思い、願い。。
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中学受験日記。 (上の子(娘)の受験は2004年2月まで)

中学受験日記から4年数ヶ月、その間、3人目出産、起業し・・・

2003年03月23日(日) 弟の告別式

朝8時頃着くと、母が数人と弟の傍にいた。
夜は帰ると言っていた母だが、寝ないで傍にいたようだった。

母たちはまだ食事をしていないと言うので、
私たちがいるから、と交代した。

静かだった。
写真を見て涙が出て、弟の棺をなでて涙が出て、お線香をあげて涙が出て、
夫は何も言わずにずっと私の傍にいた。


昨日も今日も、たくさんの人が来た。ほとんどは弟の会社の人たちで、働き盛りの男の人たちばかりが数百人、すごくたくさん来た印象がある。こんな男社会の中で、弟は働いていたんだ。そして、弟の子どもの幼稚園関係、同じくらいの子どもを連れで来ていた。

お花を添える準備をするから、と一度外に出る。何人かの人に声をかけられるが、言葉を出そうとすると涙がこぼれて止まらなくなってしまう。だから、ただうなずくだけ。お花を棺に添える時になって、母が私の背後から私の肩に手をかけ、やっと立っているような状態でいる。振動が伝わってくる。泣いているのだ。私は母を思いやる余裕がなく、ただ立って涙を床に落としているだけだった。再度親族がお花を添える番になり、母が棺の前で号泣する。今までほとんど泣かなかった母が、声を出して泣き崩れている。こんなに冷たくなっちゃって、と顔にふれる。私も手を伸ばし、弟の髪の毛をなでる。感触は生きてるみたいなのに、体温は氷っているように冷たい。

最後にお嫁さんが弟の顔に手をあて、おでこにキスをした。棺が閉じられた。

バスで移動して火葬場へ。最後のお別れです、と弟の顔と最後の別れ。夫は、「お前はお姉ちゃんなんだから、早くいけ。」と私の背中を押す。前に出された私を親族が先に行くよう招く。私が戻ってくると、「俺は一番最後に行くから。」とささやき、夫以外の人が全員終わってから行く。
なんだか嫌だった。ここには赤の他人もいる。同じ会社の人間というだけで、悲しみを感じるのかどうかもわからない人たち。物珍しそうにでも見ているのだろうか。私が気が狂ってしまうんじゃないかとさえ思った。同じ空間に、淡々と行事のようにこなす顔を見ると、吐き気さえする。仕方のないことなのに、余裕がないんだ。弟の棺が火の中に消えていく。お嫁さんが弟の名前を叫んで泣き崩れる。父の奥さんが泣き崩れる。

待合室へ。父は私に同じテーブルに座るよう声をかけてくれたが、夫と共に、別のテーブルに座る。父が私を気にしてくれて声をかけてくれることは、正直嬉しいことだ。何を言われたって、私の父親であることには間違いない。一緒に仕事しようなどという気持ちは、さらさらないし&家族ぐるみで付き合いたくもないが、子どもの頃の思い出は悪いものばかりでもない。むしろ、今となっては、日曜日に一緒に自転車の練習に連れてってもらったり、バイクの後ろに乗せてもらったり、父が食事している時に父の膝の上で座っていたことが思い出される。本当は会う気なんてなかったんだ。

あの時以来、全く返事はなかったし、もう向こうも連絡する気はないんだろう、と思っていた。こんな形で会うとは思わなかった。皮肉なものだ。

私が死んで、弟に会うことができるなら、弟にいろんなことを聞きたい。どうしてこうなったのか。どういう気持ちなのか。本当はどうしたかったのか。きっと、あたりさわりのないことを言うんだろうか。弟は私と違う。何も考えていないのか、ただの平和主義なのか。

父のテーブルに向かい、父の奥さんに挨拶をする。「落ちついたら、弟の話をいっぱい聞かせてください。」と伝える。

父の奥さんと私とで、一緒に弟の骨をつまむ。大きな骨だ。骨壺に入れようつまんで持ち上げる瞬間、大きな骨は崩れてしまう。泣いちゃいけない、私が泣いては駄目なんだと思っても、涙と一緒に声が出てしまう。一番最悪な瞬間だった。弟はどこかでこの光景を見ているのだろうか。



