橋本裕の日記
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2004年07月31日(土) ドルの金本位制復帰なるか

 1971年8月15日に共和党のニクソン大統領は、「金とドルの交換を一時的に停止すること」をテレビを通して命じた。こうして「ニクソン・ショック」が世界に走った。

 なぜドルと金との交換を停止したかといえば、金の準備高が底をつきそうになったからだ。1949年時点で、アメリカは世界の金の73パーセントを独占していた。ところがベトナム戦争の戦費をかせぐためにアメリカはドルをすり続けたため、約1万4千トンもの金をドルとの交換で失い、金保有率は20パーセントにまで激減した。

 とめどない金の放出を阻止するために、ニクソンはテレビで「金との交換の一時的停止」を宣言したわけだ。問題はこの「一時的な措置」がもう30年以上も続いていることだ。そして、この間に、アメリカは着々と金の保有率を上げてきた。高橋康夫さんは著書「金急騰!」(廣済堂出版)の中で、アメリカは現在2万トン以上の金を再備蓄していると指摘している。

 問題はいつアメリカが金本位制に復帰するかということだ。金本位制に復帰できれば、ドルは威信を取りもどす。強いドルが復活し、ユーロや円はもはや敵ではなくなる。唯一の世界の機軸通貨として、ユーロを世界市場から一掃することもできる。ブッシュは金本位制への復帰という「ブッシュ・ショック」を狙っているのではないか。

 ドルの金本位制への復帰は、外貨準備高8千億ドルあまりをドルで持っている日本には朗報のように思えるが、かならずしもそうではない。アメリカはおそらく、これを旧ドル扱いにして、あたらしく発行する新ドルから金との交換を求めるだろうからだ。

 そうすると、旧ドルは紙くずになりかねない。日本だけではなく、世界に流通している4千億ドルもまた紙くずになりかねない。ひとり新札の発行権を独占しているアメリカだけが高笑いという事態になる。

 金本位制に復帰できれば、ブッシュはアメリカの歴史に名を残すことになる。なぜなら、金本位制復帰こそ、ニクソン以来の共和党政権の悲願だったからだ。共和党政権のみならず、これは民主党政権にもいえる。

 巨大な双子の赤字をかかえるアメリカにとって、金本位制復帰は現実的な問題だ。国際社会におけるアメリカの地位を考えれば、これまではまずあり得ないと考えるのが常識だった。しかし、巨大な軍事力を背景に、単独行動を辞さなくなったアメリカに、もはや国際社会の圧力が通じるか疑問である。私たちはこうした恐ろしいシナリオが存在することを忘れてはならない。

 30兆円もの米国債を買い込んだ小泉首相に、ブッシュ・ショックに対する備えがあるとは思えない。最後に、WGCが発表した2003年12月現在の主要国の外貨準備高における金の占める割合を資料としてあげておこう。

アメリカ・・・58.2パーセント
イタリア・・・57.4パーセント
フランス・・・55.2パーセント
オランダ・・・47.3パーセント
ドイツ・・・・45.3パーセント
スイス・・・・32.3パーセント

 これにたいして、

日本・・・・・1.5パーセント


2004年07月30日(金) IT大国インドの光りと陰

 ビル・ゲイツが「ビル・ゲイツ未来を語る」を出版したのが1995年だった。この本は世界各国でよまれ、ITブームを引き起こした。私もさっそく買って読んだものだ。

 ゲイツが強調しているのは教育の大切さだ。これを自分の体験をまじえながら、説得的に書いている。たとえば、第9章はそのものずばり、「教育は最良の投資」と題されている。これを国家戦略として採用し、成功したのがフィンランドで、みごとに競争力国際ランキングで1位になった。

 インドもまた、こうした戦略で成功した例といえよう。インド経済は経済改革の成果で、過去10年間に年平均約6%の安定成長を達成し、2003年には株価は72.9%も上昇し、成長率も8%を越えている。好調な輸出に支えられ、外貨準備高は1000億ドルを越え、日本、中国、ドイツに続き堂々の4位である。経済発展とともに、2億人をこえる中産階級が現れ、インドの市場規模はいまやアメリカにも匹敵しようとしている。

 インドのコンピューター教育に費やされる金額は、毎年25%の割合で増加し、専門学校への入学者数は毎年約24%の割合で伸びているという。こうした国と民間をあげてのIT教育戦略のもとで、専門的資格を持つソフトウェア・エンジニアが年間約20万人も誕生している。彼らはインド国内に限らず、米国など多くの先進国でも職を得ることができる。

 こうしてインドでは、毎年100万人以上の学生が各種コンピューター・センターに入学し、IT教育は、推定で年間3億万ドルをはるかに越える産業と見なされている。インドのIT教育市場の約30%を占めるアプテク社は、インド全土に約1500のセンターを有し、毎年約30万人の学生を受け入れている。このアプテク社と、やはり大手のNIIT社が、インドのコンピューター教育市場をリードしている。

 NIIT社とアプテク社の専門学校は、受講期間が2年から2年半に及ぶキャリア志向用のプログラミング・コースを提供し、『C++』、『Javaスクリプト』、『ダイナミックHTML』、『XML』などのプログラミング言語を習得する。また、各種のウェブ・アプリケーションも多面的に習得する。このコースを受講し、よい成績をあげた学生は、確実によい仕事に就くことができる。

 しかし、両社の専門学校のコース受講料は約1500ドルもする。これはかなり富裕層でなければ無理だ。そこで大半の若者はもうすこし授業料の安い小規模の専門学校に殺到することになる。そこでJavaプログラミング、ウェブページ・デザイン、マイクロソフト社の『オフィス』アプリケーション、アニメーションなどをひとまとめにして学ぶことになる。

 今やインドは世界一の強力なIT技術者をようし、世界のIT産業の中心地になろうとしている。85ヵ国で20万人を超えるインド人ソフトウェア専門職が働いている。さらに欧米企業の多くがインドのIT企業にアウトソーシング(外注)を始めた。「世界の工場」と呼ばれる中国とならんで、インドはいまや「世界のオフイス」と呼ばれるようになった。

 しかし、専門学校で学び、資格を得て、有利な条件で就職できるのは才能に恵まれた一部の若者に限られているのも事実だ。ITブームに湧くインドだが、一方では7億人もの人々が経済発展の恩恵から取り残され、極貧生活を余儀なくされている。5月の総選挙では、絶対有利とみなされていた与党のバジパイ政権が破れるという波乱もあった。

 インドの識字率は65.4%(01年国勢調査)という低さである。これからインドがさらに発展するためには、こうした底辺層への教育の浸透をはかることが重要であろう。アメリカ主導のグローバリズムの波に乗って躍進してきたインドだが、貧富の差の拡大をこのまま放置しておくことができない段階に来ていることも事実のようだ。


2004年07月29日(木) コンクリート文明と木の文化

 シャルマさんが、東京に抱いた感想は、「巨大なコンクリートジャングル」だということだった。「喪失の国、日本」から引用しよう。

<東京はコンクリートの大きなビルが林立するジャングルである。その中を立体交差の道路が縦横に走り、車があふれ、すべての交差点にシグナルがあり、電子機器の基盤を見るように一切が整然と並んで、信号通りに規則正しく動いていた。まさに巨大なシステムの都に着いたと私は感じた>

 東京だけではなく、コンクリートは日本全土を覆っている。それもそのはず、たとえば1994年の日本のコンクリート生産量は9200万トンで、面積が25倍もあるアメリカの7800万トンを遙かにうわまわっている。面積あたりで比較すると、日本のコンクリート使用量はアメリカの30倍である。

 日本の公共事業費はアメリカの4倍近く、実のところ、アメリカの巨大な軍事費よりも大きい。日本の歳出予算の実に40%が公共事業に充てられている。アメリカでは9%程度、イギリスやフランスでは5〜6%程度に過ぎない。GDP比にすると、日本はGDPの9%を超える。1%にも満たないアメリカの10倍である。

 ダム建設により、海岸線が100メートル以上も後退した。1993年には全海岸の55%が完全にコンクリートブロックやテトラポットで埋めつくされた。こうして日本が誇る美しい海岸線がこの数十年間でまたたくうちに喪失した。日本の川や海が育んできた命のサイクルが急速に滅びつつある。

 どうしてこのようなことになったのか。これもまたシャルマさん流に言えば、日本人があまりにも自らの文化について無知であるためだということになる。日本人はこのゆたかな緑の価値がどれほどのものか分からない。しかし、インドからきたシャルマさんの目には、日本の本当のすばらしさがありありと見える。

<京都からは奈良に向かい、まず興福寺の宝物館でわれわれは古い仏像をみた。インドの神々があふれているのにはおどろかされた。インドラもシヴァもすべて日本までやって来ているのである。その姿はすっかり変わっていたが、像から伝わってくる清冽な精神力はインドよりはるかに強く、ひじょうに芸術的に仕上げられていた>

<法隆寺では、佐藤氏は、この寺が世界最古の木造建築で、立てられている柱の一つ一つが樹木として深山にあったときと同じ方向、つまり東西南北を守って使われていると説明してくれた。そういうふうに使うことによって、建築の耐久性は飛躍的に増すというのである>

<私はそれを聞いてひじょうに感動した。日本人の樹木への深い理解に驚嘆し、同時にそのことが、日本文化すべてに行きわたっているのを直観した。何とした叡智だろう。日本は、思想と美学のすべてが木への解釈と共振している国なのである。「木への理解」と「存在論」とが不可分なものになっているのは、仏教が伝播する以前からのようだった。というのも、インドでは、大樹の樹上は魔物が棲む所だが、日本では神が降りる場となっているからである>

 京都、奈良を見た後、大阪を見ると、それはまさにコンクリートのジャングルとしか見えなかった。そこには「木の文化」の片鱗もみることができなかった。シャルマさんの頭のなかで、京都や奈良と大阪が拮抗し、ギシギシと音を立てた。

 ここでシャルマさんが本に書かなかったことを捕捉しておこう。公共事業が巨大になったのは、政治家と建設業者と官僚の利権が一致していたからである。これによって政治家は政治活動の資金と人出を確保し、業界はもうかり、そして官僚は国会議員や地方の首長になったり、さまさまなおいしいポストに天下ることができる。

 その結果として、日本人はは700兆円もの天文学的な公的借金をかかえることになった。このことを知ったら、シャルマさんは「日本の国民は何という愚かな国民か」とあきれはて、そして「喪失感」をさらに深めたことであろう。

(参考サイト)
http://hayawasa.tripod.com/nagano10.htm


2004年07月28日(水) 喪失の国、日本

 以前、私の職場の同僚が、イギリスにホームステイをしたとき、向こうの人に収入を聞かれて答えたところ、その高額なのに驚いていたという。彼は毎夏、いろいろな国にホームステイをするのが趣味だった。

 日本ではたかが高校教師の収入など知れているが、彼の手にするボーナスが、たとえば東欧の国の人々の生涯賃金にも匹敵することがある。世界を体験してみると、日本という国がいかに豊かで安全な国か骨身にしみてわかるという話だった。

 シャルマさんが初めて日本に来て、空港で両替したとき、日本の最高紙幣である1万円がインドの最高紙幣の25倍もあると知って驚いている。ビュッヘの朝食は1500円もしたが、これはニューデリーで食べていた定食の40食分だという。

 インドでは荷物は片時も離さず、買い物をしたときはお札は相手の目の前で一枚一枚数えなければならない。ホテルでも甘い顔をすれば2日分のところ3日分も請求してくる。相手につけ込まれないためには、多少尊大な態度をとらなければならない。しかし、日本では事情が違っていた。

<ところが、そういうことが日本では不要なのだ。一面識もない相手を信じ、誰も裏切らない。汚れて使えない札を渡す失礼な人間は一人としていない。キャッシュ・カウンターで1万円を両替したが、渡された札は6月のバニヤンの葉のように真新しく、折り目がまったくなかった。新札になれない私は本物かどうか心配になり、よほど古い札に取り替えてもらおうかと思ったほどだ>(「喪失の国、日本」以下の引用も同じ)

<日本では、請求書に悪意の数字が一つもなく、隙があればつけ込むという邪心もなく、したがって、あくせくした議論の必要がない。安全な国だとは聞いていたが、これはほんとうにおどろくべきことだ。自分の荷物をおいたまま傍らを離れるという風景は、私にはとくに信じ難かった。このように「信頼が先行する文化」を実現している国は、世界的にひじょうに希だと思う>

 日本では落とし物をした人は交番に届けるのが普通だが、インドの場合は、まずそうしたことは考えられないという。なぜなら、落としたのは本人の過失だからだ。だから警察はまず取り合ってくれないし、また、落とし物を警察に届けるような者もいない。

<落とした財布も、警察は探してくれるのである。見つかると「財布が出てきました」と連絡をくれる。チップは不要。警察は犯罪捜査のノウハウを生かし、このような市民サービスも行っている。拾って着服した者がいた場合は犯罪者として扱い、犯罪の要因を準備した「落とし主」は責めない。落とし主は、自分の不注意によって罪をつくらせてしまった良心の呵責をまったく感じなくていいのである>

 シャルマさんが日本にきて感心したのは、職場で働く人々の態度だった。客に親切なことはいうまでもないが、職員同士も紳士のような口を利き合い、「働く者どうしがお互いに客という感じ」で、命令口調がない。人間関係がスマートで、洗練されている。

 ホテルでも、誰がマネージャで誰がフロント係かわからない。全員がマネージャーのような服装をしていて、態度は全員がフロント係のようである。つまり、上下の関係を感じさせない。そして、その態度はあくまでお互いに親切でやさしい。しかもこうした行き届いたサービスがチップ抜きで行われている。

<空港でもそうだったが、チップというものがまったく要らない。バスに荷を運び入れる係員に、アメリカ人らしい乗客がチップを渡そうとして辞退される場面もあった。これはのちに知ったことだが、かりに彼が充分な給料をもらっていなくても、日本人はチップを辞退するのである。(略)

 その若い係員はどの客に対しても公平だった。彼は、出発間際にバスに乗り込んできて、帽子を脱いで客に深々と一礼した。素晴らしい出来ばえだと、私は感動した。インドは、おそらく三十年たってもこのようにならないだろう>

 シャルマさんは「日本は信頼が先行する国」だという。そして、世界一平和で安全な国、上下の関係を表にあらわさない洗練された文化をもつ平等な人々のすむ国。貧富の差が激しく、多くの者が、分かち合うことのできない苦しみを苦しんでいる矛盾にみちたこの世界で、日本はその数少ない素晴らしい例外である。

 しかし、問題は、日本人自身がこのことの価値を自覚していないことだ。そのために、その貴重な遺産を平気で破壊しようとする。新しい利潤追求の原理が、従来の労働と企業のイメージを根本から変え、人の心の価値観をも変えてしまう。

<日本ではすでに、外資の影響を受けない産業においても、この種の原理が働きはじめている。圧倒的な資本力をもつ大企業が、地方に進出して市場を攪乱し、零細企業をつぎつぎと倒産させ、消費の概念、消費の構造式までも変えている。(略)

