橋本裕の日記
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2007年02月28日(水) 2月の短歌

雪山もかすんでいたり大寒に上着を脱ぎて散歩するかな

身を寄せてプラットフォームで電車待つ少女の息もかぼそく白し

己との対話もたのし独りいていのちの不思議しみじみ覚ゆ

寒風に向かって行けば汗ばみてここちよきかな伊吹山白し

ひさかたに古文を読めばしきしまのやまとことばはうつくしきかな

真夜中に咳がとまらず水を飲むありがたきかなこころ落ち着く

豊橋で昼飯をくう田楽にやっこにおから味噌汁うまし

人々の幸せ願ふ政治家はいずこにありや国の宝ぞ

小夜ふけて停車場を出る乗客を迎えてくれたひさかたの雨

描かれし青い花瓶のカレンダールドンの描く神秘の花々

わが畑の野菜はうましひよどりがまるごと食べるキャベツはくさい

定年後いかに生きるかあれこれとたのしき夢にふけりたるかな

うらうらと照れる春日を身に受けて歩けばたのし命なりけり

母の声はかなく聴こゆ電話口たしかになりてわれは安堵す

イギリスに旅立つ次女にわが夢を託していたり霧の都よ

雨風に散歩はよして湯につかるあたたかきかな朝風呂もよし

ロンドンへ旅立つ娘われに似てどこか抜けてる方向音痴

朝餉どきテレビに映る雪景色なつかしきかなふるさとの冬

雨上がり風に吹かれて逍遥す遠くの山にわずかなる雪

ロンドンの娘のメールまちかねて何度も開くメールボックス

あたたかき日和よけれど花粉症マスクする人ちらほらと見ゆ

早春の畑でモズがミミズ捕るメスに運んでオスはおあずけ

うらうらと照れる春日を身に浴びて歌を唄えば心たのしも

春来れば草木も人も匂ひたつ花のつぼみにやはらかな風

草の露かれは何ぞと問ふ女愛おしきかなはかなきいのち

悠久の時を想えば風さえも生きた化石ぞ太古の言葉

街路樹のこぶしが咲けりうららかな陽射しのなかにほのかにひらく

(今日の一首)

如月も今日でおしまい雪のなき
冬はめずらし何やらさびし


2007年02月27日(火) ウイリーの物語

 星野道夫さんの遺稿集「長い旅の途上」のなかに、「ある親子の再生」という一篇がおさめられている。星野さんがアラスカで知り合ったクリンギットインデアンのウイリーさんの話だ。

<ウイリーには、初めて会った瞬間に、強いスピリチュアルな何かを感じていた。風のようにひょうひょうとして、まったく陽気な男なのに、彼の美しい視線はいつも相手の心の中を優しく見透かしていた。その美しさはある深い闇を越えてきたまなざしでもある。ウイリーはベトナム帰還兵だった>

 ベトナム戦争では5万8132人の米兵が命を落としている。そして、その3倍にも及ぶ約15万人もの帰還兵が自殺をしている。つまり20万人以上のアメリカ人がこの戦争で命を落とし、おそらくその何倍ものベトナムの人たちが死んでいるわけだ。

 インデアンやエスキモーの若者たちも過酷な戦場へ送り出された。ウイリーさんもその一人だった。そして彼は戦争から帰り、精神に破綻を来たし、首をつって自殺を図る。そのとき、7歳になる彼の息子が、必死に父親の体を下から支え続けたのだという。その後、ウイリーさんの再生の物語がはじまった。

<ウイリーは長い心の旅をへて、クリンギットインデアンの血を取り戻そうとしている。そして今も心を病むベトナム帰還兵のインデアンの同胞を訪ね、その痛みに耳を傾けていた。それだけではなく、監獄にいるインデアンの若者たちを訪ねては再生への道を共に歩いている。それは戦後荒れていった彼自身がたどった道でもあった。そしてウイリーが素晴らしいのは、その行為が自然で、何の気負いもないことだった>

 早春のある日、星野さんはウイリーさんと一緒に、小さな舟でアラスカの海に漁に出た。出発を前にして、ウイリーさんは小舟から薬草の潰したものを海面まき、祈りをささげた。そして、こんな言葉をつぶやいたという。

<あらゆるものが、どこかでつながっているのさ>

 この風のような言葉に、星野さんは打たれた。それは何千年にもわたってアラスカの海や原野に生きてきたエスキモーやインデアンの人々が今なお宿している感覚である。その漁で二人はオヒョウの大群にあい、漁は真夜中まで続いたという。

 ウイリーがつぶやいた風のような言葉に、私も魂をゆさぶられた。このなつかしさは、現代の文明社会を生きる私たちの魂の奥底に、原始のスピリットが宿っているあかしなのだろう。再生の可能性は、私たちにも残されている。

(今日の一首)

 街路樹のこぶしが咲けりうららかな
 陽射しのなかにほのかにひらく

 今年は暖冬のせいか、季節のめぐりが早い。近所の家の梅が白梅、紅梅とも咲きそろった。そして、街路樹のこぶしが昨日いきなり咲き始めた。散歩道の桜並木も、つぼみがずいぶんふくらんでいる。


2007年02月26日(月) 星のような物語

 アラスカに18年間住み続け、惜しくも43歳で亡くなられた星野道夫(1952〜1996)さんの写真と文章が好きだ。彼がテレビ番組取材中にヒグマに襲われて亡くなられたとき、池澤夏樹が「週刊朝日」にこんな言葉を寄せている。

<アラスカに、カリブーやムースやクマやクジラと一緒に星野道夫がいるということが、ぼくの自然観の支えだった。彼はもういない。僕たちはこの事実に慣れなければならない。残った者にできるのは、彼の写真を見ること、文章を読むこと、彼の考えをもっと深く知ること。彼の人柄を忘れないこと。それだけだ>

 私の手元には「未来への地図」(朝日出版)と「長い旅の途上」(文芸春秋)の2冊がある。もう1年ほど前に職場の同僚の先生に借りて、そのまま返しそびれている。読むたび悠久の時間に誘われ、心の芯が暖められる。手元においていつまでも慈しみたい本だ。

 NHK総合テレビで 「アラスカ 星のような物語〜写真家 星野道夫 はるかなる大地〜」というスペシャル番組が昨日放送された。私は休日の午後にテレビを見ることはまれだ。それが昨日はたまたま3時ごろにテレビをつけた。

 ヒグマ、カリブー、クジラが太古のままに生息する壮大なアラスカの自然に魅せられて眺めていた。途中で星野道夫さんの著作「長い旅の途上」の言葉にめぐり合った。それで彼ゆかりの番組だと気づいた。

<アラスカの冬はいつもある日突然やって来る。昨日までシラカバやアスペンの落ち葉を踏みしめていたのが、もう遠い昔のような気がする。それにしても、いつも感じるこの初雪のうれしさは何だろう。これから長く暗い冬が始まるというのに、空から落ちてくる無数の雪片にただ見惚れている。あれほど夏の光を惜しんでいたというのに、もうすっかり気持ちは冬に向かっている。この土地の、季節の変わる瞬間が僕は好きだ>

<いつか友人が、この土地の暮らしについてこんなふうに言っていた。”寒さが人の気持ちを暖かくさせる。遠くはなれていることが、人と人を近づけるんだ”と>

<想い続けた夢がかなう日の朝は、どうして心がシーンと静まり返るのだろうか>

<ぼんやりとした、心の中の川は、はっきりと地図の上に象を結んだ。大切な川が、熟した実が落ちるように決まったのだ>

<オーロラは、長く暗い極北の冬に生きる人々の心をなぐさめ、あたためてくれる。やがて冬至が過ぎ、太陽の描く弧が少しずつ広がり始めると、人々の気持ちに小さなあかりが灯る。本当の冬はまだこれからなのに、日増しに春をたぐりよせる実感をもつからだろう>

<アラスカのめぐる季節。そしてその半分を占める、冬。だが、この冬があるからこそ、かすかな春の訪れに感謝し、あふれるような夏の光をしっかりと受け止め、つかのまの美しい秋を惜しむことができる>

<きっと、同じ春が、すべての者に同じよろこびを与えることはないのだろう。なぜなら、よろこびの大きさとは、それぞれが越してきた冬にかかっているからだ。冬をしっかり越さないかぎり、春をしっかり感じることはできないからだ。それは、幸福と不幸のあり方にどこか似ている>

<無窮の彼方へ流れゆく時を、めぐる季節で確かに感じることができる。自然とは、何と粋な計らいをするのだろうと思う。一年に一度、名残り惜しく過ぎてゆくものに、この世で何度めぐり合えるのか>

<日々の暮らしのなかで、”今、この瞬間”とは何なのだろう。ふと考えると、自分にとって、それは”自然”という言葉に行き着いてゆく。目に見える世界だけではない。”内なる自然”との出会いである。何も生み出すことのない、ただ流れてゆく時を、取り戻すということである>

<日々の暮らしに負われている時、もうひとつの別の時間が流れている。それを悠久の自然と言っても良いだろう。そのことを知ることができたなら、いや想像でも心の片隅に意識することができたなら、それは生きてゆくうえでひとつの力になるような気がするのだ>

<人間にとって、きっとふたつの大切な時間があるのだろう。ひとつは、日々の暮らしの中で関わる身近な自然である。それは道端の草花であったり、近くの川の流れであったりする。そしてもうひとつは、日々の暮らしとはかかわらない遥か遠い自然である。そこに行く必要はない。が、そこに在ると思えるだけで心が豊かになる自然である>

<原野の暮らしに憧れてやって来るさまざまな人々、しかし、その多くは挫折するか、わずかな期間の体験に満足してやがて帰ってゆく。問われているものは、屈強な精神でも、肉体でも、そして高い理想でもなく、ある種の素朴さのような気がする>

<アラスカ内部に、何万年と暮らし続けてきたアサバスカンインディアンの人々。彼らの文化は、ピラミッドや神殿などの歴史的遺産は何も残さなかった。しかし、ひとつだけ残したものがある。それは、太古の昔と何も変わらない、彼らの暮らしを取り囲む森である>

 この番組を作るために、スタッフは1年間アラスカ・ロケを敢行し、実際に星野道夫が目にし、シャッターを切り、言葉を綴った場所を訪れたという。神秘的なオーロラと氷河、そしてクマやクジラ、オオカミなど、まさに野生の息遣いが伝わってくる映像、星空から降り注ぐような星野さんの珠玉の言葉。それらが私たちを悠久の時へと誘い、今を生きる力を与えてくれる。

(今日の一首)

 悠久の時を想えば風さえも
 生きた化石ぞ太古の言葉

「風こそは、信じ難いほどやわらかい真の化石だ」と誰かが言ったそうだ。星野さんはこの言葉を紹介して、こう続けている。

<私たちをとりまく大気は、太古の昔からの、無数の生き物たちが吐く息を含んでいるからだ。その吐く息とは、”言葉”に置きかえてもよいだろう。風につつまれた時、それは古い物語がどこからか吹いてきたのだという>

 散歩のとき風につつまれたら、「ああ、この風には死んだ父の息がふくまれているのだ。星野道夫の語った言葉もふくまれているのだ」と、そのように感じてみよう。


2007年02月25日(日) 女を盗む話


 20年ほど前に、仏教大学国文科に籍を置いていた頃、サマースクールで「伊勢物語」を学んだ。そのとき、ちょっと不思議な体験をした。その日はたまたま「六段」の「女を盗み出す話」を読んでいたのだが、講義の途中からにわかに空が掻き曇り、雷鳴とともに嵐のような雨が襲ってきたのだ。

 男が盗み出すのは身分の高い貴族(藤原良房)の娘である。父親は娘を入内させ、ゆくゆくは天皇の后にしようと思っている。ところが在原業平とおぼしい貴公子が、身の程知らずにもお姫様に懸想する。寝殿に忍び込み、やんごとなきお姫様とできてしまう。

 やがて姫君の父親や兄弟の知るところなり、二人の仲は無理に裂かれる。そこで男はやむにやまれず、お姫様を盗み出した。言ってみれば駆け落ちである。追っ手を逃れ、負ぶって逃げる途中、女が草の上に置かれた露を見て、「あれは何?」と男にきく。このあたりまで、原文ではこうだ。

<むかし、おとこありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率ていきければ、草の上にをきたりける露を、「かれは何ぞ」となんおとこに問ひける>

 お姫様はほんとうに「露」を知らないのだろうか。まさか、それではあまりに無知すぎる。たぶん知っていて聞いたのだろう。その露の玉があまりに美しかったからだ。しかし、男は逃げるのに夢中でそれどころではない。

 やがて夜になり、おまけに雷が鳴り出し、激しい雨が降ってきた。男はあばら家を見つけて、そこにひとまず女を隠し、自分は戸口で見張りをする。ところが夜中に鬼が出てきて、女を食べてしまう。お姫様は声を出すが、雷の音にかき消されて、男の耳には届かない。

<ゆくさき多く夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥にをし入れて、おとこ、弓胡を負ひて戸口に居り、はや夜も明けなんと思つゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」といひけれど、神鳴るさはぎにえ聞かざりけり>

 クライマックスのこの部分を教室で先生が読み始めたとき、それまで明るかった外が急に暗くなった。そして雷が鳴り出し、大雨になった。まさに、テキストと同時進行である。「これは驚きましたね」と先生も苦笑い。私もとなりの女性と顔を見合わせた。彼女は「鬼が出てきそうで怖い」と肩をすくめた。演出効果抜群だった。

 こうして女は鬼に食べられ、あとかたもなくなった。夜が明けて、男ははじめて、あばら家の中に女がいないのに気づく。そして、足ずりをして泣いたがもうどうしようもない。男は女が逃げる途中に草葉の上の白玉を見て、「かれは何ぞ」と訊いたのを思い出す。そして、その時、「露だよ」と答えて、いっそ一緒に消えてしまいたかったと思う。

