橋本裕の日記
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2006年03月31日(金) コロンブスのルーツ

 今年はコロンブス(?〜1506)の没後500年だという。彼は地球が丸いことを信じ、スペインのイサベル女王の支援のもと、1492年の夏から翌年の春にかけて、3隻の舟で航海に乗りだし、現サンサルバドル島に上陸し、キューバ、エスパニョラ島を経てポルトガルに帰国した。

 93年の秋からは植民を目的に17隻、1500人の大船団でエスパニョラ島に乗り込み、キューバ南岸からジャマイカまで勢力を拡大した。さらにその後も、2度に渡り植民のための航海をし、ベネズエラや南米にも赴いた。本人は死ぬまでアジアに到達したのだと信じていたようだ。

 コロンブスは北イタリアのジェノバ生まれだというのが通説だが、実際はその出自はよくわからないらしい。昨日の朝日新聞の記事「コロンブスの出自に迫る」のなかで、バルセロナ自治大学のエルナンデス教授はこう述べている。

<史料ではジェノバ説が優勢だが、本人が出自を隠そうとした形跡がある。死後には航海日誌が改竄されたり、偏見に満ちた伝記が出たりし、人物像が定まらない一因になった。その評価も時代背景により、栄光の冒険家から、植民の先兵まで振幅が大きい>

 スペイン国立グラナダ大学の遺伝鑑定研究所が、このコロンブス出自の謎に迫るべく、彼のDNAを分析している。コロンブスはスペイン北部で病死し、南セビリアの大聖堂に埋葬された。同じ聖堂に彼の息子も埋葬されているので、彼らの骨から染色体を取りだし、Y染色体を分析することで、彼らが親子であることを確認した上、これをコロンブスのY染色体として同定したのだという。

 さらに研究所は、バルセロナ、バレンシア、マジョルカ島、南仏ペルピニャン、ジェノバなど、地中海西部でコロンブスの姓をもつ男性のY染色体をあつめた。すでに500人以上の協力者が得られているという。

 DNAの分析結果が発表されるのは5月末だという。結果によっては、コロンブスがジェノバ生まれだという通説が覆るかも知れない。なぜコロンブスが自分の出自を隠そうとしたのか、その謎も解いてほしいものだ。


2006年03月30日(木) 北陸の旅

 昨日は青春18切符で、福井へ行って来た。木曽川駅を7:44に出て、途中、大垣、米原、敦賀で乗り換えて、福井に着いたのは11時頃だった。さっそく足羽川の桜並木の堤を散歩した。

 足羽川の桜並木は有名だが、残念ながらまだ桜は蕾である。しかし満開の桜を何度も見ているので、その美しいさまを想像しながら歩いた。一昨日までの春の陽気が後退し、風の冷たい曇り模様の寒い一日だったが、歩いているうちに温かくなった。

 1時間ほど歩いてから、ヨーロッパ軒に入った。ここのソースカツ丼がうまい。敦賀に行くときもそうだが、福井に帰省したら必ずここで食べることにしている。福井のこの店が本店で、私が生まれる前からカツ丼を作っている。何しろ創業は明治時代で、カツ丼を発明したのはこの店だという。

 母は女学校を卒業したあと、この近くの商事会社で働いていた。私の自伝には銀行と書いたが、それはまちがいで商事会社だそうだ。名前は忘れたが、繊維関係の取引を専門にしていたようだ。

 店にお客さんが来ると、ヨーロッパ軒へ電話で出前を頼んだ。客が残した料理をみんなで分けて食べたこともあったという。残業があると、会社は従業員にもヨーロッパ軒のカツ丼を出してくれる。これが楽しみで残業と聞くとうれしくなったという。

 私が子どもの頃も、ヨーロッパ軒のカツ丼は滅多に口にはいらなかった。1969年に私が大学に合格して金沢に行くとき、同級生のS君が私に「お昼をご馳走するよ」というので、迷わずヨーロッパ軒でカツ丼をおごってもらった。食べた後、S君に送ってもらい、金沢に旅立った記憶がある。ヨーロッパ軒でカツ丼を食べながら、そんなことも思い出した。

 その店を出た後、途中で洋菓子屋により、ケーキを12個ほど買った。母と弟夫婦、それに子どもが4人だから大家族だ。私の分を加え、子どもたちには2個ずつと計算して、12個になった。

 母には行くことを報せていない。報せるといろいろと買い物をしたりして大変である。そこで不意打ちをくらわせるわけだ。母の驚いた顔も見てみたい。ただ、母はC型肝炎なので病院に通っている。留守が心配だった。

 玄関を開けて、「こんにちは」と大声を上げると、「はい、どちらさまでしょうか」と母が出てきた。私を見ても気付かない。「僕だよ」と念を押すと、「あら、なに、あなたなの」とやっと私に気付いて顔をほころばせた。最近視力が落ちたのだという。

 居間で母と二人の甥が食事の最中だった。上の二人の男の子たちはアルバイトに出かけているらしい。弟夫婦は共稼ぎだから、二人とも家にいない。電気ごたつに足を入れて、母と半年ぶりにゆっくり向かい合った。

「泊まって行くんでしょう。ゆっくりして行ってね」
「いや、明日朝から学校があるからね。3時にここをでるよ」
「そんなに早く? たまにはゆっくりしていけたらいいのに」

 気になっていたのは、一番上の甥のことだった。大学受験の結果を知りたかった。合格した場合にそなえ、一応2万円ほど包んできた。私の娘たちもそうだが、弟夫婦も子供たちに私学へ行くことは許していない。国公立以外はお金がかかるので無理なわけだ。母の表情から結果が思わしくなかったことは想像がついた。

「それが、一次も二次もダメだったのよ」
「浪人するのか」
「まだ決めてはいないようよ。やはり私学へも、予備校へも行かせないって言うの」

 それから母の話を2時間ほど聞いた。家を出るとき妻に「お母さんの愚痴をしっかり聞いてきてあげなさいね」と言われている。確かに今の私には愚痴を聞くことくらいしか親孝行の方法がない。

 肝炎という不治の病気を持ち、週2回注射に通いながら、75歳になってもいまだに4人の男の子の孫を育てている母は、心も体も休まるときがない。一番下がまだ小学校の2年生である。とびきりやんちゃな子なので、手が焼けるようだ。

 その子が私の目の前で、インスタントのカップ麺を食べていた。たしか、去年の春に来たときも、この子は同じものをお昼に食べていたような記憶がある。これで食生活は大丈夫かと心配になったが、母も精一杯なのだろう。

 4人の甥のために1万円ほど小遣いを置いて、私は3時過ぎに家をあとにした。本当は母にも小遣いを渡したかったのだが、その余力は私にはない。来年次女が大学を卒業して社会人になれば、そのときは多少は金銭的に母を助けることができるのではないかと思った。

 福井発3時46分の電車に乗った。途中、武生を過ぎた辺りから、車窓の外が吹雪になった。今庄はもうすっかり雪の中だった。樹木の白いのが、満開の花のようにも見えた。北陸線の沿線の風景はいくら見ても飽きない。山里の淋しい風景がことのほか懐かしく、そして悲しく、私の心の琴線にふれてきた。


2006年03月29日(水) 「北の国から」を見て思う

 職場の友人が、私が倉本聡さんのファンだと知って、DVDや著書を大量に貸してくれた。ファンだと言っても、私の場合はこの数ヶ月の俄ファンである。去年の暮れに図書館でたまたま「北の国から」のビデオを見つけて、はじめの2巻(6話まで)を借りだした。

 妻の浮気を知り、父親は離婚を決意する。そして二人の子供を連れて、東京から生まれ故郷の北海道の富良野に帰ってくる。壊れた家を修復し、そこで一家3人が電気も水道もない生活をはじめる。

 主人公の少年の名前は純で、彼は妹の蛍と一緒に近くの小学校の分校に通うことになる。二人の子供にとって、不便な田舎の暮らしは想像を絶する厳しいものだ。とくに都会派の純はこの環境の変化に馴染めない。そして東京の母親のものと帰りたいという思いを募らせる。

 物語はこうして始まった。先が見たくて、何度か図書館に足を運んだが、貸し出し中のことが多かった。こんど職場の友人が貸してくれたDVDは「北の国から」のシリーズがすべてそろっている。これはありがたい。

 ドラマを見ながら、私は主人公の少年に自分を重ねていた。彼の気持ちがよくわかるのだ。私も父の連れられて山に入った。山の中で下草を刈ったり、植林をした。そのせいで、楽しいはずの日曜日が苦しい重労働の日になった。私はどれほど山仕事を憎み、父親を憎んだことだろう。

 しかし、今振り返ってみて、中学、高校と続いた山仕事はなつかしい思い出になっている。仕事を終えて飲んだ山の清水のうまさ、ほおばった握り飯のうまさ、そして何よりも汗ばんだ肌を吹き抜けている山の風のひんやりとした心地よさ。

 私は山仕事のおかげで、友人と映画を見に行くこともできず、彼女もできず、おまけに勉強さえもできず、そのせいで高校入試にも失敗したと思い込んでいた。こうした思いこみが完全に間違いだということが、このドラマをみるとわかる。倉本聡さんは「北の国より」について、こう書いている。

<文明は人間がエネルギーを消費しないで済む方向に進んでいます。例えばリモコンは、歩くエネルギーを惜しんだ結果の産物。しかも、それによって蓄積された余剰なエネルギーを消費すべく、今度はお金を払ってジムへ通い、何の生産性もない重い物を持ち上げたり、どこにも行き着かない自転車を漕ぐという本末転倒な世界に、人ははまりこんでいる。

「北の国から」はその対極にある、第一次生産者の世界。何かを生産するために必然的に体を動かし労働の苦しみを味わい、その中から喜びも悲しみも生まれる。

 都会の人間は首から上だけの思考のみで生きています。でも僕は、指の先から足の先まで、体すべてで生きている人間を描きたかった。詰め込まれた知識ばかりの人間と、生きる力としての知恵を持った人間と、どちらが人間として格が上なのかをね>(北の国からより)

 ドラマでは田中邦衛が不器用だが人間らしさがあふれる父親役をやっていた。私の父もまた不器用で、人情味のある人だった。山仕事のおかげで、私は英単語を覚え損ね、数学の問題を解き損ね、そして受験に失敗したかも知れないが、じつはもっと大切なことを体で学んでいのだ。この歳になると、そのことがよくわかる。

(参考サイト)
http://www.alived.com/time/north.html


2006年03月28日(火) 超初心株日誌(3)

 今年の1月に100万円の資金を妻から借りてネット株を始めた。やがて2ヶ月と少し経とうとしている。始めてすぐにライブドア事件が起こり、さい先の悪いスタートになった。昨日正午の時点での持ち株の損益は次の通りである。

ライブドア  −55900円
SBIホールディングス  −6400円
ヤマハ  13500円
スターバック  4100円
豊田合成  28500円
ヤクルト  21500円 

損益合計  4800円

 ライブドア事件以来、損益がずっとマイナスだったが、ここにきてようやく暗いトンネルを抜けることができた。SBIホールディングスはあいかわらずの低迷振りだが、豊田合成とヤクルトの株が着実に値を上げてくれた。これで助かっている。

 YUSENのおかげで、ライブドアの株価が120円まで持ち直した。これを機会に昨日売り注文を出して置いた。まだ確認してないが、成り行き注文にしておいたので、たぶんすべて売れているだろう。これでライブドアの損が確定する。あとはSBI株がもう少し持ち直すのを気長に待とうと思っている。

(参考)
 超初心株日誌(1) 1月22日の日記
 超初心株日誌(2) 2月14日の日記


2006年03月27日(月) イチローの闘争宣言

 WBCアジアラウンドを前にして、セブ島で知り合った韓国の友人から「イチロー選手は韓国でも人気ですよ」というメールを貰った。大リーグで黙々とプレーし、礼儀正しくストイックなスタイルが韓国でも「アジアの星」として好感をもたれていたらしい。

 しかし、試合を前にして2/21に福岡ドームで行われた公式記者会見で、イチローは「向こう30年間相手が手を出せないほどの勝ち方をする」と発言した。この発言は韓国でも報道され、イチローに対するブーイングになった。私もこの発言はイチローらしくないなと思った。

 作家の嵐山光三郎さんが週刊現代4/1号の連載コラム「者の言い方」のなかで、このイチローの発言に触れて、「アメリカの野球界で闘ってきたイチローはアメリカ人になっていたんですね」と書いている。イチロー選手の発言はきわめてアメリカ的だというのだ。少しだけ引用してみよう。

<これはイチロー選手だけの問題ではありません。アメリカ社会で成功したビジネスマンは、みな同じ傾向があります>

 イチロー選手の発言はアメリカ社会ではふつうかも知れないが、アジア社会では違和感があるのではないか。現に韓国では激しい反発が起こったし、こまめにメールをくれていた韓国の友人もその後、メールをくれなくなった。

 イチローの発言は日本でも話題になったが、「これでチームがひきしまった」「闘志がわいた」といった好意的なものも多かった。これはイチローだけではなく、日本人そのものがアメリカ的になってきたからだろうか。

 小林信彦さんが週刊文春3/30号の連載コラム「本音を申せば」で、最近の中国や韓国に対する発言をみると、日本人の品格がどんどん落ちてきているとしか思えないと書いている。これも引用しておこう。

<2006年にもなって「ドロボー中国」などというヒステリックな見出しを週刊誌で目にすると、一瞬、凍りつく。中国のやっていることの善悪ではなく、反応があまりに下品だからだ。戦時中でさえ、一部便乗ジャーナリズムは別として、こんな文字を活字にはしなかった。国家の品格とか品位とかいうことがいわれるが、小泉・竹中コンビが5年間でやったことは、日本の品位を「ぶっこわす」ことだけだった>

 福沢諭吉は近代西洋文明に学ぶことの重要性を説き、「脱亜入欧」というスローガンもここから生まれたが、同時に「私がこれまで説いてきたのは、ただ国民の心を上品にすることが目的です」(福翁自伝)とも語った。日本は韓国を下してWBCの初代のチャンピオンになったが、そのお祭り騒ぎの輪の中にあっても、私は韓国の友人のことを思わずにはいられなかった。


2006年03月26日(日) 借金と資産

 財務省の発表によると、国債、借入金、政府短期証券をあわせた国の借金が、05年度末に800兆円をこえたそうだ。この他、政府が保証した特殊法人の借入金が55兆円以上あるらしい。これらの額がふくらみ続けているという。

 もっとも国は金融資産も持っている。内閣府が発表した「国際経済計算」から推定すると、2003年末の総額は480兆円ほどではないかという。その内訳は社会保障基金が254兆円、内外投融資が136兆円、外貨準備が90兆円ということになる。