 インドの片田舎ではすでに異変がおきている。下層民たちが、食うものまでも減らしてテレビを手に入れようとしはじめているのだ。かつかつの暮らしをしている者たちまでもが、このような競争に踊らされる経済活動をわれわれはどう捕らえたらいいのか>

 シャルマさんはここまで書いてきて、思考が停止し、「ペンをもつ手が急に重くなった」という。そして、「喪失の国、日本」をこの一文で終わらせている。彼が日本に見たものは、「信頼」であり、その信頼が「喪失」しつつある姿であった。その無惨な姿が、彼にはそのままインドの未来の姿として重なってきたのだろう。

 信頼と平等を誇る日本社会でさえもが、いま行きすぎた市場原理のもとに急速に崩れつつある。この崩壊をどうくい止め、そして新しい原理に基づいてこの社会をどう立て直していくか、これは私たち日本人が解決しなければならない課題であろう。


2004年07月27日(火) 自由に適さない人々

 東京都教育委員会は卒業式や入学式のとき、君が代斉唱時に起立しなかったり歌わなかった教員300名余りの処分を発表した。そして、その中の137名に「再発防止研修」を受けさせるのだという。

 東京地裁の須藤典明裁判長は「繰り返し同一の研修を受けさせ、非を認めさせるなど公務員個人の内心の自由に踏み込めば、研修として許容範囲を超える。違憲の問題を生じる可能性が皆無とはいえない」としながらも、「現段階では具体的内容が明らかでなく研修後に賠償請求などもできる」として再発防止研修停止申し立てを却下した。「再発防止研修」は8月2日から始まる予定だという。

 かってこうした思想改造施設がソ連や中国にあったが、石原知事のひそかな願望は自分も毛沢東やスターリンのような絶対権力者になることらしい。こういう人が都知事をつとめ、しかも都民の支持や人気を得ているというのが日本の現状である。戦前とどれほど違うのだろう。 

 インド人のビジネスマンであるシャルマさんは、戦前の日本の学校に忠魂碑や国旗掲揚塔があったと聞かされて驚いている。しかし、国旗掲揚塔は現在もあるし、その前で行われた儀式も息を吹き返しつつある。卒業式で一斉に起立し国家を斉唱し、起立しなかったりうたわない教員が「再発防止研修」に送られると聞いたら、シャルマさんはもっと驚くだろう。「喪失の国、日本」から引用しよう。

<インドの学校にはそのようなものは一切ない。国旗などわざわざ掲げずとも、そこがインドという国であることを疑う者は誰一人いない。日本ではつい20年ほど前まで、公の祝日のたびごとにすべての家が、門戸に国旗を掲げたという。そういう風景を私ならずとも外国人が見たら、震え上がってしまいそうである。

 国を祝っているつもりでも、外国人の目には日本人以外の人間を拒絶しているように映るからである。何も知らない外国人がその日、日本にやってきたら、クーデターが起きて新しい国が誕生したと勘違いするかもしれない>

 エリック・フォッファーは「自由に適さない人々」が他人の自由をも圧殺し、結局息苦しい全体主義国家をつくり、戦争や粛正をもたらしたと書いている。1963年に出版された彼の処女作「波止場日記」から引用しよう。

<自由に適さない人々、自由であってもたいしたことのできぬ人々、そうした人々が権力を渇望するということが重要な点である。・・・もしもヒトラーが才能と真の芸術家の気質を持っていたなら、もしもスターリンが一流の理論家になる能力を持っていたなら、もしもナポレオンが偉大な詩人あるいは哲学者の資質をもっていたなら、彼らは絶対的な権力にすべてを焼きつくすような欲望をいだかなかっただろう。・・・自由という大気の中にあって多くを達成する能力の欠けている人々は権力を渇望する>

 自由に適さない人々は、権力者になるか、あるいは権力者の側について権力を行使する人間になろうとする。しかし、彼らの多くを待ち受けているのは、皮肉なことに権力に蹂躙される多くの犠牲者のひとりになる運命である。フォッファーの別の著作「魂の錬金術」からも引用しよう。

<自尊心に支えられているときだけ、個人は精神の均衡をたもちうる。・・・何かの理由で自尊心が得られないとき、自律的な人間は爆発性の高い存在となる。彼は将来性のない自分に背を向け、プライド、つまり自尊心の爆発性代替物の追求に乗り出す>

<自尊心が自身の潜在能力と業績から引き出されるのに対して、プライドはもともと彼らの一部でないものから引き出される。架空の自己、指導者、聖なる大義、集団的な組織や財産に自分自身を一体化させるとき、われわれはプライドを感じる。プライドは不安と不寛容によって特徴づけられ、敏感で妥協を許さない>

<ナショナリストがもつプライドは、他のさまざまなプライドと同様、自尊心の代用品になりうる。ファシズムや共産主義体制下にある民衆が盲目的愛国心を示すのは、彼らが個々の人間として自尊心を得ることができないからである>

 彼らはいずれ自分たちも抑圧され、収容所に入れられるとは考えない。そうした可能性を考えるだけの思考力もなく、また肝心の想像力も持たない。自由に適さない人間の多くはそうした人たちである。

 自由に適する人間を作り出すことこそ、民主主義教育の目標であり、使命であろう。しかし、日本には自由に適さない人々がまだ大勢いる。そういう人々が、石原知事を支持し、「再発防止研修」を歓迎するのだろう。

(参考文献)
「喪失の国、日本」 M・K・シャルマ 文芸春秋社
「波止場日記」 エリック・ホッファー みすず書房
「魂の錬金術」 エリック・ホッファー 作品社


2004年07月26日(月) 遠い国、インド

 インドでもう数十年間もヒットを飛ばし続けている映画の主題歌がある。それは「おいらの靴は日本製」という歌だそうだ。

 おいらの靴は日本製
 はいてるズボンはイギリス製
 だけど心はインド製

 この歌が作られたのはシャルマさんが生まれた1955年だという。そのころは日本は靴を輸出していたのだろうか。現在では目立つ日本ブランドといえば、地元に根付いたスズキのコンパクトカーくらいらしい。「おいらの車は日本製」というところだろうか。

 インドは人口十億をようする巨大市場である。1人当たりの年間国民所得約500ドル(約5万円)と低く、6億人は極貧層だといわれているが、それでも昨年の経済成長率は8パーセントを越えている。中産階級は2億人を越え、マーケットの規模はアメリカにも匹敵する。

 世界最大・最強のIT技術者集団を擁し、欧米企業のアウトソーシング(外注)の世界的中心地にさえなった。こうした世界の動きの中で、日本企業はあまりインドに関心を払おうとしない。依然としてインドは遠い国なのである。シャルマさんが日本にきて気付いたことも、日本の新聞にはインドのことがほとんど書かれていないということだった。

<日本はアジアの雄だから、日本の新聞を読めばアジアの今日のすべてがわかると思っていただけに私はおどろいた。日本のインドへの援助額の大きさを考えると、日本が常々インドに大きな関心を抱いており、日々、わが国の情況が紙面で伝えられているにちがいないと思っていたのである。

 国外記事は欧米偏重で、アジアは軽視されていた。完全に排除されているといった感じである。私の立場ではこうした欧米中心の新聞のほうが勉強になるが、アジアで起きているさまざまな問題が、アジアの情報センターともいうべき日本でほとんど報道されていないことは意外だった。

 国内記事についていえることは、事件中心で論評に乏しく、非個性的で、外見的な記述に終始していることである。この姿勢は報道というより報告というべきもので、その多くが通り一ぺんのレポートにとどまっている。帰納的論法や見識が排除され、署名記事や論説委員による記事の割合も少ない。

 このことについては、のちに雑誌編集長の坂本氏から、その部分は週刊誌や月刊誌に委ねられていると教えられた。日本の多くの週刊誌はすべての分野を取りあげ、芸能界のゴシップから政治経済、軍事、風俗にいたるまで、完膚なきまでに事件を切り刻む体質があり、それは「週刊誌文化」と呼んでいい独特のものだという。

 ゴシップや卑猥な事件ばかりを取り上げる低俗な週刊誌も若干あるそうだが、氏によれば、そういう下手物的週刊誌の存在こそ、彼らが社会的正義や分別を持ち合わせていないだけに、ときのは報道のタブーを冒して暴露するパワーがあり、存在意義もあるというのである。この二つの報同文化がテレビを巻き込みながら止揚的役割を果たし、人々に真実を提供するというシステムを、日本はもっているのである>

 日本の報道文化についてのシャルマさんの理解はおよそ正しいように思う。私の見るところ、日本の新聞の「報道というより報告」という姿勢は、論理と実証性を重んじる客観的精神の乏しさからきているようだ。

 真実を追究し、事件の本質を人々にわかりやすく伝えようというジャーナリズム精神が限りなく希薄である。欧米偏重、アジア軽視という風潮も、こうしたご都合主義的な新聞報道の体質と無縁ではない。 


2004年07月25日(日) 裸のつき合いの難しさ

インドでは裸のつき合いをすることはないらしい。シャルマさんは友人と田舎の温泉宿に行って、一緒に風呂に入ろうと誘われて驚いた。しかも真っ裸になるのだと知って、パニックに陥った。インドで沐浴するときは布をつけている。

「ああ、じゃ、あなたが先に入ればいい。私は外で待っているから。しかしパンツをはいて入ってはいけません。宿の主人が怒りますからね」

 インドの場合は逆である。裸で温泉に入ったりしたら叱られるだろう。友人にいわれて、彼はしぶしぶ中にはいるが、結局シャワーも浴びずに退散することになる。二度目の時も、シャワーを浴びるのがやっとだった。友人はさらに、追いうちをかけるように言う。

「宿によっては、男女一緒に入るところもあるのですよ」
「男女一緒に。全裸で、ですか」
「そうです」
「見知らぬ男女同士が、ですか」
「そうです。そして、一つの湯に浸かって世間話をするのですな」

 男女混浴もあると聞いて、シャルマさんは言葉を失う。彼は自分の両親が一緒に風呂に入るところを想像できない。男女が一緒にいることでさえほとんどないインドでは、混浴などまず、ありえない光景らしい。

 日本は「恥の文化」だと聞いていた。そこで、友人に確認すると、友人はうなづいて、「日本人は恥のために自殺できる民族なんです。恥は人生最大の不徳ですから」という。しかし、日本人とインド人では「はずかしいこと」の中味がまったく違うようだ。

 宴会の席でも日本人はよく裸になる。宴会で紳士然としていることは許されず、むしろ裸に近づくのがよしとされる。そこで人々は上着を脱ぎ、ネクタイを外し、ときにはワイシャツまで脱いでパンツ姿になり、裸踊りを披露する。あるいは手品をしたり、歌を歌う。インドでは歌や手品を披露すれば、乞食のカーストだと勘違いされて、翌日から口を利いてもらえなくなるのが落ちである。

<日本をよく知らないインド人が来日して相手会社の社長が余興をして見せたら、頭がこんがらかってしまうに違いない。最も敬意を払うべき相手が、下級カーストばりに芸の真似をして見せるのだから。さらに絶望的なことは、相手が、自分にも同じようにせよと求めることである。インド企業の代表として自信と矜持にあふれて来日したインド人が、着いた早々、下層カーストと同じことをしなくてはならない。頑なになったり、故国へ逃げて帰りたくなる者が出るのもやむを得ない>(喪失の国、日本)

 実際、在日インド人の技術者が、自分の勤務する企業を相手に訴訟を起こした例もあるという。たしかに、インド人が自分のプライドを棄てて、こうした日本のビジネス習慣を身につけることは容易ではない。多くの場合、耐えられないことらしい。

 しかし、「郷にいれば郷に従え」という言葉がある。シャルマさんは友人のアドバイスに従って、宴会ではヨーガの実演をすることにした。握った右手の親指と小指だけを立てて、それで鼻の左右の穴を交互にふさぎ、片方の鼻から空気を吸って片方から吐く。古くから聖者がやってきた方法だった。それを実演すると、座が盛り上がり、誰もが喜んだが、彼自身はやはり釈然としない。

「日本のビジネスマンは何かといえば酒に誘い、二軒三軒とはしごをし、最後は女遊びで締めくくる。いったい日本人のビジネスマンは妻や家庭をどう考えているのだろうか。彼らは、愛する女性と結婚していないのだろうか。妻や子どもはそれで平気なのだろうか」

  シャルマさんは新聞の特派員をしているアラブ系の記者がこう語るのを聞いたことがあるという。彼は在日10年になり、日本人の女性と結婚していたが、午後5時以降は家に帰り、仕事上のつき合いは一切拒否しているという。日本のビジネス文化は一種独特で、なかなか外国の人たちには納得できないものらしい。


2004年07月24日(土) 身分による分業制社会

 シャルマさんによると、インドは世界で唯一、それこそスリッパから原爆まで、自前で作る国だという。どうしてそうなったのか。これは周辺国との対立が大きく、他国の部品に依存することはできなかったために、そうなったのだという。

 しかも、こうした自前主義をインドは前近代的なカースト制を温存したまま行ってきた。ここからインド独自のおよそ前近代的な生産システムが生まれることになった。ところが西洋の知識人にとって、インドのこうした遅れた文化が魅力的に映る場合がある。

 未来学者のロベルト・ユングは「21世紀に世界を支配するのは経済指標の最高位を示す国ではなく、機械と人間の共存を解決した国家である」と書いているが、そうした共存を志向する国の筆頭に、インドが考えられることがおおい。しかし、シャルマさんはこうした欧米の知識人のインド理解に懐疑的である。

 現代のインドは世界最大の「民主主義国家」であり、優秀なコンピューター技術者集団を要する世界最大の「ハイテク国家」として世界から注目を浴びている。しかし、社会の根底にはいまだに古いカースト制が残っている。現代インドにハイテク機器を導入するためには、意識の社会的生産基盤が必要である。それがないまま導入すれば、廃墟とお荷物が増えるだけだと、シャルマさんは考えている。

 私たち文明の最先端を行く先進国の人々は、ノスタルジーとして古いものに憧れることが多い。そしてその「古い世界」の代表がインドなわけだ。歴史学者のアーノルド・トインビーは「西洋文明を救いうる唯一の道は瞑想である」と書いているが、はたして「瞑想」で社会が救われるか疑問である。少なくともインド人のシャルマさんはそうは考えない。

 インドは現在、社会全体で身分制による巨大な工場制手工業国を形成している。そしてこの生産ラインは、すべてのカーストが千年前とおなじ意識でかかわることで動かされている。インドの清掃係は清掃しかしないし、門番は門や部屋の開け閉めしかしない。もし、清掃人が休めば、部屋は汚れたままで、門番が休めば、部屋にも入れないことになるわけだ。これは少し誇張した言い方だが、インドは基本的にこうした身分による分業で成り立っている社会だといえる。

