橋本裕の日記
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2003年08月31日(日) 木戸孝允と三権分立

 明治7年11月、イギリスの仲介により、清国との合意がなって、日本軍は台湾から撤兵した。ただ一人その交渉にあたった大久保利通はひとまず肩の荷を降ろしたが、しかし、三元勲のうち西郷と木戸を失った明治政府は弱体化し、不平士族の不満は高まるばかりで、前途多難であった。

 そこで大久保は在野にある木戸孝允を再び政府に呼び戻すしかないと考え、この周旋を同じ長州出身の伊藤博文にゆだねた。伊藤はこれを引き受けるにあたって、条件を出した。木戸の主張は大久保の独裁を排せよという漸進的民権論である。木戸のこの主張を大幅に受け入れて、この際、思い切って三権分立に基づく民主政府を作ろうというものだった。

「立法機関として、元老院と地方官会議を置く。司法機関として、大審院、上等裁判所、地方裁判所を置く」

 伊藤はこの案を大久保に示した。大久保はやむなくこれを呑んだが、伊藤の周旋家として才能があるところは、このことを伏せたまま、木戸に向かいあったことだ。木戸はこのとき、「大久保はとても賛成すまい。しかしもし大久保がこの案を呑めば、もはや岩倉・大久保の専制が終わる。私ももう一度東京へ出てもよい」と語ったという。伊藤は「大久保さんには何とかあたって砕けてみましょう」と空とぼけた。司馬遼太郎さんの「翔ぶが如く」から引いてみよう。

<伊藤は胸中に共和主義に近い思想を秘めていたとしても、彼の本質はやはり政略家であり、民権家たちが命がけでかち取ろうとしている民権制でさえ、機略の道具に使った。このあたりが、だました伊藤とだまされた木戸のあいだの違いであったであろう。伊藤の本質が調整家であるのに対し、木戸の本質はきまじめな革命家にあるとしなければならない>

<大久保のこの時期の政治思想はあくまでもビスマルク的な天才的宰相による専制にあり、三権分立は時期尚早といいたかったに違いない。しかし木戸をうしないたくなかった。木戸を失えば明治政府そのものをうしなうという危機感が大久保の思考法の中にあった>

<明治8年正月に大久保が木戸孝允を神戸で待ちうけ、その後いわゆる大阪会議をひらき、2月のはじめ木戸が内閣に入ることを承知し、同月24日東上してからわずか2月後の4月25日に、この制度が発足した。うそのような迅速さである>

<うそのような、といういかがわしさは、政略によって出来たからであろう。欧米のように下からの盛りあがりで成立したのではなく、木戸の入閣条件として、いわば木戸の輿入れ道具としてこの制度が出来た。大久保が太政官権力を再建するために木戸を必要とし、そのためにこの道具を容認した。木戸もまた、岩倉・大久保の専制支配を制御するための制御装置としてこの道具を持ち込んだ>

 しかし大久保・木戸の巨頭体制も長くは続かなかった。大久保や伊藤が頼みにした木戸がやがて病に倒れたからだ。こうした明治政府の弱体化を見透かすように、あちこちで不平士族の挙兵が続いた。そしてついに明治10年2月15日、西郷隆盛が鹿児島で挙兵した。西郷に従う兵は13000人にも上り、ここに明治政府は最大の危機に見舞われた。こうしたなかで木戸孝允は5月26日に45歳の生涯を終えた。最後の言葉は、「西郷、もういいかげんでやめたらどうだ」だったと言う。

 同年9月24日に西郷軍は最後の戦いに敗れ、郷土の城山で西郷は切腹して51歳の生涯を終えた。これによって7カ月に及ぶ西南の役がようやく終結した。しかし、その翌明治11年5月14日の白昼、大久保が西郷心酔者の兇刃に倒れ、49歳の生涯を終えた。こうして、明治政府は三元勲を次々にうしなった。伊藤博文と山県有朋が、巨頭亡き後のあたらしい国家建設の重圧を、いやがうえにもその双肩に担わなければならなくなった。


2003年08月30日(土) 皇帝陛下の宸断

 明治の元勲の大御所といえば、西郷隆盛、大久保利通、木戸光允の三元勲だが、まず明治6年10月には征韓論に敗れた西郷隆盛が去り、ついで翌7年3月には木戸光允が去っている。木戸が参議をやめたのは大久保の台湾出兵に反対してのことだった。

 征韓論に反対した内治主義者の大久保が、なぜ台湾出兵に踏み切ったのか、その背後には西郷隆盛を中心とする不平士族の隠然たる圧力があったからだ。朝鮮の代わりに台湾を選んだのだが、これには清国や、清国に利権を持つイギリスが黙っていなかった。結局、台湾に出兵した3000の兵を引き上げなければならなかった。

 大久保はこのため、清国に渡って交渉した。一年前、西郷が朝鮮に渡って交渉しようとしたのを阻止した大久保が、まるで西郷のお株を奪うような行動に出たわけで、これには腹心の伊藤博文でさえ驚いた。伊藤は台湾派兵に反対だったし、まして大久保が単身清国に乗り込むことにも反対だった。

 陸軍大臣だった山県有朋も台湾派兵に強硬に反対していた。その理由は、いま国内はなお旧藩のごとく固結し、しかもそれぞれ不平を抱いている。いざ戦争となっても、彼らが動くかどうか。陸軍としては、とても戦争などできない」ということで、これを大久保の前で堂々と主張した。このあたりの経緯を、司馬遼太郎の「翔ぶが如く(五)」から拾っておこう。

<陸軍卿山県有朋は、気質的に大久保利通に似たところがある。・・・大久保は優秀な官僚組織を構成すれば国政はそれで足りるという思想を持ち、このためすべてが機密主義で、国政の枢要事項を閣外に洩らすことをしない。つまり木戸のような人民という観念が大久保には希薄で、政策決定の場に人民の意志を反映したりすることは無用だと考えていた。この大久保のいわゆる「有司専制」の思想は、のちに山県が継承した。大久保のように、平素、私心を吹き払って一塵もとどめないというような心境は終生持てなかったが、しかし大久保がその死後、弟子を持ちえたとすれば、この山県がそれであったろう>

 山県は大久保に対して、「全国の不平士族が、はたして兵となって清国にゆくかどうか、兵として従軍せよという政府の命令に服従するとは思えない」と、執拗に述べた。「山口県一県の人は、たいてい私の指示に従いましょう。しかし他県はそうは参りませぬ」と食い下がる山県に、大久保はわずかに微笑して、「皇帝陛下というものがあるじゃないか」と言ったらしい。再び「翔ぶが如く」から引用しよう。

<天皇といわず、外国風に皇帝と言った。のちに山県もそうだが、大久保も、国内統制に、何かといえばこの皇帝というものを持ち出した。
「士族たちの統御はむずかしくない。国家が危機にいたれば、皇帝陛下の宸断を仰ぐのみ」
 大久保の考えている天皇制の原型はこのあたりの機微にあるのだろう。大久保的な天皇制の原型を、のちに制度化してゆくのが山県であることを思えば、この対話は劇的であるといっていい。このとき、山県はこの大久保の一言で沈黙した>

