橋本裕の日記
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2003年12月30日(火) 官僚と財界の審議会

 昨日、喫茶店で週刊文春をたまたま手にしたら、「政府審議会」についての記事が目に止まった。その内容を記憶に頼って再現しよう。数字はあっていると思う。

<現在ある政府審議会の数は104
審議会の委員の数は1889名
そのなかで常任の委員は51名
常任委員の年収は2000万円をこえている

委員の人選は各省庁で行う。
51名の常任委員のうち20名は官僚のOBである。
審議会には4大紙の記者からも採用。これでマスコミ対策もばっちり。
委員になると箔がつき、大学教授にもなれるので、記者にはおいしいコース。
これら審議会の一年間の人件費は64億円(ここだけ記憶が曖昧)

道路関係公団民営化委員会の会長だった経団連名誉会長の今井敬氏は税制審議会など、他の4つの重要な審議会の委員も兼ねていて、そのうちの3つで会長。
委員の兼任や再任はめずしくない。官僚の意向に添わない委員はくび。
ただ、いかにも人選が公平で、中味のある議論しているふりをするために、ピエロ役の反対派を加えることもある

審議会の答申は結局官僚主導で作られ、「審議会でこう決まりました」とお墨付きがつく。
民営化委員会のような、官僚の意に沿わない答申が出たら、省庁、自民党部会、国会の委員会のそれぞれの段階で次々に骨抜きにする>

 喫茶店の帰り道、馴染みの書店へ行って、本や雑誌を何冊か立ち読みした。経団連会長奥田碩氏(トヨタ自動車会長)は文芸春秋に「死にものぐるいで成長を実現せよ」とブッシュの一般教書とおなじようなことを書いている。読んでみて、そのアナクロニズムにあきれた。週刊文春は何故か触れていないが、彼も又政府審議会の常連である。奥田碩氏が所属するものをあげておく。

経済財政諮問会議 議員
産業構造審議会 会長
交通政策審議会 会長
国土開発幹線自動車道建設会議 委員
社会保障審議会 委員
財政制度等審議会 臨時委員

 経団連の名誉会長や現会長、その他の財界の首脳が大勢審議会や懇談会のメンバーに名を連ねている。こうして政府審議会などを最大限利用して自分たちの利益を追求しているわけだ。たとえば、経済運営や財政・予算編成の方針をまとめている経済財政諮問会議には、奥田碩会長とともに、経済同友会の牛尾治朗元代表幹事が参加している。

 国土開発幹線自動車道建設会議と財政制度等審議会には奥田会長と経済同友会の北城恪太郎代表幹事とがコンビで入っている。労働、教育、医療、福祉、農業分野の規制を「緩和・撤廃しろ」と主張している総合規制改革会議の議長は、経済同友会の宮内義彦副代表幹事(オリックス会長)で、委員十五人のうち、消費者や労働者の代表は一人もいない。

 産業競争力戦略会議は委員十一人中十人までが奥田碩トヨタ自動車会長など財界・大企業の首脳陣で、労働者のリストラばかりでなく、「競争力のない企業は退場せよ」と企業リストラをもとめ、これを受け小泉内閣は、今年四月、「産業再生法」を成立させた。

 審議会や懇談会答申がどういうメンバーで、どのように決定されているのか、国民はあまり知らないのではないか。官僚OBと財界首脳で固められ、彼らの利益を最大限実現するために、こうした政治システムが巧妙に利用されている。

 経団連は93年に政治献金の斡旋をやめたが、奥田会長は「政治との関係をこれまでより強めたい。そのために政治献金のあり方を見直したい」と、日本経団連会長就任挨拶で述べた。そして、昨年12月に副会長の慎重論を押し切り、政治献金斡旋の復活を決めた。

 これから日本の政治はますます財界主導で動くことになるのだろう。政府審議会は政・財・官の癒着の最前線と見た。国民主権とは名ばかり。日本の将来を考えると、空恐ろしいことである。

 私は先の戦争の原因の根底に経済問題があったと考えている。天皇制がなかったとしても、日本の軍隊が大陸に侵略していた可能性は大きい。戦争の様子は違ったものになっただろうが、戦争の本質が天皇制にあるのではなく、経済的矛盾のなかにあるのだという点は、大切な認識ではないかと思っている。それは当時のイタリアやドイツ、また現在のアメリカやイギリスをみれば明らかだろう。こうした戦争経済論の視点からも、現在の財界主導のあり方に、大いなる危惧を覚えずにはいられない。


2003年12月29日(月) 初秋

14.父と息子

 新しい中学校に転校してから、泰夫は元気になった。「あんまり頑張るな。そこそこでよい」と修一は言い続けたが、泰夫は勉強や部活動にもそれなりに頑張って卒業した。高校時代も無難に過ごして、浪人することもなく目標の大学の法学部に入学した。

 息子の登校拒否も遠い昔の笑い話のように思われた。いじめられた経験は息子にとっても貴重な人生の体験かもしれないと、修一は前向きに考えるようになっていた。しかし、大学生三年生の息子が、突然大学を辞めたいと言い出したとき、修一はまたいきなり昔の暗い谷底に突き落とされたような気がした。

 もっとも、大学を辞めたい理由は、中学時代の登校拒否のときとは違っていた。とくに大学での人間関係に問題があるわけでもなさそうだった。

「本当に生きているという感じがしないんだ。もっと本物の生き方をしてみたいんだ。このままじゃ自分が駄目になる。大学を辞めて、しばらく自分をみつめてみたい」
「あと二年で卒業じゃないか。とにかく大学だけは続けなさい」
「二年後では遅いんだ。そのころはもう違った自分になってしまっている。僕は今の自分を大切にしたいんだ」
「お前の夢は裁判官になって、世の中に正義をもたらすことじゃなかったのか。立派な理想じゃないか」
「そんな理想は、もうどうでもいいんだ」

 修一には理解できなかった。恐らく、サークル活動にでも時間をとられて、大学の高度な授業についていけなくなったのだろう。それならそれで、学部を変わるという選択もある。経済学部や文学部でもよい。とにかく、無事、大学だけは卒業させたかった。

「俺は高校を卒業して、働き始めたんだ。大学も自分で働いて卒業した」
「僕はお父さんのような生き方はできないし、したいとも思わない。朝から晩まで会社のことしか頭になくて、夢の中でさえ仕事をしているなんて、どう見ても異常だよ。そんなのアルコール中毒と変わらないじゃないか」

 二人の会話は平行線のままだった。そして、泰夫は自分を譲らず、去年の秋に大学を退学した。修一は苦い敗北感を味わった。不思議なのは、中学時代の登校拒否ではずいぶん感情的に取り乱した妻が終始冷静なことだった。
 
「泰夫の奴、人生を棒に振ることになるぞ」
「大学を卒業して会社員や官僚になることだけが人生だとは思えないけど」
「俺も好きで働いている訳じゃない。一家を養うために、精一杯やっている」
「それだけじゃないでしょう」
「お前も泰夫と一緒に自活してみるんだな。そんな生意気な口は利けなくなるよ」

 以前は冷静だった修一の方が、かえって頭に血が上っていた。しかし、会社での地位がなくなって、修一も少しずつ心境が変わっていた。
(懸命に働いて、気がついたら会社からも家族からもよけいものだからな。しかし、たしかにこれまでの俺の人生は少しおかしかったのかもしれない)
 今はそんな淋しい反省が、ときおり修一の胸をかすめた。

 少し傾いた日差しが、街並みに輝いている。S工業のビルにも日があたっていた。しかし、この二十年でまわりに新しいビルが建って、会社のビルは以前ほど堂々とは見えない。会社の屋上からは、もう御岳や伊吹山が見えそうもなかった。


2003年12月28日(日) 軍隊まんだら

 インターネットが普及し、だれでもが情報を発信できる時代になった。戦争が終わり、半世紀以上たって、戦争体験者が高齢化し、しだいにその人口も減少する中で、今、その貴重な体験が、インターネットで語られている。そうした方々のHPを訪れることで、私たちは先の戦争について、生々しい情報を得ることが出来る。

 今日は私が愛読している「戦争を語り継ごうリンク集」の中から、そうしたHPの一つを紹介しよう。佐藤貞さんの「軍隊まんだら」である。佐藤さん戦争も末期の昭和19年4月に赤紙で召集され、中国大陸に送られる。満州から南京をとおり、南中国を行軍し、南昌で敗戦を迎えた後、敗残兵として南京、上海と経由し、故郷に帰ったのは昭和21年6月2日だったという。

 私の父がやはり佐藤さんと同じ年代で、中国大陸で一兵卒として参戦している。生前その苦労話を聞いていただけに、とても人ごとにようには思えない。ああ、父もこんな苦労をしていたのだなと思いながら読んだ。

 佐藤さんは、<これは赤紙で臨時召集された丙種合格の痩せ男が朝鮮、中国に連れて行かれ悪戦苦闘する物語りです>と書く。行軍距離約千里(4000km)、2ケ年余りの軍隊生活が、「軍隊まんだら」にはじつに生き生きと目に見えるように描かれている。文章はエピソードごとに読み切りでとても読みやすい。その魅力的な表題のいくつかを拾ってみよう。

徴兵検査、チンチンをしごかれる
大目玉の軍隊初夜の夕飯
死出の草履履きの入隊
胡麻すりは非常に有効
朝鮮人いじめ
楽しかった羅南の春
飯盛りの事で大喧嘩
水と大便に苦労する
南京の町を彷徨する大部隊
初行軍で落伍
慰安所造り
マラリヤで狐つきになった兵
大晦日の夜行軍
道を忘れた先導伍長が泣く
橋に死人が垂れていた衡陽
苦力哀れ
南嶺山脈超え
天井裏に隠れていた女達
置去り死体を焼く
兵と苦力、半々の隊列
マージャンに耽る古参兵
チンチンを出した儘歩く兵
天皇の放送を聞く
軍馬たちの末路
日本兵を罵る日本人女将
投石の中の洗濯
食べ物を恵んだ老婆達
麻酔無しの手術
お尻丸出しで検便
楽しかったリンゴの歌
空しく立つ戦死者の墓

 古参兵の凄惨ないじめ、中国人に対するむごい仕打ち、軍馬たちのあわれな最後、戦争と軍隊の非人間性を描きながら、佐藤さんの筆にはどこか余裕があり、読んでいて不快にはならない。なにかしみじみとしたあわれが漂い、読後感がふしぎに爽やかである。それはつまり、佐藤さんの人間を見つめる目が温かなためだろう。

 とくに私が意外に思ったのは、敗戦後敵地をさまよう敗残兵に対する中国の人々の意外な温かさである。たとえば、敗戦後の南京市での体験を佐藤さんはこんなふうに書いている。

<この捕虜作業をしている私達に中国の婆さん達が毎日食物を恵んでくれた。私らは食事が少なかったので昼の分まで朝食べてしまって殆ど空の飯盒を持って作業に出掛けた。
昼食の時に空の飯盒をつついて居る私らを見て、婆さん達は二三人ずつ自宅に連れて行って何かを食べさしてくれた。

 昼休みに魚釣台(或いは釣魚台)と言う警察署の中庭に入れられて表に出られなかった時、お婆さん達が巡査と揉み合いまでして私らを連れ出して食べさして呉れた。夕方引き上げるときには天秤に饅頭や漬物を下げてくれた。宿舎に戻って夜皆でこれを分けて食べるのが何よりの楽しみだった。本当に有り難う御座いました。その時から私は中国に恩返しをしなくてはと心に決めました。私は今、中国の沙漠緑化植樹や辺地小学校の建設、留学生援助などにせめてもの気持ちを表わしています。

 それにしても終戦後の物不足の時に中国の婆さん達はどんな気持ちで日本兵に物を恵んでくれたのでしょうかまた、路上でお湯を売っている焼き芋屋風の屋台に行って水筒にお湯を入れて貰いましたが只でした。行列をしている大勢の兵にお湯を呉れるのは相当の負担だったと思います。>

 兵隊は誰の為に戦ったのか。佐藤さんは「あとがき」で、こんな風に書いている。

<「母ちゃんや子供、親兄弟、好きな彼女などが住んでいる日本の為だ」と公言出来る軍隊だったらもっともっと人間味のあるものになっていたと思う。然し、このようなものは、女々しいこと、個人的なこととして排斥されました。

何の為に戦うかも納得しない儘、戦地を徒に彷徨したのが私の従軍でした。結果として中国人民に多大の犠牲と損害を与えて空しく帰国したことになりました。貴重な食料を徴発して自分の口に入れ、無辜の中国人を拉致し労働を強制し、家を焼き、田畑を荒らしたことを心からお詫び致します。>

(参考サイト)
「戦争を語り継ごうリンク集」
http://www.rose.sannet.ne.jp/nishiha/senso/
「軍隊まんだら」
http://www2.ocn.ne.jp/~sukagawa/


2003年12月27日(土) 若きサムライのために

 私がかって愛読した本に三島由紀夫の「若きサムライのために」という本がある。上田秋成の「菊花の約」について教えられたのもこの本だったが、他にもいろいろと考えさせられることが書いてあった。たとえば三島は文学について、こんなことを書いている。

<私は文学自体がモラルを喪失させるという危険をいつも感じてきた。そして、文学にモラルや生きる目的を見出そうとしている人たちが知らず知らず陥ってゆく罠を何度も見てきた。それだけに文学の青年に与える魅力の危険性についてよく知っているのである>

 人間にとって一番大切なものはモラルである。モラルこそが人間の背骨なわけだが、これがいま溶けようとしている。その原因として三島は文学や芸術を挙げている。

<ナチス革命がニヒリズム革命と呼ばれたように、人々は本来芸術に求めるべきものを、芸術では満足せず実際行動の世界に移し、生の不安を社会に投影し、死との接触により生を確かめを無理やりつくり出し、戦闘的な行動によって、これを証ししようとした傾きがないではなかった。ところが、このような人為的な政治的行為は、いまや一ナチス・ドイツにとどまらず、世界的な風潮になったのである。それは、私が前からたびたび言うように、芸術の政治化であり、政治の芸術化である>

<現在の政治的情況は、芸術の無責任さを政治へ導入し、人生すべてがフィクションに化し、社会すべてが劇場に化し、民衆すべてがテレビの観客に化し、その上で行われることが最終的には芸術の政治化であって、真のファクトの厳粛さ、責任の厳粛さに到達しないというところにあると言えよう>

 三島は恋愛の成立させる要素に「羞恥心」があるという。そして羞恥心が失われた現代ににおいて、「恋愛が羞恥心の消滅ともに消滅」する運命にあると予言する。もっとも三島のいう羞恥心は肉体的なものではない。もっと精神的な問題だ。

<日本の女性も、かって羞恥心にあふれていたころは、かえって人前で子供におっぱいをやることを何とも思わず、また男女混浴さえ堂々と行われていた。羞恥心は単に肉体の部位にかかわるものではなく、文化全体の問題であり、また精神の問題である>

 最後に、三島が若きサムライに残した遺言に耳を傾けてみよう。

<私は『武道初心集』を読みかえすごとに、現代の若いサムライが勇者か不勇者かを見る区別は、もっと別のところに見なければなるまいと思う。それは何であろうか。それは非常事態と平常の事態とを、いつもまっすぐに貫いている一つの行動倫理である。危機というものを、心の中に持ち、その危機のために、毎日毎日の日常生活を律してゆくという男性の根本的な生活に返ることである>

 これを読んでいると、三島がなぜ剣道に引かれていったかがわかるような気がする。三島自身は、剣道によって「文学の毒」「ニヒリズムの沼」から脱出できたと告白している。自分の内部に恐ろしい毒を持っている人間はやむをえないが、他人の毒に染まって文学に熱中することはない。「できれば文学熱に浮かされている青年達が、もっとはやく目がさめてほしいのである」と書いている。近代的な文学や芸術が人間のモラルを破壊しているというのは、晩年のトルストイの思想にどこか似ている。


2003年12月26日(金) 初秋

13.いじめられる息子

 結婚して、芳子は幸せそうだった。修一が仕事から帰ってくると、薄化粧をして出迎えてくれることもあった。そんなときは、二人で仲良く外食をした。そして二人は毎晩のように激しく愛し合った。

