橋本裕の日記
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2007年12月31日(月) 12月の短歌

 平成19年も今日でおしまいである。今年の抱負は「短歌を毎日作ること」だった。元旦の日記から引用してみよう。

<振り返ってみると、我ながらいろいろなことに挑戦し、人生を楽しんできたものだ。死ぬまでこの姿勢を続けたいと思っているが、さて、それでは今年の抱負は何か。いろいろやりたいことのなかで、今年は「今日の一首」と題して、毎日短歌を作ろうと思う。「継続は力なり」という言葉を信じて、ちょっと短歌をがんばってみよう。もちろん、たのしみながら、のんびりがんばるのである>

 さて、来年は何を抱負にしようか。日記を継続することはいうまでもないが、何かもう一つか二つ「たのしみながら、のんびりがんばる」ことをしてみたい。まあ、それは明日の日記に書くことにして、とりあえず「12月の短歌」をまとめておこう。

夢の中我を呼ぶ声亡き父にはいと答えて夢よりさめる

身投げする人の心は知らねども人降る街はさびしきものぞ

木曽川の紅葉美し御岳も伊吹も見えて歩めばたのし

ひさかたに雨降る朝は妻さそい近所の茶屋でコーヒーを飲む

部屋の中振り子振らして愉快がる中年親父のはるかな郷愁

バネふり子振らしてみれば面白い生き生き感じる自然の不思議

木曽川を歩けばかわる風景に変らぬものは白き御岳

たのしみは祇園の茶屋でひと騒ぎそのあとひとりで古都を味わう

ほろ酔いで月はおぼろに東山舞妓のすがたあはれなるかな

加茂川の橋を渡りつ若き日の思ひ出しのぶ三条川原町

柘植の櫛祇園で買って二念坂バターナイフは妻のため

乳をやる母が腹ばう囲炉裏端木村伊兵衛の深きまなざし

なつかしき便りが届く同窓会紅顔の少年もいまや五十路か

なつかしき暮らし息づく港町子どもの笑顔拾って歩く

旅先で出会う老女のほほえみに心の垢もながされていく

紙芝居見つめる子らのまなざしが熱線のごとし昔の写真

見ることのたのしみふかし今日もまた散歩に出かけ白き山見る

結婚の日取りも決まり肩寄せて微笑む二人われも微笑む

さまざまなご縁がありて出来あがる人生模様のおもしろきこと

なにゆえにここに生きるかたまゆらの生をたのしみいつか朽ちゆく 

朝ごとに短歌を詠んで目をとじるこのひとときはこころまろやか
 
眼に見えぬ原子分子があつまりてこの世ができてわれも生まれる

面白き理科の実験思い出しローソク燃やして胸ときめかす
 
木曽川の河原に来れば冬枯れの木立の上を鳶が悠々

木漏れ日の丸い光がはねている君の足もと枯葉が落ちる

夏至の日は柚子湯につかりかぼちゃ食ふ体ほかほか心もたのし

パブに来てマイクを握りカラオケで演歌をうたうクリスマスの夜

ふるさとの小浜の町はあたたかくわれを迎える師走の今日も

スタッチョと呼ばれた愛車手放したその日はさびし飯を食べても

張替えたま白き障子に囲まれて年の瀬迎えこころ華やぐ

(今日の一首)

歳末の献金終えてありがたき
このしあわせに両手あわせる

18年近く歳末のボランテア献金を続けている。きっかけは肥満だった。仕事帰りに、近所の屋台でラーメンを食べたくなる。これを止める苦肉の策として思いついたのが、間食を控えて浮いたお金を世界の子どもたちに献金するというアイデアだった。

 飢餓で苦しんでいる子どもたちの顔を思い浮かべると、食欲も多少は抑制された。さらに食事でも腹八分目を心がけた。これで体重は10キロ近く減って、常用していた高血圧の薬も必要なくなり、通院の手間と薬代も浮いた。

 最初は「ユネスコ」だけだったが、アフガン戦争を契機に「ペシャワールの会」へ、それから娘たちが就職し、扶養家族が妻ひとりになってからは、「国境なき医師団」にも献金しはじめた。この献金で私の健康が維持でき、その上に受けているご恩の一部でも世界にお返しできれば、まさに一石二鳥だ。

もっとも、私が献金を始めたころの日本は世界がうらやむ平等社会だった。いまや日本は有数の格差社会で、ワーキングプアーが増えている。献金するだけではなく、庶民の暮らしをないがしろにする政治を変えていくことも必要だろう。


2007年12月30日(日) 心華やぐ年の瀬

昨日、長女の婚約者のご両親を私たちの家に招待した。それからみんなで木曽路へ夕食を食べに行った。ご両親とも公務員で、お母さんは小学校の先生、堅実な家庭のようだ。

来年7月27日と式の日取りも決まった。式はハワイで行うという。私たちも観光旅行をかねて出席することになる。ホテルのパンフレットを見ながら、どこにしようかと、来年の話に花が咲いた。

27年前に、両親と妻の家に結納を収めに行った日のことを思い出した。私たちの新婚旅行は金沢だった。結婚したあとも、私の2Kのアパートでつつましく暮らした。そして二人の娘が生まれ、私にも新しい家族ができた。

娘たちは駅の近くにあらたにマンションを購入して住むという。そのマンションも向こうの両親と一緒に見に行ったが、若い二人には少し贅沢のように思った。頭金もほとんどなしで買うのだという。

私たちは結婚してせっせと貯金して、家を買うための頭金をためた。もっともバブルのときで、住宅価格はうなぎのぼり。結局は名古屋市に家を持つという夢は逃げ水のように逃げていった。

そして18年ほどまえに一宮市のはずれに建売の家を買った。しかし、ここには田畑があり、空気や水がうまい。木曽川のほとりをのんびり散歩もできる。しかし何よりもうれしいのは、この家で家族4人がなかよく暮らし、今日の日を迎えられたことだ。

(今日の一首)

 張替えたま白き障子に囲まれて
 年の瀬迎えこころ華やぐ


2007年12月29日(土) 幸せな年の暮れ

 先日、妻の干し柿作りを手伝った。なんでもおいしい干し柿を作るには、毎日のように「もみもみ」しなければならないそうである。その「もみもみ」を手伝った。これでやはらかくおいしい干し柿ができるのだという。ひとつ食べてみたがうまい。正月までにはしっかり粉もふきそうだ。

 昨日は今年最後の忘年会。金山駅前の「素材屋」に4人であつまり、食べたり、飲んだりした。来年はこのメンバーを中心に、私が主宰になって同人誌を出したい。よし、来年からは精力的に小説を書き始めるぞと、酒の勢いもあって宣言してしまった。日本酒を熱燗でずいぶん飲んだ。みっちり2時間、食べて飲んで、ひとりあたり1500円だ。これは安い。

 さて、毎年年末になると大掃除をするが、今年はとくに念を入れて、襖や障子を張り替えた。といっても襖は業者に出した。家を買ったのが平成2年のことだから、おおよそ18年目になる。居間の襖が新しくなって、部屋全体があかるくなった。

 障子は妻と私で8枚ほどを張り替えた。中にはこの18年間一度も張り替えなかったものもある。ずぼらを決め込んでいたわけだ。しかし、障子を張り替えた私の部屋は見違えるように清潔で気持がよい。これでさわやかな気分で新年が迎えられそうだ。

 それから私が大学院のとき買ったトースターを処分した。これはもう30年以上使っていた。まだまだ使えそうだが、最近パンを焼くにも時間がかかるようになった。そこで次女が大学の寮で使っていたトースターを使うことにした。これだとパンが焼ける時間が半分ですむ。

 しかし、やはり昔から使っていたものには愛着がある。娘も名残惜しそうに携帯でトースターの写真を取っていた。私も家族を代表して「僕たちのために働いてくれて、ありがとう」と感謝の言葉を述べたあと、トースターの前で深々と頭を垂れながら両手を合わせた。

 このほか、11年間乗っていたスターレットを廃車にした。我が家にはもう一台、13年間乗っているカリーナがある。両方ともこの12月が車検だった。私が電車通勤になって車に乗らなくなったので、おくればせながら一台処分することにしたわけだ。

どちらを手放すかずいぶん迷ったが、あえて古いほうのカリーナを残した。もう20万キロも走っている働きものである。おかげでかなり痛んでいて、車検代に20万円も使うはめになった。故障が怖くて高速道路は走れないが、このカリーナをあと2年間使うことにした。

 手放すことになったスターレットはもともと妻の車だったが、途中から次女が乗り出した。これは妻と娘がきれいに洗車していた。私が散歩から帰ってくると、もうなくなっていた。年明け早々には解体されてしまうのだという。できることなら「ありがとう」と、これも手を合わせて送り出してやりたかった。

 別れは淋しいものだが、新たな出会いもある。今日は長女の婚約者のご両親が我が家に来ることになっている。結納といった堅苦しいことはしないことにした。しかし、結婚式の日取りなども正式に決めなければならない。

長女夫婦は結婚しても同じ一宮市のマンションにすむことになるので、いまのところ娘を嫁にやる淋しさはない。むしろ新たな家族がふえてなにやらうれしい気分である。ただし、まだ孫の顔を見たいとは思わない。おじいちゃんと呼ばれたくない。障子もふすまも張替えたばかりだしね。

(今日の一首)

 スタッチョと呼ばれた愛車手放した
 その日はさびし飯を食べても


2007年12月28日(金) 小浜へ写真旅行

 青春18切符を買った。これで今年の冬もJRの旅を5回できるわけだ。そのうちの2回は福井へ帰省するために使う。残りの3回の旅のうち1回は小浜へ行こうと思っていた。

昨日朝食を食べながらテレビを見ていると、若狭地方も晴れてあたたかそうである。そこでさっそく支度をして、自転車で家を飛び出した。木曽川駅7時45分発の普通列車に間にあった。米原、敦賀で乗り換えた。

昼食は敦賀の駅の売店で350円のすし弁当を買った。これを小浜線の列車のなかで済ました。小浜でうまいものをたべたかったが、予算と時間の節約のためである。しかし稲荷寿司をつまみ、お茶を飲みながら沿線の景色を眺めるのも悪くはない。12時頃に小浜についた。

まずは城跡を目差した。とちゅう昔棲んでいたあたりを通った。もう住んでいた長屋はない。大方は隣の電報電話局の敷地になっていたが、わずかな隙間があってそこに草が生えていた。

長屋の道を挟んだ向かいが山川登美子の実家である。そこが記念館になっていた。さっそく門をくぐり中に敷地の入ったが、記念館らしい施設はなく、人気もなかった。ただ母屋や蔵がそのまま残っていて、庭に立ってそれらを眺めるだけである。

しかし、それでよかった。小学生の私たちは勝手にこの家の敷地に入り込み、蔵の中まで進入して遊び場としたものである。この庭先にも侵入したことがある。40数年ぶりだったが、そのときのことを思い出した。