 菊池英博さんは「増税が日本を破壊する」(ダイヤモンド社)のなかで、「財務省はいつも祖債務だけを公表して、危機を煽っているのではないかと思われる」と書いている。たしかに昨日の新聞報道を見ても、政府の保有する金融資産についてはまるで触れてはいない。菊池さんはこうも書いている。

<政府がGDPに相当するほどの金融資産を保有しているのは、日本だけである。ここに日本の財政の特徴があり、純債務(借金−金融資産)でみない限り、日本の財政事情を的確に把握することはできない>

 じつは、国は金融資産を保有しているだけではない。公有地や公共施設、道路や橋、通信施設などの公共インフラといった巨大な資産も保有している。これらの資産価値がどのくらいになるのか、これも発表されていないが、お金に換算すれば何千百兆円にものぼるはずである。国の財務状況は借金だけではなく、そうした資産も考えなければならない。

 たとえば、年収500万円の家計にたとえれば、800万円の住宅ローンを抱えているが、銀行預金や株の金融資産が480万円ほどあれば、純借金は320万円である。しかも、手元には「住宅」という不動産がある。この資産価値が1000万円だとしたらどうだろうか。すべてを清算しても、まだ680万円ほどの財産があるわけだ。

 国の財務状況を考えるとき、財務省は借金ばかりを問題にするが、ほんとうは資産まで考えなければならない。これと反対なのが、家計の財務である。昨日の報道によると、個人金融資産の合計は05年末にとうとう1500兆円を超えたという。しかし、個人金融債務については触れられていない。じつのところ住宅ローンや消費者ローンの合計は380兆円ほどあるようだ。

 なお、昨日の朝日新聞は国の「借金831兆円」という見出しの記事と並べて、「民間法人借金839兆円」という見出しの記事も載せている。前年度に比べて、8兆円ほどふえているが、朝日新聞は民間企業の借金については好意的にこう書いている。

<バブルの後処理にめどをつけ、前向きな経営に乗りだしていることが借金の面からも裏付けられた。金融機関からの借り入れは、04年には11.1兆円のマイナスで返済が上回っていたが、05年には2.3兆円のプラスに転じた。民間企業が設備投資などのため新規借り入れを増やしたとみられる>

 非金融法人企業の金融資産残高も03年の734兆円が04年には758兆円になっている。05年にはさらに増加しているにちがいない。民間企業もまた負債と同時に巨大な資産を持っているに違いないのだが、このことは余り知られていない。しかし、正確な統計が存在せず、報道もされないからといって、資産が存在しないということではない。


2006年03月25日(土) 高山線の旅

 昨日、青春18切符を使って、高山まで行ってきた。6:36に木曽川駅をたち、途中岐阜で乗り換えて、高山に着いたのが10:09だった。片道3時間半ののんびりとした鉄道の旅だった。

 春らしいおだやかな日和で、車窓から見える風景がすばらしかった。鉄道は木曽川に沿って走っている。各駅停車の鈍行だから、小さな駅にも止まり、鄙びた駅舎に日差しが当たっているのを見ていると、恍惚とした思いに襲われる。地元の人々が乗り降りするが、それらの人々とも一期一会だと思うと出会いが楽しい。

 沿線の風景はすばらしい。山あり谷ありで見ていてあきない。ときには山の中を走る。遠くの山に雪が残っていたが、里には梅が咲いている。木曽川の渓谷は雪解けの豊かな水で満たされ、それが空の蒼を映している。そして春の日差しがまぶしい。

 高山線にはじめて乗ったのは、30年以上昔のことだ。当時金沢大学の学生だった私は春先に福井へ帰省するとき、富山から高山、岐阜へ回ることを考えついた。朝はやく金沢を出て、福井に着いたのは何と夜になっていた。しかし、このとき見た高山線の沿線の風景は、想像以上に美しかった。

 高山という町は嫌いではないが、若狭小浜ほどの魅力や愛着は感じない。だから高山への旅は、むしろ沿線の風景を楽しむ旅である。風景を眺めながら、いろいろと感じたり考えたりする。それは文学的な空想を楽しむひとときであり、哲学的な思索と瞑想に心をゆだねる時間でもある。

 空想や瞑想に飽きたら、持参した本を読む。昨日持参したのは、水田洋先生の「アダム・スミス」(講談社学術文庫)だった。名古屋大学名誉教授の水田先生とは同人誌「象」でご一緒させていただいたが、そのせいか本を読みながら、ときどき先生のことを思い出した。著者の顔を思い浮かべ、その声を思いだしながらの読書はまたひときわ楽しい。

 それにしても、この本は名著である。水田先生はアダム・スミス研究では国際的に有名な学者だが、社会問題にも積極的に発言する市民運動家だ。その語り口はとても平易で、私のような専門外の人間にもよくわかる。しかも内容が深い。アダム・スミスを論じながら、その射程ははるか現代から未来まで見据えている。まさに名著といっていいのではないか。

 そんなことを考え、また外の景色を眺めて陶然としているうちに、いつか高山に着いていた。帰りの列車が14:48だったから、4時間半以上時間がある。高山の町を歩き、飛騨牛の串焼きやみたらし団子を食べた。それから道端のベンチに腰を下ろして、「アダム・スミス」の続きを読んだ。

 日差しは春爛漫だが、さすが高山はまだ気温が低い。しばらくは寒さも忘れ読書に没頭していたが、やがて寒さに気付いて立ち上がり、また古い家並みの中を歩きまわった。喫茶店でも入ろうかと思ったが、この辺りの店はどこも観光客目当てだから高そうである。

 少し時間が早かったが、高山駅にもどり、その隣の喫茶店に入った。350円のホットコーヒを注文し、そこで1時間以上ねばった。というか、夢中で本を読んでいて、気がついたらもう出発の時間になっていた。


2006年03月24日(金) 適正な労働環境の実現を

 トヨタをはじめとする輸出産業や銀行などの金融業を中心に、いま産業界は未曾有の利益をあげている。トヨタの2005年度の純利益は1兆3千億円、これについで利益を上げているのは、東京三菱UFJの1兆1700億円である。バブル最盛期を上回る利益である。

 これまで銀行には47兆円の公的資金がつぎ込まれている。これにくわえて、ゼロ金利政策が続いてきた。日銀の試算によると、91年(金利6パーセント)の基準が2004年まで続いた場合にくらべ、預金者が失った金利収入は300兆円を超えるという。政府の低金利政策のお陰で銀行は助かった。その分預金者がわりを見たわけだ。

 景気の回復にともない、銀行は貸し倒れ引当金が不要になったという。これによって7千億円以上の戻り益があった。銀行は賃金を上げたり、株の配当金を増やすらしいが、注入された公的資金をまだ返済していない。これをまずは国庫に返すべきだろう。

 大企業の業績が回復したのは、中国を中心とするアジア圏の経済が好調なことが大きいが、企業が合理化を進めてきたことも大きい。この過程で多くの従業員が職を失い、転職を余儀なくされた。その多くは非正規社員になった。こうしたことから、家計の収入が毎年マイナスを記録した。

 アメリカは国民所得の50パーセントを上位1パーセントの人が占めているが、かっては社会主義国なみの平等を実現していた日本でも、所得格差はどんどん拡がりつつある。この10年間で年収2000万円以上の上流層の人が30パーセントも増えて20万人を越えている

 その一方で、年収200万円以下の下流層の人が24パーセントも増えて、ついに1000万人を越えた。生活保護を受けている人も100万人を超えた。非正規社員の割合を見ると、95年には5人に1人の割合だったのが、05年には3人に1人と10年間で急増している。とくにこの5年間の変化が大きい。

 慶応大学教授の金子勝さんは、2/27日に放送されたNHK番組「ホットモーニング」のなかで、「格差があったほうがいいという意見があるが、現在だけではなく将来のことを考える必要がある。このままではいずれ社会のシステムがもたなくなる。早く止めないと大変なことになる」と警告していた。

 好況に湧く大企業では、トヨタが組合の賃上げ要求に満額回答するなど、なかなか景気がよい。しかし、中小の企業は苦しいところが多い。大手の正規労働者は組合に守られていても、非正規労働者の多くは組合員ではなく、劣悪な労働環境で働くことを余儀なくされている。

 組合はたんに自分たちの賃上げばかりを要求するのではなく、非正規労働者の待遇改善にも意を配るべきだろう。自分たちだけよければよいという了見では、組合活動はやがて尻すぼみになり、消滅するしかない。もっと広範な労働者の支持が得られるよう努力してほしい。

 組合が生き残る道は「広範な労働者との連帯」しかない。そのためには、パート労働者への正規労働者並の賃金支給や労災をはじめとする社会保険制度の適用を求めるべきだ。賃上げばかりではなく、こうした社会的不平等を是正する方向で、適正な労働環境の実現を求めるべきだ。これからの労働組合はこうした社会のニーズに答えていかなければならない。


2006年03月23日(木) 労働選択主義のすすめ

 来年度から「教員評価制度」が全国的に試行されることになり、我が職場でも校長がパンフレットを配って説明した。まず、教員各自が自分で目標を立て、年度終わりにその年の達成度をA,B,Cで自己判定する。

 それを受けて教頭や校長が面接をし、最終的にA,B,C,Dの評価を下し、県教委に報告するわけだ。将来的にはこの評価によって、給与に格差を付けていく。いわゆる「成果主義」の教育現場への導入が始まるわけだ。

 私はこうした制度は、教育現場なじまないのではないかと考えている。「何のために、誰が誰を、どうした基準で評価するのか」がよくわからない。一番大切な職場の和が破壊され、ゴマスリと足の引っ張り合いが横行し、殺伐として非教育的、非効率的な職場が生まれることだろう。生徒のためにも社会のためにもならない。

 といって、私は現在のような年功序列の賃金体系がよいとは思わない。仕事の内容によって賃金格差があるのは認めるべきだし、また、適正な「評価システム」はあったほうがよい。そこで、これらの条件に配慮した橋本私案なるものを、ここに公開しょう。

 まず、私の案では、給与格差をつけるために、上司が部下を評価するというシステムはとらない。なぜなら、この場合は結局上司に協力的かどうかということが評価の基準になるからだ。上司に協力的なことが、本当に生徒のためになるのか、よりよい教育の実践になるのか、大変疑問である。むしろ逆の場合が大きいと思う。

 それでは何によって給料に差を付けるのかといえば、年功序列ではなしに、基本的には「労働実績」によって給料をかえていけばよい。教員の場合は授業時間数によって給料をかえるわけだ。週10時間授業を持つ人もいれば、週20時間の人もいてかまわない。給料がたくさん欲しければ、たくさんのコマ数の授業をとればいい。

 さらに担任や分掌の仕事には授業時間にして2〜6時間分くらいの手当をつける。たとえば、担任は4時間、教務主任5時間といった案配である。基本給10万円、授業1時間1万円として、たとえばAさんの場合で計算すると、次のようになる。

基本給・・・・・10万円
授業手当・・・1万円×14時間=14万円
担任手当・・・4万円
分掌手当・・・2万円
その他(扶養家族手当、通勤費など)・・・8万円
合計給与・・・38万円

 授業を主体にするか、担任でがんばるか、分掌の仕事に生きがいを見いだすか、それぞれ自分の得意な分野でがんばればよい。健康状態や、家族の状態、そして収入と相談して決めればよいわけだ。

 もちろん、これを調整するのは管理職の仕事だ。個人的に希望をきき、案を作って全体にはかり、さらに再度、若しくは再再度調節しなければならないが、その過程で、前年度の評価や実績を加味していけばよい。

 この場合の評価は基本的には下から上に向けて行われる。教員の場合は、授業についての評価は生徒がする。担任についての評価は、該当クラスの生徒がする。主任についての評価は分掌の構成員で行う。この結果を管理職は個人的に本人に知らせ、教師はこれを参考にして次年度の希望を提出し、管理職はこれをもとに案をつくるわけだ。

 もちろん、個人の希望が全面的に満たされることはむつかしい。個々人は職場全体のことを考え、良識にのっとって妥協すべき所は妥協しなければならない。しかし、こうした過程をとおして、より深く自分や職場について考えるようになり、教育者としての自覚や連帯も生まれるのではないかと思っている。

 こうした賃金制度を私は労働選択主義と呼ぼうと思っている。「選択主義」は成果主義には違いないが、労働者を支配し、競争にかりたてるものではない。むしろ労働者の意思を尊重し、その生活を保障するものだ。これなら若者もやる気がおこるだろうし、中高年もたすかり、職場の和が破壊されることもないだろう。


2006年03月22日(水) 見れど飽かぬかも

 昨日は青春18切符を使って、若狭小浜へ行ってきた。小浜には小学生の頃、2年半ほど暮らしただけだが、私はこの小さな港町がことの他気に入っている。川のほとりにある城跡にのぼると、港が一望できる。河口にウミネコが群れていた。繁殖期なのだろうか、さかんに羽ばたきをして鳴いていた。

 若狭なる小浜の町に今日もきて
 港の小舟見れど飽かぬかも

 町を歩いていると、古い家並みや倉が目につく。路地裏には私の少年時代とかわらないゆったりした時間の流れが感じられて、それだけでもうやさしい気分になる。「見れど飽かぬかも」と思わず歌いたくなった。

 私はデジカメを持参していた。撮りたい景色がたくさんあった。しかし、小雨まじりのあいにくの天気で、今回は撮るのをやめた。どうせ撮るのなら、最高の写真を撮りたい。いずれ写真集として、このHPにも載せたいと思っている。

 小浜へ来たときには海岸道路に面した「ごえん」という店で昼食をとることにしている。ちなみに昨日食べた「お造り定食」は1050円で、刺身の盛り合わせと、焼き魚、わらびの小鉢、たくあん、味噌汁である。刺身も甘えび、いくら、マグロ、いか、ぶり、タコと豪勢でおいしい。

「ごえん」を出て、海岸道路にそって10分も歩くと、市場(若狭フィッシャーマンズ・ワーフ)にくる。そこの二階に「海幸苑」という日本料理のレストラン・喫茶があり、ここでも刺身など新鮮な魚介類の食事が手頃な値段で楽しめる。私はまだこちらで食べたことはないが、一度ためしてみたいと思っている。

http://wakasa-fishermans.com/contents/ryori.html

 3時半の電車に乗って帰路についた。来るときとは反対側の山よりの風景が見える座席に腰を降ろした。そこのろから薄日が差し始め、早春の山里の景色が美しかった。ちょうど梅が盛りのようで、農家の庭先や畑に白やピンクの花がほんのりと咲いていた。

 青春18切符の旅は、途中、電車の中で読書をするのも楽しみだ。昨日はグレッグ・パラストの「金で買えるアメリカ民主主義」(角川文庫)を読んだ。アメリカ民主主義の実態が赤裸々に描かれていて、とても興味深い内容の本だった。いずれ日記で紹介したい。