 西郷隆盛も大久保利通にももとより「無私」の境涯に身をおいている。それは立派なことだが、彼らには吉田松陰や木戸光允(桂小五郎)が持っていた「人民という観点」が希薄だった。松陰の弟子であることを自称しながら、山県有朋にもこの観点はまったくなかったのではないかと思っている。そしてこの二人の対話をじっと聞いていた伊藤博文にも、いささか希薄だったのだろう。そしてその分、大久保的な天皇制へと傾斜して聞く危険な要素があった。

 ちなみに同じ薩摩藩の上士の身分に生まれた西郷隆盛には「人民を尊重する」ということも、「天皇の権威に頼る」という傾向もほとんどなかった。西郷には他の権威を必要としない強さがあった。あえて言えば、彼自身が権威であり、神だったのだろう。明治6年に西郷は参議を辞職して鹿児島に帰るが、そのときも天皇には一言の挨拶もなかった。このとき薩摩出身の近衛師団の将校も多く西郷に従ったが、だれも天皇にいとまごいをしなかった。彼らは「天皇を捨てて、西郷に従い」郷里に帰って行った。


2003年08月29日(金) こうもりの空

8.エッチな校医さん

 福井の小学校の生活にも少しずつ慣れて来たが、まだまだ戸惑うこともあった。その一つが内科検診だった。パンツ一枚になって校医さんの前に立つ。そうするとその眼鏡をかけた年輩の校医さんは、
「この子はどんな子だね」
 隣の担任に訊きながら、私たちのパンツの中を覗く。ご丁寧に前を覗いたあと、後ろを向かせてお尻の方も見る。

 この学校ではそれが当たり前なのだろうが、私には何とも滑稽に思えた。それで思わず担任の佐藤先生の方を見ると、
「まだ転校してきたばかりで、よくわかりませんが、スクーターや自動車のことに興味があるようですね」
 先生は真面目な顔をして、そんなことを答えている。私が日記に書いたことを覚えていてくれたようだ。

 私たちと入れ違いに保健室に入る女子たちの中に葉子の顔があった。彼女の白いブラウスの胸が少し膨らみかけている。私は教室にもどると、茂夫に訊いた。
「女の子の胸やお尻も見るのかな」
「あたりまえだよ。それがお目当てなんだから。佐藤先生なんか、体を乗り出してのぞき込むらしいぜ」

 茂夫が大きな声を出すので、私はあわてた。学級委員の藤田君は隣の席で顔を顰めている。何となく気詰まりな雰囲気が辺りに漂った。こうして教室であまり自由に物が言えないのは、帰りの反省会のせいかもしれない。

 帰りの反省会では当番の生徒が前に立って司会をする。司会が発言を求めると、誰かが手をあげて、
「S君が今日も掃除をさぼりました。もっとしっかりやってほしいと思います」
「S君、どうなのですか」
「反省しています。これからはしっかりやりたいと思います」

 こんな具合に進む。一番多くやり玉に上がるのが茂夫だった。私はこの日、自分の名前が茂夫と一緒に挙がるのではないかと冷や冷やした。


2003年08月28日(木) 伊藤博文と廃藩置県

 伊藤博文の業績の一つに、「廃藩置県」を建議し、これを実現させたことがある。廃藩置県は「一君万民」を唱える松陰の夢だった。ちなみに薩摩にはこうした思想家はいなかった。西郷隆盛は根っからの武士だったし、大久保利通も同じである。大久保が変わったのは博文の感化によると考えられる。彼は博文とともに「岩倉使節団」の主要メンバーとしてアメリカやヨーロッパを見たことでさらに変わった。以下はあるHPからの引用である。

<当時の政府指導者の中で、伊藤博文は,藩を全廃して郡県制をしき中央集権国家を確立することを明確に主張し,木戸孝允も伊藤ほど明確ではなくともそれに近い意見を持っていたようです。しかし政府指導者の大半は,少なくとも当面は府藩県三治体制の下,藩への統制を強めていきながら,一方では藩を温存しつつ中央集権化を進めていこう,という方針でいたようです。その背景には,当時の政府は直属の軍を持たず,各藩が軍事力を所有しているという事情がありました。

 しかし明治4年(1871年)に入ると,このような体制での中央集権化にあちらこちらで行き詰まりが見られるようになりました。政府はさまざまな対策を検討し,その中でやがて廃藩が現実の問題として浮上してきました。大久保利通ら政府指導者は西郷隆盛の協力を得て薩長土三藩の将兵による政府直属軍である親兵が創設され,軍事面で各藩に優位に立ちました。

 このような情勢の下で,明治4年7月14日(太陽暦:1871年8月29日),政府は各藩の知藩事を皇居に呼び出して藩をすべて廃止して県を置くことを一方的に宣言しました。知藩事の誰もがその当日までそのことを知らなかったどころか,政府の(形式上の)トップにあった三条実美や岩倉具視でさえそれを知らされたのは数日前,という処分でした。これを聞いた鹿児島(薩摩)藩の事実上の支配者であった島津久光(知藩事は息子の島津忠義)が激怒して鹿児島の邸内で花火を打ち上げ,鬱憤を晴らしたとういのは有名なエピソードです>(「版籍奉還から廃藩置県まで」)

 伊藤博文は松陰から「周旋家」と呼ばれていた。1を聞いて1000を知る松陰、1を聞いて100を知る高杉や久坂とくらべると、1を聞いて10を知る博文は知的能力も人物的にもかなり見劣りがするが、彼はこの「周旋家」としての才能を120%発揮し、松陰の夢を実現した。

 1871(明治4)年11月に横浜を出た岩倉米欧回覧使節団の一行はサンフランシスコで熱烈な歓迎を受けた。12月14日には、知事、市長など300名が参加する大歓迎晩餐会が開かれたが、このとき岩倉大使の挨拶のあと、伊藤博文が英語のスピーチを行った。これは日本人がはじめて行った英語のスピーチである。

「わが国ではすでに陸海軍、学校、教育の制度について欧米の方式を採用しており、貿易についてもとみに盛んになり、文明の知識は滔々と流入しつつあります。

 国民の精神進歩はさらに著しいものがあります。数百年来の封建制度は、一個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、一年のうちに撤廃されました。(廃藩置県を指す)

 このような大改革を、世界の歴史において、いずれの国が戦争なくして成し遂げたでありましょうか。この驚くべき成果は、わが政府と国民との一致協力によって成就されたものであり、この一事をみても、わが国の精神的進歩が物質的進歩を凌駕するものであることがおわかりでしょう。

 わが国旗にある赤いマルは、もはや帝国を封ずる封蝋のように見えることなく、いままさに洋上に昇らんとする太陽を象徴し、わが日本が欧米文明の中原に向けて躍進する印であります」

 伊藤博文はこのとき31歳だった。農民の子として生まれた彼が、堂々とアメリカの貴顕の前で演説をした。伊藤博文の国造りへの思いが参会者の胸を打ち、万雷の拍手が止まなかったという。この演説は「日の丸演説」としてたちまち有名になった。日本人の堂々とした気骨ある態度が、多くのアメリカ人に好感をあたえた。当時のニューヨークタイムズはこう報じている。