そのころ、この家には中学生くらいの美しい娘がいた。その少女がたまたま縁側に立っていて、私は彼女と目が合った。いきなり庭先に近所の悪童が現れたので、彼女もびっくりしただろう。大きく見開いた目に見つめられて、私はすごすごと退散した。

記念館になったおかげで、そんな思い出のある庭にふたたび入ることができた。少女の立っていたあたりに近づき、ガラス戸越に中を眺めたが、人が住んでいる気配はない。おだやかな午後の日差しの中で、石灯籠や南天の赤い実を眺めながら、しばらくは少年時代の思い出にふけり、至福の時間をすごした。

そのあと、通学路だった商店街の鄙びた道をたどった。南川の橋を渡ると、そこが私の母校の雲浜小学校だったが、少し離れた海岸近くに移転して、今はその一角が幼稚園になっている。しかし、通りには畳屋をしていた同級生の家が残っていた。数年前、私はそこを訪れ、友となつかしい再会をしたことがある。今回は時間の関係でそのまえを通るだけになった。

小浜城址に登り、天守閣あとの原っぱから小浜の町や海をながめた。そして礎石のひとつに腰を下ろして、家から持参した「なごやん」を食べた。家を出るときから、城址でこれを食べようと決めていた。好物の焼き菓子を少年時代の思い出の場所で食べられて、とても幸せだった。

城跡の石垣を後にして、小浜港に行った。運河も大半は埋め立てられ、漁船が通るときだけ片方から持ち上がる名物の勝鬨橋もなくなっている。その橋のたもとにあった小浜警察署もなかった。しかし、漁船の並ぶ桟橋や周囲の建物には往時のたたずまいが残っていた。そこでたくさん写真を撮った。

(今日の一首)

 ふるさとの小浜の町はあたたかく
 われを迎える師走の今日も







2007年12月27日(木) 二人だけの同窓会

 昨日25日は福井に帰省して、中学校の同窓会に出席するつもりだったが、諸般の事情でこれに欠席した。かわりに、名古屋・栄の居酒屋で、M君と二人だけの同窓会をした。

 M君とは幼馴染で親友である。家も近く、小学校、中学校も同じで、いつも一緒に遊んでいた。高校は違ったが、高校生の私は、一時彼の家に入り浸りだった。そんなわけで、私の自伝「幼年時代」や「少年時代」には、彼が実名で何度も登場している。

 お互いに結婚してから疎遠になったが、3年ほど前、M君は福井から名古屋に転勤してきた。それから、M君に夜の名古屋の街に誘い出されて、一緒に飲むようになった。昨日も「おい、一杯やらないか」と、M君からメールが入り、のこのこ出かけていったわけだ。

  M君は毎年中学校の同窓会に出席しているらしいが、今年は25日だったので、出席できなかった。「なぜ、こんなに早くやるのだ」とおかんむりだった。いつも正月の3日にやっていた。しかし、恒例の場合でも、私は出席できない。なぜなら、その日は高校の同窓会があるからだ。これには出席するつもりでいる。

居酒屋で食べて飲んで、二人で1万円近くかかったが、払うのはいつもM君である。M君は名古屋の営業所の所長をしている。だから、これもすべて会社の接待費で落ちるらしい。それから、行きつけのフィリピンパブへ行った。そこで食べて飲んだ。これももちろん接待費らしい。

 人の金で飲んだり食べたりするのは嫌いだが、接待費と聞くと、まあいいかと思ってしまう。接待費で飲食などということは、教員の私にはありえないことなので、幼馴染のM君だということもあり、つい甘えてしまう。守屋元防衛省次官の気持もわかる。

 M君は1500万円ほどのファンドを持っていて、毎月の配当が6万円ほどあるという。福井には持ち家が2軒あり、これをゆくゆくは二人の娘に譲るつもりらしい。その上、最近は奥さんに600万円のファンドをプレゼントしたのだという。

ワーキングプア問題が深刻化するなかで、なんとも景気のいい話である。しかしM君の地位も安泰と言うわけではないらしい。東京本社の社長の一声で、たちまち平に降格ということもあるし、場合によってはクビを切られるかもしれない。すべては営業成績次第だという。

フィリピンパブはクリスマスムードで盛り上がっていた。カラオケで英語のハイカラな歌が続く中、「先生、何か演歌を歌って」とフィリピン人のホステスにせがまれた。そこで、八代亜紀の「なみだ恋」を歌った。3ケ月前に来たときも、たしかこの歌だった。

続いて、M君が石川さゆりの「津軽海峡冬景色」を歌った。手馴れていて、甘くささやくような声だ。私と違って、かなり年季が入っている。「いやらしい声ね」とフィリピン人のホステスにからかわれていた。こうして今年のクリスマスの夜は、M君と二人だけの同窓会で暮れていった。

(今日の一首)

 パブに来てマイクを握りカラオケで
 演歌をうたうクリスマスの夜


2007年12月26日(水) 柚子湯のたのしみ

 冬至の日に柚子湯に入ったり、かぼちゃを食べたりするようになったのは、江戸時代かららしい。これで冬にも風邪を引かず、金運もよくなり、無病息災でいられるのだという。

 我が家でも12月22日の冬至にはかぼちゃを食べ、ゆず湯に入った。柚子は我が家でとれたものである。これが10個ほど湯舟に浮いていた。柑橘類のよいかおりが浴室を満たしていた。

 湯舟に浸かりながら、柚子を見ているうちに、ある実験を思い立った。手で人工的に波を起こして、柚子がどのような配列になるか調べてみようと思ったのだ。そこで柚子を湯舟の片隅に集めた後、手のひらを水面で上下させて波を起こした。

 手のひらの上下運動の周期を変えることで、いろいろな波長の波が生まれる。とくにある波長の場合は、反射波どうしが干渉しあって、振幅の大きな定常波が生まれる。浮かんだ柚子はその波にもまれて、次第にある規則的な配列を見せる。

残念ながら、途中で私がのぼせてしまって、思ったような美しい配列が生まれるまでにはいたらなかった。それでも柚子は湯舟のなかに広がり、それらしいパターンが何度か生まれそうになった。まあ、実験はそれなりに成功したことにしておこう。

(今日の一首)

 冬至には柚子湯につかりかぼちゃ食ふ
 体ほかほか心もたのし


2007年12月25日(火) 反射鏡のマジック

授業をしていると、だれかが日光を鏡で反射させて、教室の天井や、ときには教師の顔面にまで照らしたりする。私も何回かこれをやられて、「こら、授業中に、悪ふざけはよしなさい」と注意したことがある。

しかし、ときには生徒と一緒に鏡で遊んでみるのも悪くはない。なぜなら、この反射鏡遊びも、じつのところなかなか興味深い理科の教材になるからだ。

たとえば、近くの壁に写った光のかたちは鏡の形をしている。つまり四角い鏡からは四角い投影像ができる。星型にくりぬいた紙をかぶせると、星形の映像が写される。ところがさらに鏡の角度を変えて、遠くの壁や天井に投影させると、その映像がしだいに丸みを帯びてくる。

 映像が丸くなるという現象は、向かい側の校舎の壁に映したときにはっきり現れる。一般に離れたスクリーンに映し出された太陽の反射光ほど、鏡の形にかかわらず、どれも丸くなる。これはどうしてだろう。

 まず浮かぶ答えは、映像が丸いのはそれが太陽のかたちを現しているのではないかということである。そうすると、もし日食のときこの実験をしたら、三日月形の映像が映し出されることになる。しかしこれを実験でたしかめるのはむつかしい。それではどうしたらよいだろう。私が思いついたのは、太陽のかわりに、ハロゲンストーブを使うことだ。

そこでさっそくハロゲンストーブのスイッチを入れて、それをオレンジ色に発光させた。そして部屋の電気を消し、手鏡を取り出して、その光をふすまに反射させてみた。そうすると、そこにドーナツの明るい光の輪が映し出されたではないか。

そこでまとめてみると、「鏡で反射して壁に映した光は、近くでは鏡の形がそのまま再現されるが、少し離れると、その光源のかたちがそこに映し出される」ということになりそうだ。それではどうしてこのようなことが起こるのか。

じつはこの現象についても、金山広吉さんが「理科研究の盲点研究」(東洋館出版社)のなかで謎解きをしている。結論をいえば、小さな鏡はピンホールカメラの役目を果たしているということだ。つまり、鏡によって反射された光は、この鏡という小さな穴を通ることによって、スクリーン上に実像を結ぶ。それでは鏡の大きさはどのくらくがよいのか。金山さんはこう書いている。

<像を投影するスクリーンの位置から見た鏡の視直径が太陽の視直径の半分以下になると、太陽の実像である円形の実像ができる。これは鏡が針孔写真機の針孔の働きをするためである>

ピンホールの場合、スクリーン上に対象物がはっきり移るためには、穴は小さくなければならない。穴が大きいとピンホールの結像効果がうすれて、像はぼけてしまう。といって、あまり小さいと光量不足でよくみえない。このジレンマを解決したのがカメラのレンズだ。動物の目も、最初はピンホールだったものが、レンズをもった眼球構造に進化している。

最後に、自然界で観測される身近なピンホール現象を紹介しておこう。それは「木漏れ日」である。木の葉の重なりを通ってくる日光は、その大きさはいろいろだが、ピンホール効果でどれも形が丸くなっている。木漏れ日の丸い形は、じつはひとつひとつが太陽なのだ。日食のときは三日月をした太陽が、地面の上でいっせいに踊りだすことだろう。

(今日の一首)

 木漏れ日の丸い光がはねている
 君の足もと枯葉が落ちる


2007年12月24日(月) コップの中の炎(2)

 水面に浮かべたローソクの炎にガラスのコップをかぶせると、炎が細くなって消え、やがてコップの中の水面が少しだけ上昇する。これは燃焼によって酸素が消費され、その分だけ空気の体積が減少したためだという説が有力である。私もそう考えていた。

しかし一方でこんな疑問を持っていた。酸素は消費されたかもしれないが、そのかわり二酸化炭素が発生するのではないか。化学式で書けばこうなる。

C+O2→CO2

 これによれば、酸素1分子が消費されれば二酸化炭素1分子が生じる。だから、酸素の消費によって体積が減少するとしたら、発生した二酸化炭素のほとんどが水に溶けるからだろう。しかし、二酸化炭素はそれほど多く水に溶けるという話はきかない。だからこの実験について日記で紹介するのをためらっていた。

 ところが先日、金山広吉さんの「理科研究の盲点研究」(東洋館出版社)を読んで、この疑問がたちまち氷解した。実のところ、ローソクが燃えるときはもう少し複雑な化学反応が生じているらしい。金山さんによると、それはおおよそ次のような反応式であらわされる。

 2CH2+3O2→2CO2+2H2O

 つまり、3分子の酸素が消費されて、2分子の二酸化炭素と2分子の水が生じる。空気中に20パーセント存在する酸素がすべて消費されると、20パーセント体積が減るのではなく、20×1/3しか減らない。計算では約7パーセントほどである。