 やがて泰夫が生まれた。その頃から修一の仕事が忙しくなって、家庭を顧みるゆとりがなくなった。長女がうまれ、やがて白血病で死んだが、そのかなしみにふけってる余裕はなかった。修一は仕事の面で一番充実していたときだった。芳子もボランティア活動に参加するようになって表情が明るくなった。毎朝、笑顔で修一を会社に送りだしてくれた。

 泰夫は中学生の最初の頃は優等生だった。成績がいいだけではなく、妻に似て積極的な性格で、生徒会の役員になって、「学校から暴力をなくそう」といういじめ一掃キャンペーンに参加したりした。担任の先生に可愛がられていたが、二年生になってクラスが変わったころから、泰夫は次第に浮いた存在になり、やがて一部の不良性とからいじめを受けるようになったようだ。

 二年生の時の担任の先生は同情するだけで具体的な手を打つわけでもなく、クラスの生徒も無関心で冷淡だった。中には便乗して、心ない悪戯を仕掛ける者もいた。体育の授業から帰ってくると椅子がなくなっていたり、机の上に卑わいな落書きがしてあったり、そんなことがしょっちゅうあったらしい。

 やがて泰夫が学校を休むようになり、担任の先生が家庭訪問を繰り返すようになった。修一も仕事を早めに切り上げて、担任の先生と何度か懇談した。修一と同じ年代の、温厚そうな中年の教師だった。

「泰夫君は成績もいいですし、自分の意見もしっかりもっています。正義感のあるやさしい生徒です。しかしそれだけに、不正を見て見ぬ振りをしたり、適当に周囲に合わせることができないのです。そして一人だけ浮き上がってしまうのですね。とくに一年生の時目立ちすぎたのがいけなかったようです。ここまでこじれると、立ち直るのはむつかしいかもしれません。転校という選択肢も、泰夫君のために考えてあげて下さい」

 先生のこの言葉に、芳子は反発したが、人間はそう上等な存在とは限らず、正義や理想が世間で通らないことは、修一には理解できた。これを機会にマイホームを購入して、新しい土地に引っ越してもいいと思った。修一はさっそく島田に相談して、郊外にある新興団地の一角に、建て売りの一戸建てを購入した。ちょうど年号が昭和から平成に変わった年の春で、バブルのまっさかりの頃だった。


2003年12月25日(木) 冬の夜

 最近、夜中に目が覚める。13歳になるマルチーズの愛犬リリオが少し前から心臓を病んでいる。夜中に苦しそうに咳をする声が、私の枕元に届く。医者の薬を飲んでいるが、日々に衰えていく様子がわかる。医者には「今年の冬はこせないだろう」と言われている。

 安静が必要なのだが、家族の者が近づくと、尻尾を振り、鼻先をつけて甘えようとする。しかし、そうすると余計にせき込み、苦しくなる。だから、今は犬の体に触れることも撫でてやることもできない。遠くから声を聞き、同情するだけだ。

 生後間もないリリオが貰われてきたとき、娘達は幼稚園と小学校に通っていた。それが二人とも大学生だ。家族の思い出の中に、リリオはそのなつかしい姿を刻んでいる。二年前に私は彼を抱いて、若狭の山に登った。頂上から眺めた若狭湾は真っ青だった。

 青葉山犬も登れりふるさとの若狭の海のさ青なること

 そのむかし棲みたる村の学びやを妻と娘と犬に指さす

 私は青葉山のふもとの青郷という村に、小学2年〜3年を過ごした。父がその駐在だったからだ。駐在所の前の畑の向こうが、青郷小学校で、その上に、青葉山がそびえていた。福井市に生まれ育った私には、田舎の暮らしが珍しかった。やがて伊勢湾台風で駐在所が半壊し、父は小浜署に転勤になり、私も小浜の小学校に転校した。小浜で3年間過ごし、6年生の時にふたたび福井に帰ってきたが、若狭は大切な故郷になった。青葉山の四季折々の姿も記憶に焼き付いている。

 寝床で愛犬の苦しそうな咳を聞きながら、私は昔の旅を振り返り、10年前に死んだ父を思い出した。ガンの末期だった父を見舞いに福井の実家に帰ったとき、二階に寝ていた私は階下から聞こえてくる父のうめき声を何度も聞いた。たいへんつらかったが、添い寝していた母はもっとつらかったと思う。父はそれからしばらくして旅立った。

 わが父母の暮らしを思ふ貧しくて諍いたるも今はなつかし
 
 父母のいずれを好くと尋ねられ中に埋もれて寝し日もあり

 あるときは仇のごとく憎みをり父を思ひて雪山仰ぐ

 雪雷を炬燵に聞きしふるさとは遠きむかしの夢にてあるらし

 愛犬の老いてしわぶく冬の夜は眠られぬまま風の音きく

 風花の白くながれる故郷の若狭の山はなつかしきかな 

 かさこそと落ち葉叩きて降る雨も雪となりしか夜のしじまに


2003年12月24日(水) 武士道と明治維新

 新渡戸稲造は「武士道」に「武士道は刀をその力と勇気の表徴となした」と書いている。武士の魂は「刀」に象徴される。ところで、刀は武器であり、人をも殺傷する凶器である。武士はなぜこんな物騒なものを常に携帯しているのか。その理由はそれが、武士の魂の表徴だったからである。「武士道」から引こう。

<武士の少年は幼年の時からこれを用うることを学んだ。五歳の時武士の服装一式を着けて碁盤の上に立たせられ、これまで玩んでいた玩具の小刀の代わりに真物の刀を腰に挿すことにより始めて武士の資格を認められるのは、彼にとりて重要なる機会であった。この部門に入る最初の儀式終わりて後、彼はもはや彼の身分を示すこの徴を帯びずして父の門をいでなかった>

 多くの武士にとって、それは武士道の魂の象徴というより、たんなる封建的身分の象徴だったことは明らかだ。しかし中にはほんとうに武士らしい武士もいたことだろう。たとえば吉田松陰がそうだし、自ら刀を捨てて郷里に帰った中江藤樹などがそうだ。

 勝海舟は刀を決して抜けないようにして結わえていたそうだ。「人に斬られても、こちらは斬らぬ」という覚悟からだったという。実際、「私は人を殺すのは嫌いで、一人でも殺したものはないよ。みんな逃がして、マアマアと言って放っておいた」と語っている。

 さらに時代をさかのぼれば、「平家物語」に描かれた武将、熊谷直実の話が浮かぶ。1184年、須磨の浦で彼は平家の若い武将を組み伏せた。自ら名乗りを上げ、相手の名を問うが答えない。そこで兜を押し上げて見ると、まだあどけない少年だった。彼は驚き、彼を助け起こした。

「あな美しの若殿や、御母の許へ落ちさせたまえ。熊谷の刃は和殿の血に染むべきものならず、敵に見咎められぬ間にとくと逃げ伸びたまえ」

 しかし敦盛はきかず、「首を打たれよ」と譲らない。そこへ双方の兵が押し寄せてきた。熊谷は観念して、「名もなき人の手に亡しなわれたまわんより、同じうは直実が手にかけ奉りて後の御供養をも仕らん」と言い、刃を少年の首にあてた。熊谷は戦の後、刀を捨て、頭を刈り、僧衣をまとって、その生涯を少年の供養のための行脚に過ごしたのだという。

 この直実の振る舞いは特殊なものではなかったらしい。新渡戸は「かかる場合組み敷かれたる者が高き身分の人であるか、もしくは組み敷いた者に比べ力量の劣らぬ剛の者でなければ、血をながさぬことが戦いの作法であった」と書く。お互いに名を名乗り合うのはこのためだった。自分より力量の劣る者、身分の低い者を斬るのは「武士の名折れ」であり、「刀の汚れ」であったわけだ。

 武士は論語を学んだ。それから、「測隠の情」で有名な孟子を読んだ。人生論や哲学のような書を著し、これに親しむ者もいた。さらに和歌や俳句を学び、書画や茶道も長けた者もいた。「もののあはれ」を知ることも、武士のたしなみであり、それはまさしく日本の武士道の大切な要素でさえあった。ふたたび、「武士道」から引いておこう。

<孟子の力強くしてかつしばしばすこぶる平民的なる説は、同情心ある性質の者には甚だ魅力的であった。それは現存社会秩序に対して危険思想である、反逆的である、とさえ考えられて、彼の著書は久しき間禁書であったが、それにかかわらず、この賢人の言は武士の心に永久に寓ったのである>

 日本は武士階級が革命の担い手になり、ついには封建体制をくつがえした。いま、その頃の日本の歴史をいろいろと調べているが、武士道が大きな役割を果たしていたと私は考えるに至っている。


2003年12月23日(火) ほほえみの文化

 先週の週末は12月にしては珍しい大雪で、テニスの練習試合も延期になり、二日間、のんびり読書をしたり、数学の問題を解いたり、文章を書いたりした。北さんに貰った「東京物語」のDVDもようやく見ることができた。

「東京物語」はこれまで何回か見ていて、私の「映画100選」に入っている。あらすじや感想はすでにあらかた書いているが、今回じっくり見て、味わってみたいと思ったのは、登場人物の「ほほえみ」だった。新渡戸稲造の「武士道」(岩波文庫)で、こんな文章に出会っていたからかもしれない。

<日本人は、人性の弱さが最も厳しい試練に会いたる時、常に笑顔を作る傾きがある。我が国民の笑癖についてはデモクリトスその人にも勝る理由があると、私は思う。けだし我が国の笑いは最もしばしば、逆境によって擾されし時心の平衡を恢復せんとする努力を隠す幕である。それは悲しみもしくは怒りの平衡錘である>

 ほほえみが悲しみをかくす幕であるということは、戦争で夫を失って若い未亡人となった紀子(原節子)にもあてはまる。息子を戦争で失ったトミ(東山千栄子)や周吉(笠智衆)にもあてはまる。そのお互いを思いやる気持が、彼らの浮かべる微笑みの中にそこはかとなくただよっている。夫を失った悲しみ、子を失った悲しみ、そうした悲しみが三人をむすびつけ、その悲しみを浄化させるなかで、そこに微笑みという精神のやさしい美しさが醸し出されてくる。

 そうした悲しみを悲しみとして経験することなく、淋しさを淋しさとして味わうことなく、ただ慌ただしい生活に追われている人々は、人間として何かを失っている。そして失ったものにさえ気付かない。それはそれでひとつのかなしいことなのだが、長男や長女に代表されるそうした人々のまずしい生活もまた小津安二郎はこの三人に対照させて描き出している。こうしてこの映画は奥行きの深いものになっている。

「私、そんなおっしゃるほどのいい人間じゃありません・・・私、ずるいんです」という紀子(原節子)セリフは、そうした「かなしみ」が失われることへの「かなしみ」であり、淋しさであり、慟哭であろう。そしてこれを大きく抱擁するのが、「ええんじゃよ、忘れてくれても」という老妻トミ(東山千栄子)を失ったばかりの周吉(笠智衆)の、慈愛に満ちたやさしい言葉だった。

「長老尼経」に夫と愛児をなくしてかなしみのあまり気が狂う女が出てくる。しかし、釈尊にであって、彼女の悲しみは浄化される。それは悲しみを忘れたのではない。もっと大きな悲しみの中に、自分の小さな悲しみが溶けだしていくのを体験したからだった。つまり彼女は永遠というものに触れて、釈尊とほのぼのとした微笑みをかわす。こうして女は法華経にいう「唯仏与仏」の出合いを成就する。

 法華経に「常懐悲感、心遂醒悟」(常に悲しみを懐きて、心遂に醒悟す)という言葉がある。魂の奥深くにしみとおる悲しみによって、人は本物のやさしさを手にする。それは人間として、本物になるということだ。そしてこのほんもののやさしさにふれた人間だけが、人生のほんとうの豊かさに目覚めるのだろう。

<「東京物語」は、本当に深い映画だと思います。トミが死んだ直後、夜明けを眺めていた周吉(笠智衆)のセリフ、
「きれいな夜明けじゃった。今日も暑うなるぞ・・・」
これが、フランスではとても評判になったということです。このセリフにこめられている周吉の「悲しみ」が、ようやく分かったような気がしました。>

 これは「東京物語」を見た北さんの感想である。こういうセリフがあることを見落としていたので、今回はじっくり味わいながら鑑賞した。そして、やはりいいセリフだと思った。最愛の存在を喪失して、こういう淡々とした言葉を吐ける人間はすばらしい。これは日本映画のみならず、世界映画史上、もっと美しいセリフの一つではないかと思った。

 新渡戸が「武士道」の中で、加賀の千代女の俳句を引いて、こんなことを書いている。

<死せる児の不在をば常のごとく蜻蛉釣りに出かけたものと想像して、おのが傷つける心を慰めようと試みた一人の母は吟じて曰く、

 蜻蛉つり今日はどこまで行ったやら

他の例を挙ぐることを止める。何となれば一滴一滴血を吐く胸より搾り出されて希有なる価値の糸玉に刺し貫かれたる思想をば、外国語に訳出しようとすれば、我が国文学の珠玉の真価をかえって傷つくるものなることを、私は知るからである>

 最近の日本人にからは、この「やさしさ」や「かなしみ」、そしてそうしたそこはかとない魂の深みから立ち現れる「美しいほほえみ」が失われているようだ。あるのは即物的な「お笑い」ばかり。「ほほえみ」も一つの大切な文化である。法隆寺の仏像のたたえるあの奥深いやさしさをたたえたほほえみを、いつまでも残しておきたいものだ。

 最近のeichanの短歌から三首。

 冬鴉えさを求めて街の中痩せた体に殺の目をして

 早朝の高速バスの乗客はみんな目を閉じ静まりかえる

 真夜中に布団の中で聞いている時計の秒針風の物音

 師走の街を歩いていると、ときおり「殺の目」をした人に出会う。しらずしらず私も「殺の目」をしていそうな気がする。日本在住の外国の人が、「最近の日本人はみんな戦士のような目をしている」と書いていたのを思いだした。しかし、日本古来の美しさは、「ほほえみ」のなかにある。これを忘れないでいたい。私の短歌を二首。

 ほほえみを忘れて歩くわが肩に
 冬の日差しはやさしくふれて   

 何ごともなけれどたのしほほえみに
 ほほえみ返す人のぬくもり

 ところで、今朝の私のセリフはこれだ。笠智衆を気取ってみたが、ちょっと無理か。

「きれいな夜明けじゃった。今日も寒うなるぞ・・・」


2003年12月22日(月) 初秋

12.結ばれるまで

 妻の芳子との間がうまくいかなくなったのは、ここ数年のことだった。それまで二人は喧嘩したことがなかった。喧嘩をしたことがないということが仲がいい夫婦の証明ではないが、少なくとも修一は妻に不満を覚えたことはなかった。

 おくての修一にとって、芳子は初めての女だった。都会育ちの芳子は、すでに修一の前に何人かの男性と交際があったらしい。その一人が島田だった。島田から芳子を薦められたときには、さすがに修一は後込みした。芳子は同じ夜間大学の同級生だったが、学部が違っていたので、面識くらいしかなかった。

「芳子さんは君が好きなんだろう」
「そうかもしれない。しかし、僕はもう彼女には興味がないんだ」
「だからといって、僕におしつけられても困るな」
「別に押しつけているわけではない。それに、何も結婚を前提にした交際をしろとは言っていない。お前のような初心者には、彼女くらいがいいんだよ。そう堅苦しく考えなくてもいい」

 島田に励まされて、修一はおそるおそる芳子と交際を始めたのだった。しかし、つき合ってみると、芳子は見かけによらずまじめだった。島田と交際していた時も、唇を合わせたくらいで、それ以上は許していないという。

「島田さんは、ああいう方でしょう。彼のことはとても好きなのよ。でも、私は結婚するまでは潔白でいようと決めたの。色々な男性と遊んだけど、私はみかけほど自由ではないの。ほんとはとても古風な女なの」