「礼儀作法の点では、アメリカ人は日本人に教えられる所が多かろう。彼らは上品に礼儀正しく会釈をし、なんの苦もなく紳士的な敬意をもって人を遇する。個人の客間でも公の歓迎会でもまた街頭でも、彼らの振舞はきわめて高く称賛された」

 1873(明治6)年留守政府は西郷隆盛を全権大使として朝鮮に派遣することを決めていた。外遊から帰ってきた大久保利通や伊藤博文にとって、これはとんでもない見当違いの政策に思われた。欧米との国力の落差を知れば、外征などもってほかで、内政の整備や充実こそ最優先の課題でなければならなかった。この当時伊藤博文は意思決定に直接かかわる参議ではなかったが、非征韓論の立場から関係者の間を周旋してまわった。裏方として西郷隆盛派追い落としの逆転劇を演出したのは彼だった。


2003年08月27日(水) 吉田松陰の万民思想

 司馬遼太郎さんの「世に棲む日日」を読んでいる。読んでいるというより、読み返しているという方が正しいのだろう。たとえば次のような文章が冒頭近くにある。

「吉田松陰は藩の行政者でもなく、藩主の相談役でもなく、ないどころか、松下村塾の当時のかれは二十七、八の書生にすぎず、しかも藩の罪人であり、その体は実家において禁錮されており、外出の自由さえなかった。この顔のながい、薄あばたのある若者のどういうところがそれほどの影響を藩と藩世間にあたえるにいたったのか、それをおもうと、こういう若者が地上に存在したことじたいが、ほとんど奇跡に類するふしぎというよりほかない」

 吉田松陰のことを、司馬さんは「これほどの思想家は、日本の歴史の中で二人といない」とも書いている。吉田松陰の奇跡は、彼が若くしてすでに超一流の思想家であったという点にある。デカルトの啓蒙思想がやがてフランス革命を導いたように、松陰の思想が長州藩に革命をもたらし、やがて日本を明治維新へと導く。

 それでは彼の思想のすごさはどこにあったのか。当時長州藩には山県大華という全国に名の通った学者がいた。藩校「明倫館」の学頭(学長)であり、長州藩における学問上の権威者である。当時80歳だった彼に、二十七歳の松陰は獄中から質問状を送り、以後二人の間で論戦が続いた。

 松陰は「毛利家は天子の臣である。長州藩はおろか、天下の人民はすべて天子の民である」という。これに対して、大華は「毛利家の防長二州は天子からもらったものではなく、将軍からもらったものだ。毛利家が天子の家来であるというのは妄論である。あくまで将軍家の家来である」というものだった。この点について、司馬さんの書いているところをいま少し紹介しておこう。

「松陰の天皇イデオロギーは、裏返すと人民イデオロギーになっていく。日本国で神聖なものは天皇だけであるという思想は、天皇という神聖点を設定することによって将軍以下乞食にいたるまですべて日本国の人間は平等である、ということになってしまう。一君万民思想である。つきつめれば大名の存在を否定するところまでいかざるをえない。封建体制下では、非常な危険思想であった。が、伊藤博文や山県有朋といった足軽やそれ以下の下層出身者にとってこれほど魅力のある思想はなかった」

 ちなみに勤皇思想といえば本居宣長の「国学」や水戸学派が有名だが、これらの勤皇思想には松陰の思想の眼目である「一君万民」の観点はない。むしろ天皇の権威にすがって、自らの封建的支配体制を合理化しているだけである。松陰の思想には、天皇という権威の下に、幕府やそれにつながる藩体制、ひいては自らの出自である武士階級そのものを否定する力強さがあった。こうした時代に先んじた革命的な思想を、松陰はほとんど独力で作り上げ、しかもこの思想に殉じて死んだのだった。


2003年08月26日(火) 屋根の上のバイオリン弾き

「映画100選」をさぼっている。そもそもこのHPをはじめて、最初に書き始めたコンテンツがこれだったが、「映画20選」のあたりでお休みに入ってしまった。100選の中身も再検討しなければならない。なぜなら、その後に見た映画でどうしても加えたいものが出てきたからだ。そのひとつに、「屋根の上のバイオリン弾き」がある。

私が所有するDVDはわずか2本しかないのだが、そのうちに一本が「屋根の上のバイオリン弾き」である。NHK教育テレビで見た後、これは迷わず購入した。もう一本は「金子みすゞ」の生涯を描いた「明るいほうへ」という作品だ。現在2本とも貸し出し中だが、誰に貸したのか忘れたころ、tenseiさんが日記帳に感想を書いてくれた。なかなかうまく書けているので、今日はその全文を、本人の許可を得ないで引用しよう。

<昨夜、「屋根の上のバイオリン弾き」のDVDが目に入った。橋本さんから昨年から借りっぱなしだったのを、忘れていたわけではないけれど、なかなか強く意識が向かわずにいたのだ。なんとなく、見るのがこわい、というような心情も働いている。他の人はどうかわからないが、私にはよくある心情で、そのためにまだ見るのをためらっている映画がいくつもある。

 昨夜は妙に見てみたいという気持ちに動いた。11時半回ったところだから、2時ごろ見終わるだろう、とにかく、「サンライズサンセット」を聞こう、、というわけで、、、意外と長くて、休憩つきの映画で、3時近くまでかかった。長いし、ちょっと冗漫かな?と思わせる部分もあったけれど、少しも退屈することなく、楽しく、そしてもの哀しく見ていた。

 カメラワーク、というか、画面構成がよくできている。風景もいいし、まず映像に引き込まれる。歌と踊りの部分も、映像のうまさもあって、たいへん楽しい。「サンライズサンセット」が意外にも1回しか歌われないし、BGMとしても活躍しないのはちょっと拍子抜けだったけれど、初めて聞いても魅力的な歌や舞曲が多かった。オープニングタイトルからして、不思議な魅力である。

 もっとも嬉しいのは、父親テビエが、娘の恋愛を認める展開である。アナテフカ村の秩序を支えてきた(と信じられている)伝統を守ろうとしながらも、娘の眼差しを信じ、娘の幸福を第一にしようとする。貧しい生活の中で、裕福な家との縁談を切望しつつも、長女は貧しい仕立屋と結婚し、次女は反体制運動家と婚約して彼が投獄されたシベリアの収容所に旅立ち、三女は、迫害する側であるロシアの将校と駆け落ちする。

 子供の縁談は親が決めるという伝統に強く支配されながらも、結局は娘たちの思いを尊重し、伝統的な幸福ではないながらも、娘たちにとっての幸福な結婚というものを認めようとする。貧しい牛乳売りとして、ユダヤ教信者として、そして、とりあえず平穏なアナテフカ村の一村人として、幸福な生活を求めているテビエも含め、それらは、つつましい幸福を懸命に求めている姿なのだ。

 娘たちの恋愛は、新しい時代の流れを象徴している。けれども、新しい時代の流れは、アナテフカ村のユダヤ人たちの平穏も脅かしていく。彼らは村からの退去を命じられ、各国に散って行く。荷車を引いて、放浪の旅のように村を出て行く村人たちを見ながら、つつましい幸福を世界のほんの片隅で営んでいた彼らを、なぜ迫害しなければならないのかという思いが突き上げてきた。(迫害される背景が何なのか、映画だけではよくわからない)