たしかに酸素の消費で体積は減少するのだが、これまでの定説は1/5だったし、私の実験でも水面上昇はおおむね10パーセントを超えていたから、水面上昇を酸素の消費だけでは説明するのがむつかしい。金山広吉さんはこれにくわえて、酸素消費説に不利な決定的な事実をつきつける。

 じつはコップの中でローソクの炎が消えたとき、コップの中にはまだ大部分の酸素が残っているのだという。その量を測定すると、じつに3/4もの酸素が残っている。つまり、消費された酸素は空気全体の5パーセントに過ぎないわけだ。

そうすると酸素の消費によって生じる体積減少は、5×1/3=1.7パーセントとごく微量だということになり、とても実験事実を説明することはできない。それでは、なぜローソクの炎が消えるとコップのなかの水面は20パーセント近くも上昇するのか。

金山広吉さんによると、これはローソクで熱せられて膨張した気体が、炎が消えることで急速に冷却し、そのためにボイルの法則によって収縮したためであるという。「理科研究の盲点研究」からふたたび引用しよう。

<ローソクの炎に空のコップをかぶせると炎が消える。このとき生じるコップの空気体積の減少の原因について、コップ内の酸素が消費されたためという説があるがこれは正確ではない。その主な原因は炎によって加熱され、熱膨張した空気が下の口から漏出することである。酸素の消費によって生じる減少はあるが、それが占める割合は極めて小さく全体の1割以下で、大部分は空気の漏出によるものである>

圧力が一定だとすると、気体の体積は絶対温度に比例する。もしコップのなかの平均温度が373K(100℃)だとすると、これが室温の300K(24℃)まで下がることで、体積は1/5ほど減少する。実際ローソクの炎の上部は700℃もあるから、コップ内の平均温度が100℃になることも考えられる。金山さんの主張する熱膨張による空気漏洩説だと、実験結果をこのように見事に説明できる。

(今日の一首)

木曽川の河原に来れば冬枯れの
木立の上を鳶が悠々


2007年12月23日(日) コップの中の炎(1)

小学生や中学生の頃に、理科の先生がいろいろな実験をしてくれた。さかさコップの水を始め、教室でであったさまざまな不思議な現象は、私に科学の面白さを教えてくれた。こうして私はサイエンスが大好きな少年になった。

いろいろな実験や観察のなかで、私がいまでも印象深く覚えているのは、水面に浮かべたローソクの炎にガラスのコップをかぶせるという実験である。コップのなかの炎はすぐに消えてしまう。それは何故かということだ。

先生の解説では、それはコップの中の酸素が消費されたためだということだった。モノが燃えるためには酸素がなければならない。だから酸素がなくなると、ローソクの炎が消える。これはとてもよくわかる。

ところがこのときコップの中に水が浸入し、水面がせりあがってくる。これは何故だろう。こう訊かれてもどう答えてよいかわからない。先生はしばらくしてこう謎解きをする。水面が上昇したのは、コップの中の空気の体積が減少したからだ。そのため大気圧に押されて、水面が上昇した。

これをきいて「なるほど」と思う。しかしさらに先生は質問する。それでは炎が消えるとなぜ空気の体積が減少するのか。これも難問だった。しかし、これについても先生は面白いシナリオを用意していた。

それは「燃焼」によって空気中の酸素が消費されると、その分だけ空気の体積が減るからだという。そしてこのことから、酸素が空気中にどのくらい含まれているかがわかる。実験によると、コップの中でローソクの炎が消えたとき1/5近く水面が上昇する。したがって、空気中の酸素は約20パーセントだということになる。

私は家でもこの実験をしてみた。たらいに浮かべた紙の舟にローソクを立て、火をつける。そして上からグラスをかぶせる。そうすると炎が消え、やがて水面が上昇してきた。水面の上昇は1/5より少なかったものの、先生の言われたとおり、酸素が消費されて、その分だけ体積が減少し、水面が上昇したに違いないと思った。

つい最近になって、私はこの実験を日記でとりあげようと思い立ち、台所で実験をしてみた。アルミホイルで舟をつくり、大きななべに水を満たしてこのアルミの舟を浮かべる。そしてその上にローソクを立てて火をつける。炎が安定したところで、グラスをかぶせた。

たしかに水面が上昇した。ただし、水面の上昇は1/5には満たなかった。何回か試みて平均値でみると10パーセントほどだった。ローソクのかわりに、新聞紙やちり紙でも実験してみたが、水面の上昇は同じく少なめだった。

これをどう解釈したよいのか。たとえば、酸素は消費されるが炭酸ガスが発生している。この問題をどう考えたらよいのだろう。酸素が消費された分だけ体積が減少しているというのはほんとうだろうか。実はこれについても、金山広吉さんが「理科研究の盲点研究」でわかりやすく論じている。明日の日記で紹介しよう。

(今日の一首)

 面白き理科の実験思い出し
 ローソク燃やして胸ときめかす


2007年12月22日(土) 再考・さかさコップの水

コップに水を満たし、紙でふたをして逆さにしても、水は零れ落ちない。これについて、大気圧の働きによるものだと以前書いたが、ネットを検索しているうちに、これについては異論があることを知った。

異論を唱えているのは、埼玉大学名誉教授の金山広吉さんである。「理科研究の盲点研究」(東洋館出版社)のなかで、まっさきに「逆さコップ、大気説を疑う」と題して、この問題を論じている。面白そうなので、さっそくアマゾンで注文して、読んでみた。

一読して、感心した。同時に私は自分の不明を恥じた。先入観とは恐ろしいもので、自分で行った簡単な実験で大気説を実証したような錯覚に陥っていた。

 たとえば、コップの水を半分にして同じ実験を行ったらどうだろうか。この場合、コップのなかの空気の圧力があるので、水は流れ落ちるのではないか。ところが、なんとこの場合も、水は流れ落ちず、紙はコップについたままだという。

 さっそく私も台所で実験をしてみた。書いているとおり、コップのなかに空気が残っていても、水は流れ出さない。水の量を少しずつ少なくしてみても同じことである。

 最後はすっかり水をなくしてみたが、紙はコップにくっついている。空のコップでも紙が落ちないのは、大気圧のせいではなく、濡れたコップの口に紙がへばりついているからだろう。

 もちろん水による接着力はそう大きくはないから、さかさコップの水が流れ出さない理由がこの粘着力で説明されるわけではない。じっさいに空のコップの中に小石をいれて実験してみたが、すぐに紙ははがれてしまった。小石の重量にたえられないのである。

 ところが不思議なことに、コップの口をふさぐだけのほんの少量の水を加え、小石入れて同じ実験をするとこんどは紙が落ちない。これはどうしたことだろう。

 コップのなかには小石のほかは大部分が空気である。これはほぼ一気圧で外気とつりあっている。だから、この小石の重量を支えているのは大気圧でないことはあきらかだろう。

 考えられるのは、紙に隣接した水の表面張力である。水が零れ落ちるためには、水が側面の壁から滑り落ちるか、それとも表面に穴が開いて、そこから気泡が登っていかなければならない。各局のところ、水の表面張力と、水を通さない紙によって、この両者が阻止され、水は流れ落ちないと考えられる。

金山広吉さんは、さかさコップの実験を大気圧のない真空にちかい条件で行い、どうように水が落ちないことを示している。そして、次のように書いている。

<さかさコップの生じる原因の説明は「ふたがコップの広い口を小さな開口部に変え、そこにある水の表面張力の働きが水と空気の交換を妨げるため」とした方がより正確ということになる。

また、別の表現をすれば、ふたをすることによってコップと水とふたが一体化し、一つの物体となるためだともいえる。ゆえにふたを支えるのは大気圧ではなくて水の分子力であり、間接的にはコップを支持している手の力であるということになる>

 これは驚いた。金山広吉さんは「万人が常識と思っていることでも、疑問の目で見ると盲点になっている問題が見つかることがある」と書いている。そしてこうも書いている。

<わが国の学校教育は明治の初期に始まって約一世紀の歴史をもつが、その頃から現在までの長い間ずっと常識と思われてきたことに、そのような問題があるとは誰も思わないだろう。かりにあったとしてもすでに誰かが気付いて訂正しているだろうから、この種の問題はたくさんあるわけではない。しかし注意してみれば、まだ少しは見つかるのである>

 そんな理科教育の盲点が、この本にはあと12個ばかり並んでいる。そのなかからもう一つ、あしたの日記で紹介しよう。

(今日の一首)

 眼に見えぬ原子分子があつまりて
 この世ができてわれも生まれる


2007年12月21日(金) 11月の短歌

 毎月、月末にその月の短歌をまとめて掲載していたが、11月分はうっかりしていた。そこで、今日、遅まきながらここに掲載しよう。1月から毎日詠んだ「今日の一首」も、もうすぐまる1年になる。いつか歳月を経て読み返してみると、なつかしいのではないだろうか。

山里を彩る紅葉の木漏れ日に恍惚として極楽浄土

歳をへて心ようやく落ち着いて風の音まで美しきかな
 
稲架ちかくかおりただようさわやかに鳶も悠々秋晴れの空

ありがたき仏縁ありてみ仏を心に抱けば風もさわやか

ときとして道に迷い物忘れ算数できぬが思索はたのし

新米をうましうましと平らげる妻は午年我は寅年

人生は浮き沈みあり波乗りと思えばこれもたのしみのうち 

政治家は二世三世あたりまえこれでよいのか我らの暮らし

幼子の我を見つめて笑ひたるなにやら楽し秋の一日

あたたかき風呂につかればしあわせが羽衣のごと我が身を包む

何ごともしくみを知れば面白し学ぶたのしみ尽きることなし

目に見えぬ原子分子が見えてくる世界を変える科学の心

さだかには目に見えねども風吹けばこれも分子の体当たりかな

あらふしぎコップの水がこぼれない空気の圧力手品師のごと

目に見えぬ水の分子のいたずらか顕微鏡下の微粒子踊る

原子まで写真でみえるこの不思議ウイルスたちも素顔を見せる

若き日の日光浴のかたみかな背中も肩もそばかすだらけ

愛犬と歩いた道の柿の木が色づきにけり今日も青空

散歩道ケリの家族を見つけたり苅田のなかで夫婦よりそふ

一日で真白になりし雪山に光あふれるさわやかな朝

甘柿をたらふく食べてしあわせをかみしめている妻とふたりで

木枯らしもはじめて吹いていつしかや日向ぼっこの恋しき季節

万葉の旅と称して年年に友とたのしむ古里の秋

古里の紅葉の山にいつしかや満月のぼり妻と見ている

いにしへの人も通いぬ山辺の道のもみじは美しきかな

秋の野をしみじみ歩く赤き実が日差しのなかでよろこびのうた

もずがなくしげみの上の青い空風もさわやか山辺の道 

すれちがう人の言葉もなつかしく国のまほろば大和しうるわし

サイエンス学べば解ける謎多しされども残るこころのふしぎ

(今日の一首)