2006年03月21日(火) ダーク・エンジェル

 先日、久しぶりにビデオレンタルへ行って、DVDを借りた。5本で1週間1000円だというので、「ダーク・エンジェル」のDVDを5巻借りた。これを見たいと思ったのは、友人のtenseiさんがHPで紹介していたからだ。3/8、3/9、3/13の「tensei塵語」を引用させていただく。

<全42話のドラマである。昨夜第1話だけを見て、今夜第5話まで見た。第1話は通常の2倍の長さだったらしく、通常は1話完結45分進行である。しかし、完結する1話も、決して単純な1本道ではないようだ。

 ドラマの時代は2010年代の、かなり近い未来らしい。遺伝子操作で戦士として実験的に生み出され訓練を受けた少年少女たちが脱走し、その中で生き延びた娘マックスが主人公である。DNA研究所の訓練士だったライデッガーはマックスたちを追い続けている。マックスは、身を隠しつつもかつての仲間の消息を懸命に求めている。マックスの前に、反政府運動を展開するサイバー・ジャーナリスト、ローガンが現れ、マックスは仲間の情報をローガンに頼る代わりに、ローガンと共に人助けと悪者退治をする。

 そのマックスの手法が、行きあたりばったり的ながら、実に鮮やかである。別のタイプのドラマだが、計算され尽くした「スパイ大作戦」と同等の爽快感がある。会話は軽妙洒脱、次の台詞が楽しみになるほど気が利いている。話の展開も、回を重ねるごとに充実してきているし、主役のマックス役のジェシカ・アルバも、最初は品のない表情を見せるのでそれほど気に入らなかったが、その多彩な魅力に嵌り始めている。

 普通の人間とは異なる生い立ちゆえに、平凡な一庶民として生活したい、しかし、嘗ての同僚や、自分を救ってくれた人のことは忘れられない。冷めた目で世を眺めながら、辛い人を放ってはおけない。実に複雑な心情を抱え込みながら生きているヒロインなのである。このドラマについては、まだまだ何度も書きそうである>

http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=18221&pg=20060308

<夕食後はとにかくまず「ダーク・エンジェル」を見ないと気がすまない、という日課になってしまった。マックス役のジェシカも、可愛くてかっこいいエンジェルになってしまった。特に、第6話で雑誌記者を装ったときは、こんな美人だったのかと驚いた。その可愛くてかっこいいエンジェルが、大胆ながら余裕の闘いを展開するのだから、それはそれは魅力的なドラマなのである。

 割とリラックスして見ていられたのだが、きょうの第6・7話は緊張がかなり高まった。何しろ、ライデッガーと直面し、彼がいる場所での闘いだったのだから。。。しかし、マックスは余裕を失わない。ゴルゴ13のような、沈着冷静なゆとりとはちょっと違う。あだち充の漫画に漂う情緒のような、さらりとしたゆとりである。もちろん、友のために泣き、助けたい人のために懸命になる。自身の身体的欠陥や過去の思い出には苦しめられ続けている。しかし、大胆で強情な行動力にこめられた潔さが快いのだ。DVDの1枚1枚に、マックスの写真が1カットずつ印刷されているが、取り出して機械に入れる前にうっとりと見つめるようになってしまった(笑)>

http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=18221&pg=20060309

<第17話は、マックスのDNA研究所から脱走した仲間のひとり、ベンにまつわる物語だった。マックスが人助けに奔走して修羅場を生き延びているのに対し、ベンは殺人を繰り返している。研究所で訓練を受けていたときの、殺戮の快感が忘れられないのだと言う。

 ベンは〈異常〉で〈例外〉だろうか? よく考えてみれば、ベンの言うことにも理がある。殺人マシーンとして生み出され、訓練された彼らにとって、殺人は自己実現であり、アイデンティティーの確立と言えるかもしれない。それが彼らの生まれてきた目的であり、存在理由なのだから。。。

 しかし、脱走を企てたということはその存在理由を捨てたと言うことなのだ。だから、マックスは普通の人間として生きたがっている>

http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=18221&pg=20060313

 ふつうならレンタルでは借りないで、tenseiさんが貸してくれるのを気長に待っているのだが、この紹介文に誘われて、久しぶりにレンタルへ足を向けた。見始めるとたしかに面白くて、3日間ほどで見終えた。続きを見たかったが、出費を考えて、残りはtenseiさんが貸してくれるのを待つことにした。

 ところで、滅多にDVDなど借りたことがないので、「返す」という意識が稀薄だった。一昨夜、ふと気がついて期限をみると、もう2日も延滞している。急いでレンタルショップに駆けつけたが、延滞料金が3千円である。こんなくらいなら、続きを借りておけばよかった。(涙)


2006年03月20日(月) 人間の品格

 私が愛読している「阿川佐和子のこの人に会いたい」(週刊文春3/10号)のタイトルを見て驚いた。「中国が生意気なことを言ったら、張り倒さないといけない」という物騒なものだったからだ。

 対談者はお茶の水女子大学教授で数学者の藤原正彦さん。ベストセラー「国家の品格」の著者といったほうがわかりやすいだろう。対談から藤原語録をいくつか拾ってみよう。

<私は右翼でも左翼でもないから「侵略」は「侵略」なんです。昭和になってからの軍部の傲慢は大いに反省が必要です。ただもう百も千も謝ってますから、いまだにペコペコするのはとんでもない。中国が生意気なことを言ったら、張り倒さないといけない。さもないと、永久に土下座することになる>

<日本人は世界でも最も穏やかで謙遜な国民ですから、荒野だった満州に大金をつぎこみ近代化したなどと大声で言わないのです>

<産業革命の元にあるのは科学技術。その元にあるのは論理・合理。従ってこの二世紀の間は論理・合理が世界を支配しちゃったんです。とこころが今、世界の先進国はみな同じ悩みを抱えている。社会の荒廃とか少年少女の非行とか。子どもたちの本離れ、理数離れがある>

<今、小学校で独創性とか創造性を育むなんて余計なことをしていますけど、そんなことより美しいものに感動すればよい。美的感受性は日本人の十八番ですし、独創性のすべてなんですから。文章においても、数学でも科学でも。家庭と学校で美的情緒を教えることが大事>

<親も先生も自分が正しいと思っている価値観は、自分の子どもだろうと、他人の子どもだろうと押しつける。説明は不用です。正しいと信ずる価値を叩き込むことが家庭にできる最もすばらしい国家への貢献になりますね>

 藤原正彦さんの主張には共感できる部分もある。しかし、「美的情緒」を強調するあまり「論理」や「合理」を否定し、「反知主義」に傾きすぎている。ざっくばらんなところはいいとしても、内容はいささか調和と深みに欠け、矛盾や辻褄の合わないところがあって、とても品格があって美しいとはいえない。

 しかし彼の20年以上前の著作「若き数学者のアメリカ」は大変面白く、東大の数学科に行った教え子にも推薦したことがある。その頃藤原さんはアメリカ礼賛だった。その後、ケンブリッジに留学してからイギリスにかぶれ、今は完全に日本中心の情緒主義に回帰している。

 彼の考え方に独創性があるわけではなく、日本が生んだ天才的数学者であった岡潔さんの二番煎じだ。岡潔さんについては私は大変評価し尊敬している。ニセモノにだまされないために、「人間の中心は情緒だ」と言い切る、本家本元の文章の凄さを少しだけ味わってみよう。

<私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た>(春宵十話)

<何よりいけないことは、欠点を探して否定することをもって批判と呼び、見る自分と見られる自分がまだ一つになっている子供たちにこの批判をさせることである。こうすれば邪智の目でしかものを見られなくなり、本当の学習能力はなくなってしまうのである。こましゃくれたクラス活動、グルーブ活動もいっさいいけない。そんなひまがあれば放任して、遊びに没入させるに越したことはない>(春宵十話)

<欧米の数学者は年をとるといい研究はできないというけれども、私はもともと情操型の人間だから、老年になればかえっていいものが書けそうに思える。欧米にも若いうちはインスピレーション型でも、年をとるにつれて境地が深まっていくという型の学者はいるが、それをはっきりとは自覚していないようである>(春宵十話)

<いかに小さくても麦は麦、いかに大きくても雑草は雑草であるような、そういうものが見たい。しかしもっというのなら、本当の調和は午後の日差しが深々としていて、名状しがたいようなもののことなのだ。

 このことがわからずに、芸術はなく、平和というものもわかるはずがない。日本では戦争をしないことを平和だと思っているが、そんなことはかたちだけのことで、内容がない。調和のあるものこそが平和なのである>(紫の火花)

 岡潔さんの文章はあくまで論理的でありながら、そこに深い情緒を湛えている。その視線は澄んでいて、物事の本質にしっかり届いている。岡さんならまちがっても、「張り倒す」などという品性のない発言はしないし、もとよりそうした発想もしないだろう。私の見るところ、藤原正彦さんは岡潔の不肖の息子といったところだ。

(参考サイト)
http://www.kumin.ne.jp/njma/eee/d-170.html


2006年03月19日(日) 「波あふれる」を読む

 昨日は、名古屋市中川区石場町にある「味処 こたに」というところで、知人たちと5人で会食した。小説を書いている稲垣友美さんと、やはり小説を書いているKさん、それに出版社の2人と金山駅で待ち合わせ、タクシーに分乗して、「五女子」(ごにょし)というバス停まで行った。店はそこから歩いて3分である。

 この店には10年ほど前にも友人ときたことがある。同人誌「作家」を主宰してみえた小谷剛先生が15年前に亡くなられたが、そのあと奥さんの小谷比紗子さんが始められた小料理屋である。店に入ると、「あら、久しぶり」と、すっかりママさんぶりが板についた比紗子さんが笑顔で迎えてくれた。

 しばらくして、一人娘のさくらちゃんも姿を見せた。さくらちゃんは私の長女とおなじ歳の23歳だが、すでに結婚して幼い子どもがいる。ご主人と二人でデザイナーの仕事をしているという。時々店にきて母親を手伝うそうだ。彼女の登場でまたひとつ花が咲いたように店の中が明るくなった。

 小谷先生もダンディな美男子だったが、さくらちゃんは母親似の顔立ちで、これがまたすこぶる美人だった。「小さい頃、みんなで吉野へ泊まりがけで桜を見に行ったよね、覚えているかい」と訊いてみたが、笑顔で「そんなことありました?」という返事だった。

 ふだん、滅多に飲まない私が、生ビールのジョッキをあけ、そのあとは日本酒の熱燗の杯を重ねた。出てくる料理がどれもおいしかった。店は大勢の客で賑わっていたが、比紗子さんやさくらちゃんも、ときどき私たちの輪の中にはいり、思い出話がつきなかった。

 もともとこの会は、稲垣友美さんの2冊目の小説「波あふれる」(アルス出版)を祝う内輪のあつまりだった。稲垣さんは「作家」で私の先輩格の同人だった人である。名古屋市芸術奨励賞を受賞し、そのときの賞金で最初の小説集「永い刻」を出版したのがもう20年前だ。その頃は私も毎月のように小説を書き、「作家」に発表していた。稲垣さんとは歳が近かったが、私にとっては遠いあこがれの存在だった。

 酒を飲みながら、もちろん小説の話もした。「波あふれる」には5篇の中・短編小説が収められてをり、どれも粒ぞろいだった。私が面白かったのは「波あふれる」で、最初の出だしがタイのバンコク空港だったので、ちょうど去年の今頃家族旅行で行ったタイを思いだし、一気に小説の中に入った。

<黙って一輝はたばこを吸っている。千歌子は消えていく煙を追いながら、昨夜の一輝を吟味する。一輝の肉体は半年ぶりの出会いではなかった。女性に不足はしていないと、一輝の体が偽りなく語っていた。だからといって、千歌子は哀しむこともない>

 稲垣さんはディテールの描写がうまい。何でもない日常の出来事でも、彼女の筆にかかると生き生きとしてくる。どこか夢のような、おとぎばなしのようなふくらみや遊びがありながら、しかも生理に根ざしたというしかない濃密なリアリティがしっかり存在する。

 たとえば路上生活者を描いた「浩一の場所」など、その典型だろう。これを読むと、まるで自分が路上生活をしているような気分になり、残飯をあさり、寒風の中をダンポールに包まれ、酩酊して眠っているような気分になる。しかも、空疎な観念や感傷が入り込む余地がないほど文章は緻密であり、どこにも逃げ場は用意されていない。甘美な放浪生活に憧れる私にとって、これはちょっと堪らない小説だ。

「恋をしたい、人を愛したい、信頼する存在を見つけたい、普通に抱く夢が現実の中で不本意に少しずつずれていく。−−人間関係に潜む危うさ、生きることの鈍い傷みが愛おしいほどに伝わってくる、渾身の傑作小説」

 この帯の言葉に偽りはないが、稲垣さんの「あとがき」の「どの作品も、ふっと目を閉じた時にうつる影のしずくを、ことばにかえてみた。日常の異空間に拡大鏡を当ててみたり、反対に縮小してみたりするうちに、見えてくるものがある。それをつかみとり、膨らませていくのは身を削る思いだが、味わい深くもある」という言葉もまた素敵である。

 小説集の最後を飾っている「秋千」という作品にも、何でもない主婦の日常に、ここまで陰翳や質感を与えることが出来るのかと感心させられた。「秋千」というタイトルも印象的だが、これは中国語でブランコのことであり、チィウチィエンと発音するのだそうだ。作品はこんなふうに終わっている。

<小さな虫が繭をまとって、一匹ごとに風に揺れているのは、美音子の汗が宙に浮かんで、ブランコをこいでいるようにも見えるのだ。日に輝くとそれは銀色のブランコになって、いっせいに揺れた。音美子は「秋千」「銀白秋千(銀白色のブランコ)」とつぶやきながら、いつまでも庭にたたずんでいた>

 稲垣友美さんの文体はいささかも感傷に流れることはなく、どこか醒めたようにリアルなのだが、現実の稲垣さんはとても情が深くて涙もろい人だ。昨日も「こうして小説を出版できるのも、小谷剛先生のおかげ」と、久紗子さんと一緒に頬に涙を流していた。おかげて私ももらい泣きしそうになった。

(参考)
小説集「波あふれる」の問い合わせは、「アルス出版」までお願いします。

〒466−0849
名古屋市昭和区南分町2−6


2006年03月18日(土) 哲学的日本を建設すべし

 昭和6年9月に勃発した柳条溝事件は関東軍の全くの謀略だったが、ここから満州事変が始まり、日本は戦争の泥沼へと引き込まれていく。こうした時代の潮流のなかで大新聞が転向し、良心的知識人は沈黙したが、石橋湛山は果敢に抵抗した。

 中国大陸への出兵に対しては、「帝国主義の出遅れであって、引っ込みのつかぬ夜明けの幽霊と一般だ。幽霊に手引きを頼む程危険なことはない」と警鐘をならし続けた。その言論がいかに正鵠を得たものであったか、歴史が実証している。まさに、福沢諭吉が明治の言論界の巨人だとしたら、石橋湛山は昭和の言論界を代表する巨人だと言ってもよい。