2003年03月22日(土) お通夜

弟とは大人になってから一度会ったきり。
2年前に会ったっきり、会っていない。

まだまだ話したいことがいっぱいあった。

なんで1万円札持ってきちゃったの?とか、
なんで突然電車に乗ってきたの?とか、
本当はさみしかった?とか、
小さくて細くて、あんなに泣き虫でうじうじしていた弟が、
今では体格もよくなって、頼りがいのある一人前の男になれたというのに、
これからいっぱいいっぱい思い出が作れたというのに。

新居に引越したら遊びに来てよって言われてて、
こんな形で遊びに行くなんて思わなかった。
あんたはただ横に寝てるだけじゃないか。
何も話さない。何も言わない。

私はずっとわけがわからなかった。

母は再婚し、私には帰る実家もない。

弟の存在は、たった一人の将来思い出話ができる相手だった。

引越引越で当時の友達も近くにはいない。

「いい男は早く逝くんだ。」
「あんなに優しくていい子だったのに。」

みんなが口々に言う。

母が私と弟を面倒見ている時に、父はよく酔っては家に来て、
中に入れろ、と窓硝子を拳でたたいた。
針金入りの窓にはこれでもかとヒビが入った。

弟は
「僕がお父さんのところに行ったら、お母さんはたたかれなくて済むでしょ。
僕お父さんのところに行くよ。」
と言ったそうだ。

私は
母の上着の裾を掴み、母の影に隠れ、
「私は絶対に行かない。」
と言ったそうだ。

弟はいつから変わったの?

お通夜の時間より早く着くと、ご家族の方はこちらへと案内され、
弟が綺麗にされていた。

親戚たちが私に一番前の席に座るよう手招きし、
最前列の左端の席に座った。

お嫁さんが子どもに「パパかっこいいね。」と何度か話していた。
私は涙ばかり出てきた。

大学時代の弟の写真は、いつも中央にいて、思いっきり笑っていた。
仕事での弟も、出世街道まっしぐらのようだった。
そんな弟を父も誇りに思っていたし。

俺がお母さんを面倒みるからって言ったんじゃないかい?
どうして自分が先に死ぬねん。
おばあちゃんが危ないからって会いに行ったんじゃないんかい?
もうおばあちゃんとは会えないかもしれないからって。
あんたが死んでどうすんねん!

父と母は私が小2の終わりに離婚して、一度、私と弟は長崎の田舎に預けられた。
小3から中学に上がるまで、母が私と弟を育てた。

父は再婚し、弟は父の元へ行った。
再婚した相手(新しいお母さんとなる人)が子どもを生まないという条件で、弟は父の元にいった。
そのため、妊娠してもおろしたようだった。
育てのお母さんは、弟をとてもかわいがってくれたようだった。
お通夜でもお葬式でもずっと泣きっぱなしだった。
母に対してずっと謝っていた。
私に対しても謝っていた。

弟がいなければ、自分の子を産んだだろうに、
自分の子を産んでいれば、これほどの悲しみはなかったかもしれないのに、
たった一人の血のつながらない子に、いっぱいの愛情を注いできて、
自分より先にそれも33才で亡くなってしまうなんて。

私も彼女の実家へは遊びに行かせてもらったことがあったし、
弟家族の家で食事をしたこともあった。
当時の父は、私もそばに置いておきたかったようだが、
母は反対して、私も拒んだ。

弟は優しい。
いや、優しいのか単にバカなのか、その辺は今も不明なままで、
新しいお母さんにもすぐなつき、優しくして接していたようだった。

父が持ってきた弟の写真には、私と同じショットでローラースルーゴーゴー
に乗っている弟の姿があった。これ、全く同じ日に撮ったんだ。

家に帰ってきてもう一度確かめる。
夫が「あの写真は黄色だったよ。」

私のは水色だった。
「俺の記憶力が正しければ。」
翌日にもう一度確かめる。
本当だ、黄色だ。
どうして黄色だったんだろう。
二台もローラースルーゴーゴーを持っていたのか?

