Diary?
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2006年10月05日(木) ナポリタン回帰派 その3

 そう、案外あっさりと私はパスタに飽きてしまったのだった。20代なかばのことだ。いわゆる「年寄り臭い献立」で育った者にとって、オリーブオイルや生クリームたっぷりのパスタは時々食べるにはいいけれど、日々の食事としては辛かった。下北沢でバイトしていた時に、社長がカプリチョーザが大好きでよくお昼をごちそうになった。貧乏なバイト暮らしにはとてもありがたかったけれど、これが決定打となってしまった気がする。

 そういった経緯で、私はナポリタンに回帰した。オリーブオイルもニンニクもパンチェッタもポルチーニ茸も入っていないスパゲティに戻って行った。しばらく見向きもしなかった私を、喫茶店のスパゲティ達は暖かく迎えてくれた。ごめんよ、ごめんよ、私やっぱりあなたじゃなきゃダメなの。いやそこまでは思わないけれど。とにかく、爆発的に日本の食卓と外食に普及した「イタリア料理としての正しいパスタ」とはまったく別の系統として、ナポリタンやミートソースは変わることなく存在し続けていた。

 しかし多くの人たちは、たぶん回帰しなかったのだ。イタリアンなパスタを食べ続けて、ナポリタンのことなんか思い出さずに暮らして来て、何十年もたってからふと「懐かしの昭和、レトロなナポリタン」なんてサライの特集を読んで懐かしがったりする。その気持ちもよくわかる。ただ、私にわからないのは今の若い衆がランチにわざわざナポリタンを食べていたりすることだ。今や外食チェーン全盛の時代、パスタだってファストフード並の値段と手軽さでカルボナーラだドライトマトだってのが食べられる。若い衆はものごころついた時からそういう食環境に育っているはずなのだ。何故あえて純喫茶に入って、チェーン店よりも値段の高いナポリタンを頼むのかが、ちょっと謎だ。懐かしいから、でないことは確かだしなあ。なにはともあれ、この文化が次の世代に引き継がれていきそうな気配があるのは嬉しい限りではある。いやだからそこまでの思い入れはないのだけども。


2006年10月04日(水) ナポリタン回帰派 その2

 酔いと眠さの中で書き散らしたものだから、続きを書くのをすっかり忘れていたぞ。

 そう、ナポリタンの話だった。私は40代だが、大人になるまでスパゲティの選択肢は「ミートソースまたはナポリタン」であった。食べる場所は家または喫茶店。イタリア料理店もパスタ専門店もない時代。インスタントのパスタソースなどもまだ売られていなくて、ミートソースを作るための粉末調味料「ルーミック」を使っていたように思う。我が家では、だいたいは「洋風焼きそば」として、ありあわせの野菜やハムと炒めてケチャップで味付けをするのがスタンダードだった。喫茶店では、店によっては醤油味の和風、カレー味のインディアンなどの変わり種が少しずつ増えてきていた。

 そんなスパゲティを食べて育ち、大人になってから初めてペペロンチーノやカルボナーラやアラビアータや、そういうものに出会ったわけである。いやびっくりした。これは別物だと思った。美味しくて、パスタばっかり食べていた時期があった。喫茶店ではなくパスタ屋さんで、イタ飯屋で。自分でもレシピを研究して、ペペロンチーノは極めたと思う。いまでも時々作る。

 しかし、そのような私とパスタの蜜月期間は意外に早く終わりを迎えることになる。つづく。


2006年10月03日(火) ナポリタン回帰派 その1

 何となく眠れなくてお腹もすいてきて、冷凍庫に「マ・ マー ソテースパゲティ ナポリタン」があったのでチンしてビールを飲むことにする。深夜1時半。キングオブ体に悪そう。ま、たまにはいいでしょ。普段何も考えずに献立を作ると「ご飯・味噌汁・豆腐・野菜」だから。こういうのマクロビオティックとかいうんでしょ。よく知らないけど。別にダイエットもしてないし、ロハスな人でもないんだけどさ。

 それはさておきこの「マ・ マー ソテースパゲティ ナポリタン」、なかなかいける。レンジで5分半ってのはすごく長いような気もするが。チーズとタバスコをたっぷりかけて、ケチャップをちょっと足したりしながら食す。そして眠れなくてヒマなもんだからナポリタンについてつらつら考える。

 今さら言うことでもないが、私はナポリタンが好きだ。美味しいかと聞かれると少し考えさせてほしいけれど、とにかく好きなのだ。やっぱり喫茶店のランチで食べるのが王道かな。で、その喫茶店で若い衆がナポリタンとか食べてるのを見てちょっと不思議だったりする。なぜ不思議かといえば、それは日本庶民におけるスパゲティ史にかかわってくることで、話せば長くなるから続きは次回。お腹がいっぱいになってビールも効いて、やっとこさ眠くなってきたんだもーん。もーんて。


2006年10月01日(日) 当世ペット事情

 こんなことを書くと、今のご時世では反感を買うだけだと思う。それはわかっている。時流に反しているのだろうとも思う。でも。

 いつのまにか犬や猫に「服を着せる」ことがそう珍しいことではなくなってきている。「うちの子」「この子」と呼ぶことは、珍しくないどころか普通になってきている。いろいろと特別な配合を施した専用フード、健康食品、排泄物の消臭のために食べさせるサプリメント。自動給餌機。ペットの美容院。犬が吠えないようにと声帯を取り除く手術。本当に、いつのまにこんなことになっていたのだろう。

 少子化に伴って、お子様市場の限界をペット市場で補おうとしているマーケティングの罠に、何故こんなにも容易く絡めとられるのか。たくさんのお金をかけて過大な愛情を注いでいるようでいて、その実それはただ支配欲を満足させているだけなのではないか。犬も猫も、ケモノだよ。人間とは違う世界を生きている、お互いに理解不能な別種の生物だ。それをわかった上で、それでもわずかに心が通じているような気がしたり、自分を認識して懐いてくれると嬉しかったり、いなくなると悲しかったり、そうやって一緒に暮らしていくのがペットなんじゃないの?吠えたり鳴いたりうるさいし、言うこときかないし、うんこやおしっこが臭いのは当然だ。だってケモノなんだもの。飼っているからといって、支配できるわけじゃない。ぬいぐるみじゃなくて、ケモノなんだから。

 私は3歳か4歳くらいの時に、おやつのクリームパンを犬のコロと一口ずつ分け合って食べているところを親に発見されて、そりゃもう怒られた。コロは「家のすぐそばの小さなお家に住んでいるおともだち」だと思っていたのだ。だから私はおやつを持ってそこに遊びに行った。でも大人になってからは、コロと私は違う種類の生物だと分かったから、一緒に散歩はしてもパンを分け合うことはしなくなった。ペットに服を着せたりしてる人を見ると、この人は大人になってもまだそれが分かってないのかなあ、と思ってしまう。


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