朝ごとに短歌を詠んで目をとじる
このひとときはこころまろやか


2007年12月20日(木) 随処に主となる生き方

57年あまり生きて来て、このごろよく考えるのは、「人生は出会いだ」ということだ。さまざまな出会いがあって、私の人生がこのようにかたち作られてきた。

私が妻とめぐり合ったのも偶然の出会いなら、いまここ愛知県一宮市でくらしているのもまったく偶然である。さらにさかのぼれば、私が福井である男女の子供として生まれたことさえも偶然である。

私は別に猫や犬に生まれてもよかったし、アフリカのサルの子どもにうまれてもよかった。あるいは、銀河系のまったく別の惑星にすむ生物としてうまれてもよかった。

そもそもこの地球という惑星が生まれ、そこにはぐくまれた生命が人類に進化したことそのものが多くの偶然の産物だといわなければならない。私の人生は宇宙開闢以来100億年以上続いた、そうした偶然が無数に重なってかたち作られてきたわけだ。

もっとも、偶然としか考えられない現象も、その複雑な因果関係の糸をたどっていくと、それぞれが複雑にむすびついている。全知全能でない私たちにはわからないが、その背後に何らかの運命の糸が張り巡らされているのかも知れない。仏教ではこれを「縁」と呼んで、「袖摺りあうも他生の縁」などという。

私はこの「縁」という考え方が好きだ。人生を動かしがたい必然と見る運命論でもなく、すべてを偶然の産物と見る虚無主義でもない。むしろ、人生は偶然と必然の糸が織り上げる織物だと思って眺めてみると、この人生もなかなか味があって面白い。

偶然と必然の出会いが人生を創る。その出会いをかたちあるものとなし、ゆたかな人生の果実とするためには、私たち自身のこころのあり方も重要になる。ただ必然に縛られるのでも、偶然にもてあそばされ受身で生きていくのでもない。そのせめぎ合いの中でしぶとく自分の生きるスタイルを育てるのである。

そしてできることなら、この人生をさらなる豊かな出会いの場所にしたい。偶然と必然が織り成すこのめまぐるしく変化する世界にあって、「随処に主となる生き方」をして自らを見失わず、人生をおおらかに楽しみたいものだ。

(今日の一首)

なにゆえにここに生きるかたまゆらの
生をたのしみいつか朽ちゆく


2007年12月19日(水) 私の人生模様

 大学院の博士課程を1年残して教職についたのは、私が28歳のときだった。大学に残り、物理学の研究を続けていても、将来性がないと考えた。この決断が正しかったか正直わからない。しかし、高校教師になったことを後悔はしていない。

 赴任した高校は山の中にあった。各学年3学級の小さな学校である。私は理科を教えることになった。同時に、女子テニス部の顧問を任された。転任した先生が女子テニス部の顧問をしていたので、その後釜だった。

 私はテニスはほとんど知らない。ラケットを握ってコートに立ってみたが、20人ほどいた部員の中で私が一番へただった。これではいけないと、土曜日の夜、名古屋市名東区藤が丘にあったテニススクールに通うことにした。

 スクールには男性は私の他にもう一人、N君だけで、残りの十数人はみんな女性である。先生も女性だった。テニスがこんなに楽しいものだとは知らなかった。やがて休日になるとN君の他に数名の女性たちを誘って、私の高校でテニスをするようになった。

 私が当時住んでいたのは名古屋市郊外の長久手だった。そこの私のアパート近くに集合し、何台かの車に分乗して、1時間ほど山里の道を走ると学校に着く。猿投山が見えるテニスコートで汗を流した後、学校のプールで一汗流したこともあった。私の大学院時代の友人も合流して、みんなでピクニック気分でテニスを楽しんだ。

 そうしているうちに、私の車の助手席にいつもある女性が座るようになった。その女性が現在の私の妻である。私たちはやがて二人だけでデートするようになった。結婚したのはスクールで知り合って、ほぼ1年後のことである。

 私が妻と出合ったのは、たまたまである。私が名古屋の大学院に進学し、高校教師になり、テニス部の顧問になり、そして藤が丘のスクールに入らなければ、二人がめぐり合うチャンスはなかった。妻のほうにも無数の偶然が重なって、私たちは気の遠くなるような稀な確率で出会い、その後も偶然がたくさん重なって結ばれた。

 思えば私がこの世に存在するのも、私の両親がたまたま出合ったからである。そして私たちが夫婦にならなければ、二人の娘もこの世に存在しないし、私や妻の人生もまったく違ったものになっていた。このように、これからもいろいろな偶然がつみかさなって、私たちの人生模様が作られていくのだろう。

私は自分なりの意志や希望をもっている。しかし、人生は思いとおりには運ばない。この先も自分の人生がどのようなものになるかわからないが、それが人生の面白いところでもある。結局のところ、偶然がおりなす様々な出来事の流れに身を任せながら、そうしたなかで、自分らしさを一筋通していければよいと思っている。

(今日の一首)

 さまざまなご縁がありて出来あがる
 人生模様のおもしろきこと


2007年12月18日(火) 縁は異なもの

 先週の土曜日、看護師をしている長女が彼氏をつれてきた。食事をした後、全員で居間のソファーの方に移った。そこで彼が少しあらたまって、結婚を許してほしいというふうなことを切り出した。傍らで、娘が少し涙ぐんでいた。

 あらかじめ娘から話は聞いていたので驚かなかったが、さすがに私も緊張した。もう5年越しの交際である。二人とも大学を出て、しっかりしたところに就職し、二人の相性もいいようだ。私たち夫婦に異論はない。

 二人が知り合ったのインターネットだという。当時娘は三重で、彼は広島の大学生だった。遠距離でチャットをしたり、ゲームをしているうちに仲良くなったようだ。大学を卒業すると、彼は名古屋で就職した。それが2年ほどまえのことである。

 これまでも何回か家に来て、一緒に食事をしたりして、私は誠実な青年だと思っていた。妻も彼を気に入っていて、二人の結婚に大変乗り気である。馴れ初めがインターネットというのが気にかかったが、娘もなかなかいい青年を選んだものだなと思った。

 年末には島根から彼の両親が挨拶に見えるという。すでに一宮の駅近くのマンションにすむことにして、手付け金も払い込んでいる。その物件をまずは一緒に見ることになりそうだ。できれば来年の1月末にはおのおののアパートを引き払い、そこで一緒にすみたいようだ。

結婚式は少し遅れて、来年の7月に新婚旅行もかねて、ハワイの教会でするつもりらしい。「おれたちも招待してくれるのか?」と冗談半分に訊くと、娘が「ええと、旅費くらいは……」と困ったような顔をしていた。

 来年は妻と二人でセブへ行き、ダイビングの資格をとろうと考えていた。これを変更して、ハワイでダイビングということになりそうだ。来年の夏が楽しみである。

(今日の一首)

 結婚の日取りも決まり肩寄せて
 微笑むふたり月も微笑む


2007年12月17日(月) 見ることの愉悦

 戦争中は写真家も生活がたいへんだった。ときには軍部に協力して、戦争に協力するような写真も撮らざるをえなかった。戦後はそうした反省もあって、多くの写真家は権力を批判し、社会問題にも真摯に向き合った。

そうしたなかで、木村伊兵衛は少し異色だった。当時の時事的な問題を直接テーマにした作品が希薄なのである。もともと木村伊兵衛には時事問題にかかわらない傾向があった。戦後になって時代が変わっても、彼自身はその立場を変えなかった。三島靖さんも「木村伊兵衛と土門拳」(平凡社)のなかで、こう述べている。

<木村は、告発調の写真を撮らない。だから同じころ木村が取っていた写真には、土門のような重厚さや衝撃はない。大衆への共感と社会問題への肉薄がこの時代の写真に求められていたとするなら、木村の写真はあくまで洒脱なままに円熟に達してしまったかにも見える>

しかし、さらに三島靖さんはこのあと、「かといって、木村が権力に対して無自覚だったかといえばそうではない」と続ける。そして、木村が時の首相・池田隼人を撮ったときのエピソードを紹介している。

<首相・池田隼人の撮影を頼まれた。助手に呼び出されたのは田沼武能。木村はなぜか撮影を助手にまかせきりで撮らない。

「タバコを吸いながら見ているんです。首相も変な顔をしていましたね。それが奥さんとお孫さんを撮ろうということになって、首相の和服の衿を奥さんが直した瞬間にパチリ。権力者がポーズをとった写真なんか撮る気がなかったのですね」と、田沼は話す。……

時代の動きに積極的ではない。かといって積極的に無関心でもない。あえていえば感情に突き動かされて、あるいは必要以上にはニヒリスティックには撮らないこと、そのことで木村は自分がカメラを持って立った地面の感触を、時間を超えて、観覧者が立つその場所へとつないでみせる>

 木村の写真は、時代に対する批判でも告発でもない。そこにあるのは、「見ることの快楽」そのものではないだろうか。とても静かな、愛惜にも似た愉悦と、旅人のそこはかとなく澄んだ視線。そこには当事者のなまなましい感情は希薄である。

私たちは木村の写真を眺めることで、時間をこえてその場所に連れ出され、そのようにいささか高踏的に人生を眺める楽しみを作者とともに共有する。人生にはこのように、あらゆるものをまるで旅先の光景のように、観照的に軽やかに眺める悦楽があるのだ。

(今日の一首)

見ることのたのしみふかし今日もまた
散歩に出かけ白き山見る


2007年12月16日(日) 土門拳と木村伊兵衛

 写真家の土門拳は、木村伊兵衛より、すこし後輩である。そしてこの先輩を相当に意識していた。土門は「打倒木村伊兵衛」と紙に書いて、部屋の壁に貼っていたという。そして、ライフ誌に木村のではなく、自分の写真が採用されたときのことを回想して、こう述べている。

「ぼくはかれを背負い投げでほうりつけたよ。背負い投げでぶっとばしたよ。写真でね。勝ったんだ、ぼくが」(「アサヒカメラ」1975年3月号)

 この前年に木村は心筋梗塞で世を去っている。その木村に対して土門はこれほどの言葉をのこしている。土門の木村に対するライバル意識は、終生変わらなかった。木村も土門を意識していたようだが、これほど激越な言葉は残していない。

 戦争へと傾斜しつつあった1935年に、木村伊兵衛は1ケ月沖縄を訪れ、写真を撮っている。木村は沖縄に本土とはちがった世界を夢見ていた。そしてある日、ひょいと現地に赴き、「夢の国」に生きる庶民の姿を、かろやかなタッチで掬い取った。名作とたたえられる「那覇の芸者」は、このようにしてできた。

そのあとを追うように、土門もまた1939年に沖縄を訪れ、写真をとった。しかし、その作風は木村とはまったく違っている。彼自身、「瞬間的なものよりも、最大公約数のものを出して行こうと思っている」と述べているように、土門の写真の女は、いかにもこれが沖縄の民族文化だというふうに、衣装を調え、それらしいポーズを決めている。

 木村が愛用したカメラは軽量のライカである。これをいつも持ち歩き、機会があればすばやく撮る。そのときの成り行きに身を任せるので、時間をかけて、立ち止まって何枚も同じようなショットをしつこく狙ったりしない。そうして完成した写真も軽やかで風通しがよい。いまにも人や事物が画面をはみ出して動き出しそうである。

