目撃した場所からチャット一般を論じるのは乱暴かも知れない。だが、少なくとも僕の中でのチャットのイメージは変わった。テーブルは1つなのではなく、いくつかのテーブルで何人かずつのグループが話している。なおかつ、話題は1つではなく、自分のテーブルの話題に参加しながら別のテーブルの話題にも参加できる。テーブルを越えてあっちこっちで様々な会話が飛び交うというイメージだ。僕はこれを見て、前にこの日記に書いた劇作家が自分の作品の方法論について語った言葉を思い出した。その人の舞台も、やはり登場人物がいくつかのグループに分かれ、グループ内だけでなく、グループを越えて別の話題の会話をする。各々の登場人物が多方向に意識を飛ばして会話をするこの状態を、その劇作家は「同時多発会話」と呼んでいた。チャットの場合は相手が見えないので、他の参加者を無視して自分が気に入った相手にだけ延々と話しかけることができる(実際、そういう参加者がいた)。もし、この「同時多発会話」状態を日常の顔を付き合わせた場面でこれだけ続けたら、おそらく神経が疲れてくるだろうし、「人の話を無視した」といって怒り出す人間も出てくるかも知れない。自分の話題が終わったらさっさと退席するという行為も、普通は非常識との誹りを免れないものだ。
 だが、ここは電脳空間である。そこには固有のルールがある。勿論、日常の人間関係の常識がそのまま適用されるべき部分もある。難しいのは、顔が見えないことで、日常レベルでは不可能な筈のルールからの逸脱行為が可能になるということだ。
 とにもかくにも、人間関係の変化を如実に反映しているのがチャットという場所である。それが実際の顔を付き合わせてのコミュニケーションにも影響を与え始め、それがさらにネットの流儀になって拡大再生産される。そういう相乗効果でコミュニケーションのあり方が変化していくのであろう。いろいろ考えさせられた1時間だった。


2001年07月08日(日) 幸せの在庫

 昨日は七夕ということもあり、テレビではお勧めのデートスポットの特集などをやっていた。そういえば、街のカップルの数も心なしかいつもより多いような気がする。もともと夏は薄着になるとともに気分が開放的になる季節なので、カップルの数自体増えるのかも知れない。勿論その中の何組かは、地上付近の熱が冷めていくのに合わせるかのように、夏が過ぎると関係が徐々に冷めていったりもするのだが。それはともかく、幸せそうな2人の陰には、思い破れて泣いている人が必ずいるだろう。誰かを選ぶというのは、誰かを選ばないことを意味するのだから。
 これと同じことは、世界中のあらゆる場所、あらゆる局面で存在する。時間軸を延ばして考えても同様だ。いまだに改善の方向が見えてこない南北の経済的・政治的格差などはその最たるものである。どこかが儲かったり豊かになったりしているということは、当然その分損をしたり貧しくなったりしているところがある。世界中誰もが豊かで幸せであるのが理想だが、現実にはそうはならない。全員がおしなべて金持ちということはあり得ないのだ。何故なら、世界のお金(即ち「富」)の総量は決まっているため、満遍なく行き渡るかわりに1人分はうんと少なくなるか、少数の者が多くの取り分を手にするかわりに残りの大多数は貧しさに甘んじるかのどちらかしかあり得ない。資本家を排除し、労働者による富の平等な配分を掲げた社会主義国でも、結局は世界全体の中における取り分の少ない立場に甘んじ、その国内では政権を握った独裁政党がその中からより多くの富を吸い取るということになった。
 ある場所を巡って、ある民族が領土だと主張し、別の民族が自分達の土地だと主張すれば、当然争い事の種になる。一方が力尽くでその土地を囲い込み、地図に国境線を引けば、そこから追い出されて難民となる人々が発生するだろう。ある者達はホロコーストの犠牲になるかも知れない。誰が人類の「心の支配」の覇者になるかという宗教を巡る争いも同様の悲劇を生む。
 偏差値競争しかり、市場を巡る企業による競争しかりである。構造改革には痛みが伴う。誰かが笑えば、その何倍もの誰かが泣く。これが現実の姿なのだ。当然それを妬んで殺人も起きるだろうし、戦争になる場合もある。地球上の誰もが等しく幸福になれることはない。幸福の量は限られているからである。
 ならば、誰もが幸福になろうとするだろう。そのために、他人を出し抜き、傷付け、騙し、蹴落とし、時には命を奪いさえするだろう。だが、そうやって手に入れた幸福とは一体何なのだろうか。幸福のために払った代償は、もしかすると手に入れた幸福よりもずっと大きいかも知れない。
 天の川を挟んで輝く織り姫と彦星は、出会いという幸福を手に入れようとその時を待っている。しかし、出会いを待ち焦がれる時間こそ、実際の出会いにもまして2人にとってはかけがえのない、幸福な状態といえるかも知れないのである。
 けれども、これは幸福を巡る争いに敗れた人間のやせ我慢の論理だと僕は知っている。
 そして、人は空腹の時、他人を思いやる余裕を持つことができない。