 こうした社会と対極にあるのが、日本社会だろう。日本では社長が門を開けたり、場合によっては掃除をしたりする。社員と同じ食堂で食事をし、ときには部下にお茶を運んできたりする。もしこうしたことをインドですればどういうことになるか。その社長は奴隷階級だと見なされ、バカにされるだけである。

 シャルマさんはこうした身分的社会で、しかも最高位のカーストとして生きてきたわけだ。そうした人がその対極の平等社会である日本にやってきたらどういうことになるか。その日本滞在記が多くの失敗談で埋め尽くされるであろうことは想像できる。

 たとえばこんなことがあった。日本人の友人の家庭に招待されたとき、玄関先で靴を脱がなければならない。脱いだ靴をシャルマさんは爪先で揃えた。そのとき、友人は「日本ではそれは不作法ということになります」と忠告し、手で揃えるようにアドバイスした。

 ところがシャルマさんはこれに強い心理的抵抗を覚えた。インドであれば、自分の靴に手で触れることはない。それを専門の仕事にする人々がいる。身をかがめ、手で靴に触れることは、下層階級にしか許されない行為だからだ。シャルマさんにとって、靴を自分の手で揃えるということでさえ、乗り越えなければならない異文化の壁だったわけだ。


2004年07月23日(金) ビジネスよりも大切なもの

「喪失の国、日本」を読んでも、ビジネスの話はほとんどでてこない。でてくるのは、食べ物や住居、娯楽といった文化の話である。シャルマさんは花見をしたり、山の中の温泉宿に泊まったり、ゲイバーにまで足を運び、さまざまな異文化体験をしている。

 シャルマさんは市場調査会社の社員だが、インドを出発するとき、上司から特別な仕事の指示を受けたわけではないようだ。上司のヴィクラマディティア氏は日本に旅立つシャルマさんにこんなアドバイスをしている。

「われわれが知りたいのは、雑誌に載るような日本経済の最新情報ではないのだ。そういうものは、君も知ってのとおり、正規のルートでいくらでも入ってくる。そうではなく、われわれにいちばん必要な情報は、これからつき合う国とわれわれの文化的ギャップがどのような種類のものかということだ」

「日本では毎日遊んでもいいんだ。新聞や雑誌の広告ばかり見ていてもいい。それをインドに持って来てではなく現地で、日本の中で見、感じることに意味があるのだ。現地にいるということは、生きたさまざまな情報にさらされることだよ。判断にも現地ならではの、無意識下での広い働きかけがある。まあとにかく肩に力を入れないで、リラックスすることだ」

 シャルマさんはこの親切な上司のアドバイスを忠実に実行した。ビジネスをしようと思ったら、まずその国の人々の生活に触れ、文化や歴史を理解しなければならない。しかもそれを仕事とは思わないで、リラックスして、遊びのように楽しみながら行うこと。こうした姿勢で、シャルマさんは日本での1年8ヶ月を過ごした。だから、「喪失の国、日本」などという内容のある本が書けたのだろう。

 もっとも、ビジネスの話がまったくないわけではない。当時、インドの大統領はS・D・シャルマだった。同姓のシャルマさんはその一族に間違えられ、彼のもとにインドでカラオケビジネスを仲介して欲しいという話が持ち込まれたことがある。彼は自分が大統領とは血縁関係ないこと、インドでは決してカラオケは流行しないことを明らかにして、これを断ったという。

 インドでカラオケが流行らないのは、インドでは人前で歌を歌うのは乞食のカーストのやることで、一般の人たちは家でくちずさむことはあっても、友人や職場の同僚の前でのど自慢をすることはないという。そんなことをしたら、乞食だと思われてしまうからだ。

 また、治安上の問題がある。政府はカラオケボックスのようなテロリストが喜んで秘密の談合場所にするような防音設備の整った貸部屋を許可するわけはない。さらに、政府が許可しても、機械のメンテナンスの問題がある。おそらく機械は分解されて持ち去られ、1週間も経たないうちに建物全体が廃墟と化すだろう。カラオケが商売として成り立つには、ある程度の豊かさと平和がなければならないが、インドはまだこの条件を満たしていないわけだ。


2004年07月22日(木) 占星術の国インド

 世界で一番占星術が盛んなのがインドらしい。大学教育を受けたエリートビジネスマンのシャルマさんですら日本に出発する日を占星術で決めている。ニューデリーの占星術師は最新式のコンピューターを使って、出発日を決めてくれた。さらにトパーズを身につけるとよいというので、シャルマさんはその足で高級宝石店へ行って、トパーズの指輪を買ったのだという。

 占星術は1500年前にギリシャから伝えられた。そしてインドでは多くのことが占星術によって決められている。たとえば1947年8月15日にインドはイギリスから独立したが、独立記念日は前日の14日に繰り上げられた。これも占星術の結果だという。

 あのマハートマ・ガンディまでが独立日を占星術で占っていたというのは少し意外だ。現代のインドはコンピューター技術者が世界一多い国だとも言われているが、その国で占星術が横行し、しかもその複雑な計算をコンピューターが行っている。

 シャルマさんの正式な名前は、モーハンダース・カラムチャンド・シャルマという。このモーハンダースという名前も、多くのヒンズー教徒がそうであるように、出生時の黄道宮が属した宇宙音に従ってつけられたのだという。ちなみにシャルマさんの守護星は木星プリハスパティだという。

 インド社会なぜインドで占星術が幅をきかせるのか。それはインドが多民族・多宗教国家であることがひとつの理由ではないかとシャルマさんはみている。しかも家族が多いので、なかなか意見がまとまらない。そこで、占星術を持ち出すことで、ようやく何かを決めることができるというわけだ。

<価値観や宗教を異にする他民族によって構成されるインドのような複合国家は、国家原理の根幹にこのようなニュートラルで神秘的な決定手段を持っていていいのだと私は思う。論理を超え、直接感情の深層に働きかけることによって統御不可能なものを統御することができる。私はそれを賢い方法だと思っている。というのも、論理は文化の形によってさまざまに異なり、あるときはお互いに正反対であることがあるから、主張すればするほど相互に軋轢を生む>

 インドを訪れた日本人は、占星術が彼らを支配しているのに驚くだろう。そして彼らを遅れた人々として軽蔑するかも知れない。しかし、シャルマさんは、占星術の宗教を超えたパラダイムはインドには必要なものだという。それは「非合理のなかに潜む合理」だとも書いている。

 こうしたことは単一民族国家の日本でも、見られないわけではない。私たちは結婚式や葬式の日取りを大安や友引といった「民還暦」の日柄によって決めている。これもまた不合理な因習のようでいて、何かの実用的価値をもっているのかもしれない。本来文化というものはこうした懐の深いものなのだろう。


2004年07月21日(水) 日本への憧れと幻滅

 インドではセールス部門のビジネスマンは、おもに最上位カーストのバラモンによって構成されているという。その理由は、バラモンであればどの家の敷居もまたぐことができる。どの会社の社長室にも入ることができ、どのような人物にも会うことができるからだという。M・K・シャルマさんはこう書いている。

<身分制が廃止されて久しいといっても、保守的な感覚を持った資産家や実業家が多く、大手企業の社主には元マハーラージャも多い。こういう人たちの家や役員室に、優秀だが低カーストのビジネスマンを送りつけることはリスクが大きすぎる。相手のなかには、侮辱に耐えかねて一切を破談にする者も出てくる>(「喪失の国、ニッポン」以下の引用も同じ)

 こうした風土をもつインドに、日本企業の多くは、大した肩書きをもたない若手を送り込み、強気のビジネスをはじめる。しかし、これではうまくいくはずがない。日本から派遣されたビジネスマンは壁にぶちあたり、大きなストレスを抱え込む。

<彼らは、どうすればインド人の目に自分が上位カーストと映るのかわからなかったので、相手のカーストに対する配慮のないまま、ただやみくもに罵倒することで己の優位を示そうとしたのである。これはインド人たちの目に、庭師も掃除夫もタイピストもビジネスマンもいっしょと見なす無理解な外国人に映った>

 デリーやマドラスのインド人ビジネスマンたちが、彼らから学んだ日本語は、「こんにちは」や「ありがとう」ではなく、「バカヤロー」だったという。日本人ビジネスマンはなぜ欧米人のように相手国の文化を研究しないままやってくるのか。シャルマさんには信じられないことだという。

 シャルマさんも、多くのインド人ビジネスマンがそうであるように、バラモンのカーストである。1955年にラージャスターン州ウダイプルで生まれた。家はとても貧しかったが、優秀な彼は奨学金を受けて、ラージャンスター大学、デリー大学に学んだ。ニューデリーの市場調査会社に就職し、調査のために1992年に来日した。

 来日が決まったとき、親日家であった彼の父は大変喜んだという。父親は第二次大戦中、チャンドラ・ボーズが率いるインド国民軍に参加し、日本軍とともに大東亜共栄圏の実現を目差してインパール作戦を戦ったことがある。そんな父親にとって、日本は憧れの国だったという。父親の影響で、シャルマさんも日本に憧れていたという。そして、三島由紀夫の「金閣寺」の英訳を読んだりしている。

<級友たちがソビエトやイギリスやアメリカに憧れていたとき、私は極東の国日本に憧れていた。どの国よりも礼節を重んじ、ビヤーナ、つまり師や年長者を尊ぶ国。クシャトリア(武士)が大勢いて、仏陀を信奉し、緑にあふれた島国。戦後人間宣言はしたが、つい十数年前まで生き神が支配してきた国。そして世界的な工業国。・・・・が、父にいわせると日本はもっとすぐれた文化をもつ国だという>

 1年8ヶ月の日本滞在中に、シャルマさんは突然父親の訃報に接する。そして、父親は「自分の遺灰を6千キロはなれた日本に撒けと遺言していた。シャルマさんはそれを隅田川に撒くことにした。隅田川のイメージがガンジス川の支流のヤムナー川に似ていたからだという。

<私は父に、父がイメージしていた日本と日本人像とが、いまや殆ど滅びてしまったことを話す機会がなかったことを幸いに思う。しかし、父が亡くなったいま、ここで父に対して多少の報告をしておかなければならない>

 父親が死んだ後、彼は会社を辞めて、インドに帰る。彼はニューデリーにも故郷にも戻らず、砂漠の果ての古い町に移り住んで、「喪失の国、日本」を書いた。おそらく、彼はこの書を今はない父親への報告として書いたのではないかと思う。この書は現代日本に対してかなり辛辣である。しかしその辛口の語りの中に、日本に対する愛情があふれている。彼の批評は、この愛情の裏返しだということがよくわかる。


2004年07月20日(火) 不思議な出合い

 世の中には、幸運な出合いがあるものだ。この二日間、「喪失の国、日本」というエリートビジネスマンだったインド人の書いた本を読みながら思った。私がこの本を目にしたのは、今年の3月に東京へ遊びに行ったときだった。

 時間調整のために、何気なく入った街角の書店の新刊書コーナーで手に取り、そのまま30分ほど読んだ。私は速読術の名人である。この位の時間があればたいてい二冊や三冊の本は読んでしまうのだが、この本は違った。一字一句味わいながら読んでいた。

 時間が来て、私はその本を買おうか迷った。しかし、旅先のことであり、懐の淋しさも手伝って、その本を書架に戻した。しかし、書店を出て、友人と会ったりしているうちに、やはり続きを見たいと思った。そこで書店があると、新刊書売場を覗いてみたが、その後、この本を目にすることはなかった。

 ところが、先日、私はこの本を行きつけの図書館で見つけた。図書館の書架に「喪失の国、日本」というタイトルを見出して、私の心は躍った。さっそくこれをかり出して、300ページ以上あるこの本をじっくりと読んだ。

 この本を書いたM・K・シャルマさんは、バブル崩壊直後の日本に1年8ケ月ビジネスマンとして滞在し、そのあとインドに帰り、田舎に引きこもって、この「日本滞在記」を書いた。そして「自家本」としてインドで出版したようだ。ヒンディー語で書かれた自分の本が日本で出版されるとは思ってもいなかっただろう。

 この本を訳した山田和さんは1997年2月、取材のためにインドを訪れた。そしてニューデリー南部のあるさびれた古本屋の棚で、偶然これを目にしたのだという。山田さんはヒンディー語で書かれた「日本の思い出」というタイトルにひかれた。インド人が書いた「日本滞在記」が珍しかったからだという。彼は前書きにこう書いている。

<私はかねがね宗教も論理も価値観もちがうインドの国の人たちが、日本に来たらどのような印象を抱くかということに興味があった。日本人の旅行者や滞在者がインドで味わうあの強烈な文化的違和感(カルチャーショック)を、日本を訪れたインド人もまた、逆のベクトルで感じることは疑いないと思われたからである。

 それはどのようなものなのか。また、経済の高度成長と崩壊過程を通じて荒廃した日本人の精神が。やや古めかしくて深い思慮を持つ彼らにどのように映るかについても興味があった。私にとって、デーヴァナガーリー文字で書かれたこの本を読めるときがいつ来るかわからなかったが、入手の機会を逃す手はなかった>

 山田さんはヒンディー語の書物を読むことはできない。読めるのは著者名とタイトルだけだったが、何か磁力のようなものを感じて、これを購入した。そして、再び旅を続けた。10日後、彼はインド西部のレージャスターン州を旅していた。その州の広さは日本本土とかわらなかったが、大半は不毛の荒れ地だという。インドの中でも僻地で、何千年も前の先住民の文化が残り、石器時代同然の生活をしている人たちもいる。そこに今は廃墟になった数々の遺跡があった。

 山田さんはすでに20年前に、ここを訪れていた。その記憶をたどりながら古い城の城門の前を歩いていると、突然、中年のインド人に声をかけられ、日本人と知ると、彼の家へ食事に誘われた。山田さんを案内してきたインド人のタクシー運転手は、彼の身を案じ、このような誘いには決して乗らないように忠告した。しかし、山田さんは夕方、その男の家を訪れた。

<私は初対面で男に惹かれたのだ。彼はいったいどんな男なのか。それを知りたい、確かめたいという気持がわきはじめていた。私は、好奇心の強さと同じほど自分が慎重だという自負ももっていた>

 その男の洋風の家の庭にはこのあたりでは珍しく緑であふれていた。彼は栽培している鉢植えの植物にホースで水をやりながら、ラテン語の植物の名前を教えてくれた。砂漠の果てに住みながら、彼は植物を友とし、自然と人生を楽しんでいるように見えた。彼の出してくれた茶は淡泊だったが、甘みの奥に薬草のような仄かな香りが忍んでいた。

<男は私にこの国の印象を訊ね、私の旅のルートを訊いた。私は話すことがいくらでもあった。インドは日本とあまりにちがいすぎる。足を一歩前に出すたびに、腕を一振りするたびに、力車のステップに足をかけるたびに、世界はぎしぎしと音をたて、思いもよらぬドラマがはじまる。それが私にとってのインドだと答えた。