 エンディングタイトルは、「サンライズサンセット」のバイオリン独奏だとよかったのになぁ、、、と、残念!>

 これで「映画100選」の解説が一つ助かった。もうひとつ助かったのは「怒れる11人の男」でこれも以前に紹介した北さん文章が素晴らしかった。やはり持つべきものは友である。


2003年08月25日(月) こうもりの空

7. ブリキの車
 私はその頃、江戸川乱歩の推理小説やマークトゥエンの冒険小説が好きだった。H・G・ウエルズなどののSF小説も面白かった。学校の図書館や近所の貸本屋で借りてきて夢中になって読んだ。夏休みに手作りの自動車で若狭に行こうと考えたのも、こうした小説の影響かもしれない。福井の小学校に転校して来てしばらくは孤独だったが、今はそれも嘘のようだ。

 もっとも実際に製作を始めてみると大変だった。まず、資金がない。鉄屑拾いをしたりして頑張ってみたが、収入は思ったほどではなかった。それでも、あり合わせの材料で車体のフレームを作った。各自が自分の家から角材やベニヤ板などを持ち寄り、製作は私の家の裏庭でした。

 車輪は使わなくなった乳母車から拝借した。車輪に鉄の棒で車軸とハンドルをつけて走るようにした。座席も木で作り、近所の金物屋で買ったブリキを張りつけた。一応は四人乗りだ。私はその自動車に葉子も一緒に乗せてやりたいと思った。こうして短期間のうちにそれらしい形ができたが、じつはまだ肝心の駆動部分には手が着いていない。

 エンジンを手に入れなければならないのだが、乏しい資金のなかでやりくりするのだから大変だった。行きつけの模型専門店に行ってみたが、そこに並んでいるのはいずれも模型飛行機用の馬力の小さなものばかりで、しかもそんなちっぽけなエンジンでさえ高額で手が届かなかった。

 それでスクーターかバイクの中古のエンジンがないか、屑屋に行って訊くと、自動車修理工場か解体屋を当たってごらんと言われた。学校の帰りに寄道をしてみたが、そこにも適当なものは見つからなかった。

 そんな具合で、私を除く三人の自動車製作にかける熱意も下火になった。
(いつか空を飛ぶ自動車を作りたい)
 私だけが出来損ないのブリキの運転席に腰を下ろして、あい変わらず他愛もない夢を追っていた。


2003年08月24日(日) 定めなきこそ、いみじけれ

 徒然草の第七段はこんな書き出しである。
「あだし野の露消ゆる時なく、鳥辺山の煙たちも去らでのみ住みはつるならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそ、いみじけれ。命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし」

 吉田兼好は人生は無常だという一方で、無常だからこそもののあわれが感じられていいのだという。人生について、無常だからつまらないと考えるか、無常だからこそ楽しいと考えるか、これは人生観の違いである。私は吉田兼好とともに、後者の考えが好きで、「能動的ニヒリズム」などと勝手に呼んでいる。

「人生は無常である。一切は空である」という思想は人をニヒリズムに導きやすい。実際、私も学生時代はこうした思想に耽溺し、そのあげく人生に絶望し、精神に異常を来たした。卯辰山に登って、自殺のまねごとをしたりもした。

「一切は空しい」という思想を、仏教では「色即是空」と表現する。しかし、仏教はここで終わっていない。このあと、「空即是色」と力強く続く。これを私なりに解釈すれば、「空だからこそ自由があり、楽しい」ということになる。否定から肯定へと、「空」を媒介にして見事に蘇るのだ。まさに思想のアクロバットである。

<世の中に神がいるわけでもなく、道徳や倫理や論理でさえも絶対的なものではないとすると、人生に意味はないことになる。こうした認識は人々をニヒリズムに導く。しかし、この問題を別の角度から眺めてみよう。そうすれば人生の意味や意義はそれぞれの人が自らの内部で作り上げるものだと言うことに気づくはずである。人間だけがこの自由を手にしていて、創造的に生きることができるのである。人生に意味を与えるのは自分自身であり、大切なのは自分自身の決断や、生き方なのである>

 以前書いた「人生についての21章」から引用してみた。世界は善でも悪でもない。それ自身に何か意味があるわけでもない。人生はたとえてみればまだ描かれていない一枚のカンバスのようなもので、そこにどんな絵を描くかは私たち一人一人の自由である。人生に意味や価値を与えるのは、つまり私たち自身である。このことに気づいて、私は何とも清清しい気分に満たされたものだった。


2003年08月23日(土) インターネット接続復帰

 この10日間、インターネットの接続ができななかった。私はフレッツISDNをメルコのエアーステーションを使って無線ランで飛ばしている。エアーステーションの設定画面で「接続状況」を見ると、「電池切れにより接続できません」という表示がある。ルーターの一番下のDIAGという警告ランプが赤く点滅を繰り返していた。

 そこで、メルコのサービスステーションに電話をしてみたがつながらない。プロバイダーに聞くと、「たぶん内蔵電池が切れたのでしょうね。ときどきそうした話を聞きます」ということ。エアーステーションを買ったパソコン専門店(コンプトマート)に問い合わせると、「それなら故障ということにして持ってきてください。ただしもうお盆休みですので、かなりかかると思います」とのことだった。

 エアーステーションをはずすと、電話がかからなくなる。だから修理があまり長くかかるのは困る。お盆明けを待っていくことにした。それでも一週間はかかりそうなので、実質、8月中はインターネットが使えない可能性があるが仕方がない。ただ、念のために、もう一度メルコに電話をした。十数回目の電話である。これが奇跡的につながった。

私の説明を聞いた係りの人は、「たぶん時計が狂っていると思いますので、現在時刻に会わせてみてください」とのこと。さっそく指示通りにすると、たちまちつながった。その間、5分間である。たったこれだけのことのために、この10日間以上も悪戦苦闘していたのかと思うと情けなくなった。メルコに電話がつながっていれば、即座に解決できたことである。

もっとも、つながった瞬間はうれしかった。月面着陸に成功したような気分だった。これでもう余分な出費もしなくてすむ。これが一番ありがたい。さっそく、この10日分の日記をUPした。掲示板にもこれからは自由に書き込める。


2003年08月10日(日) 獄中の講義

 牢獄の責任者の福川犀之助から、「吉田先生」と呼ばれて、吉田松陰は少しとまどいながらも、「はい」と答えた。見ると、福川はとなりにひとりの武士を連れている。福川の弟の高橋藤之進だった。福川は松陰が獄内で「孟子」を読んでいるのを知って、獄内で孟子の勉強会を開くことをを思いついたのだった。

「ひとつ牢内で孟子についてご講義をおねがいできませんでしょうか。この弟が、しきりにそれを望んでいます。私も拝聴させていただきます」

 松陰は「私は未熟者ですが、話の引き出し役くらいなら引き受けましょう」とこころよく応じた。「孟子」といえば「論語」「大学」「中庸」と並ぶ「四書」のひとつである。しかし、松陰はなかでも「孟子」に強く惹かれていた。それは彼の師佐久間象山の影響もあった。