 修一は芳子の言葉を信じてもいいと思った。修一は夜の公園ではじめて接吻した夜、別れ際に、芳子に結婚を前提に交際することを申し込んだ。彼女は二つ返事で受けてくれた。このことを島田に報告すると、少し意外そうだった。

「そう思い詰めるな。もっといろいろな女を経験してからにすればよい」
「その必要はない。芳子でいい」
「お前は芳子を甘く見すぎているよ。悪いことは言わないから、芳子はあきらめろ。少なくても、もう一人くらい、つき合ってからにしろ」

 島田が次ぎに薦めたのは、同じ職場にアルバイトとして働きに来ていた短大生の良子だった。修一と同じ福井県の出身で、内気で控えめだが、芯の強そうなところがあった。きめの細かい白い肌と、だれからも好感を持たれそうな可憐な黒い目をしていて、修一も初めて見たときから惹かれるものがあった。

 修一は何度か会社の近くの喫茶店で良子と会って、話をした。気立てがよく、よく気のつく娘だった。自分の伴侶として、良子は最高の存在のように思われた。しかし、修一は芳子との約束を曲げることができなかった。そのことを島田に言うと、

「最初に良子をお前に薦めればよかった。女に免疫のないお前が心配で、つい芳子でウオーミングアップをと思ったんだ。お前はともかく、まさか芳子がお前を選ぶとは思わなかった。意外な展開だったな。しかし、お前を選んだ芳子は賢明だよ」

 大学を卒業と同時に、修一は芳子と結婚した。島田が二人の結婚披露宴の司会をひきうけてくれた。仲人は大学の指導教官に頼むつもりだったが、島田が会社の技術開発部長の佐藤をすすめた。その後、修一は佐藤に気に入られ、主任に抜擢されたりしたことを考えると、このときの島田は冴えていた。


2003年12月21日(日) ノーモア・借金

 昨日の日記「国債ブラックホール」をあるメールマガジン(no more war)に投稿したところ、メンバーの方から「なぜ借金(国債)にばかり頼るのでしょう」と訊かれた。その質問と、これにたいする回答を、今日の日記で紹介しよう。

<一般家庭に当てはめてみますと、給料が10万円で、支出が20万円。その差額の10万円が借金。こういう状態ですね。 私たちの家庭では到底考えられない。>

 とても分かりやすいたとえですね。さらに付け加えると、この家は借金を2000万円ほどかかえています。その返済が毎月4万円です。借金をしないと、月6万円で生活しなければならないことになります。

<まず私たちなら、節約して10万円で生活するように考えます。また主人の給料以外に奥さんのパートに出るとかして、収入を得る方法を考えます。なぜ借金(国債)にばかり頼るのでしょう>

 答えは、大人達が今のリッチな生活を楽しみたいからです。後の世代のことはことは何も考えようとしないで借金にふけっているのです。これはもう麻薬のようなもので、どうにもとまりません。こうしてまともな理性をうしない、思考停止状態に陥っているわけですね。

 これだけの借金をしていたのは、戦争末期の日本くらいです。戦争に負けて、国債が紙屑になり、政府は借金がきれいになくなりました。損をしたのは、直接もしくは間接的に金融機関をとおし知らないうちに国債を買わされていた国民です。歴史は繰り返すといいますが、繰り返されるのは、こうした「とんでもない愚行」です。

 以前に書いた文章を参考のために引用して、補足しておきます。書いたのが4年前ですから、データーは若干古いですが、内容は古くなっていないと思います。

<日本の累積赤字は、地方自治体の分も含めると600兆円を越えています。しかも、この額は毎年ますます膨らんでいます。たとえば99年度予算81兆円のうち、30兆円が赤字国債です。これを年収810万円のサラリーマンの家計にたとえてみると、月収68万円のうち、25万円がサラ金でまかなわれている事になります。そしてこの家庭の借金は6000万円ということになります。つまりすでに借金が6000万円もあるのに、まだこりずに毎月25万円ずつ借金をこしらえているのです。とても正気の沙汰とは思えません。

 しかし実はさらにこの話には続きがあります。実は赤字国債の他に国は建設国債を発行しています。99年度予算で言えばその額は41兆円にもなります。これは道路や橋やトンネルを作るための公共事業にあてられるので、赤字国債と違って国会で承認を受けなくても、政府は一般会計とは別枠でいくらでも発行できるのです。家計にたとえて言えば、マイホームや土地を買うためにする借金のようなものです。しかし、これも借金には違いありません。建設国債も赤字国債も実質的にはなにほどの区別がないのです。

 これらだけの国債をそれでは誰が買っているのでしょうか。それは主に日本の金融機関です。国民が郵便局や銀行に預けた金、もしくは年金や保険金として納めた金で国の借金(国債費)がまかなわれているのです。ところで国債の金利は1.3パーセントです。なぜ日本の金融資産が利息を産まないか、その理由の一端はここにあります。つまりお金が有効に活用されていないと言うことです。

 日本よりも多くの累積赤字(公的債務残高)を抱えている国はアメリカで、1100兆円(9兆ドル)もの財政赤字があります。実に日本の2倍です。このアメリカの赤字を日本が米国債を買うことで支えています。その額はアメリカの財務省の発表では40兆円ということですが、実際には300兆円から400兆円にのぼると見られています。

 アメリカは最近の好景気で税収が伸びて、一応「財政が黒字転換した」と言われています。しかし、98年度の経常赤字(貿易赤字)は2330億ドルもあります。この赤字体質が改善されないかぎり、まだまだアメリカの経済が健全だとは言えません。

 それにもかかわらずアメリカが自国の累積赤字に対して鷹揚なのには、実はそれなりの理由があるのです。それは借金の引き受け手の多くが海外の投資家だということです。米国債の金利は年率6パーセントもあります。1.3パーセントの日本の国債と違って、世界中の投資家が買ってくれます。しかしこのことによる弊害も考えなければなりません。世界中の投資家が自国の産業に投資することをやめて、その資金をアメリカに注いだらどうなるでしょうか。たしかにアメリカは発展するでしょうが、貧しい国々はいつまでも貧しいまま残されます。そしてこれは今現実に世界で生じていることなのです。

 さらにもう一つ怖ろしい事実があります。それは米国債はいつ紙屑になるか分からないということです。何しろもともとただ同然の紙屑ですから、アメリカのバブルがはじけ、株が大暴落でもしたら、米国債も紙屑です。日本がこうした紙屑を300兆から400兆も所有しているというのは考えてみれば実に恐るべき事態なのです。したがって、政府はその事実を公表しようとしません。

 ところで財政赤字を国内総生産(GDP)で比較すると、日本は600兆円に対して500兆円ということになり、その割合は120パーセントに達します。この値はいまやイタリアを抜いて世界一です。92年の段階ではこの値は60パーセント以下で、イタリアの半分以下、アメリカよりも小さかったのです。それがこの8年間の放漫財政によって見る間に2倍以上に膨れ上がってしまい、しかも今も天井知らずで上昇を続けています。>

なぜ借金をするのか。それは私たちが身分不相応なリッチな生活をしたいからだ、と書きました。たしかにその通りなのですが、これではまだ、分析が甘いと言われそうです。そこで、もう少し、ほんとうのところを補足しておきます。

 戦争中に天井知らずの国債を発行したのは、軍費調達のためです。それではなぜ戦争をしたのか。いろいろな説がありますが、私が注目しているのは、軍隊の巨大化があると思います。戦争のために軍隊があるのではなく、軍隊のために戦争がある。つまりえらい軍人さん達をいっぱい作るために戦争がおこり、国民がその惨禍にまきこまれていったのです。

 今日の巨額な赤字国債も、実はおなじ構造で発生しています。戦前は軍隊でしたが、今日それにかわるのは官僚と政治家です。この強固な利権構造が、巨大な赤字国債を生み出しています。この点をしっかり認識しておく必要があるでしょうね。

(参考)「橋本裕の経済学入門」
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/zin4-1.htm


2003年12月20日(土) 国債というブラックホール

 質量の大きな星は、やがて自分自身の強い重力のために内部崩壊し、ブラックホールという暗黒物質をつくる。アインシュタインの理論によれば、この暗黒物質の近くでは重力がきわめて大きいので、光さえも蟻地獄のようにその穴に落ちていく。あらゆるものが吸い込まれ、その穴の質量はさらに大きくなる。ブラックホールは光を出さないが、質量が大きいので、周囲の物体に与える影響も大きく、間接的に観測されるわけだ。

 たとえばハッブル宇宙望遠鏡の観測によると、私たちの銀河の中心付近には、アンドロメダ座のM32、おとめ座のM87などの巨大なブラックホールがごろごろあるらしい。これらのあるものは、太陽質量の26億倍というからすごい。他の銀河でも、たとえば銀河M106に太陽質量の3600万倍の巨大ブラックホールが観測されている。

 ブラックホールは宇宙の物質の究極的な吸込口であり、どんなものもそこから出ることはできない。ガスや星を飲み込んで質量を増やし、大きくなることしかできない。こんな厄介なものが、この宇宙に存在している。そして最後は、宇宙そのものが、一つの巨大なブラックホールに呑み込まれてしまうのではないか。これは現に科学者がアインシュタインの理論によって世界の終末を描くときのシナリオの一つである。

 ところで、来年度の国家予算が内示された。それによると、歳出は82兆円で、これを42兆円の税収と40兆円近い国債の発行で賄うのだという。今年度が36兆円だから、さらに国債の発行額がふえるわけだ。国と地方合わせれば、累積発行額は750兆円を超えることになりそうである。ちなみに平成14年度当初予算は81兆円。支出の内訳を書いておく。

1.社会保障       18兆円(23%)
2.地方交付税交付金 17兆円(21%)
3.国債費        17兆円(21%)
4.公共工事       8兆円(10%)
5.文教、科学振興   7兆円( 8%)
6.防衛関係       5兆円( 6%)

 国債の償還や利払いにあてられる国債費が17兆円もある。比率は21%で、財政支出の5分の1を借金の返済と利払いにあてている。収入の半分を借金にたより、その借金でどうにか借金の利子を払っているわけだ。今後この比率がますます高くなり、財政をさらに硬直化させることが予想される。

 国債を発行し、公共事業などにお金を使えば、景気対策になるという人がいるが、問題は国債を買うのが誰かということだ。じつは日本の国債の95%は日本の投資家によって買われている。つまり私たちが年金や貯金として預けたお金が、国債に吸い取られ、肝心の産業に廻らないのだ。

 資金がどんどん国債というブラックホールに吸収され、ブラックホールだけが巨大になっていく。宇宙がブラックホールに呑み込まれるように、日本経済は借金というブラックホールにすっかりこれに呑み込まれてしまうだろう。ちなみに政府債務残高のGDP比を、1991年と現在で比べてみよう。ブラックホールの異常な成長ぶりがわかる。まずは1991年の統計を書く。

イタリア(120パーセント)
アメリカ(70パーセント)
日本(65パーセント)
フランス、ドイツ(40パーセント)

 ところが、2002年には、日本がアメリカやイタリアを抜いて、ダントツの世界一になる。世界開発機構による統計を書いておこう。

日本(155.7パーセント)
イタリア(120.1パーセント)
フランス(69.6パーセント)
アメリカ、ドイツ(65パーセント)

 日本の国債依存性は突出している。この十数年間、他の国々は「財政再建」を旗印に適正で効率的な支出により経済を立て直してきたのに、日本はそうではなく、景気浮揚という名目でただただ国債とその利権に巣くう天下り官僚機構というブラックホールばかり肥え太らせてきたわけだ。すでに巨大化したブラックホールの引力圏を脱出するのは不可能になりつつある。この先、何が起こるか? 年金の破綻ぐらいですめばよいのだが・・・・

 ところで、1974年に、スティーブン・ホーキングは一般相対性理論と量子力学を組み合わせて、独自の理論を作った。この理論によると、ブラックホールは、明るく輝いたり、縮んだり、ときには大爆発したりすることがあるという。ブラックホールが爆発するというホーキングのこの予言は、世界の科学者に大きなショックを与えた。国債というブラックホールも、いつか大爆発をするのかもしれない。


2003年12月19日(金) 初秋

11.伊吹山

 天気のいい日、修一は屋上で洗濯物を日光に晒すことにしていた。日光で消毒しないと、病院にはたちのわるい雑菌がいそうである。それに、日光や風の匂いのする肌着は、寝たきりの患者にとって格別のものだろう。

 今日はとくに天気がいいので、洗濯物ばかりではなく、毛布や布団も干してやった。修一は家事労働を一切妻に任せていたが、病院へ来ると別人のように働いた。それが少しも苦にはならなかった。

 修一は布団を干し終わって、屋上から街の景色を眺めた。S工業の煉瓦色の本社ビルの一部が見えた。そのはるか向こうに、伊吹山の影がかすんでみえた。十八歳で福井から名古屋に出てきた修一は、山の姿がほとんど見えない濃尾平野の広さに驚かされたものだ。

 福井は盆地だから、四方が山である。修一は昼休みになると、会社のビルの屋上に来て、遠くの山を眺めながら、故郷を思ったものだった。そして、いつかそんな修一の傍らに、同期で入社した島田の影があった。彼から伊吹や御岳の名前を教えられた。

 教えられたのは、山の名前ばかりではなかった。生きていくのに必要な世間常識も教えられた。都会に出てきて、右も左も分からなかった修一が、何とかやってこれたのも島田のおかげかも知れない。夜間大学を四年間で卒業できたのも、島田と一緒だったからだろう。何度もくじけそうになった修一だったが、島田に叱咤されて卒業できた。

 学歴がものを言う時代だったから、夜間部卒では大した出世は望めなかったが、修一は上司に恵まれ、実力が認められて、製品開発プロジェクトに加わることができた。主任を任せられたときには肩に力が入り、過労で入院したこともあったが、それでもプロジェクトは成功した。十年ほど前に会社が創業五十周年を迎えたときには、妻や長男も祝賀会に招待され、修一は家族の見守る中で中間管理職として晴れがましい席に座ることができた。

 その頃すでに会社は円高のリスクを避けるために海外に工場を移転させていたが、やがて急激な資産デフレの時代を迎えて、設備投資のために借りた高利の借金が足かせになり、経営が次第に苦しくなったようだ。研究開発費が縮小し、修一も技術畑から今の部署に配置転換になった。

 倉庫係のような身分にはちがいないが、それでも永年勤めてきた会社は自分の人生の一部のようで愛着があった。若い頃に戻って、もう一度会社を選ぶとしても、S工業を選ぶのではないだろうか。
(人生がやり直せたら、再び今の妻と結婚するだろうか)
 修一は煙草に火をつけながら、ふと思った。そして、最近ますます険しくなってきた妻の顔を思い浮かべた。


2003年12月18日(木) 神ながらの道

 仏教でもキリスト教でも、人間は本来罪深い存在だと説く。罪深い人間がいかにして救われるか。そこで神さまや仏が現れて、これを信じれば、ありがたやありがたや、ということになる。神仏を信じなかったらどうなるか。永遠の地獄に堕ちなければならない。

 ルソーやカントは人間の自然状態は絶対的に無邪気なパラダイスであるとした。ところがアダムとイブが「知恵の木の実」を食べて、分別に目覚め、突然罪深い自己を意識し始めたのだという。

 人間は生まれながらにして罪深い存在であるというのは解らぬでもない。たとえば、私も幼い頃は平気で蛙や蜻蛉を捕まえて殺していた。ところがいつ頃か、それができなくなった。蚊を一匹殺すのでさえ、何となく後ろめたいのである。しかし、人間は他の生物を食べてしか生きては行けない。仏教の「不殺生戒」を守ることは、原理上不可能なのである。これが私にとっての「原罪意識の芽生え」といえば言えそうである。

 ところが新渡戸稲造によると、神道の神学には「原罪」の教義がないという。人の心本来善にして神のごとく清浄であるという。こうしたすこやかで明るい思想に触れると、重くたれ込めた暗雲がきれいに払われて、さわやかな秋の青空を仰いだような、自由な気分になり、楽しくなる。