<やうやう夜も明けゆくに、見れば、率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。

 白玉かなにぞと人の問ひし時
 露とこたへて消えなましものを

 これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを、御兄人堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下らうにて内へまいりたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とゞめてとりかへしたまうてけり。それを、かく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のたゞにおはしける時とや>

 「伊勢物語」はこの物語をこう謎解きしている。姫君はのちに文徳天皇の后になり、清和天皇の母親になった。そしてここから藤原家は栄耀栄華の道を登り始める。一方、男は東国へ落される。そして隅田川まできて、こんな歌を詠む。

 名にし負わばいざ事問はむ都鳥
 わが思う人はありやなしやと

 「伊勢物語」は大好きである。なかでも「六段」の「女を盗み出す話」は哀切である。読み返すたびに、仏教大学の教室でのひと夏の体験が、懐かしくよみがえる。

(今日の一首)

 草の露かれは何ぞと問ふ女
 愛おしきかなはかなきいのち


2007年02月24日(土) ヒロインは猫の化身

「週刊現代」に長谷川櫂さんがエッセー「国民的俳句100」を連載している。長谷川さんは今週号(3/3)のエッセーを、「前々から気になっていた妙なことがある」と書き始めている。妙なことというのは、夏目漱石の作品に出てくるヒロインの名前だという。

「草枕」の那美(なみ)
「三四郎」の美禰子(みえこ)
「それから」の三千代(みちよ)
「門」の御米(おみね)
「彼岸過ぎ迄」の千代子(ちよこ)

 これらの名前が「ミャーミャー、ニャーニャー」と猫の鳴き声のように聞こえる。「我輩は猫である」で、主人公の猫が思いを寄せるのは、二弦琴のお師匠さんの飼猫の「三毛子」である。長谷川さんは漱石の小説のヒロインは、この三毛子の生まれ変わりではないかという。「虞美人草」の「藤尾」も「尾」があやしい。「明暗」の「お延」にも猫があくびをしているような風情がただよう。

<猫から生まれたヒロインたち。こんなこと、世の漱石研究家は周知のことなのだろうか。このことに気づいてからというもの、漱石のヒロインがみな猫に思えてしかたがない。髭のある美禰子や三角耳の御米の幻影がときどき現れて、悩ましいことといったら>

 長谷川さんのこの一文、漱石の急所を押さえているような気がする。これを読んでから、私も漱石文学のヒロインがどれも猫の化身のように思われてきた。そればかりではない。通勤電車で見る少女やご婦人たちまで、三毛子の親戚のように見える。何とも悩ましい。

(今日の一句)

 春来れば草木も人も匂ひたつ
 花のつぼみにやはらかな風


2007年02月23日(金) うらうらと照れる春日に

 今日は朝から雨だが、このところ好天で暖かい日和が続いていた。毎朝の木曽川の散歩が快かった。堤防の上で、柔軟体操や腕立て伏せ、腕振り運動をする。

 運動のあと歩きはじめると、体が中に浮いて体重が20キロくらい減った感じである。血圧もかなり下がっているのではないか。堤防を歩きながら、万葉集の歌を高吟する。これも爽快である。

 うらうらと照れる春日にひばり上がり
 心かなしもひとりし思へば

 春の野に霞たなびきうらかなし
 この夕影に鶯なくも

 我が宿のいささ群竹吹く風の
 音のかそけきこの夕べかも

 いずれも大伴家持の歌である。万葉集の歌はただ字面を読んでいては駄目だ。声に出してうたってみると、そのよさがわかる。和語のうつくしさが実感される。千数百年も前の人の歌でありながら、こころにまっすぐ響いてくる。万葉集に限らず、古典はすべてそうだ。声に出して味わわなければ、そのよさはわからない。

 高校生の頃、4畳半の部屋に祖母とふたりで暮らしていた。私は祖母を相手に学校で習った古典の文章を朗読し、学校の先生になったつもりで解説をしてやった。祖母は迷惑だったかも知れないが、まあ辛抱して聞いてくれた。ときには、「ああ、いいことかいてあるね」とおあいそを言ってくれた。これがうれしかった。

 20年ほど前に、仏教大学の国文科に学士入学し、2年間がんばったのも、生徒たちに国語を教えて、万葉集をはじめ、日本の古文の美しさを知らせたいと思ったからだ。残念ながら、この志はとげられなかった。しかし、この夢は今もわたしの胸のなかにある。

(今日の一首)

 うらうらと照れる春日を身に浴びて
 歌を唄えば心たのしも


2007年02月22日(木) モズの夫婦

 これは妻から聞いた話だ。面白いので日記で紹介しよう。妻が毎日通っている近所の畑に、モズが夫婦でやってくる。お目当てはミミズである。野菜作りをしていて、畑を掘り返すとミミズがでてくる。それをモズが目ざとく見つけて、すばやく妻の手元から奪っていく。まさに目にもとまらぬ早業である。

 奪っていくのはいつもからだの少し大きいオスの方である。彼はすぐ近くの枝先まできて、熱心に妻の仕事ぶりを見詰めている。これにたいして、メスのほうはもう少し離れた枝先に止まって様子を見ている。

 オスはミミズをくわえると、近くの枝先に戻る。すると、メスがピー、ピーと猛烈に鳴き始める。羽を震わせて必死にオスに声をかける。オスはミミズをくわえたまま、横目でうらめしそうにメスをみる。メスはますます必死である。

「なにをもたもたしているの。はやくミミズをよこしなさい」
「僕が苦労してとったんだぜ。僕が食べるのが順番だろう」
「駄目。まず、私から食べるのよ」
「あとで持っていくからさ」
「そんな薄情者だったの。もう絶交よ」
「わかったよ、今もって行くからさ。そう怒るなよ」

 こんな按配で、オスはしぶしぶ餌をメスのところにミミズを運ぶ。メスは満足そうにそれを平らげる。オスはまた近くに来て、次のミミズを狙う。そして二匹目を手に入れるのだが、同時にメスがけたたましく鳴き始める。オスはおろおろするが、やはりメスのところにミミズを持っていく。妻はこの様子を見ていて笑いが止まらなかったという。

 私も様子が目に浮かぶようで笑ったが、おなじオスとして、少し複雑な思いになる。けなげなモズのオスが、自分自身の姿に重なるからだ。妻のように腹の底から笑うわけにはいかない。

 ペアになる決定権はメスが握っているようだ。そこでメスの気を引こうと、早春の頃にオスは求愛のダンスを行い、けたたましく鳴く。モズを百舌鳥と書くのは、ホオジロやウグイスなど、さまざまな鳥の鳴き方をまねるためだ。オスは二枚舌ならぬ百枚舌を使う。それだけ必死である。

(今日の一首)

 早春の畑でモズがミミズ捕る
 メスに運んでオスはおあずけ


2007年02月21日(水) 主語を抹殺した男(9)

 英文は「主語と述語」からできた「主述文」である。しかし、日本文には「主題文」と「現象文」がある。「主題文」は「主題と述語」からできているが、「現象文」は「主題」をもたず、「述部」だけの文である。

 象は鼻が長い。(主題文)
 象の鼻が長い。(現象文)

 英文の場合は、述部には当然ながら「主語」は含まれない。しかし、日本文では「主格補語」は「述部」に含まれる。つまり、「主格補語」も他の補語と同じ資格で、連用修飾語とみなされる。

  太郎が 花子に 英語を
 −−−−−−−−−−−−
       教えた

 ここで、「太郎が」は「花子に」や「英語を」と同じ資格で、「教えた」という用言を修飾している。「主格」を「主語」として持ち上げて特別扱いしない。そのかわり、「てにをは」の中で、「は」の働きを重視する。

 太陽は明るい。(主題文)
 太陽が明るい。(現象文)

 この二つの文の意味は違っている。「主題文」は「太陽は明るいものだ」と述べている。三上のいう「全体」、「恒等式の感覚」である。太陽はただ一つしか存在しないが、全体(本性、本質)について、何か普遍的な真実を述べているわけだ。この意味で、「主題」は「主語」に匹敵する重みを持っている。

 これに対して「現象文」の方は、「太陽がたまたま現在明るい」というその場限りの事実しか述べていない。しばらくして雲が出てくれば、太陽はたちまち曇るかもしれない。こうした「は」と「が」の使い分けは、日本人であれば子供にでもしている。しかし、使えるということと、その論理を把握していることは別物である。

 三上文法のエッセンスを述べてみたが、私の一人合点もあろう。興味をもたれたかたは、金谷武洋さんの「日本語に主語はいらない」(講談社選書メチエ)を読んでほしい。

 さて、金谷さんの「主語を抹殺した男」によると、三上章の日本語文法は国文法が幅をきかす中央の学会では無視されたが、まったく不遇だったというわけでもないようだ。佐久間鼎という大きな支柱があったし、著名な文法学者の中にも三上を評価する人がいた。たとえば金田一春彦(1913〜2004)がそうだ。彼は三上の論文に注目し、応援してくれた。

 1951年、三上章は東大文学部に金田一を訪問した。このとき金田一は三上に本の執筆を薦めた。そればかりか、知り合いの出版社まで紹介してくれた。こうして三上の最初の著作「現代語法序説」が世に出ることになった。佐久間についで、金田一は、三上章の第二の恩人である。

 三上の本が出版されると、金田一は「日本読売新聞」のコラムでこれを取り上げ推奨した。さらにその後出版された自分の著作「日本語」(岩波新書 初版1957年)でも、「現代語法序説」を紹介し、「彼の言うように、日本語の主語は、じつは<主格補語>だ」と断言した。三上は感激した。金谷さんはこう書いている。

<研究者でも芸能人でも、大成するには上からの引っ張る「ひき(引き)」と、下から持ち上げる「ひいき(贔屓)」が大切だとされるが、三上章という文法家にとっての「ひき」は、だれよりもまず佐久間鼎と金田一であった。そしてその期待に三上は見事に応えた。

 下からの「ひいき」、つまり三上ファンは今日では世界中に何万人といることだろう。あとは出版社、テレビ局などのメディア、そして腰の重い文部科学省のお役人を巻き込んで三上文法を、大槻、橋本につづく三代目の学校文法にする作業が残っているだけだ。ここまで来ればもう大丈夫だろう、と私は楽観している>

 私は金谷さんほど楽観はしていない。しかし、日本語教育の現場に身をおき、実践を通してその真価を知れば、彼のように「熟柿がひとりでに落ちるように、時が来ればかならずそうなるに違いない」と確信をもって語ることができるのかもしれない。

 1971年9月16日に三上章は68歳の生涯を終えた。肺がんだった。このとき友人の桑原武夫は「展望」(1972年1月号)に「三上章を惜しむ」という文を発表したことは前に書いたとおりだ。そこで桑原はこうも書いている。

<関西の大新聞で、この第一級の日本語文法学者の死を報じたものはなかったように思う。東洋さらに日本の、あらゆるものを西洋の基準ではかり、それに合わぬものを低級視する西洋崇拝思想に反発して、世界の場で日本として認めようとするものとして、土着主義というものが戦後十年をへて生まれ、これはジャーナリズムも十分に認めているのだが、三上がその先駆者の一人であることをジャーナリズムは知らないからである>

 桑原の「土着主義」という言葉は誤解を生むかも知れない。三上が排斥したのは、英文法を借りて日本語の文法とするようなうわべの西洋主義であって、ギリシャから始まる西洋合理主義の否定ではない。むしろ彼は日本語の根底に存在する「論理」を重視した。三上文法がそうした普遍に通じていればこそ、西洋言語学の立場からみても評価すべきものとして、ハーバード大学に招聘されたわけだ。

 三上が死んでしばらくした1971年11月3日に、「三上を偲ぶ会」が新宿の中村屋で行われた。そのとき金田一は回ってきたノートの一面に、美しい文字で、「象の鼻は長い。学者三上章の声名はさらに長く永遠と信じます」という言葉を書いた。日本の大新聞に黙殺された三上だったが、それから30年がたって、金田一のこの言葉は真実味を帯びてきている。

 金谷さんは「日本語に主語はいらない」を、だれよりも金田一春彦に読んでほしいと思って執筆したという。そして、刷り上ったばかりの一冊を早速、心不全で療養中だった金田一に送った。彼から「この本を読ませたかったのは三上章さんですね。今ごろは天国で読み、快哉を叫んでいるかもしれませんね」と書かれた返事がとどいた。

 金谷さんはモントリオールから飛行機で駆けつけようと思ったが、その後、金田一の容態が悪くなり、とうとう面会を果たすことができなかったという。金田一は同じ手紙で「貴方が編集された日本語文法テキストというのを出版して下さったらいいと思います」と激励している。金谷さんはこれを天国の三上と共同して書くつもりだという。(続く)

(今日の一首)

 あたたかき日和よけれど花粉症
 マスクする人ちらほらと見ゆ

 私はむかしひどかったが、今はそうでもない。しかし、去年辺りから、また少し症状が出始めた。名古屋市内の高校に転勤したせいだろうか。昨日はうっかり毛布や布団を干してしまった。花粉まみれの布団で寝たせいか、今朝はくしゃみが出て、鼻水がひどい。目がかゆいのは、典型的な花粉症だ。


2007年02月20日(火) 主語を抹殺した男(8)

 英語は主語を先頭におき、つぎに動詞をおく。そのあと補語や目的語を置く。文の構造はこの語順によって決り、「剛構造」になっている。しかし日本文はもっと柔らかなしくみになっている。動詞群はおおむね文末に置かれるが、その他の名詞群の語順は決まっていないからだ。

 列車がやがて2番ホームに入ります。
 やがて2番ホームに列車が入ります。

 このように主格や目的格など、文の構造は「が」「を」「に」などの「格助詞」を用いて表され、これで語格がはっきり決まるので、語順に対しては寛容なのである。状況に応じてもっとも効率的な形に変化できる柔軟さがある。この「柔構造」が日本文の利点である。英語はこの点で融通が利かない。