 そして、インド人が日本に来たら、どのように感じるか大いに興味がある。ところで私は旅の最初で奇妙なものを手に入れたと言って、バッグの中からくだんの本を取りだして見せた。それを見て男の表情が変わった。急に立ち上がり、奇声を発して、それから大声で笑い出した。

 まったく神の巡り合わせとしか言いようがないのだが、城門そばで会い、私を食事に誘ってくれたこの人物こそ、まさしくこの書物の著者だったというわけである。日本の九倍もある国土の、砂漠の果ての町で、九億五千万のうちの一人と、私は奇跡的に巡り合ったのだ>

 男は山田さんのために、この本を英訳しようと約束してくれた。3ヶ月後、山田さん宛てに、この本の英訳がおくられてきた。本は彼の期待を裏切らなかった。むしろ想像以上の内容だった。こうして、まったく思いがけない偶然で、この本が日本で出版されることになったわけだ。明日の日記で、本の内容を紹介しよう。


2004年07月19日(月) 大地に緑を、人々に笑顔を

 セルジオ越前さんに教えられて、17日(土)放送のNHK教育ETV特集「戦乱と干ばつの大地から 〜医師中村哲 アフガニスタンの20年〜」を見た。医師でありながら井戸を掘り、用水路建設まではじめた中村さんの活動が、90分のドキュメンタリー番組として紹介されていた。セルジオさんの感想を紹介しよう。

<中村医師を含めて、わずか十人の日本人ボランティアが運営している現地のぺシャワール会ですが、今回の放送を見て、やはり現代日本の英知がここに生かされ、開花していることを頼もしく思いました。中村医師は最新医療をマスターした上で、どのように現地に効率良く適用していくか頭を使っておられるようですし、(中村氏自らもクレーン車やショベルカーを運転して)独学で身に付けた水理工学や農業土木の技術を駆使して、元教師やボクサーなどのボランティアとともに、荒廃した大地に恵みの水をもたらす用水路を建設する様子は感動的でした>

 戦禍と干ばつに見舞われたアフガニスタンの農村はすっかり荒廃している。諸外国や国際機関の援助は都市に集中し、あらたな援助難民をもつくりだしているのが現状らしい。

 民主主義や選挙も大切だが、人口の8割が農民である国にとって、何よりも大切なのは緑の大地であり、そこで営なまれる人々の平和な暮らしである。砂漠化した大地に潤いをもたらし、緑を回復すること、そして豊かな作物の実りをもたらすこと、これがアフガンの人々の本当の願いだろう。

 中村医師が繰り返していたのは、援助とは相手の文化の否定であってはいけないし、人間としての誇りや尊厳を傷つけたり、自立心や独立心を奪うものであってはならないということだった。

 援助とは本来、ともに生き、ともに力を合わせて、双方に生きる勇気と自信をもたらす共同事業であるべきなのだ。番組の最後の、用水路に水が流れるシーンはとても胸に迫った。中村医師をはじめ、人々の笑顔が輝いていた。

---------- 変貌の日本 ----------
  (中村哲、沖縄タイムス2003年12月28日)

 暮れの押し詰まった26日、私はアフガニスタンの山中から突然、東京へ降り立った。まるで別世界のようである。林立するビル、こざっぱりした身なりの人々、停電もない不夜城のような明かり、分刻みで正確に動く列車、受話器を取って電話番号を押せば誰とでも簡単に通話ができる。つい一昨日まで、旱魃地獄の中で生きる糧と水を求め、人々を叱咤激励していた自分自身が、別人のように遠くかすんでくる。鏡をのぞいて、日焼けと無精ひげの自分と向かい、「お前は誰だ」と心の中で叫ぶ。まる1カ月、隔絶した山中で聞く世界が遠く思えたが、今度は夢のようにアフガニスタンを追憶する。

 イラクに自衛隊が派遣されることを聞いたのは、そんな時だった。「まさか」と思えることに遭遇すると、人は現実感を失うことがある。ちょうど1年前、10歳の息子を脳腫瘍で失った時、寸前まで万が一の奇跡にすがっていた。2年前、アフガン空爆が強行された時も、そうだった。子供のとき戦火をくぐった大人たちが語る平和の尊さが、今足元から崩れ落ちる実態もまた、そうである。「取り返しのつかぬことを」と思った。世界は不条理と虚像で満ちあふれているのだ。離人症のように、ぼんやりと日本の現実と対面する。そして、急激に変貌した祖国に愕然とするのである。

 月日は移ろいやすい。人間たちの関心もそうである。アフガン空爆も、復興支援も、濁流に飲み込まれるように人々の意識から消えうせてしまったように思える。さまざまな論評も、批判も、政治的ご都合主義の中で嘘のように葬り去られた。

 米国は「アフガニスタンの成功例」を基にイラクに戦争を仕掛けたし、米国との腐れ縁に引きずられる日本は、ついに国是を破って自衛隊派遣に踏み切った。しかし、寒風にさらされるアフガンの避難民の大部分は、ついに国際支援の恩恵に浴さなかった。大方の国際団体は活動を停止するか、スポットの当たる別の地域に移動した。日本中を巻き込んだ、あのニューヨーク・多発テロ事件、それに次ぐ空爆や復興の話題はどこに消えうせたのだろう。

 しかし、「アフガニスタン」は厳として自分の目前にあった。そこでは争いに疲れた人々の群れが、飢えや渇きと戦い、国際的関心とは無関係に生きる様がある。過去20数年間と同様、たくましく苦難をすり抜け、必死で生きようとしている。

 多くの者がアフガニスタンを語り、平和と戦争を語り、世界のあるべき姿を語り、そしてアフガニスタンから足早に離れていった。私たちの言動も批判や賛同に包まれたが、結局は「残る者が残り、後始末をせざるを得ない」というほかはなかった。

 私の描いてきたアフガン像の正確さはともかく、動かせぬ事実は、これを機に、一見勇ましい暴力主義が幅を利かせるようになり、世界が何かに憑かれたように大きく揺れ始めたことである。今や、私たちの信じて疑わなかった「民主主義」や「自由」が戦争の大義名分となり、西欧的価値に従順でないものはすべて、異物として葬り去られるようにさえ思える。「世界平和維持」のために軍事行動が是認される時代となった。

 だが、これらは今に始まったことではない。かつて日本もまた、「東洋平和」のため、「大東亜共栄」のため、無謀な軍事的冒険を行った。旧ソ連は、人民解放のために、膨大な人民を殺りくした。19世紀の列強の植民地主義は「遅れて貧しい者たちの教化」を旗頭にして、征服戦争を正当化した。平和は、戦争と戦争との間の、つかの間の休息であったに過ぎない。

 だからと言って、「平和」の価値が揺らぐものではない。暴力による圧伏は、決してよい結果を生まないだろう。私たちが過去を裁いたその秤で、遠からずして私たちが裁かれる日がくるだろう。国家的暴力を正当化するどんな言葉も空疎に響く。「平和国家・日本」への憧れは、しょせん夢だったのだろうか。私たちはいったい何を守るために、遠い国々へ武力を発動するのか。私たちは、次の世代へ何を残そうとするのか、真剣に思い巡らす時代にあることを知るべきである。私たちPMS(ペシャワール会医療サービス)の現地事業の軌跡が、ひとつの灯となることを祈るばかりである。


2004年07月18日(日) 数奇なる宇宙の運命

 人に一生があるように、星にも星の一生がある。たとえば、太陽は誕生して45億年ほどになるが、その寿命は100億年ほどだと考えられている。末期にはどんどん膨れ上がり、地球も太陽に呑み込まれる。そして最後にはまた収縮して、白色矮星になる。

 宇宙はビッグバンによって140億年ほど前に始まったと考えられる。これは理論的には一般相対論の方程式を解くと、そうした答えが得られる。「宇宙背景マイクロ波放射」の存在やハッブルの観測からも実証されていて、今ではほとんどの物理学者はこれを信じている。

 その理論によると、宇宙が始まって1秒後の温度は100億度くらいだったという。そしてその後の3分間で、現在の宇宙を構成する主要な元素である水素とヘリウムの原子核がつくられたと考えられている。もし、この3分がもう少し長引いたらどうであっただろうか。

 そうすると水素の大半がヘリウムになり、ヘリウムから炭素や酸素、さらに鉄や鉛といった重金属が作られたに違いない。そうするとどうなるか。大量の水素がなければ太陽のような恒星が存在することはできず、おそらく生命も誕生できなかったのではないかと思われる。

 3分間で水素が作られ、その後、宇宙が冷えていくなかで恒星が誕生し、やがてその恒星の中で炭素や酸素、鉄などの元素が次々と作られていく。やがてその恒星が爆発し、その重金属の塵をまきちらす。その塵がふたたび集まって次世代の太陽や惑星が誕生した。そうしてできた惑星のうえに生命が誕生したわけだ。神戸大学教授の松田卓也さんのHPから引用しよう。

<人間は有機物からできており、その主体は炭素原子である。水素とヘリウムを軽元素、それ以外を重元素とよぼう。人間を構成する元素としては、炭素のほかに酸素、窒素、鉄などさまざまある。この地球も、中心部を構成する鉄、ニッケル、岩石を構成する珪素、海の水を構成する酸素、空気の成分である酸素と窒素などの重元素からできている。

 しかしこれらの重元素は宇宙の主要な構成要素ではない。重元素は全体のたった3パーセントしかないのである。この3パーセントの存在が、われわれ人間にとっては極めて重要なのである。宇宙の主要な構成物である水素とヘリウムだけでは、惑星も生物も人間もつくれないのである。

 ところが重元素は宇宙にもともと存在したものではない。宇宙の始めの3分間に水素とヘリウムという軽元素はできたが、炭素や酸素などはできなかった。重元素は星の中で作られる。星が一生の終わりに大爆発をして、これらの重元素は星の外にまき散らされる。

 重元素で汚染された気体から、あらたな星が作られる。重元素のチリが固まって惑星ができる。惑星の上で生命が誕生する。生命が進化して人間が発生する。人間が宇宙のことを考える。皮肉な話だが、宇宙の重元素汚染が生命誕生のもとなのである>

 幸い、私たちの宇宙の火の玉状態は3分間しか続かず、その後急速に膨張し、温度が下がって行った。そして10万年ほど経過すると、宇宙の温度は4千度程度になる。この温度まで下がると、それまで遊離していた電子が原子核と結合し、宇宙のプラズマ状態が解消される。そしてこれまで曇っていた宇宙が、突然透明に晴れ上がることになる。

 ガモフはこのとき宇宙に生まれた光が、現在も薄められてこの宇宙に残っている筈だと予言し、実際にペンジアスとウイルソンが1965年に電波アンテナを用いて偶然に発見したわけだ。この絶対3度の宇宙背景放射の存在が決め手になって、ビッグバン理論は学会でもっとも確からしい理論として認知されたわけだ。

 それでは、この宇宙の今後の運命はどのようなものだろうか。これには大きく二つのシナリオがある。宇宙はこのままとめどなく膨張を続け、しだいに星星はその光りをうしない、やがて永遠の静寂の中に落ちていくというのがひとつ。

 もう一つのシナリオは、宇宙はやがて重力によって収縮を始め、ふたたび一点に収縮し、やがて新たなビッグバンが生じて、宇宙が再生するというものである。私としては「宇宙再生説」にロマンを感じるが、さて宇宙の運命はいずれになるのだろうか。

(参考サイト)
http://nova.scitec.kobe-u.ac.jp/~matsuda/matsuda.html


2004年07月17日(土) 宇宙の年齢を測った男

 私たちの棲んでいる宇宙はどのくらいの大きさがあるのだろうか。宇宙の大きさが無限だと考えていた人もいたが、今では多くの学者がこの宇宙は有限だと考えている。それにともなって、宇宙の年齢も有限だという考えられるようになった。宇宙は140億年ほどまえに「ビッグ・バン」によって生まれたというのが定説になっている。

 ビッグ・バンによって、空間が生まれ、時間が生まれ、物質が生まれた。つまり、この世界が生まれた。そして最初は針の先のように小さな点に過ぎなかった宇宙が、140億年かけて膨張し、現在見られるすがたになったわけだ。

 こういう話を聞くと、それではそのビッグ・バンが始まる前は世界はどうなっていたのかと疑問に思わずにはいられない。時間も空間もない世界を私たちはどのようにして想像したらよいのだろう。残念ながら、私もこの問には答えられない。それは私たちの想像を絶する世界だとしかいいようがないのだ。

 こうした「ビッグ・バン宇宙論」を最初に唱えたのはガモフ(1904年〜1968年)だが、それでは何故、彼はこんな荒唐無稽なことを思いついたのだろうか。そのためには、もう少し時間を遡ってみなければならない。

 宇宙空間は無限であり、空間や時間が物質のように生まれたり消滅したりするものではいことは、物理学者もあたりまえの常識として受け入れたいた。このことは「相対性理論」を発見し、時間と空間について革命的な発見をしたアインシュタインもそうだった。

 もっとも、アインシュタインの相対性理論から導かれる宇宙方程式を解くと、実は宇宙が膨張したり収縮するするという解が導かれる。そこでアインシュタインはこれを不可能にするため、その方程式に「補正項」を加えて、静的な宇宙像を守ろうとした。

 しかし、1922年にフリードマンはアインシュタインのこのやりかたを批判した。補正項などつけくわえなくてもよいというわけだ。そして彼自身独自な計算をして、「宇宙は膨張する」という結論を導き出した。アインシュタインはこれに反対した。彼は宇宙は静的で調和がとれたものでなかればならないと考えていたようだ。しかし、アインシュタインはやがて自分の間違いを認めなければならなくなった。

 1928年にアメリカのE.ハッブル(1889-1953)がウイルソン天文台の直径100インチの天体望遠鏡で観測していて、あることに気付いた。それは、「私たちの銀河の外にあるすべての銀河は、私たちの銀河から遠ざかりつつあり、 その遠ざかる速度はその銀河までの距離に比例する」ということだ。式に書くと次のようになる。

 v=Hr 
(vは後退速度 rはわれわれからの距離 Hはハッブルの定数)

 ハッブルによると、この宇宙に存在するすべての銀河は、その距離に比例する速さで遠ざかりつつある。これは風船を膨らませたとき、その表面が膨張するときの情況に似ている。私たちの棲んでいる宇宙はある意味でこの風船の表面のようなものだと言える。

 これという中心はなく、その表面に散らばっている点(銀河)は、風船が膨らむにつれて、それぞれの距離に比例して拡大していく。もちろん、実際の宇宙空間は3次元だから、風船の表面のような平面ではない。これはあくまでもたとえに過ぎない。

 1929年、彼はこれを 「ハップルの法則」として発表した。アインシュタインはさっそく、ウイルソン天文台に行って望遠鏡をのぞき、ハップルの観測データを確かめて、 ついに「宇宙は膨張する」ことを事実として認めた。

