French Wolf の日記
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2001年05月31日(木) 萎縮した脳!!


木曜日。

依然として傷病手当が振り込まれていない。困窮の状態である。いわゆる家計が逼迫した状態である。

今日の一番の出来事は、家から車で 2 〜 3 分 (車が所要時間のベースになるとは、俺も出世したものだ) のところにある脳神経外科・内科を訪れたことである。11 時ごろ行ったのだが、やたらと検査された。さすが“脳神経”のプロである。まずは、小手調べに体重測定、検尿。そして、体温測定。引き続き、脳の CT、胸部レントゲン、頚椎のレントゲン、血圧。看護婦さんにいろいろと事情を説明し、なぜこの病院に来たか経緯を話した。

CT は初めての体験だった。結局診察室に呼ばれたのは、1 時半過ぎ。先生もカウンセラー風ではなく、外科医がよくテレビで着ているような青い装束に身をまとっていた。今までと薬も異なるものを処方された。これで体調が安定してくれればよいのだが、ちょっと不安である。今までの医師とは 4 〜 5 年の付き合いだったため、信頼関係が出来上がっていたのだが、初めての医師で、いろいろと検査されたり、事情をはじめから説明したり、とにかく不安材料が豊富なのである。

ショックだったのは、脳に若干の萎縮が認められる、といわれたことである。気にする程度のものではない、とは言われたものの、言われれば当然気になる。脳腫瘍などは特になかったらしいが、やはり萎縮といわれると恐ろしい。

ちょっと遅めの昼ご飯を食べ、しばしの休息。

明日会社に行くのだから、そろそろ準備をしなくては。


2001年05月30日(水) 本当に殺したいくらいむかつく“先生”


水曜日。

今、一番不安なのは、傷病手当が振り込まれていないことである。先月は、3 月分の手当てが 23 日に振り込まれていたのにもかかわらず、4 月分は 30 日の今日の時点で、まだ振込みが確認されていない。今すぐ飢え死にするわけではないにしても、定期的にあるはずの収入がないということは、どれほど人を不安にさせるか…。社会保険事務所の人にもわかってもらいたいものである。

さて、今朝は仕事は問題なかった。が、個人的な話で“いじゃける”話が再燃。かつて“先生”という呼び名でこの日記にも登場したことのある、地元の某有力者。こいつがまた人をいじゃけさせる天才である。詳しい話は書かないことにするが、とにかく、ムカつくにもほどがある、という感じである。

これを思い出していると、またムカついてくるので、止めることにして、話を切り替えよう。祖母の家の地代を払わなければならない、ということで祖母の家に戻り、地代を納めたところ、地主さんからお見舞金を受け取った。参考までに、

地代 < お見舞金

である。つまり、いくらかの儲けが発生した。(とはいっても、たいした額ではないが…。)

そして、敷布団やミキサー、醤油、わさびふりかけ (こう見えても、俺はかなりのわさびフェチである) などを失敬してきた。その後、母がどうしてもカレーを食べたいというので、仕方なく (この辺、事情通な読者諸賢は、さまざまな憶測に明け暮れているところだろう) ココ壱●館に参上! 新宿にいたときには、1 ヶ月に少なくとも 2 回は通っていたおなじみのお店である。久しぶりにここのカレーを食べた。注文したのは、ほうれん草カレー、400 g、辛さは普通である。前にも書いたかもしれないが、辛さを強く注文すると、値段が高くなる。ところが、テーブルに置かれている“激辛スパイス”なるふりかけをジャンジャンかければ、結局は無料で 1 辛にも、2 辛にも調整できるのである。意外な展開にみなさん茫然自失といったところだろうか。

そうそう、食事が運ばれてきたとほぼ同時に、会社の上司から連絡があった。今週の金曜日の午後、出社するようにということだった。会社のノートパソコンを持参して、新しいソフトをインストールしたり、今後の俺の働き方について話し合うということである。どうせだから、金曜日は朝 9 時くらいにここを出発し、午前中には会社に到着予定と行きたいものである。久しぶりの会社の面子とお食事もよいものだろう。

そして、家に帰る途中、買い物に立ち寄ったのだが、そろそろ引き返そうか、というころ、雨が降り始めた。なんとうちの母は間抜けなことに、大型の洗濯物を干してきた、というのである。まぁ、もう諦めの境地だったのだろう。焦っても仕方ないと観念したもようで、のんびりと車で家に戻ってきた。なんとまた、さらにいじゃけることに、一瞬の豪雨は霧雨になっていたのである。(今日は本当についていない。)

しばしの休息。祖母のお見舞いに出かけた。病院に行くと、祖母がリハビリの真っ最中だった。様子をしばらく見ていると、立つのも容易ではないらしい。段違いならぬ、段違わない平行棒に両手を乗せ、ふんばって、立とうとするのだが、手にばかり力が入って、足にはまったく力が入らない様子。そして、無理に立たせようと、リハビリの先生が腰を持ち上げると、足の太ももあたりがつる (正式名称:“こむらがえり”を起こす) らしい。そんな祖母も、今日は 2 〜 3 回立つ練習をしたようで、憔悴しきっていた。病室に連れ戻り、しばらく話して、家に帰ってきた。

今日と明日で 1 日 4 時間勤務は終了である。自分の病気のためにも、地元で医者を見つけておきたい、と思い立ち、近所にあった脳神経内科・脳神経外科の病院を訪ねた。あいにく、診察時間が 5 時までで、俺が到着したのが 5 時をちょっと回っていた。扉の向こうには医師の姿も見えており、看護婦さんだか、事務の方だかわからないが、俺の接客をしてくれた。用意周到に、今の病院で処方されている薬の一覧表 (薬局でもらうもの) を持参していったため、それを見せて、この病院で診察してもらえるかどうかを尋ねた。俺が使っている薬は一般的なもののようで、問題なさそうだった。明日、朝 11 時くらいにもう一度来てください、ということだった。いろいろ検査をする、といっていたが、何を検査するのだろうか。ちょっと緊張する。


2001年05月29日(火) 緊急の仕事


火曜日。

結局昨日の夜は、チキンカツを食べた。サンマのフライがまだ残っている…ゆえに今日の晩御飯は…。

普通に仕事をしている。俺の場合、前もそうだったが、早く仕事をはじめて、早く仕事を終わらせたい。だから、1 日 4 時間勤務の今の時期、朝 8 時に仕事に取り掛かり始めて、正午には切り上げるようにしている。

これからさらにジメっとした梅雨の季節や夏がやってくることを考えると、朝 7 時から仕事をはじめて、午後 4 時に閉店、というパターンにもっていきたい。

あまり閉店が早すぎても、長い夜を手持ち無沙汰で過ごさなければならない、などという心配も実はあるのである。東京にいたころは、友人と電話で話したり、電話したり、電話したり、そんなこんなでいろいろと夜の過ごし方は充実していた。が、最近電話代や水道、電気、ガスなど光熱費をやたらと心配しているのである。一軒家で一ヶ月 2 人暮らしでいくらかかるのか、相場がわからないからである。ある程度余裕があるならば、いろいろと挑戦してみてもよいのだが、まだまともにこの家に住み始めて、ようやく一月というところである。あんまり冒険はしたくない。(それに、傷病手当をもらっている関係上、通常の給料の 6 割しか入ってこない。生かさずとも殺さずという程度の額である。)

午後は、買い物に出かけ、祖母の家から生活必需品を失敬してきた。というのは、祖母が退院してもしばらくの間は、うちで面倒を見ることになるため、食品などは当分使用しないだろう、という事情があったからである。

その後病院にお見舞いに出かけ、家に戻ってきた。

お風呂の用意をしていると、仕事の話の打診があった。大至急ということで断りたかったのだが、まぁ内容を見てから検討するということにして、実際は引き受けてしまった。作業に取り掛かってしまえば、たいしたことはないのである。(いつもながら、そう思う。)


2001年05月28日(月) でたぁ NHK!


