アナウンサー日記
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2001年01月31日(水) コンビニにて

 先ほど(午後8時頃)、コンビニのレジに並んでいたら、ワタシの前にいた中年女性(いわゆるおばちゃん)が「おでん」を購入していたのだが、店員に「おはしは何本ですか?」と聞かれ、一瞬「うーん」と考えた後、「2本くらいください」と応えた。
 念のため、という雰囲気で、店員が「2本でよろしいですか」と聞くと、おばちゃんは「はい」と小さく応えたあと「カラシも2個くらいください」と言って、店員を当惑させていた。


2001年01月30日(火) ラジオとテレビ その3 ボヤキが多い?

 なんだかボヤキの多い日記だと何人かのヒトに言われた(笑)。
 「日記を読むと、毎日、色んなことをボヤイたり、腹が立ったりしているねー」ということだ。

 読み返してみると、確かにそうだ(爆)。だが、理由ははっきりしている。


 面白いことは全部ラジオで話してるから・・・これに尽きる。
 

 ということで、ワタシのラジオは面白いんで是非聞いてください。(←あざとい)


2001年01月27日(土) ラジオとテレビ その2 AMラジオは古いのか?

 AMラジオの黄金時代というと、ズイブン昔のことのようなイメージがある。

 かつて、テレビが登場するまで、あるいはFMラジオが登場するまでの間・・・AMラジオは放送メディアの中心であり、人々の話題の中心であった。果たして今はどうなのだろうか?

 残念ながら、「その可能性と実力を持ちながらも、現状は違う」ということになると思う。

 現代は消費者に様々な選択肢がある。AM・FMを問わず、別にラジオを聞かなくても情報源はインターネットを始めいくらでもある。例えば音楽を聴きたければ、CDを買うなり借りるなり、ネットでダウンロードすれば良い。音楽専門の有線放送もあるし、ケーブルテレビのミュージックチャンネルも豊富だ。新譜紹介だって、大手レコード店ならどこでも独自にやっている。交通情報だって天気予報だって、インターネットやIモードで分かる。なんと便利な時代になったことか。この状況の中、AMラジオはまるで前世紀の遺物のようだ。

 では、AMラジオにしかない武器はないのか? ・・・ある。


 それはズバリ、「速報性」だ。これには、テレビもFMラジオもインターネットもIモードも絶対にかなわない。
 

 え?と思う方も多いかもしれない。しかしこれは紛れも無い事実だ。例えば、AMラジオから流れてくるニュースや天気予報などの情報は、他のどのメディアよりも新しい。
 
 その秘密は「報道部」を始めとした取材セクションの存在である。ほとんどのFM局は報道部を持たないし、一見新しそうなインターネットとIモードの情報コンテンツも、今のところは「2次・3次情報」・・・つまり、他の報道機関などが調べた内容をそのまま流しているケースがほとんどだ。そこにタイムラグが生まれる。

 また、ラジオは極端に言えば喋り手ひとりでも放送が可能なほど身軽なメディアだし、生放送が基本だから、突発時への対応が圧倒的に早い。(ラジオに比べテレビは数十人単位で動くのが基本なので、どうしてもフットワークが重い)このあたり、「長崎大水害」や「阪神淡路大震災」の災害報道を思い出していただければイメージしやすいのではないか。
 
 ぶっちゃけた話、最新の情報は、まずAMラジオで流れ、30分後にテレビに登場し、その数分後にやっとインターネットとIモードに配信される、といった時系列なのである。


 このように、とかく古臭いイメージがあるAMラジオだが、実は今でも最新情報の宝庫なのだ。


 で、その「古臭いイメージ」をなんとかしたくて、ずーっと悩んでるんですが・・・どなたか、良い知恵はありませんでしょうか・・・。(←これが一番言いたかったのデス)


2001年01月26日(金) うちのオッコトヌシ(笑)

 つい先ほどまで、テレビで映画「もののけ姫」を見ていた。
 「オッコトヌシ」というのは、その「もののけ姫」に出てくる、でっかいイノシシの親分のことである。

 1才5ヶ月の娘は、ワタシの奥さんのひざに抱かれて一緒に見ていたのだが、どうやら相当つまらなかったらしく(そりゃそうだろ)、テーブルの上のものを片っ端から落っことした。

 ワタシタチは「うちのオッコトヌシは明夏里だね」と言って笑った、冬の夜の団欒でありました・・・。

  
 ちなみに、落っことしたモノの中には、ガラスのコップなども含まれており、今、奥さんがブツブツ文句を言いながら破片を片付けているトコロなんである。いつもご苦労サマデス。


 余談ですが、やっぱ何回見ても「もののけ姫」ってタイトル、内容とそぐわないですねー。「サン」って、ズバリ脇役だし。宮崎監督もホントは「アシタカ」をタイトルに持ってきたかったということですけど。ま、タイトルのインパクトは随分と観客動員に貢献したでしょうから、興行的にはオッケーなんでしょねー。

