橋本裕の日記
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2006年07月23日(日) いよいよセブへ

 今日から3週間、8月13日(日)まで、日本を留守にする。フイリピンのセブ島にある英語学校に短期留学して、3週間は英語漬けの日々が続く。その間も日記は書くが、掲載するのは掲示板の方になる。

http://otd6.jbbs.livedoor.jp/625905/bbs_plain

 セブに留学するのは、去年に続いて2回目なので、割合リラックスしている。先日、生命保険の担当者が来たので、「飛行機が落ちて死んだら、いくらもらえそうか」と聞いた。私は3個の保険に加入しているので、あわせると4千万円ほどになるという。

 もらった名刺を妻に渡しながら、「生命保険の不払いあるそうだ。万が一の時は、ここに連絡して、しっかり請求するのだよ」と念を押しておいた。保険はほかにAIUの海外旅行障害保険にも入っている。ここからも1千万円出る。

 他にフイリピン航空からも見舞金がもらえるだろう。家のローンも1千万円以上免除になる。できることなら、福井の母に1千万円ほど残してやりたい。その母とも昨日電話で話した。さあ、これだけ準備しておけば何が起こっても安心だ。そこで、少し、英語のウオーミングアップをしておこう。

 Live as if you were to die tomorrow.
 Learn as if you were to live forever.

 これは私の好きなガンジーの言葉だ。年をとると、人は死を間近に感じる。そして死が間近に感じられると、それだけよけい学びたくなる。たとえガンを宣告されて余命幾ばくもないと言われたら何をするか。私はやはり何でも良いから学びたい。孔子も「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と言っている。

  NEVER BE AFRAID TO EXPERIENCE YOUR LIFE.

 勇気を持って、人生を生きていきたい。

 LIVE TO LEARN AND LEARN TO LIVE.

 そして私にとって、生きるということは、学ぶことである。

 WHERE THERE IS A WILL、THERE IS A WAY.

 これも私の好きな言葉。道は自分の意志で切り開くものだ。しかし、同時に人生は出会いの場でもある。そして出会いは、神様からの贈り物だ。さて、今回はどんな出会いがあるのか楽しみである。

 LIFE IS JOURNY AND JOURNY IS LIFE.

 それでは、みなさん、行ってきます。


2006年07月22日(土) 小金持ちの日本人

 去年、セブからの帰り、マニラ空港で乗り継ぎを待っていると、十数人の日本人男性の観光客の団体と一緒になった。お土産袋を抱えた中年太りの、陽気で賑やかな一団である。私は思いがけず異国で耳にした生まれ故郷の言葉(福井弁)がなつかしくて、こちらから声を掛けた。

「みなさん、フイリピンは楽しかったですか?」
「それはもう、連夜、友好親善につとめましたよ」
「夜の友好親善ですか・・・」
 もともと、そうした目的の旅のようである。心がひんやりした。

 フイリピンへ行ったと聞くと、私の知人の中にも、「橋本君までそんな風だとは知らなかった」と言う人がいる。これは私がセブに行ったということを、間に人をはさんで聞いた結果だろう。その知人にじかに合ったとき、「英語の勉強のためだ」と強弁しなければならないのが悲しかった。

 フイリピンの人たちは日本からの集団売春客をどういう気持で迎えているのだろう。フイリピンには深刻な南北問題が存在する。とりあえず、お金を落としてくれる小金持ちの日本人はありがたい存在なのだろうか。

 韓国であれ中国であれ、ベトナムやフィリピンであれ、そこにはかって軍国日本の勢力が及んでいたところだ。多くの人々が日本軍によって生活を蹂躙され、レイプされ、殺戮された歴史が刻まれている。毎年、多くの日本人が観光やビジネスでアジア各地を訪れるが、こうした歴史をどれほど重く受け止めているのだろう。

 メーリング・リスト「戦争を語り継ごう」に投稿してみえる方から、「セブなど、フィリピン群島には2004年の正月に訪問しました。簡単に、サイトにまとめてあります。参考にしてください」と、ありがたいお言葉をいただいた。その方のHPから引用させていただく。

<セブ島は、現在リゾートの島として、7000あるフィリピンの島の中ではもっとも日本人に染みのある島である。マゼランの上陸でも有名なこの『セブ島』が、レイテ島と同じく『日本兵の墓場』になっていたとは、この研究を始めるまで私はまったく知らなかった>

<1980年代を中心に東南アジアへの日本の経済進出は目覚しいが、反日感情の強かったフィリピンは例外だった。しかもフィリピンは、反政府のゲリラ活動も盛んで多くの日本企業が進出を見合わせてきた。このセブ島に比較的日本企業が多いのは、島が細長くゲリラが拠点とする山岳地域が少ないことが理由だという>

<昭和20年3月26日、セブ市南方約十キロのタリサイにアメリカ軍一個師団が上陸し、ただちに北上を開始した。たちまちセブ全市、セブ島全地域に戦火が広まっていく>

<『男子は情報を得たのち全部殺す事、逃げる女子も殺す事』などの日本軍は方針を持ち、女子供までも殺戮に巻き込まれていった。更にアメリカの無差別爆撃も、市民を殺傷した>

<『ハポン パタイ』とは、『日本 死ね』という意味である。多くの日本軍兵士が、フィリピン住民にこの言葉を浴びせられ手足を切り刻まれて殺された。フィリピン住民の憎しみは激しく、フィリピン人ゲリラに日本軍は襲われていった>

<現地フィリピン人との関係を決定的に悪化させたのは、日本人のフィリピン人への『平手打ち』があげられている。フィリピン人にとって、日本人の『平手打ち』は大変な屈辱であった。日本は、フィリピンの文化や習慣を無視し、いたずらに反感を買ったのである。

 西洋文化とキリスト教文化のフィリピンに、日本軍は時代遅れの『天皇崇拝』を押し付け、生活文化習慣まで変えることを強要し、その結果反発を招き、その反発をアメリカに利用されていったのである。

 42年5月、日本軍はケソン政権の緊急紙幣流通禁止令を出し国内を大混乱させていく。そして悪名高い軍票を乱発し、フィリピンの貨幣経済を破壊した。3年間に物価が100倍になり、円・ドル・金と交換できない軍票は『おもちゃ』と呼ばれた。更に、日本軍は住民の食料を巻き上げた。フィリピンの大戦中犠牲者100万人の大半は、餓死といわれている>

  http://www11.ocn.ne.jp/~mino0722/pillipin0.html

 日本軍の侵攻によって、フイリピンの人々は平和を奪われ、生活が困窮し、全人口17000万のうち100万人以上もの人が戦禍で命を失った。こういう過去を正面から受け止め、謙虚な気持でセブを訪れたいものだ。そして英語の学習のかたわら、フイリピンの人々と一人でも多く心を通わせたい。


2006年07月21日(金) 戦争を知らない高校生

 今の高校生や大学生は日本軍が犯した戦争犯罪についてほとんど何もしらない。それどころか、日中戦争や太平洋戦争について、それがいつどのようにして始まったのか、それがいつどんな形で終わったのか、ほとんど知らない。

 友人のtenseiさんが、国語(古典)の授業で、開戦、原爆、終戦、憲法発布、憲法施行の日を教え、平和憲法について話したという。そのときの生徒の反応が7月20日の「TESEI塵語」にくわしく書かれている。全文を引用させていただこう。

 −−−−−−− そんなに遠い話か?  −−−−−−

 きょう、実は、1年生の1クラスの授業が予定外に残って、それを知った金曜日から、中途半端な1時間に何をするか悩んだのだった。昨日からあれこれ考えて、夏は原爆投下と終戦の記念日の季節でもあるから、教科書の「りんごのほっぺ」という文章の朗読を聞かせることにした。

 女優の渡辺美佐子が書いたエッセイで、色白で赤い頬をした初恋の男の子が広島に学童疎開してまもなく爆心地近くで亡くなった話を中心に、原爆にまつわる詩を朗読する活動のことを書いたものである。原爆記念日への意識付けに、できるだけ夏休み前にこういう教材を取り上げたいと思っているが、いつもできるとは限らない。

 教科書を開かせ朗読を聞かせる前に、念のため質問してみた。夏休みの間に、今のような社会(もちろんいろんな面を説明する)になるきっかけとなった記念日が3つあるけれど、何月何日の何?・・・・・・・・・・・・・・・・・・出ないんだなぁ、これが。。海の日? みどりの日? などと言い合ったりもしている。教室をぐるーーっと歩き回りながら聞いていくのだが、出ない。

 やっとひとりが、8月15日、と答え、それは何の日と聞くと、終戦記念日、、、、やれやれである。じゃ、そのきっかけになったできごとは? と尋ねると、やっとそこかしこで原爆だよ、何日だったっけ、と声がするが、ちんぷんかんぷんの子もいるようだ。

 結局その時間は、開戦、原爆、終戦、憲法発布、憲法施行の日を教え、平和憲法について話し、朗読を聞かせたら終了で何も書かせられなかった。夏休み中、このころになったら、しっかりTVのニュースや特別番組も見てくれぃ、と頼んでおしまいにした。

 それが2時間目のことで、4時間目の2年生の古典はちゃんと予定が組んであったのだが、ここでもこの質問をしてみることにした。今年の春まで3年間見てきた生徒たちや今年の1年生から比べると、同じ学校の生徒とは思えないほど日ごろからしらけた雰囲気の生徒が多い。ちょっと雰囲気が重苦しい感じなのだが、できるだけ軽い感じで聞いてみた。

 やはり、ほとんどが、知らない、わからない、首を傾げるという反応で、ひとりの女子が一生懸命連想的に思い出して8月6日が出た。それから15日の終戦記念日も出た。

 それにしてもねぇ、、、2年生といえば、現代社会の授業を終えているのに高1の必修科目である現代社会ではこういうことを扱わないのだろうか? そういう私も、こういうことを学校で覚えたのかどうか定かでないが。。。

 しかし、あまりにも知らなさすぎる、というより無関心すぎるじゃないか。小中学校の教員も、教えなさすぎるのではないだろうか? あの一連のできごとは、もうすでに遠い昔話にすぎないのだろうか? いや、遠い過去の物語であるはずがない。