月曜日。

復職 2 週目を迎えた。今週末はもう 6 月。ということは、1 年の半分が過ぎようと…いや、間違えた。まだだ。6 月が終わると、1 年の半分終了か。

仕事は順調である。

母の友人の T ちゃん (実はこの人、祖母の家のお隣さんである) が今日午前中にうちにやってきた。お土産にチーズケーキを持ってきてくれたのだが、やたらと連発する言葉が“太っている”というものである。なんだか、矛盾を感じるが、まぁその辺のおばさんの言うことだし、あまり真に受けないことにしよう。

2 時過ぎには、銀行に出かけた。もちろん、マイカーで、である。最近すっかり自転車はご無沙汰している。何の用があったのかというと、司法書士の先生が諸手続きを完了し、所有権が移転したということで、権利書などをもらうのと同時に、手数料や報酬を支払いに行ったのである。

3 時過ぎに家に戻り、たまっていたメイルの返事を書く。その後、夕飯のおかずの買出しに出かけた。もちろん、マニュアリ〜タ 2 号で、である。昔からふりかけが大好きで、ちょっとでもものめずらしいものや、涎が垂れそうになるものを見つけると、衝動買いしてしまう。今日は、“しそ 100%”というものと“かつおとしそ”というものを買い、さらに海苔の佃煮で前から探し求めていた“わさび海苔”を購入。ご満悦である。

さて、家に戻ってきてこの日記を書いていると、ぬゎんと NHK がやってきた。新宿に暮らしていたときは一度払ったっきりでずっとごまかしつづけてきたのだが、さすがに一軒家の主となるとそうもいかない (と勝手に思い)、1 年分の受信料、衛星の分も込みで 26,100 円を一括現金払いした。悔しい。来年は逃げてやるぅ。

さて、今日のおかずは秋刀魚のフライにしようか、それともチキンカツにしようか。迷っているところである。


2001年05月27日(日) 疲労困憊


日曜日。

昨日の疲れが出たせいか、今朝は俺にしては珍しく大寝坊。朝起きたら 8 時半。大好きな磯野きりこが出ている某テレビ番組を見たり、ゴロゴロして午前中を過ごした。

昼ご飯はラーメン。本当は、具のあまり入っていない、卵 + ねぎのみじん切り + ラー油 + 一味唐辛子 + 胡椒の醤油ラーメンがお気に入りである。ところが、今日は人参やら玉葱やら豪華な野菜どもが闖入しており、まぁ仕方ないといったところか…。

午後 2 時すぎ、病院に祖母のお見舞いに出かけた。腰の骨折ということで安静が何よりかと思いきや、医師の診断で許可が下りればできるだけリハビリに専念したほうがよいらしい。ということで、横になっていた祖母をベッドの上に座らせ、ちょっとした会話を楽しんできた。

帰り道には夕食の買出し。ビールが安かったので、ダンボール 1 箱分 (350 ml * 24 缶) を購入した。車で出かけたからこそ成せる業である。

確か、今日は町内会の会費を納める日だった気がする。お風呂に入るのはもうちょっと後にして、したがってビールももうちょっとお預けだが、我慢することにしよう。


2001年05月26日(土) 車で三鷹・調布


土曜日。

今日は朝早く起きて、車で三鷹の病院に出かけた。また調布に住んでいる翻訳者の友人、M さんとも会うことにしていた。

朝、NHK のテレビを見てから、家を出発したのがだいたい 8 時半過ぎ。常磐高速、外環と乗り継いで、大学時代の通学コースを辿って、病院についたのが 10 時半前。

予想以上に、病院は大盛況であり、結構待たされた。診察、薬の処方が終わり、調布に向かう。途中経路は、大学をとおっていこうと思っていたのだが、周りの雰囲気が一変してしまい、道を間違うなどと French Wolf らしからぬミスも犯してしまった・・・。

調布で M さんを拾い、30 メーター道路 (関係者しかおそらくわからないだろう) 沿いにかつてあったすかいら◎くが、今は G●STO に変貌を遂げていた。が、そっちの方が財布にやさしいという都合もあり、そこで和風ハンバーグを食べる。しばらくドリンクバーで散々飲んでから、M さんのお宅に向かった。

歓談のひととき。

夕方 6 時を回ろうとしていたため、そろそろ暇乞いをすることにした。途中また大学に立ち寄り、正門前で母に連絡を入れ、到着予定時刻が 8 時を過ぎる旨伝えた。

三鷹から外環入り口までおよそ 1 時間。外環に乗ってから茨城で降りるまでが 1 時間。約 2 時間弱に及ぶ高速道路だったが、夜だったせいもあり、また軽という事情もあり、なかなかスリルに富んだ小旅行だった。

夜はセブンイレ◎ンの弁当である。

今日は一日にして、移動距離 200 キロ。疲れて当然である。早めに寝ることにしよう。




2001年05月25日(金) コンピュータの問題!!


金曜日。

いよいよ一週間の最後である。また復職後最初の週末を目前に控え、意気揚々としていてもおかしくない。

ところが、今朝からやはりコンピュータの調子が思わしくない。昨日 C ドライブの圧縮なんていう余計なことをしてしまったせいだろうか。原因は、Boot.ini や Ntldr にあるものと思われる。大事なファイルをバックアップしておかなかったことも悔やまれる。

悩んでいても仕方ないと判断し、画面に出てくるエラーメッセージを信じ、スキャンディスクを実行してみる。が、コンヴェンショナル メモリが不足しているため、スキャンできません、というメッセージが出てくるではないか。もうここまできたら仕方ない。Gatew○y のテクニカル サービスに電話で問い合わせるよりほかに方法がない。

電話口に出てくれた人は、親切に話を聞いてくれたのだが、自分の場合、あまりにも状況が複雑すぎたようである。何度か電話を中座し、ほかのテクニカル サービス スタッフと話し合ったのであろうか。結局解決策としては、圧縮した C ドライブをいらないソフトウェアをアンインストールした後で展開することが挙げられた。といっても、これは自分から提案したことであって、先方もそれがよいだろう、という判断だったのである。

さて、今度は電話を切り自分でドライブスペースを用いて圧縮を展開する。ここで大きな過ちを犯してしまったのである。C と C のホストとして H ドライブの両方が新たに登場したのだが、両方に、Boot.ini や Ntldr が保存されていたため、どちらかの名前を変更するか、削除するように、アラートが表示された。そこで、H ドライブの方のそれらのファイルを削除してしまったのである。Windows 通の方ならご存知、または一般常識なのかもしれないが、これが致命的なミスとなった。ついに、Win95 も Win2000 も起動しなくなってしまったのである。

仕方ないと思い、もう一度 Gatewa◎ のサポートに電話。もうここまで悪い状態になると手におえないといわれてしまった・・・。失敗を覚悟で、OS の上書きインストールを実行してみるしかない、というのである。

結局、Win2000 をまず D ドライブにインストールし、それから Win95 を C ドライブにインストールした。これだけで、もう夕方である。

この間、いろいろな出来事があった。まずは待ちに待った車が納車されるという予告。登記などで必要になった経費の明細が出たので、来週早々にでも銀行に顔を出してもらいたいという銀行の融資担当者からの電話。セールスの電話・・・。

車が到着したのは嬉しい限りだが、コンピュータの問題は解決しない。結局今までした仕事を再度やり直さなければならない状況に追い込まれてしまったのである。自分の責任だから仕方ない。

夕方、気分転換に床屋に出かけ散髪してもらった。もちろん、車で出かけたのである。その後、夕食の買い物をし、久しぶりに祖母のお見舞いに出かけた。

家に着いたのが 7 時前。その後もコンピュータと格闘したかったが、もう疲れも限界にきており、週末に作業を譲ることにした。

おやすみなさ〜い。


2001年05月24日(木) ブルーな日


今日は朝からいやな予感がしていた。

案の定・・・。会社の同僚の F 田さんから Visio の CD が届けられた。今担当している翻訳では、いたるところに図が埋め込まれており、それらが Visio で作成されているためである。つまり、埋め込まれた図を翻訳するためには、欠かせないツールなのである。

ところが、自分のハードディスクはもうすでに満杯状態。ローカルを C と D にパーティションされているところで、C には Win95、D には NTFS で Win2000 を搭載していた。が、D はモデムとの相性が悪く、フレッツ ISDN で TA を使用していたときには問題無かったのだが、今はダウングレードで、C をもっぱら仕事用に使っている。その C がいっぱいになってしまい、Word の文書も保存できない状態になってしまったのである。

そこで思い付いたのが、ハードディスクの圧縮。これをするのに、一日 4 時間勤務でよいところを、10 時間近くもかけて作業した。

ただ、圧縮が完了すると今度は、デュアルブートならではの初期画面でオペレーティング システムを選択するのだが、その画面が英語になっている。しかも、その後、圧縮したドライブにエラーがあるから、スキャンディスクを実行しろ、というメッセージが出てくる。

今日は、もうそれだけで手いっぱいになってしまい、結局あきらめて寝てしまった。明日は、なんとかハードディスクを復旧できるようにがんばらなければならない。ふ〜。


2001年05月23日(水) 平凡かな?


