Niseko-Rossy Pi-Pikoe Review
DiaryINDEXpastwill


2006年09月30日(土)



9月24日、Jazz Tokyoに山下邦彦さんのテキストが載った。
プーさんのライブレビュー。
山下さんのテキストは読む者に山下さんの耳を欲望させる。欲望した瞬間にはその一部を獲得しているはずなのだが、誰も自覚できなかったりするのだ。

ミレニウムの曲「語りつくして」を聴く。
これはすごいや。「ペット・サウンズ」と同時期の並んで聴かれて不思議でない世界観が視えます。

オフコースの「愛の唄」、ラルクの「flower」、ユーミンの「不思議な体験」、小谷美紗子の「奇跡」を聴く。

小谷美紗子の「街灯の下で」を聴く。

風邪気味だなあ。明日は足利の書店へ出かけるらしい。
横になってアーサー・ランサムの『海へ出るつもりじゃなかった』岩波書店を読みながら。


2006年09月27日(水) イタリアの青い空、圧倒的なメロディ、サーカスの彩りと狂気、を、感じさせるステファノ・ボラーニ&イ・ヴィジョナリ

27日。深夜。
夜中の美しい雲が星空に止まっている。星はまたたく。
かえるの声が遠い。

ファミマで牛乳を買ってくる。
ファミマの入り口に小さな鉢植えが並んでいた。昼間のパートのおばちゃんが並べたのに違いない。
おれも、アパートの部屋のまわりに鉢植えを並べて眺めては季節の過ぎるのを楽しみたいと思った。
鉢には名前をつけてね。「ポール・ブレイ」とか、「アーマッド・ジャマル」とか、「ユージン・チャドバーン」とか。
そんで、すごい珍種の鉢植えのコレクターだと勘違いされて。

メルマガで聴く「ユーロジャズへの旅」(一度寄稿させていただいたことがある)
エドワード・ヴェサラの生前最後の演奏がCDになったという情報も。

鈴木大介、ブランドン・ロス、ツトム・タケイシの演奏による「武満徹:日本の青春」に、すさまじく感動してしまう。
3人ともすばらしい。ブランドン・ロス、あんたの解かりかたは尋常じゃないっす。その弦の外しかたの手つきに、一瞬に。



『ヴィジョンズ / ステファノ・ボラーニ&イ・ヴィジョナリ』2枚組 (ラベルブルー) 2006
イタリアの青い空、圧倒的なメロディ、サーカスの彩りと狂気、を、感じさせるピアニストがいたのねっ!
いやー、これは予想外に良かった。彼には音楽がヴィジョンとして視えるという。
不思議なことに、エグベルト・ジスモンチの音楽を連想したぞ。イタリアとブラジル。そか、文化的にはつながっているのか。
・・・いかん、CDに印字されている英字のつづりが見えなくなっている・・・

老眼だな。

ジュゼッピ・ローガン。学生時代に住んでいたアパートの部屋にはLPジャケを飾っていたのだよ、これでもわたしは。



2006年09月22日(金) こないだはちょっとロイドについて悪く書きすぎた



こないだ金策にCDを売りに行って査定してもらっている間に明治神宮に行ってきました。またひとつ、フロントガラスに交通安全の御札が増えました。とっても視界が狭いです。でも、御札の効力で安全性は向上したと推測されます。日本中の御札だらけにして走行するのが将来の夢です。

長田弘の著書『詩人であること』(岩波書店)を読みながら眠る。
このところ1ページも読まないうちに睡眠導入してしまう、くらいに、このところ仕事に張り詰めているのです。
この詩人の丁寧で繊細で平易な記述に惹かれる。
うっとりして眠ってしまっているのだ。

こないだはちょっとロイドについて悪く書きすぎた。あんな達観したひとはいないと思うの、音でわかるでしょう?ただくん、と、諭された。

はい。

ヒギンズとの魂の交感となったプライベート録音2枚組『Which Way Is East』(ECM 1878)、この存在感。
プライベート録音をECMが出すというのは、それなりのことなのだ・・・。
仏教の悟りの境地に近いものがある。
・・・「ヒギンズ、ペトリチアーニなおもて往生をとぐ、いわんや、ロイドをや」・・・と、ふと口について出てしまう。
・・・ロイドを悪く言うつもりはない。
・・・ほんとに。

ほんとに?