 日本国憲法が書かれ制定された裏の事情や意図がどうあれ、あの一連のできごとは、「お国のために戦う」ことが実は「お国のために」ならず、かえって国を荒廃させることを教えたのだ。原爆はその決定打であるとともに、将来への恐るべき脅威となったのだ。国を愛するならもう金輪際戦ってはいけない。

 攻められても、侵略されても戦うなってか? と思うのでなく、(私自身も若いころは、そういう思いと葛藤したものである)攻めるとか侵略するとか、そういうことのない関係であるように、常に外交努力を積み重ねなければいけない。戦えば戦うほど、国の荒廃を招くのだ。核兵器があのころより格段にヴァージョンアップし、ボタンひとつで広範囲を壊滅できる現代だったらなおさらだ。

 首相が盛んに近隣諸国に喧嘩を売り、暴力好きな大国の侵略行為に賛同して協力したがり、それを正義と呼び、「お国のために戦う」式の思考の持ち主たちが愛国心教育を声高に叫び、国際的暴力行為に参加できないことをもどかしく思う人々があの大切な憲法第9条を堕落させようと目論んでいる。。。

 だから、あれから61年経った今でも、あの一連のできごととそれに対する反省は、現代的意味を持っている。あの61年前の悲劇とその意味を、忘れてはいけないのである。それを忘れたような連中に、政治を委ねてはいけないのだ。だから我々も、やがて選挙権をもつ生徒たちにできるだけ教えなければ。。。

http://www.enpitu.ne.jp/usr1/18221/diary.html
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 自分のことを考えてみれば、戦争の問題を本気で考えるきっかけは、高校2年生の時の長崎への修学旅行だった。原爆記念館で鉄兜に溶け込んだ頭蓋骨を見た。そして戦争の惨禍を知った。

 なぜ、こんな悲惨なことが起こったのだろう。そして、その悲惨なことは今も世界で続いている。なぜ、人間は戦争をやめないのか。何が人間を戦争に駆り立てるのか。こうした問に真剣に目覚めたのがこのときだった。そしてあれから40年近くたった今も、この問は私の中で問われ続けている。

 北京の抗日戦争記念館の展示の最後には日本国憲法第九条が掲示されているという。日本国憲法の「戦争放棄」の精神は、「日本軍の侵略が引き起こした巨大な惨禍とアジアの無数の犠牲があってこそ日本に課せられた」(高橋哲哉)ものである。「開戦、原爆、終戦、憲法発布」という一連の歴史の流れの中で、何故憲法九条が生まれたのか、真剣に考えるべきだろう。


2006年07月20日(木) フィリピンの日本軍

 7月23日(日)から3週間、フイリピンのセブ島へ行く。事前学習として、第二次大戦中のフイリピンでの日本軍の作戦や行動、フイリピンの人たちの戦争被害についてぼちぼち調べている。しかし、資料を読んでいるうちにつらくなった。たとえば、「東南アジアの日本軍慰安所」 http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper22.htmにはこんな記述がある。

<フィリピンの場合は、マラヤとはかなり様相が異なっている。一九九二年一一月までに明らかになった三〇人の元慰安婦のケースを見ると、その年齢は一二歳から二六歳、その半数強は二〇歳以下だった。徴集の方法は、家にいる時や道を歩いている時、川で洗濯をしている時に強制的に連行され、強姦輪姦されたうえで慰安婦にさせられたケースが非常に多い。

 そうした連行の方法は日本軍の占領直後から始まっている。ゲリラ討伐の名による住民虐殺をおこなう一方で若い女性を拉致するケースがある。この段階では、特定の将校や兵士たちが拉致してきた女性を家に監禁して順に輪姦をくりかえすというきわめて粗暴な傾向が見られる。>

「フィリピンと日本戦争体験者 100人の記憶」http://www.cffjapan.org/03smile/100warexp_001.htmlも参考になった。日本兵の残酷さを告発する証言が多い中で、戦後日本兵をかくまい、最期を見とったという記録もある。一部、引用させていただく。

<Nakaiは第二次世界大戦中に日本兵としてバターン戦下にいた。Captainとつくぐらいなのである程度上の位の兵士だと思われる。

 戦時中、ある日本兵がフィリピン人を殺そうとした。それをナナイの祖父が止めようとした。その時,日本兵は祖父を殺そうとしたがNakaiが「はぁ!!!」と強い声をあげ、その兵士を殴りやめさせた。

 祖父は助けてくれた2日後、お礼に食料、生のバナナ等を持っていった。しかし、彼は食べなかった。部下にも食べさせなかった。唯一生のバナナだけ食べた。おそらく毒など恐れて食べなかったのではないだろうか。日本兵はよく「バカヤロウ」、「ドロボウ」と言っていた。

 ある日(いつかわからないけど,41年?)Nakaiは右足を失い地面にたおれていたのをナナイの母が見つけ、止血をして助けた。そのとき彼は「死なせてくれ」とタガログ語で言ったが自宅に連れて帰った。

 日本の敗戦を知ったとき、Nakaiは正座をして切腹しようとした。しかし、ナナイの母が世話をすることを約束しフィリピンで生きることを説き自殺をやめさせた。Nakaiの手にあった銃剣をとりあげるとNakaiは涙を流し断念した。

 フィリピン人にも見つかったら殺されるため、キコという偽名を使い舌がなくしゃべれない人を装う。1940年〜47年の七年間かくまっていたという。その間、Nakaiはよく何かの写真(家族?)を見て泣いていたという。夕日の下で。毎日,太陽の下でひざをつき何かを考え、祈っているように見えた。Nakaiはその後マラリアで死んだ。遺体は、布にくるみバクラ川の対岸に埋葬した>

http://www.cffjapan.org/03smile/100warexp_005.html

 フイリピンでも多くの女性が日本軍にレイプされている。そして30人余りの女性が、かって「従軍慰安婦」だった体験を証言している。しかし、日本の裁判所は彼女たちの訴えを斥け、日本政府はこうした戦争被害者に充分な補償をしようとはしない。

 それどころか「新しい歴史教科書をつくる会」の人々を中心に、「南京大虐殺」も「従軍慰安婦」も存在しないような言説まで横行している。その論客の一人である藤岡信勝・元東京大学教授の発言を、高橋哲哉さんの「戦後責任論」(講談社学術文庫)から孫引きしておこう。

<この問題(慰安婦問題)こそは日本国家を精神的に解体させる決定打として国内外の反日勢力から持ち出されているからである。端的に言って、これは国際的な勢力と結びついた壮大な日本破滅の陰謀なのである>

 ちなみに、ドイツ連邦議会は、2000年に政府と企業がそれぞれ50億マルクを拠出し、約100万人の戦争被害者に一人当たり最高1万5千マルクの補助金を支払うことを決め、翌年に支払いが行われている。

 またドイツではニュルンベルク裁判とは別に、ドイツ国民自らが戦争犯罪を追求し続けた。90年代にいたるまでに10万件をこえる容疑を捜査し、6000件をこえる有罪判決を下しているという。

 しかし日本はついに自らの手で戦争犯罪を追求しなかった。私たちは戦争責任の問題を「東京裁判」でおしまいにして、300万人の同胞と2000万人の近隣諸国の人々の戦争犠牲者に対する責任問題を、自ら検証し自ら引き受けようとしなかった。これでは死んだ人々の霊は浮かばれないし、近隣諸国の信頼を勝ち取ることもできない。


2006年07月19日(水) 狙われる日本の優良企業

 6月26日、ひとつのニュースが世界を駆けめぐった。世界第一の鋼鉄生産量を誇るミタル・スチール(本社オランダ)が第二位のアルセロール(本社ルクセンブルク)を敵対的買収したというのだ。やがて売上高8兆3千億円の巨大企業が誕生することになる。

 ミタル・スチールはこれまで世界中で20社もの鋼鉄会社を買収して大きくなってきたが、インド人のミタル会長(56)の次の狙いは、アジアではないかと言われている。

 アジアには新日鉄(日本)、ポスコ(韓国)、JFE(日本)といった生産高世界第3位、4位、5位を占める鋼鉄会社がある。しかも、これらの会社の技術力はミタル・スチールをはるかに凌いでいる。

 「週刊現代」7/22号によると、新日鉄やJFEが保有する特許の数は600件を超えるという。これに対し、ミタルはたったの4件にすぎない。こんど買収したアルセロールの22件と合わせても26件である。だから、ミタル社は日本企業の優秀な技術力を狙ってくるだろう。技術開発には手間暇がかかるが、買収に成功すれば、これがまるごと手に入る。

 技術力でははるかに日本企業はミタル社を圧倒しているが、しかしグローバリズム資本主義の論理は違っている。問題は資本金である。ミタル社に買収されたくなければ、日本企業も図体を大きくするしかない。いかに技術力が優れていても、会社の経営がよくても、資金力が最優先される現在のマネー資本主義の世界で生き残るのは難しい。

 新日鉄といった日本を代表する巨大企業でさえ買収の危機にさらされているのだから、他の日本企業も外資の買収攻勢を凌ぐのは容易でない。最近、なぜこんなところにと思うような観光地でもない田舎に、海外からの見学者が殺到している。じつは、その種明かしは、そこに日本企業の工場があるからだという。

 たとえば、特殊鋼で高い技術力をもつ「大同」の工場にも、中国企業から見学者が来ている。そしてその狙いは、ずばり「企業買収」だ。週刊現代7/29の記事から、経済産業省の幹部の言葉を引用しよう。

「航空機や船舶の基幹部分に直結する特殊鋼の世界では、日本の技術力は群を抜いており、世界有数のシェアを持っている製品も珍しくありません。その企業買収に中国が関心を持っているようです。こうした工場が外国企業の掌中に渡り、軍事用の航空機や船舶に転用されたらと考えると、ゾッとします」

「大同」は世界最大級の特殊鋼メーカーで技術競争力は抜群だが、しかしその株価時価総額は約3700億円にすぎない。資金にものをいわせれば、簡単に買収されてしまう。週刊現代の記事から引用しよう。