水曜日。

朝から雲行きがかなり怪しい。絶対に降るという感じだった。

昨日の夜、翻訳家の友人 M さんと長話をして、今朝たたき起こされたのが 7 時だったため若干寝不足ではあるが、それにしても 6 時間は睡眠をとっているわけで、まぁ命に別状はない、といったところだろうか。

朝甲斐甲斐しくもきちんと NHK の連続テレビ小説を見てから、8 時に仕事に就く。昨日のうちにかなりの翻訳書類がメイルで送信されてきているため、それらに着手。同僚に囲まれている環境とは異なる状況で、4 時間を沈黙のうちに過ごす難しさを痛感する。

なんだかんだ言いつつも、お昼がくるのはあっという間で、昼ご飯は冷凍のピラフとインスタント 味噌汁。冷凍食品といって馬鹿にはできない味だった。

午後からが暇との格闘である。今日は (も?) 特にすることがないまま、昼寝をし、起きたときに郵便受けを確認したら東京電力からの請求書が届いていたため、近くのコンビニに振り込みに出かけた。ところが、そのコンビニでは受け付けていないとのことである。せっかく雨の中、徒歩で向かったのに…。

夕食は、魚の煮付けがメイン。ヘルシーな食生活で多少は痩せただろうか。



2001年05月22日(火) 慣れてしまえば…


火曜日。

今朝は、早い時間に母と叔父夫婦で祖母をちょっと遠いところにある病院に連れて行った。自分は、仕事があったため参加できなかったが、祖母の体調の回復があまりにも悪いため、入院している医師からかつて治療を受けたことのある病院に行って相談をして来い、とお達しがあったのである。(よく考えてみると、奇妙なことである。医者が自分の診断に自信を持てず、かつてのかかりつけの医者に診断を依頼するなんて、普通は考えられない。)

今日から仕事は、22000 ワードもある大きな文書の翻訳であった。会社にいる F 田さんからファイルが送られてくる間、ホームページのメンテナンスをした。今までアクセスできなくなっていた“French Wolf”のホームページがここからアクセスできるようにした。といっても、俺がやったのはローカル ドライブに保存しておいたファイルをすべてミラー アップロードしただけの話であるが…。

途中、風呂場のタイル張り職人さんが 2 人やってきて、古くてだめになったタイルをはがし (どうやら石岡弁では、“ひがし”というらしい)、セメントで床を塗り固めた。午後 2 〜 3 時には乾くだろうということで、その頃再び登場すると捨て台詞を吐いて、帰っていった。

仕事は比較的スムーズに進んでいると、我ながら感心している。今まで何もしなかったことの方が鬱にはよくなかったのかもしれない、なんて調子のよいことを考えられるようにまで成長してしまった。まぁ、この病気には波がつきもので、一時的に回復してもまた下降線になることがしばしばある。あまり期待しないで、気長に待つのがよいのかもしれない。

夢中で仕事をしていると、お昼をとうに過ぎて、1 時近くになっていた。母も戻ってきて、今日の昼食はラーメンと太巻き寿司 2 切れ。

午後は少しまた仕事をして、昼寝をした。その間にまた例の、タイル屋さんが来て新しいタイルを貼り付けていた。今日はお風呂には入れない。水にぬれると、乾いていないタイルに悪い影響を及ぼすらしいのである。明日も湯船の方でシャワーを浴びてください、と言われた。梅雨のジメジメした時期の前に、工事に着手してもらえてよかったと思うが、よく考えてみると、今日なんか十分ジメジメした梅雨もどきの天気ではないか。明日から本格的に雨が降るらしいし。気が滅入る。

さて、夕方 5 時を回った頃、明後日納車予定になっている My New Car の代金が手元にないことに気づき、母と気晴らしがてら、近くの銀行まで自転車で繰り出した。銀行では必要なお金を引き出し、その後またもや 100 円ショップに寄ってしまった。この手の店は入るとかならずといっていいほど、今どうしても必要というわけではないものまで買い込んでしまうものである。今日も例に漏れず…。(地元の人が俺の日記を読んでいるといけないので、参考までにその 100 円ショップとは、“Drug てら●ま”の中にある“ダイソ●”である。) 帰り道、ふと目を上げてみると石岡に詳しい友人が話していた、哲学珈琲という喫茶店を発見。なんだ、俺んちからこんなに近い場所にあったのか。“カインズホ●ム”の交差点の近く、って言ってくれればよかったのに…。

小雨も降り始めたので、家に戻ることにした。自転車を 2 台とも玄関の中に入れておいた。これで大雨が降っても安心である。


2001年05月21日(月) 仕事復帰初日


月曜日。

始まってしまえば、なんと言うほどのものでもなかった。もちろん、仕事の話である。今日は 7 時に起床。7 時半から BS2 で放映されている NHK 連続テレビ小説を見る。そして、8 時から仕事開始である。

当初、1 日ではとても終わるわけがないと思っていた翻訳の分量だったが、実際に手をつけてみると 2 時間半で終わってしまった。次の仕事をもらうために会社にメイルを送りつけたほどである。

途中、Office 2000 のインストールで若干手間取ってしまったが、当初の約束どおり一日 4 時間の勤務を無事終えた次第である。

午後、お風呂の床のタイルがはがれてきていたため、不動産屋に連絡をとった。といっても、これが初めてではない。何回も連絡したのだが、左官屋さんが来ないのである。今日は怒り爆発モードで話した甲斐があって、不動産屋と左官屋が首をそろえてやってきた。明日から工事を始めるそうである。

そして、市役所へ。母の住民票を自分の住所の所に移し、住民票の謄本を銀行に送付した。融資で必要になる書類らしい。帰り道、この前とはまた別のリサイクル ショップに立ち寄り、サイドボードに置くコーヒー カップを物色し、5 つで 1,000 円のものを購入。
自宅に戻り、お風呂に入って、ご飯を食べ、仕事初日を無事終えた。



2001年05月20日(日) 自殺未遂とあれこれ


日曜日。

今日も不調である。仕事に復帰するのがそれほどいやなことなのだろうか? 自分ではそれほど大それたことだとは思っていない。むしろ、社会人として復帰できることにある種の喜びすら見出している。

明日から取り掛かる予定になっている翻訳の原稿は、PowerPoint ですでに上司から送られてきている。また、同僚に頼んでおいた Office 2000 の CD も届いている。(読者諸賢の中には知らない方もいるかもしれないが、PowerPoint 2000 は 97 に比べて、はるかに機能が向上している。一度味をしめたら、忘れられないほどのものである。) と同時に、上司からは、“French Wolf さんならこの程度の翻訳は、半日で仕上がるでしょう”というプレッシャーまでおまけでついていきている始末である。今、外からのプレッシャーにどれだけ弱いか…まったく理解してくれていない…あるいは、自分の甘えか…なのである。

