思考過多の記録
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2000年11月30日(木) キムタクの結婚

 最初に断っておくが、これは「結婚」一般についてではなく、あくまでも「キムタクの結婚」について考察した文章である。先週末、日本を駆けめぐった彼の結婚話は、明らかに僕達一般人のそれとは性質が異なる。同じ「結婚」、それも「できちゃった結婚」というどこか生々しい事象でありながら、あの2人と一般人のそれとの違いはどこから生じるのか。それは、普通恋愛や結婚がきわめて「私的」(プライベート)な領域に属するものでありながら、あの「結婚」の場合は非常にパブリックなものとして扱われ、実際世の中の多くの人々に何らかのアクションをとらせたということである。 
 確かに、「結婚」というのは、これまで全く別々に生きてきた2人が、一緒に力を合わせて新たな生活築いていくということであり、それを始めるにあたっては、ある種の「お披露目」が必要である。2人の周囲の人間してみても、それならば2人の新たなる人生の門出を祝う場を設けたいと思うのも自然である。その意味では、「結婚」というものはある種の社会的な行為である。だが、それはせいぜい2人が関わっている様々な集団(親類縁者、友人、職場、学校の関係者等)の範囲内であり、全くの赤の他人に対して2人の結婚を告知する必要は全くない。ましてや見も知らない他人に2人の結婚について論評する資格はないし、そういう筋合いのものでもない。
 ところが、キムタクの結婚の場合、まず彼は、一部のメディアに婚約者の妊娠がすっぱ抜かれるや、自分の結婚の報告を、彼自身は直接会ったこともない多くのファン(のみならず、広く「世間一般」)に対して、やはりメディアを通して彼の肉声で語らなければならなかった。そうしなければ許されないという暗黙の了解が、「世間一般」とファンとメディア、それに彼自身の間に成立していたようである。そして、それが報じられるや、メディアや彼のファン(のみならず、「世間一般」の人々の多く)が彼の結婚に関して様々な論評を加え始めたのである。その多くは、根も葉もない情報に基づくものか、悪意(または善意)に満ちた勘ぐり・誹謗中傷の類である。これは、一般人でいえば隣近所や別の部署の人間による「噂話」に相当するが、彼等の場合は、その範囲・影響力において一般人のケースの比較にならない。決定的な違いは、そういった「世間一般」において語られる様々な「噂話」の類をメディアは拾い上げ、誇張・曲解などを行って再び「世間」に広めているということである。当然それらは、当事者である彼等2人の耳にも入る筈である。幾重にも広がっていくこうしたリアクションを、一体彼等はどんな思いで見つめているのだろうか。
 彼のような存在には、「私的」領域などないかのように見える。新曲の中のあるフレーズを歌っている時どうにかなりそうだったという彼のコメントは、それが素直な気持ちだったかどうかは別にして、恰も新曲の「中押し」を狙ったかのようであるし、事実CDの売り上げは伸びたそうだ。彼の婚約者にしても、彼との結婚を芸能界での生き残りに使おうという意図がなかったと、誰も断言できない。芸術家は自分の作品を売るが、その人個人を売るわけではない。が、この国では、芸能人の多くは「結婚」「離婚」「生い立ち」といった本来は非常に「私的」な領域に属することを語り、実践し、そのこと自体を売っている。換言すれば、彼等は自分の「人生」を売っている。おまけに、それを見も知らない多くの誰かに、常に論評されるのである。これは身を削るということであり、本来は非常に辛いことである。だが、そうしなければ、彼等は生きていけないのだ。故に、幸せも不幸せも、常に見も知らない他人に見せるために設えられ、演じられることになる。彼等の中では、婚約者を愛するという気持ちですら、他人の視線を意識して形成されることになる。そしてそれは、紛れもなく人間性の否定である。
 キムタクの中では、自分自身が彼女を愛しているのか、彼女を愛していることを「見せる」必要があって気持ちを作ったのか、区別できなくなっているのかも知れない。そうだとすれば、そしてそうかも知れないと勘ぐる人間がいるということは、彼にとっては不幸である。僕は彼に一人の人間として幸せになってもらいたい。おそらく彼もそれを望んでいる。が、それは非常に困難であろう。
 あの2人の子供は、誰のための人生を生きることになるのだろうか。