 ともあれ、「千と千尋の神隠し」早くみたいなー。


2001年01月25日(木) 最近ムッとしたこと コンビニ篇

 とある寒い日、会社の近くにあるコンビニエンス・ストアのレジで。

 「同じ袋でよろしいでしょうか?」と店員が聞いた。
 とっさのことで、ワタシは反射的に「ええ、いいですよ」と応えた。

 だが次のアクションを見て、ワタシはすぐに後悔した。店員は、暖めたばかりのお弁当と冷たいウーロン茶を同じ袋に入れて、ワタシに手渡したのだ。

 会社に帰る道すがら、ワタシはだんだん腹が立ってきた。温かい弁当と冷たいウーロン茶を同じ袋に入れたらどうなるか、そんなの幼稚園児でも分かる。弁当は冷えるし、ウーロン茶はぬるくなる。両者ともに、本来のおいしさを発揮することができなくなってしまうのだ。

 ワタシはウーロン茶を袋から取り出して手に持って歩きながら、アレコレ考えた。あんな質問をされたのは今日が初めてだが・・・あの女性店員の自信に満ちた尋ね方からいって、恐らくどこの店でも同じ質問をするようにしているに違いない。つまり、ごく最近全国のチェーン店で一斉にマニュアル化されたのだ。

 ではなんのために? 考えられるのは、やはり「地球を守ろう運動」「コスト削減」・・・このあたりか。だが、モノには限度がある。「地球を守る」美名があれば、なにをしたっていいのか。冷やすとおいしいウーロン茶を開発した研究者や、電子レンジで暖めると完成するよう知恵を絞った弁当メーカーの努力は無視してもかまわないのか。ひいては、昼食の時間だけを楽しみにしている企業戦士や公務員、自営業者その他もろもろのささやかな楽しみを台無しにしても構わないと言うのか・・・。

 考えれば考えるほど、ワタシは納得の行かない気持ちが高まり、ある結論に達した。つまり、「今度はきっぱり断ろう」(笑)。

 

 あのう全国のコンビニ関係者の皆さま・・・「同じ袋でいいですか運動」、早く止めたほうがいいですよ。きっと、評判悪いと思います。

 


2001年01月22日(月) 会社の先輩 その1 ヒロさん

 なんだかシリーズが増える一方だが、書きたいネタはたくさんある・・・。

 きょう、会社で自分のHPを見ていると、わが社きってのベテラン名物アナウンサー、大先輩の通称ヒロさんがスーッと寄ってきて、ワタシの背中越しに話しかけた。

「んー?ムラヤマ、なんだいそれ」
「あ、ボクが作ってる個人のホームページです。いまウチの会社でも、自分で作ってるヒト増えてるんですよ」
「ほう・・・スゴイねえ(全然すごそうじゃない言い方)」
「はあ」
「ところで最近話題になってるねえ。あの、パソコンの画面にしか感情移入できない若者」
「あー、現実の人間関係を築けなくなっているとかいう・・・」
「(ワタシの肩に手を置いて)ヒロさんねえ、心配してるんだ、ムラヤマ・・・」
「・・・ありがとうございます」
「ふっふっふっふっふ・・・(去っていく)」

 それだけ。ちなみに、ヒロさんの恰幅のいいボディがパソコンの画面の前に座っている姿は一度も見たことが無い。でもワタシは、ヒロさんはホントはパソコンに触ってみたくてしょうがないんじゃないかと踏んでいるのダ。


2001年01月21日(日) 選抜女子駅伝北九州大会と、真面目に生きてきたごほうび

 ごらんになった方もいらっしゃるかと思うが、「選抜女子駅伝北九州大会」のテレビ中継で小倉まで出張してきた。(詳細は後ほどレポートで・・・)

 オンエアの解説は、あの!「増田明美さん」。あの世界的ランナーの増田さんと一緒に仕事ができる・・・もう、それだけでこの中継スタッフに参加できてよかった・・・という感じの、シアワセモードのワタシであった。

 オンエア前日の夜、増田さんをアナウンサー10人ほど(RKB・OBS・MRT・NBC・・・)で囲んでの打ち合わせ兼飲み会が行われた。ホンモノの(?)増田さんは小柄だけれどバイタリティーに溢れ、とても気さくな方で、一同いっぺんに増田さんのファンになった。

 さて、みんな程よくビールを飲み、増田さんを始め各局のアナウンサーたちのただでさえよく動く口もますます滑らかになったころ、ワタシの携帯電話がなった。電話のヌシはワタシとコンビを組むことが多いNBC・Sディレクターであった。タイミングとしてはちょっぴり悪かったのだが、ワタシは席を外して、彼の用件のラジオ番組の打ち合わせをした。