 密航が発覚したとき、象山もまたこれをそそのかしたとして、逮捕された。象山は西洋の進んだ兵法を弟子の松陰に学ばせたいと思い、密航を励ます文を書いて彼に餞として持たせていた。それが幕府の押収されていた。幸い幕府にも象山の理解者がいたので、彼はのちに放免されるが、しばらくの間、松陰たちとおなじ獄につながれた。獄の中で、象山は大声で「孟子」を朗読した。

「天のまさに大任をこの人にくださんとするや、必ず先ずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしめ、その体膚を飢えしめ、その身を空乏にし、行いその為すところを払乱せしめる」(「孟子」告子上)

 この声が同じ獄にいる松陰に届いてきた。松陰は象山がこうして自分を励ましてくれているのだ思った。そして松陰も又、この章句を朗読した。この習慣はのちに勤皇の志士とよばれた彼の門下生に受け継がれた。彼らはこの章句を合い言葉にして自分たちを奮い立たせ、困難な事業に捨て身で向かっていったのだった。

「孟子」は「革命の書」だといわれる。政治は支配者の贅沢のためではなく、人民の幸せのために行われなければならないという主張が強く出ているからだ。だから、為政者や支配階級に属する人々にとっては都合の悪い書である。「人民」という言葉も、実は「孟子」の中で始めて使われた言葉である。

「民を貴しとなす。社稷(しゃしょく)これに次ぎ、君を軽しとなす」
「諸侯の宝は三。土地・人民・政事なり」
「天下を得るに道あり。その民を得れば、ここに天下を得る」
「至誠にして動かざる者は、未だこれあらざるなり」

「社稷」とは神社に祭られる神で、孟子は君主は神よりも軽く、その神も民よりは軽いと説いた。これは「民本主義」と呼ばれ、「性善説」とともに「孟子」を際立たせる特徴となっている。松陰はこれを萩の獄中で講義し、引き続き松下村塾でも教えた。そしてこの講義から、「講孟剳記」(こうもさっき)という書が生まれている。

 松陰はその冒頭を「道はすなわち高し、美し、約なり。近なり」と書き始めた。これは言うまでもなく、孟子の「道は高し、美し」「道は近きにあり。しかるにこれを遠きに求む」という言葉からとられたものだった。「孟子」については、別にもう少し詳しく書くことにしたい。


2003年08月09日(土) 追悼の俳句会

「岩倉獄」にいた金子重輔が1855年1月11日に獄死した。獄卒からこのことを知らされた松陰は、獄卒の顔をみかえしたまま、はらはらと大粒の涙を落とした。そして蹲り、髪をかきむしった。「私のせいだ」と彼は自分の身体を拳でたたきながらうめいた。

 牢内の人々は、「君のせいではない。金子君はもともと体が弱かったのだ」と口々に言ったが、「自分のせいだ」と責め続ける松陰を慰めることが出来なかった。松陰は金子のことを忘れていたのではない。金子のために拠金を募り、役人にも彼の待遇の改善を依頼していた。そんな矢先の死だった。松陰はひとり獄房で髪を掻きむしり、「金子君、許してくれ、許してくれ」と、自分の身体を拳で打ち続けた。

 松陰のうめき声が野山塾を満たした。見るに見かねて、俳句会の指導者の吉村と河野が最古参の大深のところへ相談を持ちかけた。75歳の大深は「家庭の持て余し者」としてすでに50年も入獄していた。いまは野山塾の牢名主として一目置かれていた。

「きみたちは俳句の名人だ。どうだ、死んだ金子くんを追悼する句会を開くということを、吉田くんに相談してみたら」
 大深に言われて、ふたりはこれは名案だと思った。もともと松陰の発案で始まった俳句会である。「金子の追悼のため」と持ちかければ、松陰がこれを断ることはないだろう。さっそく二人は松陰の牢を訪れた。

 二人が訪れても、松陰は壁に向かったままだった。しかし、追悼の俳句会と聞いて、松陰はこちらに向き直り、這うようにして牢格子のところまで来た。やつれた顔で暗い眼をしていた。ただその眼に、かすかな光りが甦っていた。松陰は牢格子の間から手を出して、「吉村さん、河野さん、ありがとうございます」と手を握りながら、また涙をとめどなく流した。

 この俳句会には、はじめてあの狷介孤高な富永弥兵衛も参加した。11人の囚人の他、4人の牢役人も参加した。金子を追悼するということもあったが、松陰を励まそうという周囲の気持も強かった。松陰にはそうした人々の情けがありがたかった。このとき読まれた俳句をいくつか紹介しよう。

 惜しむぞよ雪に折れにし梅が香を  花廼屋(吉村)
 帰りぬる魂のあなたや夕がすみ   花逸(河野)
 陽炎の行方やいづこ草の原      蘇芳(富永)
 若木さえ枝折れにけり春の雪    久子
 ちるとても香は留めたり園の梅    松陰

 松陰は句会が終わると、末座にさがって、全員に感謝の言葉をかけた。そこへ牢の責任者の福川犀之助がやってきて、「今夜から、灯火の使用を許可する」という。これはあきらかに、「松陰に自由に書物を読ませたい」という思いやりだった。囚人達の間から歓声が湧き起こった。


2003年08月08日(金) こうもりの空

4.孤独な少年

 藤田君やその仲間から、私は少しずつ離れて行った。そうすると話し相手がいなくなった。休み時間にはひとりで図書室へ通った。図書室の机に座って本を読んでいると心が落ち着く。しかし、友達がいないのは淋しかった。

 そこで私は前の席の石田茂夫という色の浅黒い坊主頭の少年に話しかけた。彼は私より粗末な服装をしていた。そして教室の後ろに掲示されている成績表を見ると、ほとんど青色の×ばかりだった。

 彼はクラスの誰からも相手にされていなかった。
「彼とはあまりかかわりあいにならないほうがいいよ」
 藤田君は私に忠告をしてくれた。私が戸惑っていると、
「彼はむつかしいんだ。喧嘩っ早いしね」

 彼だけでなくクラスの皆が茂夫を不良だと思っているようだ。私はそうした冷ややかな視線にめげない茂夫に魅力を感じた。
 やがて茂夫と私は学校が終わってからも遊ぶようになった。
「藤田のやつ、勉強ができると思って、嫌味な奴。あいつの声を聞くとジンマシンが出るんだ」
 茂夫は藤田君や勉強のできる生徒ばかりをえこひいきする担任の佐藤先生を毛嫌いしていた。

 彼は意外に物知りで、学校のことや社会のことで知らないことをいろいろ教えてくれた。彼はまた人の心を読むことにもたけていた。私は感心して、
「すごいね。君は何でもわかるんだね」
「世間はみんな汚い奴ばかりだよ。しかし君はいい奴だなあ」
 茂夫も私を好いてくれた。


2003年08月07日(木) 日蓮と一念三千論

14.六波羅蜜

 アレキサンダー大王の遠征の後、ギリシャ文明が中近東からインドへと押し寄せてくる。ここに二つの文明が出会い、ヘレニズムという東西が融合した新しい文化が創り出されることになった。異教徒との対話の中で、釈迦が創設した仏教も、この時代に大きく姿をかえることになる。