2000年11月26日(日) 政治屋達の醜態

 この数週間(特にこの前の月曜日)に日本の政治に起きたことについて、色々な所で色々な人が語っている。政治についてこの国の人々がこんなに熱く語ったことは、最近ではあまり記憶がない。それ程現在の政治は閉塞状況にある。この国の多くの人々が、この状況から抜け出す突破口を求めていたのだということがよく分かる。そして、結果はご承知の通りである。この国の多くの人々が、この結果に落胆している。が、僕にとっては予想通りだった。勿論、これでいいとは全く思わない。ただ、現状があからさまになったという意味では、いい結末だったと思う。今回の一連の騒動で白日の下に曝されたのは、旧態依然たる政治家(政治屋)達の醜態であった。
 そもそも、政治は理念だけでは動かない。様々な力学や複雑な法則性等によって動いていくものだ。それを百も承知で言うが、今はそういう政治のゲームをやっているときではない。この国の悲惨な現状と不透明な将来のことを考えれば、具体的な政策やビジョンを策定し、国民に示す義務が政治家にはある。それを元に国民も含めて広く議論をしながら、政策を実行していくことを、早急にやらなければならない。一時は政権政党の主流派に反旗を翻したあの政治家も言っていたように、まさにこの国は沈みゆくタイタニックなのだ。それを考えれば、今この国のリーダー(総理大臣)でいるということがどれ程の重責なのか、また政権与党というのがまさにこの国の命運を握る立場からどれ程の緊張感を持っていなければならないのか、今更いうまでもないだろう。ところが、当の本人達だけが、どうもそのことを理解していないようなのだ。でなければ、あんな態度や言動がとれる筈がない。この国の現状を鑑みれば、現在の自分達のやっていることは非常に恥ずかしいことだと彼等が認識しているとは、残念ながら全く思えない。ただただ、政治的ゲームの勝敗と、この騒動の後始末を如何に自分達の勢力(派閥)に有利に進めるかということにしか関心がないように見える。
 これまであの政権政党は、自分達の中だけに通じる言葉を使って、自分達のムラの中だけで通用するやり方(永田町の論理)で事を進めてきた。この国の有権者達はおしなべて政治に対する関心が低かったので、それで咎められるということはなかったのである(マスコミや一部の良識ある人達が批判したり警鐘を鳴らしたりしていたが、大きな力にはならなかった)。 経済がそれなりにうまくいっていたので、都市生活者からも文句はでなかったし、国の財政から地方(自分達の地元)へ金をばらまけば、次の選挙での当選は約束された。歴代の首相にしても、表向きは「国民のみなさんの声に耳を傾け…」などと言いながら、その実はムラの実力者の顔色を窺っていただけのことだ。実力者の意向に添って政策を作り、外部の反対を押し切ってでも実行していくことが、この国のリーダーの役目だった。「実力者」と「地元」だけ見ていれば、あの政党は政権の座に着いていられたのである。こんな状況では、政権運営に緊張感など生まれる筈はない。
 時代が移り、状況が大きく変化して、政治を見るこの国の人々の目も厳しさを増している。それだけではなく、「組織」の締め付けを越えて様々な形で政治に参加しようとする草の根の動きも活発になってきた。その力で具体的に地方政治に変化がもたらされた事例も出始めている。あの村にいる政治屋達だけがその変化の重要性に気付かず、この期に及んで自分達の内側に向かって語り、自分達の論理に基づいて変化の芽をつみ取り、あまつさえその変化(具体的には首相の交代)を自分達の論理の中で行おうとしている。そういう行動・言動のひとつひとつが、国民の目にどう映っているのかについての配慮は、微塵も感じられない。選挙に勝てるかどうかと国民の信頼を得られているかどうかは、イコールではないのだ。政治屋達はその辺は分かっているらしく、数にものをいわせて自分達に有利なように選挙のルールを変えてしまった。繰り返しになるが、そういうことをすると自分達の狡さがさらに強調されるということに対しては、驚く程鈍感である。こうした事例は、今回の騒動だけをとってみても枚挙に暇がない。
 僕達は彼等の醜態を嫌という程見せつけられた。しかし、沈みゆく船の上でしらけている暇はない。僕達がやるべきことは、国民に向かって語る言葉を持った政治家を選び、育てることではないか。政治のゲームにしか興味のない政治屋には、自らの体質を変えようとする気も、その力もないことがはっきりした。彼等に期待することは、もはや何もない。