2006年09月21日(木) クラブエルフの新作『Now I Understand』が届いた




東京新聞9月22日に書家・石川九楊インタビュー『肉筆の縦書きが「考える力」養う』
このひとは、『文字』という非常にこころざしの高い雑誌を作っている。

テレビをほとんど見ないけど、なんか、都道府県、郷土をネタに構成された番組が目立つような。しかも、悪くない気にさせる。
今日、ライフに行ったら北海道フェアをやっていた。そうか、ライフはイオンやダイエーと異なって、グローバリズムには加担しない心意気なのだな。
地元のものを消費する。これは基本だ。
しかしわたしは練馬に住んでいながら北海道製品に偏愛を行使している。
たまねぎが悲しいくらいに安い。3キロの箱が398えん。
北海道の牛乳を買ってやらなきゃ。

わたしは北海道のナショナリストだ。

ニセコアンヌプリ (nisekoannupuri)

クラブエルフの新作『Now I Understand』が届いた。
“Club d'Elf combines the roaring avant-funk of electric-era Miles with the legato drift of the Grateful Dead...heady music that doesn't neglect the tail.”とレビューされてるぞ>
そんなこじつけなくても、ねえ。
21世紀の音楽には、ジョー・マネリの遺伝子とでも言おうか、息子のマット・マネリ、弟子のジョン・メデスキーは当然のようにここに集結してしまっている。

さいきん、疲れてんだよー


2006年09月20日(水) 「Dirty Old Man〜さらば夏よ〜」 26年目にしてサザンに海岸、もとい開眼

ぐ。
な、なんだこの「here there and everywhere」のSheをHeに替えて歌っているヴァージョンは!

きょう。
はじめて聴いてから、26年たってはじめて、サザンの良さがわかる。
いい曲がたくさんあることはわかってはいたけど、どこかで本質的に受け入れることができない、わいざつさというか、酔っぱらった男女の火照った顔にテカるあぶら汗というか、わたしが持っているつまづきクセのついた下戸のキマジメさが拒んでいた、とうのサザンの良さ、が、
「Dirty Old Man〜さらば夏よ〜」でもって、45さいのわたしを救うのだった。

とおい過去に向かって手をふる。

ぼくの夏が始まろうとしている。


2006年09月14日(木) ECMにそんなにたくさん録音しないでチャールズ・ロイド







『メセニー・メルドー』は、やはり近々に聴ける運びとなったのだった。

『The Water Is Wide / Charles Lloyd』(ECM 1734)
『Hyperion With Higgins / Charles Lloyd』(ECM 1784)
この同一セッション、結果的に2枚分売になったけど、上の作品が21世紀のバラードアルバムというコンセプトでパッケージされたのに対し、下の作品はヒギンズ逝去を受けてもちっとメルドー参加で出させてもらうわよ的なパッケージではあった。
メンバーは、
Charles Lloyd tenor saxophone Brad Mehldau piano John Abercrombie guitar
Larry Grenadier double-bass Darek Oles double-bass Billy Higgins drums
ロイドはやはりヒギンズとの魂の交感となったプライベート録音2枚組『Which Way Is East』(ECM 1878)のほうを聴くのがやはり先決か。このセッションではロイドは置いといて、アバークロンビーのもはやアイヒャーに気遣いすることもなくなった老獪さに裏打ちされた心地よさそうなギタープレイの走りと、それに決してからみついてゆかない、ジョンアバさんの好きなようにどーぞどーぞと言わんばかりのメルドーのピアニズム、そう、メルドーはこのセッションで「ぐうう、さすがECM、なんつう音の良いピアノで演奏させてもらっちゃってのだボクちゃんはー!すごいすごい!わあい、わあい!」と、ほんとうに指さばきが嬉しそうだ。メルドーが客演サポートの立場で弾いていいシチュエーションなんて、ここだけなんだから。