<国境を越えた大合併の波は、これまで日本人が想像もしなかった危機をもたらそうとしている。日本経済の競争力を支えている最先端企業が、中国の巨大国策ファンドに狙われているのだ。このM&Aを許せば、経済だけではなく、安全保障にとっても重大な脅威になる>

<もしミタル・スチールがアルセロールに仕掛けたような敵対的買収を中国が仕掛けてきたら、日本政府や日本企業は無力に等しい>

 日本はほんの数年前までは、こうした世界企業の敵対的買収を未然に防ぐ仕掛けを二重三重にもっていた。ところがこの数年間の規制緩和でこの防御装置が取り払われている。

 外堀も埋められ、内堀まで埋められて、いまや本丸は丸裸にされているが、日本政府や企業にこの自覚はない。北朝鮮からいつとんでくるか知れないミサイルの恐怖よりも、もっと現実的な脅威が、すでに日本列島をすっぽり覆っていることに気付くべきだろう。


2006年07月18日(火) 鬱病にならないために

 日本人の自殺率は米国の2.5倍もある。統計によると3万人をこえる日本人が毎年自殺している。毎日100人ほどもの人が自らの手で命を絶っているわけだ。そして自殺未遂はこの10倍は下らないだろうといわれている。

 最近の自殺の増大は経済的原因によるものが多いらしい。しかし、人間は経済的に困窮したくらいではふつうは自殺しないものだ。貧困と言っても、世界のレベルからすれば日本の貧困はたいしたことはない。自殺にはもっと深い社会的な病理が隠されていると考えるべきだろう。

 一般に自殺する人は鬱病の傾向があるという。自殺大国の日本は、じつは「鬱病大国」でもある。それではどうして人間は鬱病になるのだろうか。病理的には脳内のセロトシンが減少すれば鬱病になることがわかっている。

 セロトシンは必須アミノ酸のトリプトファンから作られる。このトリプトファンというアミノ酸は野菜にはほとんど含まれていない。豚肉や牛肉の赤味に多く含まれている。だから、ダイエットで野菜ばかり食べていると、セロトシンが減少して鬱病になりやすいわけだ。

 もっとも、トリトファンからセロトシンが作られる過程で、さまざまな酵素が働いている。豚肉ばかり食べていればよいというわけでもない。生活習慣を改善して、体内の酵素を活性化させることも大切である。藤田紘一郎さんが「週刊現代7/29」にこう書いている。

<脳内のトリプトファンは酵素作用でセロトシンになる。その反応は、明るいところに出る、運動をする、楽しくポジティブに考える、ゆっくり呼吸をする、などといった生活習慣で促進される>

 セロトシンを作るには「大声で笑う」のが一番よいらしい。それから自分に自信を持ち、人生を楽しむことだ。国際調査をすると、アメリカや中国の人々は8割が自分は他人よりも優れていると回答する。これと対照的なのは日本人で、自分が優れていると思っている人は2割しかいない。これは偏差値に重点をおく学校教育のありかたも影響しているのだろう。

 ところで、日本は「抗鬱剤天国」でもある、しかし、抗鬱剤は鬱病患者の自殺衝動を強めることがある。日本で一番使われているのはパキシルだが、その使用説明書には「若年成人において、本剤投与中に自殺行動(自殺既遂、自殺企図)のリスクが高くなる可能性が報告されている」と明記されている。

 抗鬱剤は覚醒剤と化学構造が似ている。つまり、一種の覚醒剤のようなものだ。これを緊急避難として服用するのはよいが、頼り切るのは問題だろう。自殺だけでなく、さまざまな犯罪行動を引き起こす可能性もある。自殺大国日本の背景に、抗鬱剤汚染という隠れた公害が広がっている。

 私は朝日を浴びながら、木曽川のほとりを毎朝大声で唱歌を歌いながら散歩している。これからは大声で「わっはっは」と能天気に笑うことも日課にくわえようか。笑いものになって、人々のセロトシン合成に寄与するというのも、周りの人間を鬱病にしないためによいことかもしれない。

 いずれにせよ、「笑う門」に鬱病はよりつかない。みなさん、大いに笑いましょう。そしてもっと陽気に、人生を送りましょう。ケセラセラの精神も、ときには必要である。人生の不条理を、ときにはこの爽快な心で、銀河系の果てにまで吹き飛ばしてやろうよ。


2006年07月17日(月) 女医と血圧

 去年の夏に1日2食を実行し、1ケ月で大幅に体重を減らした。70キロ近くあった体重が今は60キロを割り込んでいる。一時は180近くあった最高血圧も大幅に下がった。血圧降下剤を飲まなくても140を切るようになった。

 そこで薬を飲むのを止めていたが、先日、かかりつけの病院へ行ったら、血圧が高いといわれた。たしかに上が150、下が100を越えている。
「おかしいな、最近は安定していたのですが」
「でも、高いですよ。薬は飲んで下さいね」
「すぐにまた下がると思うのですが」
「下がるかも知れませんが、上がるかも知れません。あぶないですよ」

 私はダイエットの話をし、食事療法や運動で血圧を下げたいと言ったが、この女医さんは「それもいいですが、薬も飲んで下さい」と、あくまで私に薬を飲ませたいようだ。血圧は心身の置かれた状況でだれでも変動する。問題は安静時の値ではなく、ストレスがかかったときの値だと、彼女が言う。

 たしかに彼女の言うことにも一理ある。しかし、薬を飲むと血圧が下がりすぎて、眠くなることがある。去年の夏のように脳梗塞が起こらないとも限らない。そう反論したが、彼女は譲らない。仕方がないので、「それでは半分に割ってのみます」と譲歩した。「ええ、半分でもいいから、飲んで下さいね」と、女医さんも顔の表情を和らげげた。

 この女医さん、なかなか熱心である。この病院には他にも医者がいるが、たまたまこの女医にあたってから、予約を入れるようになった。女医の方から、「次はいつにします?」と訊いてくる。「そうですね」と私もつい、これに応じてしまう。

 薬は自主的に減らしたり、やめたりしていたので、かなり余っている。しばらくは病院へ来るのを控えてもいいのだが、熱心な女医さんを前にして、何となく言いづらい。まあ、月に一度くらいは、この女医さんに体を診て貰ってもいいか、と思ってしまう。

 診察室を出てから、待合室の電子血圧計でもう一度計り直してみた。案の定、上が130,下が84しかない。まったく正常な血圧だ。これで薬を飲んだりしたら、かえってあぶないのではないかと、また不安が蘇ってきた。それにしても、この女医さんに聴診器を当てられたあと、血圧を測って貰うと、いつも値が高く出る。これも不思議なことだ。


2006年07月16日(日) 新聞の戦争責任

 7/14の朝日新聞の「新聞の戦争責任」の記事を注意深く読んだ。戦時中、朝日新聞は戦意高揚の先頭に立ち、国民を戦場へと鼓舞し続けた。その責任は甚大だ。今回の記事は、この点に触れ、割合率直に自己批判している。

<先の戦争と、それに至る過程で、朝日新聞をはじめ報道機関は、真実を伝える使命を果たさなかった。軍部の圧力に屈し、大本営発表を拡声器のように伝え、国民を戦場に駆り立てた。どこで間違えたのか。朝日新聞の過ちは、みずから何度でも検証し直さなければならない重い課題だ>

 その姿勢は、<見失った新聞の使命、反省を「今」につなぐ>というメインの見出しにもうかがえる。他の見出しも紹介しておこう。

<社論曲げ、戦争協力の道へ>

 1931年10月1日の大阪朝日の社説は、「満蒙の独立、成功せば極東平和の新保障」と言い切る。
   
<「散華」士官、予想外の戦意高揚効果>

  岩田豊雄(獅子文六)に「九軍神ではどうか。材料は海軍情報部が出すから」と、新聞小説「海軍」の連載をすすめ、これが大ヒットした。大本営海軍報道部、平出大佐は「誠に時宜を得たる意図にして欣快に堪えず」という談話が朝日に掲載された。

<虚偽の軍発表、そのまま報道>

<戦果を誇張、好戦一色の紙面>

<漫画や戦場・兵器写真、子供も照準>

<英霊を利用、「命」無視の終幕へ>

 今回の朝日新聞の自己批判を好意的に受け止めたいところだが、「なぜ、社論を曲げて軍部礼賛に走ったのか」についての分析ができていない。軍部の圧力があったからというのは言い逃れで、発行部数躍進のために進んで戦争協力したのが実態ではないか。商業誌としての営利主義が根本にあったように思われる。

 たとえば、朝日新聞の総販売部数をみると、昭和5年には168万部だったのが翌6年には143万部に落ち込んでいる。これは戦争に慎重な朝日に対して広告の停止や軍部・右翼主導の「不買運動」が功を奏したためと思われる。

 ところが「戦争賛美」に転換したあとは、うなぎのぼりに部数を増やしている。5.15事件があり、犬養首相が殺された昭和7年の発行部数は182万部だ。22.6事件が起きた昭和11年は230万部。昭和15年には初めて300万部を突破し、敗戦もおしせまった昭和19年には370万部まで売り上げを伸ばしている。

 これは朝日新聞が全社を挙げて、戦争を賛美し、威勢よく国民をあおりつづけた結果だ。新聞社にとって、戦争はおいしいごちそうだった。多くの新聞は戦後はすばやく左派に衣替えして、こんどは民主主義の旗を振ることで部数を伸ばした。朝日新聞のこの営業本位の体質は戦後も変わっていない

 ところで、7月5日、北朝鮮がミサイルを発射した。発射が確認されたミサイル7発のうち、長距離のテポドン2号は1発で、残りの6発は旧ソ連型の短距離ミサイルだった。発射されたミサイルは、ロシアのウラジオストクに近い排他的経済水域(200カイリ水域)の中に墜ちたようだ。

  しかし、当初、ミサイルが何発打ち出され、どこに到達したのか情報が錯綜した。あるテレビは北海道沖だと言い、後に「日本海」と訂正されたが、情報があまりに曖昧だ。この点について、私が参加している「戦争を語り継ごうML」で、Nさんが次のように指摘している。