お昼前、母が出かけた。この隙を逃してなるものかと、自殺を企てた。台所に行き、包丁を探してみたが、昨日の号泣事件を心配してか、包丁が見当たらない。適当に探し回っていると、和室に置いてあるタンスの中でタオルに包まれている包丁を見つけ出した。

T シャツの上からそっと包丁の刃を当ててみる。チクリといった感触が、死に対する恐怖心を煽り立てる。“だめだ。包丁を自分の胸に刺して、自殺を図ることはできない”という自分の弱さを痛感した。

次に考えたのが、手首を切ることである。おかげさまで、新居の湯船はかなり広く、お湯を張って、手首を切って、睡眠薬でも飲んでしまえば、2 〜 3時間であの世行きであろう。ただ、お風呂を沸かすことが面倒になってしまったのである。

残された手段は、今病院からもらっている薬を大量に服用すること。まずは、寝る前に服用するようにと指示されているデパスの細粒 (3 mg) を 14 日分まとめて飲んだ。それから、錠剤のデパス 1 mg を 21 錠飲んだ。一向に眠気は襲ってこない。それどころか、母が帰ってきてしまった。これだけの薬では死ねないのかと思い、あきらめたのである。

そもそも、死んで解決することは何もない。そんなことは百も承知である。最近、「死ぬ理由もないが、生きている理由もない」といって、自殺した少女たちがいたが、気持ちはよくわかる。今は、企てた自殺がすべて未遂に終わっているから、こんなに悠長なことを言っていられるのかもしれない。

不思議なことだが、その後、気分はかえって高揚し、母に誘われてカラオケに出かけた。途中、今まで目をつけていた中古の車を買おう、という元気が出てきたほどである。残念ながら、狙っていた車はもう売約済みで、隣にあった、軽のマニュアル (一部の人は俺がかつて乗っていた、マニュアリータ、オモステ、オモウィンドウの日産サニーを髣髴させるものがあるだろう)、4 ナンバーの購入を決意。内金として 3 万円を預け、残りの 50 数万は、今度の木曜日あたりに納車される際、支払うことにした。

そして、カラオケ屋へ。いつもお世話になっている O 田さんも来ており、ママと O 田さんと母と俺の 4 人で昼間から歌ってしまった。俺が歌ったのは、TSUNAMI、らいおんハート、津軽海峡冬景色の 3 曲。夕方 6 時近くになって、そろそろ夕飯の買い物をして帰らなければならない、ということで暇乞いをした。

夕食は家でおとなしく…と言いたいところだが、またもや鬱の極限状態に追い込まれてしまった。泣き崩れてしまった。俺はマザコンなのかもしれない。自分では、そう思いたくないものの、幼いころから父親に対する憎しみみたいなものがあり、その裏返しの感情として、母親を大切にしなければ、愛し、愛されなければいけない、みたいな思いがある。
明日から仕事。何度もいわなくてもわかっている。


2001年05月19日(土) 感情の波


土曜日。

本当に月日が経つのは早い。明後日から仕事?? という気分である。

今日はどこにも出かけず、一日中家の中にいた。そのせいか、夕方感情の波が怒涛のように押し寄せてきて、号泣してしまった。

ちょうど夕飯を食べ終わった後だったのだが、自分で自分の気持ちをコントロールできなくなってしまい、涙が溢れてきて、本当にどうしようもなくなってしまったのである。

近くに母がいたため、自分の異常に気づいてくれ、なんとか最悪の事態は免れたものの、そうした感情を他人 (とはいっても血のつながった実の母ではあるが) に露呈してしまうのはなんとも後味の悪いものである。

どうしてそうなってしまったかは、自分でもわからない。何が悲しかったのかもよくわからない。ただいえることは、ストレスがたまり、行き場のなくなったそうしたストレスが自らの脳を乗っ取り、勝手気ままな行動をとったものだと言えるだろう。

それとも、人間はもっと単純なもので、一日中家の中にいてはいけないものなのだろうか? あるいは、夕方から茨城県地方を襲った豪雨・落雷 (たいしたことのない雷だったのだが、それでも、30 秒くらいは停電してしまった…東京ではまず考えられなかったことなのに) が低気圧同様自分の神経をさかなでたのだろうか?


2001年05月18日(金) 怒りのエネルギー


金曜日。

来週の月曜日から仕事だと考えると、本当に鬱になる。いや、鬱病だから鬱になるのは商売なのだが、それを差し引いて考えたとしても、やはり気が滅入る。

会社の方でも若干の配慮はしてくれたおかげで、今月の 21 日から月末は、4 時間勤務でよい、とのことだった。ただし、合点がいかないのは、給料である。よく考えてみたら、5 月の第一週はうちの会社は全部お休みだった。つまり、1 日と 2 日も休みだったのである。まぁ、それはよいとして、21 日から 31 日まで働くといったら、計算上、9日間の労働に相当するではないか。それなのに、人事から来た話では、一ヶ月の 3 分の 1 の 2 分の 1 を6月分の給料に上乗せする、という条件である。2 分の 1 の方は、一日あたり通常 8 時間のところを 50% Off の割引だから、納得できるが、なぜ 3 分の 1 なのか! カレンダーを見れば分かるとおり、9 日間といえば、連休をカウントしてもしなくても、3 分の 1 を遥かに凌ぐ労働日数ではないか! それとも、その程度の集中度で仕事を進めればよいという意味か! いずれにしても腹立たしい。人事とやりあって、交渉する余地は十分あるし、論理的にも筋がとおった話だと思うのだが、今後契約社員として在宅勤務を認めてもらっている以上、あまり些細なことで揉め事を展開したくない、という気持ちもある。

それにしても、最近“怒り”のエネルギーが蓄積されている。昨日の日記にも書いたとおり、ムカツク親戚のクソ爺はいるし、電気屋は時間どおり来ないし、給料もさりげなく割引されているし…。

ひょっとすると、自分の鬱は、こうしたストレスに対応できないことが主な原因になっているのかもしれない。今日ふと思ったことである。世の中理屈だけで物事が運ぶなんてことはあり得ないと頭では理解しつつも、本能的に理屈がとおらない、理不尽で非論理的な思考は受け付けないのである。そうすると、


理屈やその他もろもろ普段頭に思い描いている、世の中の出来事。これは、そのうちホームページにアップロードしようと企てている“屁理屈の応酬 シリーズ”にもたくさん書く予定である。ひょっとしたら、どこぞの出版社から声がかかって、一晩にしてベストセラーになるかもしれない。French Wolf をご存知のみなさんは、友人をくれぐれも大切にするように。(苦笑)


ストレスの矛先は自分自身に向けられる。なんと痛ましいことだろうか。



さて、今日の日記をつけなければ。今朝は、10 時から 12 時の間にコジ◎がテレビとテレビ台を持ってくることになっていた。本当は、非常に眠かったのだが、頑張っておきているために、メイン バンクである Cit◎bank の振込先登録用紙をフリーダイヤルでもらったり、それを記入したりして時間をつぶしていた。というのも、今後ローン返済で茨城県の銀行を使うことが多くなるし、Citiba◎k なら、振り込み手数料が無料だからである。

そうしていると、今度は家具屋から連絡があり、一つの部屋の分だけ残っていたカーテンが仕上がったから届けたいとのこと。午前中にお願いすることにした。

○ジマも無事テレビを設置し、カーテンも無事届いたら、もうお昼である。昨日ドラッグ ストアで買ったカテキンのたくさん入っているラーメンを食べ、それだけではちょっと足りずご飯も少々。眠くなったので、昼寝態勢に突入した。いつのまにか出かけていた母が戻ってきたらしく、1 階で物音がし、それで目が覚めた。15 時前である。

しばらくしてから、祖母のお見舞いに出かけた。来週からは本格的に仕事がスタートするから、今日が最後のお見舞いになるかもしれない。

夕食はいたって健康的に野菜と豆と魚。ご飯と味噌汁である。


2001年05月17日(木) いじゃける日


木曜日。

最近一日一日がどんどん過ぎ去っていく。光陰矢のごとしというが、まさにそれを実感している。1 週間前の自分が何をしていたか、1 ヶ月前、半年前、1 年前のことが、まざまざと脳裏に浮かびあがってくる。年老いた証拠だろうか。