 それでは自己の生存のために他の生物を殺すことは許されるのだろうか。それが自然の摂理である以上、もちろん許される。しかし、そのとき私たちは「いただきます」という感謝の心を忘れてはいけない。もちろん、無駄な殺生などあってはならないことだ。

 私の見るところギリシャ思想にも原罪の意識はほとんどないようである。そこには人間や自然に対する底抜けに明るい信頼と希望が感じられる。ギリシャ思想の晴れやかさは、どこか日本の古神道のうららかさに通じている。

 私自身は、人間を罪深い存在だとは考えない。だからキリスト教や仏教の原罪の考え方は好きではない。以前は罪の意識に苦しみ、「歎異抄」に魂を揺さぶられるような体験をしたこともあったが、今は次第にこうした感動から遠くなりつつある。

 かわって好きになったのは、「万葉集」の豊かで明るく、おおらかな世界である。歳とともに本居宣長の「神ながらの道」に近づいてきたのかもしれない。「神ながらの道」とは、すなわち、「在ることを楽しむ」ことである。法華経に説く、「衆生所遊楽」の世界だと言ってもよい。


2003年12月17日(水) 武士道に生きた新渡戸

 新渡戸稲造(1862〜1933)が「武士道」(矢内原忠雄訳、岩波文庫)のなかで、日本古来の神道にふれて、こんなことを書いている。

<神道の神学には「原罪」の教義がない。かえって反対に、人の心本来善にして神のごとく清浄なることを信じ、神託の宣べられるべき至聖所としてこれを崇め貴ぶ。神社に詣ずる者は誰でも観るごとく、その礼拝の対象および道具は甚だ少なく、奥殿に掲げられてる素鏡がその備え付けの主要部分を成すのである。鏡の存在は容易に説明ができる。それは人の心を表すものであって、心が完全に平静かつ明澄なる時は神の御姿を映す。この故に人もし神前に立ちて礼拝する時は、鏡の輝く面に自己の像の映れるを見るであろう。かくてその礼拝の行為は、「汝自身を知れ」という旧きデルフィの神託と同一に帰するのである>

<我々にとりて国土は、金鉱を採掘したり穀物を収穫したりする土地以上の意味を有する。それは神々、すなわち我々の祖先の霊の神聖なる棲所である>

 自然や生物を、人間が生存するための「資源」と見る西洋思想にたいして、日本の神道は自然を神聖な場所と考え、しかもその自然から生まれた私たち人間をも、神に等しい者と考えてきた。これをねじ曲げたのが、天皇のみを神に見立てる国家神道だろう。そして神である天皇のために命を捧げた戦士を「英霊」と呼んだが、これは日本古来の神道の精神とは違っている。武士道でもない。

 新渡戸は武士とは民のために、天下国家を論じ、天下のために働く者でなければならないという。そして義を重んじ、たとえ主君であれ、間違っているときは命をかけてこれを諫めねばならない。これが本当の武士道だという。

<臣と君とが意見を異にする場合、彼の取るべき忠義の途はリア王に仕えしケントのごとく、あらゆる手段をつくして君の非を正すにあった。容れられざる時は、君主をして欲するままに我を処置せしめよ。かかる場合において、自己の血を濯いで言の誠実を表し、これによって君主の明智と良心に対し、最後の訴えをなすは、武士の常としたるところであった>

「武士道」は英語で書かれ、<日本の魂>という副題で、1899年(明治32年)フィラデルフィアの出版社から刊行された。たちまち評判を呼び、ドイツ語、ポーランド語、フランス語、中国語、ロシア語、ハンガリー語などに翻訳され、版を重ねたという。アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は自らこれを読み、絶賛し、友人に配ったという逸話も残っている。この書によって、日本の武士道は世界に広く知られることになった。

 新渡戸はウイルソン大統領とはジョンズ・ホプキンス大学で同級生で親交があり、ウイルソンが提唱した国際連盟では、事務総長につぐ次長を勤め、イギリス人のドラモンド総長は各国に連盟精神普及のために講師を派遣する場合、「講演が巧く、そのうえ聴衆に感動を与える人物は彼の他にいない」という理由でいつも新渡戸を指名したということだ。

 在任中、彼はロイド・ジョージ、ロマン・ロラン、ポアンカレ、パデレフスキー、ナンゼンなどと知り合いになり、彼が幹事を務めた国際連盟の学芸協力委員会には、キューリー夫人、アインシュタイン、ベルグソンが委員を務めていた。この縁で、大正11年にアインシュタインが来日している。大正13年にアメリカで排日的な「移民法」が制定され、日ごろ温厚な新渡戸もこの時は激高したという。大正15年、64歳の新渡戸は8年間勤務した国際連盟次長を辞任した。帰国した新渡戸は貴族院議員に勅仁された。

 やがて、昭和6年に満州事変が始まり、軍事色が深まるなかで、彼は一貫して国際連盟よる国際協調と平和主義を貫いた。
「わが国を滅ぼす者は共産党か軍閥である。そのどちらがこわいかと問われたら、いまは軍閥と答えねばならない」
「国際連盟が認識不足だというが、だれも認識させようとしないではないか。上海事変に関する当局の声明は、三百代言と言うほかない。正当防衛とは申しかねる」

 こうした発言に対し、日本の新聞は「新渡戸博士の暴言を8千万国民は是認するのか」と一斉に攻撃した。たとえば昭和7年2月21日の日本新聞は大見出しで、「国論の統制を乱す新渡戸博士の暴論」と書き、時事新報は「新渡戸博士の講演に憤慨、関西、山陽の在郷軍人会、少壮将校ら立つ」と書いた。

 当時70歳だった新渡戸はたまらず4月にアメリカに立つ。フーバー大統領と懇談し、アメリカ各地で講演し、ラジオにも出て、日本の立場を説明します。しかし、この年に5.15事件が起こり、犬養首相が殺害された。もし新渡戸が日本にいたら、間違いなく狙われていたことだろう。

 翌8年3月、日本は国際連盟脱退。同年9月、71歳の新渡戸は腹痛を訴えアメリカで倒れた。そして10月16日、ビクトリアの病院で、アメリカ人の夫人に看取られて永眠。日本の行く末を案じていた新渡戸は「いま死にたくない」と漏らしていたという。新渡戸の父親は南部藩の藩士で、彼はその7番目の末っ子だそうだが、思うに、新渡戸こそ、武士道を体現した一人の日本人だったのだろう。しかし、それだけに、「武士道」の限界も知っている人だった。「武士道」から引用しよう。

<今日吾人の注意を要求しつつあるものは、武人の使命よりもさらに高くさらに広き使命である。拡大せられたる人生観、平民主義の発達、他国民他国家に関する知識の増進と共に、孔子の仁の思想−−仏教の慈悲思想もこれに付加すべきか−−はキリスト教の愛の観念へと拡大せられるであろう。人は臣民以上のものとなり、公民の地位まで発達した。否、彼らは公民以上である−−人である。戦雲暗く我が水平線上を覆うといえども、吾人は平和の天使の翼が能くこれを払うことを信じる>

 星新一の父・星一は苦学しながらアメリカで勉学し、製薬会社を起こした人だが、新渡戸と親交があったという。その縁で星新一は「明治の人物誌」(新潮文庫)の中に「新渡戸稲造」を収めている。私は星の文章を参考にしてこれを書いている。

 新渡戸は死を前にして、アメリカから一時帰国し、天皇の下問に答え、アメリカの事情を話している。新渡戸の健康の回復をまって、彼を駐米大使に任命することがすでに内定していたのだという。新渡戸の死を、アメリカの各新聞は「日米の最大の調停者を失った」と大きく報じた。このあと、日米関係は坂道を転げ落ちるように悪化して行った。

 しかし、新渡戸には大きな財産があった。それは京大教授、第一高等学校の校長として、鶴見俊輔はじめ、おおくの有意な人材を育てたことだ。星新一は「戦後の新しい日本の基礎を築いた人たちの名と略歴、それと新渡戸との関係を列記したいところだが、それをやったら膨大なものになってしまう。戦後日本の変化を大過なかったものと評価できるものとすれば、その原因のひとつとして、新渡戸稲造の名をあげていいのではないか」と結んでいる。


2003年12月16日(火) 最後の言葉

 12月13日にNHK総合で放映された「最後の言葉−作家・重松清が見つめた戦争」は胸に応えた。アメリカやオーストラリアには戦利品として、サイパンやガダルカナルなど南方の島々で戦死した日本軍の将校や兵隊の日記や手帖が保管されている。作家の重松清さんがそれらを発掘し、その写しを家族のもとに届けるという内容の番組だ。

 日記や手帖から、飢餓や病気で苦しむ戦争の生々しい現実が読みとれる。そうした極限状況に置かれながら、丹念に日記を付け、しかもそれを肌身離さず持ち歩く兵隊達。彼らは何故、最後の最後まで日記を書き続けたのだろう。

 直木賞作家の重松清さんが60年ぶりに、それを家族のもとにとどける。無念の中で死んでいった兵隊達の思いが届いた瞬間、弟や妹は涙を浮かべ、90歳を過ぎた母親はすすり泣きを漏らす。死んで行った兵隊達が日記や手帖に書き記していた最後の言葉は、どれも家族への温かい思いだった。

「ただいま」
「おかえりなさい」
という日常の何でもない会話。戦争や死はこうした日常性を破壊する。こうしたなんでもないしあわせがどんなに大切かということ、そしてそれが失われるということが、どんなに悲しいことかということを思い知らされた。


2003年12月15日(月) 初秋

10.白昼夢

 会社や家庭では仏頂面で無口な修一が、葉子の前ではよく口が動いた。葉子も修一に気心を許しているようだ。修一が病院の屋上で洗濯物を干していたりすると、葉子が隣の少女の洗濯物を抱えてやってきた。

「看護婦の君が洗濯までするの。その子の分もひきうけようか」
「いいのよ。こうしたことが、気分転換になるの」
「いつも重症患者相手だから、たいへんだね」
「島田さんや美智子ちゃんみたいな身よりのない患者を抱えていると、あれこれ考えるのね。これから先、どうなるのかしらって。どうにもならないことまで、心配になっちゃうの。おかげで恋人にも疎まれるし、私って馬鹿みないね」

 葉子は一年前に脳神経外科に来て、その張りつめた雰囲気に、次第に精神の余裕を失い、学生時代からつき合っていた恋人とも少し前に別れたのだという。修一は葉子の身の上については、三河の山間部の温泉村の出身だという以外、ほとんど知らなかった。

 ベッドで寝ている少女についても、断片的に知っているだけだった。しかし、少女の耳垢をとったり、看護婦の葉子から少女の容態を聞くうちに、修一の脳裏に島田と並んで、その少女の存在が次第にふくらんで行った。
(自分の養女にしたらどうだろう)
 そんな考えが、ときどき修一の脳裏に浮かんだ。

 妻や息子は反対するだろう。そのときは、いっそ家を出て、どこかのアパートで少女と二人で暮らしてもよい。修一はベランダのあるアパートの一室で、終日少女の寝顔を見つめている自分を想像した。
(まるで、人生に敗れた中年男の白昼夢だな)
 修一は我に返り、ため息をつきながら、少女の枕元を離れた。そろそろ島田の汚れ物の洗濯にかかろうと思った。


2003年12月14日(日) もっと深く考えよ

 一昨日のtenseiさんの日記「アウシュビッツの傷跡」を読んで、NHKテレビで放映された「死の国の旋律〜アウシュヴィッツと音楽家たち」のことを知った。そこで今日は、番組の内容を紹介したtenseiさんの文章を引きながら、その痛ましい現実について考えてみたい。

<アウシュヴィッツで女性オーケストラの団員となれたために、強制労働からも死からも守られた3人の女性たちは、60年近く経つ今も傷の癒えていない>

 終戦後解放されてから、3人とも当時の楽器はもう弾けなくなってしまった。収容所で演奏した曲を聴いたり、軍服を見ただけで大きな声を出して気を失って倒れたり、これではたしかに日常の生活にも支障を来すだろう。凄惨な人生というしかない。

<彼女たちの口から語られるエピソードの中には、ガス室の誘導係を命じられていた人の中に、自分の父や、自分の子どもたちをガス室に誘導し、そうして処刑後、その遺体を焼かねばならなかった人もいるということだ。みな、自分自身が生き続けることを願っていた、、、けれども、生還してから、自分は生きるべくして生きてこられたのか、と、明確な答の出そうにない難問のために苦しみ苛まれているのだろう。>

 しかも、ホロコーストを生き延びてイスラエルに来た人々が、実は又、パレスチナでこんどは迫害者の側に立っている。それでは何がこの悲しむべき現実をもたらしているのか。

<第三の女性は、戦後解放されてからイスラエルに住居を求めたが、パレスチナ人を難民に追いやっているイスラエルの同士たちを、ナチスと同じことをしていると批判してドイツに戻った。>

 今、イスラエルの若者の間で、以前に父母達が棲んでいた国の国籍をとる動きが広がっているそうだ。法律上は彼らには特別に「二重国籍」が認められているらしい。良心的なユダヤ人の多くは、現在のイスラエルとパレスチナの現状に絶望しているのではないだろうか。

 ナチスドイツによるユダヤ人の虐待や虐殺は、それが一流の文化を持った国に棲む人々の間で起こったといういう意味でも、人間性に対する大きな脅威だと言える。文明や文化が、じつはこうした途方もない野蛮を生み出すというのは恐るべきことである。そして、これは決して過去の問題ではない。現に今、私たちのまわりで起こっていることだ。

<多くの印象的な言葉を聞かせてくれる番組だったが、「アウシュヴィッツは叫んでいる。 人間たちよ、もっと深く考えよ」という最後の言葉が印象的だった>

 いま地上で行われていることは、決して他人事ではない。私たちに必要なのは、こうした当事者意識に立った、もっと誠実で真実味のある思考だろう。私たちはこの現実を前にして、もっと深く考え、もっと聡明に生きなければならない。

(参考サイト) http://www.enpitu.ne.jp/usr1/18221/


2003年12月13日(土) いつか来た道

 菊池寛の「話の屑籠」が、昭和7年から昭和20年まで14年間、「文芸春秋」に連載された。これを読んでいると、時代とともに菊池の言動や思想がどう変わっていったかや、当時の代表的知識人の戦争や軍部についての心情がうかがえる。こんなふうに私たちも変わっていくのだろうかと不安になった。この愚行を繰り返してはいけない。ここに一部を引用しよう。

<昭和7年>

総選挙には、片山哲氏のために二日にわたって応援演説をしたが、惜しいところで破れてしまった。無産階級の階級意識の成長など、はなはだ心細いものだと思った。選挙が現在のような制度で行われる限り、無産党など、日本で発達する見込みなど、ないのではあるまいかと思った。

日本の現在において、言論の自由がなくなっているのは、いちばん嘆かわしいことだと思う。十年前、二十年前には、まだかんかんがくがくの議論がきかれた。今は、新聞などでも、みんな顧みて他をいってる感じしかない。これは暴力に対する恐怖だと思うが、身を賭しても論陣を進める人が、五、六人はいてもいいと思う

<昭和8年>

産党巨頭の転向、河上博士隠退声明などで、為政当局が、ほくそ笑んで能事終れりとしていたならば、はなはだ危険である。街に満つ生活難と失業苦とは、ここ二、三年来少しも緩和されていないし、これを救おうとする社会政策が何ひとつ計画されているのをきかない。

政党の腐敗堕落を攻撃しながら、いざ選拳となると、やはり既成政党が過半数を占めるのであるから、気短な人たちが、直接行動以外革新の道なしと考えるのももっともである。国民大衆が、もっと政治的に目覚め、その政治的批判が、峻厳を極めなければだめである。五・一五事件などが起るのは、政治家の堕落と共に、こうした連中を漫然と支持していた国民大衆も、その責任の幾分を負うべきである。