 それではなぜ、石橋湛山はこの困難な時代にあって誤らなかったのだろう。それは彼の言論がたんなる時事評論というものではなかったからである。彼の言論の根底には彼の人生観や世界観があった。一口に言えば、哲学があった。

 彼は「東洋経済新報」の明治45年5月号の「国家と宗教および文芸」のなかで、「人が国家を形づくり国民として団結するのは、人類として、個人として、人間として生きるためである。決して国民として生きるためでも何でもない」と述べ、「国家主義」や「専制主義」を否定し、個人主義、自由主義に根ざした民主主義の重要性を強調した。

 そして、彼は単に言論だけではなく、1919年(大正8年)3月1日に行われた「普通選挙法成立を求める日本最初の1万人合法的デモでも、副指揮者として先頭に立った。彼はだだの理想家ではなく、また夢想家でもなかった。当時のだれよりも経済的合理性を重んじる現実主義者だった。

 世の中に威勢の良いだけの理想論や空理空論はいくらもある。しかし、湛山の根底にあるのは、自主独立の精神に立脚した強固な現実主義である。「東洋経済新報」(明治45年6月号)の「哲学的日本を建設すべし」という社論から引用しよう。

<実に我が国今日の人心に深く食い入っておる病弊は、世人がしばしば言う如く、そが利己的になったことでも、打算的になったことでも、ないし不義不善に陥っておることでもない。吾輩はむしろ今日の我が国には、余りに利他的の人多く、余りに非打算的の人多く、余りに義人善人の多いことに苦しみこそすれ、決してこれらのものが少ないとは思わない。

 しからば吾輩の認めて以て我が国民の通弊となす処のものは何か。曰く、今述べたる利己に付けても利他に付けてもその他何に付けても「浅薄弱小」ということである。(略)

 善人ではあり、義人ではあるが、ただ不幸にして彼らの自己なるものが軽薄弱小であるのである。その自己が軽薄弱小であるが故に、彼らは他に気兼ね苦労し、馴れ合いに事を遂げんとし、意気地なき繰り言を繰り返しておるのである。而して断々乎として自己を主張し、自己の権利を要求することができないのである。

 しかしながらここに問題となってくることは、しからば我が現代の人の心は何故にかくの如く浅薄弱小、確信なく、力なきに至ったかということである。吾輩はこれに対して直ちにこう答える。曰く、哲学がないからである。言い換えれば自己の立場についての徹底せる智見が彼らに掛けておるが故であると。(略)>

 あたかも彼らのなせる処は、下手の碁打ちが一小局部にのみその注意を奪われて、全局に眼を配ることができず、いたずらに奔命に疲れて、ついには時局を収拾すべからざるに至らしむるようなものである。吾輩は切に我が国の国民に勧告する。卿らは宜しくまず哲学を持てよ。自己の立場に対する徹底的智見を立てよ。而してこの徹底的智見を以て一切の問題に対する覚悟をせよと。即ち言を換えてこれをいうならば、哲学的日本を建設せよというのである>

 やや力みが感じられるが、これは湛山28歳のときの文章である。湛山は東条英機と同年の生まれだが、軍隊のエリートコースを歩いた東条とは対照的な人生を歩んでいる。湛山はのちに身延山久遠寺法主になる宗教家を父に持ち、11歳で僧籍に入った。他家で修行をつみ、中学校を7年かけて卒業した。

 そして一高に2度受験して失敗し、早大の哲学科に学んだ。早大に進学した彼は「徹底せる個人主義、自由主義思想家」と彼が墓碑銘に記すことになる田中玉堂という偉大な師に出会う。おそらく湛山がこうした道草をせず、一高に合格し、東京帝国大学を卒業していたら、彼は言論界の巨人とはならず、まったく違った人生を歩んでいたのではないだろうか。

 軍国主義、専制主義、国家主義の横行する時代にあって、朝日、毎日といった多くの新聞や言論界が転向する中で、石橋湛山は逆境をものともせず、自由主義、個人主義の立場を崩さず、経済、政治、文化、あらゆる方面で正論を吐き続けた。その炯眼と精神力はじつに恐るべきものだ。


2006年03月17日(金) 柳条溝事件の真相

 昭和6年9月18日、奉天北部の柳条糊付近で満鉄の線路が爆破された。爆破したのは河本中尉と部下6名だった。翌19日、石原参謀はこれを支那兵のせいにして、「こんな暴戻がどこにある。群がる蠅は払わねばならない」と集まった新聞記者に語った。

 こうした謀略があることを、新聞記者たちは知っていた。その証拠に、朝日、毎日、電通、連合などは奉天に十名以上の特派員を派遣していた。つまり事が起こるのをいまや遅しと待っていたわけだ。そして起こった後は、関東軍の発表をそのまま事実として国民に流した。

 中には事件の真相を知って馬鹿らしくなり、社命を待たず日本に帰った大阪毎日新聞の野中重成のような記者もいたが、多くの記者は謀略と知りながら、軍の発表を鵜呑みにして、「支那軍の謀略」と報告した。しかもその手際があざやかだった。

 朝日の場合でいうと、社の飛行機を動員して京城に飛ばし、19日夜に奉天特派員の撮った写真を20日に京城で受け取り、空路広島へ。さらに飛行機を乗り継いで大阪へ、そこから東京に電送して、20日の午後には日支衝突の号外が街を駆け抜けていた。

 一方で奉天の林総領事は19日未明に、本国の幣原外相に第一報で「事件は全く軍部の計画的行動に出たものと想像せらるる」と知らせた。外相からことの真相を知らされた若槻首相は直ちに閣議を召集して、南陸相を問いつめた。

「はたして原因は、支那兵がレールを破壊し、これを防御せんとした守備にたいして攻撃してきたから起こったのであるか。すなわち正当防衛であるか。もし然らずして、日本軍の陰謀的行為としたならば、わが国の世界における立場をどうするか」

 南陸相は閣議で孤立し、「即刻、関東軍司令官にたいして、この事件を拡大せぬよう訓令する」という首相の発言で、陸軍は一転して窮地に立った。ところが、ここに強力な援軍があらわれた。

<機を誤らざりし迅速なる措置に対し、満腔の謝意を表する。わが出先の軍隊の欧州をもってむしろ支那のためにも大いなる教訓であると信じる>(9月20日、毎日社説)

<事件はきわめて簡単明瞭である。暴戻なる支那側軍隊の一部が、満鉄線路のぶち壊しをやったから、日本軍が敢然として起ち、自衛権を発動させたというまでである。事件は右のごとくはなはだ簡明であり、従ってその非が支那側にあることは、少しも疑いの余地がないのである。日本の重大なる満蒙権益が侵犯され、踏みにじられるとき、いかに日本が使命を賭しても、強くこれが防衛に当たるかという、厳粛無比の事実、不幸にしてそのときがついにきた>(9月20日、朝日社説)

 若槻内閣はそれでも陸軍に「不拡大方針」を示し、公式声明を控えた。しかし、新聞の攻勢はさらにエスカレートして行った。朝日はしびれを切らして、24日の社説で「いずれの国家も自己防衛上緊急切迫のとき、他国の権利を侵害することあるも、それは国際法の許すところである」と、しきりに政府に軍の行動を容認せよと迫った。

 軍閥に加え、マスコミが笛を吹き、国民世論が沸騰する中で、ついに9月24日、若槻内閣は関東軍の行動を自衛のためであり、軍事占領ではないとする公式見解を内外に発表した。これにたいして、翌25日の朝日新聞は「声明遅延の結果は事情に無知識なる外国新聞紙をして無用の憶測をたくましくせしめた」として、「当局の怠慢」を責め立てた。

「朝日新聞70年小史」(1957年)には「昭和6年以前と以後の朝日新聞は木に竹をついだような矛盾が往々感じれるであろうが、柳条溝の爆発で一挙に準戦体制に入るとともに、新聞紙はすべて沈黙を余儀なくされた」と書かれている。

 これに対して半藤一利さんは「戦う石橋湛山」(東洋経済)で、「沈黙を余儀なくされたのではなく、積極的に笛を吹き太鼓を叩いたのである」と書いている。まさにそのとおりである。そして大新聞が吹く進軍喇叭と太鼓に、多くの国民が踊ったのだった。

 戦後このことを新聞はかくした。軍が横暴だったのでやむをえなかったと嘘をついたのである。戦時中さんざん嘘をついたので、嘘をつく習性が身にしみついてしまったのだろう。そしてこの調子の良い嘘に踊っていた国民も又、このあらたな嘘に騙されることにした。そのほうが都合が良かったからである。


2006年03月16日(木) 雇用不安に怯える軍人

 私たちは戦前の職業軍人はいつも人気者だったと思いがちだが、実はそうでもなかった。とくに世論が軍縮に傾いていたあいだは軍人株は暴落していた。不人気の原因は給料が安かったこと、それからいつ首を切られるかもしれない不安定な職業だったからだ。

 給料が安いことについては、軍隊の中に「貧乏少尉のヤリクリ中尉のヤットコ大尉で百十四円、嫁ももらえん」という戯れ歌まであったという。1931年(昭和6年)9月18日に勃発した柳条溝事件のとき外相を勤め、のちに首相になった幣原喜重郎は、「外交五十年」にこのころを振り返って、こう書いている。

<陸軍は、二箇師団が廃止になり、何千という将校がクビになった。将官もかなり罷めた。そのため士官などは大てい大佐止まりで、将官になる見込みはほとんどなくなった。そうすると軍人というものは情けない有様になって、いままで大手を振って歩いていたものが、電車の中でも席を譲ってくれない。若い娘を持つ親は、若い将校に嫁にやることを躊躇するようになる。つまり軍人の威勢が一ぺんに落ちてしまった>

 その上、朝日新聞はじめ多くの新聞や雑誌がしょちゅう軍部の批判をしていた。当時の新聞は戦時中の軍部賛美の紙面からは想像もできないほど無遠慮に政府や軍部を批判している。前に日記で石橋湛山の「大日本主義の幻想」を引用したが、このくらいのことは湛山でなくても、多くの新聞や雑誌が書いていたわけだ。

 たとえば昭和3年に軍部がしかけた張作霖爆殺事件を、新聞は「満州某重大事件」として冷ややかに報じた。事件の背景に日本軍の謀略があることを見抜き、軍部の扇動にはのらなかった。またその後におこなわれた数次の軍縮会議においても、朝日、毎日(東京日日)などの新聞はこぞって政府当局軍縮案を支持し、軍部の軍拡路線を批判していた。

<憲政の癌といわれる軍部の不相当なる権限に向かって、真摯なる戦いの開かれんことをわれらは切望する>(昭和5年5月15日、毎日新聞社説)

<政友会も、政党政治の立場からは、民政党ともにこの機会に年来の懸案であり、わが立憲制度のがんである、この問題の解決をなすべきではないか>(昭和5年5月1日、朝日新聞社説)

 不景気の中で人々は軍事費の削減を望んでいた。軍閥を「癌」にたとえる新聞の論調に、世論は同調した。これに意を強くして、石橋湛山も昭和6年7月4日の東洋経済社説に「軍閥と血戦の覚悟」と題してこう書いた。

<この時勢は若槻首相の立場を有利にしているとはいえ、もちろんいささかも油断はならなぬ。軍閥の厳として存することは今なお昨日のごとくである。若槻首相は今回の軍縮会議においても、軍閥が若槻男爵の信ずる国策に従順ならざる場合は、断然進退を賭して血戦せられんことを切望する。世論は必ず沸騰して若槻首相を支援するに違いない>

 しかし、この湛山の期待はすぐに裏切られた。翌年昭和6年9月に勃発した柳条溝事件をきっかけに、世論が軍拡容認へと180度かわってしまったからだ。軍部批判をしていた朝日新聞も軍部の行動を支持し、むしろこれに慎重な立場をとる政府を弱腰だと批判するありさまである。この世論とマスメディアの豹変はどうしたことだろう。

 背景の一つには、軍部の地道で巧妙なマスコミ工作があった。たとえば陸軍省はわざわざ新聞班を設けて宣伝をしていた。不買運動を組織して経営を圧迫する一方で、陸軍大臣が新聞の首脳部を官舎に招待したりして情を通じていた。また新聞社の方でも軍人を接待して経営の改善をはかろうとした。永井荷風は当時を振り返り、昭和7年2月11日の日記にこう書いている。

<去秋、満蒙事件世界の問題なりし時、東京朝日新聞社の報道に関して、先鞭を日々新聞(毎日新聞)つけられしを憤り、営業上の対抗策として軍国主義の鼓吹にはなはだ冷淡なる態度を示していたりしところ、陸軍省にては大いにこれを憎み、全国在郷軍人に命じて朝日新聞の購読を禁止し、また資本家と相い謀り同社の財源をおびやかしたり。

 これがため同社は陸軍部内の有力者を星ケ岡の旗亭に招飲して謝罪をなし、出征軍人慰問義捐金拾万円を寄付し、翌日より記事を一変して軍閥謳歌をなすに至りし事ありしという。この事もし真なりとせば言論の自由は存在せざるなり>

 昭和の不景気は産業界を直撃したが、軍部や新聞社をも苦境に陥れた。国民は最初、政府に緊縮財政をもとめ、これを押し進めた政府を支持したが、これに敢然と抵抗したのが軍閥だった。その表向きの理由は「軍縮は国を滅ぼす」ということだったが、失業と栄進のストップによる威信低下も大きかった。幣原喜重郎は、「外交五十年」にこうも書いている。

<今から遡って考えると、軍人に対する整理首切り、俸給の減額、それらに伴う不平不満が、直接の原因であったと私は思う>

 つまり、満州事変は軍部が組織防衛の必要から起こしたというのである。軍部の当時外相として軍部と交渉した当事者の言葉だから、おそらくこの辺りが真相ではないかと私も思っている。戦端が開かれるともはや軍縮は吹き飛んだ。軍人は生活の心配をしなくてよくなったし、新聞も飛ぶように売れた。そして国民は軍需景気に湧いた。半藤一利さんの「戦う石橋湛山」(東洋経済)から引用しよう。

<満州国ができることで国民経済もよりいっそう拡大されることを期待したからである。大恐慌時代に深刻化していた国民生活の不安と不満と息苦しさとが、事変で一挙に解決された。町工場がどんどん大きくなっていく。さらに希望的観測がうまれ、それが熱狂的な軍部支援となり、関東軍への全面的賛成へとなっていた>

 ただこうした国民的狂騒のなかにあって、湛山は冷静だった。この軍需景気が一時的なものであり、さらに戦争の実際がどんなに悲惨なものになるかを示して、この熱病を冷まそうと孤軍奮闘した。昭和6年12月5日の社説「出征兵士の待遇、官民深く責任を知れ」にこう書いている。