 それは「自己の迷いを断じる」ことを目的とする「小乗仏教」から、我をも他者をも救うことに主眼をおく「大乗仏教」への飛躍だった。「四諦八聖道」と「縁起」を中心とする個人救済の教えから、より社会的な「六波羅蜜」を実践の主体とする教えへの移行である。

「波羅蜜(多)」とは、サンスクリットのパーラミターの音写であり、到彼岸と訳される。悟りの境地、彼岸に到達するための実践方法で、6つあるので「六波羅蜜」という。「布施」「持戒」「忍辱」「正精進」「禅定」「智慧」である。

 なかでも大切なのが、第一に上げられている「布施」である。これは他者に対して善き行いをすることである。金銭や物質的なものだけではない。精神的に人を助けたり利益を与えたりするることも含まれる。たとえば、人に笑顔を向けたり、知識を分け与えることも布施である。笑顔を向けることを「顔施」という。

 「持戒」とはルールを守ること。「忍辱」とは辱めに耐えることだ。「正精進」というのは、正しい努力を怠らず、困難に立ち向かうこと、「禅定」とはつねに自らを空しくして客観的に自分を見つめる平静な心をもつことである。これは八聖道の「正語」「正業」「正命」「正精進」「正念」「「正定」とほとんど変わらない。

 六波羅蜜の最後は「智慧」である。これは「般若波羅蜜」とも呼ばれ、真理を見極め、真の認識力を得ることだ。「智慧」はあらゆる迷いと煩悩のもとである「無明」を断つ。しかしそれだけではない。それはその人の心を明るく輝かすことになる。イメージとしては周囲を照らし、生命を豊かにはぐくむ輝く太陽である。

「四諦八聖道」が縁覚になるための道だとしたら、「六波羅蜜」は「菩薩」「仏」に至る本当の悟りの道だと言える。自分を救うのではなく、他者をも同時に救う、そうした智慧と慈悲の実践が「六波羅蜜」である。仏教はこうしてギリシャ文明と出会うことによって飛躍し、世界宗教へと脱皮していった。

 ガンダーラには寺院が建ち、ギリシャ彫刻をまねた仏像が作られた。そしてその理論が論理的に体系化され、この頃、ほとんどの経典が作られている。アレキサンダー大王の遠征に始まるヘレニズム(ギリシャ主義)は多くのものを人類にもたらしたが、そのなかでも仏教の成立は最大の果実の一つだと言えよう。


2003年08月06日(水) 徳は孤ならず

 野山獄の俳句の会に、富永弥兵衛は顔を出さなかった。松陰が富永が牢を訪れると、あいかわらず書物を読んでいる。傍らには硯と墨があり、書きかけの紙が置いてあった。書物は浅見絅斎という学者の書いた「靖献遺言(せいけんいげん)」という本で、富永はそれを書写していたらしい。

 その本を松陰はすでに読んでいた。中国や日本の義士の事績にふれ、「天皇に忠義を尽くすべきだ」という「尊皇論」が述べられていた。松陰にとってこれは嬉しい発見だった。さっそく、「ぜひその本について、私たちに講義をしていただけませんか」と水を向けてみた。

 しかし富永は「馬鹿を相手にしてもしかたがない」と取り合わない。そこでさらに松陰は「それでは書道をおしえていただけませんか」とさらに押してみたが、富永は馬鹿にしたような薄笑いを浮かべているだけだった。松陰もさすがに「それでは、また」と引き下がるしかない。ただ松陰の顔にはこのときも怒りは浮かんでいなかった。ただ残念だという思いだけが読みとれた。

 富永は「有隣」という号を持っていた。これは「論語」にある「徳は孤ならず、必ず隣あり」という言葉からとってものだ。しかし、富永ほどこの「有隣」という号にふさわしくない人物もいない。学問を鼻にかけ、孤高のポーズを崩さない。自分一人が偉いと思っている。だから、みんなの鼻つまみ者になってしまった。「無隣」とでも改めたほうがいいのではないか。だれもがそう思っていた。富永自身、じつは自分のそうした性格を持て余していた。

 富永は明倫館の秀才で、藩主にも一目置かれて、小姓を務めたこともあった。結局その性格と言動が災いして周囲から疎んじられ、牢に入れられたものの、自分の学問には自信を持っていた。松陰のような若造に負けるはずはないと思っている。しかしそうした思いが、松陰に対する嫉妬であり、敵愾心でしかないことを富永はうすうす感じていた。

 実のところ、松陰は富永に輪をかけた秀才だった。わずか6歳で長州藩の兵学指南になり、11歳の時には藩主毛利敬親の前で講義を行っている。この講義に藩主はいたく感動し、以後、松陰に眼をかけてくれた。松陰が起こした問題は密航事件にとどまらなかったが、藩主はそのたびに寛大な眼で松陰を見守っていた。それは藩主が松陰の才能とともにその人物を愛していたからだ。

 松陰と富永はおなじ学者だと言っても、その人物はまるで違っている。松陰は徹底的に明るく、そして人を信じる。人間はその本質において善であると考えているから、富永のような人物に対しても、いささかも悪意をもつことがない。周囲の環境のせいで心ならずも悪人ぶっているが、根は善良ないい人だと思っている。

 このように人を徹底的に信じることができるのも、松陰の偉大な才能だというほかはない。松陰は誰からも愛された。その謎解きはむつかしいことではない。それは彼が隣人を信じ、徹底的に愛したからだ。「徳は孤ならず」ということを、松陰はその短い生涯で実践して見せたのだった。

 松陰が国禁を犯してペリーの軍艦に乗り込んで行ったのは、いかにも無謀なことのようである。富永はこのことを聞いて、「何という世間知らずの馬鹿者だろう」と思った。しかし、松陰にこうした向こう見ずな行動をとらせたのも、彼の人の善意を信じる純粋な心である。たとえ言葉が分からない異人であっても、至誠の心は必ず相手の胸襟を開き、相手を動かさずにはおかない。松陰はいつもそういう風に考える。あえていえば、これが松陰の「処世術」だった。


2003年08月05日(火) 獄中の俳句会

 松陰の発案で、野山獄のなかに「俳句会」が設けられ、手始めに吉村と河野が自分たちが俳句を作り始めた動機について話した。二人とも獄に入ってから俳句を始めた。だから決して巧くはないが、今はこの不自由な獄内で、十七文字に自分を表すことが生き甲斐になっている。そんな話だった。

 話を聞いていると、自分たちも作れそうな気がしてくる。そこをすかさず松陰は「われわれも俳句をつくろうではありませんか。そしてお互いに発表しあいましょう。俳句を作って、暗い牢獄生活を少しでも明るくしましょう」と水を向けた。松陰に乗せられて、「おれもやってみようかな」という気持が囚人達のなかに広がった。そして始めて見ると、これが案外面白かった。こうして俳句の会は次第に盛会になって行った。

 牢獄の最高責任者は福川犀之助という武士だったが、彼は松陰に好意を持っていた。松陰が入牢してから牢の雰囲気がかわった。囚人の暗く不機嫌な表情がよくなり、同時に獄卒とのいざこざも少なくなった。獄卒も表情がおだやかになり、やがて句会に参加するようになる。後に松陰は孟子を講ずることになるのだが、その時は福川自身が聴講した。そればかりではない。彼はこの年下の囚人を、やがてわが師と呼ぶようになる。松陰はこのように周囲の人間を感化する不思議な魅力を持っていた。