<しかし今回の北朝鮮の弾頭無装備のミサイル発射については、朝日も、読売も、毎日も、産経も、NHKも、いっせいに「北朝鮮ミサイル発射、日本海に着弾」と報じました。冷静に「ロシヤ近海に落下」と報じた日本のメディアはあったでしょうか?>

 たしかに新聞やテレビのこの曖昧な報道が、国民を不安に陥れ、その後の強硬な世論を誘導した可能性は否定できない。この問題をしっかり検証する責任が日本の報道機関にある。こうした地道な取り組みが<反省を「今」につなぐ>ということだ。

 なお、7月5日のニューヨークタイムスの社説は、テポドンを含む今回のミサイル発射実験について「(他国に)直接の脅威を与えていないし、国際条約にも違反していない。だから、アメリカやその他の国は、この発射実験によって、北朝鮮を軍事攻撃する正当性ができたと考えることはできない」と書いている。日本では政府要人が「先制攻撃論」まで口にしているが、もうすこし冷静になって欲しい。

 今回の朝日新聞の「新聞の戦争責任」の特集記事には、「過誤を鏡にして」と題して、藤森研編集委員が次のように書いている。

<たとえば、近隣国などへの憎悪や悪意をあおることが、いかに危険なことか、あるいは、権力者の発表を検証せずに報じることが、いかにその後の歴史に無責任となりうるのか。新聞の戦争への責任は、過去の話ではない。自戒したい。>

 新聞をはじめとする報道機関は、先の戦争と、それに至る過程で犯した誤りをもう一度思い起こす必要がある。自ら検証して真実を報道するという姿勢は、まだまだ弱い。日本のマスコミの将来が心配だ。私は以前の日記(「戦争とマスメディア」に掲載)に、次のように書いたことがある。

<日清戦争で「朝日」と「読売」は熾烈な販売競争をした。そしてその後、戦争のたびに人間の生き血を吸って図体を大きくした。敗戦でドイツの新聞社はすべて倒産したが、日本の新聞社は一社も倒れなかった。

 戦争を賛美し、国民を扇動し、ときには政府や軍部まで「てぬるい」と噛みついた新聞社が、戦後になって、どうしてまともに軍部や天皇の責任を問えるだろうか。それどころか、またそろそろ戦場の血の匂いが恋しくなってきたようだ>

 朝日は昭和20年11月7日になってようやく「国民と共に立たん」という社告を載せ、「幾多の制約があったとはいえ、真実の報道、厳正なる批判を十分に果たし得ず、またこの制約打破に微力」だったことを反省し、社長以下重役が総辞職して責任を取ることを明確にした。

 しかしこれも、わずか33行の文章で、一面下方に小さく目立たないように掲載されただけ。自らの戦争責任にふれた内容はきわめて抽象的な一般論でしかない。しかも、数年後、辞職したはずの村山社長は会長に返り咲き、さらに社長に復帰して、昭和39年まで経営の実権をにぎっている。上層部の辞任劇は国民を欺くための茶番劇だったわけだ。

 日本の新聞が問われているのは「戦争責任」だけではない。戦争の責任を曖昧にした「戦後責任」もまた、厳しく問われている。この点の認識がどれほどあるのか、今回の朝日の記事にはうかがえなかった。

参考サイト
http://tanakanews.com/g0707korea.htm

http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/masmedia.htm


2006年07月15日(土) 世界一の離婚大国

 私には二人の娘がいる。二人ともいずれ結婚して家を出るだろう。昔風に言えば、他家に嫁ぐわけだ。姓が変わり、心理的にもなんだか少し遠い存在になる。父親としては喜んでよいのか、哀しむべきか、複雑な心境だ。

 近所に二人の娘を嫁がせた家がある。ところが、そのうちの一人が子供を抱えて戻ってきた。やがてもう一人も、子供を抱えて戻ってきた。一旦火の消えたような家が、いまは孫達で賑わっている。娘を嫁がせて淋しそうだった父親も、退職してのんびりしようとした矢先、娘に「お父さん、孫の面倒を見て下さい」と頼りにされて、いまは忙しそうである。

 この大家族で年寄りの両親はさぞかし大変だろうなと思ったが、最近はそうでもない。一家の表情が明るい。そこに「出戻り」という暗いイメージはない。大家族を楽しんでいるという感じで、しわわせな笑顔が家の門にあふれている。

 他家に嫁いだ二人の娘が、子供を連れて帰ってくる。「お父さん、よろしくお願いします」と言われたら、昔の父親なら「そういうわけにはいかない。世間体だってある」と追い返したかもしれない。しかし、現代は違う。「そうか、よく帰ってきてくれた」と、歓迎する親もいるかもしれない。時代が変わった。

 総務省の人口統計によると、日本で過去10年間に結婚したカップルの50パーセント以上が離婚しているという。いまや日本はアメリカを抜いて、「世界一の離婚大国」だという。離婚が日常化し、一旦嫁いだ娘が、子供を連れて親元に帰るケースもあたりまえになってきた。これが現代のトレンドになりつつある。

 考えてみれば、これは親にとっても娘にとっても悪い話ではない。娘は親元で気楽に子育てができる。あるいは子育ては両親にまかせて、仕事に専念できる。両親も娘と暮らしながら、可愛い孫の面倒を見るのは愉快であろう。

 それでは、離婚した男性はどうかというと、これもそれほど不幸ではなさそうだ。時々自分の子供に会いに来て、かっての妻の実家に上がり込んだりする。実家の方でも「やあ、よくきたね」と歓待する。そのうち男の足が遠のいたと思ったら、また新たな若い女と恋愛中だという。結婚して子供を作り、また離婚するつもりかもしれない。

 2005年の15歳未満の子供人口は約1760万人。この10年間で240万人も減っている。これは非婚化、晩婚化が大きな原因だ。子連れで出戻りというケースが増えれば、いまや1.25まで落ちたという日本の出生率も少しは改善するかもしれない。


2006年07月14日(金) マネー経済の錬金術

 キヨサキさんに限らず、「安い物件を買い、それを高く売る」というのは、お金持ちがお金をもうけるとき、普通に行っていることである。資産構築の基本原理だと言ってもよい。問題はいかに物件を安く買い叩くかだ。

 キヨサキさんが目をつけたのは、破産や倒産によって売り出された物件だ。これもキヨサキさんだけではなく、お金持ちがよく使う手である。もっとあくどい金持ちになると、相手を破産させて、財産を巻き上げる。

 とくにおいしいのは、国家が保有する資産である。国の経済を破綻させ、苦し紛れに売り出した国有財産を二束三文で買い取り、莫大な利益を手に収める。民営化というグローバリゼーションの潮流の中で国際的に行われている現代の錬金術がこれである。

 ホットマネーによるこの戦略によって、1990年代、多くの国の資産が次々と奪われた。タイ、マレーシア、インドネシア、フイリピン、韓国の経済が次々と破綻し、IMF(国際通貨基金)の管理下で、この錬金術が猛威を振るった。

 エリティン政権下のロシアも悲惨だった。国営企業が次々と民営化され、国内の経済マフィアや外資の手に落ちた。しかし、プーチン大統領はこれを許さなかった。経済マフィアを刑事訴追し、民営化された企業をふたたび国営化した。アメリカは怒ったが、プーチンはこれによって国の財産を守ったわけだ。今、ロシアの国営企業はエネルギー部門を中心に未曾有の利益を上げ、国家財政を潤している。

 民営化の波は日本にも襲いかかってきた。大切な国有資産が、次々と売りに出され、二束三文でお金持ちの手に落ちていった。残念ながら、多くの人があくどいお金持ちたちが何を考えているのか、「財産構築の基本方程式」を理解していない。そして単純に「民営化」を「正義」だと信じている。これがお金持ちたちのプロパガンダだと気付かない。

 最近、国会で「グリーンピア南紀」にまつわる問題が二度にわたって和歌山県選出の民主党の議員(大江康弘参議院議員)に取り上げられた。旧年金事業団が120億円を投じて作ったこの保養施設が、昨年、地元の2つの自治体(那智勝浦町、大池町)に、それぞれ8300万円、1億8700万円という破格の値段で払い下げられた。

 ところが、那智勝浦町の物件が昨年中に、BOAOという香港に本社がある中国系の企業に1億6千万円で実質的に払い下げられた(10年間は賃貸、その後無償で譲渡)。問題は事業団から自治体に売却されたとき、すでに自治体は外資に売り渡すことを決めていたことだ。しかもその契約が行われたのは、経済産業省の大臣室だったという。

 この斡旋をしたのは二階経産相だという。町としては8300万円で買い、1億6千万で売るのだから不満はあるはずはない。しかし、国民の年金を湯水のようにつぎ込んでつくられた施設が、こうして二束三文で外資に売られ、しかも地方自治体や政治家がその仲介をしている。損をしたのは国民なわけだ。内橋克人さんが「節度の経済学の時代」(朝日文庫)のなかで、こう書いている。

<「官僚優越の社会のなかで行政官僚の手のなかに集約されていた権限を、いかに市民の手に奪い返すか」という、これが本来の規制緩和でなければなりません。人びとはいまそれが進んでいるのだ、と錯覚しているわけです。

「官から民へ」というのならば、その民のなかに「市民」が入っていなければならない。ところが、いま叫ばれている「民」とは、巨大多国籍企業、大企業にとっての企業活動自由化のことです。端的に言えば、多国籍の外資系企業、日本経団連に所属している大企業の行動を完全自由化するということです>

 折しも日本郵政公社が民営化して発足する4事業会社の社長が決まった。「郵便貯金銀行」社長に三菱商事常任顧問の古川洽次氏(68)、「郵便保険会社」社長に東京海上日動システムズ社長の進藤丈介氏(61)、「郵便事業会社」社長にトヨタ自動車グループのイタリアトヨタ会長の北村憲雄氏(64)、「郵便局会社」社長にイトーヨーカ堂執行役員物流部長の川茂夫氏(59)だという。