<我が政治家や軍部当局や、また一般国民が軍隊を駆りて難に赴かしむることをはなはだ容易に考え、裏面の悲惨事は忘れてただ戦勝の快報に喝采するごとき軽薄な感情に動かさるるならば、その結果は、国家の将来にとって実に恐るべきものあるを知らねばならぬ>

 しかし、こうした湛山の声はもはや国民には届かなかった。なぜなら、国民は戦線が拡大され、軍部の力で満州国ができることを期待したからだ。これによって、軍部が息を吹き返すが、自分たちの生活もまた改善されると期待したからだ。

 もちろん国民のこの期待はやがて裏切られた。湛山が予言したように、満州国はできたが国民生活は次第に悲惨なものになっていった。そしてただ職業軍人と新聞社ばかりが景気のいい時代がやってきた。


2006年03月15日(水) 戦後の石橋湛山

 石橋湛山(1884〜1973)は敗戦を東洋経済印刷工場が疎開していた秋田県横手町で迎えた。8月17日の日記にはこう書いている。

<考えてみるに、予は或意味に於いて、日本の真の発展の為に、米英等と共に日本内部の逆悪と戦っていたのであった。今回の敗戦が何等予に悲しみをもたらさざる所以である>

 湛山にとって敗戦は想定内の出来事であり、問題はこれからの日本をどうするかということだった。彼は言論活動だけではなく、政界に出ることを決意する。鳩山一郎が率いる自由党に入党し、第一次吉田内閣には蔵相として入閣した。

 彼は蔵相として財閥の解体に反対し、占領軍駐留費の削減をGHQに要求する。さらに対米一辺倒の考えをとらず、公然とGHQの政策をも批判する石橋湛山は、米国にとってかなり煙たい存在だったようだ。

 1947年、彼が衆院議員に当選すると、すかさずGHQは彼を公職追放にした。これには湛山の国民的人気を警戒した吉田首相の意向もあったのではないかとされている。

 1951年追放解除になった湛山は吉田茂との抗争を開始する。そしてついに1954年鳩山内閣を実現する。2年後の1956年12月、鳩山首相引退のあとを受けて、彼はついに首相の座に着いた。そのときのプレスクラブでの演説を一部引用しよう。このとき湛山はじつに72歳だった。(湛山は宿敵東条英機と同じ年に生まれた)

<私は俗に向米一辺倒というがごとき、自主性なき態度をいかなる国に対しても取ることは絶対にしません。米国は最近の世界においては自由諸国のリーダーたる一にあります。また戦後わが国とは最も深い関係にある国です。従って私は米国に向け率直にわが国の要求をぶっつけ、わが国の主張に耳をかしてもらわなければならないと信じます。(略)

 米国以外の自由諸国、ソ連その他の諸国についても同様の方針で望みます。幸いにして諸君を通じて、私の意の存するところの諒解を、これら諸国に求めえられるなら感謝の極みです>(昭和32年1月25日)

 不幸にして病に倒れ、2ヶ月後には首相の座をしりぞいたが、その後健康が回復して評論活動を続けた。彼がとくに主張したのは、日中ソ平和同盟の締約であり、日本憲法の擁護だった。東洋経済新聞の昭和43年10月5月号に発表した「日本防衛論」は彼の遺言だといわれているが、その中に次の言葉がある。

<重ねていうが、わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりではなく、国を滅ぼす。したがって、そういう考え方を持った政治家に政治を託すわけにはいかない。政治家の諸君にのぞみたいのは、おのれ一身の利益よりも先に、党の利益を考えてもらいたい。党のことより国家国民の利益を優先して考えてもらいたいということです。

 人間だれでも、私利心をもっている。私はもっていないといったらウソになる、しかし、政治家の私利心が第一に追求するべきものは、財産や私生活の楽しみではない。国民の間にわき上がる信頼であり、名声である>

 最近、中国を敵視し、これをテコにして憲法をかえようとする論調が目立ってきた。こういう状況だからこそ、湛山の平和主義に注目したい。政治家も湛山の言葉に耳を傾けて欲しい。武力によってではなく、友愛によって近隣との平和を実現していきたいものだ。


2006年03月14日(火) 中国を敵視するなかれ

 石橋湛山を読んでいると、戦前・戦中に書かれた文章とは思えないほどリアリティがある。そのまま現代日本を批判する言葉として通用しそうだが、これはそれだけ現代の日本が戦前に近づいたということだ。

「週刊文春」(3/16号)によると、麻生太郎外相は昨年12月に訪米したとき、「日本も核武装する必要がある」と述べたらしい。これは国務省、国防総省でそれぞれ行われた会談で、チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防相に別個に述べたのだという。

<常任理事国は核兵器をもっている。インドやパキスタン、北朝鮮も持っている。中国や北朝鮮が安全保障上の脅威となるのであれば、日本も核武装すべきではないか>

 麻生外相は3月4日に金沢で行われた講演会でも、国と国とのつきあいを子どもの喧嘩にたとえて、こう語っている。

<やられないためにはどうするか。逃げるか闘うかですよ。他に方法はありません。学校は3年間行ったら卒業できるかもしれない。しかし、国となりゃ、お隣りさんはずっとお隣さんだ>

 麻生大臣には「お隣さんだから仲良くしよう」という発想はない。だから「逃げるか闘うか」の二者択一になる。ところで日本なりアメリカが核兵器で北朝鮮を攻撃したらどうなるのだろう。死の灰は日本にも降りかかってくる。つまり、日本もまた被爆するわけだ。日本が北朝鮮を核攻撃するとき、それは日本が自滅するときである。

 中国敵視の麻生外相がおなじくタカ派の安部官房長官とともに人気を競い、憲法改正を口にして次期首相の最有力候補になっているのが日本の現状である。彼らに限らず、中国を敵視する論調が目立ってきた。こうした傾向も戦前の状況とにている。湛山は昭和6年9月26日の東洋経済新報の社説にこう書いている。

<支那は、我が国にとって、最も古い修好国であり、かっては我が国の文化を開いてくれた先輩国でもある。時に両国の間に戦いの交えられたこともないではないが、それはすこぶる稀な事件であって、過去千数百年の日支の国交は類例少なき親睦の歴史を示した。

 而してこの親睦は、将来もまた永久に継続することが、両国の利益であり、必要であることは疑いない。しかるに最近十数年の両国の関係は、残念ながら大いに親善とはいい得ない。殊にこの二、三ケ月の状勢は、日本が中村大尉事件を騒げば、支那の首脳者は、日本の支那における陰謀を云々するという有様で、感情の疎隔はほとんど極端にまで達したかに見ゆる。而して奉天においてついに遺憾至極の不祥事まで爆発した。何故両国の国交は近年かように円満を欠くか。(略)

 戦いの要道は、敵を知り、我を知るにあるといわれる。これ平和の交際においても同様だ。しかるに我が国民の支那に対するや、彼を知らず、我をも知らず、ただ妄動しているのである。(略)

 即ち満蒙なくば我が国亡ぶというのである。もしそれが本当なら致し方はない。いかなる危険を冒しても、前に挙げたる第一の手段に訴え、支那を抑えて、満蒙を奪取する。こういう結論に導かるるであろう。活力ある国民は、座して死を待ち得ぬだろうからである。しかし記者の意見は、かねて右の人々とは全く違う。(略)

 満蒙はいうまでもなく、無償では我が国の欲する如くにはならぬ。少なくとも感情的に支那全国民を敵に廻し、引いて世界列強を敵に廻し、なお我が国はこの取引に利益があろうか。それは記者断じて逆なるを考える>

 結局日本は中国を敵視し、これを侵略して、欧米の列強を敵にまわし、300百万もの自国民と、2千万人ものアジアの人々に死をもたらしてしまった。こうした悲劇がどうして起こったのか、石橋湛山がいうように、それは国民が愚かだったからに他ならない。

 この愚かさを現代の私たちは笑うことができない。問題は私たちがこの教訓をどれほど学び、このアジア蔑視・敵視の「大日本主義の幻想」からどれほど抜け出しているかということだ。明日の日記で、戦後の石橋湛山の発言を拾ってみたい。


2006年03月13日(月) 幻想に生きなさい

 石橋湛山は大正10年に「大日本主義の幻想」を書いて、早い時期から日本の軍国主義に警鐘をならした。徹底した合理主義者で、彼の平和主義は戦時中もぶれることはなかった。戦後は総理大臣になったが、病に倒れて2ケ月で辞職し、彼の理想を実現できなかったことは残念である。

 札付きの平和主義者といえば、私の脳裏に浮かぶのはバートランド・ラッセルだ。彼はイギリスの第一次大戦参戦に反対し、投獄されている。彼もまた「大英敵国の幻想」を批判し続けた。「天才の秘密」から引用しよう。

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How to become a man of genius

If there are among my readers any young men or women who aspire to become leaders of thought in their generation, I hope they will avoid certain errors into which I fell in youth for want of good advice.

When I wished to form an opinion upon a subject, I used to study it, weigh the arguments on different sides, and attempt to reach a balanced conclusion. I have since discovered that this is not the way to do things. A man of genius knows it all without the need of study; his opinions are pontifical and depend for their persuasiveness upon literary style rather than argument. It is necessary to be one-sided, since this facilitates the vehemence that is considered a proof of strength. It is essential to appeal to prejudices and passions of which men have begun to feel ashamed and to do this in the name of some new ineffable ethic. It is well to decry the slow and pettifogging minds which require evidence in order to reach conclusions. Above all, whatever is most ancient should be dished up as the very latest thing.

There is no novelty in this recipe for genius; it was practised by Carlyle in the time of our grandfathers, and by Nietzsche in the time of our fathers, and it has been practised in our own time by D. H. Lawrence. Lawrence is considered by his disciples to have enunciated all sorts of new wisdom about the relations of men and women; in actual fact he has gone back to advocating the domination of the male which one associates with the cave dwellers. Woman exists, in his philosophy, only as something soft and fat to rest the hero when he returns from his labours. Civilised societies have been learning to see something more than this in women; Lawrence will have nothing of civilisation. He scours the world for what is ancient and dark and loves the traces of Aztec cruelty in Mexico. Young men, who had been learning to behave, naturally read him with delight and go round practising cave-man stuff so far as the usages of polite society will permit.

One of the most important elements of success in becoming a man of genius is to learn the art of denunciation. You must always denounce in such a way that your reader thinks that it is the other fellow who is being denounced and not himself; in that case he will be impressed by your noble scorn, whereas if he thinks that it is himself that you are denouncing, he will consider that you are guilty of ill-bred peevishness. Carlyle remarked: 'The population of England is twenty millions, mostly fools.' Everybody who read this considered himself one of the exceptions, and therefore enjoyed the remark. You must not denounce well-defined classes, such as persons with more than a certain income, inhabitants of a certain area, or believers in some definite creed; for if you do this, some readers will know that your invective is directed against them. You must denounce persons whose emotions are atrophied, persons whose perceptions are limited, persons to whom only plodding study can reveal the truth, for we all know that these are other people, and we shall therefore view with sympathy your powerful diagnosis of the evils of the age.

Ignore fact and reason, live entirely in the world of your own fantastic and myth-producing passions; do this whole-heartedly and with conviction, and you will become one of the prophets of your age.

(読者の中で、当代の思想的指導者になりたいという大望をもし抱いている若者がおられたら、適切なアドバイスがなかったために私が若い頃陥ったある種の過ちをさけることを希望する。

 ある事柄(主題)に関して自分の意見をまとめたいと思った時、私はいつも、それについて調査・研究し、種々の議論について各方面から比較考量し、そうすることによってバランスのとれた(妥当な)結論に到達しようと試みてきた。しかし私はその後、このやり方はあまり適切ではないことに気づいた。天才は調査・研究の必要なしに、その事柄を理解する。彼の見解は(教皇のように)威厳があり、その説得力は論証よりも文学的スタイルによっている。意見は一方的である必要がある。なぜなら、意見の一方性は、強さの証拠と考えられる'激しさ'を助長するからである。民衆が恥かしさを感じ始めた(彼らの)偏見ないし感情に訴えかけ、またそれをいくらか新しい、口では言えない倫理の名のもとに行なうことは、不可欠である。結論に到達するためには証拠が必要だと考える、頭が鈍く屁理屈を言う精神(知性)をけなすのもよい。とりわけ、なんであれ、最古のものを最新の物として並べ立てられなければならない。

 天才になるためのこの処方箋に、新奇性は全然ない。これは、われわれの祖父の時代にカーライル(1785〜1881)によって、我々の父親の時代にニーチェ(1844〜1900)によって、そして現代の我々の時代にD.H.ロレンス(1885〜1930)によって、実際に使われた手である。ロレンスは、彼の信奉者(崇拝者)によって、男女の諸関係についての、あらゆる種類の、新しい知恵を体系的に述べたと考えられているが、事実はその逆であり、彼は(石器時代の)穴居人と結びついているあの男性支配の擁護(唱道)へと立ちもどったのである。彼の哲学によれば、女性は、労働からもどった英雄(勇士)を休息させるための、ある種の柔かく肥えたものとしてのみ存在する。文明社会は、女性にそれ以上の価値を認めることを学習してきたが、ロレンスは文明の価値をいっさい認めないだろう。彼は、古来の、正体不明なものを探しもとめて世界を駈けめぐり、メキシコでアズテカ人の残虐性の名残りを(見て)慈しむ。行動することを学び続けてきた若者たちは、当然ながら彼の作品=小説など)を喜びをもって読み、この種の穴居人の真似を、上流社会の慣習が許す範囲で実践する。

 天才になる(である)ための秘訣の最重要要素の一つは、告発の技術の習得である。あなた方は必ず、この告発対象になっているのは自分でなくて他人であると読者が考えるような仕方で告発をしなければならない。そうすれば、読者はあなたの高貴な軽蔑に深く感銘するだろうが、告発の対象が他ならぬ自分自身だと感じたと同時に、彼はあなたを育ちの悪い偏屈な人間だと非難するだろう。

 カーライルは言った、「イギリスの人口は二千万、その大部分は馬鹿者。」この科白を読む者はだれでも皆、自分はその例外者の中の一人だと決めこんで面白がる。諸君はまた明確に定義されうる集団、たとえば年収いくら以上の人々とか、ある特定地域の居住者とか、ある特定の教義の信奉者等々を告発してはならない。つまりその場合には一部の読者は必ずや、諸君の悪罵が自分に向けられていることを知るだろう。諸君はその情緒が萎(な)えた人々、視野が限られた連中、こつこつ勉強してはじめて真理を知りうるタイプの人々を告発しなければならない。つまり我々は皆、この種の人々が自分以外の連中だと知って、安心して諸君による現代の悪弊の強力な告発に共感するわけである。