 これに対して、土門は重いカメラを持ち歩き、じっくり腰をすえて、粘り強く対象に迫る。そうして出来上がった写真は、あくまで意志的で、力がこもっていて、どっしりとした重量感がある。三島靖さんも「木村伊兵衛と土門拳」(平凡社)の中で、こう書いている。

<木村は、被写体となった人物を、周囲の雰囲気ごと金魚すくいのようにつかまえる。もろい薄紙の上でいきいきとはねる金魚のイメージ。撮られた人物が薄い印画紙の上で動き続き、枠から飛び出してくるように見える。

 一方、土門は対照的に、これと決めた瞬間を鈍器で殴りつけて強引に静止させたかのように撮る。まるでぶ厚い印画紙に焼き込めたかのようだ>

 土門がどのようにして写真を撮ったか。画家の梅原龍三郎を撮ったときの様子を、土門自身が著書「風貌」に書いているので、その部分を三島靖さんの著書から孫引きさせてもらおう。

<念入りにピントを合わせているうちに、梅原さんの一文字に結んだ例の特徴ある口が、わなわな震えているのに気付いた。膝に置いた左手も、木炭を掴んだまま、ブルブル震えているのに気付いた。怒りに震えるという言葉の実際を、僕は目のあたりに見たのである。……

 梅原さんは、むっくり起ち上がった。籐椅子を両手で一杯に持ち上げた。そして「ウン」と気合もろとも、アトリエの床に叩きつけた。すさまじい音だった>

 土門は自分が納得するまで、徹底的に相手にポーズを取らせる。あるいは何枚も写して、そのなかからさらにこれだというものを根気よく選び出す。こうして力ずくで格闘し、もうこれしかないというような完成度の高い、力の漲った作品を作り出す。木村の自然体の写真とはずいぶん違う。

「ねらっている対象の、ごく一部の変化に気づかずにうつしている場合が往々ある。こういう見落としたものがかえって、ねらったものより強い効果を現してくれることがある。私はこれを写真の大きな魅力と思い、またここに写真の面白味もあると考えている」

 これは1953年に「写真の芸術性」というテーマで行われた座談会での木村の発言だが、ここでも土門は、「写真家は真に芸術家として、最も個性的な範囲で、自分の世界観を印画紙の上で充分に出すような写真家にならなければいけないね」と反発している。

 東京育ちで、これという貧乏の経験もなく、子どものころから高価なカメラを手にして、夢中で写真を撮っていたという根っからの写真好きの木村とちがって、土門は山形で育ち、幼い頃に祖母が借金取りに責め立てられている声を障子の陰で聞きながら、「貧乏だからだ」と蒲団を噛んで悔し泣きに泣いた記憶がある。写真家になったのも町の写真屋の下働きからだった。

こうした境遇を背負って「怒りの写真家」になった土門は、仕事に向かう姿勢も常に闘争的だった。とくに戦後になると、おりからの民主主義運動の波に乗って、その目は社会に生きる人々の上に向けられ、九州の炭鉱労働者の子どもたちや安保闘争、広島など、社会的リアリズムの濃厚で迫力のある作品群を生み出した。

しかし土門を有名にしたのは、彼がたんに社会派レアリズムの写真家たるにとどまらず、日本文化の精髄に迫る古寺巡礼のシリーズを生み出したことが大きい。これは芸術性のみならず精神性や思想性を重視する土門ならではの理想主義と、努力忍耐のプロ魂が可能にした壮挙といっていい。

実のところ、私自身は土門拳の重厚な作風がいささか苦手だ。人物像でも、仏像でも、あまりに型にはまっていて、その寸分なく計算された構図の見事さに息苦しさを覚える。どちらかというと、木村伊兵衛のように軽妙で、余分なものやノイズを気にせず、すべてを偶然にゆだねたような大らかな作風が好きだ。しかし、いつかは土門拳の作品もじっくり味わってみたいと思っている。

(今日の一首)

紙芝居見つめる子らのまなざしが
熱線のごとし昔の写真


2007年12月15日(土) お年寄りの笑顔

 歩いていると、ときどき素敵な笑顔のお年寄りに出会うことがある。そういう女性のお年寄りに出会うと、なんとなく心がときめく。若い女性以上に魅力的に思える。もちろん、そうしたお年よりはほんの例外なのだが、それだけに、感動も大きい。

旅先でそんなお年寄りを見かけたことがある。美人と言うわけではない。ただ、その全体からかもし出されるやわらかな雰囲気がいい。そのときはこっそり後をつけて、お宅の前まで行った。ごく普通の、ひなびた民家だった。おそらく平凡な人生を、平凡に生きてこられた人なのだろう。

 年をとると、多くの人は人相が悪くなる。それは肉体が衰えるにつれて、心の貧寒さが表に表れてくるからだ。しかし本人にそうした自覚はない。だから慎みを忘れ、殺伐とした内面をさらしながら、平気で道を歩いている。これはとても悲しいことだ。

 そうしたなかで、春の陽だまりのような老人の笑顔に会うとうれしくなる。それが老女であればなおさらだ。若い女性にはない、そこはかとない滋味が感じられる。その優しさにふれているうちに、人生の疲れが癒され、心の垢がながされていく。そして思わず、生き仏かと拝みたくなる。
 
(今日の一首)

旅先で出会う老女のほほえみに
心の垢もながされていく


2007年12月14日(金) 俳句写真集「若狭小浜」の試み

今年の冬も、青春18切符で旅行をしようと思う。そしてまた若狭小浜に行くつもりだ。この町は何度行ってもあきない。海があり、川があり、山がある。

それから、お寺があり、昔ながらの古い町並みが残っている。そこに人々の暮らしがある。子どもたちの笑顔があり、犬や猫がのんびり昼寝をしている。港ではカゴメが騒いでいる。そんな何でもない風景が好きだ。

お天気がよければ、写真をたくさん撮りたい。そしてその写真一枚一枚に俳句を付けて、俳句写真集「若狭小浜」を作りたいと思う。この計画はもう十数年前からあるのだが、なかなか実現しなかった。

しかし、うかうかしていると、小浜の町も変わってしまいそうだ。それに私もいつまでも元気とはかぎらない。いまのうちに写真だけでも撮っておこうかと思う。俳句は写真を見ながら、じっくり作ればよい。これがまた大きな楽しみなのだ。

(今日の一首)

 なつかしき暮らし息づく港町
 子どもの笑顔拾って歩く


2007年12月13日(木) 久しぶりの同窓会

 毎年、今ごろの季節になると、中学の同窓会の知らせがとどく。正月の3日の夜にあるその同窓会に私はこの20年間、一度も出席したことがない。その最大の理由は、経済的な問題だった。福井に帰省し、弟の4人の息子たちにお年玉をやると、もう私の財布の中は空っぽである。大枚1万円を投じる余裕はない。

しかし今年は、その通知を手にして、しばらく考え込んだ。この5月から小遣いが大幅にアップしたので、経済的な問題をクリアできるかもしれないと考えたからだ。通知をくれた世話人がいつになく女性の名前になっていたことも心を惹かれた。うっすらとその顔が浮かぶ。お下げ髪の中学生の少女の顔である。

そのあくる日に、今度は高校の同窓会の通知が届いた。これはこの20年間なかったことである。しかもその世話人がT君だった。T君とは小学校、中学校が同じである。そして仲良く県立高校の受験に失敗して、高校も同じになった。

とくに親しかったわけではない。しかし、彼の家に行ったこともあるし、彼が私の家に遊びにきたこともある。彼は性格が穏やかな上、色が白く、どこか愛くるしいところのあった美少年だった。実のところ、私は彼が好きだった。ちょっぴり同性愛的な感情もあった。

T君から届いた同窓会のお知らせは、なんと手書きである。それがまたとても丁寧に整った、愛情のこもったやさしい字体なのだ。T君は40枚もこの手書きの通知を書いたのだろうか。パソコンで手軽に文章を書き、印刷できるこの時代に、住所から案内文まですべて手書きというのは珍しい。

 T君のほかにも会ってみたい顔がいくつも浮かんだ。紅顔の少年もいつかみんないいおじさんだろう。積もる話もある。冬休み中なので青春18切符が使える。泊まるところは実家がある。そう考えていると、これにも出席したくなった。

 年末には、ユネスコやペシャワールの会へ献金をしている。財政が苦しくても、年末の献金だけはこの十数年間欠かさなかった。今年から献金の額も増やす計画だったが、同窓会が重なると増額はむりかもしれない。世界の人たちへの支援もいいが、かっての級友たちとの再会も楽しみである。

(今日の一首)

 なつかしき便りが届く同窓会
 紅顔の少年もいまや五十路か


2007年12月12日(水) 木村伊兵衛の世界

 今回の京都の旅で、もう一つの収穫は、Kさんと一緒に入った京都現代美術館で、木村伊兵衛(1901-1974)の写真を見たことだ。祇園の料亭を出て、八坂神社に歩く四条通りに、その小さな美術館があり、Kさんに誘われるまま入った。


 そこで「昭和を撮る木村伊兵衛の眼」というテーマで写真展を開催中だった。Kさんは一時写真に凝っていたこともあり、木村伊兵衛にくわしかった。パネルを見たり、彼の話を聞きながら、この高名な写真家の写真を見てまわった。

なんだかとても懐かしい昭和の風景や人物がそこにリアルに写し撮られていた。とくに秋田の田舎に取材した写真など、普段着の庶民の表情がよい。写真を見て回りながら、いつにない贅沢な時間を味わった。パネルに梶川芳友さんがこんなことを書いていたが、これに深く共感した。

<木村伊兵衛がのこした「昭和」という時代の日本の風景。それは私の記憶のなかにある懐しい感情を蘇らせる。他者の気持ちと体温が触れあう絶妙な距離感を保ちながら、野暮な一線はさらりとかわす。軽妙洒脱でありながら、出会った瞬間に存在の核心を見通す粋な眼の輝きが、人の心を打つのである>

<木村伊兵衛にとってカメラは肉眼よりもはるかに奥深くを視ることのできる道具であった。優れた資質とたゆまざる努力によって、昭和を撮りつづけた彼は、60歳を越えた頃から、人間を見る眼が非常にはっきりしてきたという>

<それは日常の生活のなかにある、生と死の根源を切り取る写真家の眼である。気に入ったものに出会うと「粋なもんですね」というのが口癖だった木村伊兵衛の生涯には、贅沢な時間が流れている>

木村伊兵衛とならぶ写真家といえば土門拳だが、この二人はその作風が対照的だ。自然体で静かな木村伊兵衛に対して、土門拳はエネルギッシュでダイナミックだ。高峰秀子も著書で二人についてこう書いているという。

<いつも洒落ていて、お茶を飲み話しながらいつの間にか撮り終えている木村伊兵衛と、人を被写体としてしか扱わず、ある撮影の時に京橋から新橋まで3往復もさせ、とことん突き詰めて撮るのだが、それでも何故か憎めない土門拳>