2006年07月13日(木) 資産を増やす方法

 キヨサキさんのお父さんは大学教授だった。息子のキヨサキさんに、安定した会社でいい仕事を見つけるようにと、いつも言っていたという。しかし、キヨサキさんはこうした自分の父の人生に共感が持てなかった。高い教育を受けた父は、いつも税金や保険料や請求書の支払いに追われ、お金に苦労していたからだ。

 キヨサキさんは給料と年金に頼っている自分の父のことを「貧乏父さん」と呼ぶ。これに対して、会社を経営している友人の父親のことを「金持ち父さん」と呼んだ。金持ち父さんには学歴はない。しかし、大勢の人を使い、たくさんお金を稼いでいる。そして見るからに人生が楽しそうで活気がある。

 キヨサキさんはこの金持ち父さんを見習った。彼のお金についてのアドバイスは貴重だった。それは学校でも、実の父親からも教えられなかった。しかし、キヨサキさんはそのアドバイスを受け入れることによって、自分自身、お金持ちになった。

 キヨサキさんは学校を出た後、ゼロックスに就職した。ここまでは貧乏父さんの路線に従った。しかし、彼は「だれのために働いているんだ? だれを金持ちにしているんだ」という金持ち父さんの声をいつも心の中で聞いた。

 彼は会社で働きながら、不動産業者の資格を取り、給料を貯めて不動産所有会社を設立した。やがて3年も経たないうちに、彼の会社からの収入は、ゼロックスから支給される給料よりも大きくなった。そこで彼はサラリーマンをやめて、社長業に専念することにしたわけだ。

 彼の商売のやり方は、「借金をして安い物件を買い、それをなるべく早く、高く売る」というシンプルなものだ。それではどうやって、安い物件を手に入れたのか。彼それを破産・倒産を専門にあつかっている弁護士事務所や、裁判所で見つけたのだという。

<そういった場所では、7万5千ドルの家を2万ドル、時にはそれより安い価格で買うことができた。たとえば2万ドルで家を買ったとしよう。私は90日で2百ドルの利子を払う約束で友人から2千ドルを借りる。そしてそのお金を小切手にして、頭金として弁護士に渡す。

 弁護士のもとで売買契約が処理されているあいだに、私は7万5千ドルの価値のある家を6万ドルで売り出す広告を新聞に出す。破格の値段に問い合わせの電話がひっきりなしにかかる。見込みのある買い手を選び出しておき、家が法的に私のものになったら、買い手に家を見せる。みんな掘り出し物には目がない。家はあっというまに売れる。

 私は買い主に手続き等の費用として2千5百ドルを請求する。みんな大喜びでそれを払ってくれる。そのあとは、売買契約が完全に終了するまで代金を預かってくれたり、権利移転手続きをやってくれる専門会社にすべてを任せる。

 私は2千ドルに2百ドルの利子をつけて友人に返す。これで友人も大喜び、買主も大喜び、弁護士も大喜び、私も大喜びというわけだ。私は2万ドルで買った家を6万ドルで売った。その結果、資産欄に、買主から受け取った4万ドルの手形が増えた。このお金を生み出すための私の実労働時間は全部で5時間だ>

 こんなおいしい話があるだろいうか。実際、あるのである。しかし大方の人間は気がつかない。キヨサキさんは「ほとんどの人が、人生最大のチャンスを目の前にしながらそれを見過ごしてしまい、一年たってほかの人が金持ちになってからそのチャンスに気がつく」と書いている。そしてこうも書く。

<私たちはだれも持っている唯一の強力な「資産」は、私たちの頭だ。頭をうまく鍛えれば、あっという間に富をつくり出すことも可能だ。それも、3百年前の国王や女王たちが手に入れたいと願った富をつくり出すことも可能だ。情報時代のいま、お金は爆発的に増える。ほんの一握りの人間が、まったく何もないところから、アイデアと「同意」だけを武器に信じられないほどの大金持ちになっていく>

 しかし、このマネーゲームはしばしば人間に道を誤らせる。キヨサキさんは「このゲームの中にこそいきいきとした活動があり、これこそが胸躍らせてくれるものだからだ」と書いているが、私にはこの言葉はすでにお金に魂を売り渡した者の口にする譫言のようにも響く。

 たしかに、私たちは税金や保険料や請求書の支払いに追われ、お金に苦労する「貧乏父さん」にはなるべきではない。そして、こうした悲劇に見舞われないために、私たちは頭を有効な「資産」として使うことは必要だ。

 しかし頭は何も「金儲け」のための資産だとは限らない。金儲けの他にも頭の使い道はある。人生には他にもいきいきとした胸躍る体験がたくさんある。


2006年07月12日(水) お金持ちは税を納めない

 お金持ちがどうやって課税されるのを逃れるか、それは西武鉄道の前会長の堤義明の場合を見てみればよい。結論から言えば、「会社」をかくれみのにするのである。ロバート・キヨサキさんも「金持ち父さん、貧乏父さん」のなかでこう書いている。

<金持ちと中流以下の人間を分け、金持ちをはるかに有利な地位に立たせているのは、会社という法的な組織がもつ力についての知識だ>

<会社は金持ちを守るためのものなのだ。ここで注意したいのは、会社は実際に形のある「物」ではない。会社というのは、実質的には弁護士事務所のファイルキャビネットに入っている、何枚かの法的書類をとじ込んだ一通のファイルにすぎない>

<課税の対象が広げられたときも金持ちの財産は守られた。このときも前の時代と同様、会社が隠れ蓑となった。おかげで会社を利用する方法はさらに普及した。というのも、所得税法が成立し、その蓋を開けてみると、会社の所得税率が個人のよりも低かったのだ。さらに、前にも説明したように、会社の場合、支出の一部は経費として、税を払う前の収入から差し引くことができた>

<問題は、いつも戦いに負けるのが知識を持たない人達であることだ。つまり、毎朝早くからせっせと仕事をし、きちんと税金を払っている人たちがいつも負ける。こういう人たちも、金持ちがどんなふうにゲームをしているか、そのやり方を知っていさえすれば勝つチャンスがある>

<今の平均的なアメリカ人は、一年のうち5ケ月から6ケ月は税金のため、つまり政府のために働く。私に言わせれば、これはずいぶんと長い期間だ。それにいまの所得税のシステムでは、一生懸命働けば働くほど政府に払うお金も多くなる>

<貧乏父さんはそんな政府の仕打ちに一度も反抗したことがない。金持ち父さんもそんなことをしたことはない。金持ち父さんはただもっと頭を使ってゲームをしたのだ。彼が使った手段は「会社」だ。これこそ金持ちになる最大の秘訣だ>

 キヨサキさんの主張を一口でまとめれば、お金持ちになりたければ、そして税金を納めたくなければ「会社」を作りなさいということだ。そうすれば他人を金持ちにするためにではなく、政府のためにでもなく、「自分を金持ちにする」ために働くことができる。

 いや本当の金持ちはお金のために働いたりはしない。「お金を働かす」のが本当の金持ちだという。キヨサキさんはそのことを「お金持ち父さん」から学んだ。そしてキヨサキさんは金持ちになり、さらに彼の書いた本は世界中で売れ、彼はますますお金持ちになった。

 最近、アメリカの中学校の教科書を読んでみたが、そこには「お金と株」や「会社のしくみ」について、ずいぶん詳しく書いてあった。「Be an Enterpreneur!」(起業家になろう!)という章では、パートナー・グループで実際に会社を立ち上げる模擬演習までしている。

<あなたとパートナーには、すでに3000ドルの開業資金があります。それに手をつける前に、はたして経費はどのくらいになるのかを計算する必要があります。一枚の紙に、月別経費の表を作成してください>

 生徒は自分の会社の名前を考え、事業計画書を作りながら、3000ドルの他に銀行で融資を受けるかどうかも決めなければならない。販売業者免許を取得するための経費や手続き、宣伝広告の方法や経費、労働者に支払う経費なども計算する。こうしたことをアメリカの中学生は学校で学んでいるわけだ。

 世の中が変わるにつれ、ずいぶんと教育の内容もかわってきた。私はこうした教育は日本でも必要だと考える。実践的な方法で経済の仕組みを知り、税金のあり方について考えることは大切なことだからだ。しかし、教室がたんに「お金持ち」になるためのノウハウを教える場所になることには疑問を感じる。

 世の中が「お金持ち父さん」ばかりになったら、だれが製品を作ったり、道路工事をしたり、病院で働いたりするのだろう。この本を読んでいて、私はこの素朴な疑問につきまとわれた。今のアメリカのシステムを前提にして、いかに「お金持ちになるか」を教える前に、庶民が幸せに暮らせるもっとましな社会にするために、私たちはどんな努力をすべきか。学校で教えるべきことは、先ずこのことではないのだろうか。 


2006年07月11日(火) 所得税のはじまり

 税金には大きく分けて、資産・所有物にかかる「資産税」、支出にかかる「消費財」、そして収入にかかる「所得税」の3つがある。その比率は日本でおよそ2:2:6になっている。

 税金の王様格の「所得税」だが、その導入はもっとも遅く、世界で最初に「所得税」らしいものを導入したイギリスでさえ1799年だった。それまでイギリスは他の国同様、資産税(地租)と消費税(酒税と関税)で財政を賄っていたが、ナポレオン戦争に直面して、戦費調達のために王様がおふれを出して、国民に少しずつお金を出すように要求したわけだ。

 これは戦争がおさまった1816年には一旦廃止されたが、1874年に復活し、裕福な国民からその所得に応じてお金を取り立てることにした。いわゆる「所得税」の本格的なはじまりである。

 導入当初は、中流以下の国民には課せられていなかった。これによって所得格差を是正しようとしたわけだ。政府がこれを導入したとき、お金持ちは「所得は、国民の消費生活と資産形成の源泉である。所得税は労働意欲を抑制し、経済活動の根幹に害を及ぼし、国力の衰退を招く禁忌である」として反対した。