  プラスマイナス幸せの在庫はいくつ
  誰が泣いて暮らせば僕は笑うだろう
  プラスマイナス他人の悲しみをそっと喜んでいないか
 (中島みゆき 「幸福論」)


2001年07月07日(土) 本当に恐ろしいものは

 「本当に恐ろしいものは、はじめは人気者の顔をしてやってくる」。このフレーズが問題になって、ある野党のCMがいくつものテレビ局から放映を拒否された。その理由は「特定の個人を誹謗する内容だから」だそうである。「特定の個人」とは勿論あの‘ライオン頭の変人総理’のことである。断片的に伝えられている問題のCMの映像の中には、それをにおわせるカットがないわけでもない。しかし、それにしてもこれは異常なことだ。もしもこれが当のCMを制作した野党の党首である‘護憲おばさん’をターゲットにしたものだったとしたら、果たしてテレビ局は同様の理由で拒否したのだろうか。
 これまで紹介された映像から判断すると、CMの作り自体はごくごく平凡なものだ。問題のフレーズは、秀逸という程ではないにしても、これまたごく一般的・常識的な真理(と言い切ってしまっていいことは、歴史をちょっと繙いてみれば分かることだ)であり、また平時の民主主義国において、まだ殆ど何もしていない内閣を80パーセント以上の国民が支持するという時代の危うい空気を言い当てているものだ。つまり、これはごく真っ当な「表現」であると考えられる。加えて、政党のCMであるから、多党との違いを際立たせるような言葉や内容にするというのは、これまたひねりのなさすぎる当たり前の方法だ。少なくとも、見ていて不快になるようなとんがった表現というものでは全くない。もしもテレビ局が純粋に「表現」としての質やレベルを問題にしたのだとしたら、放映拒否という判断は明らかにこのCMを買い被りすぎているか、判断基準や判断を下した人間の感覚に大きな問題があるといえる。‘公器’と言われるこの国のマスメディアが揃ってそのレベルだというのなら、それはそれで困ったことではある。
 だが、おそらく本当の理由はそうではあるまい。国会で‘変人総理’や‘お騒がせ外務大臣’を追及した野党議員のところに嫌がらせの電話が殺到したりしていることは、当のマスメディアが報じている。そして、それを報じることで、ある種の‘空気’が世の中に醸成されることに自らも加担しているのだ。そんなマスメディアが、自分達もその誕生に半分力を貸した国民的人気者の総理に対してケチをつけていると受け取られる可能性のある「表現」を、お得意の‘自粛’という手法につながるやり方で葬ろうと判断したとしても、何の不思議もない。大体、このCMは(少なくとも公式には)まだ放映されておらず、したがって実際にはまだどこからもクレームを付けられたわけではない。にもかかわらず、世の中の「空気」という実体のないものに怯えて、本来自由であるべき「表現」を、その自由を守るべき立場のマスメディアが自ら規制してしまったことが問題なのである。これが例えば政権与党からの圧力といった目に見える(もしくは主体が分かりやすい)ものが原因だというのであればまだ理解できる。圧力をかけた主体にどんな問題があるのかをつまびらかにし、対抗措置を考えればよい。しかし、「空気」というのはやっかいである。主体がはっきりしないのに、それはいつの間にか作られている。そして、その外側にいた筈の人をも、柔らかく、しかし確実に支配していく。そして、結果的にそれが間違った方向に僕達を導いていくとしても、その「空気」を支持した者のうち誰一人責任を問われることはない。
 今この国には、あの内閣に対しての批判は許さないという「空気」が充満している。本当に恐ろしいものはこうした「空気」だ。しかし、もっと恐ろしいのは、こうした「空気」に同調し、受け入れてしまう僕達のメンタリティであるといえないだろうか。
 「本当に恐ろしいものは、はじめは人気者の顔をしてやってくる」。
 そして、真に恐ろしいものは、その‘人気者’を待ち望み、作りだし、熱狂的に迎え入れる僕達国民、すなわち顔のない「大衆」なのである。