2000年11月24日(金) 夢の途中

 かつて僕の後輩で「夢は叶っちゃったら面白くない」と言った人がいた。彼女の認識の中では、手を伸ばしても決して届かないこと(もの)が夢であり、そこに価値を見出していたのであろう。そういえば、歌の中でも「夢を捨てないで」とか「夢見る力をください」とか「きっと夢は叶う」とか、やたらに夢が連呼されている気がするが、実際に夢が叶った歌というのにはあまりお目にかからない。勿論、そういう歌もあるのかも知れないが、少なくともメジャーにはなっていない。有線でヒットしたり、シングルで発売されたりする歌は、大抵が夢を見ている(あるいは夢を持とうと呼びかけている)段階である。この理由は誰にでも分かるとおり、世の中の圧倒的多数の人間は、夢を叶えていない(もしくは持てていない)という事実があるからである。そうであればこそ、人は実際に夢を叶えて一線で活躍するアーティストや役者等に憧れ、彼等の信奉者となり、自分の中の「神様」が発信するものに群がる。そして、そこから少しでもパワーをもらおうとするのである。
 実際問題、今の世の中で夢を持ち続けたり、叶えたりすることは非常に困難である。かつては、いい学校からいい会社に入り、幸せな結婚をして家庭を持ち、マイホームを持てばそれでひとつの夢が完成したことになっていた。しかし、現在ではそれが叶えるべき夢でも何でもないことは、誰の目にも明らかだ。うまくして芸能界に潜り込んだとしても、数年後には捨てられることも目に見えている。共通の「夢」のモデルはなくなり、各人各様のささやかな夢を追いかけるか、現実に適応しきって今現在を楽しみながら(またはうまく振る舞いながら)生きていくかのどちらかになっているのが現状であろう。本当に夢を叶えたいと思えば、自分の才能から経済的なことまで障害はいくらでもある。それを次から次へと乗り越えていくには、相当な力と運が必要だ。多くの人間がスタート地点で挫折することになろう。こうして、夢は手を伸ばしても決して届かない存在になる。そうなると逆に、何を「夢」として持っていてもいいことななる。決して実現しないのならば、空想して楽しもうというわけだ。 僕が小学校の頃、男子の夢は大抵プロ野球の選手になることであった。勿論、実際にそうなれるのはほんの一握りである。しかし、小学生にそんなことは分からない。クラスで野球が少しでもうまければ、もうプロへの道が開かれたような気になって、毎日家で素振りをしたりする。夢を空想の世界にとどめるというのは、基本的にこれと同じだ。違うのは、夢の実現を諦めているかどうかということである。
 僕は脚本家の卵として、人を集めて自分の脚本を上演してもらったりしている。今はごく周辺の人だけを相手にしているが、いつかは多くのお客さんに見てもらいたいと思っている。そして、それを空想の世界で終わらせる気は、毛頭ない。仕事をしながら芝居を続ける僕に対して、今では仕事をしながら子育てをしている別の後輩が「私の周りで夢を追っているのは先輩だけ」と言っていた。だが、僕は自分で夢を追っているとは思っていない。もしそうなら、僕はとっくに会社を辞めている。会社に縛られる身でありながら如何に芝居に時間を割くか、また如何にスケジュールを調整して人材を集めるかといった現実と渡り合いながらやっているのである。そう、まさにこれは僕にとって、切実な「現実」なのである。しかし、例えばそういう局面の中で、あの劇団のこの役者さんに出てほしいと思えば、その願いを叶えるべく僕は動く。そして、実際に舞台に立ってもらう。この時、僕自身のささやかな「夢」は叶ったことになる。そして僕は、次に実現したい願いは何か、そのためには何が必要かと考えるのである。その積み重ねだけが、大きな「夢」を空想から現実に変えていくための唯一の道だと思う。
 願っていれば夢は叶うものではない。願いが強ければ、自然に人は戦略を立てる。そして、現実の中でそれをひとつずつ実現していく。そうやって現実として生きられてこその「夢」である。実際は思っていたのと違っていたということもあるかも知れないが、何はともあれ「手を伸ばして」それを手にしたということが重要である。そこから新たに見えてくることもあろう。その意味で、「夢」が完全に叶うことはない。勿論それは悲しむべきことではない。誰もが、夢の途中である。