 電話を切る間際、増田さんを囲んで呑んでいることを伝えると、Sディレクターは「増田さん、なつかしいなあ」と言った。彼は、NBCに入社する前にTBSラジオでディレクターをしていた経歴があるのだが、そのころ、増田さんのラジオデビュー番組のミキシングを担当していたという。もう10年くらい昔の話だ。「増田さんは俺のこと覚えてないだろうけど」と彼は自信なさそうに言ったが、ワタシは電話を切ったあと部屋に戻り、Sのことを増田さんに伝えた。

 すると増田さんは、大きな目をひときわ見開いて「ええ、Sさん!覚えてますよ。あの番組から、私、色んなラジオやテレビにでるようなりましたから。あのころのことはよく覚えてます」とおっしゃったのだ。

 ワタシは携帯でSを呼び出し、増田さんに代わった。

 ふたりの会話の内容はよくわからなかったが、増田さんのラジオデビューとなったレギュラー番組がとてもいい雰囲気で行われていたことや、増田さんがその思い出を大切にしていること、そして思い出の中には、ちゃんとSの存在もあったということは分かった。

 電話をきったあと、実はSが諫早高校で陸上部の松元監督の教え子だったことを話すと、増田さんは「彼、そんなことひとことも言わなかったよ!」と驚かれていた。思うに、当時のSは、オリンピックランナーに自分がアスリートだったことをいうなんて、なんだか恥ずかしくてあるいはおこがましくてできなかったのではないか。

 同僚のワタシがいうのもなんだが、Sはマスコミの人間には珍しく、とても謙虚で慎み深い上、常識のある男である。生き馬の目を抜くようなこの社会の中で、不器用に真面目に生きているひとなのだ。だからいつも損ばかりしている(ように見える)。

 でも、増田さんは彼のことを覚えていた。10年も前のことなのに、名前まで覚えていてくださったのだ。ワタシはそれが、まるで自分のことのように嬉しい。


2001年01月18日(木) 雑煮が好きなんだ

 雑煮が好きだ。

 全国各地、様々な雑煮があるようだが、マイ・フェイバリットはやっぱり鶏の骨のダシ。これに薄く切ったカマボコと白菜、きのこ(なんでもよい)、刻んだねぎを浮かべ、最後に焼いたもちを入れるのだ!

 しかも焼きもちは、ちょっぴり表面が焦げてクリスピーでなければならない。おせんべいのようなその表面をカリカリと楽しんでいるうちに、やがてしんなりとしてきて、口にとろける。ああ、しあわせ。

 ところがなんと、帰宅してみると(ちなみに午前様・・・シゴトですよんトホホ)、なんとアルミ箔を切らしているではないか! これではオーブントースターでチンできないっすよ!ガビーン・・・。

 というわけで、今もちを煮ながら、キーボード叩いてます。説明書きによると、水から煮て、沸騰したら3分間置いとくといいらしい。うまくできるかなあ。

 ちなみに今、午前2時40分。こんな生活続けてたら、そりゃ太るわ。


2001年01月17日(水) 作家先生の誕生日

 作家先生とは、六つ離れたワタシの姉のことである。

 ご存知の方も多いかもしれないが、(隠してないけど・・・笑)、姉は長崎在住の児童文学作家だ。


 このヒトは、ワタシがまだ物心つく前から、ずーっと「小説家になるんだ」と言っていた。なんでも作家先生が5才のころ、天井からまぶしい青い光の塊りが落ちてきて頭を直撃し、「あなたは小説家になるのよ」と透き通った少女の声が聞こえたんだそうだ。なんとも不思議な話だが、それで本当に小説家になってしまったんだからスゴイものである。

 ・・・こう書いてしまうとなんだかなりゆきで小説家になってしまったようだが、姉が「もの書き」になるために費やした情熱と労力がどれほどのものだったか、すべてとは言わないけれど、ワタシは知っている。また、デビューすれば万事OKかというと、そんな簡単なものでもない。
 
 それをすべて書いていると大変な分量になってしまうのでいちいちここには記さないが、簡単に言うとまず大手出版社のコンクールに勝ち残ってデビューすること、その作品を「本」として出版すること、そしていよいよ「プロの作家」として出版社の様々な注文に応え仕事を安定させること・・・と、プロの世界には様々なハードルがあり、やはりアマチュアとは一線も二線も画す厳しさがあるということだ。それは、なんだか「ホンワカ」したイメージのある児童文学の世界に於いても、少しも変わらない。


 15年前、村山家には「あたしは小説家になるんだ」と言ってロクに就職活動もしない大学生の姉と、「人は何のために生まれてきたのか知りたい」などと公言し高校に通わなくなった弟がいた。ふたりの両親の悩みはさぞや深かったろうと今にして思う(笑)。しかしその6年後、姉は毎日新聞の童話新人賞を受賞し、翌年、弟は地元放送局のアナウンサーになった。