 ハッブルの観測によると、距離が100万光年遠くにある銀河の後退速度はおよそ20km/sである。1000万光年で200km/s、1億光年で2000km/s、150億光年だとちょうど30万km/sで、これは光速に等しい。そしてアインシュタインの理論によれば、私たちは光速より速く移動する物体を考えることができないわけだから、これが私たちからもっとも遠い宇宙の場所だということになる。風船のたとえで言えば、丁度裏側にある点である。

 そこで時間をさかのぼってみよう。150億光年先にある銀河は、150億年前にはどこにあったのか。いうまでもなく、それは私たちの鼻先にあったことになる。つまり、150億年前には宇宙全体がわれわれのところ、つまり1点に集まってしまう。ガモフはこうした推論から、1946年に「ビッグ・バン宇宙論」を発表したわけだ。

 ハッブルの定数は、このように宇宙の年齢を決める重要な数値だが、じつは遠い天体ほど、その距離の測定が難しい。最近はハッブルの定数は100万光年につき20km/sより少し大きいらしいことがわかってきた。この宇宙の年齢は140億年より少し若い可能性もでてきた。宇宙に誕生があるとすると、死もあるのだろうか。宇宙の寿命について、明日の日記で書いてみよう。


2004年07月16日(金) 宇宙の温度を予言した男

 1964年、通信衛星の電波を受ける高感度のマイクロ波アンテナをチェックしていたアメリカの二人の電波技師、ペンジアスとウイルソンが、どうしても除去できない電波障害で悩んでいた。アンテナをどの方向に向けてもその雑音はなくならなかった。しかも季節や時間にも関係しない。

 その謎の電波は地上のものではなく、宇宙からやってきたものらしい。しかも、宇宙の特定の星や銀河からやってきたものではなく、この宇宙空間そのものに由来するもののようだ。謎の電波の波長は約7センチメートルだった。

 夜空の星星はよくみるとみんな色が違っている、赤い星もあれば青白い星もある。星の色は星の表面温度の違いだということが分かっている。赤い星ほど温度が低く、青白い星の温度は高い。

 星だけではなく、すべての物体はその温度に応じた電波(光)を放っている。たとえば私たちの体からも電波が出ている。ただその温度が星の温度と比べて低いので、波長の長い赤外線がでていて、目に見えないだけだ。

 波長7センチメートルという電波は、どのくらいの温度の物体から出る電波かというと、これが実に絶対3度(マイナス270度)という超低温の物体から放射される電波だ。しかも、今の場合はの電波源は、この宇宙空間そのものだと考えなければならない。つまり、この宇宙の温度がこのくらいだということだ。

 1965年になってペンジアスとウイルソンはこのことに気付いた。しかも、これに近い宇宙の温度をすでに予言していた科学者がいたことも分かった。科学者の名前は「不思議の国のトムキンズ」の著者としても有名なジョージ・ガモフ博士だ。

  ガモフが1946年に発表した「火の玉(爆発)宇宙論」は、「宇宙は高温高圧の火の玉から始まり、その後、膨張により冷えてきた」というものだ。彼はその証拠として、初期の大爆発の時の光が膨張によって冷やされ、絶対温度5〜7度ぐらいの電波として宇宙に残っているはずだと予言していた。

 ペンジアスとウイルソンが偶然見つけた絶対温度3K(3ケルビン、正確には2.735K=-270.425℃)の電波こそが、ガモフの予言した宇宙の誕生にかかわる電波だったのである。宇宙空間そのものに満たされている電波だから、季節や時間帯に関係なく、しかもあらゆる方向からやってくることになる。

 この電波のことを物理学者は今日「宇宙背景マイクロ波放射」と呼んでいる。そしてこの電波の発見で、ガモフの提唱した宇宙創造説「ビック・バン」がたんなる空想でないことがわかったわけだ。1978年にペンジアスとウイルソンは1965年に書いたわずか2ページ半の論文が評価されてノーベル物理学賞を受賞した。このときガモフが生きていたら、当然この名誉を彼らとわかちあっていただろう。現在では私たちの宇宙が「火の玉」から生まれたことは定説になっている。

(注)ジョージ・ガモフ(1904〜1968)。1928年レニングラード大学を修了し,ケンブリッジ大学を経て、コペンハーゲン大学助教授、1928年に原子核のα崩壊に量子力学を応用して“ガイガー・ルメートルの法則”を説明した。レニングラード科学アカデミー研究部長を勤めたあと、アメリカに渡り、ジョージ・ワシントン大学教授、コロラド大学教授を歴任。1948年に「火の玉宇宙」というアイデアを発表。あまりにユニークだったので、他の科学者から、「ビッグバン(爆発音、ばーん)理論」と呼ばれてからかわれた。彼はアイデアマンで、生化学では、4種類の核酸が遺伝情報の担い手であることを予言している。


2004年07月15日(木) 真理へのはるかな旅

 アリストテレスは船の帆の見える様子や月食の観察から、この大地が丸いことを正しく推測している。アレキサンドリア図書館の館長だったエラトステネスは、太陽の南中角度の観察と計算によって地球の半径を求めた。それでも、多くの人々は地球が丸いということを受け入れることができなかった。

 もし、丸かったら、反対側の人はどうなるのだろう。逆立ちして大地にしがみついて暮らしているのだろうか。手を離したりしたら、大空に「落ちていく」のではないだろうか。重力についての知識が乏しかった昔の人々は地球が丸いという学者の説は理解できなかった。

 大地が平たいとすると、その果てがどうなっているのだろうか。滝のようになっていて、そこに近づくと船はその滝から落ちてしまうのではないか。船乗り達の中にはそんな俗説を信じている者も多かったに違いない。

 これを覆したのがコロンブスだった。彼は大地が丸いとしたら、大西洋を西に進むことで東洋へたどり着くのではないかと考えた。そして実際にこれを実行した。彼が発見したのは東洋ではなくアメリカ大陸だったが、彼はこれをインド大陸だと考え、原住民をインデアンと呼んだ。

 コロンブスのあと、マゼランが地球一周の航海に出た。こうして大航海時代が始まり、もはやこの大地が丸いことはだれもうたがわなくなった。人々はようやく、アリストテレスが考えた世界像を受け入れたわけだ。ひとつの真実が受け入れられるまでに、実に千年以上の年月がかかっている。それでも真理はいつか人々に受け入れられる。私の好きなアリストテレスの言葉を引用しよう。

<すべての論述に対して同じ精確さが求められるべきではない。事柄の本性が許す範囲において、それぞれの類に応じた精確さを追求することが教養をそなえたひとに相応しいことだからである。人は誰でも自分の見知っていることをただしく判断する者であり、見知っていることについての善い判定者である。ひとが何をなすべきかを正しく判定するのは万事にわたる教養をそなえたひとである>(「ニコマコス倫理学」1巻3章)

 しかし、アリストテレスでさえ、宇宙の中心は地球で、太陽や星星は地球の周りを回っていると考えていた。コペルニクスが地動説を唱えても、おおくの人々はこれを信じなかった。なぜなら、大地が動いていたら、私たちはどうやってその上で安閑と暮らせるのだろう。私たちは大地に遅れないようにいつもものすごい速度で走っていなければならないのではないか。

 この疑問にガリレオは「天文学対話」の中でこたえている。動いている船のなかで、私たちは安閑に暮らしているではないか。甲板にいる人は、船から落ちないためにいつも走っているわけではない。私たちもこの地球という船に乗っていると考えればよいのだ。

 同じ早さで動いているとき、私たちは力を感じない。私たちが力を感じるのは、速さを変えたときと、運動の向きを変えたときである。地球は充分に大きいので、地表はほとんど等速直線運動をしているとみなしてよい。その上に暮らしている私たちも等速直線運動をしており、余分な力の干渉をうけないのだ。

 しかしガリレオのこの本は教会によって発禁になった。ガリレオは宗教裁判にかけられ、火あぶりの刑はまぬがれたものの、余生を監禁されることになった。しかし、監禁されながらも、ガリレオは本を書き続けた。彼は「新天文対話」で、登場人物のサグレードの口をかりて、こう述べている。

<数学でしか見られない厳密な論証に接して、私は脅威の念と喜びでいっぱいです。砲手の説明から、私は砲弾が最も遠くまで飛ぶ角度は45度だということを知っていました。しかし、そのことがなぜ起きるのかを理解することは、たんなる知識よりはるかに勝っています>

 1971年、アポロ15号の船長スコットは、月面にハンマーとタカの羽を落とし、両者が同時に落下するのを見て、「これでガリレオが正しかったことが証明された」と語った。それでもまだ、教会は沈黙していた。

 ようやく1992年、教皇ヨハネ・パウロ二世は、法王庁がおかした過去の誤りにはじめて言及し、ガリレオの思想を是認している。NASAの打ち上げたガリレオ探査機が木星に到達したのは、その3年後の1995年のことだった。


2004年07月14日(水) 心のなかの制帽

 制帽について、いやな思い出がある。私が生まれ育った福井県の場合、小学校の制帽には白線がないが、中学校では一本、高校では二本の白線があった。制帽を見れば、小学生か中学生か高校生かわかるわけだ。

 ところが私立高校の制帽には白線がないので、私たちは私立高校生のことを「小学生」なみにバカにしていた。それは中学校の先生からしてがそうで、「勉強しないと小学生に逆戻りだぞ」という意味のことをいう。

 この問題が解けるのは、○○高校のレベル、これは△△高校のレベルだと言われ、そうした中で高校の格差が中学生である私たちの頭に中にインプットされていく。そしてその序列の最底辺に白線のない私立高校の生徒たちのにきび面が浮かんくる。ああした連中の仲間にはなりたくないというわけで、中学生は県立高校の二本の白線にあこがれて勉強したわけだ。

 私の家のすぐ近くには県下一の名門の県立高校があった。私は当然のようにそこを受けたが落ちてしまい、軽蔑していた白線のない私立高校の帽子をかぶることになった。近くの県立高校ではなく、遠いところにある私立高校まで白線のない帽子を、世間の目を気にしながら、劣等感にさいなまれて毎日歩くのはとてもつらいことだ。

 高校一年生の夏休み、中学時代に親友だったAと、一泊で旅行に行ったが、私は制帽をかぶらなかった。県立高校生の彼は制服を着て、白線の二本入った帽子をこれみよがしにかぶっていた。私は彼の誇らしげな表情にとまどい、そして心のなかで、そっと決別を宣言した。彼とはそれ以来会っていない。

 私が高校受験に失敗した翌年、田舎に住んでいた父方の従兄弟が、私が失敗した県立高校に見事に合格し、しかも私の家の私の隣りの部屋に下宿して、学校に通いはじめた。これはつらかった。私は無神経な親戚や両親を恨んだ。この恨み、じつは現在も残っている。

 私立高校でも私の成績はふるわず、クラスでビリ近くだった。物理で赤点をとって職員室によびだされたりした。父には定時制に転学し、昼間働けとつきはなされたこともある。ぐれて、不良仲間にはいりかけた。河原でバイクを乗り回す計画に私も参加するつもりだったが、小学校からの友人のBに、「お前には似合わないから一緒に来るな」と言われてやめた。そのときはBにも見放されたようで淋しかったもだ。

 淋しさと孤独の中で、何かに縋るような思いで図書館に通い、色々な本を読んだ。トルストイやドストエフスキー、歎異抄、ラッセル、デカルトの「方法序説」やカントの「純粋理性批判」など、高校時代に手当たり次第読んだものだ。そうした宗教や哲学の本を読みながら、勉強もした。おかげで、大学の理学部に現役で合格できた。その後もいろいろあったが、大学院に進んで、現在は県立高校で数学をおしえている。

 生徒には「人生は何が起こるか分からないから、絶対にあきらめるな」と言っている。そして一番大切なのは、いい友人をもつことだとも。私に「来るな」と言ってくれた友人とは今でもつき合っている。

 差別されて初めて、差別されることの痛みがわかる。私は白線のない帽子を自らかぶることで、自分がどんなに残酷で高慢であったかがわかった。今になって振り返ってみると、これはとても貴重な体験だった。こうした体験がなければ、私は今以上に傲慢で鼻持ちならない人間になっていただろう。

 心の中に「学歴という制帽」をいまだに得意にかぶり続けている人がいる。そして、今の子どもたちも又、目に見えない制帽をかぶらされているのではないだろうか。いわれのない劣等感や驕慢心や差別心が、そこで増殖されているのではないかと恐れている。


2004年07月13日(火) 宝探しのゲーム(2)

 昨日にひきつづき、「宝探しのゲーム」を用いて、有効な経済的投資はいかにあるべきかということを考えてみよう。広大な土地に宝が埋まっていると知った男が、手持ちの資金でこの宝探しをすることにしたとする。10人の日雇い労働者を雇い入れて、彼らにさがさせるのである。このとき、どのように労働と報酬をマネジメントするのが効率的だろうか。

。隠或佑望ー蠅砲気させる。見つけた者に賞金の全額を与える。つまり一人だけが高給をもらい、他の9人は報酬がゼロになる。(競争システム)

土地を10の区画に分けて、平等に分担させる。賞与も平等に与える。つまり宝を見つけた者もそうでない9人もまったく同じ賃金を支給される。(協調システム)

 どちらのシステムにも長所と欠点がある。また、どちらのシステムが有効かというのは、労働者の意識や質の問題ともからんでくる。さらに、労働関係が自由で一時的なものか、長期的で拘束的なものかでも変わってくる。

 個人的競争社会のアメリカであれば,有効かも知れないが、集団的協調社会である日本の場合は、△受け入れやすい。年功序列型賃金体系や終身雇用制度はこの典型である。現在行われている小泉首相の「構造改革」は、これをアメリカ型の,諒向に変えようということだ。

 たしかに、,鉢△里△い世僕諭垢蔽奮の方法が考えられる。たとえば、土地を10の区画に分けた上で、自由な競争をさせるという方法や、基本給は平等だが、宝を見つけた者には特別な賞与を与えるという方法もある。その賞与の比率でも結果が変わるだろう。

 いずれの方法が効率的かは、それぞれの国の文化や歴史にもよるので、これだと決めつけることは出来ない。さらに大切なのは、こうした「ゲームの理論」はひとつの前提に立った議論だということである。それは「利潤の最大化」ということである。経済的利潤が人生の幸福の全てでないことはいうまでもない。


2004年07月12日(月) 宝探しのゲーム

 私が小学生の頃、ときどき友達と宝探しの遊びをしたものだ。それぞれが自分の大切なものをどこかに隠す。そして手がかりになるものも同時において、おたがいにそれを見つけだすゲームだ。今の子どもがテレビゲームで味わうようなときめきを、私たちもこうして街の中で楽しんだ。

 こうした面倒くさいプロセスを抜きにして、お互いが宝物を交換すれば手っ取り早いのだが、それではあまり宝物のありがたみがない。体を使い、頭を使って「宝物」を手に入れたときの喜びは大きいし、たとえその宝物がビー玉一個であっても、その発見までのプロセスが充実していればもうそれだけで大満足である。