 このように、日本語と英語は文法構造が違っている。英語は語順で文の構造が決まる「語順文法」であるが、日本語は単語の語尾の形(接続する格助詞の種類)で構造が決まる「語形文法」である。にもかかわらず、この違いがはっきりと認識されることはなかった。そして構造の違う日本語に、英語式の「語順文法」をあてはめた。こうしてできあがったのが「国文法」である。これが明治以来、日本の学校で教えられてきた。

 三上章はこれに不満だった。日本語は「語形文法」であり、日本語の命は「てにをは」である。これをないがしろにする英文式の国文法は間違っている。この間違いを正すべく書いたのが、処女論文の「語法研究への一提試」だった。彼は以来30年間、このことを一筋に主張し続けた。

 こうした「国文法」の弱点はどこにあらわれるかというと、まずは「主語の問題」である。英文と違って、日本語は主語を省くことが多い。そしてときには「主格」をたくさんもち、主語を決めることができないこともある。これはつまり英語のような意味での主語が存在しないということである。三上章は「日本文に主語はいらない」と主張し、ダメ押しのようにこう書いている。

<私ガ顔ガ色ガ黒イ。家ハ窓ガアル。主格補語を幾つ取り得るかといふ標準から用言を三分すれば、3個が形容詞、2個が自動詞、1個が他動詞である>

 さらに重大な問題があった。それは国文法における「てにをは」の軽視である。三上章はこれを批判し、その主著「象は鼻がは長い」では、「日本語はガノニヲ変換の訓練」とまで言い切っている。ここで三上がとくに注目したのは、「ガとハの使い分け」の問題だった。

(1) 蛍光灯は明るい。
(2) 蛍光灯が明るい。

 日本人ならだれでも、この2つの文章のちがいが分かる。しかし、この意味の違いを言葉で論理的に説明しなさいといわれたら困るだろう。「直感的に違う」としか言いようがないからだ。しかし、学問はこれではこまる。こうした意味の違いを論理的に説明するのが使命だからだ。

大野晋さんは「日本語練習帳」のなかで、「『ハ』はすぐ上にあることを、他と区別して確定したこと(もの)として問題にする」という「根本的性格」があると書いている。簡単に言えば「主題化」するということだ。これに対して「が」は「現象文」をつくる働きがあるという。つまり(1)は蛍光灯について書かれた主題文であり、(2)は単なる事実(現象)を述べた文だというわけだ。

 以前の「国文法」は「は」は主語を表すとして済ましていた。だからこれを説明しようという姿勢は評価できる。「ハは主題をあらわす」というのはいまでは常識だが、「ガ」が現象をあらわすというのはなかなかのセンスである。しかしこうした問題については、すでに60年も前に三上が本質を捕まえて、もっと深く洞察している。「語法研究への一提試」から引用しよう。

<壁ハ白イと言えば壁を全体と見た判断だが、壁ガ白イと言えば、壁が部分に落ちて、背後の家についての品評となる。焦点の位置が違うのである。いずれにせよ「ガ」は部分的である。数学の等式でも、恒等式でなら「ハ等シイ」で、方程式なら「ガ等シイ」だ>

 「は」が「全体」を表し、「が」が部分を表すというのは、実におどろくべき卓見である。しかし、現在にたるまで、無数の論文が書かれながら、こうした本質的な観点から「は」と「が」の問題を論じた著作はほとんどない。その理由は何か、金谷武洋さんは「主語病」にたたられているからだという。

 もちろん、数少ない例外がないではない。金谷さんの著作もそうだが、他には町田健さんも「日本語のしくみがわかる本」(研究者)で、この問題に関しては本質に迫ることをしっかりと押さえながら書いている。その部分を引用してみよう。

<考えて見ますと、「ハ」の一番大切な働きは、ある語句が表すはずの事物の「全部」を指し示すということになります。「イヌは動物です」だったら、「イヌ」という名詞が表すことができるモノの全部を示しています>

 これはまさしく、三上説そのものである。町田さんは三上文法について一言も言及してしない。まったく独立に「は」の秘密にたどりついたのかもしれない。そうだとしたら、それはそれですばらしいことだ。それではこの立場に立って、さきほどの例文を解釈してみよう。

(1) 蛍光灯は明るい。
(2) 蛍光灯が明るい。

「蛍光光は明るい」だと、これは「すべての蛍光灯」についてあてはまることになる。「蛍光灯というものは明るい」と言い換えてもよい。これが「は」は「全体を表す」ということの意味だ。三上さんはこれを「恒等式」に例えている。恒等式は常に成り立つ式のことである。私たちはこれを「恒等文」というかわりに、「主題文」とよぶ。

「蛍光灯が明るい」というのは、その目の前にある特定の蛍光灯がただ明るいという現象をあらわしている。蛍光灯が全体を代表して、一般的に本性から明るいことを主張しているわけでもない。たまたま今は明るいだけである。したがってこれは「方程式」ににている。これを私たちは「現象文」と呼ぼう。

(3)泰男は酒を飲んでは暴れた。
(4)泰男は酒を飲んで暴れた。

 これは町田さんが「日本語のしくみがわかる本」でとりあげている例文である。「泰男は」と始まるので、これは「泰男」という人物について述べられた主題文である。それはともかくとして、(4)の文にはもう一つ「酒を飲んでは」と「は」が使われている。これによって、文の意味が全然違ってくる。

「酒を飲んでは暴れた」というのは、たまたま酒を飲んであばれたということではない。「酒を飲んで暴れる」ことが常態化・習慣化しているということだ。これに対して「酒を飲んで暴れた」では、泰男が酒乱かどうかははっきりしない。ただそういうことが、たまたまあったということがわかるだけである。これについて町田さんはこう書いている。

<とにかく「酒をのんでは」みたいな表現で大切なのは、「酒を飲んで」という語句(正確に言うと「節」ですね)が表す事柄の「全部」を指しているんだよ、ということです>

 これで「は」のもつ本質がよくわかる。大切なのはこうした「ハは全体をあらわす」という感覚である。日本人はだれでも「ハとガの使い分け」ができるということは、「は」と「が」の語感をそれなりに心得ているということだ。しかし、その語感をことばで論理的に説明することができる人はまれだ。大野さんのような国語学の大家にもできない。大野式に説明されても、私には理解できないし、中学生や高校生にもわからないだろう。

「ハとガの使い分け」は日本語のもっとも深い世界につながっている。じつは、私たちは「は」と「が」によって、世界を二つの方法で捉えている。ひとつは「もの」の世界で、もう一つは「こと」の世界である。

(5) そういう「もの」である。
(6) そういう「こと」である。

「もの」の世界とは恒久的な「本質世界」であり、「こと」の世界とはたまゆらに生成消滅する「現象世界」である。「主題文」と「現象文」の違いを突き詰めていけば、こうした深い世界にたどり着く。三上章はこうした日本語の本質を感覚的につかんでいた。それだけではなく、それを論理的に説明できるという稀な才能に恵まれていた。まさに言語学の天才である。(続く)


(今日の一首)

 ロンドンの娘のメールまちかねて
 何度も開くメールボックス

 娘は無事ロンドンついた。学校へも行き、先生にもあったようだ。届いたメールには、とても親切な先生だと書いてある。とにかく第一報が入ったのでほっとした。

 英文のメールだったので、私も英文で返事をだしておいた。文字化けするといけないからね。不慣れな英文でいちいち書くのはわずらわしいが、英文だと日本語ではかけないようなフランクな愛情表現ができそうな気がする。親馬鹿ぶりを発揮するには、英文の手紙はいいかもしれない。


2007年02月19日(月) 主語を抹殺した男(7)

 1763年5月25日、伊勢松阪の旅館「新上屋」において、まだうら若い33歳の本居宣長と66歳の賀茂真淵は出会い、師弟の契りを結んだ。有名な「松阪の一夜」である。金谷さんは1941年12月の三上章と佐久間鼎の出会いをこれにたとえている。ここから「いよいよ日本語がはじまった」という。

<佐久間は、三上の文法研究者としての優れた能力を早くから見抜き、三上が学者に大成するように大いに腐心した。三上は三上で、生来の性向が一匹狼であるにもかかわらず、佐久間を自分の唯一の師として、出会いの日から最後まで、敬意と感謝をもって接した。それは両者の間に交わされた書簡にあきらかにしめされている>

 三上の手紙をきっかけにして、二人の文通がはじまった。そして三上は翌1942年3月10日に、処女論文「語法研究への一提試」を一気に書き上げた。日本語文法の根底を変えるたいへんな内容の論文である。やがて佐久間から大阪で会おうという手紙が届く。5月のある日、二人は目印に胸に白いハンカチを入れて大阪駅で落ち合った。そして一緒に酒を飲み、夕食を食べた。このとき三上は39歳、佐久間は54歳である。

 妹の茂子さんによると、三上はその夜たいへん機嫌よく帰ってきたという。佐久間を前にして、三上は自分の処女論文について熱っぽく語ったに違いない。そして佐久間は彼を激励したことであろう。奇縁というべきことに、佐久間の長男も「章」という名前だった。佐久間にとって三上章は何か身内のような存在に思えたのではないだろうか。

 「語法研究への一提試」は雑誌「コトバ」の6月号に掲載された。三上はこれで国文法から「主語」という言葉はなくなるだろうと考えた。大変な自信家である。たしかにすばらしい論文だった。金谷さんの言葉を引いておこう。

<なかでもとくに、第一章「主語抹殺論」と第三章「ハとガの使い分け」は、海を越え、時を越えて、ますます評価が高まることはあっても、まずその逆となることはないだろう。日本語の文法に関心のある人にはぜひ読んでほしい。この論文こそは国語を日本語に脱皮させた1個の真珠である>

 この独創的な論文について、文法学者の山口光は「三上のそれから30年におよぶ長い文法研究は既に学説の原点と大枠がこの小論で明らかに明示されている」という。三上自身、死の前年にこのことを確認して、数十年にわたって自分の基本的な考え方がかわらなかったことに驚いている。

 42年6月のこの処女論文から、死の直前の1971年9月に発表された「主格の優位」まで、30年間に三上は雑誌論文を61本書いている。著作は「現代語法序説」から「文法小論集」まで8冊を出した。さらに死後、二冊が加わっている。その大半は大阪の県立高校で数学教師をしながら書き上げたものだ。その絶倫な精力にまず瞠目しないわけにはいかない。三上にこの学問上の偉業を成し遂げさせたのは佐久間鼎だった。

 三上は佐久間が学長を勤める東洋大学で博士号を取得している。これも三上の将来を考えた佐久間の計らいである。佐久間は1970年、82歳でなくなった。そして三上もその翌年、師のあとを追うように68歳の生涯を終えた。二人の師弟関係は何と30年間も続いた。

 佐久間や三上の努力はむくわれなかった。先覚者の悲哀というしかない。しかし彼らの業績は忘れ去られることはなかった。それどころか大きな結果を産みだしつつある。2003年にはこれまで国文学の総本山であった「国語学会」が「日本語学会」に改称された。これを受けて、日本の大学の「国語・国文学科」が続々と「日本語・日本文学科」へと変わりつつある。やがて、日本の大学で「現代語法序説」がテキストになり、中学や高校で三上文法が教えられる日がくるかも知れない。

(今日の一首)

 雨上がり風に吹かれて逍遥す
 遠くの山にわずかなる雪


2007年02月18日(日) 主語を抹殺した男(6)

 三上章の大阪府布施の自宅からそう遠くないところに、契沖が住職として移り住み、多くの著作を残した「円珠庵」(天王寺区空晴町)がある。契沖は水戸光圀の依頼で「万葉集」を注釈した。これが有名な「万葉代匠記」である。この功績で契沖は水戸藩から毎年10両を貰っていた。

 1801年の春、本居宣長が円珠庵を訪れている。すでに100年前の1701年に契沖は亡くなっている。宣長は半年後に死を迎えているから、自らの死を意識して、契沖のゆかりの地を訪れることを思い立ったのだろう。時代は下り、三上章がここを訪れたのは、1941年の夏である。宣長の訪問から、さらに140年あまりが経っていた。

 契沖や本居宣長が始めたのは、日本語についての本格的な学問である。古代の文献を批判的に眺め、偏見や固定観念からから自由になるためには、日本文化に圧倒的な影響力のある漢心を排する必要がある。とらわれない目で日本と日本語の本質を見つめようとした二人の心に、三上章の心が寄り添った。すでに三上の心には期するものがあった。ある書物との衝撃的な出会いを果たしていたからだ。

 太平洋の戦端がひらかれたこの年、時枝誠記が「国語学原論」を出版している。しかし、三上章に衝撃を与えたのはこの本ではなかった。同じ年の3月に育英書院から出版された佐久間鼎の「日本語の特質」だった。佐久間は東京大学哲学科を卒業し、博士号を取得した後、ドイツ、フランスに2年間留学している。研究したのはゲシュタルト心理学で、帰国後、九州大学教授に赴任して心理学を教えていた。佐久間はこうした独特の経歴をもちながら、日本語文法にも深い関心をもち、雑誌「コトバ」を主宰していた。

  佐久間のゲシュタルト(場)心理学を取り入れた「コソアド研究」は秀逸だった。活用形をローマ字で表記することで、自動詞と他動詞の特質を浮かび上がらせる形態素分析の手法も斬新だった。日本語を世界の中の「言語」のひとつとして客観的に捉えようとする姿勢も際立っていた。金谷さんはこう書いている。

<こういう点はやはり外国で生活しながら外国語を習得した学者の発想であり、早い時期に彼が「日本語派」となったのも頷ける。つまりは、日本語を日本の中でしか捉えないのが。「国語派」であり、国境の外から多くの言語の中の一つとして捉えると自然に「日本語派」になるのだと言えよう>

 1941年に「国語学原論」を書いた時枝誠記は2年後に東京帝国大学教授になっている。彼を教授に推したのは前任者の橋本進吉だった。橋本には「国語学概念」という著作があり、「国語派」の総元締めである。戦後、国史は日本史になった。しかし、「国語」は「日本語」にならなかった。80年前の橋本文法がまだ現在日本の学校で教えられている。