 本当に人生は面白い。だが、ワタシたちが面白くなるのは、まだまだこれからなのダ。(特にワタシ・・・笑)


 あ、言い忘れてた・・・作家先生、さんじゅううんさいの誕生日、おめでとー。


2001年01月16日(火) うちのお姫様 その1

 うちのお姫様、明夏里は今月13日で1才5ヶ月になった。
 
 お姫様は大変な宵っ張りで、毎日午前2時とか3時、遅いときは4時くらいまで起きている。夜泣きをするとかじゃなくて、「普通に」起きている。むりやり寝かしつけようとするとギャーギャー泣くが、ほっとくとニコニコ機嫌よく起きている。「そのうちびっくりするくらいあっけなく寝るようになるって」といわれ続けて早1年5ヶ月。生まれて間もない新生児のときからずーっと明夏里の生活リズムは変わらない。

 「村山さんの仕事が不規則だし、パソコンとかやって遅くまで起きてるから、明夏里ちゃんのリズムがくるったんじゃない」と指摘する人が多いが、それは違う。ワタシの仕事が不規則なのはその通りだが、ワタシ(と明夏里ママ)が遅くまで起きてるのは、はっきり言って明夏里が寝ないせいなのである。今年度は担当から外れたが、朝5時出社の番組を週一回担当していたときはもう、本当につらかった・・・。

 それでも、うちなりの努力はいろいろ試みた。

 例えば、「部屋を暗くするとよい」というので、3人川の字になって寝て電気を消すと、なぜか明夏里はおおはしゃぎで、ワタシと奥さんが先に寝てしまう始末。まあ、こっちが眠れればいいんだけど。でもこのときは、夜中にふと目を覚ますと目の前に明夏里の顔があって、しかもじーっとこっちを見てて大変怖かった。(夜中の3時だった)

 今、16日火曜日の26時40分。お姫様はやっと、ママといっしょに寝室に。
このままおとなしく寝てくれればいいのだが・・・。

 あ・・・ママがなんか怒ってる声が聞こえる・・・今夜もだめか・・・。

 


2001年01月15日(月) 34年ぶりの大雪!

 きのう「年に一度の4駆様々」という日記を書いたら、なんと長崎市は34年ぶりの大雪だそうである。長崎海洋気象台の発表では、長崎市の積雪13センチ(正午現在)ということだが、小高い丘の上にあるワタシの団地の周辺では、20センチ以上積もっているところもある。そう言えば、「着雪注意報」なんていう聞きなれない注意報も出た。

 何しろ、34年ぶり・・・そのときワタシは生まれていないので、つまり「生まれて初めてレベル」の雪ということだ。

 北日本の皆さんにとっては、13センチの積雪なんて大したことないかもしれないが、日頃雪を体験していない九州の人間にとってはもう大変! 長崎は坂の町でもあり、終日、交通マヒでパニック状態となった。(まあその変わり、ワタシたち九州の人間は、ちょっとくらい大きい台風が来ても、トウキョウの人のような大騒ぎはしないんですが。要は慣れの問題ですな)

 夕方から車で買物に出た。ウチは長い長い坂のてっぺんにある。エンジンブレーキと4WDを使って慎重に降りていく。基本的に4駆は、上り坂で困ることはない。怖いのは下り坂だ。いかな4駆とはいえ、ブレーキ性能は普通の車と変わらない。一番怖いのは下り坂でタイヤのグリップを失うことだ。それにしても坂の途中、あちこちで動けなくなり、置き去りにされている車を見かけた。なぜこんな雪の日に、チェーンも巻かずに普通の車で出かけたのだろうか? さっぱり分からない。もっとNBCニュースの気象情報を参考にしていただきたい。(←こらこら)

 何事もなくふもとのスーパーにたどり着き、鯛の刺身が半額になってたので買ったりした。今夜も魚じゃ・・・! 

 このまま街に繰り出して、雪に包まれた景色を見て回りたい欲求に駆られたが、雪に不慣れなドライバー(偉そうな言い方じゃ)のスリップ事故に巻き込まれる危険性を考え、やめた。

 今夜も窓越しに雪を見ながら、焼いたスルメを肴にそば焼酎の梅干し入りお湯割りを呑むんである。ああ、シアワセ。日本人に生まれてホントによかった。


2001年01月14日(日) 年に一度の4駆様々

 ワタシは4輪駆動の車に乗っている。

 4駆の形式にも色々あるが、ワタシの車の場合は、普段は2輪駆動のFR(フロントにエンジンがあってリアのタイヤを動かすシステム)で、必要なときだけ4輪駆動にできる、いわゆるパートタイム4駆である。

 これは4駆の中でも「イチバン本格的」とされるシステムなのだが・・・いかんせん、九州は長崎県の都市部に住んでいると、その「必要なとき」というのがほとんどない。つまり、雪は滅多に降らないし、よっぽど山奥に入らないかぎり未舗装道路もない。なんだか宝の持ち腐れだが、4駆に乗ること自体がワタシにとっては非日常的冒険世界へのパスポートのような感覚で・・・この際役に立つかどうかなんて、どうでもよかったのだ。まあ、イメージ優先の街乗り4駆の典型というか。