<昭和9年>

この数年来、新聞雑誌の言論が微温的で、あらゆる人が、ほんとうにいいたいことをいい得ないで、顧みて他をいう人が多いのは、情ないことである。しかし、大新聞や大雑誌になると、一度弾圧を受けると被害が大きく、影響するところが大きいので、結局金持ち喧嘩せず、お座なりしか書かなくなっているからで、多くのインテリ読者は、みんな不満を感じているだろう。国家に諌争の臣なくんば国家危うしという言葉もあるが、あらゆることに対して、もう少し堂々たる反対論や異説があっていいと思う。五年前の日本は、そうだった。

<昭和10年>

我々は、十年前までは、米国恐怖症にとらわれて、何となく不愉快であったが、この頃は米国などを何とも思っていないような気勢が漲(みなぎ)っているのは、心丈夫ある。国民の意気が上がっているというのであろうか。他のことはさておき、それだけは愉快である。

伊エ戦争などを見るにつけ、国際間のことはなお、武力によるほかはないということを、誰でも痛感するだろう。国際間の協調平和などは、まだまだ未来の夢に過ぎない。堅実剛健な民族となって繁栄していくということがいちばん大事なことかも知れない。

<昭和11年>

著作権審査会委員の手当として、年末に、内閣から金百円貰った。お上から金を貰ったのはこれが初めてである。嬉しいようなくすぐったいような気がした。

二月二十六日の事件は、大震災と同じくらいのショックを受けた。実害は、大震災の時の方がずっと大きかったが、しかし今度の方が人変であるだけに、不安が永続きするわけである。こういう事件の結果、言論文章などがいよいよ自由を束縛されやしないかという不安が、いちばん嫌だった。

<昭和12年>

ひいき目で見るわけでもないが、近衛内閣の政治は、従来の内閣に比し、大衆的であり、文化的であり、合理的である。教養から来る頭のよさが、いろいろな点に現れている。予算編成などでは、従来の内閣と大差ないとしても、日常の生活が明朗であるだけでも、国民としては有難いことである。北支事変突発に際しても、我々雑誌関係者にまで懇談するあたりは、従来の内閣などに比して、はなはだ進歩的であると思う。

出動する兵士を送り出すごとに、我々兵役の義務なき者は、誠に申し訳ない気がするのである。戦場の労苦は、並大低ではないだろうと思う。と同時に、華やかな戦勝の報に接するごとに、心を痛ましむるものは、戦死傷者の氏名である。国家としての存在、発展のためのやむにやまれない犠牲とはいえ、哀悼の念に堪えないのである。

<昭和13年>

戦争が、いつ終るかということを問題にしている人が多い。戦争が終るということは、貴い人命が失われることが終ることだから、もちろん大切な問題であるが、しかし戦争が終ったところで、北支、中支の新政権を確立するという大事業が残っている以上、戦争同様の覚悟が必要である。五年、十年、あるいはそれ以上、我々は、現在の覚悟を続けなければならぬと思う。

精神総動員の建前上、国民の気風を一新するために、あらゆる方面に積極的に鼓舞奨励が行われるべきであろう。消極的な取締まりや弾圧は、下衆だと思う。

<昭和14年>

駆逐艦の上で、講演した。「武士道について」というので、一度ラジオでやったことのある講演だ。折から、千メートルくらい上流に仮泊している駆逐艦は、さかんに江岸の敵を射撃していた。(もっとも僕は講演に夢中になっていたので、砲声は耳に入らなかったが)。東宝映画の金丸氏の話では、「士官たちの中には、三十年来の感激だといっていた人もある」とのことで、出来もよかったらしい。僕としては一世一代の講演かも知れぬ。

海軍の好遇は、一生忘れられないくらいであった。海軍軍人の人間としての立派さに、一番感心した。わずか九日の在艦であったが、退艦するときは、惜別の情に堪えないものがあった。

<昭和15年>

戦争中における国論の一致ということは、最も必要なことであろう。その国の国策が完全無欠であるかどうかは、結局時のふるいにかけてみるほかにはないのであるが、その国策が、最善策でなく、第三策もしくは第四策であろうとも、その国民が一致団結することが国力を発揮するゆえんであろう。第一策と第二策とに、国論が分かれて争うよりも、第三策でも第四策でもいい、いくらどんな下策でもいいから、それを遂行することに、一致団結することが必要である。

世界は、まさに戦国時代だ。国家としての実力のみが、ものをいう時代である。完全なる国防国家のみが、この戦国時代を生き伸びるであろう。政権の争奪などが行われ、内閣が代るたびに、国防方針が転変するような国家は没落していくほかはないだろう。

<昭和16年>

今度陸軍当局から、「戦陣訓」なるものが発表された。軍人たるものの根本精神から始まって、日常身辺の注意に至るまで、大に亙(わた)り微に入り、こういう性質のものとしては、完璧に近く、今次事変の副産物として後世に残るであろう。これは、おそらく軍人に賜りし勅諭の釈義として、またその施行細則として、発表されたものであろう。

僕も、松岡外相のラジオの演説に感心した一人である。本当に自分の考えていることを、自分の言葉でいい、それに実感が裏付けられているような演説をする大臣はごく希だからである。先月号に書いた第二回文芸銃後運動は、情報局、翼賛会の後援を得て、いよいよ五月からやることになった。今度の方が、一流の都市でないだけ、交通その他の点において、骨が折れると思うが、全力を尽してやるつもりである。

ヒットラー総統が、ドイツの現在の活躍は、ドイツ民族の千年の運命を決定するといった。歴史上、一国のある時代の行動が、千年の運命を決定した場合は、指摘することができる。日本などでも、徳川幕府の鎖国令は、日本の三百年の運命を決定してしまったのである。それと同様に、現在における日本の行動は、将来数百年間のわが民族の運命を決定することは確かであろう。

<昭和17年>

国民皆兵である以上、小学校の三、四年生になれば、昔の武士の子が、十一、二歳で切腹の作法を教えられたように、国のために死する覚悟と作法とを教えるべきであったと思う。われわれ明治大正に育った人間は、学校教育において、あまりに生命を大切にすることのみを教えられすぎていたと思う。

自分は、少年時代日本海海戦を聞いたことを、一生を通じての愉快な思い出と考えていたが、最近それにも、劣らない快報であるハワイ、マレーの捷報を聴き、今またシンガポール陥落の快報に接せんとしている。よくも帝国隆興の盛時に生れ合わせたものだという感懐を禁じ得ない。シンガポールが陥落した以上、もはや軍事的には、日本は不敗の態勢を確立したといってよく、国民はいよいよ必勝の信念を堅くすると共に、米英の首脳者たちは、その戦意をはなはだしく挫折せしめられたに違いあるまい。

軍人は生命を捨てて国のために戦っているのである。われわれ銃後の人間は生命を捨てる機会は容易にないのであるから、他のあらゆる物を、国家のために捧げる覚悟をして戦うべきである。

<昭和18年>

山本元帥の戦死とアッツ島の全軍玉砕とはわれわれ日本国民に戦争に対する所存の臍を固めさせた。われわれはふかく、哀悼するが、しかしこのために、神経質になっては申しわけがない。逞しい感情と勁靱なる神経とをもって、一路戦争遂行に邁進することが、英霊に報いるゆえんの道である。親の屍を踏み越えよう、子の屍をふみこえよう、不撓不屈撃ちてし止まんのみだ。

大空の決戦へ参加せんとする青年の気魄は実にすさまじい。文壇人の中で久保田万太郎、浜本浩の息子たちが、敢然として志願したことはうれしいことでもある。先日、汽車の中で、昔の友人である銀行家の岡野清豪に会ったら、土浦へ入隊するという長男を連れていた。青年にこの気魄あり、飛行機の生産さえ順調ならば、どんな事態が突発しても恐るることはないと思った。

<昭和19年>

戦局はいよいよ悽愴苛烈になった。が、これくらいは覚悟の前である。否、この五倍十倍くらいは覚悟の前である。いな、この五十倍百倍になろうとも、われわれは度胸を据えて奮間しなければならぬ。真の戦いはこれからだ。日本国民たるものは、お互いを信じ合おうではないか。二千六百余年の伝統を持つ日本民族が、あらゆる苦闘の中をくぐりぬけて、不死鳥のごとく中天高く羽ばたく日が、近く来るべきことを自分は信じている。

神風特別攻撃隊のことは、筆舌に絶した神聖事だ。前に、真珠湾、シドニー湾の特別攻撃隊あり、今また神風特別攻撃隊あり、しかもその志願者が続出するということを聞いて、われわれの必勝の信念は強化された。これこそ日本人独特の攻撃方法であり、科学の絶対に到達し得ない方策である。敵米英は、その報に接して驚倒していることだろう。神風特別攻撃隊のある隊長が、夜中目標がないために一且引き返し、翌暁再び出発せられたという一事に至っては、人間の精神力の極致に達している。

<昭和20年>

国民はよく戦ったと思う。多少の不心得者があったとしても、多くの国民はよく戦ったと思う。負けた後で、責任を国民にも転嫁しようなどとは、無理を通り越して非道である。ただ、軍部の専横を防止すベき位置にあった議会とか言論機関とかの責任も軽いとはいえない。しかし、過去十数年にわたって、テロと弾庄とで、徐々に言論の力を奪われたのでは、一歩一歩無力になるほかはなかったのである。僕のような人間さえ、暗殺の目標にされて、私邸を十数人の警官によって護衛されたことがある。しかも、こんな時に暗殺された方が非国民のような感じになり、相手が憂国の志士になるのである。実際、彼らの公判の結果を見ると、多くは執行猶予であり、半年か一年後には、そのために右翼勢力として、天下に闊歩しているのである。

過去に日本を訪れた米国人中、最も日本人を認め、日本の事物を賛美してくれたのは、生物学者のモースであろう。彼の「日本その日その日」は至る所で日本人の正直、謙譲、温雅、誠実を賞賛してくれている。爾来数十年、日本人もたしかに悪化している。が、今でも、どこかにモースに認められた日本人のよさが残っているに違いない。戦争をしたのは、たしかに悪い。しかし、それは真に一部の人によって企てられたことが、今にアメリカ人にも分かるに違いない。私は、進駐軍の中に、第二、第三のモースが現れるよう望んでやまない。

(参考サイト)
http://archive.honya.co.jp/contents/archive/kkikuchi/hanashi/


2003年12月12日(金) 初秋

9.天使へのほほえみ

 耳の掃除をしていて、少女が笑ったという話を葉子にすると、彼女もまた同じような微笑みを見たことがあると言った。葉子の場合は、少女の体を拭いているときだったという。鳩尾のあたりを、ぬれタオルで拭いていると、ふと、少女がほほえんだらしい。

 そのことを婦長に報告すると、それは意識的な笑いではなく、無意識のうちに起こるただの反射的な微笑に違いないという。うまれてすぐの赤ん坊にも起こるらしく、新生児微笑と呼ばれているらしい。

 赤ちゃんのこの無心の微笑に出会うと、母親もまた誘われて、おのずと微笑を浮かべる。つまり母親が乳幼児の微笑に応えることで、そこに親子のコミュニケーションが成り立つわけだ。そして次第に赤ん坊の心が発達し、表情が豊かになり、それと同時に母親の方でも母性が発達する。

 母性本能といわれるものは実は幻想で、母親は乳幼児との「微笑みのコミュニケーション」を通して母親としての愛情に目覚め、子育ての喜びと責任を自覚して行く。母親は子供を産んだだけで本能的に母親になるわけではなく、こうしたプロセスを経て、母性愛が育まれていくのだという。

「赤ん坊は嬉しいから笑うわけではのではないのね。ある意味で本能としてインプットされているもので、他の動物には見られない人間に特有の現象らしいわ」
「ふうん。僕も君もそうして、笑顔でこの世に生まれてきたわけだね」
「フランスでは、天使へのほほえみ、っていうらしいけど。他の動物には見られない、人間だけの反応らしいわ」
「天使へのほほえみか。いい言葉だね」
 
 葉子の話によると、最近は、新生児微笑に答えようとしない母親がふえてきているらしい。ネグレクトされると、赤ん坊は無力感に陥って笑うことも泣くこともしなくなり、外部とのコミュニケーションをあきらめてしまう。さらに脳内ホルモンの分泌が乱れて発育異常が起きるという。そのうえ、そうしてネグレクトされた赤ん坊は夜中に頭を激しくベッドの床に打つという異常な自傷行動さえもみせる。

「そうした赤ん坊が成長すると、何だか恐ろしいね」
「大人とか世界を信用しなくなるのよ。そしてネグレクトを受けた子は親になっても自分の子供をネグレクトするの。最近、すごく乳幼児虐待がふえているでしょう」
「そうか。これは大変なことだね」

 自傷行為を行う赤ん坊が増えているとは知らなかった。その原因は乳幼児の微笑みに応えようとしない母親や周囲の大人の反応にあるのだという。なぜ人々は微笑むことをしなくなったのだろう。

 大人達が笑顔を忘れ、不機嫌が蔓延しようとしている。そうした時代に子育てをするのはむつかしいことかも知れない。そんなことを考えながら、修一は少女を見守った。しかし、少女がふたたび「天使へのほほえみ」を見せることはなかった。


2003年12月11日(木) 下手こそものの上手なれ

 先日、愛車カリーナを車検に出した。生まれて初めて新車を買ったのがもう9年前。14万キロ以上走っているが、あと2年は乗ろうと思っている。車検に出したら、車が洗車されて帰ってきた。車の中も掃除がしてある。気持がいい。

 五木寛之は手を洗ったことがないそうだが、私は車を洗わない。雨が降れば自然に綺麗になるだろうと思って、お天気任せ。それから、車に鍵を掛けたことがない。何もとられるものは置いてないので、別にかけなくてもいい。第一、私の汚い車を見たら、だれも車上狙いや車をとろうなどとは思わないだろうし・・・・・

 いずれにせよ、私の車は座席のシートカバーもなく、窓の上げ下げも手動式。最低限の装備で、とにかく走ればよいというわけだ。いわばただの「走る箱」だが、9年間も乗っていると、愛着がある。まるで分身のようだ。

 9年前の日記を探し出してきて読んでみた。カリーナが来た当時の日記から、一部を引用しよう。いずれ日記帳はすべて焼却しようと思うので、これからもここに記念として少々残しておきたいと思っている。

ーーーーーー1994年12月29日の日記よりーーーーーーー

 昨日、新しい車が来た。カリーナの新車である。これでわが家はカリーナが三台続いたことになる。前の車は中古だったが、7年間乗った。その間、家族の足となってがんばったくれた。たかが車と言うなかれ。別れはつらい。それだけ愛着が深いのだ。別れるにあたって、車体をピカピカに磨いたやった。今度の車は四台目になるが、新車から乗るのは初めてである。11年間は大事に乗りたいと思っている。

 人生を楽しむという点において、私は人後に落ちない自信がある。この一、二年間で私は水泳、囲碁、カラオケ、英会話の楽しみを覚えた。これで私の楽しみのレパートリーはぐっと増えた。

 水泳の基本は体をリラックスして水に親しむことだ。楽しみながら泳ぐのである。何事であれ、「楽しさ」がないと長続きしない。カラオケは同僚のO氏や家族で度々行くようになった。オンチを自認する私だが、「下手こそものの上手なれ」をモットーに、これも楽しんでいる。

 カラオケはストレスの解消によいが、ボイストレーニングとしても最適である。発声の基本は、体の緊張を解き、腹の底からナチュラルに声を出すことだ。教員は声を使う職業だから、カラオケで発声のコツや、表情、身のこなし、度胸といったもの学べるかも知れない。内気で引っ込み思案の性格の矯正にもなるだろう。カラオケの効用はいろいろ考えられるが、これも人生を楽しむためと考えた方がよい。

 英会話についても同様のことがいえる。勤務先が遠くになったので、通勤中に車を運転しながら、NHKラジオの「英会話入門」をテープーに録音して聴き始めた。最初はちんぷんかんぷんで、ただ講師の先生たちの元気で明るい声に聞き惚れていただけだが、半年間も毎日一時間以上聞いていると、やがて英語も自然に耳から入ってくるようになり、おのずから英語の表現も身についてきた。そうするとますます英語を聞くのがたのしくなる。これはテキストなど一切見ないで、ただ耳から聞くだけという横着なやりかたがよかったのだろう。

 以上、この一、二年で様々なことに挑戦して、自分の内面の世界を広く豊かにできたことはよかったと思っている。おかげで体調も良く、精神的にも充実した毎日を送っている。人生が楽しくてならない。

 その人の労働や仕事が充実しているかどうかは、その人の余暇の過ごし方を見ればよい。まさしく「健全な労働は健全な余暇から生まれる」のである。パチンコや競馬もよいが、それしか余暇の過ごし方を知らないというのでは淋しくはないか。彼の労働がいかに不健康かということのあかしではないか。最近のパチンコ店の繁栄を見て、そんなことを考えた。


2003年12月10日(水) Little Things

 今日は珍しく日記を書きあぐんでしまった。書くことがないからではなく、ありすぎるからだ。イラク戦争、年金問題、環境問題と、書きたいことが山ほどあるのだが、時間も精力もそれほど持ち合わせているわけではない。

 迷っているうちに、そしてあれこれ考えているうちに、いつか5時を過ぎてしまった。いつもなら、もうほとんど書き上げていて、佳境に入っている時間である。今日は、これから書かなければならない。そこで、今日は「ちいさなこと」について、短く書いてみよう。

Little things like that. Ah,but those are the things I miss the most. The little idiosyncrasies that only I know about. That's what made her my wife.