わたしにとってのロイドのイメージは。
全盛時代にいかにジャレットとデジョネットからギャラをピンハネしていたのか、というイカサマ師的なもの。
ペトルチアーニがロイドのグループから出てきた、というか、ロイドというひとは部下の手柄を全部持っていってしまい、それで自分がスターダムにカムバックしてしまう、というような亡霊のイメージ。
そんでペトルチアーニは亡くなり。
そんでヒギンズが亡くなり。
その風貌からしておれは60年代から「ロイドはジャズ界の死神、他人の生気を吸って生き延びる墓堀りジャズプレイヤー」だったのだ、と、思うのだ。これだけリスナーに愛されていないのに何枚もECMへ録音しまくる暗黒政治の黒幕、共演死の請け負い人、ロイド。


2006年09月13日(水) 小山清茂作曲「管弦楽のための木挽歌(こびきうた) (1957年)」

どういうわけか、カーソルを置いて入力しはじめようとすると、画面に自動的に半角の記号がウジウジウジと走りはじめるのだ、このパソコンは。キーボードの接触面がコーヒーなどの汚損による腐敗でこうなっているのであって、轢いた動物たちの呪いではないです。でも、たばこをやめようと考えると頭痛がしたり、そいえばひだりあし中指裏面第二関節に発したみずむしは完治したので。カンチ!。リカ!。あの日あの時あの場所できみに会えなかったら。今月の4台ケータイ代、27323えん。おい、政府、家計におけるこの出費、なんとかしろ。国民は、毎月13まいのECMの新譜が買えるようになるのだぞ。おい、中2の次男、ケータイでエロ画像クリックしてやーさんから電話されてんじゃねえ。いずれにしても、機械の機嫌がいいときに日記を書くしかない。

ついに。野球のグローブとボールを購入した。9せんえん。小学校5年ときにおやじとキャッチボールをして以来、ボールを投げてない。駐車場で壁にあてて遊んでみたら、どこに飛んでいくのかわからないこのスリリングさ。寝起きのオヤジ45さいがジジシャツとステテコとサンダルでボールを投げる。とんでもない方向へ飛んでとなりの駐車場のミニバンに当ててしまう。田柄通りまでまわってとなりの駐車場までグローブをしたまま駆けってボールを取りにゆく。通りの歩道で、ベビーカーを押した若い母親とばったり。おれはかわまたぐんじじゃないないぞ。ぜんぜん安全な人間だぞ。KANの歌「健全・安全・好青年」ではないが、健全、安全、好中年だぞ。そんなフリーズした顔をしないでほしい。

学研のベスト教科事典と題されたカセット、入手経路不明、を、かけながらおちゃわん洗いをしていた。小山清茂作曲「管弦楽のための木挽歌(こびきうた) (1957年)」という曲が流れる。木挽きをする掛け声の節まわしを中断させながら管弦楽が不協和音をプワッ!パオッ!と響かせるだけの、逆にシンプルかつ前衛的な作品で、ときめいた。たまたま前夜に聴いた『ブーレーズ・プレイズ・ヴァーレーズ』の残響まで聴こえてきたのだから、おちゃわん洗いは楽しい。やっぱりぼくたちはおちゃわんになりたくて、そして金魚と恋をしたくて生きているのかしら。藤枝静男が浜松に住んでいたころに、志賀直哉が浜松に旅行に来て、その時に若き小津安二郎がお伴だったとのこと。

師匠からジャズCD3枚を聴かせろとの指令。ううう。シントーピア・カルテットと。おととい靴下をさがしていたら出てきたビョルンスタの一世一代奇跡の名演、ECM90年代を代表させる脳死盤『海』、これはお聴かせしなければ。あ。いけね、どれもジャズじゃないし。

『メセニー・メルドー』を聴きたい!なんなんだ、このふたりの共演なんて。でも今月はグローブ買ったし、長女にこずかいやったし、買えないぞ。


2006年09月12日(火)