 静と動の対照といえば、映画監督でいえば、さしづめ小津安二郎と黒澤明の作風の違いだろうか。黒澤監督の映画はそこにいつも彼の強烈な個性が刻印されている。しかし、小津安二郎の作品は、ふしぎにこのあくの強さはない。実にさっぱりしていて、それでいて深い味わいをたたえている。

木村伊兵衛の被写体になった人は、いつのまにか撮られていて、気付かないこともあった。「なんにもしなくていいです。そこに自然にしていてくれればいいです」というのが口癖で、被写体にことさら演出をしてポーズをとらせてたりはしなかった。

 ある人が「どうしたらよい写真が撮れるのか」と質問したところ、「いつもカメラを手から離さずにいることが大事だ」と答えたという。これもまた木村伊兵衛らしい言葉だ。そうして出来上がった彼の写真は、あるがままの日常を何気なく切り取った趣がある。カメラや写真家の存在をほとんど感じさせないほど自然なものだ。

それでいて、そのなんでもない日常が、なんともなつかしく感じられるのはなぜだろう。その答えは、「被写体へのそこはかとない愛情」ではないだろうか。彼自身、何かの著書の中でそのようなことを書いていた。

木村伊兵衛の写真を見ながら、「批評とは愛情である。無私の愛情である」という小林秀雄の言葉を思い出した。「日常性への愛情」もしくは「存在そのものに対する愛情」とでもいうべき精神を木村伊兵衛は天分としてゆたかに持っていたのかも知れない。そしてこのスピリットが彼に写真家としての大道を歩ませたのではないだろうか。

(今日の一首)

 乳をやる母が腹ばう囲炉裏端
 木村伊兵衛の深きまなざし


2007年12月11日(火) 京の町を歩く

 翌日の日曜日は、7時頃に宿を出た。白川にそって八坂神社の方へ歩いた。八坂神社の社殿におまいりして、それから朝の丸山公園を散歩した。ねねの道を通り、高台寺の山門をくぐって境内で一休み。それから一念坂、二念坂、三念坂を歩いた。






まだ8時過ぎで、人気もなく店もあいていない。猫が一匹、店先に朝日を浴びながら、物憂そうにあくびをしていたので、写真を撮らせてもらった。それから祇園を抜けて、趣のある町家を撮影しながら、四条川原町の方に歩いた。

腹が減ってきたので、喫茶店を探して歩いたが、早朝から開いている店はなかなか見当たらない。京阪四条駅ちかくまできてようやく発見した。そこで550円のモーニングを食べた。コーヒーにトースト、サラダ、スクランブルエッグがついて、この値段だからありがたかった。

腹ごしらえがすむと、また元気が出てきた。四条大橋を渡り、川原町へ。ここに来たのは2001年10月の「万葉の旅」以来である。その年の10月4日の日記にこう書いた。

<6時頃、京都のホテルに荷物を置いて、夕食をとるために鴨川のほとりの中華料理店にはいった。大正時代に建てられた由緒ある建物で、エレベーターなども旧式で格式を感じさせる。しかし食べて飲んで、ひとり2千数百円は安かった。味も良かったので大満足である。

 そこを出て、先斗町を散策した。北さんの思い出の店でコーヒーを飲もうと言うことになったが、あいにく店が変わっていたので、別も店に入った。そこでダッチ・コーヒーを飲んでいると、着飾った舞子さんが数人入ってきた。十一面観音さまもいいが、生身の美女も悪くはない。ラッキーな一日だった>

 六年前に仲間たちと食事をした中国料理店の前に立つと、その向かいに先斗町の横丁の入り口が見えて、なにやら懐かしかった。そんな思い出にふけりながら、加茂川のほとりを、五条橋の方に歩いた。途中、のんびりと釣り糸を垂れている人が何人もいた。



 途中、加茂川を離れて、清水寺に行く細道を歩いた。そして再び二念坂にきた。そこの「かめやま」という店で、竹細工のバターナイフを買った。妻が以前にそこで買った愛用のバターナイフが紛失したので、その代わりを土産に買うように言われていた。バターナイフと一緒に、自分用の耳かきも買った。

 二人の娘たちには、すでに前日に祇園の近くの「よーじや」という若者向きの店で柘植の櫛を買ってあったから、これでお土産は万全である。お目当ての店で、お目当ての櫛や竹のナイフを買ったら、なんだかほっとして気が楽になった。それからバス停のある表通りまで歩き、京都駅行きのバスに乗った。

(今日の一首)

 柘植の櫛祇園で買って二念坂
 バターナイフは妻のため


2007年12月10日(月) 夜の川原町

 土曜日は清水寺で日帰りのKさんと別れて、八坂神社の前に引き返し、さらにそこから、三条通りにある宿泊先の東山ユースホステルまで歩いた。途中、白川が流れていて、その疎水に沿った道に明かりがともり、柳が夜風にそよぐさまが風情があった。

 ホテルは白川橋のたもと近くにあった。チェックインをすましたあと、今度は三条通りを鴨川のほうへ歩いた。そして三条大橋にある「大戸屋」というレストランで夕飯を食べた。食べたのは745円のしょうが焼き定食である。まあまあうまかった。

川原町三条には、いろいろな思い出がある。20年ほど前に、私は仏教大学の通信教育で国文学を勉強していた。夏になると3週間ほど大学の寮に泊り込んで、集中講義を受けた。そして休日にはその仲間とときどきここに遊びに来た。川沿いの茶屋にはいり、みんなで酒を飲んだりした。若い女性も多く、華やいだ雰囲気だった。

その頃、名古屋からも私をはげますために友人がやってきた。その友人と食事をした後、三条大橋近くの河原でいろいろと語り合った。そしてその近くのホテルに友人を送り届けた。その頃、私もまだ30代で、友人も若かった。そして友人は人妻だった。なにごともなかったが、あっても不思議ではない雰囲気だった。

そんな思い出がいっぱい詰まっている川原町三条をあとにして、その夜は9時近くにホテルに帰ってきた。祇園から清水寺、清閑寺、八坂神社、川原町三条と、ずいぶん歩いた。そのほどよい疲れが、やがて私をこころよいまどろみへと誘ってくれた。

(今日の一首)

 加茂川の橋を渡りつ若き日の
 思ひ出しのぶ三条川原町


2007年12月09日(日) 月はおぼろに東山

 昨日は同僚のO先生の車に便乗させてもらって、Oさんの奥さんと私の3人で一ノ宮インターから高速に入り、京都に向かった。途中、石山寺により、紅葉などを3人で鑑賞した。あいにく私のカメラが電池切れで動かなかったが、その分、Oさんと奥さんが私の分も撮ってくれた。ありがたいことである。

Oさんとは同じ数学科だがあまり個人的な話をしたことがなかった。しかし今回、車の中で奥さんを交え、いろいろとプライベートなことまで話し合って、すっかり親しくなってしまった。忘年会が京都になったときは、正直面倒だなと思ったが、こんな出会いがあるから旅はたのしい。

 忘年会は12時少し過ぎに、祇園の花見小路にある「美登幸」という料亭ではじまった。しばらくして、座敷の金屏風の前に舞妓さんが座り、私たちに挨拶した。座がいっぺんに華やいだ。何でも2時間で4万円だそうある。

 私は祇園の座敷に上がるのも、舞妓さんを見るのもはじめてである。さっさく金屏風の前に舞妓さんと並んで記念写真をとってもらった。それから舞妓さんが勺をしにきたときも、前の先生にカメラを渡して、すかさずツーショットを撮ってもらった。田舎者丸出しだが、こんな貴重な機会はそうあるものではない。



 しばらくして、舞妓さんが金屏風の前で踊り始めた。二曲目が有名な「祇園小唄」だった。舞妓さんの踊りをまじかにみて感激した。ここでもおもわず、カメラを取り出してシャッターを押していた。



月はおぼろに東山
霞む夜毎の かがり火に
夢もいざよう 紅桜
しのぶ思いを 振袖に
祇園恋しや だらりの帯よ

そのあと舞妓さんをまじえ、いろいろ話を聞いているうちに、2時間ほどがあっというまに過ぎた。舞妓さんが再び金屏風の舞に正座をして、お別れの挨拶をした。それからしばらくして、私たちの忘年会もお開きになった。

散会のあと、私は元同僚で現在は非常勤講師をしている友人のK先生と、清水寺まで歩いた。さらにその境内を抜けて、清閑寺まで歩いた。夕暮れの迫る道を、K先生と二人で、「相手が女性ならいうことないのになあ」などと冗談を言いながら歩いた。

K先生とは毎年旅行に行っていたが、今年は都合がつかなくて旅行ができなかった。今回はその埋め合わせのようなものである。清閑寺からふたたび清水寺に引き返し、そこの茶屋で二人でぜんざいを食べた。その頃はもう、すっかり夕暮れで、あたりの景色すべてが夢のように美しく見えた。

(今日の一首)

 ほろ酔いで月はおぼろに東山
 舞妓のすがたあはれなるかな


2007年12月08日(土) ひとりで歩く

宗教学者の山折哲雄さんが、何かの本で、「幸福に生きる3つの条件」をあげていた。第一に大切なことは、「他人と比較しないこと」だそうである。

 私たちは地位や富をもとめてあくせくしている。それは「他人と比較する心」に支配されているからだ。この心を捨てれば、もっと自分本位に、自然に生きることができる。

 これはよくいわれることだからわかる。幸福になる筆頭に上げられた理由もわかる。そして、2番目はなんだったか忘れたが、3番目が面白かった。それは「ひとりで歩く」ことだそうだ。

「他人と比較しない」というのは、なかなか凡人にできることではない。しかし、「ひとりで歩く」ことは誰にでもできる。今日からでもできる。お金もいらない。これで幸せになれるのなら、こんなにありがたいことはない。

 ところが山折さんは、「ひとりで歩く」ことには人を幸せにする大いなる功徳があるのだという。その理由もいろいろとあげていた。いまつまびらかには思い出せないが、たしかにひとりで歩いていると、心の鬱屈が晴れてきて、しあわせな気分になることは事実だ。

 私も最初は高血圧対策に運動がよいといわれて歩き始めた。億劫なことも多かったが、最近では毎日の散歩が楽しみである。毎朝散歩をすることで心がリフレッシュされる。たしかに山折さんが言うように、ひとりで歩くことの功徳は大きいように思う。

ここまで書いてきて、山折さんのいう幸福への2番目の条件を思い出した。それはたしか「人を騙すより、騙されるのをよしとする」ということだった。人はだれでも「人を疑いながら、騙されまい」として生きている。しかし、「人を信じて、その結果騙されてもよいではないか」と開き直るのである。そうすれば人を信じることもできるようになる。人間不信から解放される。

人の善性を信じるということはなかなかできるとではない。世の中には人を騙して甘い汁を吸おうとするやからがひしめいているからだ。しかし、ほんとうに人を信じている人間には、どんな悪人も害をおよぼすことはできないのではないか。

ところで、私が最初考えた幸福への2番目の条件は、これとは少し違っていて、「信念をもつ」というふうなことだった。信念をもつことで、私たちは心に心棒ができて、右往左往しなくなる。そうすれば「他人と比較する」こともなくなる。