2000年11月23日(木) 角が立つ言葉

 ものは言い様で角が立つ。自分の意見を述べるときには、できるだけ角が立たないように言葉を選ぶのが一般的である。しかし、僕の場合は逆である(勿論、場所とシチュエーションはわきまえるが)。できるだけ問題が表面化しそうな少しどぎついくらいの言葉を、意識的に選ぶようにするのだ。当然、言われた相手や端で聞いている人はカチンときたり、ドキッとしたりするだろう。僕の言葉で傷つく人もいるだろうし、「実態も分からないくせに何言ってやがる」と思う人も確実にいるだろう。だが、問題がそこに存在することは事実なのにもかかわらず、それには触れずにやり過ごしたり、問題をオブラートでくるんで表現することで、当たり障りなくまとめてしまうという態度が、何か不誠実なように思われて、どうしても僕には違和感があるのだ。
 人はなかなか物事の核心を突きたがらない。それを口にすれば、自分や他人を著しく傷付けることになったり、相手との対立が決定的になってしまうことを恐れるからである。また、そこから多くの問題が派生して出てくるので、面倒なことと向き合わなければならなくなるという場合もある。「それを言い出すと、後が大変だから…」というわけである。そこで、できるだけ角を立てないように話すのが「大人」だということになる。だが、そうやって放置され続けても、問題は解決しない。よく「時間が解決する」というが、それは単に、時間の経過に伴って問題が曖昧になったり、人々の記憶が薄れていくにしたがって、問題そのものが風化して消えてしまったように見えるだけだ。あるいは、状況が変わって問題が問題でなくなってしまったりしたにすぎない。問題が解決されていない以上、それは何かのきっかけで、再び問題として浮上してくることになる。そして、そうなるまで、その問題があることによって生じる矛盾や諸々の不都合等もそのまま存在し続けることになる。場を取り繕うための一時凌ぎ的な解決や、対立を和らげるための穏便な物言いが、長い目で見ればかえって事態を悪化させることになるのだ。所謂「なあなあ」の関係で済まそうとすれば、むしろ傷口は深くなっていく結果になるのだ。また、腹の中ではみんな「どこかおかしい」と考えていても、それを口に出して言わなければ、結局は何も変わらないままである。表面上は何事も起きていなくても、それでいい筈がない。
 だとすれば、いずれかの時点で体面や人間関係、力関係にとらわれず、敢えて問題点を明らかにする言葉遣いや行動が不可避である。たとえそれがなあなあの関係でうやむやにされたり、力関係で握りつぶされたり、理屈でうまく丸め込まれたとしても、そこに問題が存在していた(そしてし続けている)という認識を、多くの人が持つことができる。そのことが大切である。もし理不尽にも問題がそれ以降も放置され続けたとしても、今度はその事実を多くの人が知っているのだ。そして、そのことが、問題解決への糸口を当事者達に探らせることにつながっていく(ことが多い)。また、すぐには解決できなくても、問題の存在が浮かび上がれば、みんなでそれを考えていこうという契機を作り出すことはできる。変えなければと思っていた人達も、それを突破口として声を上げ、動き出せるかも知れない。要は、その口火を誰が切るかということである。その最初の言葉は、どうしても角を立てる言い方にならざるを得ない。そうでなければ、物事は本当には変わっていかないのである。
 少しどぎつい言葉遣いをする僕を快く思っていない人は、おそらく僕の周りに少なからずいる。この日記も、読む人が反感を覚えるかも知れないような書き方をしている。しかし、自分の言いたいことを言った結果、角が立ったり嫌われたりするのはやむを得ない。むしろ、自分の本当に言いたいことや考えていることを隠して人に好かれるよりも、ずっと気が楽である。それだけの人眼関係なら、初めからない方がましだと思ってしまうからだ。それでぼくは、つい無意識のうちにどぎつい言葉を選んでしまう。
 「北風と太陽」という話があるが、問題はコートを脱がせることではない。コートを着ずにはいられない寒さという現実がそこにあること、そのことを認識することこそが重要なのである。


2000年11月19日(日) 「この自分」について

 オーストリアの観光地でのケーブルカー火災に巻き込まれて(おそらく)亡くなった女子中学生が、事故の数日前に現地から出した絵葉書が、事故から数日後に家族や友人の元に届いたとメディアが報じていた。僕は新聞に載ったその葉書を見たが、こんな事故さえ起こらなければ特別な意味など持つ筈もない、どこにでもありそうな文面の葉書だった。だが、その肉筆の生々しさや、これから起きることを知らないが故の明るい内容等が、これが他のどこにもない、世界で唯一つの葉書であることを物語っていた。あの事故という「出来事」によって、この女子中学生の葉書は「単独性」を獲得したのである。それは彼女の存在それ自体の単独性を僕達に思い出させてくれる。
 例えば異性にふられた人間に対して「男(女)は他にもいるじゃないか」という慰めの常套句がある。確かにその通りである。勿論、ふられた当人にとっては、相手の人は自分にとって取り替えのきかないたった一人の大切な人であろう。そうは思っていても、大抵の場合、時間がたてば全く別の人間を好きになっていたりするものだ。しかし、不慮の事故等で子供を失った母(父)親に対して「子供は他にもいるじゃないか」とは絶対に言えない。たとえその子供に兄弟がいたとしても、その子供の後に別の子供が産まれたとしても、失われたのは「その子供」の命なのである。それは代替不能で、失われれば二度と戻らない。単独性とはそういうことである。そして、別に突発的な事故や戦争や病気等で命を失わなくても、本来僕達は一人一人がこの単独性を持った存在なのである。ただ、日常の中ではそのことの実感が持ちにくいだけだ。
 職場や学校にいる時、多くの人は自分が取り替え可能な存在のように思えるものだ。いなくなった人間のポストは、程なく別の人間によって穴埋めされるし、生徒一人が教室から消えても、学級運営に何ら支障はない。たとえ自分がやらなくても、自分が担当する仕事を代わりにやる人を会社は難なく見つけるだろうし、自分が授業を受けなくても、また入試を受けなくても、その代わりの人間はごまんといる筈だ。自分は全体の中の一人であり、「他の誰かであっても構わない」(=「個別性」を持った)存在である。社会はこうした人間の集合体のように見える。ある役割を担う人間を任意に選び出せるシステムがあり、その人間を別の人間に置き換えるシステムもまた存在している。こうして、人間が一人いなくなっても、社会は何事もなかったかのように動いていく。この事実を日々感じ取っている僕達は、いつしか「自分」という存在を消して全体の中の「個」であることを選んでしまう。
 けれども、僕達は本当は「他の誰でもない、この自分」なのである。たとえ他の誰かと代替可能であっても、「この自分」の存在は唯一無二であり、単独なものである。女子中学生は日本全国に数多くいるけれど、事故で亡くなったあの女子中学生と取り替えがきく筈もない。彼女は、これまで歩んできた短すぎる人生の結果あの場所にいたのであり、あの葉書を書いたのである。こうした事故の「単独性」によってしか、自分の「単独性」を表現したり実感したりできないというのは、確かに悲しいことである。いつしかあの事故の「単独性」は失われ、彼女もまた、あまたある大事故の犠牲者達の一人という「個別性」を持った存在として扱われ、やがて僕達の記憶から消えていくのかも知れない。それでもなお、あの絵葉書を書いた彼女の「単独性」は失われない筈である。そしてそのことは、僕達一人一人が本当はかえがえのない「この自分」なのだということを忘却してはならないと、僕達に教えてくれているのである。