(そういうささいなこと、ああ、だけど、そういったことが一番懐かしいんだ。私だけが知っていた小さな癖。それがあったから、彼女は私の女房になったのだ)

 映画「旅立ち」(Good Will Hunting)のなかで、妻を失った精神科医が主人公にいう言葉である。やさしい英語だが、idiosyncrasies(イディオシンクラシイズ)は初めて目にする単語なので、私が高校時代から愛用している「新クラウン英和辞典」でしらべてみた。

 idiom(慣用句。ある人、土地、国に特有な表現、語法)から来た言葉で、「個人特有の精神的傾向、性癖、特異性体質、個人独特の表現法」とある。精神科医が口にする言葉なので、多少学術的で知的な語彙なのかもしれない。今朝は英単語を一つ学習した。これをもってよしとしよう。


2003年12月09日(火) 年金積立金の不正使用をやめよ

 小泉首相は昭和17年生まれだという。実はこの年に年金制度ができた。建前は、「老後の生活を安泰たらしめる」ためだが、その目的ははっきりいえば、「戦争遂行のための財源作り」である。

 戦後も年金制度は継続された。建前は「ゆたかで安心のできる老後生活」のためだが、本音は「戦後復興のための財源作り」である。そして復興してからは、「官僚の利権と天下り先の確保の原資」になった。右肩あがりの経済が終わり、年金制度の虚構がだれの目にも明らかになってきた。しかし、官僚や政治家は詭弁を弄して、その責任を認めようとしない。

 2002年現在、天下りした団体が食いつぶした年金掛け金は7兆8620億円になり、年金業務の経費として流用された掛け金などをあわせると、10兆円以上が失われた。そして1999年現在、年金福祉事業団など13以上の団体へ、2,302人もの官僚が天下っている。こうしたあきれた実態にほおかむりして、「負担と給付バランス」を言うのはアンフェアである。

 日本は147兆円にもなる世界に例のない巨額の積立金をもっている。この先数十年間はこれを計画的に取り崩して年金給付にあてればよい。そして原資がなくなった段階で、年金は国庫負担にすべきである。ただし、支給額は生活に必要な最低額にして、それ以上の生活保証が得たければ、各人が自己責任で別個に私的な年金に加入すればよい。積立金など余分に持っていても、官僚と政治家の利権の原資になるか、国の借金や戦争の資金になるだけだ。

 国庫負担の財源を消費税に求め、給付金を国民一人当たり、一律に支払うことにすれば公平さが保てる。事務の繁雑さがなくなり、公務員の数も大幅に削減できる。これによって、複雑怪奇な年金行政はガラス張りになり、暗闇に巣くっていた魑魅魍魎のたぐいを一掃することができるだろう。

 年金問題について、国会でまっとうな意見を展開しているのは、共産党くらいである。10/4の「赤旗」から、日本共産党・小池晃議員の、10/2参院予算委員会での総括質問の一部を資料として引用しよう。

−−−−−−小池議員の総括質問(資料)−−−−−−

二〇〇〇年度で厚生年金平均月額十七万七千円、国民年金の平均で月額五万一千円、自営業者だと四万四千八百円にすぎない。日銀の世論調査(九月)でも、年金だけでは日常生活費程度も賄うのが難しい、こういう回答が増え、五割を超えています。これが国民の声ですが、総理は現状の年金水準をどう考えていらっしゃいますか。

財務省の案では、「年金は最低限の生活を保障できればよい」と。塩川財務大臣は「(現役所得の)40%程度を保障すればいいんじゃないか」と発言している。これでは三割以上の年金削減ということになるんです。

社会保障の問題で総理と議論をすると、いつも「給付と負担の問題」だと言う。給付を増やしたいなら負担我慢せよ、負担がいやなら給付を我慢せよと。これでは国の責任はどこにも出てこない。

 年金財政が今急速に悪化している原因を明らかにすることなしに改革の方向というのは出てこないはずだと思うんです。そこで、急速に最近悪化してきている原因がどこにあるのか、これを議論したい。

 最大の原因は、政府のリストラ支援、中小企業つぶしのせい。この結果、年金の支え手が急速に減っているわけです。

これは一九九九年に政府が立てた見込み、ごく最近立てた見込みと比べて、二〇〇〇年度、わずか一年後で二百十一万人減っている。二〇〇一年度には二百八十二万人、厚生年金の加入者が減っている。その結果、保険料収入は、賃下げの影響もあって、二〇〇〇年度で一兆一千億円、二〇〇一年度で一兆八千億円減っている。たった二年間で入るべき保険料が三兆円も入っていないわけです。

 見込み違いはもう一つあります。積立金の運用の失敗です。この二年間で運用収入が二兆八千億円、予想より減っているわけです。合わせると六兆円でしょう。前回(年金)改定からわずか二年で六兆円も見込みが狂っている。足元がどんどん今崩れているわけですよ、総理。

 景気の悪化とリストラの支援ということで年金収入が急速に悪化している。重大な事態だというふうに思われませんか。ここを直ちに立ち直らせなければ、年金の制度の未来はないと思う。総理答えていただきたい。

 年金財政を悪化させたのはこれだけじゃありません。支え手を減らしたということを一つ挙げましたが、三つ原因があると思っています。

 まず、基礎年金に対する国庫負担二分の一への引き上げの先送りです。九四年の国会で、自民党も賛成して九九年までにやると付帯決議を上げて、実は四年前にやるべきことだった。それを先送りしたんです。そのうえ、来年度やらなければいけない二分の一への引き上げをまた先送りしようとしているじゃないですか。

二〇〇四年までに財源を準備して二分の一に引き上げる。五年間準備期間があった、それをやらなかったのは政府の責任じゃないですか。今もう十月ですよ。来年までにこれをやれるんですか。先送りは断じて許されない。

それから二番目、積立金の運用の問題です。

 株式の問題で大変な穴を開けているわけです。六兆円も穴を開けて、五年後までに積立金を全部自主運用に回そうとしている。これで一体どれほどの損失が出るのか。

 今日は、もう一つの損失の問題を取り上げたい。年金資金、掛け金を、どぶに捨てるように無駄遣いしてきたハコもの造りの問題です。グリーンピアの問題です。これは年金掛け金を利用してレジャーランドを造ったわけです、全国十三カ所に。それが大規模年金保養基地と言われている、通称グリーンピアです。

全国のグリーンピアが経営不振で、政府は再来年までにすべて廃止、売却をするという方針だと言いますが、売却できたんですか。売却の見込みが立っているところはあるんでしょうか。

 グリーンピア岩沼の売却価格は三億六百八十五万円ですよ。二本松は三億三千百九十万円。九十億円もかけて造った施設ですよ。それを三億円で売る。維持管理費九億円掛かっているんですよ。それを維持管理費の三分の一にすぎない価格で売りとばす。

 こういうやり方をしておきながらだれも責任を取っていない。年金掛け金を次から次へと株式に投資をし、あるいはこういうハコもの造りに投資をし、そして赤字で行き詰まったら二束三文で売り払う、こんなやり方をしていて、国民に対して年金を削減する痛みを押し付ける。総理、こんなことができるんですか。

昭和六十三年に総理は厚生大臣をやっているんですよ、これを造ったときに。今度二束三文で売り渡すところを。

 その後二回目の厚生大臣になって、そのときに、ああ間違ったことをやったのかなと思ったのかもしれないけれども。あなたが厚生大臣のときにこういうことをやっていたことははっきりしているんです。

 しかも、改革したとおっしゃるけれども、何が変わったんですか。年金福祉事業団、確かになくなりました。年金資金運用基金と名前は変わりましたよ。でも、年金資金運用基金の理事長はだれですか。厚生労働省の事務次官が天下りしているじゃないですか、いまだに。そして、株式運用をして大変な赤字を出している。何も変わっていないじゃないですか。

総理、はっきり答えていただきたい。今の年金制度をめちゃくちゃにしてきた三つの原因。これを変えるつもりがあるのか、きっぱり改めるつもりはあるのか。

 基礎年金に対する国庫負担を、約束通り来年引き上げる。そして、積立金でこれだけの損失を作ってきた。これを反省して、積立金は取り崩していく、そういう方向へ行くべきです。

 そして、リストラ支援の政策を根本から改めて、雇用を守っていく、大企業に対して責任守らせ、年金の支え手を増やす。こういう仕事をやらないで国民にだけ痛みを押し付けるなどという議論が通用すると思うんですか。

総理は「保険料で取るのか税金で取るのか」と。まるで右のポケットから取るのか、左のポケットから取るのかと、国民からしぼりとることしか考えていない。私は税金の使い方を変えなさいと言っているんです。保険料で取るのか税金で取るのかじゃない。税金の使い方を変えろと言っているんです。

 そもそも、国民が国と地方に納めている税金のうち、社会保障として返ってくるいわゆる見返り率。これを見ると、アメリカは47%です。イギリス43%です。ドイツ44%です。税金の四割が社会保障として戻ってくるんです。ところが日本は29%ですよ。サミット諸国で最低です。公共事業の無駄遣いが続いている。これをやめれば、欧米並みにすれば、年金財源、十分生み出すことできる。

 年金財政を悪化させた三つの原因を改めることこそ年金財政立て直す道です。徹底的に歳出を見直して、国庫負担を引き上げる。世界に例のない巨額の積立金を計画的に取り崩して年金給付と、保険料の軽減にあてる。大企業に雇用責任を果たさせ、年金の支え手をふやす。そして、深刻な年金制度の空洞化を解決するために、全額国と大企業の負担による最低保障年金制度を作っていくことを、私ども全力を挙げて進めてまいりたい。質問を終わります。


2003年12月08日(月) 初秋

8.少女の耳

 修一は少女ベッドの傍らに腰を下ろすと、葉子から渡された綿棒を持ったまま、しばらく少女の寝顔を眺めていた。寝顔はやすらかだった。顔をしかめたり、寝言を言ったりしたところを見たことがないから、眠りは深いようだ。夢を見てうなされることもないのだろう。

 少女の眠りは脳の組織が破壊されたためだが、脳の写真の結果、損傷もいまは大方治っているようだという。だから、ある日、ひょっく目を覚まして起きあがるような奇跡が起こるかも知れない。修一はそんな話を聞いていたので、ときどき少女の肩を揺すって起こしてやりたくなるときがある。

 しかし、今、綿棒の先を少女の耳に近づけながら、突然少女の目が開きそうな予感がして、修一の手が少し震えていた。手が震えるのが、自分でも少し意外だった。まるで少女の眠りが神聖なもので、それを犯そうとしているようだった。

 修一は深呼吸をした。手の震えがいくらか収まり、修一は綿棒の先を、少女の耳たぶに触れてみた。少女の表情に変化はなかった。修一は様子を見ながら、綿棒の先を耳の中に入れ、動かした。少女の耳の中はかなり汚れていて、綿棒がすぐに焦げ茶色に変わった。修一はテッシュでこすり取ると、ふたたび穴に入れた。

 すでに島田の耳の掃除は何度かしていたから、要領は解っていた。しかし、それよりも、修一はもっと古い記憶を思い出していた。それはわずか三歳の時に白血病で死んだ娘のことだった。病室で娘の耳垢をとってやったことがある。その遠い記憶だった。

 耳掃除を終わって、修一は少女の耳に指先をふれた。親指と人差し指で耳たぶを引いたが、少女は表情を変えなかった。修一は口を近づけて、ささやいてみた。
「おじさんにも、娘がいたんだぜ。耳掃除もしてやったよ。もうそろそろおきないか。おじさんが、遊園地に連れていってやるよ。遊園地にはペンギンもいるんだぜ」

 無言の少女にそんな他愛もないことを呟いていると、少女がふと、笑みを浮かべたのだった。それは一瞬のことだった。
「聞こえているのか。おい」
 修一は少女の肩をゆすった。しかし、少女の笑顔は甦らなかった。


2003年12月07日(日) タブラ・ラサ

「タブラ・ラサ」(tabula rasa)というのは、「ぬぐわれた石板」という意味のラテン語で、ジョン・ロック(1632〜1704)が「人間知性論」の草稿に書いた言葉だという。ロックは後にこれを「白い紙」(white paper)と言いかえている。

Let us then suppose the mind to be, as we say, white paper, void of all characters, without any ideas ; Whence comes it by that vast store? …To this I answer, in one word, From experience : in that all our knowledge is founded, and from that it ultimately derives itself. (An Essay concerning Human Understanding)

(心は、いわば、文字を全く欠いた白紙であって、観念を少しも持たないと想定しよう。心はどのようにして、かくも多くの観念を手に入れるのだろうか。…これに対して私は、一言で、経験から(From experience)、と答える。この経験に、我々の一切の知識は基礎を持ち、究極的には、この経験に我々の一切の知識は由来する)「人間知性論」

 ロックは人間の知識は経験を通じて得られるものであり、何も経験していない段階では心は白紙の状態だという。そしてこうした考え方は、その後「イギリス経験論」として受け継がれていく。社会改革や教育の重要性がここから導き出され、イギリスは名誉革命を成功させ、議会制民主主義を確立した後、自然科学、政治、経済、社会、いずれの面でも世界をリードする立場になった。

 ロックのこの考え方は、アリストテレスの「経験論」にまでさかのぼることができる。これに対して、プラトンのイデア説にさかのぼる大陸観念論は経験以前を強調する。たとえばカントは人間の認識は経験に先立つ先天的な枠組みの中で可能であると考えて、プラトニックな立場からロックの経験論を批判している。

 認識のシステムは経験によって作られるのか、経験がシステムを作り上げるのか、これは鶏が先か卵が先かという議論に似ている。常識的に考えれば、認識は脳の働きであり、脳の構造や機能は遺伝的に決定される部分が大きい。さらに、私たちの認識や思惟は文化的・歴史的に形成された言語システムに依存している。したがって、ロックの「白紙」というのは、当然こうした遺伝的・文化的な条件を組み入れた上で主張されるべきであろう。

 現代は、これとは対立する「プログラム機械論」とでも言うべき人間論が学会でも一般社会でも大手を振って歩いている。その大本をたどれば、1976年に出版されたリチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」(Selfish gene)にたどりつくが、彼は生物は遺伝子を次世代へと伝えるための一時的な乗り物(ヴィークル)で、遺伝子の目的は自己のコピーをいかに多くつくるかに尽きると主張している。この立場に立てば、一見、利他的とみられる行動も、実際には自分の遺伝子をより残すための戦略に過ぎないことになる。

 最近になってこうしたDNA至上主義の生命観が世界的に流行し、日本ではたとえば竹内久美子さんがこれに動物行動学の知識を取りいれてたくみに書いている。私はこうした風潮に、ある種の危惧を抱いている。生命のすべての行動を遺伝子の利己的な行動から説明するという一元論は、ダーウイン主義の超現代版ともいうべきで、生命というものをDNAの立場からあまりに一方的にとらえた、悪しき科学思想の代表のような気がするのだ。