 本居宣長に私淑した山田孝雄は、大槻文彦に師事したが傍系であり、「日本文法」という言葉を使っている。佐久間や三上章は評価したのは橋本文法ではなく山田文法であった。ちなみに山田孝雄は東北大学で三上義夫の同僚だった。その縁もあり、三上章は戦後になって山田に就職依頼の手紙を出している。しかし、これについてはまた後に触れよう。

       大槻文彦ーーー橋本進吉ーー時枝誠記ーー大野晋など
               |
                ー山田孝雄
               
  契沖ーー本居宣長ーー 佐久間鼎ーー三上章

 金谷さんが三上章の「象は鼻が長い」に衝撃を受けたように、三上は佐久間鼎の「日本語の特質」に出会って衝撃を受けた。すでに大陸時代の5年間を通して、三上は日本語を他の言語と比較して論理的にとらえようとする性向が生まれていた。「日本語の特質」はまさに、三上にこの観点の重要性を再認識させた。

 この本を読んで感激した三上は、日本語研究に一生をかけようと考えた。この決意を胸に秘めての、円珠庵への参詣だったわけだ。そしてその年の暮れ、真珠湾攻撃を翌日に控えた12月7日、三上は佐久間鼎に入門を請う手紙を送った。

(今日の一首)

 朝餉どきテレビに映る雪景色
 なつかしきかなふるさとの冬


2007年02月17日(土) 主語を抹殺した男(5)

 1935年に朝鮮から帰った三上は32歳になっていた。広島修道中学、和歌山粉河中学で教鞭をとったあと、39年の暮れに大阪府立八尾中学校に赴任する。戦後は学制改革で新設高校になったが、彼はこの学校でそののち22年間の教師生活を送ることになる。ここにようやく安住の地を見つけたわけだ。

  八尾中学に就職して半年後、三上は「加茂一政」というペンネームで一冊の書物を世に送り出した。本の題名は「技芸は難く」である。彼はこう書き出している。

<好き嫌いで批評してはいけない、といふ套句には重大な脱字がある。批評し『なく』ては、と二字点睛しなくてはならぬ>

 開戦前夜の重苦しい時代である。純粋な知的衝動の赴くままに、洋の東西を越えて、哲学、美術、音楽、文学とさまざまなジャンルを自由に渉猟した三上の随筆は異色だった。この出版を機縁に英文学者の吉田精一から、「日本にもこんなことを書く人があるかと思うとうれしくなります」との手紙をもらった。

 そればかりでなく、吉田精一は自分が主催する雑誌「批評」に記事を連載してくれるように依頼してきた。翌年、三上の「ヂオスクロイ」という一篇が12月号に掲載された。しかし、ついに続編は出なかった。連載は一方的に打ち切られた。芸術評論家としての未来を夢見ていた三上にとってこれは大きな痛手だった。これについて、妹の茂子がこう語っている。金谷さんの本から孫引きする。

<初めはね、文法ではなくて文学、絵画、音楽、そんなのを書きたかったんです。芸術評論ですよね。絵画、芸術は好きでした。なかでも好きなのはコクトーでした。それからもう一人、ポール・ヴァレリーが好きでしたね。コクトーの方は好き、ポール・ヴァレリーの方は敬愛の念、尊敬の念をもっていましたね。

 ずいぶん、書いたものもあったんです。ただね、第二次東亜戦争の時代でしょう。紙がなくなったんです。統制されましたからね、紙をもらってきれいに印刷するということは不可能でした。そうしますとカラー印刷の絵画についての評論とかはもう書けない訳ですよ>

 妹の茂子さんは、やがて三上と生活を共にするようになった。三上は独身だったが、茂子さんも生涯を独身で通している。三上の文法家としての業績を陰で支えたのは茂子さんだった。最晩年、三上はハーバード大学に招聘され、茂子さんを残して出発する。しかし、三上は精神異常をきたし、わずか3週間でアメリカから送り返されてしまう。三上章にとって、茂子さんは特別な存在だった。金谷さんは三上章の「時代は難く」のペンネーム「加茂一政」のなかに、こんな秘密を見つけている。

<「加茂一政」の「茂」は「茂子」なのだ。なぜこんなに簡単なことに気づかなかったのだろう。「茂」が「茂子」なら「加」がすぐに解ける。自分の暮らしに「茂子を加え」るのだ。三上はそう決めて筆名の苗字を「加茂」にしたに違いない。つづいて「政」の意味だが、「家政/財政」でみてもわかるように、これは「おさめる/おさまる」だろう。最後に残ったのは「一」。これは素直に「一つ」と読む。つまり「一政」は「一つにおさまる」と読めばよい。夫と別れた母親を引き取るのは、長男として当然だ。しかしそこに妹まで加えるとしたら、それはまさに「一つにおさまる」と言える。

 解読は一気に完了した。「加茂一政」は「茂子を加えて一つにおさまる」と読めたのである。そしてこの筆名が言霊でもあったかのように、その願いを三上はその二年後に実現した。いずれにしても、このペンネームは自分に対する生活革命の決意、あるいは「自分と一緒に住まないか」という妹への誘いであったろう>

 金谷さんの暗号解読者としての腕前は上々である。三上章はペンネームにこんな企みをしかけ、それを実行に移した。そしてこのことを秘した。まさか、半世紀以上過ぎて、このひそやかなはかりごとが、白日の下に暴かれるとは思ってもいなかっただろう。「参ったな。解かれたか」と、天国で苦笑しているに違いない。

 三上の「文芸批評家」としての夢は果たされなかった。茂子さんが語っているように、まさに「技芸は難く」あった。そして、このことが三上章を日本語文法家の道へと押しやる一助になった。なぜなら、このあとすぐに、三上は自分の人生を変える大きな一歩を踏み出しているからだ。

(今日の一首)

 ロンドンへ旅立つ娘われに似て
 どこか抜けてる方向音痴
 
 次女は昨夜、夜行バスで成田に向かった。今日、午前中に日本を飛び立つ。私に似て、かなりの方向音痴である。ロンドンへ行くつもりで、グアムへ行ったりしないだろうなと、父親は心配である。


2007年02月16日(金) 主語を抹殺した男(4)

 1923(大正12)年、9月1日、マグニチュード7.9の巨大地震が関東地方を襲った。死者行方不明14万2800名という未曾有の大災害である。この翌年、三上章は東京大学の建築学科を受験して合格している。建築学科に進学することを勧めたのは大叔父の三上義夫だった。

 数学者の大叔父は「この世相だ。数学では食えまいが、建築なら食えるだろう」と語っていたという。章の妹の茂子さんによると、これは「指図」だったようだ。尊敬している大叔父の言葉に、さすがに三上章も逆らえなかったのだろうか。それでも、試験前日になって、「わし、やめる」と言い出してまわりをあわてさせた。広島の友人たちが何とか説得して試験場に引っ張ってきたらしい。実のところ、三上家の財政状態もかなり悪化していた。

 日本経済は不況だった。しかし、大震災で建設業は需要が見込まれ、東大の建築学部は例年にない高倍率だった。直前まで迷っていた三上章はそれでも合格した。東大での4年間、三高から京大に進んだ友人たちとさかんに文通した。文学(ドストエフスキーとツルゲーネフ)、絵画(ゴッホとアンリー・ルソー)、音楽(ドビッシー)の話題が多かったという。また啄木が好きで、この孤独な詩人の日記を耽読した。

 1927(昭和2)年3月に東大を卒業した。銀行がぞくぞく休業するという金融恐慌のまっただなかで、三上章は台湾総督府に技官として就職する。やはり東大建築学科卒の威光は大きかった。これで三上家は安泰かと思われた。大叔父の三上義夫も胸をなでおろしたことだろう。

 ところが、三上章はこの恵まれた職を2年で投げ出してしまう。知的な刺激に乏しく、官吏暮らしも性分に合わなかった。辞職して1929年5月に広島に戻った27歳の三上章は、また自由な読書生活に復帰して、「批評は何処へ行く」という小林秀雄ばりの文学批評の論文を書きあげた。これを雑誌「思想」に投稿し、12月号に掲載された。処女作は文芸批評だった。

 このころ三上章は文筆業を夢見ていたのかもしれない。しかし、不況のさなか、世の中は甘くない。とりあえず職位を見つけ、食べる算段をしなければならない。そこで、今度は朝鮮半島にわたり、この地で5年間にわたり中学校の数学教師を勤めた。この朝鮮北部での数年間の教師生活は三上章にとって快適なものだった。

 彼にとってありがたかったことは、この新天地で誰にも干渉されない「自由な時間」が持てたことだった。給料や世間体を気にしない三上は、学問や読書に耽り、教え子たちとの豊かな人間関係を楽しんだ。スポーツ好きだった三上は、休日には乗馬、テニス、水泳、スケートを謳歌した。しなかったのは狩猟だという。三上の周囲には朝鮮人のほかに、ロシア人、満州人が入り混じって暮らしていた。こうした外地での生活は、三上章の内面にも大きな影響を与えた。金谷さんに語ってもらおう。

<当時の朝鮮のコスモポリタンな環境は、文化的言語的に台湾をはるかに凌駕していた。ここでは日本語を他の言語との対比において考えることが自然であり、未来の文法研究家三上章の才能を醗酵させるには、理想的な土壌であったに違いない。その意味で、三上にとって、自分の母語はこの外地において「国語」から「日本語」へと変容を遂げることになる>

<数学、音楽、そして晩年にはいよいよ日本語文法と、教える内容に変化はあったが、これ以降、三上は亡くなるまで「一介の教師」でありつづける。そして「一介の教師」であるがゆえに、才知湧くがごとき、足を地に着けた一人の「街の語学者」を日本は得たのである>

 しかし、三上の朝鮮半島での楽しい教師生活にも戦争の影がしだいに忍び寄ってきた。三上が朝鮮半島に渡った翌年の1931年には満州事変が勃発している。翌年32年には満州国が誕生した。33年には国際連盟脱退。この年、京大で滝川事件がおこった。三上が赴任した羅南は朝鮮半島の北の端にある。日本軍国主義の支配は三上の身辺にも及んできた。

 大陸的な北朝鮮での生活は気に入っていたが、三上は中学時代の恩師の勧めで、南朝鮮の学校に転勤する。しかし、新しい学校は三上にあわなかった。三上は後年この頃のことを回想して、「朝鮮の人々は気の毒な人たちじゃ。植民政策の線での教育は、いけんじゃなあ」と繰り返していたという。孤立して息苦しくなった三上は短期間でこの学校を辞職した。こうして三上は5年間の朝鮮暮らしに終止符を打ち、広島に帰ってきた。(続く)

(今日の一首)

 雨風に散歩はよして湯につかる
 あたたかきかな朝風呂もよし


2007年02月15日(木) 主語を抹殺した男(3)

 旧制山口高校を退学した三上章は広島へ帰り、読書三昧の毎日だった。三上の読書はジャンルを選ばず、手足り次第だったようだ。この博覧強記がのちの文法研究にもいかされることになる。しかし、これはまだ先のことだ。彼はとくに受験勉強らしいこともしなかったが、翌年、余裕で第三高等学校に合格し、京都に出て行った。専攻は分科ではなく理科だった。数学が好きだったからだろう。

 三上は三高で多くの友人を得た。なかでも特筆すべきは仏文学者の桑原武夫と生物学者の今西錦司だろう。二人とも戦後の日本を代表する文化人であり、文化勲章を受賞している。今西は生前、「わしに進化論をはじめて教えたのは三上や」と語っていたそうだ。三上章との出会いがなければ、今西の独創的な「棲み分け理論」も誕生しなかった可能性がある。

 桑原は三上の一級下だった。「彼は特に数学にすぐれていたが、試験で問題を解くさい、教師が教室で教えたのとはちがう解き口を見出そうと努力し、おおむねそれに成功していたようだった」と「三上章を惜しむ」(「展望」1972年1月号)に書いている。

 桑原によると、三上は数式を表すのに、「a、b、c」「x、y、z」という記号を使わずに、「イ、ロ、ハ」「セ、ス、ソ」などと書いていた。教師に叱られても「数学として正しく解けていれば、それでいいでしょう」と改めなかったという。こんな生意気な学生を、第三高等学校の教師はどう思っていたのだろう。

 権威を疑い、むしろ挑みかかるような三上の姿勢は、教師に受けがよくなかったのではないだろうか。もっとも、試験である難問が出されたとき、正解したのは80人の受験者のなかで三上ただひとりだったという。桑原武夫はこんなエピソードも紹介している。

<三上はある日ズボンの前のボタンをかけるのを忘れていて教師に注意された。すると彼は翌日、ズボンのボタンを全部ちぎって登校した。西洋では前のボタンのことをやかましくいうのは理由がある。西洋人の多くはマワシあるいはパンツをはいておらず、ワイシャツの下の部分で包んでいるだけだから、ボタンをはずしておくと陽物が見えるおそれがあるからである。ところが自分たちはきっちり下帯をしているから、そんな紳士づらをする必要はどこにもない、という理屈だった。彼はそのまま押し通したようだ。股間にいつも白い布が見えていた記憶がある>

 後に三上は「日本語には日本語の文法がある。西洋の物まねでは駄目だ」と主張し、独自な文法を発表する。こうした個性の強さは生来の性格だろうが、あるいは和算研究家の大叔父の影響もあったのかも知れない。あまりに風変わりで独善家の彼は教師には憎まれたが、その分、多くの友を得ることになったようだ。話好きの彼の家には多くの友人がやってきた。「応接間はいつもにぎやかで、笑いが絶えませんでした」というのは、妹の茂子さんの回想である。

 現在、インターネットで三上章のピアノが聴ける。彼の弾くドビッシーの「亜麻色の乙女」を私も聴いてみたが、なかなかの腕である。彼はショパンとドビッシーを好み、楽譜を研究して音楽理論にも一家言を持っていた。そして彼は空論家ではなかった。自らの理論を実践するために、ピアノを弾くことにした。19歳のときである。