 しかし、庶民はこのお金持ち課税に賛成だった。ロバート・キヨサキさんの「お金持ち父さん、貧乏父さん」から引用してみよう。

<そもそも税金が多くの人に受け入れらるようになったのは、政府が中流以下の人たちに「税金とは金持ちを罰するために課す制度である」という考え方を吹き込んだためだった。国民の多数が税法に賛成の票を入れ、税の取り立てが憲法上認められるようになった背景には、このような事情があった。だが、本来は金持ちを罰することを目的として作られたこの税金が、実際は税の法制化を支持した当の本人である、中流以下の人々を罰するものになってしまった>

<税金の歴史を学ぶと興味深い側面が見えてくる。税の法制化が可能だったのは、金持ちからお金を取ってほかの人にそれを分け与えるというロビン・フッド的な経済論を大衆が信じていたからだ。そうでなかったら決して大衆の支持は得られず、法制化されることもなかっただろう。問題は、ひとたびお金の味を味わった政府の食欲がとどまることを知らず、いくらもたたないうちに中流階級からも税金を取り立てなければならなくなり、そのあと、なし崩し的に次々と課税対象が広がっていったことだ>

 イギリスに続いて、アメリカ、フランス、カナダ、ドイツ、イタリアが「所得税」を創設した。日本も1887年(明治20年)に導入に踏み切っている。そして、日本では1940年(昭和15年)、真珠湾攻撃を翌年に控え、さらなる戦費調達のために、「源泉徴収制度」が創設された。これはサラリーマンから有無を言わせず効率的に税金を搾り取る制度として現在まで用いられている。

 もともと「お金持ち」のみに課税され、所得の再配分による格差是正をめざしていた所得税が、いま庶民に重くのしかかってきている。政府は庶民からどん欲に税金をしぼりとる。それではお金持ちどうか。実はお金持ちは私たちが思っているほど税金を納めていない。税金を納めなくてよいうまい方法を知っているからだ。明日の日記でその手口を紹介しよう。


2006年07月10日(月) 最高税率を引き上げるべし

 アメリカにしろ日本にしろ、巨大な財政赤字を生む原因には税収不足である。それではなぜ税収不足かといえば、金持の個人や企業から大幅な減税をしたからだ。

 日本の最高税率(所得税と住民税の合計)は、85年当時は88パーセントだった。ところが現在は50パーセントにまで押さえられている。その一方で、所得格差が広がり、国や地方の公的負債が800兆円までふくらんでいる。

 ここにいたって、ようやく政府税調も最高税率の引き上げを検討しはじめた。政府税調はこれまで50パーセントの最高税率をアメリカの例などを引きながら「妥当」としてきた。しかし、国民の「格差是正」の声は無視できなくなって、ようやく重い腰を上げた。

 7月1日の朝日新聞の記事によれば、先月30日の総会では、「所得税による所得再配分機能が弱まっている。最高税率を引き上げて、所得再配分機能を強めるべきだ」と、引き上げを求める声が相次いだという。

 消費税のみの増税だと、低所得者ほど税負担が重くなる。そこで納税者の不公平感をなくすため、最高税率の引き上げを抱き合わせにする。これが税調や財務省の消費税値上げにむけた戦略のようだ。

 問題は、抱き合わせ値上げをしておいて、いずれ最高税率だけ下げることだ。じつはこうした抱き合わせ戦術がよく使われる。たとえば法人税を大幅に引き下げたときは、サラリーマン減税を抱き合わせにした、しかし、昨年3月に所得税改正案が衆・参両院で可決され、定額減税は今年から半減されたが、法人税が引き上げられたわけではない。

「サラリーマンだけをねらい打ちにした増税ではなく、税制の不平等こそ是正すべき。税制改革とは本来、国民の所得格差の行き過ぎに歯止めをかけるものでなくてはならない」

 これは連合の高木剛会長の発言(週刊現代6/10)だが、こうした主張がもっと大きくなってほしい。裕福層が所得転移をするとか、企業の国際競争力が落ちるという反論があるが、経済大国の日本とアメリカがこういう口実や視点から裕福層の減税競争をしている間は、世界は少しもよくならないだろう。


2006年07月09日(日) 清流に親しむ

 昨日は妻と二人で、岐阜県の円原川までドライブした。9時半頃に家を出て、岐阜市や山県市を抜け、目的地についたのは11時頃だった。ここは所々の岩場から清水が吹きだしている伏流水の名所である。しかし人はほとんど来ない。

 私は4年ほど前に、かっての同僚の一人からこの場所を教えて貰い、それから妻とたびたび水を汲みにきている。水に足を浸けると、真夏でも凍えそうである。透き通った清流の岩蔭に、よしのぼりが住んでいて、これを捕まえて家の水槽で飼ったこともある。

 いつもは途中でおむすびを買い、清流のほとりで食べるのだが、昨日は家から持参したメロンやまんじゅうを食べた。それから伏流水をペットボトルに汲んだ。汲みながら妻と私は「おいしいね」と言いながら飲んだ。清流が体の中を流れるような爽やかさだった。

 谷山の緑が美しく、初蝉の声も聞いた。最初は「かじかがえる」の声かと思ったが、たしかに蝉の声のようだった。こんなに早く蝉の声が聞けるとは思っていなかった。もちろん蝉の姿は見えない。

 帰り道、鰻屋に入って、すこし豪勢に「櫃まぶし」を食べた。おいしかった。指示通り、3回にわけて食べた。腹八分目の食事を心がけているが、残すのは勿体ないので、すべて平らげた。小食の私には腹12分目くらいの食事になった。そのかわり、夕食はなしである。

 家に帰って、水槽を眺めていると、妻が虫眼鏡を持ってきた。水槽の中にシマドジョウの子供がいるのだという。この春に生まれて、外の水槽で飼っていたが、いくらか大きくなったので、室内の水槽に移したばかりらしい。

 虫眼鏡で覗くと、たしかにユーモラスな顔をしたシマドジョウの子供がいた。数年前に同僚の先生からもらった3匹のなかにメスが1匹いて、そいつの卵が孵化したらしい。水槽の中で毎年大量に孵化していた可能性があるが、みんなメダカや親ドジョウに食べられたのだろう。

 この春、妻が水を交換するとき、細い針のような稚魚を見つけた。今年はメダカが少なかったので、たまたま生き残ったのだろう。水槽の中でドジョウの子供が産まれるとは思っていなかった。これで水槽を眺める楽しみがまたひとつ増えた。


2006年07月08日(土) 七夕の短冊

 妻が首の付け根に出来物ができて病院に行ったので、昨日の昼食は次女と一緒に食べた。ちなみにメニューは卵焼き、味噌汁、鱒、キュウリと大根の漬け物である。食事の準備は大学の寮から帰ってきた次女がしてくれた。

 食事をしながら、七夕なのを思い出して、「今日は何の日か知っているか」と娘に聞いてみた。「さあ」と首を傾げているので、「七夕だよ。七夕とはどんな日か知っているかい。親に孝行を尽くす日だ」と私。「もう孝行したじやない」と娘。最近は用心深くなって、なかなか騙されない。

「ほんとうはね、天の神様にお願いをする日なんだよ。お母さんのおできを早く治してあげて下さい、とかね」
「お父さんが無事ゼブから帰りますようにとか?」
「そうそう」
「竹を買ってくるわ。お父さんも何か短冊に書いたら」
「そんな面倒くさいことしないよ。それに、お父さんまでお願い事をしたら、神さまが忙しくなるだろう。お父さんは、何もお願いしないんだ」
「神様がいそがしくなるの? そんなことないわよ」

 娘とそんな会話をしたあと、私は学校に行った。学校は球技大会が終わり、昨日から保護者会が始まっていた。学校を欠席がちな少女がいる。その母親と1時間近く語り合った。いろいろとアドバイスをしたが、肝心の本人は昨日も学校をさぼつた。昼夜逆転して、毎日朝返りだという。「毎晩、どこで何をしているのか、とても心配で・・・」と母親は困った様子だ。

「学校をやめることも選択肢のひとつですね。仕事もしない、学校もさぼりがちでは、本人にとって何もいいことがありません。学校をやめて、仕事に集中するとかね。さいわいもうすぐ夏休みなので、何かアルバイトでもさせてください。いいリズムができれば、本人の精神状態もよくなりますよ」

 母親が要求するように仕事と勉学と両立できればよいのだが、彼女は今はあそびたい盛りで、とても両立は不可能だ。彼女は何とか両方ともがんばろうとしたが、無理だった。そこで、ますます遊びの方に「逃避」している。本人もこれではいけないと思うが、母親や教師に言われる度にむかむかして、ますます遊び友達の方に心が向かう。

「この調子では、9月のうちに欠席オーバーで進級できなくなります。あまり学校にこだわらずに、本人の肩の荷を軽くしてあげることも必要です。とりあえず、仕事につかせて、様子をみてはどうでしょうか。学校は本人が勉強しなければという気になったときに、もう一度受け直せばいいです。うちの学校はいつでも歓迎しますよ」

 実際、退学したあと、仕事を通して立ち直り、再び学校に入り直して、今度は優秀な成績で卒業していった女生徒もいた。そんな実例なども紹介しながら、母親のこわばった心をもみほぐそうと努力した。そのかいがあって、母親は少し明るい表情で学校をあとにした。

 帰宅すると、すでに次女は大学の寮に帰っていたが、居間に短冊や飾りをつけた七夕の笹が飾ってあった。テーブルの上に、硯と短冊が置いてあり、妻が「あなたも書いたら」と勧めてくれたが、「僕はいいよ」と断った。「じゃあ、これで」と、あらかじめ次女が私のために書いて置いた短冊を、妻がそこにつけた。こうしてわが家の七夕の一日が終わった。


2006年07月07日(金) 教えながら学ぶ

 教員は恵まれている。なぜなら、「教えながら学ぶ」ことができるからだ。まさに「学ぶために働く」という理想の環境である。今日の日記でこのことを書こうと思っていたら、tenseiさんがすでに昨日の日記に書いていた。私が毎朝愛読している「TENSEI塵語」から、その部分をそっくり引用させて貰おう。

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 きょうの橋本日記のテーマは「学ぶために働く」。その趣旨はそちらを読んでいただくとして、私が四半世紀ほど前に就職についてさほど真剣に考えてなかったところから一歩抜け出して、いよいよ決めなければならなくなったとき、高校の教員を選んだ理由はいくつかあるけれど、もっとも大きな理由は、もっとも勉強を続けやすい環境、ということだった。