 あえて事実と理性を無視し、あなた方自身の幻想的で神がかった情念の世界の中だけに生きなさい。確信をもって大まじめにこれを実践しなさい。そうすれば、あなた方は間違いなく時代の預言者の一人になれるだろう。)

http://www005.upp.so-net.ne.jp/russell/GENIUS.HTM

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 実証的で論理的な科学的知性を重んじる理知の人ラッセルの、カーライルやニーチェやロレンスに対する批判は痛烈である。私はカーライルやニーチェやロレンスのあの断定的な預言者のような名文句に陶酔するほうなので、冷徹なラッセルの言葉を常にその解毒剤としてかみしめるようにしている。


2006年03月12日(日) 大日本主義の幻想

 戦没者の手記「きけわだつみの声」(岩波文庫)の巻頭にあるのが、陸軍特別攻撃隊員として、沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入戦死した上原良司(うえはら りょうじ、1922年9月27日 - 1945年5月11日。享年22歳)の「所感」という遺書である。

<愛する祖国日本をしてかつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました。真に日本を愛する者をして立たしめたなら 日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います。世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人これが私の夢見た理想でした。>

 彼は遺書の中に堂々と「人間の本性である自由を滅ぼすことは絶対に出来ない」と書き、「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です」と断言している。筋金入りの自由主義者で理性主義を信念として披瀝する上原良司さんのような知的エリートにとって、「天皇陛下万歳」は論外で、たとえ口に出してもタテマエの世界でしかなかったようだ。

 しかし、この遺書には「大英帝国のようになりたい」というの彼の本音が、「野望」という表現で正直に書かれている。そしてこの野望は彼だけのものではなく、当時の日本人の多くが共有した思いだったのだろう。

 つまり、当時のほとんどの人々は「大英帝国のようになりたい」という野望を持っていたのではないか。そしてこの野望が、軍部の独走を許し、日本に軍国主義をはびこらせ、侵略戦争へと日本を導いたのではないだろうか。

 当時多くのジャーナリズムがこの野望を掻き立てるなかで、石橋湛山はこうした日本帝国主義の野望を、「亡国へ導くものだ」と鋭く批判している。大正10年7月の東洋経済新報社の社説「大日本主義の幻想」から引用しよう。

<政治家も軍人も、新聞記者も異口同音に、我が軍備は決して他国を侵略する目的ではないという。勿論そうあらねばならぬはずである。我が輩もまたまさに、我が軍備は他国を侵略する目的で蓄えられておろうとは思わない。

 しかしながら我が輩の常にこの点において疑問とするのは、既に他国を侵略する目的がないとすれば、他国から侵略せらるる恐れのない限り、我が国は軍備を整うる必要のないはずだが、一体何国から我が国は侵略せらるる恐れがあるのかということである。(略)

 我が国が支那またはシベリアを自由にしようとする、米国がこれを妨げようとする。あるいは米国が支那またはシベリアに勢力を張ろうとする。我が国がこれをそうさせまいとする。ここに戦争が起これば、起こる。

 そしてその結果、我が海外領土や本土も、敵軍に襲われる危険が起こる。さればもし我が国にして支那またはシベリアを我が縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満州・台湾・朝鮮・樺太等も入用でないという態度に出づるならば、戦争は絶対に起こらない。従って我が国は他国から侵さるるということも決してない。

 論者は、これらの土地を我が領土とし、もしくは我が勢力範囲として置くことが、国防上必要だというが、実はこれらの土地をかくせんとすればこそ、国防の必要が起こるのである。それらは軍備を必要とする原因であって、軍備の必要から起こった結果ではない>

 湛山はこの日本帝国主義の「野望」の背景に経済問題があると考えている。その上で、「一体、海外へ、単に人間を多数送り、それで日本の経済問題、人口問題を解決しようなどということは、間違いである」と断言し、その理由について経済的な立場から精密に考察している。また、当時の世界の世論からも政治的にもこれが不可能であることを主張する。

<昔、英国等が、しきりに海外に領土を拡張した頃は、その被侵略地の住民に、まだ国民的独立心が覚めていなかった。だから比較的容易に、それらの土地を勝手にすることが出来たが、これからは、なかなかそうは行かぬ。

 世界の交通および通信機関が発達すると共に、いかなる僻遠の地へも文明の空気は侵入し、その住民に主張すべき権利を教ゆる。これ、インドや、アイルランドやの民情が、この頃むずかしくなって来た所以である。

 思うに今後は、いかなる国といえども、新たに異民族または異国民を併合し支配するが如きことは、とうてい出来ない相談なるは勿論、過去において併合したものも、漸次これを解放し、独立または自治を与うるほかないことになるであろう。(略)

 賢明なる策はただ、何らかの形で速やかに朝鮮・台湾を解放し、支那・露国に対して平和主義を取るにある。而して彼らの道徳的後援を得るにある。かくて初めて、我が国の経済は東洋の原料と市場を十二分に利用し得べく、かくて初めて我が国の国防は泰山の安き得るであろう。大日本主義に価値ありとするも、即ちまた、結論はここに落つるのである(略)

 朝鮮・台湾・満州という如き、わずかばかりの土地を棄つることにより広大なる支那の全土を我が友とし、進んで東洋の全体、否、世界の弱小国全体を我が道徳的支持者とすることは、いかばかりの利益であるか計り知れない。

 もしその時においてなお、米国が横暴であり、あるいは英国が驕慢であって、東洋の諸民族ないしは世界の弱小国民を虐げるが如きことあらば、我が国は宜しくその虐げられたるる者の盟主となって、英米をよう懲すべし。この場合においては、区々たる平時の軍備の如きは問題ではない。戦法の極意は人の和にある>

 これは大正10年に書かれた文章だが、領土拡大の「野望」ではなしに世界の平等と平和を願う「理想」こそが、日本を平和と繁栄に導くものだという主張を、湛山は終戦にいたるまでかえていない。いくつか引用しておこう。

<今日の我が政治の悩みは、決して軍人が政治に関与することではない。逆に政治が、軍人の関与を許すが如きものであることだ。黴菌が病気ではない。その繁殖を許す身体が病気だと知るべきだ>(昭和12年2月14日社論)

<ドイツ国民は、どうしてかかる悲惨な結末に陥ったか。その最も重大な責任が指導者に着せられなければならないことはいうまでもない。(略)

 しかしまた国民全般に責任の存することは免れない。彼らには憲法もあり、議会もあった。しかしそれを彼らは自ら運用せず、国家と国民との全運命を挙げてナチスの独裁に委した。ドイツ国民に数々の長所美点の存することは、世界の等しく認める所だが、遺憾ながら政治においては能力足らず、もしくは訓練不足であったといわねばならぬ。ナチス指導者にいかなる欠点ないし過失があったとしても、その災いは国民自身が求めてこれを招いたというも過言ではない>(昭和20年6月23日社論)

 ドイツを批判する言葉は、そのまま日本の軍部独裁への批判でもある。「その災いは国民自身が求めてこれを招いた」という言葉に、日本もおなじだ、という思いが透けて見える。これは軍部を「黴菌」と呼び、東条内閣の政策を「愚作中の愚作」(昭和19年8月5日)と罵倒してきた湛山だからこそ吐ける言葉だろう。

「真に日本を愛する者をして立たしめたなら日本は現在のごとき状態にはあるいは追い込まれなかったと思います」と書いた上原良司さんは、湛山を読んでいたのかもしれない。もっと多くの日本人が、「野望を棄てて、理想に生きよ」という湛山の声に耳を傾けていたら、日本の運命も変わっていたことだろう。

 そうすれば、早世した特攻隊員たちにも、ジャングルやツンドラで餓死した兵士たちにも、そして焼夷弾や原爆で死んだ多くの人たちにもまた別の人生があった。「世界どこにおいても肩で風を切って歩く」誇らしい日本人としての洋々たる未来がひらけていたに違いない。

(参考サイト・文献)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E8%89%AF%E5%8F%B8
「石橋湛山評論集」岩波文庫
「戦う石橋湛山」 半藤一利 東洋経済社


2006年03月11日(土) 海ゆかば

 私は軍隊が嫌い、戦争嫌いの人間だが、昔は戦争映画も見た。ある映画の中で、「海ゆかば」を聴いたとき、その心にしみる旋律に感動したものだ。今もこの曲は好きで、散歩しながらうたったりする。

 海ゆかば 水漬くかばね
 山ゆかば 草むすかばね
 大君の へにこそ死なめ
 かへりみはせじ

「海ゆかば」は、昭和12年10月、支那事変の拡大するなか、国民精神総動員運動の一貫として作られた。作曲者は東京音楽学校教授の信時潔である。昭和12年10月13日から、一週間、毎朝ラジオに「国民朝礼の時間」が設けられ、「君が代」とともに「海ゆかば」が流されたという。

 太平洋戦争開戦の昭和16年12月8日にも、「海ゆかば」は繰り返し演奏され、おおいに国民の戦意を高揚させた。大政翼賛会は「海ゆかば」を「君が代」に次ぐ 「国民の歌」に指定して、各種会合では必ず歌うようにと通達した。その時の朝日新聞にの見出しは、<「海ゆかば」 唱えよ一億 国民の歌を>だったという。

 こういう歴史を知りながら口ずさんでいると、なんとも悲しいい気持になってくる。そこで私は、「海ゆかば」の曲で、歌詞は万葉集の他の歌にかえてうたうことが多くなった。たとえば、大伴家持の抒情的な春の歌など「海ゆかば」のメロディによくあっている。

 春の野に かすみたなびき
 うらかなし この夕影に
 この夕影に 鶯なくも
 鶯なくも

 もののふの やそ乙女らが
 汲みまがう 寺井のうへの
 寺井のうへの かたがごの花
 かたかごの花

 うらうらと 照れる春日に
 雲雀あがり 心かなしも
 心かなしも 独りし思へば
 独りし思へば

 わが宿の いささむら竹
 吹く風の 音のかそけき
 音のかそけき この夕べかも
 この夕べかも

 このように繰り返しを入れれば、「海ゆかば」のメロディで唱うことができる。大伴家持の歌ばかりではなく、万葉集のすべての短歌はこの旋律に載せて唱うことができる。たとえば、次の歌もこの曲にあっている。

 信濃なる 千曲の川の
 さざれ石も 君し踏みてば
 君し踏みてば 玉と拾はむ
 玉と拾はむ

「海ゆかば」の旋律は、次のサイトで聴くことができる。この旋律にあわせて、万葉集の歌をうたってみてほしい。こころがゆたかに、そして美しく清められる。

 http://www.tetsusenkai.net/kokutai/umiyukaba.html


2006年03月10日(金) シラサギのいる散歩道

 ようやく朝の寒さもゆるんできて、散歩に気持ちのよい季節になった。私は雨の日も雪の日も毎日散歩にでかけるが、できることならうららかな日差しの中を歩くほうがたのしい。心がのびのびとして、自然に歌声が口をでる。よく唱うのがベートベンの「歓喜の歌」である。

 晴れたる青空 ただよう雲よ
 小鳥はうたえり 林に森に
 心はほがらか 喜びみちて
 見交わすわれらの 喜びの歌

 木曽川の橋の真ん中で、これを大声で唱うと気持がよい。遠く雪を頂いた御嶽山がある。まさに気宇壮大な気分だ。どんなに大声を出しても、橋の上だから迷惑にならない。木曽川に浮かんでいる無数のカモたちが迷惑そうなそぶりをするくらいだ。

 妻も毎日散歩している。私たち夫婦は原則は個人行動である。自分のペースで好きなように散歩をする。しかしときには一緒に出かける。私が妻にあわせて、あとをついていく。

 妻は毎日小魚を持って散歩に出る。用水の流れる田んぼでシラサギが一羽妻を待っている。その用水に妻が小魚を流すと、シラサギは流れてきた小魚を捕りに用水に飛び込む。そのようすがほほえましい。

 私たちはこのシラサギのことを「しろちゃん」と呼んでいる。シロちゃんの好物はワカサギである。どうりで、私の家の食卓に毎日にようにワカサギの天麩羅が出てくるわけだ。シロちゃんのあまりを、私たち夫婦が食べているのである。シロちゃんは必ず妻を待っているので、妻も毎日魚を持って家を出る。

 もとはこのシロちゃん、つがいだったらしい。ところが相手の一羽が突然いなくなった。近くの田んぼでシラサギが死んでいるのが見つかったので、それがシロちゃんのつれあいかもしれない。死んだ原因はよくわらないが、餌不足による餓死も考えられる。

 妻がシロちゃんに毎日餌をやるようになったのはそのころからである。シロちゃんの近くにカラスのクロちゃんたちが集まってくる。クロちゃんたちは水が怖いので、シロちゃんのように用水に飛び込めない。だから、シロちゃんがとった餌を横から奪おうとする。

 最近はカラスばかり増えて、シラサギの姿がめっきり減ってきた。シロちゃん、がんばれと思わず声援をおくりたくなる。わが家から愛犬リリオがいなくなり、うずらのハルちゃんもいなくなって淋しくなったが、いつのまにかまた扶養家族が一羽ふえた。


2006年03月09日(木) さなだ虫と人間

 もう二十年以上前になるが、私の教え子の生徒が突然学校を休むようになった。まじめな頭の良い、ちょっと可愛い女生徒だった。気になって担任の先生に訊いてみた。

「さなだ虫のせいですよ。排便のときそいつが肛門から出てきたそうです。ところがウンの悪いことに、途中でちぎれてしまったらしい」

 少女は自分の身体のなかにそんな気持ちの悪い生き物が棲んでいたことがショックだったようだ。しかも、ちぎれた半分が残ったままである。そいつの他にもまだ別のものが住んでいるかも知れない。そんなことを考えると、恐怖感が襲ってきてたまらなくなったのだという。

 私が子どもの頃は、虫下しをよく飲まされた。そうすると排便のときにカイチュウが出てきた。たしかに気持のいいものではない。まして、その何倍もあるサナダムシだったら、たまらないのではないだろうか。

 さいわい残りの部分も排出されて、少女はやがてショックから立ち直り、学校に出てきた。可憐な少女も今頃はもう四十路のたくましい中年女性になっているだろう。本人が読めば少し恥ずかしいような個人情報ではあるが、もう時効だと思って、ここに書いた。

 寄生虫学が専門の藤田紘一朗さんは、サナダムシを自分の体内で飼っているのだという。「キヨミちゃん」という名前までつけて、可愛がっているらしい。週刊現代3/4日号の「リレー読書日記」から、氏の文章を引用しよう。

<キヨミちゃんのお蔭で、私は花粉症にならないし、免疫が保たれて、風邪などひいたことがない。キヨミちゃんは私のお腹の中でしか卵が産めない。ネコのお腹の中にはいっても卵が産めないのだ。だからキヨミちゃんは、私を大切にしているわけだ>