 彼は京都市内に住む英国人のもとに3ケ月通った。あとは独習である。しかし、ピアノがない。そこで一計を案じた。京都に十文字という楽器店があった。三上はそこの店員に、「私は三高の学生です。あなたに英会話を無料で教えてあげます。かわりに、ピアノを弾かせてください」と話を持ちかけた。店員はこの申し出にとびついた。こうして三上は英会話の家庭教師をしながら、ピアノを練習したのだという。

 後に三上はピアノを買った。このとき「これさえあれば結婚しなくてもいい。自分は結婚する代わりに、このピアノを買うんだ」と言ったらしい。この言葉のとおり、三上は一生独身だった。彼は終生、音楽に深い愛情を持っていた。主著の「象は鼻が長い」の増補第3版(1964)にも、こんな文章を載せている。

<昔、ドビュッシイにチルドレンス・コオナア、すなわち『子供の一隅』というピアノ曲集があった。この直訳は生硬だから、思いきって意訳して『子供の領分』としたらと提案した。A. Cortot: The Piano Music of C. Debussy(22)のその部分だけを翻訳して音楽雑誌に投書したのである。そしたら領分はたちまち一隅に取って代り、ついに定訳みたいになってしまった。

 cornerに領分という意味があるかないか知らないが、コルトオでも安川加寿子さんでもこれをプログラムに載せられるときには、わたしの訳語が印刷されると思うと、ちょっと得意である。最近では間宮芳生作『子供の領分』もChildren's Cornerと英訳される予定なんだろうか。

 おまけに、このアルバムは開巻第一のハ音が二小節あまり響くのである。ハは響く!コンマを越えて響く!ハ長調の曲だから当然みたいであるが、バッハの平均率両巻やショパンの前奏曲集の各第一ハ音よりも長く響くのである>

 若い頃数学や音楽に熱中した三上は、30歳を過ぎてから文法理論に熱中するようになる。そして思いもよらない孤独な戦いの日々が始まる。思い通りに運ばない不如意な人生で、病魔までが彼に襲い掛かる。そんな苦闘の日々を生きなければならなかった三上にとって、ピアノは心を許せる伴侶であり、慰めであったようだ。(続く)

(今日の一首)

 イギリスに旅立つ次女にわが夢を
 託していたり霧の都よ

 次女が明日の夜、夜行バスで成田に行く。出発は明後日。約一ヶ月のイギリス留学である。それが終わると、いよいよ大学を卒業だ。そして4月から社会人になる。今日のお昼は長女も来て、一家で次女の壮行会をすることにした。妻がちらし寿司をつくるようだ。


2007年02月14日(水) 主語を抹殺した男(2)

 三上章は1903年1月23日、広島県高田郡甲立村に生まれた。三上家は戦国武士の血筋を引く名家で、庄屋をしていた家柄だった。章が生まれたころも造り酒屋をしていて、家業は順調だった。三上はその家に長男として生まれた。大叔父に和算研究家として世界的に有名な三上義夫(1875〜1950)がいる。

 和算に興味があった私は、何回か東京の国会図書館に通ったことがある。まだ、世の中がおおらかな頃で、数学科の出張旅費を使い、何年に一回は東京へ行って、国会図書館をおとづれるのが私の愉しみだった。和算関係の資料をむさぼるように読み、学校の紀要に論文を書いたりしたものだ。(10年ほど前に書いたこの論文、探してみたが見当たらない)

 和算に興味があった関係で、三上義夫の「文化史より見たる日本の数学」(岩波文庫)は読んでいた。もっとも、三上義夫はこの本を書いたことで、学士院会員の地位を追われた。反骨の学者だったこの28歳年上の大叔父を、三上章は尊敬していたようだ。

 三上章は子供の頃は無邪気で明るく、学校では皆から愛されていたという。三人の弟や友達と新しいゲームを考え出すのが趣味の利発な少年だったらしい。広島の中学校ではサッカーの選手として活躍した。しかし、一番得意だったのは数学だったという。このころから反骨精神も旺盛だった。こんなエピソードが残っている。

 軍事教練の時間には銃を磨かず、朝礼や集団行動の規律を馬鹿にして、操行は最悪だった。父親は学校に呼び出されて担任から小言をいわれ続けたらしい。そんなわけで通信簿の成績は34番中31番のときもあったという。また数学の考査で、あまりに簡単すぎて解答する気がしないと、用紙に○を書いて早々と退出し、図書館に行って読書に耽ったという。しかし、こんなに無茶な行いをしたにも関わらず、数学の教師は三上の才能を認めて、可愛がってくれた。

 三上は山口高等学校に首席で合格した。とくに数学の成績がずば抜けていた。当時の高校入試は全国統一である。その試験で彼の成績は数学に関して全国でトップクラスだったらしい。当時の「中学生」という雑誌に、「一高の某と、山口高の三上章が抜群の成績であった」という一文が載ったという。そんなわけで、入学式に彼が新入生を代表して宣誓することになった。

 宣誓の文章は、学校側が用意する。それをただ読めばいいだけだが、ここでも三上はあまのじゃく精神を発揮した。その文章を手にしながら、彼は文章を変えて話したようだ。妹の茂子さんの談話を、金谷さんの本から孫引きしておこう。

<兄は、ありきたりのことが嫌いなので、山口高校に首席で入学しました時、入学式に、学校側から渡された宣誓文を、前もって直すこともなく、式場でその文章を変えながら読んでいったことは、本人少々得意のようでした>

 なお、このスピーチの抜粋を、インターネットで実際に聞くことができる。また、三上が自宅のピアノで弾いたドビッシーの「亜麻色の乙女」も聴ける。たまたま友人のひとりが30年以上前に録音したのだという。ちなみに、三上はわずか3ヶ月しかピアノを習っていない。これもすごい才能である。金谷さんは執筆をしながら、毎日のように三上のピアノに耳を傾けていたのだという。

http://homepage3.nifty.com/kurosio/mikami/mikami.html

 しかし、三上は首席で合格した山口高校を数ヶ月で退学してしまった。金谷さんの見立ては「授業が始まって周りの級友たちを見渡したときに、この様子では知的成長ができないと思ったのではないだろうか」ということだ。級友にも教師にも失望したというのが本当のところかもしれない。それにしても、この決断の早さは見事である。(続く)

(今日の一首)

 母の声はかなく聴こゆ電話口
 たしかになりてわれは安堵す

 福井に電話して、母のその後の病状などを聞いた。最初、声が弱弱しいので心配したが、次第に声が明るく、いつものように活気を帯びてきた。「風邪がはやっているから、気をつけるんだよ」と言って、電話を切った。


2007年02月13日(火) 主語を抹殺した男(1)

 金谷武洋さんが三上章の「象は鼻が長い」という本を知ったのは、1979年の冬だったという。金谷さんはカナダのケベック州の大学院で言語学を学びながら、3ケ月間、臨時の日本語教師をした。そのとき、日本語を教えることの魅力に目覚めた。同時に、日本語について何も知らないという事実に気づいた。金谷さんの近著「主語を抹殺した男・評伝三上章」から引用しよう。

<当たり前と思っていていた自分の母国語が文法的に上手く説明できないという由々しき事態に驚愕した。とくに「ハとガの違い」である。しかし、言語学の大学院に入ったばかりの私にとって、そのタイミングは神の采配であると思えた。自分の前に今、新たな地平が開かれたのだ。その地平を突き進んでこの挑戦を受けて立つことにしよう。そのために言語学をしっかり勉強するのだと、覚悟が決まった>

 金谷さんは日本の友人に手紙をかいた。そのなかで、日本文法についての疑問をぶつけてみた。友人から二冊の本が贈られてきた。三上章の「象は鼻が長い」と「現代語法序説」という本だった。

<読んでいて目からウロコが音を立てて落ちると同時に、私は三上の文体にも唸った。とりわけ比喩が秀逸である。たとえば「主語専制の外国式よりも補語の共和制を採っている我々の方」というくだりが楽しかった。橋本や時枝の文体と比べてなんと楽しく読めるだろう。バッハ、ハイドンの音楽を長々と聴いた後で、急にベートーベンに代わったような思いだった。人間がそこにいる。話しかけ、文句をいい、迷い、笑う筆者の個性が行間に横溢している。著作を読みながら、私は三上に導かれて文法の森を駆け巡った>

<つぎなる氷山は「私は日本語がわかります」だったが、これも二重主語文、つまり主語が二つあるなどというのは大嘘だと、三上は主張する。「私は」は主題であり、話者の聞き手に対する注意喚起の合図でしかない。だから動詞との間の文法関係はない。「日本語が」はどうかと言えば、こちらは「主格補語」であり、他の補語との共和制で横並びだ。だから、これも君主然とした主語ではない。三上の凄さは、こうした発想のコペルニクス的転回を、洒落を言いながら、陽気に明るくやって見せたところにある>

<一読後、私は三上の本を机の上において「ありがとう!」と叫んだ。以上説明をもって、私の疑問は簡単かつ完全に解けたのである。私が探していた文法はこれだったのだ。タイタニック号の前の巨大な氷山は雲散霧消した。そもそも三上文法であったら氷山は初めから出現していなかっただろう>

 金谷さんが手にした2冊の本が、私が勤務する高校の図書館の書架においてあった。私もまた、幸運にもこの二冊を読むことができた。「現代語語法序説」の巻末に「語法研究への一試案」という三上が1942年に書いた処女論文が添えられている。当時39歳の三上が、この試案のなかで、「日本語に主語はいらない」と喝破している。

<壁ハ白イと言えば壁を全体と見た判断だが、壁ガ白イと言えば、壁が部分に落ちて、背後の家についての品評となる。焦点の位置が違うのである。いずれにせよ「ガ」は部分的である。数学の等式でも、恒等式でなら「ハ等シイ」で、方程式なら「ガ等シイ」だ>

<私ガ顔ガ色ガ黒イ。家ハ窓ガアル。主格補語を幾つ取り得るかといふ標準から用言を三分すれば、3個が形容詞、2個が自動詞、1個が他動詞である>

 こういう説明は、私も聞いたことがない。まさしく、バッハからベートーベンへの飛躍である。数学の先生らしく、説明が理詰めで合理的なのも気に入った。文体が生き生きとしていて、なかなか洒落ている。

 三上はこの処女論文を「コトバ」という国語文化研究会の機関紙に発表した。三上はこの論文を読めば、機関紙から「主語」という用語は消えると思っていたらしい。そのくらい自信があった。残念なことにそうはならなかった。論文は学会から黙殺された。ここから、国文学界に対する三上章の孤独な戦いが始まった。

 大学院生の金谷さんに話を戻そう。金谷さんはこの三上文法の要点を研究室で発表する。彼のゼミの指導教官のアルベール・マニエ教授は専門が印欧比較言語学だった。教授は身を乗り出して聞き入ると、「ほほう、日本語の構文は西洋の古典語に似ているんだね。面白いじゃないか」と鳶色の目を輝かしたという。

 <ギリシャ語やラテン語など、西洋の古典語を学べば学ぶほど「主語」という文法カテゴリーは存在感を失う。主語という文法概念には普遍性はなく、時代が下がってから英語など一部の印欧語に発生した例外的な現象ではないかという印象を、以前から抱いていたのである。マニエ教授も大いに賛成してくれた>

 金谷さんはこうして三上文法から得たヒントをもとに、ヨーロッパの古典語について修士論文を書き、さらに博士号を取得した。現在はモントリオール大学で日本語科の科長をしている。また大学の日本語教師として、「三上文法」を実践しているという。「三上文法がいかに日本語教育の効果的な教授法になりうるか」について知りたい方は、「主語を抹殺した男・評伝三上章」のp44〜p58を読まれるとよい。金谷さんはさらにこう書いている。

<1978年の秋以来、日本語教室から修士論文そして博士論文と深く学恩を受けたことを思えば、三上文法の素晴らしさを世に知らせるのは私の使命であるとさえ思えた。三上文法こそこれまで日本人が到達した最高峰であり、日本の財産であると信じるからである。三上文法を世界中の日本語教師に役立てたいと思い、2002年から2004年にかけて「主語三部作」(「日本語に主語はいらない」「日本語文法の謎を解く」「英語にも主語はなかった」)を上梓したのも、基本的には三上文法を紹介したいがためである>

 金谷さんがこれまでにほれ込んだ文法学者三上章というのは、一体どんな人物なのだろう。その生い立ちから、死までの68年の生涯を、私も知りたいと思った。それが「「主語を抹殺した男・評伝三上章」(講談社)を手にした理由である。三上章について、この日記でも紹介することにしよう。(続く)

(今日の一首)

 うらうらと照れる春日を身に受けて
 歩けばたのし命なりけり


2007年02月12日(月) 日本語をプレゼント

 セブに英語を勉強に行ったとき、語学学校のフィリピン人先生たちと何回か夕食を食べた。そのとき、日本語を学習中のフィリピン人教師がいて、「日本語」の話題で盛り上がった。いっしょに夕食を食べた日本人学生の中にも日本語教師になりたいという女子大学生がいて、彼女の話をききながら、「定年後は日本語教師という道もあるな」とふと思った。

 現在世界中で200万人以上の外国人がスクールで正式に日本語を学んでいるという。日本企業が進出しているセブにも日本語学校があり、かなりの日本語ブームらしい。そんなこともあって、日本に帰ってきて、ぼちぼち日本語教育に関係した本を読むようになった。金谷武洋さんの「日本語に主語はいらない」や、町田健さんの「たのしい言語学」などがそうだ。

 最近読んだ本のなかでは、荒川洋平さんの「もしも・・・あなたが日本語を教えるとしたら」(スリーエーネットワーク)が秀逸だった。著者の荒川洋平さんは東京外国大学の先生で、専門は認知言語学だが、日本語教師として長年の実績を持つプロである。実践と理論がバランスよく書かれていて、とても入門書とは思えない深みが感じられた。「まえがき」から言葉を拾ってみよう。