 当時やろうとしていた勉強ができたというわけではないけれど、確かにいろいろな勉強をさせてもらえたし、それは今も継続中である。特に「現代文」なんて教科をやっていると、さまざまな分野について、教材からだけではなくて、予備知識として知らざるをえなくなる。「わかりやすい授業」ができるかどうかが我々の死活問題だから、生来怠け者の私でもいろいろと勉強せざるをえなくなるのだ。

 古文や漢文も、若かったころはその分野の優等生だったと言っても、フィーリングで対処していただけに過ぎなかったが、教員になってから本当にいろいろなことを知ったし考えた。また、思いがけず吹奏楽の仕事が入ることによって、音楽についてそれまで考えもしなかったような勉強もできた。音楽活動は大学時代に諦めたはずなのに、不思議なことである。

 そもそも、「教える」という行為こそ、もっとも勉強になるのだ。「教える(又は書く)」という行為の中で、我々は自分の無知を痛感しつつ、より確実な知識を求めたり、説明したり導いたりする工夫に頭を悩ませる。これはとても貴重な体験の積み重ねである。

 私はしばしばこういう感想を抱いた。生徒たちは授業料を払いながらろくろく勉強しない、我々は給料をもらいながら、うんと勉強させてもらっている。。。実際これは理不尽なことながら、とてもありがたいことなのだ。

 我々は初心を忘れがちである。最初の思いからすると、この職業はちゃんとそれに適した職業なのだ。そう文句たらたらいうべきではない。

http://www.enpitu.ne.jp/usr1/18221/diary.html

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 たしかに私も初心を忘れて、不満をかこちがちだった。しかし考えてみると、教員になったおかげで、ずいぶんいろいろなことを学ばせて貰った。しかも、お給料までいただいて・・・。まったくもって、ありがたいことである。


2006年07月06日(木) 学ぶために働く

 キヨサキさんは、若者に就職のアドバイスするときは、「いくら稼げるか」ではなく、「何を学べるか」で仕事を探しなさい、と教えるのだという。将来を見据えながら、自分はどんな技術を習得したいか、じっくり考えさせる。

 先日、私の学校で進路ガイダンスがあったが、私が担当した「調理師コース」の講師も、同じようなことを言っていた。たとえばA君は月給25万円でチェーンのファミリーレストランに就職した。B君は月収15万円の料亭で働くことになった。A君は週休2日、B君は休めても週に1日だけ。

 さて、どちらを選ぶか。だれしもA君が有利だと思うだろう。ところが、将来性を考えたら、B君の選択の方が正しい。なぜなら、A君は何も学ばない。10年後定期昇給でA君は35万円の月給取りになっているかもしれないが、リストラされたら、それだけの給料で再雇用されることはまず考えられない。

 一方、料亭に就職したB君は、材料の仕込みかたからじっくりと教えられる。安い月給はじつは教育費なのである。10年も経てば彼は一人前の料理人になり、月収は50万円を下らない。腕次第では100万を稼ぐ人もいるという。そして彼は決して失業に怯えることもない。実力のある料理人は引く手あまただからだ。

 目先の高給に惑わされずに、その職場が自分にお金以外に何を与えてくれるか、その職場で自分がいかに成長していけるか、こうした観点で就職先を選べばまず間違いがない。ところが、多くの人は目先の収入にとらわれてしまう。そうした人たちの未来はあまり明るいとは言えない。ふたたびキヨサキの「お金持ちお父さん、貧乏お父さん」から引用しよう。

<私はよく、「いま毎日やっていることの行きつく先はどこですか?」という質問をする。かごに閉じこめられたあの小さなハムスターのように、請求書の支払いのため毎日懸命に働いている人たちは、そのつらい労働が自分をどこに運んで行くか考えたことがあるだろうか? 将来に待っているものが何なのか、考えたことがあるだろうか?>

<「給料をもらって支払いをする」という、一生続くこのパターンに一度はまってしまうと、人間は小さな輪の中で走るハムスターと同じになってしまう。ハムスターは毛の生えた小さな足を猛烈な勢いで動かし、それにつれて輪も猛烈な勢いで回る。でも次の朝になっても、ハムスターがいるのは前と同じかごの中だ>

 現代の多くのサラリーマンは、このハムスターのような生き方を余儀なくされている。「定年」だけが彼を解放してくれるわけだが、しかし、それでも多くの人は死の間際までこの「かご」から抜け出ることはできないだろう。多くの人がこの「かご」の外に出ることに不安を覚え、そして少なからぬ人がかごの中で「過労死」するわけだ。

 どうしてそうなるのか。この悲劇を逃れるためには、キヨサキさんが言うように、私たちは「お金のために働く」のではなく、「学ぶために働く」ことを優先させるべきなのだろう。人間ハムスターにならないためには、ただがむしゃらに生きるのではなく、もうすこし賢く生きる術を身につけることが必要なわけだ。 


2006年07月05日(水) お金持ちお父さんの言葉

 ロバート・キヨサキの「金持ち父さん、貧乏父さん」(筑摩書房)によると、世の中には2つのルールがあるそうだ。金持ちが使っているルールと、残りの95パーセントの人が使っているもう一つのルールである。

 お金持ちでない人を、あえて貧乏人と呼ぼう。貧乏人のルールは、「学校に行って、しっかり勉強して、いい仕事につく」という、一見しごくまっとうなルールだ。しかし、このルールはいまの世界では多くの人を貧乏人にするだけだという。キヨサキさんはこう書く。

<彼らは会社の持ち主に利益をもたらすために働き、政府に税金を払うために働き、銀行にローンを返すために働き、クレジットカードでの買い物の支払いをするために働く。そして両親は子供に「一生懸命勉強していい成績をとって、安定した職業につきなさい」と言い聞かせる。こういう親たちはお金について一生学ばず、ただがむしゃらに働き続ける>

<いまの子供たちは時代遅れの教育システムの中で、将来けっして使うことのない知識を学び、もはや存在しない世界で生きるための準備をして何年もの時をむだに過ごしている。いま子供に「学校へ行っていい成績をとって安定した職業を見つけなさい」とアドバイスするのは非常に危険だ>

<すべてが急激に変化するいまの時代、私たち親は心を開き、新しい考え方、大胆な考え方をも受け入れていかなければならない。会社勤めをするよう子供を励ますことは、ろくな年金プランもないまま、自分のためよりもむしろ税金のために一生働くように勧めるのと同じことだ>

<学校ではお金について教えない。学校で教えるのは学問的知識、専門的な技術だけで「お金に関する実際的な技術」は教えない。学校で優秀な成績をとったはずの銀行員や医者、会計士たちが一生お金のことで苦労しなければならない理由の一部はここにある。国家も同じだ。国家が財政難に苦しんでいる理由の一部は、高い教育を受けたはずの政治家や政府の役人が、お金に関する訓練をまったく、あるいはほとんど受けないまま、財政上の決定を行っていることにある>

 それでは個人や国家がこうした悲惨な貧乏の「ラットレース」から抜け出すにはどうしたらよいか。キヨサキさんは「お金について学び、会計と投資に関する能力を高めること」だという。彼はこのことを「お金持ちお父さん」から学び、実践して成功を収めた。

 そこで彼の本の中から、お金持ちのお父さんのアドバイスの言葉をいくつか引用しよう。お金持ちになりたい人ばかりではなく、お金持ちがどんな考え方をしているか知りたい人にも、彼の言葉は役に立つだろう。

<金儲けの方法を教えてくれと言ったのは、きみたちがはじめてだよ。150人以上の従業員を使っているけれど、お金について私が知っていることを教えてくれと言ってきた人間はこれまで一人もいない。仕事と給料をくれとは言ってくるが、お金について教えてくれとはだれも言わないんだ。だから、ほとんどの人が人生の一番いい時間をお金のために働いて過ごす。自分がそのために働いているお金というものを本当に理解することもなくね>

<恐怖と欲望を大きくするのは無知だ。ある程度のお金を持った人の多くが、金持ちになればなるほどいっそう、それを失ったときの恐怖を強く感じるのはこのためだ。お金はニンジンなんだ。決して手に入らないまぼろしみたいなものなんだ。もし馬が自分の姿を遠くからながめることができれば、自分の置かれた立場がわかり、ニンジンを追いかけることが自分にとってためになるかどうか、考え直すかも知れない>

<お金があれば物を買うことができてしあわせになれるだろうと思いながらお金のために働き続ける、これも残酷なことだ。月末に請求書の支払いができるかどうか心配で真夜中に飛び起きるなんていうのは最悪だ。給料の額によって決められた人生なんて、本当の人生じゃない。仕事につけば安定した人生が送れるなどと考えるのは、自分自身をだましているのも同然だ>

<歴史を振りかえってみてもわかるが、偉大な文明は持てる者と持たざる者のあいだのギャップが大きくなりすぎたときに滅びている。アメリカもその道を突き進んでいるんだ。私たちは歴史から何も学ばず、「歴史は繰り返す」という言葉を自ら実証しようとしている。歴史の授業で年号や日付、人の名前ばかり覚えて、教訓を得ようとしないからこんな結果になるんだ>

 キヨサキさんが学んだお金持ちのお父さんは、「何かほしいものがあったら、まず与えなければだめだ」という考え方をしていたという。お金が足りなくなると教会や慈善事業に寄付をする。それが金持ちお父さんのやり方だった。キヨサキさんは最後の方でこう書いている。

<この本で読んだほかのことはみんな忘れたとしても、ぜったい忘れないでほしいことが一つある。それは、何かが足りないとか、何かが必要だと感じたときには、まず、それを与えることだ。そうすればあとになって、二倍にも三倍にもなって返ってくる。このことはお金、ほほえみ、愛情、友情などいろいろなことにあてはまる。