私は自分が持っている弟の写真を次の日に持っていこうとしていた。
夫は、
「それはお前の宝物なんだから、人前に持っていくのはやめなさい。
お前が持っていればいいものなんだよ。
持っていって傷ついたり、無くしたりしたら嫌だろう。
そうなってからじゃ遅いんだからね。」
と言った。

最初は理解できなかった。
だまって考えた。
うん、持っていくのはよそう。
奥さんにには遊びに来てもらった時に見せよう。

お通夜の夜だから、泊まる覚悟で用意はしていたが、
「ずっといると疲れるから、寝るだけでも家に帰った方がいい」
と夫から言われ、状況によって決める、と言ってあった。

弟のお嫁さんも小さい子どもがいるから、と、帰ったので、
その後、少しして私たちも帰ってきたのだ。

子供達は実家に預かってもらっている。
アルバムを眺め、泣いて、布団に入った。



2003年03月19日(水) 弟が死んだ

今朝6時過ぎに電話が鳴った。

夫はここのところ現場が遠いので、5時には家にいない。
嫌な予感がした。

母からだった。

ひょっとしておばあちゃんが亡くなったのだろうか。

「落ちついて聞けよ。」

「○○が亡くなったんだよ。」

弟の名前だった。

「はあ?」

心臓がバクバクした。
口から泡が出そうな気がした。
息が苦しくなった。

交通事故で、乗用車に乗ってて、横から来たトラックがぶつかってきて引きづられ、ほとんど即死状態だったって。今まだ病院にいて、連絡待ちだって。

何がなんだかわからなかった。

夫に電話をした。
夫も何がなんだかわけがわからないようだった。

父からもメールが来ていた。
弟が交通事故で亡くなったとの内容だった。

昼にまた母から電話がかかってきて、弟は自宅に戻っている、と。
顔を見にいくから一緒に行けないか、と言われた。

義母に電話し、子どもたちを預かってもらうように頼んだ。
子どもたちが学校から帰って来ると、実家に行かせ、
在宅の仕事の引き継ぎを終え、向かった。

1時間半、駅に着くと、母が駅前の店でお寿司やらを買っていた。
私は弟の子ども用にとデザートを買った。

小学校の頃は小さかった弟だが、中学か高校生の時に会った時は、
既に私を追い越して、細くてひょろ〜と背が高くなっていた。
それから更にすくすくと成長し、180cmくらいになっていた。

弟のお嫁さんのお母さんが駅まで来てくれて、
今、弟の好きだった花を注文したところだから、と言う。
黄色が好きだったから、と黄色とオレンジ、白を組み合わせた花束を受け取って行く。

駅から15分くらい歩いたところの住宅街で、
2Fに上がる。

リビングに大きな弟の身体が横たわっているらしい。

母もすぐは弟の顔を見ようとはしない。
世間話のようなまるで、弟の死で来たんじゃないような、
そんな始まりだった。

母は、弟の顔を見ても、涙も流さなかった。
母は、弟の足を見ても、泣かなかった。

母は、ただ、お墓のこととか、保険のこととか、今話さなくていいことばかり口ばしってた。

弟はきれいな顔だった。
凛々しかった。
右の頬は車のガラス片が刺さって赤い傷がいくつもあったが、
左の頬をこちらに向けて眠っている弟の眉は凛々しく、きれいな顔立ちだった。
本当に眠っているみたいだった。

足もきれいだった。
弟は足の甲の横に大きなホクロがある。
それを見なきゃ、と思って、弟の足に触った。
冷たかった。すごく冷たくて涙が流れた。

「冷たい、冷たい。」

それしか言えなかった。

お嫁さんが現場に花を添えにいくというので、
お嫁さんと、お嫁さんのお父さんにくっついて一緒に行った。
三台の自転車で縦に並んで行った。

現場の交差点の民家の塀には、思いっきりぶつかって引きずられている跡があった。
路面にもトラックがひきずっているような跡があった。
隣の民家の柵の向こう側までいっぱいのガラス片が散らばっていた。
次の交差点のところ近くのガードレールの下に乗用車という文字が書かれ、
弟の車の位置らしいものが書かれていた。