 ときどき、人生も「宝さがしのゲーム」かもしれないと思う。「人生の宝」とはなにか。それは人によって違うだろうが、人々は結局自分の望んだものを、この人生という舞台でさがしまわっているのかもしれない。

 経済学者の永谷敬三さんによると、学者が競って論文を書くのも、宝探しのゲームに似ているという。アメリカの経済関係の論文はたいてい共著というスタイルをとるが、それはチームを組んだ方が効率がよいからだ。

 永谷さんはこのことについて、「競争的個人主義の国民が、能率向上のために、集団主義に転換したのである」と書いている。個人の競争を重んじ、自由で公平な市場の実現を主唱する新古典派経済学を主唱する人々が実践しているのが自分たちの理論と裏腹な「協調主義」だというのがちょっと面白い。そこで今日は「宝探しのゲーム」における「競争」と「協調」という二つの戦術について書いてみよう。

 いま、ある広大な土地のどこかに宝物が埋められているとしよう。10人の人々がそれぞれ入場券を払い、1日かけてこの宝探しをすることになった。さて、ここでどのような方法で宝探しをすれば、一番能率良く宝探しができるかという問題である。

 競争システムだと、10人がそれぞれ別々に宝探しをして、もし見つければ、見つけた人がその宝ものを独占することができる。これに対して、協調システムだと、土地を10の区画に割り、10人がそれぞれの区画の中で宝探しをする。そして見つけた宝は等しく10人でわけあうことになる。

 どちらが効果的に宝が見つけられるかといえば、「協調システム」である。このシステムであればほぼ確実に宝物が見つかるが、「競争システム」ではそうはいかない。土地を掘っても、相手にそれを悟られないように修復するので、無駄な重複が多くなり、結局大部分の土地が手つかずでのこされるからだ。

 しかし、「協調システム」にも問題がないわけではない。それは「協調システム」だと、一人当たりの分け前が少なくなり、場合によってはインセンティティブが低下するからだ。どうせ誰かが見つけてくれるだろうとサボル人間も出てくるかもしれない。アングロ・サクソン系の学者はとくにこの点を問題にする。

<元来競争システムで育った人々は、協調による利益、無秩序な競争が生み出すロスを認めたがらないし、思考がすぐにサボる利益の方に向く習性がある。彼らが非協力ゲームの研究に熱を入れるわけもここにある。

 協調はメンバー間の相互信頼を基礎とするわけで、計算によって協調したり裏切ったりというのではチームは成り立たない。協調を目的としたネットワークづくりの問題となると、彼我の文化の差が大きいことを今さらながら痛感せざるをえない>(なかなかの国ニッポン)

 日本が経済的に成功したのは、「協調システム」がうまく働いたからだろう。しかし、文化によっては、これがうまく機能しない場合もある。日本でも将来にわたって「協調システム」が機能し続けるかどうかはわからない。


2004年07月11日(日) 自由な個人であるために

「私は貝になりたい」という映画があった。戦争中、上官の命令に従って、捕虜を殺したため、戦犯として処刑された男の物語だ。上司の命令であっても、罪は罪である。

 B級、C級戦犯にしめる朝鮮半島出身の兵士の割合が高いのも、彼らが最前線で捕虜監視の仕事をまかされていたからだ。彼らは日本人の上官の命令に従い、戦後は罪を問われて処刑された。

 イラクで捕虜虐待があかるみにでたが、罪に問われているのは最前線の下級兵士達だ。上官の命令だとしても、それで彼らの罪が消えることはない。それが欧米流の民主主義の考え方だ。

 こうした考え方を確立したのは、ジョン・ロックだが、彼の「市民政府論」には「抵抗権」という概念が提起されている。たとえ命令や法律に違反しても、市民はその信じる正義や良心にしたがって行動する義務と責任があるという立場だ。

 同じような思想をすでに孟子が述べている。彼は為政者が間違っていたら、人民はこれを改めることができるという革命思想の持ち主だった。この孟子の思想を学んだ人々によって明治維新が断行された。吉田松陰は国禁を侵してアメリカに渡ろうとして捕らえられたが、その弟子の伊藤博文は国禁をおかしてイギリスに渡っている。そして岩倉使節団の派遣となり、ここから日本の歴史が動いていった。

 しかし、その後、日本は道をあやまり、軍部によって天皇制が絶対化され、治安維持法がつくられて、市民の自由が制限された。戦争に負けて、軍部が崩壊し、自由と民主主義が復活したかに見えたが、それは表面上のことで、そうした理念が血肉化して私たちの内面に根付くことはなかった。独立と自由、協調を重んじるバランスのとれた個人の育成という教育の理想も達成されたとはいえない。

 日本の場合は、たて社会といわれるように、上下関係ですべてを考えてしまう。こうした封建的な考え方が現代も生き残っていて、上司の命令は絶対と思ってしまうのだろう。民間、官公庁をとわず、さまざまな組織ぐるみの不祥事が多いのもこうした体質と関係があるのだと思う。

<自由というものは単なる「内心」だけのものではない。自由とは決してプライベートなものではなく、すぐれて政治的・公的なものだ>

<思想・信条の自由を保障するとうことは、ただ心の中だけで好きなことを考えていていいよということではなく、当然ながら身体的な自由も含まれる>

 私の8日の日記からの引用である。この文章を書くにあたり、具体的に脳裏に浮かんでいたには、あらゆる法律の最高位に位置する憲法の、たとえば次のような条文だ。最後にこれを引用しておこう。

第18条 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。
     又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、
     その意に反する苦役に服せられない。

第19条 思想および良心の自由は、これを侵してはならない。

第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
     何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に
     参加することを強制されない。
     国及びその機関は、宗教教育その他いかなる
     宗教的活動もしてはならない。

第21条 集会、結社および言論、出版その他一切の
     表現の自由は、これを保障する。
     検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、
     これを侵してはならない。

第23条 学問の自由は、これを保障する。

第31条 何人も、法律の定める手続きによらなければ、
     その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の
     刑罰を科せられない。

第32条 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を
     奪われない。


2004年07月10日(土) 人間性を忘れた教師たち

 今朝の朝日新聞に、受け持ちの児童に級友をたたかせた愛知県稲沢市の小学校教諭(58)の話がのっていた。この教師は担任する4年生のクラスの「帰りの会」のとき、宿題を忘れた生徒に懲罰を与えるために、「誰かたたきたいひと」と挙手をさせたという。

 そして挙手をしなかった生徒を指名し、その生徒がいやだと言っても「たたけ」と強制し、たたかせたのだという。級友をたたいた生徒は、その後、学校に行くことをいやがり、そのご登校をしなくなったという。

 小学校の校長は、「暴力を肯定するやり方で、不適切な指導方法だった。教諭には口頭で注意をした」と話しているという。校長の対応から見て、あまりこのことを重大には考えていないようだ。

 私がかって勤務した高校の校長の場合は、毎朝夕国旗を掲揚し、校長命令で教師も毎朝夕、国旗を礼拝していたが、校長自ら体罰肯定論者で、職員会議で「先生方も生徒を遠慮なく指導してやってください」と公言していた。いつか、職員室で「パシン」という音がしたので振り向くと、校長が生徒を叩いている最中だった。校長自ら率先して教師達に範を垂れていたわけだ。

 その理由が実にたわいもないもので、たとえが下足箱の靴の入れ方がみんなと違うと言うだけで、生徒は職員室で何時間も正座させられていたりした。私はこうした校長の指導方針に疑問をもっていた。この高校の場合は、校長が狂っていたとしか思えないが、その下で、体罰などどうしてもできなかった私などは、一人前の教師だとは見なされなかった。それで、最初の年から転勤希望を出し、二年目にしてその学校を逃げ出して、定時制高校教師になったわけだ。

 私自身そんな悲しい体験があったので、朝日新聞の記事を見て、教師の命令で級友をたたかざるをえなかったその生徒の心の痛みはとてもよくわかる。こうしたつらい思いを生徒にさせてはいけないと思った。

 話は変わるが、現在大学生の私の長女も、小学行の頃は、ひととき教師に恵まれなかった。担任の男性教師がいやでいやでたまらないのだという。生徒を人間扱いにしないで、差別する。暴力は振るわないが、気に入らないことがあると、それ以上に子どもを傷つける言葉の暴力をあびせかけてくる。

 私はこれまでの教師体験から、子どもの話を鵜呑みにはできないことはわかっていたので、話を聞きながら半信半疑だった。しかし、ある日、その教師が家庭訪問にやってくるというので、私は子どもの話がほんとうかどうかたしかめてみることにした。

 妻はその教師と玄関先で対応した。じつは玄関のとなりが私の書斎だった。ふたりの話が手とるように聞こえてくる。その具体的内容についてはプライバシーの問題があるのであきらかにできないが、私はものの数分でその教師の正体がわかった。これはとんでもないやつである。長女だけではなく、こんな人間とは私自身口をききたくないと思ったものだ。

 5年生が終わるとき、その教師が「来年、おれのクラスになりたくないものは手をあげろ」といったそうだ。ほとんどの生徒がそう思っていたが、だれも手をあげようとしないなかで、長女は思いきって手をげた。結果的にもう一人、ふたりだけがその教師に、ささやかな抵抗をしたのだという。

 その教師はとても頭が良く、上司の信頼も厚い先生らしい。そしてそのことを、なにかにつけて生徒達に吹聴する。たしかに優秀な先生かも知れないが、教師にはそれ以前に大切なものがあるのではないか。一言でいえば、生徒に対する愛情、人間に対する愛情だ。幸い、私の長女はその後、中学校、高校ではとてもすばらしい先生方に恵まれた。ありがたいことだと思っている。

 最後に、これから教師になろうという若い人のために、以前書いた私の言葉を引用しておこう。何かの参考にしてもらえればありがたい。

<俳優についての「さいとー」さんの言葉、いいですね。教師についても当てはまるかもしれません。

「教師とは職業ではなく、教師という生き方を選んだ人である」

教師という生き方とは何でしょうか。それは他者の魂の成長を助けることで、自らも成長する生き方ではないかと思いました>(5月16日掲示板)


2004年07月09日(金) 共生的人生観のすすめ

 私は道徳が好きではない。道徳家などというものを信じていない。とくに、愛国心とか愛郷心などを押しつけられるとぞっとする。私は子供たちに道徳を語りたいと思わないが、それでは何を語るのか。この50年余生きてきて体得した人生観や自然観、社会観である。

 HPに日記を連載しはじめてやがて5年になる。この間、一日も休まず日記を書いてきた。原稿用紙にしたら5千枚はこえているだろう。それだけ書いても、まだ書き尽くせない。それだけ人生は奥が深いということだ。なかでも私が日記に繰り返し書いてきたのは、私が自分の人生哲学だと考えている「共生」についてである。

\弧審萋阿隆靄椶砲△襪里篭生関係である。
△海龍生関係が破壊されると、様々な問題が生じてくる。
これを解決するために、私たちはその障害をのりこえて、新たな共生関係を作り上げていかなければならない。

「共生」は「みんで仲良く」という単純なことではない。たとえば、ライオンとシマウマで考えてみよう。この両者は食物連鎖で上下関係にあり、けっして「仲がいい」わけではない。しかし、ライオンにとってシマウマが大切なように、シマウマにとってもライオンは大切な存在である。

 人間がライオンを乱獲したらどういうことになるか。おそらくライオンという捕食者がいなくなって、シマウマの数が増える。そうすると草原の草が食べ尽くされ、結果として、シマウマも全滅することになる。

 つまり、現象面だけ見ると、シマウマとライオンは敵対しているようだが、本質的には草原を媒介にしてシマウマはライオンと共生関係にある。ゆたかな大自然が、こいうした共生を可能にしているわけだ。だからもし、人間が草原を破壊すればこの関係はこわれる。

 ライオンがシマウマを襲うその瞬間だけとらえれば、それは敵対的関係のように見える。しかし、いつもシマウマとライオンが敵対しているわけではない。ライオンは決して必要なとき以外、シマウマを襲わないし、シマウマもそのことを知っているので、ふだんは伸び伸びと、ライオンのすぐ近くで草を食んでいる。

 長い目で見れば、自然界はあきらかに共生的だ。このことを身近で実感するには、自然林を歩いてみればよい。そこでは様々な植物や動物が共存し、多彩な生命のハーモニーに満ちている。じつはこうした豊かな生態系は長い年月をかけて作り出されたものだ。開発の進む荒れ地ではこのような共生関係はみられない。そこで繰り広げられているのは、刹那的な生存競争だけだ。強者が他者を排斥して一人勝ちする殺伐とした風景だ。

 ホップズは「人と人」は自然状態において「狼と狼」の関係だと言った。しかし、ロックはホッブスのいう「自然状態」は仮説にすぎないという。人間同士を敵対させるのは、むしろ彼らの住んでいる社会が十分に機能を果たしていないからだと考える。

 こうした認識に立つことで、人類は社会を変革し、民主主義という平和な制度をこの地上にもたらすことができた。戦争や殺戮をホップスのように人類の本能とは考えずに、むしろ人間の本質、生命の本質は共生関係にあるとするロックの思想によって、私たちは実りのある、実効的な方法で社会を建設することができた。

 それではなぜ、人間は自然を破壊し、社会を破壊して、この共生関係を壊そうとするのか。ライオンならば、決して無駄な殺生はしないだろう。人間が過食にふけり、無益で残酷な殺人をするのはなぜか。それは人間が壊れているからだが、それでは何故人間が壊れるのか。それは人間をとりまく関係が壊れているからだろう。

 こうしたロック的な共生的社会観に立つことで、世界の本質が見えてくる。そして、飢餓やテロ、戦争、貧困、自然破壊、この地上の存在する様々な厄介な問題について、はじめて実効のある提言や正しい実践法が見出せる。

 人生そのものがそうであるように、「共生」という概念はある意味で矛盾に満ちた弁証法的概念だが、それだけにとても奥深く、魅力的である。この世界をよりよくするためにも、「共生論」というすぐれた思想を多くの人に理解してもらいたい。そうした人生観に立って、政治や経済を建設的に考えていく人々が、少しでも増えてくれることを願っている。


2004年07月08日(木) このままで日本は大丈夫か

 ある人にメールで紹介されて、東京都教育庁の吉本恒幸指導部副参事の「教員を目指す皆さんに期待して」という文章を読んだ。

<国旗国歌の指導は、自国や外国の国旗国歌を尊重するという態度そのものを養うことを目的としています。子どもに範を示すべき立場の教師が、そうした態度を取れないとすれば、教員として不適切と言わざるを得ません。

 教員には、もちろん思想信条の自由はあります。しかし、それは内心にとどまる限り保障されるもので、外部的行為となって表れる場合は制約があるということは、最高裁の判例等でも明らかになっております。教員になれば、何を語ってもいい、何をしてもいいというものではありません。公務員として仕事をすることを甘く考えてはいけません>