朝ご飯を食べた後、燃えるごみの日だったため、(母が) 家中の燃えるごみ捜査網を張り巡らし、ホシをつかまえて、ビニール袋に押し込める。その間自分は、しばしの休息。

いつのまにか、10 時半。母は、昨日お世話になった O 田さんに電話。車で祖母のお見舞いに付き合ってもらい、その後、祖母の家まで送っていってもらうように哀願 (!!) したのである。それも当然。今日は天気がよいし、自転車をいつまでも祖母の家に置いておくわけにはいかない。なにより、足がなくては移動もままならないのが、自宅なのである。もちろん、最近祖母もご無沙汰であり、お見舞いしなくてはならなかったのは言うまでもない。

O 田さんが迎えに来て、車に乗る。当初の予定では、病院にいく予定だったが、予定を急遽変更し、家電量販店、しかも俺の日記ではもうお馴染みのコ●マに立ち寄ってもらった。1 階に 2 つつづきである 6 畳間にテレビが欲しい、と母が駄々をこねたからである。また、いつハマり始めたのかは俺の知る限りではないが、最近カラオケに凝っており、例の O 田さんからいろいろと演歌のテープをもらい練習に励んでいる模様。しかし、今俺の家にある S◎NSUI の高級ステレオや、最近購入した MD や CD、ラジオの聞ける高級ステレオ (ケンウ●ド製) では、カセットが聞けないから、昔ながらの“ラジカセ”が欲しいとのことだったのである。ラジカセは母の日のプレゼントとして (と俺が勝手に決めて) 母に贈呈し、テレビもリヴィングにあるのと同じ、28 型ワイドとテレビ台を購入。

そして、病院へ。祖母の様子がおかしい。1 月 31 日に歯医者の階段で腰を捻ったらしいのだが、その後 4 月 12 日までは、祖母の家で普通に、とはいっても、痛い痛いと悶絶することもしばしばだったが、暮らしていた。4 月 12 日に入院したのは、その日の朝トイレに立って、用を足した後、便座から立ちあがれなくなってしまったからである。当初、近所の外科 (看板には“小外科”と書いてあるが) で診察してもらい、湿布と痛み止めの薬を服用していた。4 月晴れた日には、近くの公園まで散歩に出かけることができるくらいまで、回復したのだが、また悪化していたのである。入院時の診察では、第三腰椎圧迫骨折という舌をかみそうな診断が下され、即座に入院となったのである。

本来なら病気・怪我を治してくれるはずの病院にいるにもかかわらず、痛みは一層ひどくなるばかりというのである。親戚一同では、やぶ医者なのではないか、というウワサもあり、退院させて、少し遠いがもっとマトモな病院に転院した方がよいのではないか、という話も飛び交う始末。実際、祖母を見ていると、頭はしっかりしており、糖尿病は抱えているものの、内臓も至って健康であり、問題は腰と足だけである。そんな祖母が、自分はもうこの病院で死ぬ、みたいなことを言ったりするので、見舞う方も気苦労が耐えない。励ましすぎても嘘に聞こえてしまうかもしれないし、かといって、冷たくあしらうわけにもいかない。難しいところである。

お昼ご飯を食べる祖母を見守り、病院を後にした。O 田さんとランチでもと母が提案したのだが、O 田さんはそういった気遣いをされることがあまり得意ではないらしく、丁重にお断りされた。

そうそう、病院に向かう車中でまた“いじゃける”話が舞い込んできた。母の叔父なのだが、かつて先生というあだ名で日記にも登場している、この人。正直いって、おせっかいなのである。今月の 21 日から、今までの会社の契約社員として仕事もきちんと見通しが立っており、ローンの審査を無事通過したということで、それ以上のことは何も考えていないのに、かってに金持ちの集いのような場所で、俺のことを話題にするらしい。話のネタにされるだけならば、何も問題はないのだが、それだけでは飽き足らず、やたらと“小さな親切。大きなお世話”をしたがる。今回も、県会議員に相談し、定時制高校の英語教師の職がないか、なんてとてつもない話をもってきたのである。俺が頼み込んで、英語の先生をやらせてください、と言っているのなら、まだ話はわかる。というか、ごく自然なことだが、今回の場合、話はまったく異なる。そもそも俺は、数学の教員免許しか持っていないのである。まったく、向こうは何を考えているのか。もちろん、収入が少なくてローンを抱え込んで大変だろう、という労りの気持ちもあったとは思うが、俺から見れば、単なる厄介モノにすぎない。

さてさて、お見舞いの後、O 田さんには祖母の家に向かってもらうことにした。家に着くと、もう 1 時を回っており、昼ご飯を食べねばということで、残りご飯で母がチャーハンを作る。途中でミックス ベジタブルを入れるか、と聞いてきたが、甘くなるからネギと卵だけでいい、と返した。祖母の家に置いてあった荷物をかついで、自転車で自宅に向かう。

自宅に着くと、今度は電気屋から連絡があり、リヴィングの照明 (100 W の電球が6個もついているシャンデリアである) で蛍光燈が使えるらしいから、今から持っていくというものだった。これが、2 時半。しかし、待てど暮らせど一向に電気屋が現れる気配はない。結局 4 時半まで待って、電話連絡を入れると、今手が離せないから 6 時ごろ来るだとよ! ふざけんのもいい加減にしろ、という感じである。これまた“いじゃける話”ではないか。

母と二人でふてくされ、近くのリサイクル ショップに冷やかしに出かけた。母は、なにやら本を一冊買っていたようだが、自分は何も買わずに店を後にした。その後、100円均一コーナーのあるドラッグ ストアに立ち寄って、日曜雑貨品などを購入。時計を見ると、6 時少し前。ちょうどよいということで、家に戻ることにした。

家に着いても、まだ電気屋はやってこない。結局現れたのは 6 時半を回った頃である。ただ、電球を蛍光燈にかえるだけの簡単な作業だったのだから、自分でコ◎マで買って取り替えてしまえばよかったのに…。その方が安くついたに違いない。

まったく、今日は“いじゃける”ことの連続だったなぁ。



朝から嫌な天気である。こちらでは、雨模様。激しく降ったり、どしゃ降りだったり、シトシト降ってみたり…。

来週の月曜日から仕事に復帰すると思うと、ちょっとブルーである。毎日きちんと職場にいって仕事をこなしているみなさんには、申し訳ないと思うが、何より正式に認可された (?!) 病人である。

お昼近くにちょっとしたプライベートの仕事が入ってきて、すぐ納品。内容が数学だったためスムーズに仕事を終えることができた。

3 時半過ぎ、母が出先から戻ってきて、母の友人の O 田さんの車で祖母の家から自宅に向かった。雨が一段と激しさを増し、嵐の様相である。

家に帰ると、電話の嵐。東京電力、銀行のローン担当者からである。前者はたいしたことなかったのだが、後者は結構面倒な話だった。母と一緒にここで暮らしているのだが、母の住民票は、離婚問題などの関係でまだ東京にあるのである。ただローンを組みときの条件というか、申請書類に母と 2 人で生活すると記載してしまったため、母を含めた、この家に住んでいる人全員の住民票が必要だということである。まずは、104 で母の担当弁護士の連絡先を聞き出し、そこに連絡し、かってに住民票を移してもよいものか相談した。その後ふたたび、104 で練馬区役所の電話番号を聞き出し、電話して“転出届”を郵送してもらうために必要な事柄を聞いた。

祖母の容体も思わしくない。俺も来週からは仕事が本格的にスタートする。ということで、母は、週 3 回通っていた家政婦のパートを辞めることにした。そして、その雇い主にも連絡を入れていた様子である。