 もっともここで「信念」というのが何か頑固な信条というふうなものではない。もっとやわらかで大きなものだ。それはたとえば山折さんのいうような「人を信じる」ということでもよい。もっとはっきり言えば「仏性」を信じる、底抜けに明るい、おおらかな心である。

それではどうしたらそうした悠然とした心が養われるのか。その心を養うのに最適なのが「ひとりで歩く」ということである。ひとりで歩くことでおおらかな平常心が養われれば、他人も自分とおなじ存在として眺めることができる。

そうすれば利己心から他人と自分を分け隔てて比較をすることもなくなる。そしておおらかな心で自分をも他人をも等しく愛することができるようになる。こうして、これらの3つの条件が三位一体となって、私たちを幸せにしてくれる。こううまくことが運べば、人生はばら色である。生きることが無性にたのしくなるのではないか。

さて、今日は京都で学校の忘年会がある。祇園の料理屋に12時に集合することになっている。残念ながらまだ「青春18切符」が使えない。そこで、一宮インターの近くで待ち合わせをして、数学科の同僚のO先生の車に乗せてもらうことにした。

忘年会が終わった後、その界隈を散歩しようと思っている。そして今晩はその近くにあるユースホステルに泊まる予定である。明日もまた京都の街を気ままにひとりでぶらぶら歩いてみようと思う。その様子を、明日の日記に書くつもりだ。

(今日の一首)

 たのしみは祇園の茶屋でひと騒ぎ
 そのあとひとりで古都を味わう


2007年12月07日(金) モノが持つ固有の音

 物体を打つと音が出る。その物体に固有の音がでるので、その音を聞けば、それが何かおおよそわかる。ガラスは甲高い音を出すし、木片はにぶい低い音を出す。あたりまえのことのようだが、これを科学的に説明してみよう。

 音が出るのは、物体が振動するからだ。その振動の様子がその物体の材質や形によって決まってくる。たとえば弦を爪弾くと、そこから出てくる音の振動数はその弦の長さで決まってくる。

それは弦を伝わる波の形が、その寸法できまってくるからだ。たとえば、長さ20センチメートルの弦を振動させると、波長が40センチメートの定常波ができる。これは両方の端が固定さているので、そこで波の振幅が0にならざるを得ないからだ。つまり両端が波の節になり、中央部で振幅が最大の腹になる。

しかし、この弦の中にできる定常波はこれだけではない。両端が節になればよいのだから、波長が20センチの波や、10センチの波も可能だ。一般的にLを弦の長さ、λを定常波の波長とすると、nをの正の整数として、次の式が成り立つ。

λ=2L、L、2L/3、L/2,2L/5、…
 =2L、2L/2、2L/3、2L/4、2L/5、…
 =2L/n (n=1,2,3、…)

媒質が1秒間に何回振動するかを示す振動数νは、音の伝わる速さvをこの波長で割ったものである。したがって、長さLの弦に生まれる定常波の振動数は(v/2L)の整数倍になる。

ν=v/λ=(v/2L)n (n=1,2,3、…)

弦の張り具合によって弦を伝わる音の速さはかわってくるが、ひとつの弦のなかに(v/2L)の整数倍の振動数をもつ無数の波が同時にひしめきあい、これらが重なり合って鳴り響くことで、固有の音色ができてくるわけだ。

同じようなことは他の個体や液体、空気の満たされた容器でも成り立つ。物体はその材質や形状に応じて、固有の振動数を持つ波が生み出される。こうして物体もつ固有振動を利用することで、打楽器や管楽器など、私たちの耳を楽しませてくれる楽器が次々と生み出されてきた。

(今日の一首)

 木曽川を歩けばかわる風景に
 変らぬものは白き御岳

 散歩で堤を歩いていて、大きな鉄橋や樹木も、遠ざかるとみんな小さくなる。そんな中で、振り返ってみて、かわらず堂々と見えるのが雪で白くなった御嶽山である。忙しく変貌する無常の世に、常に変らぬものがあると、なんだか安心する。


2007年12月06日(木) 愉快なバネ振り子

 ブランコは格好の物理の教材である。これをうまく利用すれば、生徒に科学の面白さを実感してもらえるのではないか。そう考えて、理科の教師をしていた頃は、よくブランコの実験をしたものだった。

仕掛けは簡単で、振り子の先にバネをとりつけ、そこに錘をつるして、上下に振動させる。はじはなにも起こらない。ところが振り子の糸をたくり寄せてすこしずつ短くしていくと、ある長さのところで、錘が横に振れだす。つまり振り子現象が始まる。

これはバネによる垂直方向の運動が振り子運動を呼び起こしたわけで、まさにブランコの運動と同じである。こういうことが起こるためには、振り子の周期とバネの周期が同じにならなければならない。そうすると、人が膝を屈伸させるのと同じ仕事をバネの振動が果たすことになり、振り子が振れ始めるわけだ。

ただブランコとちがうのは、つねに繰り返される屈伸運動とちがって、振り子の振幅が大きくなるにつれて、バネによる上下の振動が小さくなることだ。そして上下振動がなくなったところで、振幅が最大になる。これはバネの運動エネルギーが使い果たされたためである。これがそっくり振り子の運動エネルギーになったわけだ。

さらに面白いのは、ここからである。こんどは振り子の揺れ幅がだんだんと小さくなって、その分バネの振動が復活してくる。そして振り子の運動がなくなったところで、もとのようにバネが大きく振動する。こうして再び出発点に戻って同じようなことが繰り返される。

これを見せれば、生徒はだれでも不思議がる。錘をブランコの板の形にして、バネに衣を着せて人形のようにすれば、よけいに面白い。面白いだけではなく、「どうして?」という疑問と好奇心がかきたてられる。

ここで大切なのはエネルギーの考え方である。これがお互いに別のものに乗り移り、姿を変えながら、しかも全体で保存されている。バネ振り子の運動はこの自然の摂理をとても生き生きと実感させてくれる。バネさえあれば誰でもできる実験なので、家庭でこれをやってみて、親子で物理の面白さを体験してみてはどうだろう。

(今日の一首)

 バネふり子振らしてみれば面白い
 生き生き感じる自然の不思議


2007年12月05日(水) 振り子とバネの運動

 糸に錘をつるして左右に振らせる。このとき、一往復にかかる時間を「振り子の周期」という。この周期は糸の長さLのルートに比例している。円周率πと重力加速度gを用いて式を書けば、次のようになる。

T=2π√L/g

 つまり、長さがこの4倍になれば周期が2倍になる。また長さがおなじ振り子は錘の重さや振幅に関わらず周期がひとしい。これを「振り子の等時性」といい、振り子時計はこれを利用して作られている。

 なぜ、周期が長さのルートに比例しているのか、これを直感的に説明するのはむつかしいが、簡単に言えば、平衡点からずれると、そのずれxに比例した大きさの力(復元力)が平衡点のほうに働くとき、その物体は三角関数を用いて表されようなある規則的な振動(単振動)をする。

x=Csin(ωt+φ)

ここで、tは時間である。ωは角振動数、φは初期位相とよばれる量だ。これは半径Cの円を等速運動する点を、横から眺めた運動だと思えばよい。このとき、点は振幅Cで振動して見える。そしてt=2π/ω 秒で1往復する。

バネの場合がわかりやすいので、これで説明しよう。いま、平衡点からのずれをxとし、復元力をFとする。そうするとkをバネの弾性係数として、次の式が成り立つ。

F=−kx  ……(1)

 これと、ニュートンの運動方程式、

 F=ma   ……(2)

 より、次の式が得られる。

 ma=―kx ……(3)

 ここで、加速度a=dv/dt、v=dx/dt である。つまり、(3)はxについて2階の微分方程式になる。これを解けば、xが満たす関数が次のように求まる。

 x=Csin(ωt+φ) ……(4)

ここでω=√k/m である。周期はTはωT=2πより次のように求められる。

T=2π/√k/m=2π√m/k  ……(5)

ところで、振り子の場合は回転角をθとすると、近似的につぎの関係式が成り立つ。

ma=―gmx/L ……(6)

 (3)と比較すると、k=gm/L なので、

T=2π√m/k=2π√L/g ……(7)  

これで振り子の周期が糸の長さのルートに比例していることがわかる。また、実験でTとLを観測すると、この式を用いて重力加速度gが求まる。糸に錘をつるして降らせるだけで簡単に重力加速度を求めることができるので、高校の物理の授業でもこの実験がよく行われる。

最後に1メートルの振り子のおおよその周期を求めてみよう。π=3、g=10を代入して、(7)式から理論値を計算してみると、次のようになる。

T=2×3×√1/10=6×√10/10=0.6×3.16=1.9(秒)

さっそく1メートルの振り子をこしらえて、実際に計ってみると、60秒間にちょうど30回の振れが観測された。1メートルの振り子の周期が2秒というのは覚えやすい。2秒間で1往復と覚えておけば、これはにわかつくりの簡易時計として役立ちそうである。

(今日の一首)

 部屋の中振り子振らして愉快がる
 中年親父のはるかな郷愁


2007年12月04日(火) ぶらんこを科学する

 子どものころ、ブランコが好きだった。家の近くの公園に、幼なじみの少女とよくブランコをしに行った。私が腰を下ろし、少女が立ってこぐ。ブランコがゆれ、風でひるがえった彼女のスカートが、私の頬をやさしくなでた。子供心にもなんとなくエロチックで、至福なひとときであった。

 恥ずかしい話だが、小学生になっても、私はブランコをこぐのが苦手だった。それで少女に漕いでもらったのである。しかし、あるときこっそり一人で練習した。そしてそのうちコツがわかり、ひとりでブランコ遊びができるようになった。

そのコツというのは、最下点に近づくと立ち上がり、最上点近くで膝をまげてしゃがみこむことだ。ブランコのフリにあわせて、これを繰り返す。この呼吸がわかれば簡単だった。しかし、膝を曲げたり伸ばしたりするだけで、どうしてフランコが振れるのだろう。小学生の私にはこれはまったくの謎だった。

その謎がわかりかけたのは、高校の物理の時間に仕事の原理を習ったときだった。最下点近くで立ち上がったとき、私たちはブランコの張力(遠心力と重力の一部とつりあっている)に抗して仕事をする。この仕事がそのままブランの運動エネルギーに加算される。

 これでわかりにくければ、振り子を空中で回転させてみればよい。回転体に遠心力がはたらく。これと糸の張力がつりあっているので、振り子は回転を続けるわけだ。このとき私たちが糸をひく力は仕事をしていない。なぜなら振り子はこの張力に垂直に回転しているからだ。

そこで糸をたぐりよせて回転半径を短くしたらどうなるだろうか。こんど糸を引く力の方向に錘が引き寄せられる。そして錘はは回転速度をはやめる。これは私たちが遠心力にさからって仕事をしたため、この仕事量が錘の運動エネルギーに変換されたのである。