 ところがきょう、長崎では朝から粉雪が舞い、夕方から花びらのようなボタン雪に変わった。午後7時過ぎに退社して車を走らせ、家路を急いでいると、あっという間にアスファルトに積もりだし、ワタシの前を走っている白い国産高級車のテールが流れ、ハザードを点滅させて泳ぐように路肩に止まった。ワタシは慌てず騒がずギヤを4輪駆動に切り替え、何事もなかったかのようにその場を通り過ぎた。

 落ち着いて運転しながら、ワタシはやっぱりわくわくしていた。この瞬間を味わうために、ハンドルが重かったり燃費が多少悪くても、4駆に乗っていたようなものなのだから。ワタシの家は長ーい坂のてっぺんにあるのだが、蛇行しながらじわじわ這うように登っていく他の車を尻目に、ワタシの相棒は真っ白な坂道を力強く登りきり、無事に我が家にたどり着くことができた。

 よくやった相棒。キミはワタシを、安全にそして確実に我が家へ送り届けてくれた。

 まさに、4駆様々!である。

 


2001年01月11日(木) ラジオとテレビ その1 ワタシの肩書き

 ワタシの肩書きは、NBC長崎放送ラジオ局放送制作部アナウンサーである。

 名刺をどなたかに差し上げると、十中八九「あ、ラジオのアナウンサーなんですね」と返ってくる。中には、「テレビ局に異動にならないんですか?」とか、自慢げに「私はお宅のテレビ局の○○アナと知り合いでねえ」とおっしゃる方も。

 ところが結論から言うと、NBCのアナウンサーは、全員、ラジオ局所属なのである。長崎県の皆さんなら多分よくご存知の林田ANも佐藤ANも宮脇ANも、それから塚田ANも、みんなラジオ局のひとなのである。

 え?と思う方も多分多いと思うが、ホントにそうなんだから仕方が無い。

 で、実は全国の民放ラテ兼営局(ラジオとテレビと両方ある放送局という意味のギョーカイ用語)では、アナウンサーはラジオ局に所属し、ラジオ局を拠点にラジオ・テレビ両方の仕事に関わるスタイルを持つ局が結構多い。何故かというと、一般的にラテ局アナウンサーはラジオの仕事のほうが圧倒的に多いので、その方が効率的だからだ(と思う)。

 例えば、NBCでいうと、テレビの自社製作率は一日の15パーセントくらいだが(ちなみにローカル局の中ではかなり高い方です)、ラジオの自社製作率は約40パーセントに達する(これもズイブン高い)。


2001年01月10日(水) 成人式に思う。長文デス。

 20才のとき、ワタシは成人式に出席しなかった。

 当時住んでいたのが東京都練馬区。長崎出身のワタシはきちんと住民票を移していた(移さない不届き者が多数派)ので、練馬区から成人式の招待状が届いたが、オマケについてきた豊島園遊園地のチケットだけもらい(爆)、式には出なかったのだ。

 なぜ出なかったのか?

 理由は明白。当時、20才のワタシは自分のことを「成人=大人」だとはとても思えなかった。20才のワタシは「自分はまだまだ子供だ」とちゃんとわきまえていた。だから、自分は式典で祝っていただくわけにはいかない、と思ったのだ。

 かと言って、まわりの20才たちが、自分よりもみんな大人に見えていた訳でもない。まあ、少なくとも自分の友人たちの中に「大人」として尊敬できる人間はいなかったと思う。
 大方の20才たちが式に出る理由は、「日本の伝統行事だから」だったり「親が喜ぶ顔を見たいから」などの七五三と同列の感覚だったり、「故郷の友達と久しぶりに会えるから」だったりするんだろう。あるいは「成人式に出る理由なんて考えたこともない」なんて手合いが多数派なのかもしれない。そう考えると、当時のワタシは子供なりに「わざわざ税金使ってやる価値あるんだろーか、もったいない」と思ったものだ。

 それでも、世の中は広いんだから、中には成人式に堂々と出席できる立派な若者たちもいるだろうと考え、そういう皆さんにとって素晴らしい式になればいいと思った。でも自分は違う。「きょうは成人式なんだから、君たちはもう大人だ」なんていわれても困るのだ。大人にははやくなりたいけれど、自分は世の中の行事ごとで大人にされるのはいやだ。でもせっかくもらった豊島園遊園地のチケットはもったいないから遊びに行こう・・・(笑)。