事故を見かけた方は警察まで連絡ください
という立て看板のところの下に、
お嫁さんと一緒に花をくくりつけた。
取れないようにと何重と結びつけた。

家に戻り、暗くなってきたので、母に一緒に帰ろうと言った。

母はおかしかった。
弟の子どもに、たった4歳の子に、
「かわいそうになあ。」
と言い、頭をなでた。

お嫁さんに、
「疲れてたのかねー。休みの日は休ませてあげないとねー。優しい子だから家族サービスしたんだねー。」
と言っていた。

そんなことを言っている母が嫌でたまらなく、
保険の話も、お墓の話も、
「今、話すことじゃない。」
と言い続けた。

こんな時に、膝が痛いという母も嫌だった。
膝は痛い、でも、生きているじゃないか。
膝が痛い、でも、今のこの時間は今一度きり。

私はお嫁さんの前から母を連れ去りたくて、
もう帰ろう、と言った。

このまま電車に乗って途中で別れてもよかった。
でも「ご飯食べていこうか。」と、中華料理屋へ寄った。

誰も客がいない。
うさんくさい店である。

案の定、出てきたラーメンは、この世のものとは思えないくらいマズかった。
ミニチャーハンもマズかった。

母は「悲しいはずなのに涙が出ないんだ。全然出ないんだ。」
としきりに言っていた。

あまりのマズさに残し、母がトイレに行っている間に会計を済ませ、
電車に乗り、途中の駅で別れ、家に帰ってきた。

帰ると父からメールが届いていた。
行った事に対してのお礼のメールだった。

その夜は徹夜で仕事、翌朝までに納品、スタッフのお陰で何とか間に合わせることができた。



2003年03月17日(月) 夫が泣いた

雨で夫が休みだった。
夫は昼前から免許の書き換えに出かけ、4時過ぎに帰ってきた。

私はPCに向かって入力の仕事をカチャカチャやりながら、

「(今月)パパから1万円借りて返してなかったっけ?」
「ああ、米代が無いってね。」
「月末に返すからあと1万貸してもらえるかなー。」

「そんなんで受験できるの? ちゃんとお金貯めてるの?」
「そんなの前に言ったよ。経済的に無理、って。(娘の)受験のために貯めてたお金は305号室から102号室に引っ越した時(階下から苦情があって家に帰るなり電話攻めが続いて別マンションに引っ越したことがあった)に、解約して使っちゃったじゃない。だからそれ以来ないよ。」

「だからお前にはお金を渡せないんだ。」
「私、使ってないよ。パパだってわかってるでしょ。銀行引き落としで手元に持って帰るのが12万? そこからパパのおこづかい5万引いて残り7万。そこから塾代25000円、ピアノ7000円、囲碁教室5000円、マンションの管理費20000円、食費、病院代。。」

「俺の小遣いは昼飯代だよ。だったら外食もやめればいいんだ。」

「私は昼ご飯だって食べないよ(会社に通ってた1ヶ月半はお金がもったいなくてほとんど昼は食べなかった)。だけどそんなのいちいち言ってないじゃん。自分の昼飯5回も我慢すれば家族で外食ができる。私はその方がいいからそうしてるだけだよ。パパにそうしろとも言ってない。自分の勝手でそうしてるだけで、でもそんなのいちいち言ってないじゃん。自分がやりたいことは何か我慢してお金を作る。それをとやかく言われたくない。」

「お前のお金は遊ぶ金じゃないんかい。生活費を補うためか。だったら受験なんて無理じゃん。辞めよう。」

「だからー、6年になったら旅行行かないんでしょ? 旅行行かなかったらボーナスから払えるじゃない。保険からだってお金借りられるし。お金のことで受験できないんじゃない?って言った時、俺が何とかするって言ったの自分だよ。」

「100万単位の金がいるんだよ。俺がポンとお金出せるとでも思ってるの?」

「そんなこと言ってないよ。そう言ったでしょって言ってるの。今までだって何とかなってきたじゃない。なんでそうなるかな。」

「なんでそうなるかじゃないよ。お前はそうやってカチャカチャカチャカチャパソコンに向かって、俺の金だけじゃ生活できないから仕方ないんだけどよー。お前が働かなきゃまともに生活できないってことだろ。俺はお前を養っていけないってことだろ。だったら俺なんていなくていいじゃん。死んじゃえばいいじゃん。必要ないじゃん。保険で何とか生きていけよ。何もしない、何もしないって言われて冗談じゃないよ。他の旦那は何してくれるって言うんだよ。」