車で送ってきてもらったため、自転車がまだ祖母の家に取り残されたままになっている。自分の足で、徒歩 5 分くらいの場所にあるコンビニに出かけ夕飯のたしになるようなものを買ってきた。

夜が訪れるのは早い。風呂に入って、夕ご飯を食べているうちに眠くなって寝てしまった。



2001年05月16日(水) 電話・嵐


水曜日。

朝から嫌な天気である。こちらでは、雨模様。激しく降ったり、どしゃ降りだったり、シトシト降ってみたり…。

来週の月曜日から仕事に復帰すると思うと、ちょっとブルーである。毎日きちんと職場にいって仕事をこなしているみなさんには、申し訳ないと思うが、何より正式に認可された (?!) 病人である。

お昼近くにちょっとしたプライベートの仕事が入ってきて、すぐ納品。内容が数学だったためスムーズに仕事を終えることができた。

3 時半過ぎ、母が出先から戻ってきて、母の友人の O 田さんの車で祖母の家から自宅に向かった。雨が一段と激しさを増し、嵐の様相である。

家に帰ると、電話の嵐。東京電力、銀行のローン担当者からである。前者はたいしたことなかったのだが、後者は結構面倒な話だった。母と一緒にここで暮らしているのだが、母の住民票は、離婚問題などの関係でまだ東京にあるのである。ただローンを組みときの条件というか、申請書類に母と 2 人で生活すると記載してしまったため、母を含めた、この家に住んでいる人全員の住民票が必要だということである。まずは、104 で母の担当弁護士の連絡先を聞き出し、そこに連絡し、かってに住民票を移してもよいものか相談した。その後ふたたび、104 で練馬区役所の電話番号を聞き出し、電話して“転出届”を郵送してもらうために必要な事柄を聞いた。

祖母の容体も思わしくない。俺も来週からは仕事が本格的にスタートする。ということで、母は、週 3 回通っていた家政婦のパートを辞めることにした。そして、その雇い主にも連絡を入れていた様子である。

車で送ってきてもらったため、自転車がまだ祖母の家に取り残されたままになっている。自分の足で、徒歩 5 分くらいの場所にあるコンビニに出かけ夕飯のたしになるようなものを買ってきた。

夜が訪れるのは早い。風呂に入って、夕ご飯を食べているうちに眠くなって寝てしまった。



2001年05月15日(火) 契約終了


火曜日。

昨日の日記に書き忘れてしまったが、昨日妹たちに母が同行して上野まで行ったのだが、さらにどうせ東京に出るのならば、ということで三鷹の病院から薬をもらってきてもらうようにお願いしたのである。無事に、薬をもらってきてくれた。(さんきゅ〜、ママ。)

あ、それから覚えていらっしゃるだろうか。この前薬局に行ったとき、薬の種類が減ったのにもかかわらず、料金が異常に高かったことをこの日記で嘆いた。そうしたら、母の伝言によると、やはり 600 円多く支払いをしてきたらしい、と薬局の人が言っていたらしいのである。ただし、返金は本人が行ったときではないとできないらしく、今回の薬代は、きちんととられた、ということである。



閑話休題。さて、話題は今日のことに移る。今日は、銀行、不動産屋、司法書士、俺の 4 者が銀行に集結して、最終的な売買契約をしてきた。書類の山にめまいがしそうだったが、司法書士の先生がテキパキと、しかも独り言をブツクサいいながら「はい、これはこれで OK。ここに判子を押すから、ちょっと拝借して」…なんて言って、さっさと仕事を片付けてくれた。それでも、契約終了までに 1 時間を費やしたのである。

夜。母はカラオケに出かけるといっていたのだが、俺の調子があまりにもよくなかったため、急遽取りやめることにした。これで、来週からの復職が可能なのだろうか?



2001年05月14日(月) 旅立つ妹と甥


月曜日。

妹たちが旅立つ日である。俺が寝ていた間のことなので、後から聞いた話だが、どうやら妹は俺の家にジャケットを忘れてきたらしい。祖母の家から俺の家まで、自転車で 15 分前後。地元の地理に詳しい人なら話は別だが、妹は不慣れである。ところが、きちんと家まで行って、忘れ物を拾い、さらには冷蔵庫にあったシュークリームまで獲得してきたのである! 恐るべし、我が妹よ!

朝 10 時 11 分の特急で上野に向かうことになっていた。俺はといえば、明日家の売買契約を正式に取り交わすことになっており、必要な書類 (住宅用家屋証明書・住民票) を取得しなければならず、市役所に出かけるつもりだった。都合のよいことに、叔父が親切にも、われわれをまとめて送ってくれるというのである。俺は市役所まで、妹と甥っ子たちと母 (母は子どもを上野で待ち構えている妹のご主人に引き渡すため、妹に同行した) は駅まで送ってくれたのである。

市役所では、スムーズにことが運び、無事必要書類を得ることができた。家を買うというのは、本当に面倒なものである。引越しは体力的に疲れるが、その後の事務処理や、ローンのことを考えると将来まで自分の人生が重く肩にのしかかってくるようである。





2001年05月13日(日) そうめん


日曜日。

朝から体調があまりよろしくない。

朝ご飯を食べて、すぐ寝てしまった。ふと起きてみると、お昼近くになっていた。1 階に降りてみると、叔父夫婦が来ていて、子ども (例の、雅博である) は野獣のように家中を駆け巡っていた。

叔父夫婦はご丁寧にも、われわれが子連れであるため買い物をできないことを気遣ってくれ、昼ご飯用に、そうめんを持ってきてくれたのである。俺もそのそうめんをごちそうになった。

午後、妹とその次男 (雅貴) と叔父夫婦は祖母のお見舞いにでかけた。明日、妹たちは横浜に帰るということなので、結構忙しいのである。

夜は、祖母の家に戻り (その方が駅が近く便利なため)、最後の晩餐となった。妹は荷物を宅急便で送るため、パッキングを開始。甥っ子たちはそんなことはまったく関係なく、我が物顔で家中を物色している。

明日からようやく平穏無事な日々が送れると思うと嬉しいが、子どもたちがいなくなってしまうのは、ちょっとだけ寂しい気がするものである。



2001年05月12日(土) 陳述書


土曜日。

甥っ子の雅博くんは、大活躍。ようやく俺が抱き上げても泣かなくなった。そればかりか、いろいろと自己主張を開始。外に出たい、あの窓から外を見たい、2 階に連れて行け、1 階に降りたい、もうまるで秘書にでもなった気分である。

まぁ、自分の精神面でよかったことといえば、家が明るくなり、家庭らしい団欒の雰囲気を満喫できることである。ちょっと子どもの泣き声にはうんざりしているというのも事実だが…。

日中は、両親の離婚問題に関して、裁判所 (弁護士?) に提出する陳述書なるものを作成した。まだ終わっていないが、結構骨の折れる作業である。幼児体験にはじまって、自分がいかなる環境で育ち、両親の不和の結果どういう状況に追いこまれたか、結論として、離婚をすることが望ましいと帰結するまで、順序だてて書かなくてはならない。明日にもこの作業、引きずりそうである。

夜、母、妹、甥っ子 2 人は、叔父の家に招待されて出かけていった。自分は最近ひとりになる時間がなかったため、招待を丁重にお断りして、ひとりで過ごすことにした。





2001年05月11日(金) 仕事の鬼 (2)


金曜日。

朝 7 時半頃起床。昨日はたっぷり仕事もしたし、疲れて眠ってしまったため、熟睡という感じである。

朝ご飯を食べる前から、仕事に没頭し始める。残りのファイルも数少ない。が、ワード数が結構あるニュース リリースの類だったのである。まぁ、ここまでやったら、遣り通すしかない、とったところである。

朝食は、優雅に昨日のおかずの残り物。

さっさとご飯を食べて、また仕事の鬼と化す。無事、お昼前後に仕事を仕上げて、納品することができた。

午後は、かなり疲れていたため昼寝をする。

夕方メイルをチェックしてみたら、今後の会社の契約条件が送られてきた。ちょっと納得のいかない面もあったため、「はい、それじゃ、そういうことで」というわけにはいきそうにない。自分の希望や疑問を添えて、返信しておいた。