 この句会には同じく野山獄の囚人だった高須久子という39歳の女性も参加した。彼女は武士の未亡人だったが、素行上問題があったとして4年前に投獄されていた。素行上の問題というのは不義密通である。世間の常識からすればとんでもない淫女だが、松陰は温かく彼女を受け容れた。たとえば二人の間にはこんな歌のやりとりが残っている。

 酒と茶に徒然しのぶ草の庵  (松陰)
 谷の流れの水の清らか     (久子)

 四方山に友よぶ鳥も花に酔い (久子)
 蝶と連れ行く春の野遊び    (松陰)

 牢獄にあって、二人の心は自由に野山に遊んでいる。二人の間に恋愛感情があったという人もいるが、真偽はわからない。いずれにせよ、こうした歌合わせなどを通して、美しい心の交流があったことはたしかである。


2003年08月04日(月) こうもりの空

3. 父の再就職

 警察官をやめた父は、保険会社に勤めている母の叔父から保険の外交員になることを勧められて、その気になったようだ。
「人間その気になれば何だってできる」
 兵隊として満州で苦労した父はそんなことを言っていた。

 しかし警察官と保険の外交員では違いすぎる。人を叱ったり注意していた人間が、これからは腰を低くしてお願いして歩かなければならない。プライドの高い父に似つかわしくない仕事だった。

 ある日、母方の祖父の家に母と行くと、たまたま父が来ていて、私達を見ると苦笑いをした。そうやって親戚や知人を相手に保険のセールスをしていたのだ。相手は父の顔を立てて入ってくれたとしても、内心は迷惑していたことだろう。
(そのうち行き詰まるんじゃないかな)
 子供心にも私は心配になった。

 思った通り、父の仕事は行き詰まり、やがて保険の外交員を止めた。親戚や知人との間で交わした契約もなかったことにして、迷惑がかからないようにしたようだ。
(田舎に帰って、山仕事をしたい)
 父の本音は分かっていた。警察を辞めたのは、田舎で一人暮らしをしていた祖父が脳溢血で倒れたからだ。祖父の面倒を見ながら、山仕事で生計が立てられれば、父には理想的なことだった。

 しかし母が反対だった。祖父の病状はかなり回復して、身の回りのことは自分で出来るようになっていた。山仕事で生計が立つ見込みはないし、私や弟の教育の問題もあった。それに、父方の親戚も三男坊の父が田舎の家を継ぐことに賛成しているわけではなかった。ブラジルに行った長兄や分家した次兄の意向もあった。

 祖父は父の帰りを待っていたようだが、親戚は冷ややかで、父が警察官を止めたと知っても、田舎へ帰ってこいとは言わなかった。父が田舎の家を継いで、財産を一人占めするのではないかと、疑心暗鬼だった。そんな田舎の雰囲気を察して、父も田舎に帰りたいとは言わなくなった。

 保険の外交員をやめた父に自動車学校の教員の口が見つかった。車の免許を持っていない父は田舎の倉にこもって交通法規の勉強をした。やがて運転免許試験に合格し、福井の新田塚というところの自動車学校に就職することができた。


2003年08月03日(日) 野山獄の人々

 吉田松陰は、1854年(嘉永7年)に密航に失敗し、萩藩の「野山獄」に入れられた。当時萩藩にはもう一つ「岩倉獄」という牢があって、ともに密航をはかって捉えられた金子重輔はこちらに入れられた。松陰にとって、これはつらい別れだった。金子を密航に誘ったのは松陰である。松陰は自分が金子の人生を狂わせたことに深い罪悪感を抱いた。彼はさっそく、二つの獄のいわれについて調査して文章を残している。

 調べてみると、二つの牢は野山と岩倉という二人の藩士の屋敷あとだった。両者が喧嘩をして家を取りつぶされ、そのあとを牢獄にしたらしい。そして、二つの牢では待遇が違っていた。武士の身分を持つ者は「野山獄」にはいれるが、そうでないものは「岩倉獄」に入れられた。

 金子は足軽に属する軽輩なので「岩倉獄」に入れられた。こちらのほうは牢も粗末で、冬は木枯らしを遮る塀もなく、格子から寒風がふきこんでくる。入牢者はこの寒さで次々に死んだ。金子も病を得て、獄中で死んでいる。松陰はこのことを知ったとき、食を断ち、死を思い詰めている。しかしこれはもう少し後のことである。

 松陰が入った「野山獄」は向かい合った二つの棟にそれぞれ6つの独房が並んでいて、12人の収容が可能だった。松陰が入ったとき、すでに11人の囚人がいたので、彼が入って満杯になった。12人のなかで25歳の松陰は最年少だった。最高齢は入牢して49年になるという74歳の老人だった。松陰はこの老人の元にまず挨拶に行った。老人は松陰を気に入り、彼の話を聞くのをたのしみにするようになった。

 松陰はすでに九州から東北まで全国を行脚している。おまけにペリーの軍艦まで訪れているのだから、その体験談が面白くない筈はない。49年間も牢に入っている老人のみならず、こうした生きの良い若者の体験談を聞くことは、他の囚人にとっても得難い楽しみだった。松陰は役人の許可を貰って、これらの畳二畳の狭い囚人の独房を訪れ、話をしてまわった。そうしながら、松陰は入牢者の身の上話にも耳を傾けた。

 松陰は通り一遍に人の話を聞き流したりしない。彼らは「悪いのは世の中で、おれは正しい。そのおれを牢にぶちこむ世の中は狂っている」という気持を一様に持っていた。松陰にはそうした彼らの暗い心情がわかった。ひがんで、ひねくれている人を見ても、松陰はその背後にある心情を察し、彼らを決して批判したりはしなかった。そこには他者にたいする愛情がいつもあふれていた。そうした彼の態度が、囚人の内面を少しずつ明るいものに変えていった。

 実際のところ、野山塾の入牢者は罪を犯した者だけではなかった。家族に持て余しものが出たときには、家族が藩の許可を受けてここに預けることができた。そして一旦家族から隔離されてここに収容されると、ほとんどはその残りの生涯をこの牢で終えることになっていた。現にそうした人を、松陰は何人も発見した。寺語屋の師匠だった49歳の吉村善作や44歳の河野数馬という武士がそうだったし、藩校明倫館の教授だった富永弥兵衛という37歳の若い学者もそうだった。

 富永弥兵衛は鋭い頭脳を持つ秀才だったが、性格が頑なで、つねに正論を押し立て、妥協することが嫌いだった。プライドが高く、「あいつは馬鹿だ」と重役をも鋭く批判し、攻撃したので職を罷免され、32歳の時にこの牢に移された。吉村や河野は松陰を受け容れ、たちまち松陰のフアンになったが、富永だけは松陰に胸襟を開こうとしなかった。

 松陰は吉村と河野が俳句を作っていると知って、彼らを師匠にして獄内に「俳句の会」を作ろうと思い立った。獄中で退屈をしていた人たちにとってこれは慰めになると考えたからだ。吉村や河野のすぐに賛成してくれたが、富永はいつものように松陰に背をむけたまま、「この獄にいるやつらはみんな馬鹿だ。なにをいっても無駄だ。だからおれはつきあわない」と持論を繰り返すだけだった。そして「俳句など、女子供が慰むものだ」と読んでいた書物の方に戻った。