<鳥インフルエンザを地球上から消滅させる、と語った学者がいるが、無理な話だ。なぜなら、鳥インフルエンザウイルスは、私たちが人類になる前からカモの中で子孫を増やしてきた。カモは大切にしてきたが、ニワトリや人間が近づくとひどいめに遭わせるのだ>

<ウイルスや細菌、寄生虫といった微生物は、このように縄張りがはっきりしている。つまり人間に棲んでいる微生物は人を大切にするが、動物を棲み家としている微生物は人を害するという訳だ>

 自然界の生物はこうした無数の微生物や寄生動物を体内に住まわせている。これによって自らの健康を維持し、ときには外敵ら身を守っている。私たち人類がこうした共生関係を破壊し、いたづらに清潔志向や開発至上主義に走れば、やがて自然は恐ろしいしっぺ返しをすることだろう。


2006年03月08日(水) BSEを蔓延させないために

 米農務省は2月17日、牛海綿状脳症(BSE)対策で除去が義務づけられている脳や背骨など「特定危険部位」の混入を防ぐための改善策について報告書をまとめ、日本政府に提出した。

 これに対し、農林水産省と厚生労働省はこれを不十分とみなし、3月6日、その原因と再発防止策について、米政府に追加の質問書を提出した。ずさんな管理で背骨を混入させた米国の2施設に米政府が日本向け輸出を認めた根拠や、米政府の検査官の研修態勢などについて問いただしている。

 米農務省が4月以降に実施する牛肉処理施設の抜き打ち審査の具体的な方法や、輸出証明を出す政府の検査官の研修・訓練の方法などを詳細に説明するように要求しているという。しかし、こうした日本政府の対応は私にはどうしても合点がいかない。

 その理由は、あくまでもアメリカ政府に頼ろうとしている点である。検査員を日本から派遣して、牛肉処理施設を常に監視できる体制をつくることが先決ではないだろうか。日本人の食の安全性を守るにはこれしかないと思われる。日本政府はこの点をまずなによりも強く要求すべきである。

 たとえばスイスはアメリカから牛肉を輸入しているが、検査官をアメリカに派遣している。そして食肉工場を指定し、その工場からしか輸入を認めていない。日本も牛肉処理施設を指定制にし、日本人の検査員を常駐させるべきである。多少コストはかかっても、国民の健康を第一に考えるならば、これは当然のことではないか。

 ところで、2/9日、北海道BSE対策本部は国内で22頭目のBSE感染牛に「肉骨粉」が供与されていたと発表した。BESの原因は「肉骨粉」が有力視されていたが、今回これを裏付けるような発表になっている。

 農水省は2001年9月に省令によって肉骨粉の使用を禁止した。そして肉骨粉によって飼育されたとみられる5129頭の牛を監察下においた。今回感染が確認されたのも、その中の1頭だという。

 しかし、この牛の場合も、本当に肉骨粉が原因かどうかわからない。原因は他にあるのではないか。これについて櫻井よしこ氏が週刊新潮連載コラム「日本ルネサンス」にこう書いていた。

<不思議なことがある。22頭目の感染牛が「肉骨粉使用、初の事例」と報じられたように、21頭目まではどの牛にも肉骨粉は与えられていなかったのだ。

 肉骨粉が原因とされながら、肉骨粉を与えられたことのない牛ばかりが感染した。つまり、日本のBSEの原因は他にあると考えざるを得ない。事実、感染牛全てに共通するのは代用乳である。・・・

 代用乳は22頭の感染牛全てに与えられており、その内の1頭を除く21頭に全国農業協同組合連合会(全農)の子会社、科学飼料研究所の高崎工場が生産した「ミルクフードAスーパー」という代用乳が与えられていた>

 しかし、農水省は代用乳を問題にしようとはしない。その理由は代用乳給与牛は100万頭を超えており、これがあやしいとなれば、消費者がパニックに陥り、日本の畜産農家や食肉産業が壊滅するおそれがあるからだという。

 櫻井よし子氏は「日本のBSE感染牛は22頭よりはかに多く、それらの牛は闇から闇に消されて行ったと考えざるを得ない」と書いている。国産牛だからといって、必ずしも安全といえないようだ。


2006年03月07日(火) ひとりあそび

 最近の橋本日記は経済や政治の話題が多くなってしまったが、もちろん私は経済や政治の専門家ではないし、経済や政治がとくべつ好きだというわけではない。ただ選挙権をもつ市民として、政治や経済にしっかりした知見をもち、発言したいと思っている。

 イギリスの小学校では、「何のために勉強するのか」という問をしょっちゅう子供たちに投げかけるそうだ。そしてその答えは、「有能な有権者になるため」だそうである。いいかえれば、ずるがしこい権力者に「騙されないため」である。

 そのために必要なのは、自分の頭でしっかり考え、自分で情報を分析し、意見を述べることができなければならない。こうしした訓練を子どもの頃から学校で受け、ひとりひとりが自立した市民として生活できなければ、民主主義は衆愚政治に堕落するしかないわけだ。そうした自戒も込めて、この日記ではかなり政治や経済問題をとりあげてきた。

 しかし、経済や政治についてばかりではなく、教育や文化の問題についてもこれからはもっと多く発言したいと思っている。「映画100選」をはやく仕上げ、小説も書いてみたいと考えている。

 ほかにも書きたいことがやまほどある。しかし50歳を過ぎたらやはり自分が本当に好きなことをしたほうがよい。そこで、「自分が好きなことは何か」と自問してみた。およそ4つの答えが浮かんだ。

(1)自然
(2)人間
(3)学問
(4)自分(孤独)

 私は自然が好きだ。山や川、海が好きだ。そして人間も好きである。家族や友人、生徒たちとの人間的なふれあいは得難いものだ。青春切符の旅が好きなのも、自然に出会い、人々の暮らしに出会えるからだ。

 そして何と言っても好きなことは勉強することである。新しい知識や技術を身につけると、ものの考えが深まり、世界が拡がる。歳をとるにしたがって、学ぶことの楽しみはますます大きくなり、魅力的になってきた。

 私がHPを大切にしているのも、これが私の「学びのベースキャンプ」だからだ。日記は私の知の最前線であり、「何でも研究室」はその学習レポートである。そして掲示板では学びを大切にする人々とその心を分かち合い、交流することができる。

 しかし、なかでも私の好きなのが「ひとり」ということだ。青春切符の旅も、私はほとんど一人で出かけ、自分と向かい合う。この静寂の時間が好きだ。孤独を好きなことの4番目に上げたが、これはこの順番に好きだということではない。

 この順位は時々によって入れ替わる。しかし、実のところ、何が一番好きだと訊かれたら、私はやはり「ひとりでいること」とこたえるかもしれない。ひとりでいると、自然がささやきかけてくる。そしてときとして、道で擦れちがった見ず知らずの老婆の笑顔がなみだがでるほど有り難く感じられたりするものだ。

 世の中にまじはらぬとにはあらねども
 ひとりあそびぞ吾は楽しき   (良寛)


2006年03月06日(月) 日航内紛劇の行方

 2月10日、日航の新町敏行社長は突然グループ会社の4人の役員の訪問を受け、社長室で辞任を迫られた。新町社長はこれを突っぱねたが、辞任を要求する部長ら管理職の署名は約4百人に達したという。

 このことが新聞やテレビ、雑誌にセンセーショナルに報じられ、「日航空中分解寸前」などという見出しが、紙面に踊った。内外の批判がたかまって、ついに3月1日、新町社長は東京・霞が関の国土交通省で記者会見して、6月に辞任することを明らかにした。こうしてひとまず内紛劇の幕は下りた。

 日本航空(JAL)といえば全日本空輸(ANA)とならんで日本を代表する航空会社である。鶴のマークをもつ日航機はかって「世界一安全な旅客機」と言われたことがある。しかし、1982年に羽田沖墜落事故、85年には御巣鷹山墜落事件が起きた。現在の日航もトラブル続きである。

 民営化されたあと、日航には次々と大物の財界人が送り込まれた。御巣鷹山墜落事件のときの日航会長は経団連副会長だった花村仁八郎氏である。彼は事故後も日航の会長職に居座ろうとして、世論の反発を受け辞任している。

 このあと迎えられた鐘紡会長の伊藤淳二氏も、強権的な体質が災いして社内で孤立し、権力闘争に敗れて失脚した。そのあとを継いだ渡辺文夫氏は、経済同友会副代表幹事で東京海上火災会長だったが、この人も指導力がなく、バブル期の放漫経営をとめられなかった。

 最近の会社の業績は、利用客離れや原油高などで3月期は470億円の赤字になる見通しだという。有利子負債は2兆円を超えており、このままでは債務超過で会社は銀行管理に移されるかもしれない。

 会社の危機をよそに、経営陣は抗争にあけくれ、現場の志気の低下も著しい。たびたびのトラブルに見かねた国交省は、昨年3月、航空法に基づく業務改善命令を出した。会社もトラブルの再発防止を約束したが、その後も乗客の安全性を脅かすトラブルがあとをたたない。改善されなければ業務停止の恐れがあるという。

 日航の個人筆頭株主である糸山英太郎さんはHPで、こうした日航にあいそをつかして、「外資への売却も選択肢の一つ」と書いている。経営危機がさらに深まれば株価はさらに下がり、鶴のマークをつけて颯爽と世界の空を飛び続けてきた日航も、やがて外資に買収されるかもしれない。

 こうしたなかで、民営化されたJALをふたたび国営に戻そうという動きもある。その場合は、日本経団連会長の奥田氏の登用もありうるという。しかし、これまでのいきさつからみて、誰がトップに立っても改革は容易ではない。その理由は、日航の内部の派閥抗争がすさまじく、会社としてのまとまりを欠いているからだ。

 JALには職能別に9組もの労働組合がある。パイロットはパイロットで、整備士は整備士でというぐあいに同じ会社の中に組合がせめぎあっている。そのために職場に一体感はなく、賃金格差も烈しい。年収3千万円のパイロットと、年収4百万円の契約スチュワーデスがおなじ機内で仕事をしていて、しかも反目しあっている。

 こうしたことは、会社側が労働組合の切り崩しを狙って、つぎつぎと別の組合を立ち上げた結果である。経営陣が権力闘争にあけくれ、現場でも労組が乱立していがみあっている。こうした労働環境のなかでトラブルが頻発しているわけで、ふたたび大きな事故が起こらないか心配である。

 社外取締役の諸井虔・太平洋セメント相談役は一連の内紛劇について、「日航は危機に直面している。社内で抗争している場合ではないのだ」と怒っている。日航は私企業で株式公開しているが、もとは国有で私たち日本人の貴重な財産だった。

 日航が立ち直るために必要なのは、何よりも「職場の和」ではなかろうか。まずは、組合が団結することである。そして経営陣は姑息な労働組合の分断をやめることだ。瀕死の鶴が生き返り、ふたたび颯爽と世界の空に羽ばくのを見てみたい。


2006年03月05日(日) ケチケチ温泉旅行

 昨日は同僚のM先生に誘われて、伊勢の近くの榊原温泉に行ってきた。お天気がよくて、ドライブ日和だった。実は先週の土曜日もM先生の車で美杉温泉に行ってきた。まだまだ寒いが、啓蟄も過ぎて、私も家にじっとしていられなくなった。

 美杉温泉もそうだったが、土曜日だというのに閑散としている。しかし、この観光地らしくない山里の鄙びた感じがなんともよい。車の中で私は万葉集の春の歌を何首か口に出して唱った。じつはM先生は国語科の先生である。しかし、万葉集についての知識はあまりないようだ。

 うらうらと照れる春日にひばりあがり
 心かなしもひとりし思えば

 もののふのやそ乙女らが汲みまがふ
 寺井の上のかたかごの花

 榊原ホテルの前に立ったとき、前任校の数学科の旅行でここに来て、一泊したことがあるのを思い出した。そのホテルの温泉に入りたかったが、入浴料が何と1000円もするので断念した。

 近くのグランドホテルに移動すると、こちらの方は入浴料が400円と破格に安かった。こちらも大きなホテルで、浴場も大きくて伸び伸びと手足をのばすことができた。露天風呂がないのは残念だったが文句は言えない。何度も温泉につかって、からだの芯まであたためた。

 温泉のお風呂からあがったあと、ホテルの体脂肪計ではかってみた。体重はまた少し減って57.8キロである。そして脂肪率は16.5パーセントで、ベスト健康体ということだった。株価は下がりっぱなしだが、やはり健康なのが一番うれしい。

 榊原温泉を出て、伊勢の方に車を走らせた。そして「昭和の懐かしい味」という看板を出していたラーメンのチェーン店でラーメンを食べた。醤油味ラーメンが290円で、つでに餃子も注文しましたが、あわせても440円だった。

 M先生から温泉に誘われたとき、「予算は1000円までだからね」と念を押したが、これで見事に予算内におさまった。高速道路の代金も、ガソリン代もM先生に押しつけてしまったが、これは貧乏人の私と旅行する人の宿命だと思ってあきらめてもらうしかない。

 ところが、それから伊勢名物の「へんば餅」を700円で買ってしまった。やはり甘いものの誘惑には勝てない。それに自分だけ温泉気分を楽しんでいては、家で留守番をしている妻に申し訳ない。

 9時頃家に帰ってくると、妻はさっそくお茶を入れて、一緒に食べてくれた。
「これ、おいしいのよね。前にも買ってきたでしょう」
と妻にいわれたが思い出せない。数学科の旅行の時、同じ店で買ったのだろう。

 お昼にラーメンを食べただけなので、お腹も空いていた。2個の「へんま餅」が私のおそい夕食になった。伊勢名物といえば「赤福」があるが、「へんば餅」の素朴な味もよかった。

 今日も天気がよさそうなので、妻と二人で琵琶湖にドライブしようかと思っている。今日のお昼は、琵琶湖で鳥たちの様子を眺めながら、おむすびでも食べることになりそうだ。


2006年03月04日(土) 男の創られかた(2)

 旧約聖書では女は男の一本の肋骨から創られたことになっている。一方、現代科学の教えるところによれば、哺乳類では受精卵のなかにY染色体があればオスになり、なければメスになる。それでは、Y染色体はどのようにしてオスを創るのか。

 最近の生物学はY染色体上に性決定遺伝子が存在することをつきとめている。その発見の過程がサイクス博士の「アダムの呪い」に書かれている。

<数ヶ月にわたる研究の結果、ディビッド・ペイジはある遺伝子を発見し、それにDP1007という記号をつけた。ペイジが見つけた遺伝子には、すでによく知られたタンパク質の一種と非常によく似たタンパク質をつくるためのDNA配列がふくまれていることが分かった。

 これは「転写因子」と呼ばれるもので、その役目は、装置のスイッチを切り替えることだった。つまりほかの遺伝子のスイッチを入れたり切ったりするのだ。これ以上うれしい結果はないだろう。男性をつくりだすのに必要なものが、すべてたったひとつの遺伝子にふくまれているとは、それまでだれも想像したことすらなかった。