「洗濯、掃除する旦那さんだってよく聞くよ。パパにそんなこと求めてないよ。人には得意不得意があるんだろうから、無理してやることない。」

「俺だって必死に働いてるんだよ。」

「必死に働いているのはみんな同じ。受験でお金がかかるから、みんな奥さんだって働きに出てる。みんな同じだよ。期間限定で頑張らなきゃならないときがある。ある人なんて3ヶ月って決めて夜中も働いてたよ。それくらいして乗り越えなきゃならないときもあるってことだよ。」

「そんなのよく旦那が許すな。」

「旦那が帰ってきてから交代で居酒屋やファミレスで働くんだよ。うちは在宅で家で仕事できるんだから、いいじゃない。」

「そんなの当たり前だ。外で働くなんて許さない。」

「でもね、打ち合わせだってあるし、行かなきゃならない時がある。会って話さなければ決められないこともある。通常30分、長くて2時間、それはその時の状況によって私が決められることじゃない。クライアントとのそのやりとりの中で、話の流れで、金額だって量だって変わる。」



「昼飯も食ってなくて腹減った。」

「いつもそんなこと言わないで勝手に食べてるじゃない。なんで人が仕事してる横でわざとらしく言うの? (PM)6時にご飯が出来ていないと駄目なの? だったらそう言ってくれる? いつもなら子どもがこれからテスト受けに行くってときに、子どもが出かける間際に自分の分だけ作って勝手に食べてるじゃない。」

「わざとやってるんだ。」

「はー? 6時半には起きてて、子どもが出かけるのは8時半で、それまで何もしないのに出かける直前に、子どもは見るだけで食べられないのに、わざわざ作るんだ。考えられないよ。何も言わなかったよ、でもおかしいよ、それ。自分のことしかないんじゃん。」

「お前が作らないからだろ。」

「あのね、朝からちゃんとご飯作る人の方が少ないと思います。朝はパンでいいの。」

「。。パンでいいよ。」

「だったらいいじゃん。」

夫がレトルトカレーを温め、子どもたちを呼ぶ。

「今日は、ハンバーグを作ろうと思って、ほら、もうひき肉解凍しているところなんですー。ほら。」

とキッチンのテーブルに出ている材料を見せる。


「近くに寄ってったってけむたがられてよー、俺がいっぱいいっぱいで弱音吐いて、俺は誰に支えてもらえばいいの? 俺はひとりぼっちなの? 一週間かかる仕事、3日でやらなきゃいけない、俺がお前に仕事のことで愚痴言ったことある? そんな時に「卵買ってきて」「キャベツ買ってきて」いつも買ってきたよ。1000万の仕事の話をしてる時に「お米買ってきて」俺は何なの? ただ何も言わずに親父やお袋が給料払ってくれると思ってるの? もういいよ。お前なら俺じゃなくたって、面倒見てくれるやつがいるよ。俺には無理なんだろ。俺と別れて他の誰かと一緒になればいいじゃない。きちんと生活できるやつと一緒になればいいじゃない。もういいよ。お前なんかいらない。お前なんか出てけ。お前なんかどっかいっちゃえ。もう帰って来なくていい。」

夫の目が真っ赤になっていた。

私は涙がぽろぽろ流れた。
「ごめん、ごめんね。ごめん、ごめん。」


皿に盛られたカレーと、夫を残し、息子の部屋で声かける。
「一緒に卵買いに行こう?」

近くのコンビニが改装中なので、ちょっとだけ遠いコンビニに行く。
息子と手をつなぎ、ふらりふらりと歩く。

卵買って帰ってきてハンバーグを作る。
夫は布団をかけて眠ってしまっている。
疲れたんだろうな。

「ハンバーグできたよ。一緒に食べよ。」

「うん。。」

目をつぶって答えている。

「ごめんね。」

おでこにキスをして頭をなでなでする。

夫を残し、子どもたちと美味しい美味しいといいながら食べる。

途中、目玉焼きも乗せようということになり、息子が目玉焼きを焼いてくれる。



2003年03月09日(日) 夫の誕生日

今日は夫の誕生日だった。
誕生日だから映画は夫が観たい映画にしようと、
「リロ&スティッチ」を観に行こうということになった。
朝、風呂に入り、洗濯物を干し、指定席を取りに行く。