 21世紀初めての成人式となる今年も、全国各地で、式の進行を妨げる出席者が続出した。

 ワタシは、群れるタイプの人間が基本的に苦手だ。さらに言うと、集団になると暴走する輩は大嫌いだ。はっきり言ってゴキブリなみに嫌いなのである。(群れるということで両者は共通している・・・笑)ちょっと話が横道にそれた。
 ある自治体では、式を阻害した若者たちを「威力業務妨害」で告訴することにしたそうだが、当然のことだ。20才は、法律的には「大人」以外の何者でもないのだから。年齢だけ「大人」でアタマは「子供」な連中をこれ以上甘やかすことはない。



 最後に。大荒れ成人式関係のニュースで、「あんなことするんじゃ成人とは言えない」というインタビューコメントが目立ったが、それはちょっとおかしい。成人とは言えないどころか、「誰かが壇上でお話しているときにお喋りしちゃいけない」なんて、幼稚園児だって知っているはずだからだ。

 
 じゃあ、成人式で騒ぐ彼らはなんなのか?・・・ひとつ言えることは、彼らを育てた親や教師や環境があったからこそ彼らはああなったわけだし、やがて彼らもまた近い将来、親になったり後進を指導する立場になってしまうということだ・・・。


 そして、暴れる若者たちをまったく止めようともしなかった出席者(同級生)たちに、果たして問題はないのか?


2001年01月09日(火) さようなら、ランちゃん

 きのうの朝8時55分。実家の姉から「ペルシャ猫のランちゃんが未明の1時に亡くなった」と涙声で電話がありました。もうすぐ10才になる、目前でした。腎炎を患っていたのだそうです。

 「蘭」ちゃんは、91年3月、姉が毎日新聞の童話新人賞を受賞したお祝いに、村山家に来ました。以来、ランちゃんは私たち家族に(7年前に亡くなった父を含め・・・)、色んな幸せや安らぎを運んで来てくれたのです。

 彼女はまぎれもなく村山家の一員であり、家族でした。最期は、姉に撫でられながら眠るように息を引き取ったそうです。

 お昼から長崎市内のペット霊園に家族で行って、ささやかなお葬式をしました。

 さようなら、ランちゃん。今までどうもありがとう。


2001年01月08日(月) ラグビーの面白さは、世界いちィィィィー!パート3

 さらにきのうのつづき。


 佐賀工業の小城監督は、毎年秋口になると「村山さん、今年の佐賀工業は史上最強のチームですよ」と言う。「去年の3年生が引退したときはもうだめかと思ったんですが、1年経ったらびっくりするくらい強くなってました」・・・これを毎年言う。セリフもほとんどいっしょ。変わるのは強さの理由が年によってフォワードだったりハーフだったりするくらい。何しろ特筆すべきは、小城監督が毎年本気でこのセリフを言っているということだ。これは素晴らしいことである。
 
 いつぞや、伏見工業の山口先生と一緒に呑む機会を得たとき、先生は私の両腕を握り締め、「ボクはラグビーのことがホントに好きで・・・ラグビーが好きだって口にするだけでもう、涙が出てくるくらいなんです・・・」と言ってホントに泣いた(ちょっと酔ってましたけど)。「でもね、ボクがグラウンドでぶわわって泣きながら、子供たちにね、お前はラグビーが好きかって聞いたら、やっぱり子供たちもぶわわって泣きながら、先生ボクもラグビーが好きやって言いよるんですわ」


 ・・・いかがですか? こんな素敵に熱い指導者たちがたくさんいるのが、ラグビーって競技の魅力のひとつだと思うのです。


 それにしても、きのうの全国高校ラグビー決勝戦は、ふたりの名物指導者(失礼!)に会いに行くだけでも、花園に足を運ぶ価値のあるゲームだったと思うんですが・・・。(もちろん言うまでもありませんが、真の主役はフィールドの選手たちですよ!)


 かえすがえすも、あのスタンドの空席、もったいない!

 


2001年01月07日(日) ラグビーの面白さは、世界いちィィィィー!パート2

 きのうのつづき。

 隆盛を極める高校サッカーとは対照的に、全国大会の地区予選参加校が減る一方のスポーツがある。ラグビーだ。今年も地区参加チームは900校を切った。サッカーの4分の1以下である。

 かつてラグビーは、野球と肩を並べる高校花形スポーツのひとつだった。

 特に20年程前、実在のチームにヒントを得て、札付きの不良ぞろいの工業高校が全国大会で優勝するまでを描いた「スクールウォーズ」がテレビ放送されたとき、その人気は頂点に達した。冬のラグビーシーズンならずとも、大阪の花園競技場や東京の秩父宮ラグビー場には、老若男女問わずいつも大勢のラグビーファンがつめかけていた。



 きょう、ラグビーの聖地花園で、第80回全国高校ラグビー大会(ワタシが年末、出張で行ってきた大会)の決勝戦が行われた。

 粉雪が舞う中、あの「スクールウォーズ」のモデルになった京都・伏見工業の赤のジャージィが鮮やかな芝の上に姿を現した。今は総監督となった、あの泣き虫先生こと山口良治先生の姿もスタンドにあった。迎え撃つのは、初の優勝旗を狙う重量フォワード、佐賀工業。決勝戦にふさわしい、すばらしいゲームの予感。