<この本は、こんな人たちのために書き、こんな皆さんに役立つものです。

 今は知識がないが、外国人に日本語を教えることに興味がある。

 「日本語教育」を勉強したいが、身近にそうした教室がない。

 勤め先で外国人といっしょに働くことになり、日本語を教える可能性がある。

 留学や海外赴任をすることになり、現地で日本語を教えてほしい、と頼まれる可能性がある。

 今、高校生だが、英語や英会話の授業が好きで、将来は国際的な仕事につきたい。その選択肢の一つとして外国人に日本語を教えることを考えている。

 会社勤めをしているが、退職後は仕事の経験を活かして、日本語を教えようかと思っている。ボランティアでもよいが、プロならもっと良い。

 学校の教師をしているが、外国籍の生徒も増えてきたし、国際理解教育や異文化間教育にも興味があるので、日本語を教える方もやってみたい>

<プロの日本語の先生は、分かりやすく、流れるように日本語を教えられます。一方、アマチュアの教え手は、プロほど分かりやすく教えられないでしょう。教え方だって、プロと比べれば、ぎこちないかもしれません。

 それだったら、日本語をいわば「贈り物」として渡せばいいのです。せっかく贈り物をするのですから、ただ手近なものを手に取って渡すだけでは相手も喜ばないでしょう。手作りのものでいいから、ちょっとだけ工夫をすれば、ずいぶん引き立つはずです。

 この本を読んで、日本語という言葉を、外国の人にプレゼントしてみませんか。その人たちが望んでいる「役に立つ日本語」を、心をこめて、ちょっときれいな包装で、贈ってみませんか>

 この本には、経験もないのに外国人に日本語を教えることになった3人の日本人(主婦、会社員、学生)がモデルケースとして登場する。そして彼らが悪戦苦闘する架空の日本語教育の現場が、実況放送よろしく活写されている。成功例や失敗例が報告され、その原因がプロの立場からわかりやすく解説されている。荒川さんの言葉を、引き続き拾ってみよう。

<外国人に日本語を教える場合、その成否は結局のところ、教え手の心のありかたにかかっている。「心のありかた」とは「国際化」「真心」といったキーワードの言いかえではない。この意味は日本語と日本文化に関して、自分が当たり前と思っていることを、恒常的に外の視線から眺め、考えることだ。

 通常、物事は一般化・固定化していた方が分かりやすいし、それで日常は円滑に流れるから、普通はその方が面倒がない。ところが日本語を教える場合、そういう前提や思い込みは頭の中で一度取り払ってしまう方が、しばしばよい教え手になれる。そういう視点を獲得できれば、あなたには「心のありかた」として日本語を教える準備はできているはずだし、教え方をどうこう言う前に、才能ありと言える>

<大切なのは、初級段階であっても、日本語を使ってコミュニケーションをさせることです。つまり、相手の話す日本語がわかるし、自分でも日本語をちょっとしゃべっている、そしてそれが単なる教師の反復ではなく、意味のある内容である。こんな状態に持って行ければ、教え手としては合格です。

 初めて日本語を教えるとなると、どうしても「教える自分」を意識してしまい、準備をしてしまうものです。けれど、忙しい準備の途中でふと立ち止まり、「学習者はどんなふうに考えているのか」を想像するゆとりがあれば、教え方も柔軟になるはずです>

<僕が書いてきたことは、国の内外を問わず、過度なお金の負担をかけないで、頭の中の日本語を編集し、そういう人たちに教えてみてはどうですか、という提案、そしてそのための具体的な方法です。自分が使っている言葉を客観視して教えることは、何よりも面白いことですし、それによって自分とことばの関わり、ことばと世の中のかかわりがよく見えてきます。

 もちろん苦労はありますが、相手にはもちろん喜ばれるし、長い目で見れば、より多くの人にとって住みよい環境を作ることに役立ちます。つまり、外国人に日本語を教えることは、「自分の愉しみ」であり、「人助け」であり、ささやかな規模ではありますが、「社会奉仕」でもあるのです。贈り物をすることは、時にそれを貰うよりも、はるかに楽しいことなのです。日本語をプレゼントしては、いかがですか>

 大切なのは「プレゼントする」という愛情である。さらにそうした思いやりに加えて、その贈り物を送られた人にとってより価値のあるものにするための工夫や努力も大切だ。日本語を教えるのであれば、日本語そのものについての理解や、その教授法についても研究しておくべきだろう。ここでも学習者の気持を尊重することが基本になる。

 語学の教授法には、「文法訳読法」と「オーディオ・リンガル・メソッド」、「コミュニカティブ・アプローチ」の3つがある。私たちが学校でならったのは、英語を日本語に訳読するという第一の方法だ。現在ではそれが第二、第三の方法に移りつつある。荒川さんは、こうした教授法にはそれぞれ長短や特色があり、学習者の能力やニーズにあわせて、これらを適度に組み合わせることが望ましいという。 

(今日の一首)

 定年後いかに生きるかあれこれと
 たのしき夢にふけりたるかな


2007年02月11日(日) 知的な作業台

 いくら栄養分の高い食物を食べても、消化されずにそのまま排出されたら、それは体の栄養にならない。これは精神的な食べ物の場合でも同じである。読書をして、そのときはわかったようなつもりになっていても、「何が書いてあったのですか」と聞かれて、すぐに答えられないようではだめだ。

 一般に学習で大切なのは、知識を「インプット」するだけではなく、「アウトプット」することである。「アウトプット」ということは、つまり言葉を口に出して話したり、書いたりすることだ。これができない人は、インプットした知識が、自分のなかで消化され、既存の知識の中に同化されていないわけだ。

 私の場合はなるべく読書日記をつけるようにしている。読んだ書物について、自分なりに了解したことを書き残しておく。そのためには内容をしっかり理解しなければならない。そして、それを自分の言葉でもう一度組み立てなおす。本当に理解するためには、知識を自らの力で検証し、これと対話しながら、新たに再構成してみることが重要だ。こうした過程を通して、ほんとうの思考力が養われていく。読書の醍醐味も体験できる。

 与えられたものを一度分解し、そして自分で一から組み立ててみる。しかもこれを自分自身の経験の大地の上に、自らの力で組織すること。こうして再構成され、自らの内部で体系付けられた知識は、もはや他人の借り物ではない。それは自分の人生観や世界観の一部になっていて、自在にこれを取り出してきて、他人にも語ることができる。日記はこうした知的な訓練をする作業台としても役立つ。

(今日の一句)

 わが畑の野菜はうましひよどりが
 まるごと食べるキャベツはくさい

 妻が管理する畑に、ヒヨドリの大群が飛来するようになった。無農薬の野菜がおいしいのか、キャベツや白菜を丸ごと食べる。キンカンは全滅。怖いもの知らずのギャングたちである。困ったものだ。


2007年02月10日(土) 英語の学習は必要か

 小学生から英語を教えるべきでないという意見がある。その理由は日本語の学習に障害になるからだという。実際に外国で幼年時代を送り、日本語の学習が十分でないと、結局、外国語に加えて、日本語も不充分だということになりかねない。

 これは大いにありうることだ。実際に知人でそういうお子さんをもってみえる人を知っている。バイリンガルどころか、母国語さえ中途半端な言語無国籍者になりかねない。

 言語能力に障害を持つと、深く考えることができなくなる。そのうえ、感情面でも成熟できない。これは本人にとって大変なことだ。だから、まずは母国語をしっかり確立することが先決である。幼いときからやたらと英語を強制するのは問題だということになる。

 それにくわえて、そもそも全国民が外国語を学習する必要があるのか、という英語教育不要論もある。実際に外国語を必要とするのは、一部の人たちだけである。だから、全国民に外国語教育を施すことはやめて、浮いた資金を必要な人たちの語学教育に当てればよい。これで、優秀な人材が育つし、多くの国民も英語から解放されて気が楽になる。

 しかし、私は日本人は中学や高校で全員が外国語を学ぶ機会は与えられるべきだと思う。その理由は、この時期であれば英語を学ぶことによって、普遍言語能力が高まり、ひいては日本語能力そのものが向上すると思うからだ。国際語としての英語の地位も馬鹿にはできない。

 もっとも、これも教え方を間違うと、あまりたいした成果を残せないばかりか、言語能力の停滞や後退に結びつきかねない。いずれにせよ、教えるほうも、学ぶ側も、「なぜ私たちは外国語を学ぶのか」、原点に還って考えてみる必要がある。そして、その目的に応じた言語を、その用途に応じたレベルで、能率よく学ぶ必要がある。

(今日の一首)

 描かれし青い花瓶のカレンダー
 ルドンの描く神秘の花々

 妻がもらってきた大垣共立銀行のカレンダーが机の前の壁にかけてある。私は毎年これを愛用している。今年のカレンダーの絵は、オディロン・ルドンの「青い花瓶の花々」である。毎日見ながら、日記を書いている。岐阜県美術館所蔵だそうだ。いつか本物を見てみたい。


2007年02月09日(金) 困った風邪

 相変わらず体調が悪い。咳が出て、のどが痛い。こんなにひどい風邪をひいたのは何年ぶりだろう。おそらく10年ぶりくらいではないか。困ったものだ。

 風邪をひいて何が困るかというと、人に移すのが困るのである。私のクラスには欠席が多くて、もう一日も休めない生徒が3人ほどいる。その3人は首の皮一枚になってから、驚異的ながんばりで学校に通い始め、授業も休まなくなった。もし、私が彼らに風邪をうつしたらたいへんである。彼らの人生を変えてしまうかもしれないからだ。

 それに、そうした生徒は私のクラスだけではなく、他のクラスにもいる。授業に行ってうつしたらもうしわけない。それから生徒に移さなくても、職員室で他の先生に移しても困る。私を震源地にして、学校に風邪が蔓延したりしたら、大変なことである。

 これを避けるには、学校を休めばいいのだが、これができない。そこまではひどくはないからだ。それに、やはり一日も休めない生徒を3人もかかえていると、家にいても心配である。授業開始前に教室に行き、まずは彼らが来るのを待つ。来るのが遅いと不安になり、携帯で連絡する。

「今どこにいる?」
「先生、今、地下鉄降りたところ。もう、駄目かもしれない」
「馬鹿、あきらめるな。全速力で走って来い」

 胸騒ぎがして、1時間ほど前に一人の生徒に電話をしたこともある。なかなか電話に出ないので切ろうとすると、「先生、いま何時?」と、寝ぼけ声が聞こえた。時間を告げると、「やばい」という。ひとねむりするつもりが、寝過ごしたらしい。あと少し私の電話が遅れていたら、もうおしまいという瀬戸際だった。「先生、おかげで助かった」とその生徒から感謝された。

 23人で始まった1年生の私のクラスも、6人が脱落していまは17人である。何とかこれ以上の脱落者を出したくはない。ここまできたら進級したいという必死の思いは生徒にもある。あと2週間を乗り切ればいい。ゴールを目前にして、一番の大敵は何か。それは「風邪」である。

 じつは風邪をうつしてはいけない相手がもう一人いる。来週の土曜日から1ケ月イギリスに英語の勉強に行く次女である。彼女に移したりしたら、そして彼女がホームステイ先の老夫婦に日本の風邪をうつしたりしたら、これも大変である。

 体調管理に気をつけよ、嗽と手洗いをしろ、栄養を取って、しっかり睡眠をとれ、などと言っていた私が、一番に風邪を引いた。なんだか申し訳ない。恥ずかしいことである。幸い明日から3連休なので、ここで気合をいれて風邪を退治してしまおうと思っている。

(今日の一首)

 小夜ふけて停車場を出る乗客を
 迎えてくれたひさかたの雨


2007年02月08日(木) 神田知事への要望

 愛知県知事選の結果は、トヨタを筆頭とする大企業と、創価学会の全面的な支持を受けた神田知事が、予想外の辛勝だった。石田さんが、あと、一歩およばなかった。

 神田真秋  1424761
 石田芳弘  1355713
 阿部精六   160827

 これをみると、石田さんと阿部さんの合計が神田さんを上回っている。もし共産党が自主投票にしていたら、あるいは逆転があったかもしれない。愛知県は景気が良い、失業率も低いということだが、私たちの暮らしの実態はそうでもない。

 県民の年間所得はこの10年間で平均37万円も減っている。万博や国際空港、設楽ダムなどの大型公共事業に税金を注ぎ込み、県民一人当たりの借金はこの10年間で34万円から54万円に拡大した。県民へサービスも劣悪である。人口一人当たりの民生費は、愛知県は全国40位だ。

 社会福祉費……38位
 老人福祉費……37位
 自動福祉費……36位
 教育費……42位
 衛生費……45位
 老人福祉ホームの定員数……44位
 高校進学率……47位(最下位)

 とくに、愛知県は教育環境が劣悪である。高校進学率が全国47の都道府県で最下位なのがそのことを象徴しているが、児童生徒一人当たりの教育費や、教員一人当たりの児童・生徒数を見ても、そのことがよくわかる。

 小学校(81万4千円)……42位
 中学校(91万8千円)……46位
 高校(101万5千円)……40位
 養護学校(620万6千円)……46位

 小学校(23.1人)……43位
 中学校(19.4人)……46位
 高校(16.6人)……46位
 養護学校(2.4人)……42位

 愛知県の生徒一人当たりの教育費は、全国平均とくらべて、小学校、中学校、高校で10万円あまり低くなっている。養護学校にいたっては、全国平均よりも250万円も少ない。ちなみに、福井県の養護学校の教員一人当たり児童数は1.35人である。愛知県の予算に占める教育費の割合は、87年度には31パーセントほどあった。それが神田県政が始まった99年度からは一貫して24パーセントを切っている。(愛高教情報1月号外)

 愛知県の財政力は東京都についで全国第二位。国から補助金を受けていない唯一の県だが、その財政力は県民の幸せのために使われていない。全国のゼネコンのドル箱になっているだけだ。神田知事は今回の選挙結果を重く受け止めて、こうした大企業優先、弱者切捨て県政の現状を変えてほしい。

(今日の一首)