2001年07月02日(月) 人生のカウントダウン

 保険や個人年金のCMが今日もテレビから大量に流れてくる。僕はこれまでその手の話に全く興味がわかなかった。何だか遠い世界のことのようで現実味を感じなかったし、保険屋という商売は何だか人の不安につけ込んでいるようであまり好きになれなかったのだ。それに、例えば生命保険などというものは、養っている家族がいなければ意味がない。基本的に独り身の僕は、自分がどうなっても困るのは自分だけということで、いまひとつ必要性を感じられなかったのだ。だから、友人や職場の人が「保険屋さんが来て話をした」というのを聞いても、何だか日用品や証券会社のセールスマンと応対するのと同じことのように思えて、何故そんな煩わしいことに時間を割くのか不思議でならなかった。第一、会社も国も当てにならないから自分で自分の身を守らなくては、などと言うけれど、そういう保険会社だって結構危ないのではないか。結局信じられるものが何もないなら、何をやっても意味はない。そう考えれば、他のセールスマン同様、保険の外交員の話など聞くだけ無駄だと決め込んでいた。
 それがどういう風の吹き回しか、会社が団体割引の契約を結んだ保険会社の個人年金の商品の話を聞いてしまった。年金の支給開始年齢が65歳に上がり、一方停年は相変わらず60歳のまま。何もしなければ5年間無収入で暮らさなければならない。ましてやこのご時世である。破綻寸前のこの国で、ライオン頭の変人総理が掲げる「構造改革」とやらが実行されれば年金制度もどうなるか分からない。今のうちから少しずつでも積み立てておかなければ。いや、むしろもう遅いくらいかも知れない…。といった、世間一般のある一定以上の年齢の人間ならおそらく誰もが考えているであろうことが、突然実感となって押し寄せてきたのだ。勿論それは、僕が30代の半ばを過ぎたという事実、そして独身の僕にとって、まさに「頼れるのは自分だけ」という状態になっている現実からくるものだ。
 僕と同じくらいの年齢と思われる外交員は、徒に不安感を煽るでもなく、穏やかな口調で商品の内容を説明し、たとえ保険会社が倒産しても元本は保証すると付け加えた。そして、その日のうちに払い込む金額に応じた何パターンかの見積もりを送ってきたのだった。その紙を見つめながら、僕はある感慨に囚われていた。それは、自分の人生がいよいよ終わりに向かってカウントダウンを始めつつあるのだというものだった。
 10代や20代の頃、自分の人生に終わりがあることは勿論頭では分かっていた。しかし、高い山の頂上が麓近くからは霞んで見えないように、そこにはいまひとつ実在感が伴っていなかったのだ。自分が大きな病気をして入院したり、不慮の事故に巻き込まれたりすることも想像もできなかった。それよりは今現在自分が抱えている問題や、社会がこの先何処へ向かっていくのかといったことの方が、僕にとってはより切実なことに思えていたのだ。今を生きることに精一杯だったし、今だけ見ていればよかった。何故なら、未来はまだまだ有り余るほどあると思われたし、可能性や選択肢も結構いろいろありそうに見えたからだ。昔から自己評価は意識的に低めにしてきたつもりだったけれど、それでも自分の能力を正しく測ることはできなかったから、そう思えただけのことである。それが若さというものの特権なのだと、そのただ中にいる時には気付く筈もなかった。
 そして今、僕は突然自分に残された時間の短さという現実を意識した。そして、間違いなく衰えていく自分と、ますます厳しく、生きにくくなっていく世の中を考えた時、僕は初めて自分の人生における位置を悟ったのだった。そんなこともあって、僕は年金の他に保険についてもこれまでになく真剣に考えようとしている。昔は心の中で密かに軽蔑していた、将来のことばかり考えて「冒険」よりも「安心」を求めて守りに入っていく中年の大人に、他ならぬ自分が近付きつつあることの証左である。妻の妊娠を知った男が父親としての自覚に目覚めるように、こういうことは本当に自然に自覚するものなのだ。時間の過ぎていく早さには愕然とさせられるばかりだ。しかも、自分を支えてくれる家族や配偶者のためではなく、自分1人の身を守るために将来のことを考えなければならないというのは、実に寂しいものである。


hajime |MAILHomePage

My追加