 たしかにDNAは生命の基本的な設計図であり、生命現象の基礎だが、人間の場合、その基礎の上に何を築くかは私たちの自由に委ねられている。私たちはDNAの乗り物でもないし、これに一方的に支配されているわけではない。こうした主張の行き着く先に何があるのか、あらたな戦争とファシズムでなければさいわいである。あえて、イギリス経験論の祖ともいうべきジョン・ロックの「タブラ・ラサ」の原点に立ち戻り、民主主義の精神を尊重したいと思うゆえんである。


2003年12月06日(土) あるがままに見よ

 十字軍をめぐってローマ法王と対立し、破門された神聖ローマ帝国皇帝・フリードリッヒ2世(1195-1250)は、「最初の近代人」だといわれている。彼以前にも破門された皇帝はいたが、それは単なる権力闘争からだった。しかし、フリードリッヒ2世の場合は事情が違っている。彼には人間や社会、自然に対する新しい認識があり、キリスト教徒でありながら、イスラム世界に対する理解があった。

 彼の生まれ育ったシチリア王国ではイスラム世界との貿易が活発で、彼もアラビア語を自由に話せたという。政府の公文書はギリシャ語とアラビア語で書かれていた。こうした環境が彼に広い視野と自由な精神を与えたのだろう。

 彼は若い頃、鷹狩りに関する本を書いているが、その中で何度も出てくる言葉が、「ありのままに見よ」だったという。この言葉を口にしたフリードリッヒ2世は、すでに近代的な科学精神の持ち主だったと言っていいだろう。「最初の近代人」といわれるゆえんである。

 彼はこの科学的精神をイスラム世界から学んだのだった。彼はイスラムの王とアラビア語で手紙のやりとりをしたが、その内容は主に科学や数学に関する問題だったという。そしてイスラムの王に天体観察儀を送られて、これを子供の次ぎに大切なものと呼んだという。

 十字軍は多くの悲劇をもたらしたが、ひとつだけ後世に残る成果を生みだした。それは十字軍に参加することで、西欧社会よりもはるかに進んだ文明がこの世界にあることを学んだことである。それはまた、キリスト教という呪縛から人々を解放する出発点ともなった。

 イスラム世界はギリシャ文明の遺産の多くを継承していた。したがって、イスラムとの出合いは、ギリシャ文明の再発見につながった。これが導火線となって、「ギリシャに帰れ」という流れができ、ルネッサンス(文明復興)へと華々しく展開していく。

 そうした意味で十字軍はルネッサンスの生みの親でもあったわけだ。そしてフリードリッヒ2世の「ありのままに見よ」という言葉は、そのまま、ルネッサンスの精神に直通している。キリスト教という教条や偏見をぬぐい去ったとき、そこに見えてくるのは、もっと自由で生き生きとした人間の姿だった。キリスト教という毒に犯される以前の、はるかに健康な美しい精神と肉体がそこに輝いていた。そしてそれはフリードリッヒ2世が感じ、愛していたものでもあったのだろう。


2003年12月05日(金) 初秋

7.暇つぶし

 修一は島田のベッドの端に腰をおろしたまま、窓から差し込む日差しに目を細めた。日差しは傾いて床に落ちていた。そしてベッドから垂れたシーツの裾を温めていた。病室に来て、もう三十分ほど過ぎているだろうか。

 島田が戻るのを待ちながら、修一はふと、自分が待っているのは、看護婦の山口葉子ではないのだろうかと思った。病院に通うのも、島田に対する友情ばかりではなく、どこかに葉子に対する感情がないとは言い切れなかった。修一はつい先日病室で交わされた葉子との会話を思い出した。

「僕が島田の面倒を見るのは、彼に同情してではないのだよ」
「友情からではないのですか」
「最初はそれもあったが、今は違うな」
「もっと他に、違う動機でも?」
「あえて言えば、暇つぶしだろうね」

 葉子は島田をリハビリに送り出した後、少女のベッドにかがみ込んで、耳垢をとってやっていた。そうやって少女の感覚をいろいろと刺激することも必要なことかもしれなかった。葉子はその手を止めて修一を見た。

「ずいぶんと変わったひまつぶしですね。奥さんと旅行に行ったり、ゴルフとか競馬とかはなさらないのですか」
「今にも会社が首になりそうで、そんな余裕はないね。家のローンだって始まったばかしだしね。正直に言うと、島田の世話をしながら、僕はこうして暇つぶしができることを、島田に感謝しているのだよ」

 葉子はちょっと首をかしげると、また、綿棒で少女の耳の掃除を始めた。白衣の下に、すがすがしい若い体の線がやわらかく現れていた。葉子の横顔がいつになく美しいように思われた。葉子は修一の言葉を考えていたらしく、

「島田さんはきっと、喜んでいると思います」
「島田にはありがた迷惑かもしれないね。君のような若くてきれいな看護婦に世話をしてもらいたいに違いないからね。君に介抱してもらえるのだったら……」
「もうこんな時間」

 葉子が修一を遮るよう立ち上がると、腕時計を覗き込んだ。廊下に人の気配があった。そろそろ看護婦のミーティングが始まるのかも知れなかった。
「お話の続きは、こんどゆっくり」
「うん」
「もう片方の耳のお掃除、ひまつぶしにお願いできます?」
 修一は葉子から綿棒を渡されて、少し戸惑った。


2003年12月04日(木) 現代に生きる十字軍の歴史

 昨日の北さんの雑記帳の題は「フリードリッヒ2世とアルカーミル」だった。神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ2世とイスラム王朝君主アルカーミルの感動的な物語である。フリードリッヒ2世はローマ教皇から破門されたが、武力を使わずに粘り強く交渉し、ついにイスラムの王と聖地エルサレムをともに分け合うという平和条約をむすぶ。

 いかにして、フリードリッヒ2世(1195-1250)は、エルサレムに平和をもたらすことが出来たのか。先週放映されたNHK「文明の道」<十字軍>が、バチカン機密文書館で見つかった当時の資料などを駆使し、聖地エルサレムの知られざる歴史を生き生きと描いていた。その解説は北さんの雑記帳に譲るとして、ここでは十字軍の歴史について、少しだけ記しておこう。

 1071年、セルジュク・トルコはビザンツ軍を破り、アナトリアを占領した。ビザンツ皇帝から援軍を要請された、ローマ法王ウルバヌス2世は、これを東西両教会の統合の好機と考え、「聖地回復」におもむく者は罪の贖いを赦される、と扇動した。こうして、1096年、フランス・ノルマン騎士軍を主力とする第1回十字軍が派遣されることになった。

 翌年約2万の大軍がコンスタンティノープルに入った。1099年、十字軍はファーティマ朝支配下のイェルサレムを占領し、キリスト教徒によるイェルサレム王国が建国された。このとき多くのイスラム教とが虐殺されたという。

  1147年、第1回十字軍の際設定された領地が、ゼンギ朝ヌレディンによって占領されたため、第2回十字軍が派遣された。フランス王とドイツ帝も参加し、共同してダマスクスを包囲したが、結局これを落とすことはできなかった。

 1171年、ヌレディンの補佐官サラディンはエジプト・シリア・北イラクを統合するアイユーブ朝を開いた。このときシーア派の支配下にあったエジプトにスンニ派が復活し、イスラム勢力の分裂が克服された。セルジュク朝にかわってイスラム世界のリーダーとなったサラディンりは、1187年、ハッティンの戦いで西欧軍を破り、イェルサレムを奪回した。

 これに対して、行われたのが第3回十字軍(1189−92)である。今回はイギリスのリチャード1世(獅子心王)も参加し、サラディンと戦った。しかし結局、聖都巡礼の保障を得ただけで、聖地エルサレムはイスラムの手に残された。

  1202年の第4回十字軍は船を提供したヴェネツィアの要求により、コンスタンティノープルにおもむいて、武力でこれを占領し、掠奪・暴行をほしいままにし、ラテン帝国を建てた。十字軍の戦士はビザンツ帝国を分割し、ビザンツの帝室は小アジアのニケーアに逃れた。

 そして問題の皇帝フリードリッヒ2世の参加した1216年の第5回十字軍である。エジプトを攻撃し、カイロを占領しようとして失敗した。この失敗によりローマ法王に破門されたが、彼はこれを無視して、第6回十字軍(1228−29)を起こした。サラディン死後、アイユーブ朝では3人のスルタンが立って抗争していたが、エジプトのスルタン・アルカーミルはフリードリッヒ2世と連合して、両者の協定によりイェルサレムの無血回復が実現された。

 しかし、アルカーミルの死後しばらくして、聖地イェルサレムがホラズム系トルコ人イスラム教徒の手に落ちた。これに対抗してフランスのルイ聖王が第7回十字軍(1248−49)を編成した。彼はエジプトで戦ったが敗北し、捕虜となったのち大金を積んで釈放さるという屈辱を味わうことになった。その後、ルイ聖王は西方に勢力を拡大してきたモンゴルと同盟し、第8回十字軍(1270)を起こしたが、遠征途中で病死し、これが最後の十字軍となった。

 ブッシュ大統領は9.11のあと、テロとの戦いを「十字軍」になぞらえた。11世紀末から200年にわたって、聖地エルサレムの領有をめぐってキリスト教徒とイスラム教徒が血で血を洗う戦いを繰り広げた十字軍の血塗られた歴史は凄惨である。しかしその中にあって、一滴の血も流さずイスラム側と粘り強い交渉を重ね、エルサレムに10年の平和をもたらした神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世の叡智ある行動は、現代に生きる私たちに貴重な教訓を与えてくれそうである。最後に北さんの雑記帳から全文引用させていたく。

ーー「フリードリッヒ2世とアルカーミル」(北さんの雑記帳より)ーー
 
あんまりよかったので、NHK「文明の道」の<十字軍>を見直した。現在のイラク戦争にもつながっていくイスラエル問題の元、エルサレムという聖地をめぐってのイスラム教徒とキリスト教徒の残虐の極致のような殺し合いの時代。神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ2世とイスラム王朝君主アルカーミルという、素晴らしい2つの知性が出会った。それは、イデオロギーの違いを科学的な見識が克服したとも言えるような劇的な出会い。2人によって、10年ほどではあったがイスラム教とキリスト教が平和共存した。

フリードリッヒ2世は、シチリアのイスラム文化の中で自然科学への関心を深め、イスラム教徒の好む鷹狩に関する本を執筆している。鷹と獲物になる鳥との生態を精緻に観察したその本で、繰り返し語られている言葉が「あるがままに見よ」という言葉だという。彼は、イスラム王朝の君主であるアルカーミルと会見する。アルカーミルもまた、自然科学、幾何学などを好む人物だった。2人は対立している宗教の話を避け、科学の話題で友情を深める。そんな彼が、運命の悪戯でローマ皇帝になってしまったのだ。

ローマ教皇の命令によって、彼もまた、最初は十字軍を率いて聖地エルサレムを奪還しようとする。しかし、チフスが流行し、フリードリッヒも感染して十字軍は闘わずして帰還する。激怒したローマ教皇は彼を破門してしまう。その時、フリードリッヒは考えられないような行動に出た。武力を使わずに、エルサレムを奪還する交渉に出向いたのだ。破門されたものが聖地を奪還するということは、ローマ教皇の権威に対抗することを意味している。交渉の相手は、あのアルカーミル。

おそらくフリードリッヒ2世は、かつての会見でアルカーミルなら平和交渉の可能性があると判断したのだろう。(このあたりのドラマは、何となく江戸城無血開城を実現した勝海舟と西郷隆盛の会見に類似しているように思った。)フリードリッヒ2世は、アルカーミルに「エルサレムを引き渡してほしい」と申し出る。もちろん、アルカーミルは拒否する。しかし、それから5ヶ月くらいにわたって、フリードリッヒ2世は粘り強く交渉にあたったのだ。その結果、2人の間に平和条約が締結された。残されている条約の規定を見ると、それは、両者が知恵の限りを尽くして作り上げたとしか思えない、実に見事な内容であった。

第1条で「イスラム王朝の君主アルカーミルは、フリードリッヒ2世がエルサレムを統治することを認める」と規定する。その代わり、第2条で「皇帝は神殿(イスラム教の神殿)の丘を侵してはならない。神殿の丘はイスラムの法に基づき、イスラム教徒が管理する」と規定したのである。

そして、第4条で「神殿の丘は、権威を尊重するならば、キリスト教徒も立ち入ることができる」と定め、その代わり第8条で、「キリスト教徒がこの条約に反する行動をとる場合、皇帝はイスラム王朝の君主を守る」という驚くべき内容の規定を設けたのだ。イスラム教とキリスト教は平和共存することになった。

ローマ教皇はフリードリッヒ2世に軍を差向け、教皇軍と皇帝軍の戦いが続いた。それは教会の権威に逆らった皇帝に対する制裁ということのようだが、応戦するフリードリッヒ2世の中には、アルカーミルとの約束を守る意識はあったに違いない。後年発見されたフリードリッヒ2世の遺体はイスラムの衣服を身に着けていた。そして、そこには、アルカーミルに対する次の言葉が書かれていた。

「友よ、寛大なる者よ、誠実なる者よ、知恵に富める者よ、勝利者よ」

フリードリッヒ2世とアルカーミル。2つの知性は自然科学によって交流し、宗教の違いを超えて友情を育んだといえるのではなかろうか。こんな素晴らしい友情のドラマはめったにない。


2003年12月03日(水) アメリカ帝国主義

 昨日の朝日新聞の夕刊にハーバード大学教授の入江昭さんが「米帝国論の流行」と題して文章を書いている。それによると、今のアメリカでは米帝国主義論が<主として思想的に右よりの論者のあいだでもてはやされている>という。

<アメリカの知識人の多くが抵抗なしに自国を帝国ととらえ、中にはそれを肯定的に考えているものもあるのは、興味ある現象である。世界唯一の超大国、覇権国家としての米国、というイメージがその背景にあるが、ただ超大国あるいは覇権国家というだけではなく、アメリカ・エンパイアという名称を使って、帝国としての米国を積極的に評価しようとする>

<国際刑事裁判所や京都議定書などの取り決めに束縛されない、といった単独行動主義や、アフガニスタン戦争、イラク戦争などに見られる軍事行動などを理解するには、エンパイアとしての米国という見方はそれなりの説得力を持つ>

<圧倒的な軍事力、経済力を背景に国際社会に君臨する、少なくとも君臨しようとしている米国は、帝国の名称に値するかもしれない。ブッシュ政権の外交政策を支持する人々の間で、米帝国論がもてはやされているのも、理解できることである>

 米帝国論がどのような心情を背景にしているか、それは昨日紹介したケーガンの「ネオコンの論理」を読めば一目瞭然だろう。国際協調や国際紛争の平和解決を主張する弱者の論理であって、アメリカもかってはそうであったが、現在は力関係が逆転したので強者の論理で行動する。国際協定などに縛られずに、もはやどこにでもいつでも好きなときに軍隊を派遣し、単独でも武力行使をためらわない、という立場である。

 ケーガンは、国際協調や平和をいうのは、いかにも人道主義的で高尚に見えるが、その実そこにあるのは、弱者がサバイバルするための「戦略」に過ぎないと見ている。だから、覇権を握れば、もはやこのような弱者の「戦略」にしがみつく必要はないわけだ。国際社会における「理想」や「正義」がいかにご都合主義的なものであるか、それは平和主義や人道主義がそうした弱者の戦略であることから明らかだというわけだ。

 ケーガンはたびたびホッブスに言及する。このイギリスの絶対君主制を擁護した権力主義の思想家に、「民主主義国家アメリカ」の知識人がこれほど傾倒するというのはどうしたことだろう。ホップスに対抗する思想家としてカントの名前を上げるが、カントの「世界永遠平和」の理想主義はあまりに高尚すぎて、ホッブスの現実主義の前にほとんど無力である。