2000年11月17日(金) 政・性・戦

 普通、人が日常の意識に上らせず、話題にするのを避けているようなものにこそ、人間の深層や真実が垣間見える、もしくは顕現するものである。政治(まつりごと)、戦争(いくさ)、性愛(セックス)、この3つがまさにそうだ。そうであるが故に、僕にとって、この3つは非常に興味深い。
 政治など政治家(政治屋?)がどこか遠くでやっているもので、自分達の日常と何の関係もないと思っている人も多い。政権政党内部で派閥抗争が起こったりすると、決まって国民は冷ややかな視線を向けるか、全く無視するかのどちらかだ、とメディアは伝える。だが、例えば職場や学校で、多くの人は所謂「グループ」を作ってはいないだろうか。そして、他のグループに属する人との間で、諍いや衝突、嫌がらせ、足の引っ張り合いの応酬といった‘抗争’を繰り広げてはいないだろうか。グループ間だけではない。同じグループに属する人間通しや、友人、恋人との間で、日常のあらゆる場面で様々な駆け引きが行われているのではないだろうか。時にはこちらが大きく譲歩することもあるだろうが、次の機会にはそれを理由に相手に譲らせたり、譲歩したと見せかけて、実はよりよい条件を相手から引き出したり、相手の弱みにつけ込んでこちらの要求を丸飲みさせたりといったことである。それこそがまさしく「政治」である。その意味では、僕達の誰もがある種の政治的存在であるといえよう。
 一方、戦争というと、必ず「非人間的」とか「人道に反する」という形容詞がつく。僕達は、戦争がそういうものであると教えられてきたので、戦争に関する嫌悪感を持っている。その上、ここは日本だ。政治にもまして戦争は遠い存在のように感じられる。僕達の感覚では、普通、人間は戦争をしない。だが、これもおそらく事実に反するだろう。それは、毎日のようにニュースや新聞を通して世界の様々な国や地域での戦争が伝えられることからも明らかだ。「平和ボケ」と言われる我々の国でさえ、つい半世紀と少し前までは世界の大国を相手に戦争をしていたのである。一体何故なのか。うんと単純化していってしまえば、おそらくそれは、戦争こそがまさしく「人間的な」行為だからではないだろうか。勿論、領土や資源を巡る縄張り争いや闘争本能といった、人間の動物的な部分の現れであるという面もあろう。だが、よくいわれることだが、同じ種同士がこれ程まで殺し合う(それも、かなり残酷な手段で)というのは、地球上のあらゆる種の中でも人間だけである。ということは、戦争は人間が持っている動物としての本能というより、人間固有の「本能」であると言えないだろうか。そうでなければ、有史以来世界中から戦争が消えた時代のないことの説明がつかない。まさに人間は、戦争とともにあったのである。
 そして、性愛である(恋愛ではない)。言わずもがなのことであるが、これは食べること、眠ることと同じように、動物としての人間が個体を維持し、かつ子孫を残して種そのものを存続させるために必要不可欠である。ただ、人間の場合は他の動物と異なり特定の発情期を持たない。とりもなおさずそれは、性愛と繁殖を切り離すことが可能であることを意味する。このことが、人間に特有の性愛の問題を生み(所謂「文化」という奴である)、そこからあまたの文学作品や音楽や絵画、果ては犯罪に至るまで様々なものが生み出されたというわけである。性愛はそれ程までに人間存在の深い部分と関わっている。取り澄ました令嬢もベッドの上では乱れ、超大国の大統領は執務室でスタッフの女性と不適切な関係を結ぶ。社会的な身分や立場といった仮面が、いとも簡単に引き剥がされていく世界。そこには地獄へ引きずり込まれそうな重力と暗闇が支配する深淵と、天国へ通じるかと思われる生命力に満ち溢れた光に包まれる喜び(悦び)の階段の2つが、同時に僕達の前に立ち現れる。思春期に初めての性衝動に襲われてから、おそらく生涯僕達はこの得体の知れない世界に魅惑され、同時に苦悩させられ続ける運命を背負った存在なのである。
 最初にも書いたが、この3つについて僕達は普段考えたり、見たり聞いたり話したりするのを意識的に避けている。それは僕達から隠されていることが多いし、公の場で語られる場合は、大抵否定的なニュアンスである。それは、人間の存在を大きく規定し、同時に本性としてさらけ出されてはよろしくない部分である。誰でも恥ずかしい部分や見たくない部分は隠したいし、できればないことにしたいとすら思うだろう。だが、それは根本的な解決にはならない。何故なら、僕達は人間であることをやめられないからである。
 これら3つの全てをそのまま肯定しようとは思わない。だが、僕は道徳の言葉でこれらを戒めるのではなく、文学の言葉でこれらを語りたいと思っている。そういう僕もまた、一人の人間である。