お。
Megoレーベルのpitaの「Get Out」と「seven tons for free」。すでに伝説的名盤かつ廃盤らしい。
ちかぢか聴く予定。

シントーピア・カルテット。
そう、そう!仏教的とは、めっちゃストライクな表現。言われて気付いた。この演奏の意識。しかし、なんなんでしょう、このひとたちの彼岸での演奏ぶりというのでしょうか、即興演奏家はこうしないし、彼らは瞬間に演奏しているのではなく、ひとつの演奏にかなりの時間のスパンを持った予期と可能性たちの枠組みを見渡した上で、弾いている、というのかなあ。

今宵のリスニングルームはこのCDRで。
しかし、こんな奇跡のようなメロディーの洪水。このまま横浜までドライブに出かけたくなりそうだぞ。

編集CDR 『 【 Happy Heart 】を捧ぐ・・・・ 』
1 バート・バカラック/エイプリル・フール (1971)
2 ジャック・ニッチェ/puerto vallarta (1963)
3 ジョニー・キャッシュ/ハート (2002)
4 ハーパス・ビザール/ジャパニーズ・ボーイ〜間奏曲 (1968)
5 ジャック・ニッチェ/ロンリー・サーファー (1963)
6 ケンプ(pf)/バッハ:主よ人の望みの喜びよ (1976)
7 ニック・デカロ/ハッピー・ハート (1969)
8 ハットフィールド・アンド・ザ・ノース/アンダーダブ (1975)
9 ジョニー・キャッシュ/オン・ジ・イヴニング・トレイン (2006)
10 バート・バカラック/ワイヴス・アンド・ラヴァース (1971)
11 ジャック・ニッチェ/baja (1963)
12 ケンプ(pf)/バッハ:目覚めよと人の呼ぶ声あり (1976)
13 ニック・デカロ/ウェイリング・ウォール (1974)
14 ビーチボーイズ/ドント・トーク (1966)
15 ハーパス・ビザール/ドリフター〜リプライズ (1968)
16 ジョニー・キャッシュ/ダニー・ボーイ (2002)
17 ニック・デカロ/キャロライン・ノー (1969)


2006年09月11日(月) 長部重康著 『現代フランスの病理解剖』 山川出版社

911から5年。
テロとは何か。これは案外と、神の暴力とか、天罰とか、必殺仕置人とかいう、
俗(お金至上主義的行動様式に蔓延した)に倫理を立てるちからがあるかもしれない。
「こんなことをしていたら、神さまに叱られちゃう」
いわんや悪人をや。
あ、いけね。みんな成仏してしまう仏教徒になりたいんだった。
わたしは空海ファンです。

■ 長部重康著 『現代フランスの病理解剖』 山川出版社 2940円 
序章「パリは燃えているか?」を読み始めて、そいえば、サッカーでジダンを応援していた頃、フランスでは暴動が起こっていたらしいのを思い出した。この暴動がフランスにとっての911である、という云いの深刻さ。フランスの精神は郊外に低家賃高層団地というゲットーを創出していたようなのだ。四分の三以上を原子力が占める、なおかつ半分以上が過剰供給状態である電力発電。一部上場上位40企業の外資比率は44パーセント(アメリカ7%、日本10%、イギリス16%と比せよ)となるグローバリゼーションの最先端を行く国家。自国の政治の効力も失っているのは自明なのだし。フランスの知識人が精神をかけて擁護するのは連帯貴族・インナーというエリート労働者層であり、移民層・アウターではない。フランスの原子力発電所がテロにあって爆破されたりしたら、・・・うええ、考えただけでおそろしい。



2006年09月10日(日) 稲岡さんに連絡して

・・・!
なにこれ。稲岡さんに連絡して、こういうものが正規のリリースとして存在しているのか確かめてください。
やふおく出品「JAN GARBAREK たっぷりCD18枚相当収録 新品未開封」>
こういう体裁でどさっと聴いたからって、ね、30ねんかけて、30ねんぶんのイマジネーションと、30ねんぶんの人生の悲哀の軌跡を伴わなければ、ぼくたちにはかなわないです。