甥っ子たちも大分うちでの生活に慣れてきたようで、暴れ放題である。といっても、暴れるのは雅博だけ。雅貴はおとなしくてよい子である。


2001年05月10日(木) 仕事の鬼と化す


木曜日。

今朝、義理の弟 = 妹の亭主が仕事のため、帰ることになっていた。朝 8 時 31 分のもうお馴染み、鹿島鉄道にて。見送り (といっても、玄関先までだが) のため、NHK の連続テレビ小説は全部見るというわけにはいかなかった。

父がいなくなった甥っ子たち。予想に反して、結構元気である。母親がいれば、まぁ満足といったところであろう。次男のおとなしさ (当たり前だっちゅうの。4 ヶ月じゃ、動きたくても、話したくても、食いたくても、独りじゃできないだろうが) は相変わらず。一方、長男の雅博くん。暴れん棒の頭角を現し始めましたねぇ。手の届くところにあるものは、とりあえずしゃぶってみたり、いたずらしてみたり…。それにかなり妹が無頓着なのである。こっちが冷や汗モンで見守っている次第である。

と思っていると、以前の職場から仕事の打診があった。今月はなんだか妙に忙しい。また緊急な仕事ということで、とりあえず職場復帰、というか社会復帰しなくてはならないという意識が高まっているので、自己啓発の意味も含めて、引き受けることにした。納期は金曜日。分量は、原稿用紙にして 40 枚程度である。ファイルが小分けにされているため、終わった順に納品ということで、最悪の場合土曜日にまたがってしまってもよいとのこと。それならば、ということで、快諾とまではいかないまでも、引き受けたわけである。
さっそく仕事に取り掛かる。妹と甥っ子 2 人組みはまぁ騒乱の極みである。こっちは我存ぜぬをとおし、自分の部屋に引きこもり、仕事の鬼と化した。

気がつくとお昼。妹がなんとまぁ、お昼ご飯を作ってくれたのである。こんなことは生まれて初めての経験である。吃驚である。妹が料理できるなんて、感動以外のなにものでもない。しかも、献立がすごい。というか、微妙である。チキンの入っていないチキンライス (要するに単なるケチャップご飯) と冷凍の餃子を解凍したものという絶妙な組み合わせ。意外にも、いや不覚にもといった方が適切か。おいしかった。やられた〜という感じである。

そして午後。本当に仕事だらけだった。19 個あったファイルのうち、14 個まで仕上げて、気づいてみると夜の 7 時を回っていた。今日は疲れたので、残りは明日の朝から集中して取り組むことにしよう。

お風呂に入って、ビールで乾杯。豆とサラダをいっぱい食べて、ご飯と味噌汁。(これは、某TBSで朝放映されている“花○マーケット”の食べながらダイエットを真似たものである。)

あ〜、明日も仕事に追われるのか。一日でいくら稼げるのか、と考えれば、結構割のよい仕事ではあるが、頭を使ってばかりで、体を動かさないでいると、精神的にもよろしくないものなのかもしれない。



2001年05月09日(水) 妹夫婦


水曜日。

昨晩はテレビを見ながら、1 階の茶の間で眠りの世界に誘われてしまった。朝例によって、NHKの連続テレビ小説を見る。今日は、妹夫妻とその子どもたちが横浜からはるばる石岡まで来日 (とにかく、やってくるということである) するということで、とりあえず祖母の家に戻ることにした。

昨日は雨の降る中、鹿島鉄道というものすごい電車にのって自宅まで来たため、帰るといっても、自転車でキコキコ帰るわけにはいかない。というわけで、再び鹿島鉄道に乗って、石岡に戻ってきたのである。

妹夫婦が喜びそうな食べ物を買いに母は近所のスーパーまで出かけた。俺は、昨日のごり押し無理矢理根性で頑張ってしまった仕事のせいで、半ば心神喪失状態。今日が納期だったのだから、別に朝一番ではなくてもよかったのだが、性格的にできるだけ早く仕事を終えて遊びたい、と思ってしまうのである。


そうそう、子どものころの夏休みの宿題も、日記以外は 7 月中に終わらせる、というアンチかつおタイプの少年だったのである。が、いつのころからか、大学生にもなると途端にその性格も変わり果て、締め切りギリギリにならないと、何もしない子に成長していた。まぁ、仕事の世界に入って、納期を守るということは、社会人として常識とも言えるし、自分のような職業の場合、信頼関係にヒビが入りかねない。神経質になって当然かもしれない。


そして、ついに妹夫婦がやってきましたよ。1 時ごろ。こっちは、12 時過ぎからテーブルの上にいなり寿司 (俺はあまりいなり寿司が好きではないのだが、なんとなく目出度いような出来事には文化上欠かせない一品なのかもしれない) と太巻き (これまたあまり得意ではない代物である。が、なんとなく目出度さを感じさせるものがあるじゃないか)、メンチカツにコロッケ (これらは OK なものたちである) が鎮座ましましていたのである。

彼らを見るのは実に 3 年ぶりくらい。結婚前の挨拶に 2 人揃って新宿のマンションに遊びに来て以来のことである。甥っ子たちにもはじめて対面した。

長男は、雅博くん。1 歳と 7 ヶ月。人見知りが激しい。が、ときおりこっちをみてニタ〜と笑ってみたりする。愛嬌があるんだか、ないんだか、よくわからないヤツである。なんだかつねに千鳥足で、見ている方が危なくて恐くなってしまう。結構転ぶ面白いやつで、そこら辺で頭をぶつけたり、転んだ利しても泣かない。将来ガキ大将になりそうなタイプである。我をとおす性格がもうすでに形成されているのかもしれない。

次男は、雅貴くん。生後 4 ヶ月。こちらはいたって控えめ。おしめの交換時期 (こう書くと何かのフィルターみたいではないか!) とごはん、眠くなってきたとき以外は泣かない、おとなしいタイプである。長男は俺が抱っこすると泣き始めるが、こっちの次男はわりと肝が座っているというか、誰が抱いているのか分かっていないのである。

いずれにしても、二人ともお父さんそっくりの顔つきである。まぁ、このページは妹夫婦が呼んでいるわけではないので大胆にもなれるが、義理の弟 = 妹のご主人さまは、高橋克典崩れである。まぁ、一部の人からすればハンサムなのだろうが、やっぱりそこは本人には及ばない。そこそこな顔つきの赤ちゃんである。今後の愛想がよくなって、お友だちになれれば嬉しい、といったところか。

妹夫妻が祖母のお見舞いに出かけると、今度自分は夜の食材を求めて (もちろんこれにはアルコールも含まれる。ちょうどビールが切れていたのである)、買出しに出かけた。自転車でもちょっと時間のかかる場所まで、すっ飛ばし、から揚げ、刺身、ビール 1 箱 (24 缶入り)とキャベツを買って来た。途中、病院から祖母の家に戻ってくる妹夫婦 + 叔父の車にすれ違った。

まぁ、子どもははしゃぐはしゃぐ。といっても、長男の雅博だけである。次男は、寝たきり幼児。ミルクを飲んで、寝ていれば幸せという分かりやすいヤツである。

夜はちょっとした宴。今日はみんな疲れているだろう。


2001年05月08日(火) 復職と仕事


火曜日。

母は例によってパートに出かけた。その後、祖母の家でごろごろしながらテレビを見ていたら、いつのまにかお昼になっていた。昼ご飯は、当然ラーメンである。今回はゴージャスに、また手間を掛けて、キャベツと小松菜を入れてみた。野菜派志向のラーメンで、美味であった。

さて、少々昼寝をし、そろそろ母が戻ってくるという 3 時半前、以前勤めていた会社から仕事の打診があった。6 月からは復職するつもりだし、そろそろ仕事をする癖をつけ、リズムも以前のように戻しておかねばならない、と考え、引き受けることにした。