2000年11月14日(火) 組織と個人について

 この社会に生きている人間は、大抵の場合、公的・私的の別はあっても何らかの組織に所属している。そうでなければ生きにくいからである。組織は個人の力ではできないことを実現させてくれる。基本的には、いかなる組織もそこに所属する個人(=構成員)がある目的を実現するために存在している。ただし、10人の構成員がいれば、実現しようとしていることは個々人で微妙に異なっているものだ。したがって、組織はあくまでもその最大公約数的なものの実現を目指すし、またそれ以上は不可能である。そして、構成員が組織によって所期の目的を達成した場合、または組織が構成員の目的を達成できなくなった場合、当然その組織は解体されなければならない。何故ならば、その組織の役割は終わったからである。ところが、多くの場合、ひとたび組織ができると、人は何故かその組織を存続させようと必死になる。まるで組織の維持が本来の目的であったかのように、構成員個人の意思や目的の実現はしばしば犠牲になる。これに反発する構成員は組織によって処分され、組織の外に放逐される。場合によっては命すら狙われることになるのだ。
 僕達はしばしば「組織の論理」という言葉を耳にする。ある事態に直面したとき、個人としての人間の反応やとるべき対処法と、組織のそれとは違っている。それは組織というものが個人の集合体であることからくるのであり、また構成員全体の最大公約数的な目的の実現という組織自体の持つ性格にも由来している。その時、組織に属している個人は、一体どちらを重んじればよいのかという問題が出てくる。「我が社としては…」とか、「○○というのが国の方針である」などと人は平気で口にするが、「会社」や「国」にはその人も属しているのであり、その人が「会社」や「国」を代表して言ったことは、自然と「個人」としてのその人本人にも影響を及ぼす。しかも多くの場合、それはその人が個人的に(あるいは直接的に)決めたわけではなく、「組織として」決めたことである。たとえ個人的には間違っていると思っていても、あくまで組織が決めたことならば、その人はその方針に従って行動しなければならない。戦場にいる兵士は、反戦を唱えることはできない。もし罪悪感や違和感を消したいと思うなら、方法はただ一つ。組織と一体化することである。組織の論理を自分自身の思想だと思い込めばよい。戦場で敵を殺すのも、平和をもたらすための行為であり、自分はその目的を遂行しているに過ぎないというわけだ。これが所謂「魂を売る」ということである。こうして個人の存在を消してしまった者達が集まって、組織としての決定が下されることになる。そして、魂を売っていない者への迫害が始まる。
 組織がある程度の期間存在し、たとえ内実はそうではない場合でも外側からは盤石の体制に見えるようになると、まるで組織自体がひとつの有機体であるかのように振る舞う。「組織の生き残りを賭けて」という言葉があるとおり、組織の存続のためにあらゆる手段がとられるようになる。外側の人間から見れば異常なことも、そこに属する人間にとっては通常のことだ。何故なら、組織は固有の目的遂行のために固有の論理に基づいて動き、なおかつ存在し続けなければならないからである。それが組織の「意思」である。その「意思」の実態は組織を運営している中心人物達の意思である。そしてそれは、構成員全体の最大公約数的な意思でもある。しばしば僕達は「みんなが決めたことだ」という。その場合の「みんな」は何処にも存在しない。そうであるが故に、それは全構成員を縛る。たとえ指導者でも、そこから自由になることはできない。独裁者の代名詞であるヒトラーでさえ、おそらくナチス=ドイツという大きな組織の意思に動かされていたのであろう(そのことによって、彼が責任を免れるとは思えないが)。余程自覚的でない限り、誰もが多かれ少なかれ実態のない「みんな」の集合体に魂を売り渡して生きることになる。そうしないと、この社会では生きにくい
 しかし、冷静に考えてみると、永遠に続く組織などあり得ない。大企業も、政党も、国さえも、あっという間に崩壊する様を僕達は目の当たりにしてきた。もっと恐ろしいことに、たとえ自分が所属していた組織が消え去ったとしても、一度売り渡した魂は二度と戻ってはこないのである。組織への忠誠を誓う前に、個人の立場に立ち戻ってそのことを考えてみることが、案外正しい処世術かも知れない。