ガルバレクは、来日公演を聴いて、ECMベストが出たとき聴いて、ECMの代名詞的名演として「Oceanus」をかけたとき、ユニバーサルシンコペーションのすさまじい(ほんとうにガルバレクだけ突出してすばらしいのだ)演奏を聴いて、以来、耳にしてないなあ。
わたしなりに、ガルバレク・ベスト編集CDRを作りたいとは思うけど・・・。

どきんちゃん「ねえ、ばいきんまんー。ガルバレクのベスト編集CDRをわたしに作ってほしいのー」
ばいきんまん「ええーっ?そんなの、あんぱんまんに作ってもらいなよー」
ど「うーん。作ってもらったんだけどー。自選ECMベストrarumとおんなじ曲順なんだもん」
ば「そりゃだみだー」
ど「ねえ、だからばいきんまんー。わたしのことをすみからすみまでしりつくしている、あ・な・たに選曲してもらいたいのー」
ば「え?え?え?」
ど「ね・・・、わたしをとりこにするるような、選曲。お・ね・が・い・・・、きちんとできたら、そしたらねそしたらね・・・(以下18禁)」
ば「やるやるやる!そりゃ、どきんちゃん、ガルバレク不在の魂の歌唱、カキッチェおじさんの「The moon over Mtatsminda」が1曲目。そ、そして、『ダンサー』から「Skrik & Hyl」「Lokk」、そして、ポールギーガーのリーダー作『アルプスタイン』こそがガルバレクの極北であるからにしてこれは作品ごと入れてしまう。わははは。そして「マイ・ソング」ではなしに「カントリー」がエンディング。これで、まちがいなくどきんちゃんは初恋のときめきから絶頂の恍惚までのガルバレク真髄70分コースなんだよー!」
ど「わあ。じゃ、今夜はこれをききながらふたりで・・・(以下18禁)」


2006年09月09日(土)

お。今日はキーボードが打てる。

こないだ、深夜に近所でねこをひいた。どけると思って進んだら後部右車輪がガコという。あたまがつぶれたのに、からだがネズミを張る姿勢のままに高速に波打っていた。これはすごいみものだった。
翌日の午後には小石川ではとをひいた。これもどけないのだ。カシャといい、つぶれたかたまりになった。

むかし山手線で女子高生がふらついてホームに落下しバコというすさまじい音がした。

こういうことは書くものではない。

葬儀屋に勤務しいろんな葬儀に立ち会ったことがある。
音楽の立ち入るすきのない時空だった。
儀式の一連の時間は無音であり、その無音は死者と生者がともにどこかとつながっている回路になっている。
会食をする二階のたたみを僧侶が歩む音も、火葬して熱い骨をひろう箸がたてる音も、棺に花を埋めてゆく指のこすれる音も。

ジョン・ケージが世の中の不幸や苦しみの量は適切な量であると禅特有のクールな切捨て発言をしたエピソードからはじまる
アダム・フィリップス著『ダーウィンのミミズ、フロイトの悪夢』(みすず書房)8月24日発行
を読みはじめる。

いただいた編集CDR5枚、未聴CD14枚。このところ長時間勤務でおろおろするばかりで、なかなか音楽を集中してがっちりと聴けていません。


2006年09月08日(金) 木村拓哉ギャッツビーCMの元ウタはスタイリステリックスの「愛がすべてCan't Give You Anything(But My Love)」



祗園のお茶屋からの眺め。

dellのパソコンが壊れてしまってての。かたちあるものうんぬん、と、宮澤賢治がのうのうと言いそうな達観に堕ちそうなぼくを許して。小沢健二が「うさぎ」連載第4回で、灰色が作り出す世界に住んでいることに警告を発しているのだから。

だから気付いて。TVできいた糸井重里のはなし、ぼくらがことばや文字を持つまえに営々として大切にしてきたことに耳をすませる、というようなこと。

東京新聞で、911陰謀説(自作自演説)が科学者たちからの無視出来ない報告としてあがっているという記事が6日の朝刊に載っていた。ぼくはリアルタイムで見抜いていたでしょ?(過去のロヴァ耳参照)