 国旗・君が代の指導を強制し、処分するなどということは正気の沙汰とは思えないが、石原知事は、「東京から日本を変える」と言っている。おそらく、数年後には、国旗や国歌に対する生徒への指導が強化され、教育現場でのしめつけが全国に及んでいくのだろう。

 これに対抗する動きは、ほとんどなきにひとしい。教育界のこうした動きを、多くの人々は歓迎しているか、他人事だと思っているのだろう。たとえば、北海道で教員をしているある人からは、こんなメールをいただいた。

<私たち教員の内心の自由は、あくまで私的ときであると考えているのですが、それはそもそも間違った考えなのでしょうか? 仕事をしている限り、公人であり、法律、教育基本法、学習指導要領を遵守することは当然ではないのですか? 国歌国旗問題は、法律化されているわけですから、個人の思想信条で指導を拒否するのは正しいことなのでしょうか?>

 自由というものは単なる「内心」だけのものではない。自由とは決してプライベートなものではなく、すぐれて政治的・公的なものだ。思想・信条の自由を保障するとうことは、ただ心の中だけで好きなことを考えていていいよということではなく、当然ながら身体的な自由も含まれる。

 憲法にてらせば、もとより「職務命令」で国歌や君が代を強制することが問題である。ましてや、処分などあってはならないことなのだ。参考までに、「国旗及び国歌に関する法律」(平成11年法律第127号)を以下に引用しておこう。

−−−−−−−−−−
 (国旗)
第一条 国旗は、日章旗とする。
2 日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。
 (国歌)
第二条 国歌は、君が代とする。
2 君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。
  附 則
 (施行期日)
1 この法律は、公布の日から施行する。
 (商船規則の廃止)
2 商船規則(明治三年太政官布告第五十七号)は、廃止する。
 (日章旗の制式の特例)
3 日章旗の制式については、当分の間、別記第一の規定に
かかわらず、寸法の割合について縦を横の十分の七とし、かつ、
日章の中心の位置について旗の中心から旗竿側に横の
長さの百分の一偏した位置とすることができる
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 ちなみに、国旗に対する忠誠心が旺盛なアメリカでさえ、このように礼拝を強制したり法的に処分を加えたりすることはありないし、実際に公立学校で国旗礼拝を強制することについて、違法判決が出ている。

<修正第14条は,現在各州にも適用されるので,州自体や,州が設けたすべての機関から市民を保護する。・・教育委員会も例外ではない。これらの機関が重要で微妙な,また広範な裁量的権限を有することは当然であるが,しかし,それれらは権利章典の範囲を超えて行使できるような権限ではない。われわれが,自由な精神をその源で窒息させ,また子どもにわが国の重要な原則を単なる決まり文句として,価値を低めて教えるべきでないのなら,教育の場においても,子どもが市民となるのに必要な教育を受けられるよう,憲法上の個人的自由を慎重に保護しなければならない>
(テンカー事件アメリカ合衆国連邦最高裁判決1969年)
http://osaka.cool.ne.jp/kohoken/lib/khk084a2.htm

 ついでに、4/2の朝日新聞から引用しよう。

<国旗・国歌法が99年に成立したとき、当時の小渕首相は学校での扱いについて「頭からの命令とか強制とか、そういう形で行われているとは考えておりません」と国会で答弁した。当時の野中官房長官も「強制的にこれが行われるんじゃなく、それが自然に哲学的にはぐくまれていく、そういう努力が必要」と答えていた。この記録を生徒に読ませ、「あなたの学校では首相らの約束が守られていますか」と尋ねてみたらいい。

 多民族国家の米国では統合の象徴としての国旗への思いがとりわけ強い。国旗に対する「忠誠の誓い」を生徒に義務づけている公立学校も多い。そんな米国ですら「誓い」を拒む権利は連邦最高裁が1943年に認め、同様の判例が重ねられてきた。それこそ国家が守らなければいけない一線だ、というかのように。

 しろじに あかく ひのまる そめて ああ うつくしい にほんの はたは

 小学1年生は、みんなこの歌を習う。日の丸を美しいと思う心は、強制して育てるものではない>

 ところで、スティーブ・ハッサンは「マインドコントロールの恐怖」という本のなかで、支配のレベルを次の4段階で説明している。

々堝阿離灰鵐肇蹇璽襦兵由時間と行動の制限)
∋彖曚離灰鵐肇蹇璽襦福か×かの紋切り型の思考)
4蕎陲離灰鵐肇蹇璽襦丙甍感、恐怖)
ぞ霾鵑離灰鵐肇蹇璽襦柄択された知識や情報しか受け付けなくなる)

 たとえば、レベル,涼奮として、国歌・国旗の強制があげられよう。その際、強調されるのが、「国歌や国旗は無条件に尊重されなければならない」という石原都知事流の問答無用の紋切り型思考だ。これはレベル△涼奮だと言える。

 こうした精神的リンチや戒告処分のような被害を受けたり、被害を受けた人の報道に接しているうちに、私たちの心には、「お上に逆らって何かをするととんでもないことになる」という恐怖心や罪悪感が植え付けられる。これがの段階だ。

 そして、自己防衛の最後の段階として、権力者によって選択された知識や情報しか受け入れなくなるわけだ。日本はレベルい涼奮に近づいている。

 7月5日の朝日新聞に、全国の知事の地元での支持率・不支持率のアンケート結果が発表されていた。全国の知事の支持率の平均は53パーセント(不支持率は17パーセント)だそうだ。その中で石原東京都知事は66パーセントの支持(不支持18)でベスト5に入っている。その一方で、もっとも県民の不支持率が高いのが長野県の田中知事(支持35,不支持40)だった。

 折しも、7月4日に東京の渋谷で行われた「ワールドピースナウ」のデモで、3人の逮捕者がでたという。参加者の一人が次のようなレポートを書いている。ここに一部引用しておこう。

<・・・機動隊は女性たちにまでどついたり突き飛ばすなどの暴行を行ってた。私の知り合いの60代の女性は「こっちにでるな」といきなり機動隊につき飛ばされ、5メートルもとばされた。こんなことは、サウンドデモでもなかった。

 3時頃。後尾にいた男性が、「もっと早く歩け」と機動隊からしつこく介入を受け始める。男性が普通に歩いていると、さらに「早く歩けといってるだろ」とさらにしつこく激しい口調で強制しだした。男性が機動隊の盾をポンとけったとき、10メートルもあとにいた機動隊員が「現認、逮捕」とさけんだ。

 そして、男性は機動隊に取り囲まれ連行された。それを止めに入った男性も「逮捕」と連行された。こんな不当な逮捕があっていいのか。これは何百人の人の前で行われた不当逮捕だ。男性がけったのは、機動隊の盾だ。身体に暴行は一切加えてない。

 さらに恐ろしいことが起こった。「また、逮捕だ」だれかがさけんだ。急いでそちらに走る.すると17、8人の機動隊が一人の人をとり囲み、殴るケルの暴行を加えていた。こん棒でその人をぼこぼこにしていたそのひとは、ひきたおされ、着ている洋服もはだけ、しまいには、上半身はだかだった。ぼろきれのように暴行された人は実行委員のやぎさんだった。

 もうひと機動隊に取り囲まれもみくちゃにされていたひとはサミーさんだった。とうとう実行委員までねらわれたのだ。この惨状は多くの参加者が目撃してる>

 国会では有事関連法案や個人情報保護法が成立し、年金改革法を強行採決した。小泉首相はイラクに自衛隊を送り、多国籍軍参加を独断で決めてしまった。さらにこの先憲法を改悪して、日本を戦争が出来る国にしようとしている。世論やマスメディアの右傾化には恐るべきものがある。このままで日本は大丈夫なのだろうか。


2004年07月07日(水) 私たちはどこからきたか

 私たちのまわりにあるすべてのものは、はじめからそこにあったのではなく、すべてが歴史を持っている。私の使っているパソコンや本棚や眼鏡もそうだし、犬や猫、人類もそうだ。地球や月や太陽も実は昔からあったのではなく、あるとき、この宇宙に誕生した。

 歴史を持っているのは、こうした目に見えるものばかりではない。資本主義や民主主義といった社会制度もそうだし、思想や学問、芸術などの文化もそうだ。私たちが毎日使っている言葉も、何十万年もの歳月の中で作られ、今日あるようなものになったのである。

 こうした私たちのまわりに存在するものが、昔からあるものではなく、年月の中で生み出されてきたものだという認識は、とても大切なことだ。このことによって、私たちの現在の生が、とてつもなく長い歴史によって媒介されていることがわかるからだ。

 私自身をふくめ、あらゆるものが、どんな経緯をへて今日存在しているような姿になったのか。そして今後、どのように変わっていくのかを考えるのはとても興味があることだ。そうした問は、つまるところ現在の世界の存在について、その意味を深めてくれるし、私たちがどのように生きたらよいか考えさせてくれるからだ。

 こうした「歴史」についての認識は、私たちの人生観を深めてくれる。そして、さらに私たちを究極の問いかけへと導くだろう。それは「私たちはどこからきたか」「人間とは何か」「自分とは何か」という問である。

 こうした哲学的な問に答えることは容易ではない。しかし、宇宙にこうした問いかけをしつづける知的な生物が存在するというのは、素晴らしいことではないか。私は自分がこうした存在であることに、喜びを感じている。


2004年07月06日(火) 自分史を書こう

 以前勤務していた定時制高校では、喫煙や万引き、カンニングなどが見つかり、謹慎になった生徒には、指導部から原稿用紙30枚程度の作文が課題として出されていた。文章など書いたことのない、おちこぼれ気味の生徒にとって、30枚もの文章を書くのはまさに至難のこと。転勤してこのことを知ったときには驚いたものだ。

 作文の内容は「自分史」である。自分が生まれたときから、今日に至るまで、細かいことまで思い出して、とにかく書かなければならない。私のクラスでも毎年特別指導の対象者が出て、作文をかかせたが、もちろんこんなに長い文章がそう簡単に書けるわけがない。

 生徒は強制されてしぶしぶ、辞書を片手に書き始めるわけだが、悪戦苦闘しているうちに、少しずつ文章が進み、生まれたときから、幼年時代を過ぎ、小学生になり、中学生になるところまで来ると、少しずつ、書くことの意味がわかってくる。

 それは何か。自分がいかに多くの人々と関わり合い、ささえられて今日まできたかということだ。こうした認識が芽生え、深まるととともに、彼の内部で何かが変わり始める。

 30枚の「自分史」を書いた生徒の多くは、これだけの文章を書き上げたという自信とともに、それによって自分がこれまでに経験したことのない、意味のある充実した体験をし、そのなかで何か貴重な認識を得たという満足感を与えられるわけだ。

 私もこれに触発されて「自分史」を書いてみた。教師は生徒に書かせるばかりで、自分はあまり書こうとしないが、30枚はおろか、数枚の文章を書くのでさえ、よほどのきっかけや強制がないと書けないものだ。

 私の場合は毎日一枚ずつ、4年間続けて、「幼年時代」「少年時代」「青年時代」「就職まで」を書き上げた。原稿用紙に換算すれば1千枚近い長さになった。書きながら自分の人生についてたくさんの発見があり、これによって人生観もかなり変わった。

 暴走行為で捕まった生徒が書いた「自分史」には、幼い頃に分かれて一度も顔を見ない父親のことや、女手一つで育ててくれた母親のことが書かれてた。最後は、「何か自分もよいことをしたいと思った。それで献血をした。とても気持がよかった」と結ばれていたのを覚えている。

 水道をひねれば水が出るのがあたりまえ、駅へ行けば時刻通りに電車が来るのがあたりまえ、しかし、これらのあたりまえが、実に多くの自然界の恵みや、多くの人々の社会的共同行為によって成り立っているかに気付けば、私たちの人生に対する考え方や態度も変わる。

 「生かされて生きる」という感謝の心、私たちの生が「無限にある多くのものの媒介」によって成り立っているという認識はとても重要である。私たちが幸せに生きるためにも、私たちはこうした人生観を大切にしたいものだ。そしてこうした朗らかな人生観を子供たちに語れる大人になりたいものだ。そのためにも、自分史を書いてみてはどうだろう。


2004年07月05日(月) 小さきものたちの死

 一昨夜、わが家で飼っていたハムスターのプル(プルシェンコ)が死んだ。昨年モン(モンテローザ)が死んだので、これでハムスターは二匹ともいなくなった。ハムスターを飼いたいと言い出したのは次女で、名前も次女がつけてかわいがっていた。あいにく、次女は大学の馬術部の合宿で家にいなかった。

 一昨日の朝、次女が手の上においてプルちゃんを眺めていた。プルちゃんは体操選手のように檻にぶら下がり剽軽な動きで家族の笑いを誘う存在だったが、最近はすでに元気がなかった。死んだモンちゃんと同じような下痢症状があらわれ、あと余命幾ばくもないことは誰の目にもあきらかだった。

 昨年の冬にモンちゃんが死んだときは、次女は居間のソファにすわり、半分居眠りしながら瀕死のモンちゃんを掌に抱いていた。モンちゃんはそうして火が消えるように飼い主の手の中でやわらかく息をひきとった。次女が家にいればプルちゃんも同じように飼い主の手の中で愛情に包まれながら死んだことだろう。

 生き物を飼うということは、いつかその死を看取るということである。それはとても淋しいことだが、その死を通して、私たちは何か大切な認識に触れ合うことができる。死を通してはじめて見えてくる生命のやさしさやはかなさというものがある。

「何一つ変わっていないのに、そのひと一人だけいない感じ・・・。それがどんな感じかわかるかしら」

 これは韓国の人気ドラマ「冬のソナタ」のなかで、ユジンがミニョンに語りかける言葉だ。妻がプルちゃんをわが家の庭に埋葬したあと、居間に残された「プルシェンコの家」と書かれた空の籠を眺めながら、私はこのセリフを思い出した。

 いくたびか我が手に抱きしハムスタアもはや動かず息ひきとりて

 妻の手に白き箱ありそのなかに入れて埋めたり琵琶の木の下

 形見とて見つめていたり淋しくも今は空き家のプルシェンコの家


2004年07月04日(日) ポリツエルのリンゴ

 一昨日の朝食の時、私は妻に訊いてみた。
「ヘーゲルがね、『私たちが歴史から学んだことは、何々である』と書いているんだ。この『何々』にあたる文章をあててごらん」
「そうね。歴史は繰り返す、ということかしら」
「ヘーゲルがそんなありきたりなことを言うかな」

 実はこのヘーゲルの言葉を、私は一週間ほど前に食卓で口にしていた。妻はそのとき頷いていたのに、もうすっかり忘れているようだ。ヘーゲルの言葉は次の通りだ。

「我々が歴史から学んだことは、我々が歴史から何も学ばないということだ」

 残念ながら、私はこれがヘーゲルのどの著作の言葉かわからない。だからほんとうにヘーゲルの言葉かどうか裏がとれているわけではないのだが、いかにも弁証法の大家らしい言葉ではないだろうか。