 人々の幸せ願ふ政治家は
 いずこにありや国の宝ぞ


2007年02月07日(水) 数独に挑戦

 昨日は出張で豊橋へ行った。そこで定時制の研究大会が2時からあった。家で昼食を食べていては間に合わないので、10時前には家を出た。JR木曽川駅から豊橋行きに乗ったが、名古屋で途中下車した。学校の事務の人から、名古屋から豊橋まで往復切符で行くようにいわれているからだ。

 名古屋まで通勤定期で行き、いったん下車して、改札口を出てから往復切符を買った。1800円である。片道1280円なので、これで760円ほど経費の削減になる。去年はこんな指示はなかった。JRが往復切符のサービスを始めたのは最近かもしれない。おかげで少し面倒なことになった。

 それに経費削減をいうのであれば、そもそも定時制の研究大会を毎年豊橋でやらなければよい。名古屋ですれば、多くの教員の旅費を節約することができる。しかし、こうした発想はない。私が想像するに、研究大会に当てられている予算が乏しいのだろう。だから、安い費用で運営を行おうと思えば、名古屋に適当な会場を確保できない。どうしても遠隔地になる。

 しかし、そのため、県は旅費を出さなければならない。会場費を安くできても、その何倍もの出費である。おなじ県費があてられているのだから、これは大きなロスだといわなければならない。これは縦割り行政の愚かしいところだ。

 その上、時間的なロスも大きい。私の場合は、3時半には会場を抜け出し、大急ぎでJRに飛び乗り、名古屋まで行き、そこから地下鉄に乗り換えて、学校に出勤した。これでようやく5時15分からの1限目の授業にぎりぎり間に合った。出張の後、3コマも夜の授業がある。疲れている上に、風邪気味で咳が出て、のどが痛い。

 そこで、いま流行の「数独」のプリントを生徒たちにやらせることにした。9×9=81のマスの中に数字がまばらに入っている。数字の入っていないマスに数字入れる。そのとき、3つのルールがある。

(1)たての列に、1〜9までの数字がすべて入る。
(2)横の行に、1〜9までの数字がすべて入る。
(3)3×3=9のマスからなる9個のブロックのそれぞれにも、1〜9までの数字がすべて入る。

 単純なルールなので、生徒たちはすぐに了解した。3クラスとも、生徒たちは私語もなく、いつもの授業よりもはるかに集中している。私も生徒たちに負けないようにがんばった。これは面白い。病みつきになりそうである。

(今日の一首)

 豊橋で昼飯をくう田楽に
 やっこにおから味噌汁うまし


2007年02月06日(火) 英語をファイナライズ(6)

 英語をファイナライズする上で大切なことは、普遍言語の立場に立って、「動詞」が文を構成する上で果たす重要な役割を理解することだ。英語の場合、SVと続く。そして、この「動詞力」によって、問いが誘発され、この情報の穴を埋める形で、文章が自然に完成される。結果的に動詞が文章そのものの「枠組み」を提供している。

 それでは日本語の場合はどうか。結論として言えることは、日本語でも動詞が文の枠組みを決めている。町田健さんの「たのしい言語学」(ソフトバンク出版)から引用しよう。

<動詞というのは、事柄の基本的な枠組みを表しているのだと考える事ができます。動詞が表す事柄の枠組みの中に、名詞が表すモノとか事柄の集合が組み入れられることで、最終的にきちんとした事柄が完成するというわけです>

<事柄全体を自動車だとすると、動詞が表すものは自動車のボディーに当たるのだと考えればよいでしょう。ボディーを見れば、ああこの車はセダンだなとかスポーツカーだなとか、ときにはこのメーカーの車なんだな、というような大体の車の特徴がわかります。

 そのボディーに、車が走るのに必要なエンジンとかタイヤとかハンドルとかが組み込まれて、ようやく自動車が完成します。このエンジンとかタイヤとかハンドルに当たるものが、名詞があらわすモノや事柄なのだと考えればいいわけです>

 文を車にたとえ、動詞をボディーに見立てるのは、とても面白い。英語でも日本語でも、そして他のいかなる言語でも、「動詞」が文の枠組みを与えている。そして、「動詞」によって与えられた大枠を完成するために、そこに様々な名詞群がその重要な部品として配置される。これによって、文のあらわす事柄が明確になるわけだ。

 ただし、日本語の場合は、文の枠組みを決める働きは動詞だけにあるのでははない。日本文では形容詞もこの資格を持っている。動詞文のほかに形容詞文もある。

<芥子の花は赤い>

  芥子の花は
 ー−−−−−−
   赤い

 ここで文のあらわす事柄の大枠を決めているのは<赤い>という形容詞である。そして「何が」という意味の欠如を補うために、<芥子の花>という名詞が置かれている。

<彼は泥棒だ>

  彼は
 ーーーーー
  泥棒だ

 これは<泥棒だ>が述語である。<泥棒>という名詞に<だ>という」断定の助動詞がついたもので、これも文があらわす事柄の枠組みを作っている。これは「名詞文」と呼ばれる。日本文にはこの3つのものがある。

 日本文と英文を比べると、英文では常に「主格名詞」が先頭に来て、ついで動詞の続く。そのあとに目的格の名詞がくる。この順が固定されているので、主格名詞や目的格名詞には前置詞がつかない。

 日本文では動詞が後置され、主格名詞の位置もきまっていない。それどころか存在しないことがおおい。このため、主格名詞、目的格の名詞もすべて「格助詞」をつけて指標にしている。ただ英文とちがうのは、前置詞ではなく後置詞になっていることだ。 こうした様々な違いはあるが、言語として共通項も多い。言語学を学ぶことで、共通部分が明らかになる。

 私は高校の授業で言語学の初歩を教えるべきではないかと考えている。テキストは町田健さんの「たのしい言語学」がよい。この本の第三章「コトバには構造がある」(P100〜P169)はとくにお勧めである。

 同じ著者の「まちがいだらけの日本語文法」(講談社現代新書)も、学校で教えられている日本語文法の問題点が、初心者向けに分かりやすく書かれている。ちなみに町田さんは、名古屋大学の言語学科の教授である。(続く)

(今日の一首)

 真夜中に咳がとまらず水を飲む
 ありがたきかなこころ落ち着く


2007年02月05日(月) 英語をファイナライズ(5)

 普遍言語システムの観点から、英語を観察して気づいた要点を、重要と思われる順にあげてみよう。

(1)英語は行為者である主語を先頭に立てる。

(2)続いて、行為もしくは気持を一気に言い切る。

 英語が話せない最初の、そして最大の障害は、「主語」の問題である。日本語には「主語」がない。ところが、英語はまず、先頭に「主語」がある。だから、たとえば最初にまず「I」という主語を口にする。

 「I」を主語として立てたときは、続いて、自分の気持を思い切って言い切る。この「言い切る」という決断が大切である。ここまで、一気に坂を駆け上がる。

<私は、好きです>(I like)(I am found of)
<私は、嫌いです>(I hate)
<私は、望んでいます>(I want)
<私は、忙しいのです>(I am busy)
<私は、手に入れます>(I get)
<私は、与えます>(I give)
<私は、します>(I do)
<私は、言います>(I tell)

 この「SV」の呼吸が身に着けば、英語を話すことは心理的に楽になる。私の実感からすると、これで日本語の壁は8割かた克服できる。

(3) あとは、「V」を「相手の立場に立って」説明する。

 この「相手の立場に立って説明」ということが、3番目のポイントになる。英語は主語を中心とした自己中心性の高い言語のように見えるが、それは見せかけである。普遍言語の立場から見れば、英語もまたコミュニケーションのツールであることにかわりがない。

 <私は、好きです>

 と言われれば、相手は「何が好きなの?」という疑問が浮かぶ。だから、この答えをそのあとに続ける。

 <私は、好きです。勉強するのが>

I like to study.

 ところで、この文は、さらに説明が必要かもしれない。「勉強する」という動詞が、「何を」という問いを誘発するからだ。そこで、次にこれの説明を継ぎ足す。これで、英文が完成する。

 I like to study English.

    I   / \to study English.
  −−−     −−−−−−−
        like

<私は、忙しいのです>

 と言いわれれば、相手は「どうして?」という疑問が浮かぶだろう。この答えをあとに続ける。たとえば英語の勉強で忙しいのなら、こう続ければよい。

 I am busy studying. English

<私は、望んでいます>

 と言われれば、「誰に」「何を」という内容が知りたくなるだろう。そこで、たとえば次のように続ければよい。

 I want you to study hard.

 大切なことは、「動詞」が問いを誘発しているということである。SVと続ければ、この「動詞力」によって、文章が自然に完成される。動詞が文章そのものの「枠組み」を提供しているわけだ。

 ここで、大切なポイントをもう一つ加えよう。

(4)英語は説明するための言葉後ろに置く。

 「説明する」ということは、つまり「情報の穴を埋める」ということだ。たとえば、「私は」を説明するのが、「好きだ」である。そして、「好きだ」を説明するのが「勉強すること」であり、これの「何を」という穴は「英語」で埋められる。

 情報の穴を埋める言葉を、後ろに並べればよいのだから、これは慣れれば楽である。

 I like you to study English with me today in my house.

 このように、動詞によって喚起された「情報の穴」を埋める言葉を、いくらでも後ろに続けることができる。そしてこれだけの呼吸を覚えるだけで、英語を話すことが、とても自然なことのように感じられる。

(1)〜(4)によって形作られる英文は、とても合理的なシステムではないだろうか。そして私たちがこれを「合理的」と感じたとき、英語が普遍言語システムの上で機能する言語として、私たちの心の中で「ファイナライズ」される。まだ他にもポイントがないわけではないが、これについては改めて書くことにしよう。

(今日の一首)

  ひさかたに古文を読めばしきしまの
 やまとことばはうつくしきかな


2007年02月04日(日) 英語をファイナライズ(4)

 普遍言語システムはすでに日本語のなかに備わっている。実のところ、この普遍システムがあるから、私たちは日本語が学習できたわけだ。そして、私たちが使っている言葉も、この基本的な言語システムのなかで動いている。

 それは一口に言えば、論理でありロゴスである。ところでこのロゴスの世界へ、どうしたら私たちは立ち入ることができるのか。それはギリシャ人がしたように、魔法の言葉「なぜ?」(why)を用いればよい。

 夕陽はなぜ赤いのか。空や海はなぜ青いのか。なぜ雨上がりに虹が立ち、それは七色に見えるのか。子供にこうたずねられて、多くの大人は立ち往生する。それは私たちがそんなことを考えたことがないからだ。空が青いのは当たり前で、虹も7色にきまっている。夕日が赤いのにもあえて疑問を持たない。

 なぜ、私たちは額に汗して働かなければならないのか。世の中には生まれながらにして高貴な人たちがいて、多くの人たちがその一握りの人々のために奴隷労働をしているのはなぜか。こうしたことも、ふだんは疑問に思わないだろう。生活に追われている多くの人々は、それはそういうふうになのが当たり前だと考えるからだ。

 しかしあるとき、一人の男が現れて、「野の花を見よ」といった。野の花は苦しい労働をしているだろうか。それでもあのように自由にすがすがしく咲いている。空を自由に飛ぶ鳥が、耕したり紡いだりするだろうか。なぜ、人間は苦役と不自由を耐えなければならないのか。こうした問いから、この世界を相対的に眺める姿勢が生み出されてくる。

 大切なのは、こうした「問い」に目覚めることである。この世の中にそうした「問い」が存在するということ、これを知ることがとても大切なのだ。アインシュタインも言っているように、実のところ「問い」を発見することの方が、その答えを発見することよりもはるかに重要なのである。

「学問」は「問うことを学ぶこと」である。そして、それはギリシャから始まるといわれている。それは、彼らがこうした「問い」にをはじめて自覚したからだ。彼らは「なぜ二等辺三角形は低角が等しいのか」という抽象的な事柄にまで問いを発見し、これに答えを与えようとした。

 なぜ、空が青いのか、そもそも青いということは何か、という問いはどんどん進んで、ついには「ことば」にまで及んだ。なぜ、世の中にはたくさんの人種がいて、たくさんの異なった言葉が存在するのか。それらの言葉に共通する普遍的なものとは何か。ことばの背景には、どのような仕組みがかくされているのか。その本質は何か。

 私たちがふだん使っている日本語についても、その根底にある論理性について、私たちはその存在を意識しない。しかし、この日本語の根底にあるものについて、執拗に問い続けたひとたちがいた。

 その代表は本居宣長だろう。彼は1779年に「詞の玉緒」を書いた。「玉」は単語であり、これを繋ぐ「緒」とは「てにをは」という助詞である。彼は日本語の基本構造をときあかし、その根底にある「係り結び」の法則を明らかにした。

 時代が下り、明治時代、中学を中退し、私立中学で代用教員をしていた山田孝雄は、生徒から「二階は、先生に貸しています」のように、「は」が主語をあらわさない文章について質問されて立ち往生した。彼はただちに職を辞して、ただ一人で「日本語文法」の研究に没頭し、ついに「山田文法」を後世に残した。彼は1938年に書かれた随筆「中学生に導かれて」にこう書いている。

<当時の古今の文法書が一として役に立つものが無いといってもよい程のありさまだった。ただ「は」を特色あるものとして取り扱ってあるのは本居宣長の「詞の玉緒」である。私の文法研究は「は」の疑問にその緒を発し、「は」の研究の結果によって結末をつけたのであった。私の文法研究が中学生に指導せられたといふ事は、以上述べた通りの事で一の誇張も無い>

 しかし、中学校中退の学歴しかない彼の文法は、文部省の認定する「学校文法」となることはできなかった。全国の学校では、やはり東京帝国大学国文科教授であった橋本進吉の文法が教えられ続けた。そして大野晋をはじめ、学会の主要なメンバーは彼の門下生の一派である。金谷武洋さんは「主語を抹殺した男」(講談社)のなかで、こう書いている。

<私は、もし橋本文法ではなく、山田文法が学校文法に採用されていたら、日本語と日本人にとってどんなにか良かったかと思う。文法の質として雲泥の差があるのは、山田文法は橋本文法よりもはるかに日本語の発想に根ざしているからである。学校文法にならなかった理由を忖度すれば、それはきわめてあきらかだ。山田が富山中学を中退しているからである。山田は独力で、実力で小中学校教員検定試験に合格し、その後、一歩一歩、文法学者への道を進んで大成した第一級の学者である>