いま木村拓哉が出ているギャッツビーCMの元ウタはスタイリステリックスstylistics の「愛がすべてCan't Give You Anything(But My Love)」で、次男の恋一朗くんのテーマソングであった。(過去のロヴァ耳参照)

DJ OZMAのDVDを観て、氣志団の新曲のCF観たら、綾小路翔くんが本来アーティストとして進むべき場所にDJ OZMAがすっかり先取りしてしまって圧倒的な存在感を示していることに愕然とした。残念ながら氣志団・綾小路翔の浮上はないだろう。芸能界の怖さを感じた。

むすこの選曲したチューリップのいとしのEmilyはオリジナルヴァージョンであった。よしよし。ぼくにとってのチューリップは「心の旅」「悲しきレイントレイン」「娘が嫁ぐ朝」かな。

innocent world の歌詞を「その時も笑って」と変化させていたのは、この夏のろっくろっくこんにちはが初めてではなく、最新ドームツアーDVD(観客に歌わせている、イントロのギターを味わう田原くんのシーンに鳥はだ、の)でも、そう歌っていたんだよ、けいまくん気付いていた?いちお確認。「その時は」と「その時も」との意味の違いを吟味する行為は無意味で、桜井くんが「その時は」と作詞して完成させたこの曲を、その後「その時も」と確信的に一歩踏み込んだ表情を伴わせて歌ってみせたこと、を、味わえる(変化させたという行為自体を味わえる)ことがたいせつ。

ものごとは結果ではない。

ろっくろっくこんにちはに出たスピッツのオープニングナンバーは「俺のすべて」(ロビンソンのB面)だったとのこと。おお。

『カメラ・トーク』がリマスタリングされていて、新鮮だった。いい仕事だし、2006年の今、に、ときめくものを感じさせた。だけどオリジナルの平たい(安っぽい)音像が放ったリアルさは、やはり失われていたが。


2006年09月02日(土) チューリップの悪行、『We Believe in Magic vol.1』の録音はオリジナル音源じゃないのだ!

こないだ図書館でチューリップのベストCD『We Believe in Magic vol.1』を借りたんだ。

「ぼくがつくった愛のうた〜いとしのEmily〜」を聴きたくて。

・・・ところが、このCD『We Believe in Magic vol.1』の録音はオリジナル音源じゃないのだ。
チューリップ自身が演奏しているのは明白だけど、これ、忠実に再現した50代くらいのチューリップの面々によるものではないのか。
なぜ、このようなゾンビのような、ファンを裏切るような、姑息で卑怯なまねをするのだ?

そ、そしたらさっきアップされた日記によると、けいまくん(わたしの一番息子)が作った編集CDRに「ぼくがつくった愛のうた〜いとしのEmily〜」が収録されているではないか!!!
これまでチューリップの話なんてしたことなかったのに。な、なんでや、このぐーぜん。

で、オリジナル音源のほうなんだろうな!

チューリップの『2222年ピクニック』(1982)をかなり気に入っておりました。また聴きたいなー。
財津和夫がソロ活動をしはじめた頃の「一枚の絵」(1980)というシングルも好き。



2006年09月01日(金)

服部良一の作品集『東京の屋根の下』を聴いていて、
灰田勝彦「東京の屋根の下」の録音は1948年10月12日と見て、

・・・太平洋戦争が終わってまだ3年しか経ってないじゃないか・・・

明らかに戦後のこの急激な変化はおかしい。

そう思った瞬間に、「東京の屋根の下」の何と禍々しく凶々しく聴こえることか。

山口泉著『宮澤賢治伝説』の「かつてロザリオという名の少女が」の章を読む。

フィリピンの子どもたち(ストリートチルドレン)に売春以外の生きるすべをあたえるよう、そういうことをしなきゃいけない、と、思った。
グローバリゼーションの化身であるショッピングセンター、イオンで買い物をする呪われた無知で惨めなひとびと。
生きる意味、というのは、やはりある。

ほんとうに、ある。

それは宗教ではない。

おざけんが「うさぎ!」で書いていることはそういうことなんだと思う。


Niseko-Rossy Pi-Pikoe |編集CDR寒山拾得交換会musicircus

My追加