 この言葉には論理的矛盾が含まれている。しかし、この文章が生きているのは、まさにその矛盾があるからだ。矛盾には既存の秩序を打ち砕くパワーがある。ヘーゲルは「小論理学」(エンチクロペディー)のなかで、「世界を動かすものは矛盾である」と書いている。

 人間はさまざまなシステムのなかで、そのシステムに支配されて生きている。そして普段はそのシステムの存在すら気がつかないものだ。たとえば、私たち日本人は「日本語」というシステムの中で物を考えたり、ものを感じたりしている。しかし、ふだんはこのことに無自覚であり、そのシステムの外にでることはない。

 しかし、何かの機会に、そのシステムのなかに「自己矛盾」が見つかり、そうしたシステムの自己完結性が破られることがある。システムが運動を始めるのはここからだ。こうした様々な思想や体制が作り出され、歴史が生み出されてきた。ヘーゲルは歴史をこのように矛盾を原動力とした体制変革の運動と見なしたわけだ。

 ここまで書いてきて、昔読んだことのあるフランスの哲学者ジョルジュ・ポリツエルの「哲学入門」の文章を思い出した。ポリツエルはリンゴを例にとって、弁証法をこんなふうに説明する。

<リンゴは昔からりんごであったわけではなく、その歴史を持っている。リンゴはかって花の一部であり、木の一部であった。そして木も、その前には種子から発展したものである。リンゴはまたいつまでも木にとどまることはないだろう。地に落ちれば腐って、分解して、もし万事がうまくいけば芽を、つぎには木をうむであろう。リンゴは昔からいまあるとおりのものではないし、いつまでいまあるままにとどまってはいない。なぜリンゴはかわるのか。それはリンゴの内にある内的な理由によってである>

 リンゴに限らず、あらゆるものが歴史を持っている。しかしすべてにものが、リンゴと同様の歴史を持っているとはかぎらない。例えば身近な例で言えば、鉛筆の場合、その歴史はリンゴのように自己の内部の力によるものではない。木が切られ、削られ、鉛筆になるのは、人間が外部から働きかけるからである。これはリンゴのような内部から生まれる発展的な変化ではなく、外部から強制された機械的変化である。

 さらに、全てのリンゴが木になり、花を咲かせ、再びリンゴになるわけでもない。その途中で、たとえば芽を出し、小さな木になったところで、人間によって伐採されるかも知れない。そのばあい、リンゴの命はそこで奪われる。しかし、こうした不幸がなければ、リンゴは生き延びて、自らの歴史を作り続けるだろう。再び、ポリツエルの言葉を引こう。

<リンゴはしかしただリンゴの木だけの果実ではない。リンゴはその歴史において、自然界と生命全体の果実であり、この運動の中でリンゴは生き、そのいのちは受け継がれるのである>

 人間も又、リンゴと同様に、自然界の相互の恵みのもと、自らの力で発展する弁証法的な存在だ。鉛筆のように、何者かによって作られ、何者かの道具として存在する、世界を構成する一つの部品ではない。しかし、鉛筆のような道具存在としてしか人間を理解しない思想や体制が存在することも事実だ。鉛筆のように、他人の道具として生きるか、自己の内部の必然によって「自由」に生きるか、人間にとってどちらが幸せな生き方かあきらかだろう。

<我々が学習において、闘争生活または個人生活においてつとめなければならないことは、事物を静止した不動の状態においてではなく、その運動において、その変化において、その矛盾において、その歴史的な意義において見ることであり、事物を一面的なやり方ではなく、あらゆる面において見ることである>

  ポリツエルのこれらの文章は、ナチス占領下で、これに戦う人のために講義されたものだ。彼は捕らえられて、拷問されたが、ついに一言も口を割らずに、1940年10月13日、モン・バレリアンで銃殺された。私は若い頃に彼の本に出会って感激したものだ。そして、彼の言葉はいまも私の中で「ポリツエルのリンゴ」として香しく残っている。


2004年07月03日(土) 罪を憎み、人を憎まず

「浅原彰晃は救われるのか」という問いかけに、歎異抄の親鸞ならば、「悪人だからといって救われないことはない。むしろ、悪人だからこそ、仏は慈悲心を起こし、お救いになるのだ」と答えるだろう。「教行信証」の親鸞のように、様々な経典を持ち出して、いろいろと回りくどい条件を付けたりしないはずである。

 歎異抄の親鸞によれば、人は心が善いから善行をするのではない。その人の業縁がよいから善行をする。ただそれだけのことだ。だから浅原彰晃が悪人になったのも、彼の悪業のゆえである。仏の目から見れば、彼をあわれに思うことはあっても、憎んだり、罰を与えようなどとは思わないはずだ。

 私はどんな極悪人でも、その人の生い立ちから現在までをつぶさに観察すれば、その人を憎むことはできなくなると思っている。むしろ哀れに思い、彼を悪に追いやった先天的・後天的な様々な条件にたいして、さまざまな問題意識を持つはずだ。

 たしかにこの世で彼が行った悪行について、彼は償いをしなければならない。それが俗世の掟である。浅原彰晃の場合は死刑が相当だろう。しかし、来世においてまで、その償いをさせようというのはどうだろう。たとえ来世があるとしても、宗教家ならば、そこまで要求しないはずだ。

 私自身は来世を信じていない、したがって、浅原彰晃の来世の運命には何も関心はない。死ねば私たちは等しく大自然に還っていく。それでおしまいであり、私たちがこの地上で行った行為など、たとえそれが善いものであるにせよ、悪いものであるにせよ、それだけのものではないか。

 救いとは何か。それは死ねば無に帰るということである。「歎異抄」をつきつめれば、そういうことになる。しかし、それでは困る人が大勢いる。宗教を利用して、人々を「善人」にしておこうと考える人たちだ。彼らには「歎異抄」は異端であり、「教行信証」は信頼に値する聖典ということになる。

 誤解されるといけないので書いておくが、私は浅原彰晃を無罪放免にせよと言っているのではない。彼は現世の法律によって厳しく裁かれなければならない。彼によって殺戮された人々や、その遺族の無念を考えればこれは当然である。社会秩序の維持を考えても、犯罪行為を許してはいけない。

 しかし、犯罪を処罰するだけでことが足りるわけではない。彼を犯罪に至らしめた本当の原因は何か。戦争や殺戮の本当の原因は何か。そのことをしっかり考えるためにの手がかりを、「歎異抄」はあたえてくれる。

「浅原彰晃よ。お前の犯した罪は重い。お前はその償いをしなければならない。しかし、私はなぜお前がそのような犯罪を犯すにいたったのかつぶさに知っている。お前がどのような屈辱のなかで生きてきたのか。人に言えない孤独や淋しさを糧に、お前の心がどのようにして憎悪を育み、慢心を太らせていったのか。しかし、死はお前からそのすべてを取り除くだろう」

 以前、永山則夫という死刑囚がいた。彼の書いた「無知の涙」という本を読んだことがある。そして、彼の半生を再現した映画も見た。東北の貧しい農村に生まれた彼が、集団就職で上京し、そして、大都会で生きていくうちに、彼が何故、殺人を犯すにいたったか、その過程がドキュメンタリー風に描かれていた。

 私はこの映画を見ながら、「罪を憎み、人を憎まず」とはこのことかと、納得したものだ。 同時に、「歎異抄」の「いわんや悪人をや」という親鸞の言葉も理解した。全てを知る仏であればこそ、現世で「悪人」として生きた彼を、せめて来世では救ってやりたいと思うのではないだろうか。

 山折哲雄さんは、サリン事件に衝撃をうけて、「歎異抄」にたいする疑問を深め、これを否定するために「教行信証」へと向かった。私はこうした方向性が正しいとは思わない。「歎異抄」が提起した問題を、もっと正面から受け止めるべきではないか。そこに仕掛けられている逆説の中に、この世界をしあわせにする本当の手がかりがあるからだ。


2004年07月02日(金) 浅原彰晃は救われるのか

 宗教学者の山折哲雄さんが、「悪人救済は無条件か」という題で、歎異抄の「悪人正機」について6月27日の朝日新聞にいろいろと書いている。

<この新教団の指導者である浅原彰晃こそ、まさに現代における「悪人」ではないか。とすればこの悪人は「歎異抄」のいうところにしたがって宗教的に救われるのであろうか。「いわんや悪人をや」の論理にもとづいて浄土に往生できるのか>

 山折さんは、オウム真理教によるサリン事件を知ったときには、こうした問が「火の玉となって脳中を直撃した」という。浄土も地獄も信じていない私には、この問いかけは、それほど切実ではない。しかし、山折さんをはじめ、宗教を信じている人々のみならず、宗教に関心を寄せている人々にとって、これはひとつの大きなテーマであろう。

 山折さんの得た結論は、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と説く歎異抄はまちがっているということだ。歎異抄を書いたのは、親鸞の弟子の唯円である。唯円は親鸞を裏切って、このような説をとなえたのに違いない。その証拠に、親鸞自身の主著である「教行信証」では、悪人正機説を無条件では認めていない。

 親鸞は極悪人が宗教的に救済されるためには二つの条件があるという。善き師につくことと、深く懺悔することだ。浅原彰晃は善き師をもたず、また、懺悔している様子もうかがわれない。だから、救われて極楽往生することはありえないというわけだ。

 私はこれはごく普通の常識だと思う。浅原彰晃は裁きを受けて、その罪の償いをしなければならない。死後、彼が極楽へ行こうが、地獄へいこうが、それはどうでもよいが、この現世において厳正な罰をうけるべきだろう。彼の場合は死刑が望ましい。

 浅原彰晃が刑の執行を前にして、救われるか救われないか、それは彼個人の心の問題であろう。罪を認め、ふかく懺悔するようなことがあれば、それはとても望ましいことだが、おそらく彼の場合はそうはならないだろう。精神に変調をきたし、虚脱状態に陥るか、あるいは世の中を呪いながら、そして人類をあざけりながら死んでいくのではないだろうか。

 こうした予測があたっているとすれば、彼は救われない男にはちがいない。なぜ、救われないか。それは、彼には善き師がなく、そしてその結果として、自らの罪を深く懺悔する機会が与えられなかったからだということになる。

 そうすると、唯円はなぜ、親鸞の言葉として、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」などと書いたのだろうか。山折さんは、これは唯円が勝手に書いたことで、親鸞の言葉でもなく、親鸞の思想でさえもないという。だから、もはや我々はこの言葉に悩まされる必要はないという。

 私はあまり「教行信証」が好きではない。私が手元においているのは「日本の名著6」の「親鸞」のなかの「現代語訳」だが、いま、久しぶりに手に取り、目を通してみたが、山折さんの言うとおり、親鸞は「仏は悪に染まったひとも等しくお導きになる」と書く一方で、無量寿経をひきながら、「仏の教えを誹謗するもには、救済の対象から除く」などと様々な条件を添えている。

 唯円の「歎異抄」にくらべて、親鸞の主著は経典の引用が目立ち、何やら権威主義の匂いがして面白くない。年譜で確認してみると、「教行信証」を書いた後、親鸞はなお20年以上生きている。そして70歳を過ぎてから夥しい手紙を書くなど、本格的な著作活動をはじめている。

 そのなかには、「自然法爾事」などずいぶん魅力的なものがある。そこで展開される思想は主著の「教行信証」よりも、むしろ「歎異抄」に近い。おそらく、こちらのほうが晩年の円熟した思想を伝えているのではないだろうか。私としてはやはり、「われ弟子ひとり持たず」と言い放ち、ひとり虚空に立っている親鸞が好きだ。

 ところで、「教行信証」の親鸞ではなく、「歎異抄」の親鸞、もしくは唯円その人ならば、「浅原彰晃は救われるのか」という問に対してどう答えるのだろう。いや、親鸞や唯円ではなく、私自身はどう答えるのか、明日の日記に書いてみよう。


2004年07月01日(木) わが心のよくて殺さぬにはあらず

 先日、北さんと会食していて、「倫理学とはなんだろうね。倫理なんていうものはそんなにむつかしいものだろうか。命を奪ってはいけない。命を大切にしなければいけない。ただそれだけでいいのじゃないかな。西田幾多郎の『善の研究』には、何て書いてあるの?」という質問を受けた。

 倫理学というのは、「何が善であるか」というのを問う学問だ。その答えとして、「命を大切にする」というのは、いちばんまっとうでわかりやすい。私も聞かれたらこう答えるだろう。しかし、命を大切にするということは、具体的にどういうことか。それは、ひとくちに言えば、「ともに生きる」ということ、すなわち「共生」ということだろう。

「共生」というと、「みなさん、みんなで仲良く生きましょう」というような、何か道徳的な目標のようにとらえられがちだが、私のいう「共生」はたんなるスローガンとしての共生ではない。生命の本質として共生を考えているのだ。

 つまり生命現象というのは、その本質を考えれば「共生」である。現象面ではいろいろと競争したり、殺し合ったりもしているが、その本質は共生現象であるというのが、私の説いている共生論の眼目だ。

 たとえば、「なぜ、殺してはならないか」という問について、私たちはどう答えたらよいのだろう。私の共生論の立場に立てば、答えはひとつしかない。「なぜ、殺してはならないのか」という問いかけが間違っているのだ。人間は「ほんらい」人を殺すことができない。そのような「宿縁」のもとに、人間は生まれている。

 しかし、現実に、戦争や殺人は行われている。中には好きこのんで人を殺したがる人もいる。これをどう考えたらよいのか。このことについて、私が思い浮かべるのは、歎異抄の親鸞の言葉だ。

 親鸞は弟子の唯円にむかって、「千人殺してご覧なさい。そうすれば往生できるよ」ととんでもないことをそそのかす。これにたいして、親鸞の思想を理解していた唯円は、すかさず、「お言葉でございますが、私の器量では、千人はおろか、一人も殺せそうにありません」と答える。これに対する親鸞の言葉が、とても深いのである。

「なにごともこころにまかせることなれば、往生のために千人ころせといはんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また、害せずとおもふとも、百人、千人ころすことあるべし」

 西田幾多郎の「善の研究」は、この親鸞の言葉を下敷きにして読むと、とてもよく分かる。私は高校時代に「歎異抄」に出合い、そして同じ頃、「善の研究」にであった。今、手元にあるその頃の愛読書をひもといてみると、当時の私は、親鸞の言葉に響きあうものとして、西田のたとえば次のような言葉に線を引いている。

<個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである>

<理は決して我々の主観的空想ではない。理は万人に共通なるのみならず、又実に客観的実在がこれによりて成立する原理である。動かすべからざる真理は、常に我々の主観的自己を没し客観的となるによりて得らるるのである>

 もっとも、現在の私は、こうした観念論をあまり好かない。おなじ精神で「共生論」を語るにしても、もう少し、科学的、社会的な観点から論じた方がよいのではないかと思っている。しかし、「共生論」の思想的背景をさぐっていくと、「歎異抄」と「善の研究」にたどりつく。どうやらこれが私にとっての「業縁」らしい。


橋本裕 |MAILHomePage

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