帰ってきてからパソコンに向かって仕事をする。

1時半から打ち合わせがあるので30分前に会社に行く。
打ち合わせは思った以上に長引いて、5時10分に家に電話をする。

「あと、10分で帰るから」

「間に合わねえんじゃねえの? 5時半だろ」

「ううん、5時55分、すぐ出られるようにしておいて。」

家についてまたすぐ車に乗って映画館へ。

映画が終わって
「買い物がしたいから途中で降ろして欲しい」
と伝え、

スーパーの前で降ろしてもらう。

「後は歩いて帰るから」

と先に帰ってもらい、バースデーケーキ用のイチゴと生クリームを買う。
家に帰ってきて、7時過ぎ、鯵のヒラキを焼き、さっきスーパーで買った鯵の刺身を出す。数日前に義父からもらった練り物を焼き、大根おろしを出す。

その間に卵3個に砂糖を入れてガーっとふっくらさせ、バター、バニラエッセンス、牛乳を入れてさっくり混ぜて焼く。
焼いている間に私も夕食をとる。
10時過ぎに焼き上がり、デコレーションしていると、
夫が風呂に入る。

私もまたパソコンに向かって仕事する。

夫が風呂に入っている間に息子は寝てしまう。
私は夫が風呂から出てきたのにまだパソコンに向かっている。

今日中にハッピーバースデーが歌いたかったのに、歌えなかった。
気づいたら1時を回っていた。
涙が流れた。

仕事が終わらない、仕事が終わらない、もういっぱいいっぱいだ。
どんなにしんどい納期だって、ギリギリのところで頑張ってきた。
いつももうだめかもしれない、と思いつつも、睡眠時間を削ってなんとかやり過ごしてきた。失敗したことなんてない。
でも今回ばかりはだめかもしれない。
だって眠くなっちゃうんだもん。集中できないんだもん。精神的に追い込まれて滅入ってしまう部分もあって、気持ちよく仕事ができないんだもん。

結局、夫の誕生日もできず、徹夜もできず、朝4時過ぎには寝てしまった。
仕事も終わっていないのに。

一週間前の私なら、終わらなければ3日は徹夜できたし、コーヒーがんがん飲んで、ご飯も食べず、それでも子どもたちのことはしっかりやって、ずっとやってきたのに。ここに来て私の人生も終わりか?
それでいいのか?

所詮、主婦が片手間に仕事していただけ?

片手間にやって稼げるならその方がいいに決まってる。

たとえ回りに何と言われようと、
子どもが大事、家庭が大事、なのだから。

自分を見失わないようにしよう。
何が自分にとって大切なのか、大切なものを失ってはいけない。
大切な人を傷つけてはいけない。
大切なものを守らなければならない。

大切なものが何なのか見極めなければならない。

結婚して初めて家族の誕生日を祝えなかった。



2003年03月08日(土) 公開模試結果2

今日、この前の公開模試の結果(偏差値などが書かれたもの)が戻ってきた。

社会の先生から、
「社会頑張れば、楽勝で上のクラスに行けるだから頑張りなさい。」
と言われたそうだ。

「頑張っているんですが。。」

「だったら、もっと頑張りなさい。」

だから〜〜〜、娘なりに頑張ってるんだってさ。
どう頑張ればいいのか聞いておいで、と伝えておいた。

社会の偏差値30代が、どうやっても足をひっぱっている。

でも、今回、国語と理科がよかったので、満足のいく結果となった。


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となった。
この成績なら第一志望合格間違いなし、なのだが?



2003年03月04日(火) 公開模試結果

公開模試の結果が戻ってきた。
クラス落ちして二度目の公開模試だ。

結果は、国語と算数,理科の3教科はクラスで一番だったらしい。
平均点もホームページに掲載されていたが、
国語については、平均点を30点程上回っていて、びっくりした。
算数は初めてこんなに悪い点数だったとびっくりしたが、
平均点も低かったようだ。

社会ができたら言うことないんだけど、な。

しかし、なぜ、今回、こんなに平均点が低いのだろう。
他の塾の子たちも受けに来てるからだろうか。
問題的にそれほど難しいとは思わないんだが。。


最近の娘は、本当によく勉強している。
その分、部屋はエライことになっている。


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と言った。

そういうもんだいじゃあ???


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めい [MAIL]

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