 山田孝雄はこの業績で戦後文化勲章を受賞した。しかし、彼の文法はやはり文部省の公認とはならなかった。帝国大学出身者が学会と官界の主流を占めていたからである。しかしこれに果敢に抵抗して立ち上がった男がいた。三上章という東大の建築家を卒業した異色の言語学者である。

 彼は高校で数学を教える傍ら日本語文法を研究した。1960年に「象は鼻が長い」という風変わりな文法書を出版し、助詞「は」の研究からさらに進んで、「日本語に主語はない」ということを主張した。彼によって、日本語の普遍構造がはっきりと輪郭を現し始めた。そのあらましは、私の「日本語の構造」に書いたとおりである。

 こうした先人たちの研究で明らかになったことは、日本語もまたその根底に強固な論理性をもち、それは英語の根底にある論理性とその深部においてつながっているということだ。そしてこうした考察を深めていけば、これら諸言語をその土台で支えている基本的なシステムについても大切な知見をうることができるだろう。

 日本語を極めることは、英語を極めることと無縁ではない。つまり、日本語がわかれば英語がわかる。私は日本語を極めたわけではない。しかし、大学・大学院で理論物理学を研究し、日ごろは高校で普遍言語ともいえる数学を教えている。そして毎日こうしてこつこつと日本語の文章を書き、言語についてもあれこれ考察しているので、普遍言語システムについて自得したところがないわけではない。そこでこの経験をもとに、英語の構造についても、いささか持論を書いてみよう。(続く)

(今日の一首)

 寒風に向かって行けば汗ばみて
 ここちよきかな伊吹山白し


2007年02月03日(土) 英語をファイナライズ(3)

 私たちは日本語を話し、日本語で考えている。そして普段はこのことをあまり意識しない。それは空気のようなものである。私たち日本人は、自然に日本語で呼吸している。

 また、英語などの外国語を勉強するときも、日本語をベースにしている。教室で英語の先生は日本語を使い、英語についていろいろと教えてくれる。とうぜん私たちも、日本語を通して、英語を理解しているわけだ。しかし、これではいつまでたっても英語が話せるようにはならない。

 それではどうすればよいのか。日本語を基本OSとするのではなく、その根底にあるもっと普遍的な言語システムを発見し、その上に日本語というシステムを再構築すればよい。これができれば、英語もまた、この普遍言語システムの土台にのせることができる。この一連のプロセスを構造式で表してみよう。

(1)日本語をベースにした英語の学習

    英 語
  −−ーーーー
 | 日本語  |
  −−−−ーー

(2)英語を学習しながら、日本語についての認識を深め、普遍言語を発見する。

     英 語
  −−ーーーー
 | 日本語  |
 |  ーー   |
 | 普遍言語 |
  −−−−ーー

(3) 普遍言語システムを確立し、この基本OSの上に日本語OSを置く。

     英 語
   ーーーーー
  | 日本語 |
 ーーーーーーーーーーー
|  普遍言語システム  |
 −−−−ーーーーーーー

(4)英語を日本語から独立させ、直に普遍言語システムに接続する。

     日本語  英語
 ーーーーーーーーーーーー
|   普遍言語システム   |
 −−−−ーーーーーーーー
 
 つまり、日本語システムの上に乗っていた英語を、基本言語の上に棚卸しをするわけだ。そうすることで、英語は日本語の壁を取り除かれる。基本言語によってファイナライズされた英語は、その本来の力を発揮する。

 私がセブでであったA子さんは、カナダ人の男性と交際することになり、短期間にこれを行ったのだろう。カナダ人男性を好きになることで、日本語が蹴飛ばされて、英語がすとんと、普遍言語面に着地した。一種の事故のようなものかも知れない。

 私たちは学校で英語を学び、英語の知識をいくら蓄えても、それを日本語の上に構築していてはだめである。最初はそれでしかたがないが、いつか英語を普遍言語システムの上に棚卸ししてやらなければならない。

 しかし、あまりに日本語に強固な依存体制ができると、これがむつかしくなる。英文法や英文和訳など、英語を勉強すればするほどこの「日本語英語」が強固になり、かえって自然な英語の学習が阻害されることも大いにありうる。

 これを避けるためには、日本語を通してではなく、その根底にある基本言語システムにまでさかのぼって英語を学習するように心がければよい。それでは、基本言語システムはいかにして獲得できるのか。

 各種の言語は、いずれもその根底に普遍的なシステムをもっている。このことを最初に自覚したのはギリシャ人だろう。彼らはこれをロゴス(論理)と呼んだ。あらゆる言語はこの普遍言語(ロゴス)の上に築かれている。これに気づくことで、普段使っている言葉自身のあり方にまで、私たちは目を向けることができる。そしてここから普遍言語としての論理学や、哲学や数学が生まれてきた。

              言葉
    −−−−−−−−−−−ーーーーー
     ロゴス(哲学、論理学、数学、科学)

 ゼノンは弟子たちに「哲学」というものを理解させるために、まず左手を広げたまま突き出し、そして握ってみせた。私たちはまず、生きるためにこうして世界を掴む(認識する)わけだ。ゼノンによればこれが通常の知ということだった。つぎに、ゼノンは右手を伸ばし、これで左手の拳を包み込むようにして握った。これによってゼノンは世間に生きるために忙しく動いている私たちの思考活動そのものを、もう一段高いレベルから思索し把握するという高度な知の存在を示そうとした。

 ただ生きることにあくせくするのではなく、そもそも「生きるということはどういうことか」を考えてみる。こうしたメタ思考がすなわち「哲学」の本質であることを、ゼノンは両手を使ってわかりやすく説明したわけだ。こうしたメタ思考によって、私たちは私たちがふだん無意識に使っている「言葉」そのものをあたらしい次元からとらえなおすことができる。そしてこの普遍言語の立場に立つとき、彼らは彼らが使用する言語の枠からいくらか自由になることができた。

 そのとき、おそらく、人生の様子が大きく変わって見える。何気ない日常の景色が、あたらしい光りの下で、まるで別物のように甦ってくる。アリストテレスはこうした体験を「存在驚愕」(タウマゼイン)と呼んだ。

 プラトンは哲学をすることの意味は、「だれもが持っていながら眠らせている心の中の器官や能力を、向け変える(ペリアゴーゲ)ことだ」と、「国家」の中で述べている。いくら知識を身につけて、博識の学者になっても、ペリアゴーゲを体験せず、「この世をみる見方の学び直し」ができていない人には、人生の美しい実相はみえてこないというわけだ。

 それはともかく、本題に戻ろう。普遍原言語の存在を仮定すれば、私たちの語学学習のプロセスは見通しのよいものになるにちがいない。シュリーマンのような語学の天才といわれる人は、言語基本システムがしっかり確立されていたのだろう。だからそのプラットフォームのうえに、様々な国々の言語をいともたやすく立ち上げることができた。

 日本語 英語 韓国語 中国語 ドイツ語 フランス語
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
            普遍言語(ロゴス)

 普遍言語システムはすでに私たちの中にある。それは日本語のなかに備わっている。だから、それを遠くに求める必要はないが、日本語のなかだけで考えていると、その正体が見えにくい。外国語を学ぶ利点がここにある。私たちは外国語を媒介にして、言語そのものについての認識を深め、世界についての認識も明晰なものにすることができる。(続く)

(今日の一首)

 己との対話もたのし独りいて
 いのちの不思議しみじみ覚ゆ


2007年02月02日(金) 英語をファイナライズ(2)

 セブに行くまえに、英語を集中的に勉強した。大学受験用の英語の参考書を買って、文法を復習したり、英単語の本も何冊か買って暗記した。また数週間は、英語で日記も書いた。しかし、知識を詰め込んでみても、英語が口からでてこない。セブの英語学校に行って驚いたことは、私より少ないボキャブラリーしかなくて、しかも文法もよくわからないというA子が、機関銃のように英語を連射していることだった。

 そして、「なぜ、私は英語が話せないのか」と考えた。そして、「知識の量」ではなく、もっと本質的な問題だと思い至った。それは、英語には日本語とは違った「英語の発想」があるということだ。英語の知識を頭に詰め込んでも、日本語で発想していては、英語は話すことができない。書いたり話したりしても、それは形だけで、心のこもらない借り物の英語でしかない。

 つまり私が英語を話せないのは、「日本語」のせいである。私の頭の基本OSが日本語であり、その土台の上に、さまざまなアプリケーションが動いている。残念ながら「英語」というアプリケーションは日本語というオペレーティング・システムとは相性が悪いのではないか。

    英語
 ======
   日本語

 しかし日本人である私たちは、いやおうなく「日本語」という基本OSに縛られている。この日本語の呪縛を逃れることはできるのだろうか。この問題について私はこう考えた。それは、できないことではない。いや、方法さえ間違わなければ、必ずできるはずだ。

 そのために必要なことは何か。それは日本語自身を相対化することである。日本語よりもさらに根本的な言語システムを発見し、日本語をその基本システムの上で働く一つのアプリケーションにするわけだ。そして、英語もこの基本OSの上で直接動かすようにすればよい。

    日本語  英語
 −−−−−−−−−−ー
    言語基本システム

 英語を使える形にするために、この言語基本システムを見出すわけだ。そうすれば、この基本システムによって、英語を「ファイナライズ」することができる。それでは、英語のみならず、日本語をも動かすその土台となる基本システムとは如何なるものか。そんな便利なものが実際にあるのか。このことについて、次に書いてみよう。(続く)

(今日の一首)

 身を寄せてプラットフォームで電車待つ
 少女の息もかぼそく白し 


2007年02月01日(木) 英語をファイナライズ(1)

 DVDデスクは記録しただけでは駄目で、ファイナライズしないと使えない。どうように、英語もただ知識を頭に蓄えるだけでは駄目で、ファイナライズしないと使い物にならない。犬を英語でDOGというとか、動詞の活用形や文型についての知識をどんどん蓄えれば、試験の偏差値はあがるかも知れないが、ただそれだけのことだ。

 たとえばここに飛行機がある。大型の飛行機にいくらガソリンを積み込んでも、操縦法を知らなければ大空へは飛び立てない。滑走路をただ走り回っているだけでは飛んだことにはならない。しかし、私を含めて、ほとんどの日本人の英語はこうした状態ではないだろうか。

 もっともっと勉強して、うんと知識を蓄えれば、いつか英語が自由に話せるようになるというのは幻想でしかない。なぜなら、英語が使えるようになるためには、ただ知識を蓄えるだけではなく、これを活用できるように「ファイナライズ」しなければいけないからだ。

 学校では知識は教えてくれるが、「ファイナライズ」することは教えてくれない。いや、あらゆる学習にはそうした大切な仕上げがあることを教えてくれない。その理由は、教師自らがそのことを自覚していないからだ。知らないことは他人に教えることができない。

 知識を蓄えるにはそれなりの努力と時間を必要とする。たとえば、DVDデスクにひとつの番組を録画するには1時間かかる。ところが、これをファイナライズするのに必要な時間はわずか3分である。この3分の「最後の仕上げ」を省略すると、60分が無駄になる。もったいないではないか。

 中学、高校と6年間英語を勉強し、家に帰ってからもねじり鉢巻で英単語を覚え、文法を暗記しても、最後の仕上げを怠ると、それは結局大学受験にしか用のない「英語についての知識の所有」でしかない。コミュニケーションの道具としての生きた英語力にはならない。

 ようするに「知識」を溜め込むだけではなく、これを活用できる状態に自らの中で「再構築」することが必要である。こうして自ら体系化され、自らの原理のもとで再構築されることで、知識ははじめて活性化し、借り物ではない本当の「生きた知識」になる。ここから独自のパワーが生まれる。

 これはもちろん英語だけではない。「数学」にも「倫理社会」にも「国語」にも、あらゆる教科の学習にあてはまる。しかし、英語を例に取ると、私たち日本人には、いちばん切実でわかりやすいのではないだろうか。

 たとえば私がセブで出あったA子さんは、英語がうまかった。一緒に遊びに行っても、英語を使って、チャーターする船の代金を値切ったり、なかなかタフなネゴシエーターぶりだった。そんな彼女は学校ではおちこぼれで、英語の成績は2しかなかったという。英語が大の苦手だった。たしかに、セブの学校でも私と同じクラスにいたということは、選別試験の成績がよくなかったわけだ。

 たしかに英語の文法も、単語のスペルも、かなりあやしい。私のほうが上だ。それでいて、私はほとんど英語が話すことができなかった。彼女はそんな私を尻目に、はるかに上手に英語を話し、聞き取ることができる。字幕なしで洋画も見ているというから、かなりのレベルだ。

 不思議に思っていろいろと質問した。その結果わかったことは、彼女が英語を話すきっかけは、カナダ人の男性と友人になったことらしい。そして気がついてみると、学校で劣等生だったA子さんが、まわりのだれよりも英語が話せるようになっていた。

 どうしてこんな奇跡が起こったのか、それは、これまで彼女の中で蓄えられていた英語の知識が、彼氏によってファイナライズされたからである。とぼしい知識であってもファイナライズされた知識は、見違えるようなパワーを彼女に与えてくれる。彼女の場合、英語でこのことが起こったわけだ。

 だから、英語力を飛行機でたとえると、ガソリンを丸呑みしてますます重くなり、滑走路をのはじをノロノロ動いている頭でっかちの大型機を見下ろして、彼女の軽飛行機は自由に空を飛びまわることができたわけだ。

 それでは、いかに英語をファイナライズするか。これは学校教育ではほとんど触れられていない。私にはいささか手に余るテーマだが、自分のささやかな体験を踏まえながら、あえて蛮勇をふるって書いてみよう。(続く)

(今日の一首)

 雪山もかすんでいたり大寒に
 上着を脱ぎて散歩するかな


橋本裕 |MAILHomePage

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