 ・・・だが、テレビに映った花園第一グラウンド観客席は、なんだか空席が目立ったのだ。

 悪天候のせいだろうか? みんな濡れないように傘があるところに避難したのだろうか? 
 いや、本来ラグビーやサッカーなどオールウエザースポーツの観客は、選手が雨や雪で濡れているときは自分も濡れながら応援するのが心意気のハズ・・・。

 結局、試合は伏見工業が佐賀工業をノートライに抑え、3度目の全国優勝を飾った。泣き虫先生こと山口総監督は、3度目もやっぱり泣いた。偉大な指導者のあとを引き継ぎ、初めて優勝できた高崎現監督も顔をくしゃくしゃにして男泣きに泣いた。佐賀工業の小城監督は笑顔でフィフティーンを迎え、「お前たちはよくやった」と健闘をたたえた。

 私はテレビの画面を食い入るように見つめながら、自分がいま現場にいないことが、とても悔しかった。そして時折画面に映る、空席の目立つ青いプラスチックシートが恨めしかった。



 声を大にして言いたい。皆さん、ラグビーは面白い! 是非、フィールドに見に行きましょう。敵味方30人の肉体と精神がぶつかり合う、ほかのスポーツにはない醍醐味が、確かにあるんです。



2001年01月06日(土) ラグビーの面白さは、世界いちィィィィー!パート1

 いまさらだが、高校サッカーの人気は今や国民的だ。冬の全国大会地区予選参加校は4000校を突破し、もはや夏の甲子園大会予選参加校数をも上回っている。

 この少子化のご時世、これはスゴイことである。
 
 その人気の秘密を分析すれば、「Jリーグの発足」をはじめ様々な要因が考えられようが、やはり私は、野球などと比べ今ひとつサッカーがマイナーだった時代に「サッカーが一番面白い」と信じて地道に支えてきた、指導者や選手自身、あるいはマスコミなど、色んな立場の名も無き人々の努力こそがすべてと思っている。
 
 ここ数年華々しく登場してきた人々は、先人たちが不器用にコツコツと切り拓いた、かつていばらだらけだった道を、おしゃれな外国製のスポーツカーに乗って気分よくドライブしているようなものだ。

 誤解を招くといけないので一応断っておくが、私は高校サッカー人気について批判をしたいわけではない。むしろ人気が花開いたことに心から拍手を送りたいし、この人気が一過性でなければいいと考えている。ただ、どんなスポーツにも、華やかさの陰に目立たない縁の下の力持ちがいることを忘れてはいけないと思ったのだ。

 ラグビーの話をするはずだったのに、前ふりのサッカーの話が長くなってしまった・・・つづきはあした。(あしたは面白いぞ!)

 


2001年01月03日(水) 回転寿司っていいっすよね。でも腹の立つ客もいるよ。

 ここ数年、遅ればせながら、こちら長崎でも回転寿司ブームである。

 考えてみれば、長崎ほど回転寿司に適した土地はなかったのだ。

 なにしろ、長崎県には近海物の水揚げでは全国でも1・2を争う漁港がある。長崎は有名な観光県である以上に、全国有数の水産県なのだ。大げさに言えば、東京などの大都市では何千円も出さないと食べられないような(あるいは絶対に食べられない)新鮮な魚が、長崎の市場では庶民価格で簡単に買うことができる。東京だったら刺身で食べるような魚を、長崎のひとは平気でフライにする。長崎から出たことのない人は気づいていないが、食通にとってこんなに贅沢なことはない。おしなべて物価の高い長崎だが、新鮮な魚だけは掛け値なしに安いのだ。

 で、回転寿司だ。かつてのわたしのイメージでは、回転寿司は「安かろう悪かろう」の代表選手であった。東京での大学時代、お金はないけど栄養をつけたいときは、よく友達と近所の100円回転寿司に行ったものだ。もちろん、安いけれども、ネタもそれなり・・・。実際、長崎に回転寿司チェーンがなかなか進出して来なかったのも、わざわざ回転寿司に行かなくても長崎では新鮮な魚が安く手に入るからだし、いわゆる昔ながらのお鮨屋さんもそれなりにリーズナブルなお値段で楽しめたからだと思う。

 ところが、このところ長崎市を中心にオープンしている回転寿司店はこれまでの(わたしの?)既成概念を覆した。まず、ほとんどの店が、ネタは魚市場直送かあるいは店自体が魚屋さん直営である。それこそ今朝揚がったばかりの魚が目の前でさばかれ、握られる。こんな芸当、長崎以外の場所ではなかなかできまい。そして、人気のある店ほどネタもどんどん回転!するから、価格も安く抑えられる好循環だ。今や長崎は、全国でもっとも回転寿司がおいしい土地になったといっても過言ではないと思う。魚に目がないわたしはとーっても嬉しいのである。