2003年08月02日(土) 松下村塾の教育

 この夏、萩に旅行し、吉田松陰の「松下村塾」を訪れてみたいと思っている。青春切符を使った2泊3日の旅の途中なので、そう長くは滞在できない。2時間半ほどしかないが、さいわい東萩駅前にレンタサイクルがあるらしいので、これで吉田松陰のゆかりの場所を廻ってみたいと思っている。

 吉田松陰は、1854年(嘉永7年)に密航に失敗し、萩藩の「野山獄」に投獄されたが、1857年(安政4年)年に仮処分の形で出獄して、叔父玉木文之進の松下村塾を引き継いだ。安政の大獄により29歳で刑死するまでの2年半、彼はここで若い門下たちに新しい学問の道を説いた。

 そしてわずか2年あまりの松陰の教育活動が原動力となって、高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎、伊藤博文、前原一誠、山県有朋など、幕府を倒し近代日本を建設する逸材を綺羅星のように輩出した。松蔭は戦時中、忠君愛国の鑑として持ち上げられ、その反動で戦後は批判の対象とされたが、その後、卓越した教育者として再び評価されて今日に至っている。松蔭を教育者の鑑として尊敬している私にとって、萩の「松下村塾」を訪れることは長年の夢だ。

 吉田松陰は決して自分のことを師と言わなかった。ともに学ぶ「学友」だと言っていた。自分のことを「僕」と呼び、相手を「君」と呼んだ。自分のことを「僕」と呼んだのは「学問のしもべ」という意味だろう。相手を「君」と呼んだのは、「他人はすべて師だ。どんな人間にもかならず学べるところがある」というのが松蔭の姿勢だったからだ。門人達もお互いに「僕」「君」と呼ぶようになり、これが長州から後に全国に広がった。

 松下村塾は朝6時から開いていたという。松蔭は講義をしたり、討論をしたり、その合間に畑仕事をしたりした。昼間仕事を持っている門人もあり、講義は夜も続けられた。議論が白熱すると徹夜で語り合うこともあったという。そのため寝不足から、昼間講義をしながら居眠りをすることもあったらしい。門人たちには対等な立場で自由な討論を許し、彼らの中に溶け込んでいたので、門外漢にはどこに松蔭がいるのかわからないときもあったという。

 松蔭は戦前の宣伝が偏っていたため精神主義者だと思われているが、実のところ彼が重んじていたのは「地理」「歴史」「算術」などの実学だった。とくに「算術」を重んじ、「いまのわれわれにとって算術ほど重要なものはない。士農工商の区別なく学ぶべきものだ。なぜなら世間のことはそろばん珠をはずれたものはまったくないからだ」と言っていた。松蔭は「社会に役立たないものは学問ではない」という実学尊重の立場だった。

 たとえば松蔭は「飛耳長目録(ひじちょうもくろく)」という分厚いメモ帳を手元に置き、そこの全国で起こっている事件の最新の情報を書き込んで門下生に閲覧を許していた。彼は見聞をただそこに書き留めただけではなく、「どうしてこんなことが起こるのか。そしてどうしたらこんなことが起こらずにすむのか」ということをいつも問題にし、門下生達と議論したという。

 彼が国禁をおかしてまでアメリカに渡ろうとしたのは24歳のときだった。彼がそのときペリーにあてた手紙には、その動機について、「世界を周遊し、自分の目で世界を見てみたい」ためだと書かれている。そして、「貴国の大臣や将官は仁愛の心の持ち主」であり、「私たちは言葉も粗暴ですが人間は誠実です。その意を憐れみ、この申し出を拒絶しないことを是非お願いします」と結んでいる。

 こうしたことからも、松蔭が決して単純な「尊皇攘夷論者」でも「勤皇の志士」でもなかったことがわかる。松蔭の偉かったところは、彼があらゆる問題をつねに「国」や「世界」という立場から考えていたことだ。彼自身の頭の中には「藩」などというこせこせした概念はすでになかった。

 藩には明倫館という立派な学校があったが、下級の武士や農民の子供たちはそんな立派な所へは行けない。例えば伊藤博文もそうだった。しかし上級の武士の子弟の中にも、松蔭を慕って松下村塾にやってくる者がいた。その代表は高杉晋作だろう。彼は明倫館の優等生だったが、周囲が反対するのも聞かずに、夜になると高下駄を響かせてやってきたという。

 明倫館の教育はただ単に字句の誤りや使い方の正しさを押しつけているだけの、いわゆる「詰め込み教育」に過ぎなかった。晋作にいわせればそれは学問でも何でもなかった。明倫館の教育はただのたしなみであり、せいぜい自分の立身出世のたしにしかならないが、松下村塾の教育は、「日本のために、世界のために役に立つ人間になる」こというすばらしい理念に裏打ちされていた。こうした松蔭の気宇壮大な理念が、当時の若者の精神の眼を世界に開かせ、彼らの向学心に火をつけのだった。

(参考文献) 「吉田松陰」 童門冬二著 (学陽書房 人物文庫上下)


2003年08月01日(金) こうもりの空

2.優等生のとなり

 同じクラスに葉子がいた。彼女は私が若狭地方に行っているうちに私より背が伸びて見違えていた。私は気が引けて、彼女と顔を合わせることができなかった。
 私の席は一番後ろだった。隣りが学級委員の藤田君で、彼は見るからに秀才タイプの少年だった。そしていろいろと気をつかってくれた。

「遠慮なく訊いてね」
 彼は頭がよいばかりではなく、運動もよくできた。それから上品な目鼻立ちの美少年で、声が美しいソプラノだった。音楽の時間には彼のとなりで、彼の声に圧倒されながら、私は蚊の鳴くような小さな声しか出せなかった。

 担任の佐藤先生は親切で私の席を彼の隣りにしたのだろうが、これは私にとってあまり有難いことではなかった。福井に転校してきて萎縮していた私は、この優秀な少年の隣に席を占めることで、よけいに身の縮む思いを味わうことになった。

 彼はクラスの人気者だから友達も大勢いる。そのにぎやかな会話を隣で聞きながら、自分だけが輪の中に入っていけない寂しさを感じた。
 私も前の学校では学級委員をしていたが、今は藤田君の隣に座らされて、教えを乞う立場だ。あきらかに劣等生のようなものだった。自分の服装についてこれまで一度も意識したことはなかったが、彼の横にきてからは自分の服装や髪型まで気になった。

 私を驚かせたのは教室の後ろに張ってある点取り表だ。テストの成績がいいと、そこに赤丸がついた。反対に成績が悪かったり、忘れ物をしたりすると青で×がつく。彼は赤丸の数でも他を圧倒していた。
「君もそのうちに赤丸がいっぱいつくといいね」
「せめて青色の×がつかないように頑張るよ」

 小浜から福井の学校に転校してきて、教科書の活字の大きさまで変わっていた。宿題の量も違っている。
「僕がとなりにいるから、大丈夫だよ」
 彼の自信たっぷりの表情が癪にさわった。


橋本裕 |MAILHomePage

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