 ホッブスの現実主義を批判できるのは、どうように現実主義者であったロックの思想でなければならない。ところが、ケーガンはひとこともロックに言及しない。あきらかに勝負を避けているのである。そして御しやすいカントの理想主義を持ち出して、ホッブスに凱歌をあげさせている。

 アメリカ合衆国の建国の父たちがその思想的基盤としたのは、ロックだった。ロックこそはアメリカ民主主義を代弁する思想家である。「議会制民主主義」「三権分立」「法治主義」といった民主主義の原理はことごとくロックの実践的政治思想の成果であり、アメリカの憲法もそのたまものである。にもかかわらず、ケーガンはロックについて沈黙し、ロックによって否定されたホッブスにこだわる。このあたりにネオコンの論理のいかがわしさが感じられる。

 ケーガンは<アメリカの軍事力は人類の最善の手段、おそらくは唯一の手段だともいえる>と書いているが、こうしたことをぬけぬけと主張できるのは、彼が完全にホッブス主義者だからだ。しかしホッブス主義は世界に何をもたらすか、いや、現にもたらしつつあるか、その答えがイラクであり、アフガンであり、パレスチナである。最後に再び入江昭さんの文章を引用しよう。

<帝国主義としての米国は、グローバリゼーションに逆行する行為をしているのではないか。本当に米国がグローバル化された国際社会を推進しようとするのであれば、軍事よりは政治、経済、文化などの面で、もっと各国と協力していくべきなのではなかろうか>

 私はケーガンの言うネオコンの論理が自らがたびたび強調するような「強者の論理」だということに実は疑問を持っている。莫大な財政赤字と貿易赤字を抱え、繁栄の象徴である国際貿易センターを破壊されたアメリカは、強力な軍隊でその巨体を支えてはいるが、みかけほど安泰ではなく、むしろその基盤はかなり脆弱なのではないだろうか。

 ネオコンの論理は、強者の論理というより、「強者を装った弱者の論理」ではないかと思う。かってのナチス・ドイツや日本軍国主義者がそうであったように。本当の強者はもっと寛容で、自らを強者などと強弁したり、得意げに居直ったりしないものだ。


2003年12月02日(火) ネオコンの論理

 ロバート・ケーガンの「ネオコンの論理」という本が以前話題になった。福田和也が「現在、国際情勢とわが国の運命を考える上で、本書ほど重要な著作はない」と書いていた本だ。ロバート・ケーガンはアメリカ・リーダーシップ・プロジェクトの責任者で、かっては国務省に勤め、政策立案スタッフの一員として、国務大臣のスピーチライターの責任者をしていた「ネオコンの旗手」といわれる学者だ。「ネオコンの論理」から引用してみよう。現在のアメリカを動かしている人々の本音が浮かび上がってくる。

<ヨーロッパは軍事力への関心を失った。少し違った表現を使うなら、力の世界を越えて、法律と規則、国際交渉と国際協力という独自の世界へと移行している。歴史の終わりの後に訪れる平和と繁栄の楽園、18世紀の哲学者、イマヌエル・カントが「永遠平和のために」に描いた理想の実現に向かっているのだ>

<これに対してアメリカは、歴史が終わらない世界で苦闘しており、17世紀の哲学者、トマス・ホッブスが「リバイアサン」で論じた万人に対する万人の戦いの世界、国際法や国際規則などあてにならず、安全を保障し、自由な秩序を守り拡大するにはいまだに軍事力の維持と行使が不可欠な世界で、力を行使している>

<18世紀から19世紀初めにかけては、国際法による」制約を歓迎しえなかったのは、ヨーロッパ列強の側であった。それから2世紀たって、アメリカとヨーロッパの立場が逆転した。そして見方も逆になった。その一因は、過去200年に、そしてとくに過去十数年に、欧米の力関係が劇的に変化したことにある>

<アメリカは弱い国だったとき、間接的な方法で目的を達成する戦略、弱者の戦略を採用していた。いまではアメリカは強力になり、強国の流儀で目標を達成する戦略、強国ろ流儀で行動している>

<ソ連の軍事力という抑制要因がなくなったことから、アメリカは事実上いつでもどこでも、自由に軍事介入できるようになった。この事実は、アメリカによる海外への軍事介入件数が増加していることに反映されている。第一次ブッシュ政権は1989年にパナマに介入し、91年に湾岸戦争を戦い、92年には人道的な観点からソマリア内戦に介入した。クリントン政権もハイチ、ボスニア、コソボに軍事介入している>

<軍事力が強い国は自然に、軍事力が弱い国とは違った目で世界を見る。リスクと脅威の測り方が違い、安全のとらえ方が違い、安全が脅かされた状態への許容度が違う。軍事力が強い国は、軍事力が弱い国よりも、国際紛争を解決する手段として軍事力が役立つと考える可能性が高い>

<アメリカでは大量破壊兵器の拡散、テロ、「ならずもの国家」などの外国の「脅威」が注目される。ところがヨーロッパでは、民族紛争、移民、犯罪組織、貧困、環境破壊などの「課題」が注目される。しかし、最大の違いは文化や考え方ではなく、能力にある>

<ヨーロッパ人はアメリカ人によくこう問いかける。「アメリカはきわめて強力だ。どうして脅威があると騒ぎ立てるのか」。しかし、アメリカは強力な軍事力をもち、他国を守る責任を負う意思をもっているからこそ、主な標的にされるのであり、往々にして唯一の標的にされるのである。ほとんどのヨーロッパ人は、当然ながらこの状態が続くことに満足している>

<ヨーロッパは軍事力で劣ることから、ホッブスのいう万人に対する万人の戦いの世界の冷酷な法則、国の安全保障と成功を決定づける最終的な要因が軍事力である世界の冷酷な法則を否定していき、いずれは根絶することに深い関心をもっているのである。これは非難されるべきことではない。軍事力が弱い国が昔から望んできたことだ>

<18世紀には公海での国際法を強く主張したのはアメリカであり、強く反対したのは七つの海を支配していたイギリス海軍であった。無秩序の世界では、弱い国は餌食にされるのではないかとつねに恐れている。これに対して強国は、無秩序よりも、自国の行動を制約しかねないルールを恐れることが少なくない。無秩序の世界であれば、強国は軍事力に頼って安全と繁栄を確保できる>

<ヨーロッパが政治権力を拒否し、国際紛争を解決する手段として軍事力の役割を軽視しているのは、ヨーロッパにアメリカ軍が駐留を続けている事実があるからだ。ヨーロッパがカント流の永遠平和を実現できるのは、アメリカが万人に対する万人の戦いというホッブス流の世界の掟に従って軍事力を行使し、安全を保障しているときだけである>

<1990年代、アメリカの軍事費が年2800億ドルだったとき、ヨーロッパが各国の軍事費の総額を年1500億ドルから1800億ドルに増やす計画には意味があった。だが、アメリカが軍事費を年4000億ドルに増やす方向にあり、おそらくは今後数年にさらに増額されると見られる中で、ヨーロッパはこれに追随する意図をまったくもっていない>

<アメリカは冷戦の終結を、海外から撤退する機会としてではなく、さらに進出する機会としてとらえた。・・・・アメリカには「孤立主義」の伝統があるとする神話はきわめて強い。しかし、これは文字通り神話にすぎない。領土の拡大と影響力の拡大が、アメリカの歴史で否定のしようのない事実になっているし、そうとは意識しないまま拡大してきたわけではない。世界の舞台で大きな役割を果たしたいという強い意欲が、アメリカの性格に強く根付いている>

<アメリカが国外での行動の正当性を主張するとき、その根拠を国際機関に求めることなく、自国の理念に求めてきた。だからこそ過去のどの時代にも、現在でも、アメリカ人の大多数は、自国の利益を追求すれば人類全体の利益を追求できるとの見方を容易に受け入れられるのだ。ベンジャミン・フランクリンが論じたように。「アメリカの大義は全人類の大義」である>

 ケーガンは<アメリカは良心を持った怪物だ>という。そして、<アメリカはどこまでも自由で進歩的な社会であり、軍事力が重要だと考えるときも、自由な文明と自由な世界秩序を広める手段でなければならないと信じている><アメリカの文事力は人類の最善の手段、おそらくは唯一の手段だともいえる>と書いている。

一読して、アメリカの支配層が考えていることを、よくもまあ本音でここまで書いたものだと、感心した。ケーガンも認めているように、アメリカの論理(ネオコンの論理)は強者の論理である。しかし、これは正しい論理だろうか。たしかにこの論理には真実らしい部分がたくさんある。しかし、すべてが正しいわけではない。いや全体として見るとき、これはとても「論理」といえる代物ではないと思うのだがどうだろう。

<世界の安全と自由主義的な秩序、そしてヨーロッパの「ポストモダン」の天国を長期にわたって維持するには、ヨーロッパ以外の地域に広がっているホッブス流の危険な世界でアメリカが軍事力を行使するということが不可欠だと信じている>

 ここに語られていることは、たしかに一面の真実である。しかし、ここに決定的に欠落しているものがある、それは、だれが「ホッブス流の危険な世界」をもたらしたのかということについての反省である。つまり、「ネオコンの論理」、ケーガンの言う、「強者の論理」に欠落しているのは、こうした歴史的・社会的視点である。さらにいうならば、そこから当然導き出されるであろう「モラル」が欠如していることだ。

 私が危惧を覚えるのは、この「ネオコンの論理」が、国際連盟を脱退したころの日本の軍国主義者の思想や行動ときわめて親和性が高いことである。このことについては、また別の機会にじっくり分析してみたいと思っているが、その本質を言えば、この世界が「ホッブス流の弱肉強食の世界だ」ということだ。

 ケーガンもこの世界は「ホッブス的な弱肉強の世界だ」、そしてこれが「世界の本質であり、人間の本性なのだ」、という前提で論を展開する。そして、こうした殺伐とした世界に平和と繁栄をもたらすのは「こざかしいカント流の理性」などではなく、「軍事力」しかないと主張する。この似非論理を打ち砕くには、ただそれが「モラル」に反しているというだけではいけない。その「暴力主義」の前提となっているもの、その「世界観」「人間観」「人生観」そのものを粉砕するしかないと考える。

 参考までに、私が随分以前にHPに書いた「ホッブスからロックへ」という文章を以下に引用しよう。ネオコンの論理に対するもっとも強力な批判は、おそらくロックの思想の中にあるのではないかと思うからだ。

ーーーーーーホッブスからロックへーーーーーーー

 ホッブス(1558〜1679)は人間の本質をエゴイズムだと捉えました。したがって、自然状態とは、人間が人間に対して狼である状態であり、そこでは「万人の万人に対する闘争」が支配すると考えました。

 それではどうしたら、こうしたおぞましい自然状態を抜け出すことが出来るのか。そのためには人は契約によってそれぞれが自然権として持っている権利を放棄して、国家に譲り渡すことが必要だと考えました。つまり平和を実現するためには強力な国家権力が必要だと考えて、絶対主義国家を擁護したのです。

 ホップスは王権神授説を批判し、契約という近代的な考えに立っています。つまり国家や権力を神懸かりに崇拝するのではなく、必要性と功利性において認めようという立場です。戦前の天皇機関説のようなものです。あるいは大審問官のような立場です。

 これに対して、私の立場はロック(1632〜1704)に近いのだと思います。ロックはホッブスのいう自然状態はひとつの仮説であると考えました。そしてエゴイズムは人間の本性というより、環境によって形成される面が強いと考えました。

 われわれの心はちょうど白紙(タブラ・ラサ)のようなものであって、多くの経験によってそこに内容が書かれる。だから、ホップスが人間の本性をエゴイズムだと考えたのも、かれが生きた時代とかれの個人的な経験の産物だということになります。

 彼は「寛容に関する手紙」のなかで、「国家は人民の福祉にあずかるべきだ」と書いています。また、「政府論」のなかで、「法の目的は自由を撤廃しあるいは拘禁することにあるのではなく、自由を保存し、拡大することである」と書いています。

 つまりおなじく「法」というものを考えながら、それを人間の自由を縛るべき規範だと考えたホップスとは違って、法は人間の自由を拡大するためにあると考えました。考え方が180度違っています。

 ロックのこうした自由主義的な思想は、彼が政治亡命をしていたオランダの先進的な思想によるものだと考えられます。当時オランダは世界の出版物の大半を出すほどの自由な国でした。シェークスピアの描いた弱肉強食の時代を生きたホッブスとは、時代や環境が違っています。

 ロックはモンテスキューに先駆けて、権力の分割を唱えました。すなわち立法権、行政権、外交権に分けました。そしてこのなかで、立法権をとくに尊重しました。

 ロックは「人民主権」を唱え、その現実的発動の機関として「議会制度」を提唱し「多数決原理」を主張しました。こうしたロックの考え方はもちろん王党派の迫害を呼びましたが、やがて名誉革命が成功して、彼の提唱した議会制民主主義が実現したのです。

 ロックはこの他にも1699年に北米カロライナ州の憲法草案を託されましたが、そこでは「個人の良心の自由」を強く擁護し、「宗教と政治」を分離する近代国家にふさわしい法案を書いています。

 このように、おなじく王権神授説を批判して、社会契約説の立場に立ちながら、強力な権力の必要性を説き、絶対王制を擁護した国家主義者のホップスと、人間の自由意志を尊重し、基本的人権を認め、議会制民主主義を提唱した個人主義思想家のロックではずいぶん違っています。

 この違いが生まれる原点に、両者の人間観の違いがあったのだと思います。性悪説の立場をとったポッブスに対して、ロックはこれをしりぞけました。人間の心は白紙で、彼がどのような人間になるかは経験や教育が大きくものをいうと考えたのです。

 そしてここから、よき人間を創るためには、よき社会制度をつくらなければならないという、実践的な社会変革の姿勢がうまれてきます。ロックは個人の幸福を実現するためには、国家というシステムがよくならなければならないと考えたのです。そして権力の暴走や腐敗をふせぎ、民主主義を実現するために三権分立を考案しました。

 ロックのこの考え方は、アメリカの独立戦争やフランス革命の理論的支柱になり、市民革命を推進する力になりました。現在地上に存在する国家はおおよそロックの思想から生まれたものだと考えてもいいと思います。


2003年12月01日(月) 初秋

6.病院にて(3)

 少女の枕もとの花瓶に花を生け終わると、修一は島田のベッドに腰を下ろし、彼の帰りを待つことにした。病室は相変わらず静まりかえっていた。外から聞こえてくる物音が、幼い頃に遊んだ浜辺にうち寄せるさざなみのように、修一を心地よいまどろみへと誘った。修一はぼんやりした意識の中で、とりとめもないことを考えていた

 少女の両親は数年前に離婚し、彼女は母親に引き取られたが、父親が納得せず、養育権を巡って裁判で争っていたという。裁判で破れた父親は学校帰りの彼女を待ち伏せ、ドライブに誘ったらしい。

 少女が事故にあったのはそのときだった。原因は父親の運転する車のスピードの出しすぎで、運転席の父親は即死だった。事故というより、覚悟の無理心中だったのかも知れない。

 少女の母親はその後精神に異常を来して、精神病院で暮らしているらしい。他に身内と言えば、母方の祖父だけのようだった。その祖父から、修一は少女の身の上をあらかた聞いたのだった。

「死んだこれの父親はアル中だったが、母親も今は気違い病院だ。この先、この子の将来にはなにもいいことはない。このまま安楽死させてやりたい。そしてわしも、この子と一緒におさらばしたい」

 そんなことを言うので、修一は不安になって看護婦にこのことを話し、その老人の挙措に注意を払ってもらっていた。痛風の老人は歩くのがやっとだったが、そのうちに病院にも姿を見せなくなった。看護婦の話だと、もう一ヶ月以上も来ていないらしい。痛風が悪化して歩けないのかも知れない。

 この病室で島田や少女を担当しているのは、山口葉子という若い看護婦だった。修一は葉子に島田の身の上を聞かせてやった。葉子は日曜日ごとに病室を訪れ、かいがいしく島田の世話をする修一に感心していた。そして仕事の合間に暇を見つけて、病室にやってきて、修一に話しかけることが多くなった。


橋本裕 |MAILHomePage

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