 ・・・最後にひとこと。

 回転寿司店で、横柄な態度を取る男性客が目立ちます。「おう、にいちゃん、エビ握って!」みたいな。ここはカウンター形式の店とはルールが違うんです。それによく見ればさっきからエビまわってマス。あと、ちょっとくらい味噌汁くるのが遅いからって、怒っちゃいけません。お客さん多いんだから。あなただけが客じゃありませんよ。あと、お茶がなくなったら、自分でつぎましょう。セルフサービスを「サービス低下」と捉えることなく、日本風のバイキングスタイルと解釈すればまた楽しさも広がるのではないでしょうか。それからそれから・・・うーん、今度見かけたら注意してやろうか、ホント。
 
 


2001年01月02日(火) 頑張れ自治会長!「蛍光灯の恐怖」

 きょうは昼過ぎに起き、年末から頼まれていた団地の階段踊り場の切れた蛍光灯を変えることにした。
 なにをかくそう、わたしはとある小さな団地の自治会長である。自治会長の仕事は、自治会費の管理からお知らせの配布、連合自治会(自治会長が集まる会議)への出席まで様々あるが、団地の自治会長に限って言えば主な仕事はズバリ、草むしりと蛍光灯の取替えである(と思う)。

 なぜ年末に頼まれていた蛍光灯交換を年が明けてからやるのかというと、年末はラグビー中継で長崎にいなかった(妻と子は実家に帰省)のと、帰って来たら、蛍光灯が切れている階段を使う皆さんが、旅行やらなにやらで不在だったからだ。それをいいことに、すっかり正月気分で自治会長の仕事をおろそかにしていたわたしだが、やはり正月3ヶ日が終わる前には片付けておきたい。

 で、あらかじめ購入しておいた蛍光灯数本を手に、念のため団地全体の階段を調べてみると、すでに切れている蛍光灯と切れかけているものと合わせて、5本もあった。考えてみれば同じ製品をイコール・コンディションで使っていれば、寿命も似たようなものだろう。ま、5本だろうが10本だろうが、蛍光灯交換なんてカンタンだ。

 わたしは普段パソコン用に使っているパイプ椅子によじのぼり、階段踊り場天井の蛍光灯に手を伸ばした。・・・外れない。なんだか蛍光灯の両サイドに丸いパイプのようなものがしっかりとはまっている。回せばとれるだろうか? 思いっきり力を入れるとパイプが回転すると同時に、ムシの死骸がボロボロ落ちてきた。なにをかくそう、子供のころ昆虫博士だったわたしも、今となってはムシが大の苦手である。わたしは心の中で叫び声をあげた。決して口は開けられない。顔を天井に向けたこの状態で口を開けたら、大変なことになってしまう。わたしは椅子の上で両手を上に伸ばし、外れかけた蛍光灯を支えたまましばらく凍りついた。その間、息もできない・・・。
 10数秒後、意を決したわたしは息を止めたまま淡々と蛍光灯交換を終え、コートを思いっきりばたばたはたいた後、階段を降りて深々と深呼吸をした。ふーっ。

 結局こんな調子で、無事(?)蛍光灯5本全部の交換を終えたわけだが、中にはご丁寧にカバーつきの蛍光灯も一部あり、カバーを外すとそこには、大量のカナブンやらクワガタやらスズメバチやらの・・・以下略。

 自治会長は何しろムシとの戦いが多い仕事なのである。気の弱い向きにはとてもすすめられない。「絶叫!草むしりの巻」はまた今度。


2001年01月01日(月) これでいいのか21世紀!

 皆様は、どんな新年をむかえられたでしょうか? 
 
 わたしはと言いますと、年が変わる瞬間は仕事の打ち合わせの真っ最中(・・・というか夜食つまんでた)長崎放送6階のラジオ局で、番組スタッフとともに迎えました。

 その瞬間は、長崎港でカウントダウンイベントの花火が2001発打ち上げられているのが窓からちょうど見え、なかなかいい眺めでございました。

 それにしても・・・21世紀! 21世紀ですよ!
 
 21世紀って、ほんのちょっと前まで、「未来世界」の代名詞でしたよね!? それが、ああ・・・なんと平凡で、日常的な2001年の到来だったことか・・・もうがっかり(笑)。

 だって車は空飛んでないし、チューブの中も走ってないし、人間型アンドロイドもいないし(注・歩いたり踊るだけじゃなくてちゃんとしゃべったりするやつ)宇宙人も攻めてこないし、セカンドインパクトもない・・・。

 科学者の皆様には、もうひとふんばりもふたふんばりもしていただき、なにとぞ、わたしが生きてるあいだに、「SFな未来」を実現していただきたいのであります。


 


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