 出会った人たちが私にほほえみかけてこないと感じたときは、いつも私は自分からほほえみかけ、「ハロー」と声をかける。するとまた魔法のように、ほほえみを浮かべた人が私のまわりに突然増える。世界はあなたを映す鏡にすぎないというのは本当だ。私が「教えれば見返りがある」と言うのは、こういうわけなのだ。何かを学びたいという人に誠意を持って教えてあげるほど、あなたは多くを学ぶことができる>


2006年07月04日(火) 鏡の不思議な力

 三種の神器といえば、鏡と玉と刀だ。これが何を象徴するのか。鏡は「曇りのない明晰な知」であり、玉は「まろやかで美しいまことの情」であり、刀は「切れ味の鋭い断固とした強い意志」を示している。つまり、「知、情、意」の象徴ではないのかというのが私の考えだ。これは以前に日記に書いた。

 先日、ロバート・キヨサキの「金持ち父さん、貧乏父さん」(筑摩書房)を読んでいたら、刀と玉と鏡について、また違った解釈がしてあった。その部分を引用してみよう。

<刀は武器の力を象徴している。アメリカは武器のために毎年何百億ドルものお金をつぎこみ、それによって世界最強の軍事国家の地位を保っている。

 玉はお金の力を象徴している。「黄金律を忘れるな。黄金を持つものがルールを作る」という格言にはたしかに一理ある。

 鏡は己を知ることの力を象徴している。日本の古くからの言い伝えによれば、この「己を知る」ことこそが三つのうちで最も大きな力を持っている>

 刀は武力であり、玉は経済力、鏡は「己を知る力」だというのは、これはこれでなかなか説得力がある。戦争をする場合、大切なのは武力と経済力、それに「敵を知り、己を知ること」だろう。武力だけで勝とうすると、かっての軍国主義日本のように惨敗する。

 一番大切なのは、鏡に自らを写してみること、つまり「自らを知ること」である。古代の日本人は鏡を神のごとく尊重したが、それは鏡がもつこの大切な機能をよく理解していたからだろう。鏡を見ることで、私たちは原点に立ち戻り、「自分の心の声」に耳を傾けることができる。つまり鏡には内省を導く力がある。

 鏡が「知力」だというのは私と同じ解釈だが、刀が「武力」であり、玉が「お金の力」だというのは、キヨサキさんらしい解釈である。キヨサキさんはこれを父親に教わったという。たしかに、刀と玉を素直に解釈すれば、そういうことになる。

 国にとって大切なものは何か。一つは国を守るための「軍事力」だろう。それから国民を食べさせるための「経済力」が必要だ。しかし、これだけではその国は立派な国だとはいえない。「文化」がないからである。

 かって日本は「軍事大国」をめざした。戦争に負けてからは「経済大国」をめざした。しかし、これからの日本は「文化」を尊重し、育て上げることに力を注いではどうだろう。そうすれば日本は世界から尊敬される文化国家になれる。「鏡」を神として祀ったかっての日本人の叡智を、もう一度蘇らせたいものだ。


2006年07月03日(月) 時計草の思い出

 7月の今頃の季節になると思い出すのが「時計草」(パッションフラワー)である。これを毎年HPの表紙の写真に使っている。セルジオ越前さんによると、「パッションフラワーの葉を煎じたハーブティーは高血圧を抑える効果があるそうで、ドイツでは300年以上飲まれているようです」とのこと。この花については、2002年07月02日(火) の日記に書いた。引用しよう。

−−−−−− 時計草の思い出 −−−−−−

 前に住んでいた名古屋市名東区西里町の家に、時計草が咲いていた。妻が近所のNさんの庭に咲いているのを見つけて、もらってきたものだ。蔓で伸びる植物で、名前の通り花が時計の文字盤と針のように見える。

 ブラジル原産で、南アメリカを旅行中のスペインの宣教師たちが発見して、世界に広めたらしい。英名はパッション・フラワー(キリストの受難)という。雄しべの花柱がキリストで,副花冠が後光だという。がくと花弁が10人の使徒、巻きひげと葉が迫害者のむちだそうだ。これでは何だか重苦しくてかなわない。私は時計草という和名の方が好きだ。

 妻は3本もらってきて差した。その中の1本が根付いて、みるまにブロックの垣を覆うほどになった。野生の植物なので、生命力が旺盛なのだろう。毎年今頃から咲き始め、8月の半ば過ぎまで次々と花を着けていた。面白い花なので、人に会うときには切り花を持っていって、自慢したものだ。

 一宮市の家に移ったのは、平成2年の3月末日のことだった。引っ越しの忙しさにかまけて、時計草を持ってこなかった。私たちが十年間ほど過ごした西里町の借家は今も残っているが、時計草は新しい住人によってきれいに取り払われてしまったらしい。

 時計草を貰ったNさん夫婦も今は亡き人になった。Nさんの家は私たちがよく娘を連れて出かけた公園のそばにあり、私も立ち寄って、池の鯉や庭の花々を見せて貰ったものだ。主のいなくなった家の庭では、今も時計草がひっそりと咲いているのだろうか。

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 先日、昔の住処を訪れた。紫陽花はそのまま残っていたが、残念ながら「時計草」はどこにも見当たらなかった。Nさんの家も訪れたが、時計草は見当たらなかった。


2006年07月02日(日) 紫陽花が好き

 少し前から、散歩道のあちこちに紫陽花が咲いている。球状のアジサイはセイヨウアジサイで、これは日本原産のガクアジサイを西洋で改良した品種だという。ウエブ百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」には、こう書かれている。

<「あじさい」の名は「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」が訛ったものと言われる。また漢字表記に用いられる「紫陽花」は、唐の詩人白居易が別の花に名付けたもので、平安時代の学者源順がこの漢字をあてはめたことから誤って広まったと言われている>

 私はセイヨウアジサイも好きだが、ガクアジサイの清楚な爽やかさも好きだ。それにしてもいったいどうしてガクアジサイからセイヨウアジサイが生まれのか、その形状があまりに違うので不思議である。

 紫陽花で思い出すのは、故郷・福井市の足羽山である。戦後、市民の手でここに何万株という紫陽花が植えられた。私が中学生の頃にはすでに足羽山は桜に加えて、紫陽花の名所になっていた。私も故郷にいたころは、よくこの山を散歩したものだ。

 それから、大学時代、間借りしていた寺の境内や墓地に紫陽花が咲いていた。あるとき、絵心が動いて、水彩画に挑戦してみたが、あまりうまく描けなかった。自分に画才がないのを自覚させてくれたのもこの花である。

 紫陽花の八重咲く如くやつ代にを
 いませわが背子見つつ思はむ(しのはむ)

 万葉集にはこの橘諸兄の歌(巻20 4448)の他に、もう一首だけ大伴家持の歌(巻四 773)がある。平安時代になると紫陽花は貴族に好まれ、和歌にも盛んに詠まれたようだ。彼らが愛でた紫陽花は、もちろん日本古来のガクアジサイだろう。

 紫陽花の花言葉は「強い愛情、一家団欒、家族の結びつき」だという。花弁があつまり、さらに花々が寄り添って咲くありさまは、仲睦まじい家庭を想わせなくもない。他に「移り気な心」という意味もある。

 紫陽花に蜻蛉や蝶も雨宿り   裕

(参考サイト) 
http://ja.wikipedia.org/wiki/a?¢a?,a?μa??


2006年07月01日(土) 雨の音

 今日の目覚めは3時だった。床に就いたのが昨夜の11時だったから、睡眠時間は4時間だ。もう少し寝ていたかった。せめてあと1時間は睡眠が欲しい。大急ぎで日記を書いて、もう一度床に就こうか。

 目が覚めたとき、激しい雨音がしていた。雨音で目が覚めたのかも知れない。あるいは、尿意を覚えたせいだろうか。ともかく床を抜け出して、トイレに行った。そのときはまだ頭がぼんやりしていたのだが、台所へ行き、水道水をコップに一杯飲んだ。いつもの習性である。

 水を体に流し込むと、意識がしっかりした。細胞が目覚めた。日照りで草臥れていた植物が、体の隅々にまで水分を行き渡らせて、生き返ったような気分である。こうなると、床についてももう眠れない。

 冷蔵庫を開けると、昨日次女が私に買ってきてくれた和菓子が入っていた。部屋に帰り、パソコンを立ち上げながら、これを平らげた。そうしたら、さらに元気が湧いてきた。まず、メールのチェックをする。

 毎日200通以上届くメールの9割がアダルト系である。「みだらな人妻の下半身」とか、それらしい題名がついているものばかりではない。「ご無沙汰しています」という題のメールも、読んでみると出合い系サイトへの招待だったりする。

 友人からのメールも削除することがある。「どうも、届かなかったようなので、もう一度送ります」という内容のメールが来たりする。もちろん以前のものも届いているのだが、私が誤って削除したわけだ。こういうことが時々起こる。

 メールを削除したあと、日記を書き始める。日記を書くのも習慣で、以前は市販の日記帳に書いていた。その昔は大学ノートに書いていた。今はこうしてパソコンでウエブに書いている。ウエブ日記(ブログ)を書き始めて、やがて7年になる。

 文章を書くのは好きだった。これが高じて、一時は同人誌に小説を書いていたが、最近はめったに書かない。かわりに日記の文章が長くなった。これを簡潔にして新聞に投稿する。この7年間に掲載された投稿文は約50本である。毎日新聞や岐阜新聞にも投稿したが、ほとんどは朝日新聞の「声」の欄だ。

 「声」に掲載されると、3000円分の小切手が送られてきた。これを年末にまとめてユニセフやペシャワールの会に寄付していた。しかし、最近は3000円分の図書カードである。自分で本を買ったり、大学生の次女にやったりする。

 一昨日、演劇部の生徒が図書室で本を捜していた。学校祭で発表する劇の台本を書くのに必要な本があいにく置いてなかった。新聞社から送られてきた図書カードが私の財布に入っていたので、「これで買ってきなさい」と渡した。なかなかいいタイミングでカードが役に立った。

 書いていたら、雨の音がやんでいる。日記の題を「雨の音」としたが、あまり関係のない話になった。題を変えるのも面倒なので、最後に俳句でごまかすとしよう。

 ステテコで暑さしのげり雨の音   裕


橋本裕 |MAILHomePage

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