2000年11月06日(月) 紋切り型

 僕の恋人が僕に語ったところによれば、彼女が小学生の頃、作文を電話のベルの音で書き始めたところ、担任教師から「作文は『私は』で書き始めなさい」と指導が入ったそうである。緊迫感を表現しようとして、子供ながらにより適切な表現は何かと考えた結果なのに、それが認められなかったのだ。その教師にとっては、作文は必ず「私は」で始まらなければならないという定型(=紋切り型)があり、そこからはずれた作文など存在しないという認識だったのであろう。何でも紋切り型に収めないと気が済まないタイプの人間が、世の中には結構いる。川はさらさら流れなければならないし、夫は仕事で妻は家庭に決まっている、といった具合だ。
 紋切り型の代表選手は、時代劇と演歌であろう。ただ、よく見る(聞く)と、現在のドラマもJポップも同じ状況である。ドラマでいえば、登場人物の設定も、事件の顛末も、そして結末も、全てある種のパターンの中に収まる。毎回毎回、またどの番組もいくつかのパターンのうちのどれかを踏んで展開している。出演者も、同じような顔触れが同じようなキャラクターを演じている。登場人物の造形も、見事なまでにステレオタイプだ。「ドジでお茶目な新人看護婦が、いろいろな失敗を繰り返して周りを混乱に巻き込みながらも、同僚や先輩、そして患者さんからの支えや励ましを受け、若い研修医との恋を経験しながら成長していく」という「お約束」のストーリーは、主人公の職業を変えればいくらでも応用が利いてしまう、恥ずかしいまでの紋切り型だ。このような現象は、ニュース番組やワイドショーにも見られる。不倫騒動の芸能人にレポーターがする質問はいつも同じだし、凶悪犯罪を伝えるレポーターは、事件の内容に関わらず全く同じように沈痛な面もちで、同じようなコメントをする。これがニュース番組になると、ワイドショーとは違った文法に則って、ニュース番組独特の紋切り型にはまった表現やコメントをしている。いじめによる自殺が起これば学校はいつも悪者だし、サッカーの国際試合が行われれば日本中が熱気に包まれ、国民全体で応援しているかのようであり、皇族の誰かが亡くなれば、日本中が悲しみに包まれるというわけである。それがどのチャンネルでも繰り返される。
 この他、映画や演劇、小説、ゲーム等々、ありとあらゆるメディアで紋切り型=ステレオタイプ=お約束は、日々再生産されている。僕達はその洪水の中で生きているわけだが、実はこれは僕達が無意識のうちに望んでいることなのだ。紋切り型は僕達を安心させる。言い換えれば、余計なことを考えなくてもよい状態にしてくれる。全てが僕達の理解可能な範囲で起こってくれるので、僕達はその範囲内で反応すればよいことになる。冒頭の例でいえば、400字詰めの原稿用紙を渡されたら、内容に関わらず最初に「私は」と書いてしまえばよい。これは明らかに思考停止の状態である。そこには何の刺激もなければ、発展性もない。どんな冒険も恋物語も、展開も結末も全て予定調和の範囲内だ。しかし、それが本当の冒険や恋といえるだろうか。
 紋切り型からはずれる物事は、僕達を不安にさせる。だから僕達は、無意識にそれを嫌悪する。王道をはずした物語を多くの人間は「つまらない」「分からない」といって退ける。それはおそらく、僕達の生きる日常が本当は紋切り型には収まらず、僕達にはそれが耐え難い苦痛だからであろう。せめて日常から離れたところでは、紋切り型の世界の中で、思考停止状態で楽をしたいと思うのは自然だ。だが、この状態を続けていると、人は現実もまた紋切り型で形成されていると思い込んでしまう危険性がある。日常生活の中でも、無意識のうちに思考停止に陥ってしまうのだ。だが、そうと分かっていても、紋切り型が与えてくれる平和の誘惑から逃れることは難しい。だからこそ、紋切り型をはずしたり壊したりすることは、非常に勇気がいる。僕は紋切り型に裂け目を入れるような作品を作っていきたいし、自分を紋切り型に縛り付けようとするものに対しては、あくまでも抵抗する意思の力を持ちたい。同時に、思考停止に逃げ込んで楽をしようとする誘惑を振り払える勇気を持ちたいと思っている。
 このような切り口で紋切り型を批判するという素振りも、実はひとつの紋切り型である。紋切り型を排除するというのは、本当に難しいものだ。と嘆いてみせるのも、ひとつの「お約束」かも知れない…(以下、繰り返し)