納期は明日できるだけ早く、ということでプレッシャーを感じてはいたが、内容が面白く、比較的スムーズにできそうだった。

夕方になり雨が本降りになってきた。明日の朝、自宅の方にたまっているビールの空き缶を捨てる日だったこともあり、電車に乗って (これがまたすごい電車なのである。都電荒川線に似て非なるものである。) 一駅、自宅まで母と出向いた。

仕事をカリカリしている間に、今の職場の人事担当から携帯に連絡があった。休職は 5 月までで、6 月からは復帰することでよいか、という確認のものだった。ただ、在宅で今までどおり一日 8 時間勤務をできるのか (契約社員として勤務可能か)、翻訳の案件ベースで仕事をした方がよいのか (外注として勤務するのか) という点を確認したかった様子である。自分としては、在宅で契約社員として、毎月一定の給料をもらって仕事をした方が、安心感もあるし、仕事のペース、生活のリズムが整えやすいので、その旨伝えておいた。今度は、自分の所属する R&D の担当者と相談してみる、ということになった。会社をクビになることはまずないと思うのだが、やはり 3 ヶ月も休職しているとなると、なかなか難しい問題も発生してくるものである。

電話の後、仕事の大半を 7 時くらいまでに済ませ、あとは明日仕上げをしようということで、夕飯の食卓についた。





2001年05月07日(月) 各種手続きの嵐


月曜日。

なんだか、朝っぱらから風は強いし、蒸し暑い日だったなぁ。

午前中は、いろいろな銀行口座やクレジット カードの住所変更の手続きに追われた。これが結構大変な作業なのである。シティバンクに口座を持っているのはよいのだが、そのクレジット カードでは別の電話をかけて住所変更をしたり、同じことを何回も言っているうちに、今自分が住んでいるのが新宿なんだか、石岡なんだか、わけのわからない状態に陥ってしまったり…。

そんな電話のさなか、母親の突然の来訪。別に疚しいことをしていたわけではないのだから、コソコソとする必要もないのだが、やはり予期せぬものには驚く。しかも、2 階で新品の超高級ベッドの上でもぞもぞと電話していたのだから、かなり吃驚した。

さて、昼ご飯は、ラーメン半人前とおにぎり。午後は友人の仕事の手伝いが舞い込んできて、てんてこ舞い。そして祖母のお見舞いに出かけ、久しぶりに祖母の家に向かった。その後、近くのスーパーで買い物。まぁ、久しぶりに母に会ったのだから、ということでご馳走してあげることにした。刺身の 6 点盛りである。甘えびの生のやつはあんまり好きではないのだが、母が好きだからしかたない。

明日は雨が降るらしい。体調にも変化が見られるのは気のせいか。



2001年05月06日(日) 新しい FAX を買うべきか、否か


日曜日。

午前中はあっという間にすぎてしまった。何をしていたわけでもない。

午後になって、このまま何もせずに終わってしまっては不毛な日になってしまうと思い、重い腰を上げて、家電量販店で有名な●ジマに出かけた。今日のターゲットは、子機の 3 台ついた FAX である。今のところ、自分と母親しかいないこの家、親機と子機だけあれば十分なのだが、将来を考えたり、実際問題として自分が家にいるときもフラフラしており、いる部屋が定まっていないことを考えたりした結果、やはり子機は多少多めにそろえておいた方が無難だろう、と思ったのである。

ただ、コジ●で物色した FAX は値段はそこそこ (子機 3 台込みで 4 万円弱) だったのだが、今一つ「決めた!」という太鼓判に欠ける。結局は、何も買わずに店内を徘徊し、買うつもりのないパソコンや電動歯ブラシなどを見て、目の保養をしたに過ぎなかった。
せっかく自転車で 15 分もこいできたのだから、という思いもあって、JUS◎O によって夕飯の買い出しをした。今日は豆入りコロッケである。

夜、S 崎と電話で話した。新居近辺によい病院はないかと尋ねておいたのだが、やはり筑波あたりの総合病院に出かけて、紹介してもらうのがよいのではないか、との結論。しばらくは、面倒だが三鷹に通うことにしておこう。



2001年05月05日(土) 久しぶり。出ましたげろげろ大魔王。


土曜日。

昨日の夜またもや、げろげろ大魔王が出没…。朝方 7 時ごろまでトイレとベッドを往復していた。なぜか不思議なことなのだが、二日酔いの日は、どんなに寝心地がよい布団でも、地べたに寝たくなるのは、自分だけだろうか? 床のちょっとヒンヤリとした冷たさが肌に心地よいのである。

朝は、昨日 JUS○O で買った、とりそぼろご飯。朝といっても、11 時近くに食べた。そう。それまでは、悶絶していたのである。

昼はラーメン。(ついさっきまで悶絶していたのにもかかわらず、きちんと昼ご飯を食べるあたりが French Wolf ならでは?)

夕方、お風呂を沸かし、久しぶりに湯船に浸かった。ふ〜。これでアルコールも抜けただろう。



2001年05月04日(金) 冷蔵庫いらっしゃ〜い!


金曜日。

今日は、先日家電で有名なコジ○で購入した冷蔵庫がようやく配送される日だった。そのため、朝一番に母に来てもらい、古い冷蔵庫の中身の整理をお願いした。

古い冷蔵庫は、引き取ってもらってもよかったのだが、2 階の納戸に置いておくことにした。

昼ご飯は、母特製弁当。といっても、おにぎりとおかずである。まぁまぁの出来栄え。(本人が読んだら、間違いなく後ろから刺殺されるぅ。)

久しぶりに祖母のお見舞いに出かけ、帰りに J●SCO で牛乳や明日の朝食を買ってきた。



2001年05月03日(木) ルジオミール


木曜日。

昨日の夜、ルジオミールを飲んで寝た。そのため、午前中はずっと寝ていた気がする。

午後も特に何も生産的な活動をしたわけではない。本来は、こういう生活をしばらく (2 〜 3 ヶ月) 続けて、鬱の回復を図らねばならないのだろうなぁ、などと思いつつ、うつらうつら。




2001年05月02日(水) カーテン登場


水曜日。

今日は、朝一番に電気屋さんが来た。2 階の自分の書斎兼寝室のエアコンの設置と 1 階和室の照明器具の取付のためである。

前についていたエアコンの取り外しに手間取っていたのか、作業は午前中いっぱいかかってしまった。(といっても、自分が実際に作業したわけではないが…。)

夕方過ぎ、カーテンが仕上がってきた。ただ、一つの部屋の分の採寸を忘れていたらしく、一つだけかカーテンのない部屋があるが…。


2001年05月01日(火) 電気屋さん


火曜日。

今日は午後から、電気屋さんが来ることになっており、午前中はボーッとしている間に過ぎ去ってしまった。

午後 1 時過ぎ電気屋さんが来て、エアコンを 3 台と、1 階の和室の照明 2 点を購入することにした。エアコンのうち 1 台 (自分の書斎兼寝室用の 8 帖タイプのものである) は在庫があるということで、明日の朝一番に取り付け工事を行ってもらうことにした。また、照明もおそらく在庫があるだろうということで、いっしょにお願いした。

夜、印刷の終わった転居通知 (こう書くと大げさに聞こえるが、要するに「引っ越しました」レターである) に一言ずつメッセージを添えようと頑張った。が、頑張りきれなかった。最初の数十枚は、なんとか直筆メッセージを書くことができたが、残りは体力切れ。

この日記を読んでくれている大半の人には、ハガキが郵送されると思うが、もし漏れてしまった方や「是非ご一報願いたい」という方がいたら、メイルで知らせていただきたい。折り返し、ハガキをお送りすることにしたい。

夜も更けてきた頃、マイラインの申込書を投函していなかったことに気づき、急いで自転車に乗り、近くのポストまで届けてきた。その足で、コンビニに寄り、お弁当、テレビ番組の雑誌などを購入。

それにしても、もう 5 月だというのに、この寒さはどうしたことだろうか?



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