ブランコの台の上で体を伸ばすということは、つまり重心を高くするということである。これは回転半径を短くするということであり、回転体の糸を引き寄せることと同じである。このとき私たちはたしかに仕事をしている。これがブランコの運動エネルギーを増大させる。

いっぽう、振り子の最上部では錘の速度が0になっていて、遠心力も0である。この状態で体を縮めて、回転半径を長くしても、私たちはブランコに対して何か特別有効な仕事をするわけではない。そして、ここで体を縮めたことにより、ふたたび最下点で体を伸ばすという仕草が可能になる。これを機械的に繰り返すことで、ブランコはエネルギーを獲得し、振幅を増大させる。

振り子であれば、運動エネルギーと力学的エネルギーは相互に変換されるだけで、その振幅が増大するということはない。ところがブランコの場合は振幅が増大する。このエネルギーの増加はどこから来たのか。その理由はブランコに乗った人間のこのたくみな屈伸運動である。

つまるところ、ブランコのエネルギーの増大は、人間の筋肉運動がもたらしたものだ。こうしてブランコを漕ぎ続けるということは、重力と遠心力に対抗して、くり返し仕事をするということである。だから、長い間ブランコをこいでいると、私たちの肉体はエネルギーを消費して、腹が減ってくる。

さて、ブランコがこげるようになったあとも、私はこれを内緒にした。何も私が慎み深かったからではない。幼なじみの少女とこれまでどうり一緒にブランコにのり、彼女にこいでもらいたかった。そうして、彼女のスカートが私の頬を撫でる至福のひとときを楽しみたかった。

(今日の一首)

 ひさかたに雨降る朝は妻さそい
 近所の茶屋でコーヒーを飲む

 昨日は、一ヶ月ぶりくらいのまとまった雨だった。おかげで畑の土が潤ったと、妻は大喜びだった。木曽川までの散歩は断念し、妻を誘って近所の喫茶店へ行った。


2007年12月03日(月) 力学的エネルギーの話

 運動している物体は、他の物体に力を及ぼし、これの位地や運動状態を変化させることができる。つまり仕事をする能力を持っている。そしてこの「仕事をする能力」をエネルギーと呼ぶ。

 30メートルの高さの屋上から飛び降りた人は、地面近くでは時速90キロメートルもの速度をもち、これに相当するエネルギーを持っている。この運動することによってもつエネルギーを運動エネルギーとよぶ。

ところで、この運動エネルギーはどのようにして得られるのだろうか。それは、物体が落下することで得られる。このとき、重力が仕事をする。そして落下するにつれて物体の速度が速まり、運動エネルギーが増大する。

そうすると、高い位置におかれた物体も、間接的に「仕事をする能力」を持っていることになる。この間接的(潜在的)に持っているエネルギーを位置エネルギー、もうすこし一般的には、ポテンシャル・エネルギーという。

 そこで地上からxメートル高い位置にある質量mの物体の位置エネルギーUを計算してみよう。それはこの物体が地上に落ちる瞬間の運動エネルギーに等しいはずだ。そしてそれは地球の重力mgがこの物体に対してした仕事量mghに等しいはずだ。そこでこれを計算でたしかめてみよう。

 U=1/2×m×v×v  ……(1)

 ここで重力加速度をg、落下時間をtとすると、次の式が成り立つ。

 v=g×t より、

 v×v=g×g×t×t ……(2)

 x=1/2×g×t×t より、

t×t=2×x/g ……(3)

 よって、(1)、(2)、(3)より、

 U=1/2×m×v×v
=1/2×m×(g×g×t×t)
  =1/2×m×g×g(2×x/g)
  =mgx

 つまり、U=mgx、

位置エネルギー=重力加速度×高さ ……(4)

という関係式が得られる。ここで重力加速度はg=9.8(m/s)である。ここでmgは重力の大きさに等しいから、こうして「物体の位置エネルギーはその物体が地上に落下するまでに重力がする仕事量に等しい」ということがたしかめられた。

つまり、重力がした仕事量mgが、そっくり物体の運動エネルギー1/2×m×v×vに姿を変えている。エネルギーは仕事をする能力だといったが、反対に、仕事をされると物体はその分だけエネルギーが増える。仕事はエネルギーを作り出し、たくわえられたエネルギーはやがて仕事を生み出す。

 投身自殺した女性は、ビルの屋上に上がるときに自分の足の筋肉を使って仕事をしている。重力mgにさからって、30メートル階段を上がったとしたら、30×40×9.8(ジュール)である。エレベーターを使ったとしても、同じだけエレベーターは仕事をしている。

女性のした仕事、もしくはエレベーターがした仕事量だけ、彼女の位置エネルギーが増大し、やがて彼女が身を投げると重力が仕事をしはじめて、女性が持っていた位置エネルギーは運動エネルギーに変換されはじめる。

 このように、仕事を媒介にして、エネルギーは位置エネルギーから運動エネルギーへ、あるいは、運動エネルギーから位置エネルギーへの姿を変える。そして物体の落下運動で見てみると、この両者を合わせたもの(力学的エネルギー)の総量はかわらない。

 mgx+1/2×m×v×v=(一定)

 これを力学的エネルギー保存の法則という。この法則はいつも成り立つとはかぎらない。なぜなら、自然界には力学低エネルギーの他に様々なエネルギーが存在するからだ。

たとえば摩擦によって発生する熱もエネルギーの一種である。その他に分子や原子が結合するときに得られる化学エネルギーがあるし、原子力エネルギーもある。電磁波や音波もエネルギーを持っている。

実際のところ、これらのすべてのエネルギーを考えなければ、エネルギー保存則が成り立つとはいえないが、実験室で行われる振り子の実験などではおおむね力学的エネルギー保存則が成り立っている。その様子を観察できるおもしろい仕掛けがあるので、明日か明後日の日記で紹介しよう。

(今日の一首)

木曽川の紅葉美し御岳も
伊吹も見えて歩めばたのし


2007年12月02日(日) 身投げの運動学

 先月6日、東京の池袋の8階建てのデパートの屋上から25歳の無職の女性が身投げをした。そしてその下を歩いていた38歳の会社員の男性が、下敷きになって死亡した。まさか上から人が降ってくるとは思ってもいなかっただろう。災難と言うしかない。

 8階建てというと30メートルほどはあろうか。そうするとこの女性が身投げをして地上に落ちるまでの時間はどのくらいになるのだろうか。ガリレオが発見した落下の法則によると、静止していた物体がt秒間に落下する距離をyメートルとすると、次のような式が成り立っている。

y=1/2×9.8×t×t≒5×t×t

 これによると、1秒後の落下距離はおよそ5メートル、2秒後には20メートル、3秒後には45メートルほど落ちる。実際は空気の抵抗があり、距離は縮まる。そうしたことも勘案すれば、おおよその目安として、30メートル落下するのに要する時間は、2.5秒くらいだろうか。

 8階建てのビルの屋上から飛び降りると、2.5秒以後には地面に衝突する。その落下寸前の速さと、そのときの運動エネルギーKもついでに求めておこう。計算の都合上、女性の体重を40kgとした。

 v=9.8×t≒10×2.5=25(m/s)=90(km/時)

 K=1/2×m×v×v=0.5×40×25×22=12500(ジュール)

昨日の日記で、3トントラックに衝突したとき、150000ジュールものエネルギーが解放されることがわかった、これとくらべるとたしかに1桁以上小さいが、それでもたとえ相手がかよわい女性であっても、時速90kmで衝突されたら、とんでもないことになる。

身投げした女性にも辛い事情があったことだろう。落下するまでの2.5秒の間に、どんなことを考えたのだろう。身投げした女性にも、巻き添えになった男性にも、同情を禁じえない。お二人のご冥福をお祈りします。

(今日の一首)

 身投げする人の心は知らねども
人降る街はさびしきものぞ


2007年12月01日(土) トラックの運動エネルギー

 車はとても便利な人間の発明品だが、ときには「走る凶器」にもなる。とくに恐ろしいのはダンプカーで、私は後ろに大型トラックが迫ってくると、背筋が寒くなり思わず車線変更してしまう。

運動している物体が大きな力をもっていることは昔から知られていた。もう少し正確にいうと、力を及ぼして物を動かす能力、つまり「仕事をする能力」をもっている。そしてこの「仕事をする能力」を、私たちはエネルギーと呼ぶ。

ここで大切なのは、ただ力を及ぼしているだけでは仕事をしているとはいえないことだ。バケツに水を入れてぶら下げていても仕事をしていることにはならない。コンクリートの壁を何時間馬鹿力で押し続けてくたびれ果てても、実際に壁が動かなければ仕事量は0である。

仕事(ジュール)=力(ニュートン)×動かした距離(メートル)

なお、力の単位はニュートン、仕事量の単位はジュールで表す。0.1kg(100グラム)の物体にかかる重力はおよそ1(0.1kg×9.8m/ss)ニュートンである。これを1メートル持ち上げれば、その仕事量は1ニュートン×1メートルで1ジュールになる。

それでは、質量3000kg(3トン)のトラックが20m/s(時速72キロ)で運動しているとする。このとき、このトラックのもっている運動エネルギーはどのくらいになるのだろう。

それはこのトラックが静止するまでにどれだけの仕事をするかで計られる。ニュートンの作用反作用の法則によれば、このトラックの他者に及ぼす力は他者から受ける力に等しい。

 そこでいま簡単のために、このトラックが一定の力F(ニュートン)をt(秒)間受けて、x(メートル)だけ動いて静止したとしよう。この場合、トラックは等加速速度運動をする。そこでこの加速度をaで表す。そうすると、次のような式が成り立つ。

F=ma (ニュートンの運動方程式) ……(1)
 
  v=at 、t=v/a ……(2)
  x=1/2×a×(tの2乗) ……(3)

(2)、(3)より、

  x=1/2×a×v/a×v/a  ……(4)

 そうすると、(1)、(4)より、仕事W(ジュール)は次のようになる。

  W=F×x=ma×1/2×a×v/a×v/a=1/2×m×v×v

 一般に、質量m(キログラム)の物体が速度V(メートル/秒)で動いているとき、この物体がもっている運動エネルギーは次のようになる。

  E=1/2×m×v×v(ジュール)

したがって、質量3000kgのトラックが10m/s(時速36キロ)で運動しているとすると、その運動エネルギーは次のようになる。

E=1/2×3000×10×10=150000(ジュール)

実験によると、1カロリー=4.2ジュールだから、これは熱量に換算すると、ほぼ36キロカロリーということになる。つまりこのトラックがブレーキをかけて静止すると、そこで発生する摩擦熱は、1kgの水の温度を36度ほど上昇させるわけだ。

質量が小さな分子や原子の運動エネルギーはひとつひとつはわずかな量だ。しかし、これも数が集ると馬鹿にはならない。1立方メートルの空気の質量は1.2kgである。これが高速で動くととほうもない運動エネルギーをもつ。台風やハリケーンが恐ろしいわけだ。

(今日の一首)

 夢の中我を呼ぶ声亡き父に
 はいと答えて夢よりさめる


橋本裕 |MAILHomePage

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