2000年11月02日(木) マイペース

 誰にでも、その人固有のペースというものがある。以前この文章で自分の思考のペース(スピード)について書いたが、概して僕は、何かにつけて一般人よりペースが遅い。小学校に通う子供がいても少しもおかしくない年齢なのに、いまだに独り身を通しているのもそのせいである(と思いたい)。何か事を行おうとする場合にも、計画→準備→実行というプロセスの進行が遅い。他人の目には、しばしば止まって見えるようである。元来が石橋を叩いても渡らない性格なので、まず計画を立てるまでが大変なのである。そんなわけで、外から見ていると非常にじれったく感じるらしい。
 先日、かつて一緒に芝居をやったことのある女性と久し振りに会った。彼女は芝居を離れ、社会人として忙しい毎日を送っていたが、そのあまりの忙しさに体力的にも精神的にも限界を感じてこの夏に退職、フリーターに転じていた。その間も彼女は芝居に対する意欲を失ってはいなかった。僕も何回か声をかけたのだが、仕事に時間をとられてしまったり、彼女の個人的な事情があったりで(その度に声をかけた僕達の側が振り回されたのも事実である)、残念ながら一緒にやるチャンスがなかった。その彼女は、自由になる時間が増えたのをきっかけに、週1回とある演劇ワークショップに通い、実際に芝居を学び始めていた。そんな彼女から見ると、僕の芝居に取り組むペースは、ひどくゆっくりしたものに感じるらしい。確かに、ここ2作の間は1年半空いてしまっている。彼女は、僕が社会人としての日常生活に安住し、芝居への情熱を失ってしまっているのではないかという意味のことを言った。芝居で認められるようになるには、そんなペースでやっていてはとても時間がないというのだ。だから、実行力があって、どんどん物事を進めてくれる人と組むべきだ、とアドバイスまでしてくれた。
 彼女に悪意はない。むしろ、僕の力を認めているからこそ、何とかそれが実を結ぶようにと思って言ってくれているのである。それは重々分かっていても、僕は彼女のこの「忠告」を素直に聞くことができなかった。彼女の話にはいくつかの論点が含まれている。その全てについてここでは言及しない。ただ、ひとつ言いたいのは、物事を実行するプロセスの進行の早い遅いは、その物事に対する情熱の強さと必ずしも相関関係にはないということである。確かに、一般的に言って意欲や情熱が強ければ、強力に、かつ迅速にそれを実行しようとするだろう。だが、拙速という言葉もあるように、早く取りかかれば必ずいい結果が出るとも限らない。じっくり取り組んだ方がいいものが生まれる場合もある。それに、他の誰のためでもない、最終的には自分が楽しみ、また自分を納得させるためにすることであれば、当然それは自分に最も適したペースで進める方がいいに決まっている。問題は、どれだけ充実した活動ができ、いい結果を生み出せたかであり、何をどれだけ実行したかということではない。最初に書いたように、僕は人に比べてペースが遅い方で、なかなか形になる結果を残せていないが、だからといって、例えば芝居に対する情熱が弱いという受け取られ方をするのは全く心外である。周りの状況なども考えると、僕のペースではこれで結構めいっぱいなのだ。無理矢理急げば、やること自体が苦痛になる。それでは全く意味がない。勿論、僕の芝居に対する思いや情熱は、昔から変わっていないつもりである。やる気がないから1年半空いてしまったのではない。きちんと芝居に取り組もうとした結果なのである。急かされたり、機械的にやったりして3つのことを成し遂げるよりも、1つのことを自分のペースで納得のいくようにやりたいのである。たとえ、それが演劇活動を続けるには本来適切ではないやり方だったとしても。
 物事を進めるペースが遅いと、結果として失うものもあるだろう。彼女が言うように、時間は限られている。だが、そのことで見えてくるものもあろう。だから、他人からどう見られようと、自分に固有のペースは大切にしていきたい。それは、その人固有の生き方とも深く関わっている。僕のペースを批判した彼女は、僕の生き方そのものを批判したことになるのだということに、果たして気付いているだろうか。
 もっとも、僕が携わっている演劇というメディアは共同作業が基本であり、自分のペースにこだわりすぎるのも問題である。事実、僕が自分のペースを崩さずに脚本を書くものだから、芝居の製作の進行が遅れて、役者・スタッフ、最後は僕自身までもが頭を抱えることになるのである。


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