 もしそのとおり、性がたったひとつの遺伝子で決まるのなら、それはいわばマスター・スイッチだ。そのスイッチがいったん入れば、男性をつくりあげるために必要なプロセスが、つぎからつぎへと進行していくことになる>

 ところが、1987年アメリカの有名な科学雑誌「セル」のクリスマス・イヴ号を飾ったこの大発見はじつは誤りだった。ペイジの発見したDP1007(ZFY遺伝子と改称)はやがて失脚する。ZFY遺伝子を欠いたXX型の染色体をもつ男性(!)が発見されたからだ。

 ZFY遺伝子を欠いても男性になれるばかりか、Y染色体さえ性決定の因子にならないことがあることがわかった。これではなにもかもぶちこわしである。しかし、ペイジのライバル関係にあった研究チームがこの苦境を救った。

 このチームはY染色体上にまもなく別の遺伝子をみつけた。この遺伝子もまたスイッチの役目を持っていた。このチームはこの遺伝子にSRY(性別決定地域)という名前を付けた。1990年7月の「ネイチャー」にこの発見が発表された。

 SRYがその名前の通り、ほんとうに性決定遺伝子かどうか、さまざまな検証が行われた。やがてグッドフェローとバッヂたちのチームが決定的な決め手を得た。SRY遺伝子だけを含むDNAの小さな断片を、授精したマウスの卵子に注入したところ、XX染色体を持ちながら、完全にオスの体をしたマウスが生まれたのだ。

<X染色体が2本のオスのマウスには生殖能力がないので、そのマウスが次の世代をつくり出すことはなかった。それでも、そのマウスはあきらめなかった。メスのマウスと同じかごに入れられると、6日で4度も交配を繰り返したのだ。マウスの平均からすれば立派なものである。

 この劇的な性の転換、つまりもともとメスだったはずのマウスが、SRYひとつでオスになったという実験結果が、男性を生み出すマスター・スイッチの長い探求の旅に終止符を打つことになった。科学者たちが、性決定の秘密を握るのはY染色体だと気付いてから、じっさい隠れた遺伝子そのものをつきとめるまで、30年という長い歳月が流れていた>

 妊娠して最初の6週間は、まだ胎児は男女の区別はない。妊娠7週目になると、Y染色体のこのマスター・スイッチがオンになる。しかし、その時間はたったの数時間だけのことである。このわずかな時間で、SRY遺伝子は特別なタンパク質を作りだし、これが他の染色上にあるさまざまな遺伝子を目覚めさせる。

 そうして目覚めた多くの二次的な遺伝子のグループが協同して、性別のなかった生殖腺を精巣へと変化させ、やがてその精巣がつくり出すホルモンによって、ペニスや陰嚢などがかたちつくられ、個体は男としての形質を獲得していく。

 Y染色体をもたない胎児は、SRY遺伝子によるこうした霍乱的な刺激をあたえられないので、誰からも邪魔されることもなく、ほんらいの女としての成長過程をあゆみ続ける。妊娠20週目になると、男女の解剖学的な変化はおおかた完成する。だからこの頃になると、超音波検査で胎児の性別が確認できるわけだ。

 サイクス博士はこうした過程を説明した後、「Y染色体が女性になるのを必死になってくい止める様子が、理解いただけたと思う」と書いている。さらにくわしく知りたい人は「アダムの呪い」を読まれるとよい。

 世の中にはXXの染色体を持ちながら、男性である人がいる。こうした人はやはりどこかの染色体にSRY遺伝子が紛れ込んでいるわけだ。非常に珍しいことだが、そうした事例も報告されている。厳密に言うと染色体型だけでは、男女を判別できないわけだ。 

(参考文献)
「アダムの呪い」 ブライアン・サイクス著 ソニー・マガジンズ


2006年03月03日(金) 男の創られかた(1)

 旧約聖書によると、神は天地創造の6日目に、自らの手に一片の土(アマダ)を取り、これを錬って形を作り、息を吹き込んだ。こうして生まれたのがアダムだという。

 アダムは多くの植物や動物を見つけて名前を付けた。しかし、自分の同じ仲間は存在しなかった。アダムには語り合える仲間がいなかった。その様子をみた神は、アダムを憐れんで、彼が寝ている間に、イブを創った。これで地上に一組の男女が存在したわけだ。

 ところで、神はどのようにしてイブを創ったのか。アダムと同様に土からこしらえたのだろうか。これならアダムとイブは対等な存在である。ところがそうではなかった。神はアダムが眠っているあいだに肋骨を一本抜き取り、そこからイブを創ったのだという。

 つまりイブはアダムの体の一部なわけだ。アダムは自分の一部であったイブに引かれ、これを一体化しようとする。そして、イブもまた本体であるアダムに回帰しようとする。これが男女がお互いに引かれあう原因だという。

<ついにこれこそ私の骨の骨、私の肉の肉、男(イシュ)から取ったものだから、これを女(イシャー)と名付けよう>(創世記第二章)

 お話としては面白い。しかしやはりこれはお話でしかない。それに女が男のあばら骨から生まれたというのは、男尊女卑の匂いがしないでもない。旧約聖書を貫いている精神は熾烈な「男性原理」である。この原理が一神教を生んだわけだ。女を男の派生物としたのもこの男性原理の精神だろう。

 もちろんこうした神話は、現代の生物学によって完全に否定されている。生物学によれば、私たち哺乳類の性別を決めるのはXとYという二種類の性染色体である。哺乳類のメスは細胞の中にX染色体を2本持ち、オスはXとYを持っている。

 X染色体とY染色体はもともと常染色体で、同等だった。とことがY染色体はオスになる起動遺伝子を持つことで、Xとは別の存在になった。これが起こったのは3億年ほどまえのことらしい。

 そしてここからY染色体の劣化がはじまったことは前に書いたとおりである。人間のオスが持っているY染色体はほとんど遺伝子を持たず、いまや廃墟に近い。このままでは人類の未来は暗いわけだ。

 それはともかく、それではどうやってY染色体から男が創られるのか。これについては、明日の日記でくわしく書いてみよう。結論だけ言うと、現実は聖書と反対である。じつは男から女が生まれるのではなく、女になるべき存在にY染色体上の性遺伝子が働いて、女が男に変化するようになっている。


2006年03月02日(木) 男女の比率はなぜ違うのか

世の中には男子ばかりが生まれる家系や、女子ばかりという家系がある。私の場合は娘が2人で、私の弟は息子ばかり4人、義兄も息子3人である。私のまわりを見回しても、ずいぶん子供たちの性別に偏りが感じられる。

 遺伝学者ハリスによれば、ある家族は過去300年間で9代までさかのぼったとき、35人の子どもが産まれているが、そのうち33人が男で、女は2人しかいないという。しかも生まれた女の子も一人ははやく死に、もう一人も体毛が濃くて、産婦人科から子どもは産めないといわれたらしい。

 精子にはx染色体をもつメスの精子と、Y染色体をもつオスの精子がある。こうした男系の家に生まれた男の場合、Y染色体の働きが強くて、オスの精子の方が優先的に卵に到達できるメカニズムを持っているのかも知れない。

 これと反対に、サイクス博士は女性が23人で男性が4人しか生まれていないルイス家の例を紹介している。これはY染色体の力を封じる何らかのメカニズムの存在を示唆している。サイクス博士は母系相続されるミトコンドリア遺伝子がその女系優先のメカニズムを創りだしているのではないかと見ている。

 たしかに、母系家族と父系家族の存在を、父系相続されるY染色体と、母系相続されるミトコンドリ遺伝子の利己的な闘いという風に、ドラマチックにとらえることもできそうだ。しかしこうした仮説が実証されたという話を聞かない。

 また、男女の比率を全体で見たとき、男子のほうが女子より1.06倍多く生まれるという統計がある。ここでもY染色体の利己的な性格により、男子の方が生まれやすいという解釈もできそううだ。しかし、これについてサイクス博士は「娘が誕生したあとよりも、息子が誕生したあとのほうが子作りをやめるほうが多い」という夫婦の社会行動的な面を指摘している。

 最初に女が生まれたときと、男が生まれたとき、2人目を生もうとする夫婦の熱意に微妙な差が生まれるかも知れない。こうしたことが、男女の出生率の違いになって現れている可能性があるというわけだ。しかし、これは本当だろうか。これは高校の数学レベルなので計算してみよう。

 たとえば「男女の生まれる確率は等しいとして、最初に女が生まれたときに限り2人目を生む」という単純化されたモデルで、夫婦のもつ男の子の人数と女の子の人数の期待値(統計上期待される平均値)を計算してみよう。

 このモデルでは一組の夫婦が持つ子どもの組み合わせは、次の3つの場合に限られる。男1人に対して、女1人という場合が存在しないので、ここで男女の非対称性が生まれている。また、3つの場合について、それが生じる確率は1/2か1/4である。

(1)男1人(確率1/2)
(2)女1人、男1人(確率1/4)
(3)女2人(確率1/4)

 男子の人数の期待値=1×1/2+1×1/4=3/4(人)
 女子の人数の期待値=1×1/4+2×1/4=3/4(人)

 したがって、100組の夫婦の平均値で考えると、男子の数は75人、女子の数は75人で、意外なことに男女同数になる。

 以上の説明がわかりにくい人は4組の夫婦で考えるとよい。4組の夫婦があるとすると、平均してこの中の2組の夫婦は子どもは男子一人だけだ。なぜなら、男子が生まれる確率は1/2であり、男子が生まれればもう子どもを生まないからだ。

 さて残りの二組は最初が女の子なので、もう一人生む。2番目に男子か女子かはやはり半々である。したがって、平均すると、一組は女子と男子になり、もう一組は女子と女子になる。そこでこの4組の夫婦が生む子どもの数を男女別に合計すると、

 男子の数=1+1+1=3(人)
 女子の数=1+2=3(人)

 その割合は1:1で、やはり男女の数は同じである。サイクス博士のいう「娘が誕生したあとよりも、息子が誕生したあとのほうが子作りをやめるほうが多い」ということからは男子の数の優勢を説明できないことがわかる。
(計算ミスがあったので、日記を書き直しました。思いこみは恐ろしいですね)


2006年03月01日(水) 利己的なY染色体

 チンギスハーンのY染色体がこれほど世界に広まったのは、もちろんチンギスハーンの世界征服という歴史がある。また、その子供たちもその恵まれた出自によって権力を行使しうる有利な条件をそなえていただろう。サイクス博士も「アダムの呪」のなかでこう書いている。

<彼らのY染色体の驚異的な増殖の原因として、ある程度の性選択がはたらいたと考えざるをえない。そこに性的な利点があったことは、だれの目にもあきらかだ。富、地位、そして権力。何世紀にもわたってそうしたY染色体が繁栄し続けたのは、そうした利点が父から息子へ継承されてきたおかげである>

 ある特定のY染色体が優勢になる背景には、そのY染色体をもつ宿主一族の繁栄があり、その基盤は権力や富の力であることは間違いない。それではそれ以外にまだ理由があるのだろうか。サイクス博士はY染色体自体がもつ性選択能力の可能性をあげている。

 たとえば、もしY染色体自身が男女を生み分けに影響をあたえていたらどうだろうか。そのY染色体をもつ宿主が男子を多くうむ傾向をもつとしたら、Y染色体は確実にその息子たちによって伝えられるだろうし、その逆に娘ばかり生まれる家系では、父親のY染色体は消滅するしかない。

 サイクス博士は、初代のワシントン大統領から、43代のブッシュ大統領まで、アメリカの大統領は90人の息子をもうける一方で、娘は63人しかいないことに注目している。そして他の家族の例もあげながら、こう書いている。

<生まれてくる子どもを男の子に偏らせる能力を得たY染色体は、存在するのかも知れないし、存在しないのかもしれない。しかし野心に燃えるY染色体にとっていちばんの策略は、裕福で権力のある男とつるむことだ。それさえできれば、その宿主の富と権力がたくさんの息子たちに受け継がれ、そのプロセスにますます勢いがつく>

<富と権力を手にした男性が、不利益をこうむることなどない。ますます金持ちになるだけだ。わたしたち人間は、目には見えない遺伝子の、もっとも基本的な推進力にあおられ、狂ったように争奪戦をくり広げたあげく、未来の地球をかなり大きな危機に陥れている>

 サイクス博士はチンギスハーンのY染色体が世界に広まったのは、こうした富と権力の相続というプロセスを経てだと考えている。そしてこれはX染色体やその他の常染色体にくらべて、どんどん小さくなり消滅に向かっているY染色体の、自己保存のための「わるあがき」だとも考えられなくもない。

 もっともサイクス博士の「利己的なY遺伝子説」はわかりやすいだけに、やや通俗的であり、世間に誤解を与えるのではないかと思っている。Y染色体はたしかに「利己的」に見えるが、それは結果論からみたひとつの主観的な解釈だといえなくもない。

 X染色体とY染色体は3億年前、一対の常染色体から進化したものだ。しかし、男性化の引き金をひく遺伝子を担うことになったY染色体は、どんどん劣化して行った。X染色体には2000〜3000もの遺伝子が含まれているが,Y染色体には数十個の遺伝子しかない。Y染色体はかけらのように小さく、しかもそのDNAはほとんどがらくたで、遺伝子をほんのわずかしか含まない。

 したがって男性の場合、もしX染色体上の遺伝子に異常があっても、これに対応できる遺伝子がY染色体上にないことになる。それはもともと存在したが、この数億年のあいだ間断なくY染色体を浸食し続けた「突然変異」と、これを修復するメカニズムをもたない孤立性によって、Y染色でほとんど失われてしまったわけだ。

 遺伝子解析の進んだ現代医学によると、X染色体に関連する遺伝病は、色覚異常、自閉症、筋ジストロフィー、白血病、血友病など数百もあるのだという。これらはY染色体が劣化したことによって、これに対応する遺伝子が欠損したことが原因である。そしてこのことが、ときには国の歴史にも影響するという有名な例を、最後に紹介しよう。

 ビクトリア女王は血友病の保因者だった。つまり、女王の片方のX染色体には血友病を引き起こす遺伝子があった。しかし、もう一方のX染色体にはこの遺伝子がなかったので、彼女はこの病気に襲われなかった。女性の場合、この理由で滅多に血友病は発症しない。

 そしてこの遺伝子は、女王の孫娘、アレクサンドラに、そしてアレクサンドラとロシア最後の皇帝ニコライ2世との婚姻によって、皇太子のアレクセイに受け継がれた。男性のアレクセイはX染色体を1本しかもたず、しかもそれが血友病の遺伝子を持っていたので、発病するしかなかった。皇太子の病弱がロシア革命の間接的な原因になったと言われている。


橋本裕 |MAILHomePage

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